BLACK DESIRE #19-3

5.

 結局のところ、立華が来てくれてほぼ2日と半分で体育祭関連の書類作成は完了してしまった。これは驚異的な速度である。実際に側で立ち会った春原も早坂も、立華の処理能力に驚いていた。

 立華はただ単にタイピングが速いだけでなく、同時に複数の作業を効率よく行う能力にも長けていた。指先を止めずにキーを叩きながら資料を参照し、僕からの要望を聞き入れつつ、飲み物を用意するという春原に謝りつつもリクエストを出すという離れ業をこなした事もあった。まるで指と目と耳と口に別々の脳が付いているようだと僕は感心した。

 そんなこんなで打ち込み作業は全行程が終了し、今は普通の図書館に印刷作業に行った春原と早坂の帰りを僕と立華は第2図書館で待っているところだ。僕も行こうとしたのだけど、助っ人の立華を1人で留守番させるのは悪いという事で待機となった。ちぇ、印刷物の運搬作業くらい良いところ見せたかったのにな。
 そういう訳で僕は立華と待ち惚けをしているのだが、彼女の方は書類が終わったのにも関わらず卓袱台に置いた新聞部のパソコンで何かカタカタと打ち込みをやっている。余りお喋りをするたちでもないため、室内にはそのキーボードの打鍵音のみが響く。僕は新聞部の事は管理範囲外の事なので口出しする事も無く、ただ壁際に座ってそれを眺めていた。

 そんな時、突然立華は口を開いたのだった。いきなりで、パソコン画面に向かったままだったので最初は僕に向かって喋っているとは思えなかった。

「……え? 今なんて?」

 立華は顔を上げると、僕の方を向いてもう一度同じ事を繰り返した。

「……達巳さんは、早坂さんと春原さん、どちらの方と付き合っておられるのですか?」

 巾足立華には、自分自身と部長である蔦林藍子しか知らない特技が有る。パソコンを使った事務処理能力ではない。それくらい、彼女とある程度の付き合いのある知り合いなら皆知っている。

 彼女のその「技」とは、他者が誰かに向けている感情を察知する力である。誰かが他の誰かに好意、あるいは嫌悪を抱いている時、立華はそれを明確なベクトルイメージとして嗅ぎ取ることが出来るのだ。

 新聞部で郁太と会って協力を承知した日の事である。第2図書館へ案内される途中、彼女は下駄箱付近に充満する郁太への強い好意の匂いを嗅ぎ取った。聡明な彼女がとっさに選んだ行動は、お邪魔虫とならないよう自主的に姿を消すことであった。この状況で考えられるのは、郁太の事を辛抱強く下駄箱付近で待ち続ける恋人のシチュエーションしか考えられなかったからである。

 その翌日、再度郁太に連れられて第2図書館を訪れたときもその能力は役に立った。室内で待っていた2人の3年生から、立華に向けられた僅かな排斥心を敏感に感じ取ったのだ。だから、敢えて立華は自己紹介の時こう言った。

「藍子さんの命令で運営委員会のスパイをするために来ました、巾足立華です。よろしくお願いします」

 その明け透けな自己紹介に3人は呆れつつも笑っていたが、同時に排斥の匂いが消えていく事を立華は感じていた。自分の意志でも無く、郁太が選んだわけでもなく、傍若無人な藍子が無理矢理ねじ込んだのだと印象付ける事によって2人の関係がドライな物であるとアピールした成果であった。この際、一切合切全部、部長におっ被せてしまうのが最良の手であった。

 達巳郁太、早坂英悧、春原渚、そして立華。4人で作業を進める内に、立華の嗅覚は3人の関係をほぼ正確に把握していった。
 早坂英悧と春原渚が親友関係であるというのは、既に知っていた通りであるし確認の必要も無い事であった。しかし、立華が心の中で驚いたのは、その2人がほぼ同等の強さで少年に好意を向けている事であった。藍子の掴んだ情報からだと春原渚がそうである事は可能性が有ったが、早坂英悧までというのは全くの想定外だ。少年の手が弾丸の異名を持つ部長よりも速いのか、それとも新聞部の情報網にも察知できない繋がりが2人の間に在ったのか。ともかく、報道の要の有る無しに関わらずゴシップニュース1つ、ゲットである。

 さて、少年たちの友好関係を把握したところで、立華は次なる考察を行った。この3人に、果たして恋愛関係は成立しているのか?

 普通、お互いに好き合っている男女3人が集まるとそこには1人の異性を巡るライバル関係が発生し、どこかしら不穏な感情が混ざる。それは恋愛経験豊富とは言えないまでも、嫉妬や独占欲について体験も含めた知識を持っている立華にはほぼ確定的な事実である。
 しかし、この第2図書館に集まった3年生3人にはどこにもそんなマイナスの感情は存在せず非常に和やかで、唯一察知できたのは立華が紹介された際の排斥感だけであった。これは一体どういう事か。

 考えられる状況として立華が想定したパターンは4つほどある。

 パターン1。既に少年とどちらかの3年生が恋人関係であり、もう1人はそれを承諾している。
 立華の嗅覚では男女の恋愛関係における好意と信頼関係における好意を嗅ぎ分けることはできない。だから、男女の1ペア+両者共通の友人1名というパターンの可能性が考えられた。それを確認するために、2人の3年生の居ない隙に郁太に尋ねてみたのだった。

「達巳さんは、早坂さんと春原さん、どちらの方と付き合っておられるのですか?」

 郁太1人の時にその話を持ち出したのは、余計な勘違いを起こさせないためである。古来より、女子側から男子へと「誰々と付き合っているのか?」「付き合っている人が居るのか?」などと聞くのは相手へのアピールを推察させ、立華の立場を微妙にする可能性があった。
 果たして、少年側の反応はどうだったかというと。

「え!? 僕があの2人と!? そ、そんなわけ無いじゃん、僕は誰とも付き合ってないよ!?」

 と、余計な事まで口走る狼狽えようであった。これは無いな、と立華はパターン1にバッテンを付ける。

「すみません。余計な事でした」
「い、いや、気にしなくて良いよ」
「ありがとうございます」

 再びパソコンに向かう立華。では、次の可能性を考えていこう。

 パターン2。お互いに好意は有るが精神年齢が離れ過ぎていて恋愛に発展しないパターン。年上に憧れる少年少女と弟妹の様に可愛がる年長者のペアに起こる関係である。これは実年齢に関係なく精神年齢によっても起こるから、これを考慮しないわけにはいかない。
 が、立華はこのパターンを即座に削除した。少年は確かに幼稚で子供っぽい所もあるが、この年頃の男子としては許容範囲内であろう。それに、観察した結果2人の3年生にも時折少年を意識した女性っぽい仕草を確認できた。2人にとって少年が恋愛対象にならないなんて事は可能性として低いと断言できる。

 次。
 パターン3は、少し人間関係の視野を広げる必要が有る。それは、この3人以外の人物で、少年、または少女2人に既に恋人がいる場合である。実はこれが一番臭いと思っていたのだが、それも今は考え直す必要があると感じられた。
 そもそも、お互いが恋人持ちであることを知っている男女が集まっていて、その辺を匂わす会話が皆無である事が極めて希である。さらに、もしもその様に誰かに恋人が居ることを他の2人が知っている状況なら、その情報を新聞部が掴んでいない筈が無いのである。
 事件の度に現場に現れて引っかき回していくと言われている部長の藍子ではあるが、そもそも事件が起こった事を迅速に察知しなければ現場に登場する事すらできない。その耳の良さは折り紙付きなのだ。だから、このパターンも無いと言い切れる。

 では、立華が想定する最後のパターン、パターン4とは。
 それは、発想の逆転である。ここに集まった3人が恋愛トライアングルのメインでは無く、もっと大きな恋愛サーキュレーションから切り取られた一部であるパターンだ。
 仮定だが、もしもこの少年を中心とした放射状の恋の鞘当てが有り、それをそのサーキュレーションを構成する女子が知っていたとしたら。この3人の集まりは恋の紛争地帯ではなく、逆に安全地帯、春原渚と早坂英悧の停戦協定の場所という事になる。こう考えるならば、無理に相手を出し抜いて協定を崩すよりも、協力してポイントを稼ぐためにタッグを組んだという推測も可能なのだ。

 その根拠も存在する。発行差し止めは喰らったが、新聞部は少年とこの場には居ない別の少女との2人きりの昼食会の様子も取材している。また、この学園の姉のような少女と少年が親しい関係である事もそれなりに周知の事実だ。意図的なものか、それとも恋する乙女本能による無意識によるものかはわからないが、そういった外部からの少年への干渉をシャットアウトするためにこの秘密の図書館が選ばれた可能性がある。

 立華はキーを叩く手を止め、なるほど、と呟いた。目を閉じ、部長の事を脳裏に浮かべる。

(……「これ」ですね? 藍子さん)

 藍子が立華をこの場所に送り込んだのは、情報を得るための取引目的では無い。それは、新聞部を送り出される時に意味有りげに目配せをしていた藍子の表情を見れば察しが付いた。何か、別の調査をさせるためにこの運営委員会に立華を送り込んだのだ、と。
 それが何なのかと、立華は委員会の仕事を手伝いながら注意深く観察を続けていた。そして、ようやくその意図に確信を持ったのだ。

(達巳さんを中心とした恋愛模様の関係者調査、それが目的だったんですね)

 確かに、少年はこの学園でゴシップネタを話せばかなりの確率で話題に上る、言わば時の人である。ただし、その付近には常に曰く付きの人物や天上の人物が存在し、冗談の域を越えた話は必然的にタブーとされていた。その状況を、藍子は一気に打破してヴェールに包まれた少年のお相手たちを陽の光に晒すつもりなのだろう。
 それは恐ろしく高い壁であると同時に、途轍もなく興味を引く題材である。藍子がそれを乗り越えてカメラを内側に潜入させたいと望む気持ちも良く分かる。立華はその為の特殊潜入工作員といったところか。

「ふぅ……」

 息を吐き、立華は文書ファイルに名前を付けて保存すると、パソコンをパタンと閉じた。瞳を閉じる。

(まずはここで信頼を勝ち取って……本番は、星漣祭でしょうね)

 他校の文化祭にあたる「星漣祭」は1年間の文化活動の集大成とも言える盛大なお祭りである。必然的に運営委員会の役割も大きくなり、関わる人間の数も増大する。そこから見えてくるものも、進展するものも多い筈だ。必ず、様々な噂の真相を示す事実が得られるはず。

 それまでは、ひとまず雌伏の期間である。立華はまた、思考の中のファイルにも「達巳郁太調査ファイル」と名前を付けて保存した。とりあえずはこれで良い。

 それにしても。
 立華は顔を上げ、鼻をくん、と動かす。僅かだが、少年に対する好意の匂いがし始めている。あの2人に違いない。

「お2人が帰ってきたようですね」
「え、良く分かるね」
「あれだけはっきりしてますから」
「? 何が?」

 出迎えのために立華は立ち上がり、第2図書館の引き戸を開けた。丁度受付窓の向こうに、段ボールに入った文書の束を抱えてよいせよいせと歩いている早坂英悧と春原渚の姿を見つける。

 それにしても、である。

(……運動部連合の自治会長に、今だに人気の高い元バスケットボール部キャプテン、噂だけなら元セイレン・シスター様に現役生徒会長、そしてセイレン・シスターの妹候補……このメンバーなら、この星漣をひっくり返す事だって出来そうですね)

 くすり、と密かに笑いをこぼす。
 この異常事態を報道する時、藍子はいったい何と名前を付けるのだろう? 嬉々とした顔で得意げにセンセーショナルなタイトルを声高に告げる顔が今から見える様だ。

 立華は素早く受付内を移動し、2人のために入り口のドアを開けてやる。「お疲れさまでした」と声をかけるその表情に、もう笑いは浮かんでいなかった。

6.

 最近、僕の昼休みは校舎屋上で過ごすのがトレンドとなっている。理由はもちろん、あの魔女だ。僕はエアリアに会いに屋上まで階段をえっちらおっちら登っているのだ。
 と言うか、エアリアに会うことのできるポイントがこの時間この場所しか無いと言った方が良いか。あの魔女はどんだけ重役出勤なのか午前中はまったく姿を見せないし、放課後は現在僕は委員会活動で拘束中。10分足らずの休み時間では屋上と教室を往復するだけで費やしてしまう。となると、やはり昼の屋上しかないのである。

 エアリアと会う利点は、やはり何と言っても夢魔の能力にある。毎日の様にブラックデザイアの力を使いまくっているから、あちこちで「世界の欠片」を拾う機会がある。全部をエアリア陣営に使うわけにはいかないが、「特別制服」や「透けスク水」、「見回り用首輪」など、夢魔に創って貰いたいアイテムは一杯だ。衣服の形をしてなくてもある程度の魔法的機能を付ける事が可能なのも確認したし、夢が広がりまくりである。
 そういう事で、今日も僕は売店で買ったパンの袋片手に屋上へやってきたのであった。……餌付けって言わないでよ? そんなの聞かれたら僕の命が危ないから。

 屋上の階段室の裏に付けられた梯子を登る。最後の数段で先にパンの入った袋を上に置いてから一応声をかけた。

「おーい、いるかー?」
「……」

 返事が無い。すわ、無駄足だったかと思い始める頃になって、ようやく給水塔の裏からのそりという感じで黒いマントを引きずりながら金髪の少女が姿を現した。

「なんだ……もう昼か……」

 そして「ふわぁ~……」と大口を開けて欠伸をする。こいつ、もの凄いスピードでだらけていってないか? 魔女の威厳は何処へ行ったんだ。僕は梯子を登り切ると袋を拾って差し出した。

「お昼、持ってきたけど……寝不足?」
「んむ……」

 エアリアは目をしぱしぱとしばたたき、コテンと日陰に座り込んだ。無言でマントの中から手のひらを上にして右手をこっちに差し出す。寄越せってこと? 僕はエアリアと体一つ分くらい空けて座り給水塔の土台に背を預けると、袋の中からウグイスパンを選んでその手に乗せた。無言のままその包装を破って中身にかじり付くエアリア。僕は半ば呆れつつ自分の分のパンを取り出した。

「何でそんなに眠そうなのさ? 今まで寝てたんじゃないの?」
「……」
「まさかまた夜は夢の中を飛び回ってるんじゃないだろね?」
「……心配してるのか?」

 そりゃ心配もするよ。昼のエアリアはこんなだけど、夢魔の時間である夜の魔女は夢の世界の力が使いたい放題だ。夢にあらがう事のできる人間はいないらしいから、こっちとしては夜は速やかに学校から出るくらいしか対抗策が無い。できる事なら契約をして、僕に危害を与えられないように思考を縛っておきたいくらいだ。

 しばらく無言でお互いにパンをかじる。……って何だこのパン? 適当に余ってた「エビチリドッグ」ってのを買ってみたけどえらく辛い。しまった、僕は辛いのは嫌いじゃないけど辛すぎるのは食べられないんだよ。
 黙ったままごそごそと飲み物を出そうと袋を漁る。僕の様子をしばらく無言で見つめながらパンをもぐもぐしてたエアリアが、ごくんと飲み込んでから少し自嘲気味に笑った。

「心配するな。今のラミアは私を維持するのに精一杯で、ボーヤたちを罠にかける余裕なんて無い」
「本当かな?」
「ふむ……やはり信用が無いな」

 エアリアはじーっと僕を見つめて何か考え込んでいる。そして、突然僕の手元に向けて指を突き付けた。

「そっちの方が旨そうだな」
「あ? 何?」
「私はそっちの方が良いと言ったんだ」
「これ? 辛いよ?」
「交換しろ」

 半ば強引にウグイスパンとエビチリドッグを交換させられる。って、ウグイスパンもう半分も残ってないんですけど……。不等価交換じゃないかよ。僕のお金で買ってきたんだぞ、これ。

「何だ、その卑しい目つきは」
「……育ちが卑しいもので、食い物に関しては妥協が出来ない質なんだよ」
「言っておくが、多少食事代を出して貰ったところでボーヤに恩など感じんからな」

 ちくせう。じゃあパン代返しやがれこの野郎。手元に残ったほんの2口分くらいの緑アンコのパンを恨めしげに見つめる。今日の昼飯はこれだけかよ。
 対してエアリアは僕が端っこをかじっただけの赤いチリソースの塗りたくられた、エビとフランクフルトと辛子とパンの混合物をアーンと大口を開いて食べようとしている。どうしてエビチリとチリドッグを混ぜようなんて考えてしまったんだ、開発担当者。
 せめてこの魔女が、この見た目からして舌が火を噴きそうな異形パンを涙目で突っ返してくることに期待するしかない。その時はこれ見よがしに苺ミルクを飲んで「あー美味しい」とさわやかに微笑んでやるのだ。

「ところで、いい加減生徒会役員の1人や2人契約できたんだろうな?」
「その話は後でいいから、早く食べなよ」
「そっちの方が重要なのだぞ……むぐっ?」

 エビチリドッグを口に入れたエアリアの動きが止まる。時間が彼女の周りだけ停止したように、瞬きすら止めてピクリともしない。いや、頬の辺りがだんだん赤くなってきたか? ざまーみろ、思いがけない辛さに意識が飛んだか。そんなに口一杯に頬張るからだ、卑しいのはどっちだよ。

 しかし、エアリアの反応は僕の予想の遙かに斜め上を行った。たっぷり10秒は動きが止まった後、突然動き出して猛然と残りのパンを口に詰め込み始めたのだ。そして勢いよく叫ぶ。

「……何だっ!」
「は?」
「……何事だこれはっ!」

 何事だは僕の台詞である。予想外の反応に呆気にとられる僕を尻目にエアリアはエビチリドッグを食い尽くすと、親指に付いた赤いソースをぺろりと舐めながら反対の手を猛然と僕に差し出した。咄嗟に残り1口のウグイスパンと苺ミルクを庇う僕。

「あ、あげないよ」
「誰がそんな物を欲しいと言った」

 じ、自分で僕の買ってきた昼飯を食い散らかしておきながら「そんな物」扱いかよ……。何だか泣けてきた。
 エアリアは心の中で半泣き状態の僕に構うことなく苛立ち気味に手をクイクイと動かす。

「今のを、もう1つだ」
「な、無いよ。有る訳ないじゃないか」
「ふう……」

 エアリアは僕のふてくされた言葉を聞き、溜息を吐いた。

「ボーヤは本当に使えないな」
「何ですと?」
「手元に無いなら、買ってくればいいじゃないか」
「おい……」

 これ、僕の昼飯の話じゃないんだよ? 自分のパンが足りないからって言ってる台詞なんだよ? 心の広い僕もこれにはイラッときた。

「やだよ。自分で行きなよ」
「……何だと?」
「売店からここまで登ってくるのがどれだけ大変だと思ってるんだ。誰かさんのおかげで足りなくなったからもう一回売店には行くけど、もうここには戻ってこないからね」

 そう言い捨て、最後の一切れを口に放り込んで立ち上がる。全くもって不毛な昼休みだ。食堂と屋上を往復した上に2回も売店に行かなくてはならないなんて。ぷりぷり怒りながら梯子の方へ歩き出した時、背後でエアリアもまた立ち上がった気配を感じた。

「そうか……ボーヤがそう言うなら仕方ないな」

 ふん、今更下手に出ようたってそうはいかないからな。僕はもうエアリアの為にパンを買ってきてやる気も無いし、君は給水塔の影で寂しく空きっ腹を抱えてればいいんだ。
 僕はエアリアを無視したまま振り返りもせず、そのまま屋上から出るつもりだった。だけど、その次の彼女の台詞に、僕のその思惑はいきなり崩壊してしまった。

「じゃあ、行くか」
「え?」

 後方やや下から、すたんと軽い足音がした。僕が驚いて後ろを見ると、そこには既に魔女の姿は無い。塔屋から身を乗り出して下を見ると、階段室の扉の前でエアリアは僕を見上げて待っていた。

「何をしている。早く降りてこい、ボーヤ」
「え? え?」
「食堂に行くのだろう?」

 ……あれ?

 ランチハウスの愛称で生徒達に親しまれている星漣学園学生食堂。ガラス張りの金のかかったこの建物のある一角に、奇妙な光景ができあがっていた。
 背の高い窓際の長テーブル上には見た目からして毒々しい赤いホットドッグ状のパンが5つも並べられ、その正面には止まり木型の高いスツールに金髪の少女が座っている。少女は黒マントを身に付け、その裾はぶらぶら遊んでいる足を越えてもう少しで床に届きそうだ。
 その隣には困惑した表情の少年。飲みかけの苺ミルクのパックに刺したストローを口に含みつつ、紙で包まれたハンバーガーを手で弄んでいる。
 言わずと知れた、魔女エアリアと僕である。

 エアリアは食堂に到着するなり僕に例のパンをありったけ買ってくるように命じた。言われた通りに棚に残っていたエビチリドッグ5つと僕の分のハンバーガーを会計に持って行ったが、当然売り子のおねーさんには驚かれた。僕も驚きだよ、こんな変態パンをさっき食べた分も合わせて少なくとも6個は仕入れていたなんてさ。コアなファンでもいるのかね?

 僕が売店エリアから出ると、エアリアはちゃっかり窓際の一番高い椅子の席に座って待っていた。よくよく高い位置の好きな魔女だ、まったく。
 僕がパンを持って帰ってもエアリアに金を出す気配はない。まあ、予想はしてたけどさ。僕のこと本気で下僕くらいにしか考えてないんだろうな。

 かくして、僕がもさもさとハンバーガーを食べてる横でエアリアは礼も言わずに1個目の包装を開け、ぱくつき出した。僕の方などチラとも目を向けない。溜息をつき、僕は周囲を見渡した。
 とたん、さっと視線を逸らした気配が多数。当たり前か、この場所にこの山盛りパン、極めつけに黒マントの見かけない金髪と来たら悪目立ちし過ぎだろう。

「ねえ、せめてマントくらい取らない?」
「うるさい黙れ」

 一刀両断、僕を黙らせるとエアリアは空になった包装を僕の方へ押しやり、2つ目に取りかかった。……まだ僕ハンバーガー1口しか食べてないんだけど。

 エアリアの食欲はそれはもう見事な物だった。僕がそのハンバーガー1つと半分くらい残ってた苺ミルクのパックを胃袋に入れている間に、エビチリパン4つを腹の中に納めきったのだから。さすがに5つ目は無理だろ、と思っていたらエアリアはそのパンをマントの内側にごそごそと仕舞った。

「ほら、食べきれなかったじゃないか」
「これは後でゆっくり食べるんだ」

 ……さいですか。
 だが、魔女が満足した事には変わりないようだった。エアリアは珍しく無防備ににこにこ笑いながら途中で僕に買いに行かせたミルクティーのパックを飲んでいるし、ぶらぶらしている足も何だか楽しそうだ。

「驚きだな。この学園にこんなに旨いものが存在していたとは」

 僕も驚きだ。「エビでタイを釣る」って言葉は知ってたけど、エビチリで魔女が釣れるとはね。

「君が屋上から降りてきてここまで来れば、何時でも食べられるんだけど?」
「んー……そうか……、ボーヤは屋上まで来るのがそんなにイヤなのか?」
「ヤだよ。疲れるし、時間がかかるからね」
「少しぐらい我慢が必要だな」
「あのね、君に会うために僕はかなりの時間を使ってるんだよ?」

 僕はいったん言葉を切り、周囲を見回してから声を少し抑えめに続けた。

「昼休みに時間が取れれば、本の力を使う余裕ができる。それは君にとってもプラスになるでしょ?」
「まあ……そうなるな」
「なら、そのパンの代金は僕が持つって事で手を打たない?」

 エビチリパン6つ+ミルクティーで1000円の出費だが、これで毎日の屋上詣でから解放されるなら割に合わない条件じゃない。エアリアも相当気分が良かったのか、あっさりとその条件を飲んだ。

「わかった」
「それとさ、人目も有るしもう『坊や』て呼ぶの変えてくれない?」
「今日のボーヤは本当に注文が多いな」
「僕と君の関係を変に勘ぐられて噂が立たないようにするためだよ」
「ふむ」

 今度は魔女は暫く考えた後、首を縦に振った。

「では、お互いにこれからは名前で呼ぶことにしよう。ボーヤの名前は『イクタ』で良いな?」
「良いけど……君の事、『エアリア』って呼んでいいの?」
「心の中で『様』を付けておくんだな、イクタ。『エアさま』でも良いぞ」

 何か、思った以上の釣果じゃないか。まさかここまでエアリアから譲歩を引き出すとは。すごいぞエビチリドッグ! 僕はパンの開発者を抱きしめてあげたい気分になった。

「では、明日から私はこの席で待っているからな」
「え? 別に待ってなくて良いよ。僕だって毎日毎日君に用が有る訳じゃ無いし」
「何を言っている。先程の約束をもう忘れたとは言わせんぞ」
「は?」

 ニヤニヤと笑うエアリアに嫌な予感がし、僕は恐る恐る確かめた。

「……『今食べた』そのパンの代金を払うって約束だよね?」
「『これから毎日食べる』このパンの代金を払う約束だったはずだ」

 ガッデム! 話がうますぎると思った! いくら何でもこれから毎日エアリアに五個も六個もパンを買ってやったら僕が破産しちゃうよ!

「今の話は無かった事に」
「まあ待て、私だって鬼じゃない。イクタの心がけ次第で譲歩しないことも無い」
「……条件は?」
「誠心誠意、真心込めて頭を下げるなら3つで許してやろう」

 それでも3つかよ。僕は逡巡し、頭の中で素早く計算する。1月分のパン代、それとトレードオフする毎日の屋上までの道のり。昼休みに1回この場所に来る必要は有るが、どうせ僕も昼食はA又はBランチか売店だ。それなら時間のロスも無い。お金なら、何とか捻出する事は可能だろう。なら、後はこの僕の頭にかかったプライドだけの問題となる。

「お願いします、エアリア様」
「よろしい」

 プライドでおまんまは食えませんよ? テーブルにすり付けるように下げられた僕の頭部に満足し、エアリアは何処からともなく取り出した長い杖でコン、と床を突いた。急激に周囲の音が遠くなる。

「ここからは聞かれたらまずい類の話だ」
「これは?」
「なに、簡単な結界だ。椅子から降りれば破れる程度の弱々しいものだが、私達の姿や声をぼやかすことはできる」

 そう言えば、周囲の視線も感じなくなっていた。どうやら魔女はいつでも望む時にプライベートスペースを用意できるみたいだ。でも、出来れば僕が頭を下げる前に使って欲しかったよ。

「で、何から話す?」
「まずは進捗状況の報告を貰おうか」
「生徒会役員との契約云々?」
「有望な契約者と契約したか、出来そうなのか?」

 エアリアの言葉に僕は頭を掻いた。脳裏に浮かぶのは金髪ツインテールの少女の事だ。彼女なら、もう少しで契約可能になるような気がする。
 最近の委員会活動で早坂と親しくなりつつある事を言うと、興味深そうにエアリアは口元に笑いを浮かべて頷いた。

「連合の早坂英悧か。大物だな」
「君もそう思うでしょ?」
「面食いだな、イクタは」
「いやいや、ここの生徒はみんなレベル高いよ」

 そう言いながらも、僕は早坂の笑顔を思い出していた。彼女が存在すると、その場が一気に華やかになるんだ。一つ一つの所作に華があるって言うのかな。洗練された仕草とは違うけど、見ていて愛らしいと素直に感じられるような立ち振る舞いをする。
 座る動作1つとっても、すとんと座ったり、静かに座ったり、丁寧に膝を折って座ったり、そういう動作をする娘は沢山見たけど、早坂みたいにふわっと重力が消えたみたいに座る娘は初めて見た。本当に、時間がゆっくりになったみたいにツインテールの房が一瞬滞空したままになったんだ。あれは一体何だったんだろう?

 彼女の事を思い出し、多分奇矯な顔付きをしていたのだろう。気が付くと、エアリアが僕の方をニヤニヤと見つめていた。

「なんだよ?」
「イクタは随分と早坂英悧にご執心の様だな」
「そ、そんな事無いよ。たまたま近くにいた生徒会役員だからさ」

 あれ? 前にも誰かに言われたような気がするぞ。何故か頬の辺りが熱くなってくるのを感じる。エアリアはやれやれと息をついた。

「この分だと、イクタの『初めて』を持って行くのはその娘かもしれんな」
「な、何言ってんの!? 初めてじゃないし、ブラックデザイアの力だって有るし!」
「慌てるなよ、坊や」

 ま、また「坊や」って言ったね?

「その様子じゃ女『で』遊んだ経験は豊富でも、女『と』遊んだ事や女『に』遊ばれた事も無さそうだ」
「エアリアが何言ってるのかわからないよ」
「私の考えだと、坊やは少し卑屈過ぎると思うよ」

 脚を組み、テーブルに肘を載せて手の甲に頬を付ける。姿勢が変わり、眼を細めただけでエアリアから「魔女」としての怪しげな気配が漂い始めた。

「男好きのする女ってのは、2種類いる。『受け入れ』上手な女と、『満たされ』上手な女だ。タイプは違うが、これらの女達は男をその気にさせるのが抜群に上手い」
「急に何の話をしてるのさ」
「良いから黙って聞け。坊やの人間的欠点を教えてやっているのだからな」

 何で僕がカウンセリング紛いの事をされなくてはいけないの?

「前者のタイプの女は、男に要求される反応をそのまま演じたり、受容したりする事が出来る。男は女に受け入れられる事を信じられるから、抱きたくなる、重なりたくなる。だが、このタイプの女には決定的に相性が悪い男がいてな?」
「……」
「『相手に受け入れて貰いたい自己』を持てない、自身を信用できない、妙にプライドが高い癖に挫折感の固まりのような男……つまり、坊やのようなタイプだ」

 ……。言葉が無いよ。

「そういった人間にはむしろ後者のタイプの女、男の目を引く仕草、容姿、言動、体型、性癖などをもって男に強制的に支配欲、征服欲を抱かせ、欲求を駆り立てるスタイルの方が相性が良い。そして、早坂英悧は典型的なこっちのタイプだ」
「……彼女が、僕の気を引こうと画策してるっていうの?」
「いや、あれは天性のものだ。自分の魅力を理解して最大限発揮しようと工夫はしてるだろうが、意識して坊やを操ろうとしているのでは無いよ。最も、自分のその才能に気が付いて意図的に発揮し、男を逆支配するようになればそれこそ傾国のなんとやらとなって歴史に名を残せるかもしれんがな」

 そこまで言って、ようやくエアリアは姿勢を崩した。頬杖をついていた肘を上げ、肩に掛かっていた髪を払う。

「宮子がある意味ライバル視していたのも当然と言える。あいつは型通りにやりすぎるせいで実務的に無駄は無いが、華も無いからな」
「……どうして君がそんな事を知っているの」
「夢魔を使っているせいさ。お陰で意識に昇らない抑圧された感情についてはだいぶ研究させて貰った」
「それは、本を使うのに必要だったの?」
「不思議と思ったら、調査せずにいられない。性分だな」

 そしてここで、驚くべき事にエアリアはほんの少しだけ頭を下げた。

「すまなかったな、イクタ。魔法を使うとどうしても魔女フリージアとしての過去に引っ張られて説教くさくなる」
「あ、いや……君は先生か何かをしていたの?」
「そのようなものだ」

 なるほどなぁ。エアリアの上から目線の口振りや理屈詰めで持論を展開する癖はそのせいなのかもしれない。
 ちょうど話が途切れたので、僕は話題を変える目的も有ってさっき疑問に思った事を聞いてみる事にした。

「あのさ、質問良いかな?」
「何だ?」
「君さ、さっきから宮子って呼んでるじゃない?」
「生徒会長の安芸島宮子だ。知らないわけではあるまい」
「いや、そうじゃなくて……君と安芸島さんは名前で呼び合うような仲なの?」

 ん? そう言えば誰かエアリアと宮子は仲が悪いって言ってなかったっけ? 誰が言ってたんだ?

「誰か、君と安芸島さんが仲が悪そうだったって言ってた人もいたよ」
「ああ、それは私が以前、気まぐれで屋上から降りていった時の事だろう」
「何かあったの?」
「何かも何も、椿組にたまたま宮子が待ち受けていたんだ」

 どんな偶然かエアリアと出くわした宮子は、周りのみんなも驚いた事に、その場でこの魔女にもっと積極的に授業に参加するように注意したのだという。

「安芸島さんが? 珍しいな、どうしてそうなったんだろう」
「その頃はまだ椿組の連中にしか夢世界からの印象操作を行っていなかったからな。私が教室から姿を消していることに宮子は気付いていたのだろう」
「ああ……そうか、だから椿組のみんなから見たら『仲が悪そう』だったのか」

 大人しく授業を受けているはずのクラスメートが難癖を付けられたように見えたのか。

「でも、どうして安芸島さんがエアリアの事を気にしてたの?」
「まあ、親交は無かったが顔見知りだったからだろう」
「え? 君と安芸島さんは以前から面識があったの?」
「ああ。血縁上は親戚だからな」
「はぁ!?」

 どういうこっちゃ? 古代の魔法使いの生き残りがどうして宮子と親戚なんだ? 僕が理解を越えた衝撃の事実に目を白黒させていると、エアリアはまたも講義モードの皮肉っぽい笑いを浮かべた。

「お前にも解りやすく言うと、この身体、エアリア=マクドゥガルは魔法世界の魔女、フリージアの転生体なんだよ」
「転生!? 漫画みたいじゃないか」
「ただし、お前が想像するような心と体が一緒になって転生した場合と事情が異なっているがな」

 エアリアの説明によるとこうだ。
 魔法世界で起こった出来事はそこで起こった歴史の中で重要なターニングポイントとなった事柄については「世界」に記憶されている。そして、その世界の魔法学園の終焉に関わった魔女フリージアもまた記憶され、それがデジャヴのように現代世界で再生されたのがマクドゥガル家の娘、エアリアという肉体なのである。

「安芸島家は2代前の当主がマクドゥガル家から嫁を貰っている。そして、宮子はその当主夫妻から見て孫に当たる」
「えっと……つまり、君と安芸島さんのおばあちゃんが姉妹って事?」
「そうだ。私と宮子は肉体的には再従姉妹(はとこ)という事になる」

 そうだったのか! 言われてみれば、確かにエアリアの顔立ちはどことなく宮子の面影が有るような気がする。言われなければわからなかったけど。

「ちなみに、私以外にも魔法世界に大きな影響を及ぼした人物はこの世界にも再生されている可能性がある。もっとも、魔法世界の記憶までは持っていないだろうがな」
「そうなんだ……でも、それじゃなぜ君だけが魔女としての記憶と力を持ったままなの?」
「理由は2つある」

 ぴ、とブイサインのように指を立ててエアリアは講釈を続けた。

「1つ目。ラミアの力で私は夢世界に魔法学園を再構築した。非常に近しい存在はシンクロしてお互いに影響を与え、重なり合おうとする。夢世界に存在する魔女フリージアと私、エアリア=マクドゥガルが重なって、世界が記憶していた過去と魔法の力を思い出したんだ」
「へえ……」
「2つ目は、私が魔法世界でやった事に関係している」
「滅びた方の?」
「そうだ」

 エアリアは僕から少し目線を逸らし、笑みの性質を変えた。

「私は、自分の欲望にまかせて魔法学園を滅ぼした。そして、その舞台となった学園ごと封印されたんだ」
「は……?」
「その結果がこの有様さ」

 自嘲するような少女の笑み。僕はその言葉の意味するところに気が付き、背中を寒気が走るのを感じた。

「え、待って、学園ごと封印された君が、この星漣にいる理由って……」
「気付いたか、その通りだ」

 エアリアは顔を上げ、両手を広げてぐるりと周囲を見渡した。

「世界は消えた魔法学園を再生したんだ。私ごと……この、『星漣学園』としてな」
「……っ!」

 衝撃の事実だった。どこか遠くの国の出来事のように思っていた魔法世界の出来事が、まさかこの目の前の少女を接点としてすぐ隣に接続されていたなんて、思いもよらなかった。

「私はこの学園内で記憶を取り戻した後、ここが過去の魔法学園の影響を強く受けていることに気が付いた。だから、確信できたんだ。私がここを卒業するまでの間に、黒い本はこの学園内に持ち込まれるとな。歴史を繰り返す為に」
「何だよそれ。僕は自分の考えで星漣を選んだんだよ?」
「だが、お前は私の予測通りに本を持って現れた。もっとも、予測は的中したが計画通りに手中に収めることは出来なかったがな」

 エアリアは言葉を止めると苦笑した。

「ふむ……随分本筋と話が逸れてしまったな。とにかく、私は宮子とは血縁関係にあるという事だ」
「親戚、なんだ……もしかして、安芸島さんもその、魔法学園からの……」
「いや、それは無い」

 僕の思い付きを最後まで言わせず、エアリアは断じる。

「この学園に転生体が居たなら、そいつの夢を通して夢世界の学園も影響されて誰かしら残っていたはずだ。だが、私が住処としていた学園はもぬけの殻だったよ。少なくとも、現在この学園の女子生徒にはあの世界からの因果を持った人間はいない」

 その言葉に、僕はほっとして息を吐いた。

「じゃあ、安芸島さんはただの人間なんだね」
「『人間』である事は間違いない。が、『ただの』かどうかは分からない」
「? どういう意味さ」
「哉潟の姉妹のような例もある」

 七魅と三繰の「舞」の力の事か。僕がそう問うとエアリアは無言で頷き、そして自分の眼を指さした。

「私の瞳は碧いだろう?」
「うん」
「この世界の人間としては平凡な色だ。だが……イクタは宮子の眼をじっくり見た事があるか?」
「じっとじゃないけど……ちょっと普通の人とは違うよね」

 僕は宮子の緑がかった灰色の瞳を思い出しながら呟くように言う。エアリアもそれに同意した。

「特異な存在というモノは……その力の影響力が強まるほど因果に干渉し、同じく特異な何かに姿を現すものだ。例えば、特異な生い立ち、特異な事件、特異な環境……」
「そして、特異な外見?」
「そうだ」

 エアリアはふうと息を吐いて眼を閉じ、天井へ向かって首を傾けた。

「マクドゥガル家は元々そういった特異な事件を多く抱える家系だ。古くは『魔女』の誹りを受け一族の殆どが処刑された事も有った。そして、その特異性は多くは長女の系譜が受け継ぐものだった」
「……安芸島さんのおばあさんって、君のおばあさんの……?」
「姉だった」

 眼を開き、僕に顔を向けてじっと見つめるエアリア。

「宮子に手を出すのは、今暫く止めておけ。あいつには私にも底の知れないところが有る。……マクドゥガルの血統として、宮子は私なんかよりもずっと――」

 放課後、僕は生徒会執務室を訪ねるためにウィルヘルム時計塔に向かった。ようやく完成した「今年度体育祭実施要項(案)」から(案)を取るため、生徒会長・安芸島宮子の承認を貰わなくてはならない。進捗状況は逐次早坂を通して伝えておいたから、今日はちょこっと補足説明して数枚の書類に判子を貰うだけの簡単な訪問だ。10分も有れば終わるだろう。

 とは言え、星漣で一番高いこの建物に入るのはいつもながら緊張する。エアリアからこの学園が魔法を教えていた魔法学園の流れをくんでいると聞いたら尚更だ。この塔も、同じ名前を持つ魔法塔が現代の技術で再現されたものらしい。夢世界でエアリアに囚われていたあの場所が、ここの大本となった魔法塔だ。

 だが、こんな入り口でいつまでも足踏みしている訳にはいかない。悪魔や魔女はともかく、人間の僕にとって時間は有限なのだから。扉を開け、時計塔に繋がった館に入った。
 赤絨毯を踏んで左手に回り、階段を上って2階へ向かう。真っ直ぐ進めばそこが宮子の仕事場である執務室だ。いつも呼び出されていた時と同じく、扉をノックして来訪を告げた。

「会長、達巳です。体育祭について報告に来ました」
「どうぞ、入って下さい」

 扉を開き、中に入る。想像していたのと違い、執務室にはいつもいる書記の漁火真魚(いさりびまな)や副会長の相良冬月の姿は無く宮子1人きりだった。ブラインドのかかった窓からの光を背にし、執務机に着いていた彼女が立ち上がって僕を出迎える。僕はその場で軽く礼をし、用件を言った。

「実施要項の案が出来ましたので会長に補足説明を。その後、承認をお願いしたいのですが」
「聞きましょう。さあ、こちらへ」

 宮子の招きに応じ、僕は机に近付いた。逆光に隠れていた彼女の表情が見えるようになる。僕に対し、柔らかそうな唇を綻ばせて微笑んでいた。
 エアリアは宮子の事を実務的で華が無いと言っていたけど、僕にとってはこの安心できる微笑みだけで十分だ。宮子が着席したところで気を落ち着けて説明を開始する。彼女は既に手元に用意していた要項案を繰りながら、時折頷いて僕の言葉を促した。

 こうして会長モードで仕事をこなす宮子を見ていると、髪や肌や瞳の色は違うが、確かに魔女の雰囲気を身にまとった時のエアリアにそっくりだ。再従姉妹というのも納得できる。
 視線を感じたのか、宮子が手元から目を離して僕に目を向けたため、あわててレジュメを確認するフリをする。こんなもの、見なくたってすっかり覚えてしまっているんだけどね。

「……補足事項としては以上です。何か他に確認したい事項は有りますか?」
「そうですね……」

 ものの数分で説明は終了した。宮子は綴られた案の方を閉じると、その隣に並んで置かれた承認用の書類に視線を移す。この数枚の紙に生徒会長の判子を貰うために、僕と早坂達は1週間頑張ったのだ。
 早坂からも草稿の段階で宮子に目を通してもらった時、特に指摘事項は無かったと聞いていた。判子もすぐ貰える筈だとお墨付きを貰った。

 そう言われていたから、次の宮子の言葉に僕は呆気に取られてしまったのだった。

「では、結論から先に申し上げます」
「え? はい」
「あなたのこの実施案を承認することは出来ません」
「……え?」

 全くの予想外の事に、しばらく言葉が出せない。数十秒もして、ようやく僕の喉から出てきたのは、僕の脳裏を埋め尽くしたシンプルな単語だった。

「……何故です?」
「それは、私の言葉で言う必要が有りますか?」

 謎かけのような返答。宮子の考えが分からないのに、どうしてそれを本人の言葉で聞かせてくれないのだろう? 訳が分からなくて僕の頭は混乱した。

「僕に何か落ち度が有りましたか?」
「……達巳君は私が何故あなたを運営委員に任命したのか、誤解されているようですね」
「え……」

 宮子が僕に仕事を任せた理由? そんなの、特別役員に役職を持たせるための穴埋めじゃなかったのか?
 宮子は静かに立ち上がり、すっと指先で書類を僕の方へと押した。ちょうど、7月生徒会前に総選挙を申請に来た時と、鏡に映ったように対称に。

「達巳君……あなたがやりたい体育祭は、本当にこの内容なのですか?」
「!」

 な、なんで!? どういう事!?
 宮子は、僕が体育祭で本当にやりたかった事に気が付いているの!?

 頭の混乱に拍車がかかる。視線をさまよわせ、押し戻された書類を見つめ、そしてもう一度宮子の表情に眼を向けた。

「……っ!」

 その光景に、唐突に先ほどのエアリアの言葉が蘇ってきた。

『――特異な存在というモノは……その力の影響力が強まるほど因果に干渉し、同じく特異な何かに姿を現すものだ。例えば、特異な生い立ち、特異な事件、特異な環境……』
『そして、特異な外見?』
『そうだ』

 眼を開き、僕に顔を向けてじっと見つめるエアリア。

『宮子に手を出すのは、今暫く止めておけ。あいつには私にも底の知れないところが有る。……マクドゥガルの血統として、宮子は私なんかよりもずっと……魔女なんだ』

 頭上から、時計塔の鐘が鳴り響く重い音が振動と共に伝わってくる。

『時計仕掛けの生徒会長』

 鐘の音に合わせ、早坂の言っていたキーワードが明滅する。

 窓に背を向け、こちらを見つめる宮子。傾いた陽が机を眩しく光らせている。逆光に暗く沈む彼女の表情の中、その光を反射したのか……その2つの瞳が静かに緑色の輝きを放っているように、僕には見えたのだった。

< 続く >

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