前編
(1)
平日の昼間。電車の中は、余り混んではいなかった。春の暖かい日差しの中ゆったりした雰囲気が漂う車内で、手にした資料を見つめる親子がいた。
「やっぱりどこも高いわね。東京のお部屋って」
母親がため息交じりに呟く。娘の方は、無言で物件のリストに目を通していた。不動産会社からもらってきたものだ。娘の名前は大沢千秋。つい先日、都内の大学の合格通知を受け取ったばかりだった。
その大学に通うとなれば、娘一人を上京させる事になる。最初、両親は反対していた。だが千秋の熱意に負けて、最後には一人暮らしを許してくれた。今日は母と二人、部屋探しに上京していた。しかし、二人の顔色は優れない。
「やっぱり、最初に見たアパートかな」
「だめよ。あんな汚いとこ。千秋ちゃんの嫌いな虫とか出てきそうじゃないの。女の子なんだし、少しぐらい高くてもいい部屋じゃないと心配だわ」
「……」
千秋には弟が一人いた。父親は普通の会社員で、家庭はそれほど裕福というわけでもない。学費の他に家賃や生活費までとなると、仕送りは相当な額になってしまう。千秋は申し訳なかった。
憧れていた都会での生活。始まる前から挫折しそうになっていた。
「とにかく、次のとこ行ってみようよ…」
千秋は、自分に言い聞かせるようにそう言った。
(2)
千秋と母親がそのマンションに辿り着いたのは、夕暮れ時の頃だった。
「本当にここなの?」
「スターコート植田……。間違いないけど……」
門の部分に埋め込んであるプレートを見て、千秋は言った。
「でも、ここって……」
二人はその建物を見上げた。
そこは今まで見てきたアパートなどとは全く違う、豪華な作りのマンションだった。駅にも近い一等地だ。
マンションの前は、庭園になっていた。周囲に桜の木などが生い茂り、玄関まで続く道は、芝生が綺麗に敷き詰められている。資料によると、ここは女性専用のマンションらしい。
「何かの間違いじゃないの?ここが、こんなに安い家賃なはずはないわよ」
資料によれば、家賃自体は今まで見てきた古いアパートと変わらない。俄かには、信じられない話だった。
「あら?」
後ろから、二人は声をかけられた。振り返ると、そこには若い女性が立っていた。
『きれいな人……』
その女性を見て、千秋は心の中で呟いた。落ち着いたシックなスーツに、上品な薄い化粧。整った目鼻立ちと相まって、まるでモデルのようだ。それは、自分が憧れる都会の女性そのものだった。
「お部屋を探していらっしゃるのですか?私、ここのマンションの管理人をしております浜田清香と申します」
清潔感のある紺のスーツに身を包んだ清香は、丁寧にお辞儀をした。艶のある漆黒の髪が、頭の動きに合わせて流れ落ちる。
「あの、こちらの家賃って、本当にこの資料の通りなんですか?」
挨拶もそこそこに、母が尋ねる。その手にしていた資料を覗き込んで、清香はあっさりと肯定する。
「ええ。そうですね」
「随分とお安いんですね」
「オーナーの厚意で、特別にお求め易い価格設定にしておりまして」
母と清香。二人の会話を聞きながら、千秋はぼんやりと清香を眺めていた。都会ではこんなにも若くて綺麗な人が、マンションの管理人なんてやっているのだろうか。この人から見れば、自分などあか抜けない田舎娘といったところだろう。
ふと、清香の視線に気がついた。じっと自分の方を見つめている。心臓が高鳴るのがわかった。こんな綺麗な人に見つめられたのは、初めての経験だった。思わず自分の頬が赤くなる。
「……」
清香の瞳には、興味深そうな、何か面白いものを見つけたような、そんな色が浮かんでいた。耐え切れなくなり、俯いてしまう。
「…ちょうど今、一人出られまして、一部屋だけ空いています。もしよろしかったら、中を見学されませんか?」
清香は、母の方を向き直って言った。
「ええ。ええ!ぜひ」
その言葉に、母は一も二もなく同意する。
「あの」
会話を聞いていたのだろう、千秋たち三人に、割って入って話しかけてきた女性がいた。かなり太めの体型だが、年は千秋と同じぐらいだろうか。同じような資料を持っているところを見ると、やはり部屋を探しているらしい。
「お部屋ですか?申し訳ありません。ただ今満室となっておりまして」
清香はにべもなく断る。結局その女性は、清香に急き立てられるように追い返されてしまった。
「わ、私達まだこちらに決めたわけではありませんけど」
千秋は慌てて清香に言った。清香は、まるで自分達がもう契約したみたいな言い方をしていた。だけど、そんな事はない。その女性に申し訳なかった。
「いいえ」
清香は、そんな千秋を優しく制した。
「中をご覧いただけば、きっと気に入りますわ。さ、ご案内します。こちらへどうぞ」
清香はそう断言すると、千秋達を先導して歩いていく。母がその後に続く。二人の背中を見ながらしばらく躊躇っていたが、結局千秋もそれに続いていく。
マンションの屋上には、一匹のカラスが止まっていた。カラスはその黒い瞳で、三人を見下ろしていた。芝生の上に細く長く描かれた三つの影は、ゆっくりとマンションの中へと入っていった。
(3)
「可愛い娘さんですね」
「今度進学の関係で上京する事になったのですが、まだまだ中身が子供のままで」
少し先を歩きながら、清香と母は自分の話をしていた。ちょっと気恥ずかしかった。
『千秋は可愛いんだから、自信持てばいいのに』
よく友達からはそう言われた。実際、告白された事も何度かあった。千秋にはずっと好きな人がいたから、全て断ってきたが。その人は一つ上の先輩だった。その人に内気な自分が告白できるはずもなく、その人が卒業するとそれっきりになってしまった。千秋が東京で一人暮らしをしたいと思ったのは、そんな自分を変えたいと思ったからだ。
清香は千秋達にマンションの中を案内してくれた。中は想像以上の豪華さだ。一階のエントランスロビーはレトロな雰囲気を醸す煉瓦タイル貼りとなっており、その奥のエレベーターホールにはライトアップされた坪庭まであった。床に設置された暖かい光が、ほのかに辺りを照らしている。落ち着いた雰囲気だ。
2階は共同で使用するコミュニティスペースで、大型テレビやキッチンがあるパーティルームがあった。清香の説明では、週に一度は住民達が集まってパーティが開かれているらしい。更に最上階である九階には、一面ガラス貼りの大浴場が用意してあった。
「すごいね」
豪勢なつくりに圧倒されている親子に、清香は苦笑して声をかけた。
「それでは、お部屋の方をご案内します」
セキュリティロック付きの玄関を抜けると、中は広々とした作りの2LDKだった。各部屋には広いクローゼットが備え付けられており、天井も高い。完全防音で、空調も完備。南向きで採光も問題なかった。
「一人で住むのが勿体無いくらい……」
「千秋ちゃん。これ見てよ」
奥の部屋から母の声がした。奥の部屋の中央には、ベッドが備え付けてあった。ヨーロッパ風の豪華なベッドだ。母は嬉しそうにベッドの上に腰掛けていた。キングサイズで、両手を広げても端から端まで届かない。女性が一人で寝るには、充分すぎる代物だった。
「まるでホテルみたいね。こんなベッドで寝られるなんて。千秋ちゃんの代わりにお母さんがここに住もうかな」
感嘆混じりの母の言葉に、千秋も全く同意だ。こんな部屋で生活できるなら、なんと素晴らしい事だろう。
清香はカーテンを開け、ベランダの扉を開けた。やはり広々としたベランダの先には、夕日に染まる都会の景色が一望できた。写真のような風景に、思わずため息が出る。
「いかがでしょう?お気に召しましたでしょうか」
「ええ!それはもちろん。ね、千秋ちゃん」
「う、うん」
清香が『見れば気に入る』と言った事も、今なら納得できる。これ以上条件のいい物件など、絶対に見つからないだろう。この部屋を見てしまえば、前に見たアパートなどまったく考えられない。百人が百人、このマンションを選択するのは確実だ。
清香は笑みを浮かべて頭を下げた。
「気に入っていただけて嬉しいです。きっと素敵な生活が送れる事と思いますわ」
(4)
「千秋ちゃん。これ、そっちに置いてくれる?」
母がダンボールから取り出した置時計を受け取る。母は、まるで自分の引越しのように張り切っていた。入学式の三日前。千秋は、慌しくこしてきた。もちろん、あの『スターコート植田』にだ。
「やっぱり、お部屋が広いといいわね。ちょっと荷物が多すぎると思ったけれど、きれいに収まるわ」
母の声は弾んでいた。
「うん、そうだね」
少しづつ私物が部屋に埋まっていく。新しい生活の始まる興奮を、千秋は感じとっていた。
「それに、女性専用マンションという所が安心よ。お父さんは来られないって残念がっていたけれど…。千秋ちゃん、もう外に荷物は無かった?ちょっと見てくる」
「はーい」
『806号室』
それが千秋の部屋の番号だった。
千秋は玄関を出た時、隣の部屋の住人がちょうど帰ってきたところのようだった。
「あれ。引っ越し?」
「あ、はい。始めまして。隣の806号室に引っ越してきた大沢千秋です。まだ挨拶にも伺っていなくて、すいません」
ペコリと千秋は頭を下げた。
「いいよ、いいよ。そんなに固く考えなくってもさ」
そう言うと、隣の住人は元気よく笑った。白い歯がのぞいた。
「私は805号室の村田珠季。よろしくね」
珠季も清香とはタイプが違うが、間違いなく美人と言っていい器量の持ち主だ。何かスポーツをしているのか、日焼けした肌に引き締まった体つきをしていた。その大きな瞳は、クリクリとよく動いた。
「千秋ちゃんは大学生?」
「はい。今年からS大に」
「へえ、偶然ね。私、S大の二年なの」
「えー。そうだったんですか」
「千秋ちゃんは私の後輩になるのか。わからない事があったら、何でも聞いてね。千秋ちゃん」
サバサバした性格の、とても良さそうな人だ。
「はい。よろしくお願いします」
千秋は笑みを浮かべて、もう一度頭を下げた。
(5)
女性特有の喧騒に、千秋は圧倒されていた。テーブルの上には、持ち寄ったお菓子や手作りの料理が、置ききれないほど並んでいる。そこは、マンションのパーティルームだった。
カラオケルームを豪勢にした感じの部屋だ。正面にはちょっとしたステージがあって、大型テレビが横に置いてある。マイクがあるところを見ると、本当にカラオケもできるらしい。そこから細長いテーブルをはさんで、ソファーが並んでいた。
なぜか一番奥には、豪勢な椅子が配置してあった。肘掛や足にまで彫刻を施したそれは、まるで玉座のようだった。
今日は週に一度のパーティの日だ。千秋は、強引に珠季に連れて来られていた。女性達は、自由にソファーに座っている。珠季以外のマンションの住人は、今日初めて会う人達ばかりだった。
『皆さん、とっても綺麗……』
珠季の話によると、住人のほとんどは学生らしい。そして一人の例外も無く、街を歩けば視線を集めるくらいの美人だ。まるでモデルの集まりに紛れ込んだような気がして、千秋は居心地の悪さを感じていた。
「は、始めまして。806号室に越してきた大沢千秋です……」
小声で挨拶する千秋を、女性達が取り囲む。
「かわいいねー」
「初々しいわ」
「ねえ、千秋ちゃんは今度大学生?」
「は、はい」
「まだ十代かぁ、いいなぁ」
女性達は、口々に千秋に質問をぶつけてくる。人付き合いは得意な方ではないが、口をきかないわけにもいかない。答えているだけで、目が回りそうだった。
このマンションは一体、どうなっているのだろうか。ぼんやりと千秋は考えていた。美女ばかりが住む夢の城。どこか現実感が乏しかった。
「それじゃ千秋ちゃんの歓迎会をかねて、乾杯しましょう」
「かんぱーい」
「かんぱーい」
珠季の音頭で全員がグラスを持つ。千秋は、皆の元気の良さに面食らっていた。しかし住人達は、とても仲が良いらしい。皆、新しく住人となった千秋を優しく歓迎してくれている。初めての一人暮らしに、内心不安もあった。それが少し、解消したような気がした。
「それじゃ恒例のアレいきますか」
しばらくして場が盛り上がってきた頃、一人が立ち上がって言った。
「じゃーん」
口で効果音を言いつつ、懐からDVDを取り出した。
「待っていました!」
皆それを楽しみにしていたのだろう。拍手する者もいる。
テレビの電源が入れられた。持参したDVDがセットされ、再生される。
『えっ……』
千秋は内心驚きの声を上げた。映画か何かだと思っていた。しかしいきなり画面一杯に映し出されたのは、男女の裸体だった。
「おおー」
「今日のは過激ですなぁ」
「これはたまりませんなぁ」
わざといやらしい男性みたいな感想を口にする者もいる。皆、興味津々といった様子で画面を眺めていた。それは、外国製のポルノビデオだった。修正もされていないもので、性器はも見えだ。
出演している男女は二人だけではない。男性は一人だけだが、女性は五、六人はいる。まるで砂糖に群がる蟻のように、男性の肉体に女性達は体を寄せていく。画面が裸で埋め尽くされていた。
「これって……」
隣に座っていた珠季に言いかけるが、珠季の方は口に指を当てて黙っているように促す。その目はいたずらをしている子供のように、無邪気に笑っていた。仕方なく、千秋は視線を画面に戻した。
画面の中では、男性が女性の性器に男根を挿入していた。固く勃起した男性器を見たのは初めてだ。それが、女性器の中に激しく突き入れられるのも。千秋に男性経験は無い。未知の淫靡な世界を目の当たりにして、千秋は無性に恥ずかしかった。それでいて、この場の雰囲気を壊す勇気もなく、皆と同じように画面を見続ける。
初めて見たセックスの光景。それだけでも充分刺激が強いのに、複数の男女が参加している乱交ものだ。それは千秋にとって、想像すらした事のないものだった。男性は女性の中に男根を何度か出し入れすると、横の女に移る。手当たり次第に犯していた。その度に、女達は獣じみた歓喜の声を上げる。愛の営みというより、淫らな宴だった。
千秋の認識では、セックスとは愛の最終形態だ。それは当然、男女二人だけで行うものだと思っていた。それが画面の中では、ひたすら性欲を満たす為だけに行為に没頭している。こんな形のセックスも、この世にはあるのだろうか。生理的な嫌悪感を、覚えずにはいられなかった。
いつの間にか、あれだけ騒いでいた住人達は押し黙っていた。部屋の中は、テレビから聞こえてくる喘ぎ声だけが響き渡ってくる。皆が食い入るように、その映像を眺めていた。
(6)
千秋は夢を見た。
夢の中で、自分は豪華な宮殿の住人だった。子供の頃読んだアラビアンナイトのような、中東風の宮殿だった。宮殿の住人、と言っても王族の一員というわけではない。自分は、王様に仕える存在だった。
王様は玉座に座り、周囲に女性を侍らせていた。自分もその一人だ。女達は露出度の高い服を着て、精一杯国王に媚びを売っている。
そのうち国王は、近くの女性を捕まえて犯し始めた。周囲の女達に見られる事などまったく気にしてはいない。むしろ見せつけるように、本格的に女体をせめ始めた。その女性は嫌がる風でもなく、歓喜の声を上げ始める。その声には、どこか王に選ばれた事への勝ち誇った響きがあった。
『どうして私じゃないの?』
ドス黒い嫉妬の感情がこみ上げてくる。しかし反面、その光景を見ているだけで激しく興奮している自分がいた。複雑な感情が媚薬のように己を支配し、千秋をただのメスに変えていく。
他の女性達も同じだったようだ。切なげな表情を浮かべて、皆、王の愛を求めていた。女達の願いをくみ取って、王は周囲の女性を犯していく。その光景には見覚えがある。あのポルノビデオと同じだ。
次に犯されるのは自分であってほしい。淫らな期待を込めて、視線を送る。ふと、ちょうど王様に組み敷かれ犯されている女性と目が合った。
『えっ、清香さん?』
清香は快楽に呆けた顔をしていた。普段の知的な雰囲気からは全く想像もできない、焦点の合わない瞳で中空を見ていた。そんな表情をしていても、やはり清香は美しかった。
そのうち待ちきれなくなった女性達は、自分達だけで体を絡ませ始めた。千秋の体にも、手が伸びてきた。巧みに手つきで、乳房をすくい上げられる。甘い疼きが乳首を中心に広がっていく。
『あン…ふぅ……」
千秋は振り返り、その手を主を見た。千秋の胸を愛撫している女性、それは珠季だった。
『た、珠季さん……』
珠樹の顔は、普段の表情とはうって変わり、淫らな色が滲み出ていた。小麦色の肌が、自分に擦り寄ってくる。周りを見渡すと、王様を取り囲んでいる女性達の顔には見覚えがある。皆マンションの住人達だ。
『えっ』
驚く間もなく、千秋の体は反転させられた。あっという間に珠季に組み敷かれてしまう。猫のように珠季の目は細められ、形の良い唇がだんだんと自分に近づいてくる。己の顔に、珠季の甘い息がかかった。
『い、いや!!』
千秋は、声にならない悲鳴を上げた。
目覚し時計が鳴っていた。カーテンの隙間から、光が洩れている。もう、起きなければいけない時間だった。
千秋は豪華なベッドから身を起こした。昨夜は何か変な夢を見た気がする。内容は覚えていないが、確か王様とか宮殿とかが出てくるような夢だった。まるで子供みたい。思わず苦笑する。
昨夜は色々な事があった。パーティは楽しかった。だが途中から変なビデオ見せられて、おかしな雰囲気になった。耐えられなくなって、適当な所で抜け出したっけ。
寝ている間、熱かったのだろう。パジャマが少し湿っていた。
下半身に異様な感触があった。そっと手で触れてみる。下腹部が、洩らしたように濡れていた。指先には、汗とは違う粘り気のある液体が絡み付いていた。。
「やだ」
千秋は、赤い顔でベッドを降りて、浴室へ向かった。
(7)
千秋は一人、大学の食堂で遅い昼食をとっていた。注文していたパスタが冷めるのを無視して、真新しい教科書を開いていた。
「千秋ちゃん」
自分を呼ぶ声に視線を上げると、そこには珠季が立っていた。そういえば、ここの大学の生徒と言っていた。
「珠季さん」
「隣、いいかな?」
「ええ」
珠季は、コーヒーを手に千秋の横に座った。
「今、お昼なの?」
「ええ。ちょっと教科書を買っていて、遅くなってしまって」
「そっか」
ふと、会話が途切れる。午後の講義はもう始まっていた。食堂の中の人影は少なくなっていた。
「…昨日はごめんね」
珠季はぽつりと言った。ばつが悪そうな表情だった。
「えっ?」
「へんなの、見せちゃって」
「ああ……」
脳裏に、昨日の映像が甦る。絡み合う男女の裸体。思わず顔が赤くなる。
「あれ、イタズラなの」
「いたずら?」
「そう。新しい人が入ると、あんなのを見せて、反応を楽しむのが恒例なんだ」
「なんだ。そうだったんですか」
「ちょっと千秋ちゃんには刺激が強かったかな」
堪えきれなくなったのか、珠季の肩は震えていた。笑いを堪えているのだ。先ほどまでの申し訳なさそうな顔は、実はわざとだったと悟った。
「そんなぁ。ひどいです」
千秋は頬を膨らませて言った。
「ごめん、ごめん。…お詫びに、大学の中案内するからさ。おいしいケーキ出す喫茶店もあるんだ。それで許して」
そう言われたら、怒るわけにもいかない。千秋は、笑うしかなかった。
(8)
千秋は夕方、大学からマンションに戻ってきた。エレベーターに乗り込み、扉を閉めようとした瞬間、慌てて乗り込んできた人がいた。
『男の人…?』
年の頃は五十代だろうか。ラフなシャツを着ていた。頭の方は、すっかり薄くなっている。
「すいませんね」
そういうと、男は乱れた息を整えている。千秋は無言で会釈すると、『閉』のボタンを押した。二人を乗せたエレベーターは、静かに上へと登っていく。
このマンションは女性専用ではなかっただろうか。なのに、この人はどうして。
何かの工事やメンテナンス関係の仕事の人かとも思ったが、着ている服はどう見ても私服にしか見えない。
怪しい人ではないのだろうか。千秋は不審に思った。しかし、何も言わなかった。この男の人は何ら悪びれた様子がなく、あまりにも堂々とした態度だったからだ。結局、しばらくの間気まずい沈黙の時が過ぎ、目的の階で千秋を降ろした後、エレベーターは男を乗せたまま更に上へと登っていった。
「あら、千秋ちゃん。今帰り?」
珠季が声を掛けてきた。こちらは今から出かける様子だ。手にはテニスラケットを持っている。
「あ、あの。今男の人が」
千秋は、まだ動いているエレベーターを指差しながら言った。
「男の人?」
珠季の大きな目が、怪訝そうに細められた。
「エレベーターに乗って、上に」
それを聞いて珠季はなんだ、という顔になる。
「千秋ちゃんは知らなかったか。それはね、このマンションのオーナーだよ」
「オーナー?」
「そう。このマンションの屋上に、オーナーの屋敷があるんだよ。…ちょっと格好いい人だったでしょ?」
そういうと、珠季は意味ありげに笑った。自分にはただのおじさんに思えたが、意外な事に、あんな人が珠季の好みらしい。それにしても。 千秋は上を仰ぎ見た。既にエレベーターは屋上で止まっていた。
女性専用のマンションなのに、オーナーとはいえ男性が住んでいるなんて。
千秋は、少し納得のできないものを感じていた。
(9)
「すいません、清香さん。私の為にわざわざ」
車の中で、千秋は恐縮する。
「いいのよ、気にしなくても。越してきたすぐは買い物しなければいけない物も多いし。そんな時は車の方が便利だしね」
最初の週末。清香は買い物をする千秋の為に、わざわざ車を出してくれていた。後部座席は、千秋が買い込んだ日用品が、山のように積み込まれている。車は高級なスポーツカー。それが清香の雰囲気によく合っていた。買い物と食事を済ませて、二人は帰宅している途中だった。
「あ、あの。清香さん」
会話が途切れた瞬間を見計らって、千秋はずっと気になっていた事を切り出した。
「何かしら?」
前方から視線を外さず、清香が答える。
「マンションの屋上には、その、オーナーが……」
「ああ…。そういえばまだ説明していなかったわね。ごめんなさい。元々あの土地には、オーナーの屋敷があったの。それをそのまま屋上に移して、下をマンションにしたのだけれど。あのエレベーターだけは共用なの」
「そうだったんですか」
そう言って、千秋は黙った。ちょっとした静寂。軽やかなエンジンの音が、車内に響いてくる。
ハンドルを握ったまま、ちらりと清香は千秋を見た。
「…エレベーターだけとはいえ、やっぱり嫌?」
「そ、そんな事ないです」
千秋は慌てて否定する。少し図星だった。千秋は男性恐怖症とまではいかないが、元々男の人は苦手な性格だった。特に今は、都会での一人暮らしを始めたばかりだ。神経も過敏になっていた。
「元々家賃を安くしてもらっているのはオーナーの厚意だし、あまり悪く思ってほしくはないの。…それに、私の雇い主でもあるし」
「は、はい」
清香の言葉に頷いた。千秋は内心、反省していた。
自分は『女性専用』という言葉に、ちょっと神経質になっていたのかもしれない。そんな内気な事でどうする。自分を変えたいのではなかったのか。
二人を乗せた車の前方に、見慣れた自分達のマンションが見えてきた。
(10)
エレベーターが開いた。千秋の目に、新緑の光が飛び込んでくる。そこは、マンションの屋上だった。
「わぁ、本当にお屋敷なんだ」
初めて来たが、マンションの屋上には和風な日本家屋がそのまま建てられていた。屋敷の前は広い日本庭園になっており、松の木なども植えられている。それでも屋敷の周囲には、空とビル群が見えている。まるで空中に浮かんでいるような感じだった。砂利の敷き詰められた道を通り、千秋は屋敷へと歩いていく。そばで見ると、かなり豪勢な造りの建物だ。
『ここがオーナーの住まい……』
千秋はおそるおそる呼び鈴に手を伸ばした。
「何か御用ですか?」
呼び鈴を押そうとした寸前に、千秋は声をかけられた。庭の奥からオーナーが現れた。エレベーターの中で会った、あの人だ。庭の手入れをしていたのだろう。服は少し泥に汚れていた。
「あ、あの。806号室の大沢です。今月の家賃を」
ここのマンションの家賃は、振込みはできない決まりになっていた。清香の所へ持っていったが、直接オーナーに渡してくれと言われていた。
「ああ、そうですか。毎度どうも」
そう言って、千秋の差し出した封筒に受け取る。
「どうですか?ここのマンションは」
「ええ。とても快適です」
オーナーの顔に、人の良さそうな笑みが広がる。
「そうですか。それは良かった。もし何かありましたら、私か管理人まで気軽に言ってくださいね」
オーナーと別れエレベーターに乗る時、千秋は少しいい気分になっていた。話してみれば、オーナーはいい人そうだ。最初はそうでも思わなかったが、今なら珠季がオーナーを気に入っているのも、なんとなくわかる。千秋の足取りは、来た時よりも軽くなっていた。
千秋を乗せたエレベーターが下へ降りていく。その様子を、オーナーは笑みを浮かべたままじっと見送っていた。
(11)
備え付けのロッカーに、脱いだ服を入れていく。年頃の、きめ細かい肌が露になる。そこは、マンションの大浴場の脱衣所だった。今までは色々忙しく、部屋に備え付けられた浴室でシャワーを浴びるだけだった。しかし元々、千秋は広いお風呂が大好きだ。少し生活に余裕ができてきた事もあり、今日は大浴場に行く事を思い立った。
何人か先客がいるのだろう。大浴場からは、人の声が響いていた。千秋は、裸になるとバスタオルに体を包み、浴室の扉を開けた。
「うわぁ……」
思わず感嘆の声を上げる。一面ガラス貼りの浴室の先には、都会の夜景が広がっていた。清香の説明によると、特殊なガラスで外から見える心配はないらしい。
千秋は洗い場の前に座った。湯気でよくは見えないが、人の声は浴槽の方からしていた。
「…さんは、いつも肌がきれいでいいわね」
「実は昨日エステに行ってきたの」
ここの住人達は、とても仲がいい。まるで友達同士のようだ。自分も、ここの住人達とは仲良くしなければ。体を洗った後、千秋は浴槽に足を入れた。
「こんばんは」
声のする方に歩きつつ、住人達に声をかけた。濃い湯気の先に、二人の女性の姿があった。
「あら、大沢さん。こんばんは」
そう言ったのは、パーティの時に見覚えのある女性だ。
「こちらは?」
もう一人、こちらは見覚えの無い女性が尋ねる。
「ああ。そういえば、あなたはこの前のパーティには来ていなかったね。こちらは、新しく越して来られた大沢さん」
「あら、始めまして。私402号室の田中です」
「806号室の大沢です。よろしくお願いします」
千秋は、軽くお辞儀をした。
「オーナーはご存知なの?」
田中と名乗った女性が、後ろを振り返る。
『オーナー?』
浴槽の奥、湯煙の先に、もう一つの人影があった。薄くなった頭に、温和そんな笑み。それは、昼間会ったオーナーだ。
ドクン。
「ええ。昼も会いましたし。こんばんは、大沢さん」
「こ、こんばんは」
相変わらず丁寧な口調で、オーナーは話し掛けてくる。千秋は生返事を返しながらも、内心激しく動揺していた。
バスタオルを巻いているとはいえ、裸を見られてしまった。男の人に裸を見られたのは、家族以外では初めてだ。どうしよう。いや、そもそもどうしてオーナーが一緒にお風呂に入っているのだろう。おかしくはないのだろうか。しかしそれなら、どうして二人の住人は平然としているのだろう。ひょっとして、自分の方がおかしいのか。
頭の中で色々な思考が浮かぶ。落ち着いていられない。動揺していた。
何か三人から話し掛けられたような気もするが、千秋は覚えていない。暖まるのもそこそこに、大浴場を飛び出していた。
(12)
「あら、千秋さん」
髪を乾かす暇もなく、慌てて着替えて廊下に飛び出した時、ちょうど清香が歩いてきた。
「どうしたんですか?そんなに慌てて」
相変わらず、のん気な調子で言ってくる。その様子に、千秋は少し苛ついた。
「オーナーが、女湯に入っているんです!」
千秋は慌てた様子で言った。しかし、清香は平然としている。
「千秋さん。ここは別に女湯と決まっているわけではありませんよ」
「そ、それはここが女性専用のマンションだから」
「部屋はその通りですが、大浴場までは…。混浴の温泉だと思えばいいじゃないですか」
「そ、そんな……」
いくら大人しい千秋でも、そんな理屈に納得できない。裸を見られて、少しパニックになっていた。
抗議しかける千秋を、清香は手で制する。大浴場の入り口を指差した。入る時は気がつかなかったが、そこには『入浴中」という札が出ていた。
「オーナーが使われる時はこの札が引っくり返してあります。一緒に入りたくないのなら、時間をずらしてくださいね」
清香は有無を言わせぬ調子で言った。
いくら抗議をしようとしても、清香は取り合ってはくれなかった。そうなると、強く出られない性格の千秋は押し切られてしまう。仕方なく、自分の部屋まで戻ってきた。部屋の前で、珠季と会った。その手には着替えを持っている。
「あら、千秋ちゃん。もうお風呂に行って来たの?」
「ええ。珠季さんは今からですか?」
「そうなの。テニスやっていて汗かいちゃったし。広いお風呂の方が気持ちいいもんね」
「あ、でも……」
躊躇いがちに、千秋が言う。その様子に、珠季の足が止まった。
「今は、その、オーナーが」
「ああ、今入っているんだ」
平然と言う。やはり珠季も知っているのだ。オーナーが大浴場を使っている事を。
「そっか。仕方ない。今日は部屋のシャワーで我慢するか」
「お、おかしいですよね?」
「何が?」
珠季が千秋の方を振り返った。
「オーナーが、大浴場使うのって」
「んー、そうだね」
珠季があっさり言う。
「そりゃオーナーの事、ちょっといいなって思っているけど、それとこれはとは別だよ。…おかしいけどね。ここができた時からの習慣らしいから、とやかく言っても仕方ないしさ。まあ、ホテルでもよくあるじゃん。時間で男湯と女湯が変わるの。別に時間をずらせばなんて事はないよ。私もそうしているしさ」
でも。
千秋は思った。さっき会ったここの住人達は、一緒にお風呂に入っていたのだ。しかもそれが、当然といった様子で。
「私も最初は知らなくってさ。裸見られちゃったよ…。ひょっとして、千秋ちゃんも?」
千秋は赤い顔で頷いた。珠季は笑いながら、肩を叩いた。
「そっか。まあ気にしない事よ。じきに慣れるって」
そう言うと、珠季は自分の部屋へと戻っていった。
一人廊下に残された千秋は、一言ポツンと呟いた。
「慣れたくなんて、ありません……」
(13)
洗濯物を籠に入れた千秋は、コミュニティルームの前を通りかかった。マンションの二階の共同スペースには大型の乾燥機が設置してあり、住人は好きな時に利用できた。部屋の中から声が聞こえてきて、その足が止まる。それは、何か言い争いをしているような激しい声だった。
「何回言えばわかるんですか!」
「はいはい。わかりましたよ」
「珠季さん。真面目に聞いてください!」
千秋はそっと部屋の中を覗き込んだ。部屋の中にいたのは、清香と珠季だ。話の内容を聞くと、どうも珠季がごみを出す日を守っていない事を清香が注意しているようだった。注意されている珠季はというと、悪びれる様子もなく辺りをきょろきょろと見回していた。部屋を覗き込んでいた千秋と、目が合う。
「あら。千秋ちゃん」
渡りに船と、珠季が千秋の所へやって来る。
「あ、あの……」
「さ、部屋に戻ろうか」
そう言うと、千秋の腕を持ってさっさとその場を離れようとする。
「珠季さん、まだ話は終わっていませんよ!」
「その話は今度ね~」
清香の声を無視して、珠季は手をひらひらさせながらその場から逃げ出した。
「い、いいんですか?」
二人の乗ったエレベーターの中で、躊躇いがちに千秋は尋ねた。
「いいのいいの。私、あの管理人苦手でさ。だいだい真面目すぎるんだよね」
珠季は全く気にしていない様子だった。その珠季を、千秋は無言で心配そうに見つめていた。
(14)
深夜。千秋はベッドに入り、先ほど見た清香と珠季の事を考えていた。二人とも、自分には優しくしてくれる。しかし、二人の性格はまるで違う。相性だって良くないだろう。
元々千秋は争い事が嫌いだった。まして自分が好きな二人の諍いなんて、見たくは無い。自分が考えても仕方が無い事だとは悟りつつ、何とか仲良くしてほしいと思っていた。争いの元は、珠季がごみを出す日を守っていない事が原因だったらしいが。
『ごみ!』
そこまで考えて、千秋ははっとなり、体を起こした。明日はごみを出す日だ。引越しでは大量のごみが出る。かなり処分したつもりだったが、まだ大量のごみが残っていた。しかも、もうごみ袋を切らしていたはずだ。
仕方ない。確かマンション前のコンビニには、ごみ袋を売っていたはずだ。意を決して千秋はベッドから降りて、簡単に身支度を整えた。財布を持って、廊下に出る。少し肌寒い外の空気に、身を縮めた。廊下の隅の天井には、防犯カメラのランプが赤く点灯していた。
もう深夜だ。マンションの中は静まり返っていた。エレベーターの動くモーター音だけが響いていた。千秋を乗せたエレベーターが、一階に到着した。小走りでロビーを横切っていた千秋の足が、ふと止まる。
「…ん」
それは辺りが静まり返っていないと聞こえないような、微かな人の声だった。
『誰?』
千秋は振り返った。声は、入り口とは反対側の、奥の方から聞こえてきたようだった。怖くなった。誰かいるのだろうか。無視してこのまま外に向かおうとした。だが、その方が余程怖いような気がした。覚悟を決めて、奥へそっと足を踏み出した。
「あ…ん…」
次第に声がはっきりと聞こえてきた。それは、どうやら女性のもののようだった。
『管理人室』
壁のプレートには、そう書いてあった。ロビーの奥。玄関とは反対方向に扉がある。扉の作り自体は、千秋達の部屋と変わらない。豪華な作りだった。その扉は閉まりきってはおらず、僅かに隙間があった。
『ここは、清香さんの部屋?』
声は、その部屋の中からしていた。ではこれは、清香の声なのだろうか。
「ん…ん…あん…」
千秋はドアに近づいた。よりはっきりと音が聞こえてくる。それが男女の秘め事の喘ぎ声だと気づいた時、千秋は顔が赤くなるのを感じていた。
「ああん…いい、いいです…とっても……」
いくら奥手の千秋と言っても、男女の営みをまったく知らないわけではない。弟の部屋を掃除していた時、本棚の奥に隠してあった成人用雑誌を、盗み見たりした事もある。友達同士の会話の中で、セックスが話題になる事もあった。しかしその時は、自分にはまだ遠い世界の話だと思っていた。それが今、こうして目の前で展開されようとしていた。
『い、いけない……』
一瞬、千秋は我に返った。清香は大人の女性だ。しかも、あれだけの美人だ。付き合っている男性とこんな事をしていても、おかしくはない。それに対して自分はどうだろう。今している事は、そんな清香のプライバシーに踏み込む覗き行為だ。こんな事をしていてはいけない。離れないと。
ダメヨ。
動きかけた足が止まる。不自然な姿勢で、千秋の体は静止していた。心の中でまだこのまま中の様子を窺っていたい欲求が、ふつふつと沸いてくる。もっと、もっと中の様子を知りたい。千秋は周囲を見渡した。自分以外、誰もいない。
今はこんな真夜中だ。誰かが来る事なんてありえない。当の清香にしたって、今は事の最中だ。ここに自分がいる事なんて、気がついたりしないだろう。そうよ。絶対にばれたりなんて、しない。
「……」
千秋は、更に扉に近づいた。普段の千秋からは、想像もできないような大胆な行動だった。
息を殺して隙間の中に目を凝らす。心臓の音が聞こえてくるほど、興奮していた。
部屋の中から、かすかに光が洩れていた。もし千秋の部屋と間取りが同じなら、寝室からの明かりだ。ふと、脳裏に備え付けのベッドが浮かぶ。一人で寝るには広すぎるが、男女が愛し合うには丁度いいかもしれない。
「あう…ん…はぁ…。いい。素敵、素敵ですわ」
うっとりするような、清香の声。それは性の快楽に溺れきっている女の声だ。あの清楚な清香でも、こんないやらしい声を上げるのだろうか。清香の声が、千秋の頭に響き渡る。気がつけば、夢中になって室内の様子を窺っていた。
「ふふ…そんなにいいのか?清香」
清香とは違う男性の声。その声には、どこか聞き覚えがあった。
「いい、いいですわ…オーナー……」
『オーナー?』
清香は意外な人物の名前を口にした。確かにその声は、オーナーの声に似ていた。では、清香の相手はオーナーなのだろうか。
「ああん…はぁ…ン…はぁん…!」
「いいぞ…清香…!そろそろ、いくぞ」
「ああ、あああ…!ど、どうか、私の中に出してください…いっぱい…!!」
次第に二人の息が荒くなっていく。それは、クライマックスが近い事を知らせてくれた。
千秋は自室のベッドの上に倒れこんだ。結局、コンビニまでは行かなかった。足が棒のように重く、体中が重かった。それでいて、眠る気にもなれない。
『いい、いいですわ…オーナー……』
清香の声が、未だに脳裏に響いて離れない。先ほど目撃した情事の事を、繰り返し思い浮かべていた。激しく興奮していた。
「や、やだ…私……」
無意識のうちに、股間に手がのびる。躊躇いがちに一撫でしただけで、震えるような快感が湧き上がっていた。千秋は自慰の経験もほとんどない。いつもなら働く強い自制心も、今夜ばかりは麻痺したままだ。
「服…邪魔……」
千秋はもどかしげに服を脱いで半裸姿になりながら、ベッドの上で自分を慰めていた。
(15)
『あ……』
思わず千秋は心の中で声を上げた。学校に行こうとエレベーターに乗った時、その中にオーナーの姿があった。
「やあ、おはようございます」
「おはようございます」
挨拶を交わして、躊躇いがちに乗り込んだ。二人を乗せたエレベーターの扉が閉まる。
オーナーの様子に変わったところは見られない。昨夜の清香との事を自分が覗いていたなど、気がついてもいない様子だった。
何とも言えない気まずい時間が流れていく。
千秋は己の心臓が、早鐘のように鳴っているのを感じていた。まともにオーナーの顔が見れない。自然に振舞わなければと思えば思う程、自分の頬が上気するのを感じていた。
『オーナーは結婚していないのかな』
そんな事を考えていた。オーナーも、清香も、あれだけ素敵な人だ。お似合いのカップルと言っていい。肉体関係があっても、別に不思議ではない。
『いい、いいですわ…オーナー……』
一晩経っても、昨夜の清香の喘ぎ声が耳元から離れない。同じ女性であっても、うっとりするような声。天国にでもいるかのような、幸福そうな響きだった。
自分には関係の無い事だ。そう突き放して考えてみる。それでも、胸の奥にチクチクとした痛みがあった。素直に二人を祝福してあげられない、自分。それは嫉妬ではないだろうか。
『そ、そんなにセックスはいいのかな…。オーナーとのセックスって……』
千秋の脳裏で、オーナーに貫かれて歓喜の声を上げている清香の姿が浮かんでくる。その清香の姿に、自分の姿が重なってくる。今やオーナーと絡み合っているのは、千秋自身になっていた。
『何考えているの。私は!』
自分の淫らな妄想に、千秋は思わずはっとなる。一体、何を考えているのだろう。こんな恥ずかしい事、今まで考えた事などない。
「この前はすみませんでした」
オーナーの声に、千秋は我に返った。オーナーは、すまなそうな顔をして、千秋に頭を下げていた。
「お風呂の件、管理人から説明していなかったみたいで」
「い、いいんです……」
良くなどない。昨日まではそう思っていた。しかしオーナーに謝られると、それだけで許せてしまう。それどころか、オーナーの落ち着いた声を聞くだけで、胸が締め付けられそうな感覚にとらわれる。
『そうだ。私、オーナーに裸見られちゃったんだ……』
恥ずかしい。しかし羞恥心の中に、ごく僅かだが不思議な歓喜と、興奮が混じっていた。裸といっても、正確にはバスタオルで隠してはいた。それが安堵できる理由でもあり、少し残念な気もした。あの時は気が動転していて、そそくさと逃げ出してしまった。もっともっと、一緒にお風呂に浸かっていたかった。できればバスタオルなど外して、私のありのままの姿を、オーナーに。
『いや!』
千秋は自分の考えに愕然となる。気がつくと、再び淫らな妄想を思い浮かべていた。それは今までの自分からすれば、想像すらできない思考だった。自分はオーナーの事が好きになりかけているのではないだろうか。いや、もうそれは否定できない。しかもそれは、今までのプラトニックな恋愛ではない。もっと肉体的なもの、はっきり言えば自分はオーナーと肉体関係を持ちたがっているのだ。
「どうかしましたか?」
赤い顔をして俯いている千秋を、心配そうにオーナーが覗き込んでくる。また一段と、心臓が高鳴った。
『ああ…ああ…オーナー……』
「いいえ。何でもありません」
心の動揺を押し殺し、千秋は小さい声で言った。ちょうどその時、エレベーターが一階に着いて扉が開く。
「し、失礼します」
そう言うと、足早にエレベーターを降りる。
『わ、私…一体どうしちゃったのだろう…おかしい、おかしいよ……』
千秋は自分自身に戸惑っていた。
都会で一人暮らしを始めたばかりで、開放的に気分に浸っているのだろうか。だがここで生活を始めてからの自分の変わり具合は、そんな気分などという曖昧な言葉で片付けられるものではない。自分自身が別のものになってしまったかのようだ。淫らでいやらしい、別の何かに。
それともこれが本当の自分で、今まで抑圧されていたものから開放されただけなのかもしれない。千秋の思考は混乱したままだ。
足の付け根に生暖かいものを感じる。わずか数十秒の出来事の間に、千秋はショーツをぐっしょりと濡らしていた。
< つづく >