第21話
法王は驚いて玉座から立ち上がった。
爆発音がした。もしや、敵襲?
法王の間で彼女は固唾を飲んで待つ。
と、法王の間の扉の前のベルが鳴った。
「ステラ=マリです。猊下、ただいま戻りました」
「!」
ステラ=マリは『ベルを3回、1拍置いて2回鳴らす』と言った。今鳴ったベルは1回だけだ。
ところが、法王は彼女に言われたことなどすっかり忘れてしまっていたのであった。
「待ちかねたぞステラ=マリ! 入りなさい」
法王は解錠の呪文を唱えてしまった。
「さあ! 何があったのか説明しなさい!」
しかし、重い扉を開けて入ってきた巫女は、金色の髪ではない、桃色の髪。
「プリ……!」
「お久しぶりです、猊下」
プリムローズは、ステラ=マリと全く同じ声で話す。
「猊下、わたしと一緒に来てください。レンでわたしたちのご主人様がお待ちです」
直後、彼女の手から黒い稲光が迸り、法王は意識を失った。
気がつくと、法王はドラゴンの背中に乗せられていた。その手綱を取っているのはプリムローズだ。
どうやら、拉致されたらしい。
「お目覚めになりましたか? 猊下」
元通りの稚気のある声でプリムローズは屈託なく笑いかけた。
プリムローズは事の顛末を説明した。
「あの爆発なら心配ありませんよ。破壊が目的ではなく、湖畔にいるロッテに合図するためのものですから。ただ起爆点近くにいた人間は無事でいられないでしょうけど。えへへ」
「……っ! どうやって爆弾を持ち込んだのだっ」
「この夜、お姉様が子供たちの洗脳を解いた後、その子たちは大聖堂に護送されたでしょう? その子たちに爆弾を埋め込んでいたんです。もちろん彼らの記憶は消してありますけどね」
さらりと語るプリムローズの顔は、法王の心胆を寒くした。
「いったいいつの間に! 門前町の警備を潜り抜け工作をしたというのか」
「いえいえ、お姉様が目を光らせているところでそんな真似はできません。爆弾を埋め込んだのは門前町の子供たちではなく、裾の孤児院の子供たちです」
「!」
法王はプリムローズが孤児院の子供たちを可愛がっていたことを思い出した。
「木を隠すなら森の中。この騒ぎに乗じて、わたしのかわいい爆弾たちは門前町の子供に紛れて簡単に門の中に侵入できました」
「ならばその子供たちは……」
「ふふ。細切れのステーキになりましたよ」
そのイメージに、法王の喉を胃液が逆流しそうになる。
「あの子たちはわたしのために喜んで役に立ってくれました。思った以上の効果がありました。神殿騎士たちは大慌て。おかげでわたしが法王の間まで侵入するのが少し楽になりました」
「……本当に変わってしまったのだな……プリムローズ」
「はい。邪神タローマティ様に変えて頂きました」
「正気か? タローマティは幼いそなたから父を奪ったのではないのか?」
「それは違います。わたしのおとうさまはタローマティ様です」
夢見るような面持ちでプリムローズは答えた。
「プリムローズ……そなた、わかっているのか!? そなたは洗脳されているのだぞ!」
「ふふっ」
プリムローズは憐れみの目で法王を見つめた。
「猊下なんかにはわからなくて結構です。わたしたちの親子のことはわたしたちが知っていればいいことですから」
朝焼けが空に映え始めるころ、ドラゴンはレン王宮に到着した。そして客室に通されてしばらく後、彼女の前に邪神タローマティが現れた。
これが光のトップと、闇のトップの初の対面だった。
もっとも、2人は対等ではない。闇の勢力はもう光の大駒をあらかた奪い、あとは王手をかけるだけ、という局面だ。対等な駆け引きなど法王には望むべくもなかった。
「掛けろ。今日は話をするだけだ」
「…………」
法王は黙って椅子に腰掛けた。続いて、タローマティも対面に。
人間と似ていながら明らかに異質なその姿とその気配。法王はそれがまぎれもなく光の神の対存在であると確信した。
「会えて嬉しいぞ。法王」
「…………」
「ふぅん、名前はソフィア、というのか」
「!」
法王の心臓が凍った。
遥か昔に捨てたはずの名前を呼ばれるなんて。
この男も、ステラ=マリのように人の心を読み取ることができるのか……?
彼女の体が小刻みに震えた。心の中を覗かれる恐怖と不快感に目眩を覚える。足ががたがた震える。喉がからからに渇く。
彼女は法王の間から出たこともない年若い少女なのだ。悪魔と――ましてこんな巨大な敵と対峙する経験などあるはずがない。それでも法王は、泣き出しそうな顔を引き締め、精一杯堂々とした声を絞り出す。
「わわ、わらわをこんなところに連れてきた理由はなんだ?」
「簡単だ。敗北宣言をすることだ」
「はいぼく……」
「武力で大聖堂を破壊するのでなく、法王が敗北宣言をして、初めてアールマティ聖教が堕ちたことになる。お前が人間たちに、光が闇の前に屈服したと勅を下すのだ」
「ぐ……」
たまらない屈辱であった。そんな勅を下すくらいなら、光の使徒として死んだ方がましだ。だが、彼女に拒否権はないことは聞くまでもなかった。
「何日でも待とう。お前がほんとうに勝敗が決したと思うまで、何日でもここで戦況を見守るがいい」
ようは、首を縦に振るまで監禁されるということだ。
彼女は悔しさに拳を握り締める。
ここは耐える。まだ光の世界は負けてはいない。日輪の巫女ステラ=マリがいる! 彼女ならほかの巫女たちを元に戻し戦局を引っくり返すことができるかもしれない。それを待つのだ。ありがたくも邪神は何日でも時間をくれると言っているのだ、ステラ=マリを待とうではないか。
「ああ。いつまででも待つがいい」
邪神は、すべて見透かしたように笑った。
「ま、待て……。ひ、1つ条件が、あ、る」
「ん?」
「こ、この要求を飲んでもらないと……たとえ日輪の巫女がお前に敗れたとしても、わらわは……決して敗北宣言はしない……」
これが敗軍の将にできる唯一の駆け引きだった。囚われの法王は、この要求のためにかけなしの勇気を振り絞った。
「も、もし戦いがそなたらの勝利に終わったら、巫女たちを解放してほしい……」
「それは無理だな。あいつらの魂はもう俺のものだ。無理に再洗脳すると精神が崩壊するぞ」
「ぐ……」
タローマティの言うことなどどれだけ本当か疑わしいが、一度拒否された物をさらに追及する勇気は法王にはなかった。
「じ……じゃあ……せめて、日輪の巫女だけは……日輪の巫女だけは洗脳しないで……。わらわのもとに残して……。」
「それもできない。星辰の巫女たちは全員俺の配下になってもらう」
「なぜっ!」
「俺はあいつらが欲しい」
「美しい娘ならほかにいくらでもいるだろう! なぜ巫女でないといけないのだ! わらわが絶望するのを見て楽しんでいるのか?」
「とんでもない。巫女たちが俺にとって必要不可欠だからだ」
「はぁっ!? こんな巨大な力を持ちながらなにを白々しいっ……」
邪神は怒りに色めき立つ法王を笑った。
「いいだろう、話してやる。俺はたしかに力を手に入れたが、決して俺にはできないことがある。それを任せられるのは巫女たちしかいなくてな」
「……?」
「俺にはこの世の生物を滅ぼすことはできても、新しい生物を作り出すことはできない――俺自身のこの肉体も元は人間だったしな。それが破壊者の限界だ。新世界には、破壊者ではなくそこに相応しい生物の創造者が必要なのだ」
闇の世界に相応しい生物……? 法王は魔物たちの姿を連想した。
「たしかにこの世にはすでに魔物たちがいる。だが、奴らは光が統治する今の世界に適応する代償として本来の力を薄めてしまった。本来の強さを失った亜種に過ぎない。闇の世界に相応しいのは、神の精から生まれた、正銘の魔なのだ」
精、という言葉で法王は気付く。そして、悪寒に襲われる。
「まさか……っ!」
「そう。巫女たちに子を産んでもらう」
邪神に相対したときよりも、さらに大きいショックが法王の脳を貫いた。
「邪神の精で受胎した闇の子はきわめて貪欲で、胎盤の中で育っているうちに母体の力をすべて奪いつくしてしまう。並の女なら着床から3日も持たずに干からびて死ぬ。だから強い魔力を持った母親が必要なのだ。腹の中の魔の子に食われることなく、その強大な闇の力を制御し、出産できる強い母が。それが、巫女たちだ」
「あ……ぁあ……」
「旧世界を破壊しつくしたそのとき、あの3人には、新世界の命を育む地母神になるだろう」
「……!」
法王は何も言えなかった。放心した顔でその場で立ち尽くした。
「う……うわぁあああああああ……」
邪神が去ったあと、床に手をつき泣き崩れる。
「ううううっ………うっ……うぁあああ……」
こんな恐ろしいことがあるだろうか? 光の神に仕えるために1500年受け継がれてきた巫女の力が、闇の創世のために使われるなんて……!
光の神よ……わらわに何ができる? なにをすればいい?
法王は苦しんだ。ロザリオを握り締め祈る。だが祈れば祈るほど責任感と重圧はより彼女を苛んだ。
いつも彼女を助けてくれた巫女たちはいまや敵。唯一最大の味方ステラ=マリはいない。誰も彼女に助言をくれないし、愚痴さえ聞いてくれるものもいない。彼女は破びの運命を一人で背負わされた気がした。
誰か……わらわを助けて…………!
光の神……光の神よ……!
この苦しみから……この苦しみからわらわを解き放って……!
法王の祈りは、黒い雲の中に吸い込まれて消えていった。
< つづく >