亜種王 第1話

第1話


*

最初、悪食の神がいた。

神は地上を食べ尽くし、身動きできぬ巨体となった。
それでも満足できぬ神は、人間を作って食べ物を集めさせた。
しかし人間は神の命令に背き、自分勝手に暮らし始めた。

次に神は、精霊を作って食べ物を集めさせた。
精霊は神のために働いた。
自然と水を守り、育て、美しい世界を作った。
悪食の神は、世界の美しさに心を打たれ、食べるのをやめた。
神は精霊に世界を明け渡し、動けなくなった巨体を大陸に変えた。

こうして世界は精霊のものとなった。

 ガキの頃からずっと聞かされてきた、忌々しい神話を刻んだプレートが、目の前の壁に掛かってる。
 俺はそこから視線を外して、賑やかな酒場のホールを見渡し、それから入り口を見て、待ち人がいまだ来たらぬ苛立ちと焦りを、酒をあおって誤魔化した。
 遺跡近くの宿屋も兼ねたこの酒場は、今日も昼間っから一攫千金を夢見る冒険家たちでごった返していた。
 俺の一杯目のグラスはカラになろうとしている。二杯目を頼めば手持ちの金はいよいよ底に届く。
 だが、かまうものか。今回の仕事を首尾良く終わらせれば、結構な報酬が貰える。学問も腕っぷしも魔法もロクに使えない人間にしてみれば、かなりの金を。
 俺は片手を上げて給仕を呼び止めた。
 白い毛に覆われた長い耳をぴょこんと立て、エイミという名のウサギ少女がトレイを持って近づいてきた。

「もう一杯、ブカレン酒をくれ」
「えー、アシュオウさん、大丈夫なんですか?」

 エイミは意外そうな顔で唇をとがらせ、小さな鼻をひくりとさせた。
 長い耳と、スカートの下に隠れてるらしい丸いしっぽ以外、人間の子供と見た目は全く変わらないのだが、こういう仕草は本物のウサギを連想させる。

「大丈夫って、何がだい?」

 努めて優しくおとなしく問い返す俺に、エイミは遠慮なく厳しい言葉を投げかけた。

「だってアシュオウさん、いっつもお金持ってないじゃないですか。もうアシュオウさんにツケはダメだってママに言われてるんです」

 俺はカウンターで客の相手をしている、派手で長い髪をした女を睨みつけた。
 黒のドレスから覗く白い胸元も、ドレスの背中に切り目を入れて見せつけているカラフルで大きな羽根しっぽも、まるで男の気を惹くために生まれてきたような酒場の女主人。
 キリーという名のその女は、俺のような貧乏人間には、当然の如く一片の愛想も見せてくれたことはない。

「…大丈夫なんだよ。これから仕事の相手がここに来る。でっかい仕事なんだ。当分金の心配はいらなくなるんだよ」

 エイミはじっとりした目で俺を見ている。俺の言葉の裏を探るように。
 本当の話だ。今日の俺には仕事の当てがある。久しぶりに大きな仕事だ。上機嫌にだってなる。
 だけどエイミは、おとなしそうな顔を事務的に固くして、おずおずと俺に片手を差し出した。

「前金でいいですか?」

 カッと頭に血の上った俺は、ポケットの小銭をかき集めると、乱暴にテーブルの上に叩きつけた。店内が一瞬、静まりかえる。
「……ごめんなさい。少々お待ち下さい」と、エイミはビクビクしながらカウンターに注文を届けに行く。
 静まりかえった店内にも、すぐににぎやかな喧噪が戻ってくる。
 好きこのんで俺なんかに絡んでくるヤツもいない。ちらほらと人間を揶揄する冷笑が聞こえるが、そんなのは慣れっこだ。

「ッ!」

 そのとき、頬にツンと痛みを感じた。
 見上げると俺の横を通り過ぎた別の給仕が、ネコ科の耳と大きな目を釣り上げて、俺に向かって舌を出していた。

「エイミをいじめたらボクが許さないぞ、ニンゲン野郎」

 頬についた2本のキズから血が垂れる。
 あいつはミミ。エイミと同じ給仕だが、ネコだから気性が荒い。ショートヘアの中性的なタイプだが、エイミとは仲が良いらしい。短いスカートの上から長いしっぽを揺らし、エイミに何やら耳打ちして、こっちを見て2人でクスクス笑ってる。
 耳としっぽさえなければ、俺とアイツらはなんら変わりはしない。だが、『人間』は彼女たち『精霊』に逆らってはいけない。

 なぜなら、世界は彼らのものだから。

 ざっと店内を見渡しだけでも、ここにいる人間は俺だけだ。あとは角が生えていたり、頭の上に耳が付いてたり、顔に縞模様のある精霊の連中ばっかりだ。
 表向きは分け隔てない公平な関係という態度をとりながらも、精霊は我がもの顔で街を歩き回り、人間は人間の集落の中でひっそりと暮らしてろっていう、暗黙の決まり事が世の中を支配していた。そんな街に暮らす物好きな俺が、今さら不満を漏らしても仕方ないことだが。
 第一、彼らに逆らっても、俺なんかが勝てるわけがない。
 人間は、彼ら精霊のように魔法を上手に使えない。それどころか能力全般に劣る。そして何より、彼らのように美しくない。
 醜い者など彼らの中にはいなかった。誰も彼もが美しく整った容姿をしている。人間なら30年もすれば顔にシワもできるっていうのに、彼らは80年生きていようが人間の20代程度にしか見えない。そしてそのまま老いることもなく100年以上も生きやがる。
 魔法も文明も社会も築いたのも彼らだ。劣等種族の人間は彼らの温情にすがって、おこぼれで生活させてもらってるにすぎない。
 そんな世の中で、俺みたいに街で暮らす人間は珍しい。毎日のように侮蔑的な視線や態度を向けられ、それでも村に帰らずにいるのは、俺が人間の集落でも爪弾きにされた厄介者だからだ。

 俺は自称、発明家だ。

 魔法も下手くそで学問もない俺だが、夢とアイディアだけは売るほど持っている。
 例えば俺ような無力な人間でも、そのわずかな力を補助し、引き延ばす仕掛けがあったとしたら、どうだ?
 生物としての能力に限界があるのなら、違う方法で乗り越えればいい。精霊のように魔法を使い、精霊のように美しくなり、精霊のように強い力を人間が持つための道具。そんなものがあれば、今よりもずっと人間の暮らしやすい世の中になる。
 なのに頭の固い連中は理解してくれない。そんなのは世界の理に反するって、俺のことを悪魔扱いしやがった。脳みその腐った意気地なしどもめ。
 俺は悪魔じゃない。天才だ。
 最底辺で暮らす人間の中から飛び抜ける、最初の1人になるんだ。
 16のときに村を飛び出して7年。俺はずっと精霊の街で生きてきた。どんなに蔑まれようが、俺は絶対に自分の夢をあきらめない。
 この美しい連中を見ろ。こいつらは豊かに暮らし、老いを知らず、人生を心ゆくまで楽しんでいる。
 俺も絶対にそうなる。生まれた種族が違うからって、つまんねえ人生送ってたまるか。

「ほらよ」

 ミミが乱暴に俺のテーブルに酒を置いていった。俺は舌打ちしながら、しっぽの揺れるその小さな尻と細く健康的な足を視姦する。
 生意気なガキども。なのにその体は瑞々しく輝き、独り身の俺の目を眩ませていた。
 エイミの気弱そうに垂れる長い耳とクリっとした上目遣い。ミミの強気な瞳と健康的な肢体。口の中によだれが浮かんだ。 

 人間の男なら、誰でも一度は精霊の女を抱くことを夢見る。
 女なら、遊びでもいいから彼らの誰かに抱かれたいと恋焦がれる。

 とりあえずは金だ。
 人間ではロクな仕事にありつけない。でも金さえあれば精霊の街でも幅を利かせて歩くことができる。
 それに、エイミやミミのように、精霊の中でも貧しい育ちをしてきたヤツらなら、金次第ではモノにできるかもしれない。
 ありえない妄想だが、それが俺の生きる気力となっていた。動物に似たアイツらを四つんばいにさせて、獣のように犯す。そんな愉快な夢想に口元を歪ませたとき、入り口の扉が開いて、一瞬、店内が明るくなった。

 そして時間が止まった。

 信じられないものを見た。入ってきたのは、2人の精霊だ。美しい女たちだ。
 薄暗い店内がまぶしく感じられるのは、外の光が入ってきたせいじゃない。この女たちのせいだ。
 美しさを誇る数多の精霊たちも、彼女たちの前では霞む。1人は金糸のように流れる髪。もう1人は波立つ海のような青い髪。どちらも美しく白い肌を惜しげもなく短いスカートから覗かせている。
 宝石のような大きな瞳が店内を見渡す。誰もが息を呑んで彼女たちの一挙手一投足を見守る。
 遠慮なくフロアを通り過ぎる彼女たちが、俺ごときに視線を向けることもない。それでも十分だった。キズどころか産毛一筋ほどの余計なものがない横顔。ピンと凛々しく尖った耳。ふわりと芳香をまとう完璧な仕草。精霊なんて見慣れたはずの俺ですら、あらためて自分の醜さに絶望した。この2人の美しさは圧倒的だ。
 俺にはこの感動を上手く言い表す語彙もない。ここまで美しい生き物を創造した神の才能に嫉妬する。今日、彼女たちをこんな間近で見たことを、俺は一生の自慢にするに違いない。
 店内の空気が止まる中、エイミがようやく自分の仕事を思い出して、絞り出すように彼女たちに声をかけた。

「い、いいいらっしゃいませ……エ、エルフさま……」

 精霊の中の精霊―――エルフ。

 金色の髪をしたエルフが、ふわりと髪をなびかせて、エイミに向かって唇を上げて微笑んでみせた。それだけでエイミと俺たちの顔は真っ赤になり、感嘆のため息が店内に響いた。
 誰もがその笑顔の美しさに夢見心地の虜となる。薄汚い酒場が、花香る草原のような爽やかな風に包まれる。

「ね、アシュオウって誰?」

 そして彼女が、小鳥のようなその声で聞き覚えのある名前を奏でたとき、男たちは揃って飲みかけの酒を口から噴射し、俺は椅子ごと床にひっくり返って後頭部を強打して、そのまま軽く気絶してしまった。

****

 人間と2人のエルフが座るテーブルを、酒場の物好きな連中が遠巻きに覗いてる。
 男たちは魂を抜かれたように。女たちはそれに羨望を混ぜた視線で。
 店主のキリーだけが、嫉妬と恨みを込めて2人のエルフを睨んでいた。さっきまではあれほど色っぽく美しく見えたキリーも、エルフの2人と見比べてしまうと、派手さがわざとらしくて鼻につく女だった。エイミやミミに至っては、ただのガキ臭い小娘だった。
 おかしなものだ。人間と同じように、精霊にも“相応しい居場所”ってのがあるんだな。
 俺がずっと羨ましく思っていたここの精霊どもの美しさですら、今は泥臭くて野暮ったく見えてくる。
 このエルフたちは、こんなド田舎の掃溜めみたいな酒場にいるべき女じゃない。俺たちにはまぶしすぎる。俺はこの2人の前で顔すら上げられない。

「あいつ、雇ったのがニンゲンだなんて言ってなかったじゃない」

 金髪は露骨に俺に対する不平を口にした。青髪が「ねー?」なんて同調して首を傾げる。そんな少女らしい仕草すら畏れ多く、恐縮してしまう。

 本当に、どうしてこんなことになってしまったのか。

 キツネの耳とシッポを持つ、ヌキチっていう名の仲介人が回してくれた仕事だった。
 森の遺跡の一番近くにあるこの街では、遺跡探索がらみの日雇い仕事が多く入ってくる。俺もこっちにきてからはずっとそれで食いつないできたが、ほとんどは荷物運びかモンスターの死体処理なんかの、汚れ仕事専門だ。
 だが、時々だけど割のいい仕事が回ってくる。
 それが『発掘屋』の仕事だった。
 遺跡ってのは、ようするに古代の人間が住んでいた集落跡のことを言う。
 人間を無条件で嫌う彼らは、大昔の人間集落跡にも近寄ることなく朽ちるまま放置してきた。そして、風化して完全に森に埋没した今頃になって、そこを開拓や研究のために探索するようになった。
 遺跡の中には当然、太古の人間が使っていた土器や鉄器が眠っている。そして彼らの衣装やアクセサリーの一部には、貴重な宝石も使われていることもある。
 今でも十分に価値あるものだ。
 だが、精霊は人間だけではなく、人間が作った道具も同様に嫌う。むしろ人間そのものよりも嫌う傾向にある。
 遺跡から出てくる遺物だって、俺のような人間から見ればただの原始的な器や狩りの道具にすぎないのに、まるで動物の死骸か排泄物のように触れることすら毛嫌いする。中には発疹を起こしてしまう者もいるらしい。
 それに触れられるように訓練された精霊は発掘屋と呼ばれ、探索の場では重宝される。だが嫌われる仕事なのは変わりない。発掘屋はいつでも人手不足だった。
 だからヌキチも時々は俺にも発掘屋の仕事を回してくれる。俺にありつける最高に報酬のいい仕事だった。しかし順位は最下位だから、俺の雇い主になったこのエルフたちは、よほどツイてなかったということだ。
 そして、ヌキチもまさか依頼主がエルフだとは思いもしなかったから、俺が人間だってことも言い出せなかったに違いない。

「さいあくー」

 不機嫌を隠すことなく金色の髪を指で弄ぶエルフに、俺は萎縮するだけだった。

「でも、もう仕方ないよ。再来週までにレポート出さないと夏休みナシだよ?」
「わかってるよぅ」

 そして彼女たちの話はこうだった。
 自分たちの通う高等学校(大都市には必ずある、精霊のための教育施設だ)の課題で、遺跡についてレポートしなければならない。できればみんなの嫌がる原人(遺跡時代の人間のことらしい)の泥くれ道具の1つでも研究してこいと教授に言われた。そうすれば単位のことはなんとかしてくれるそうだ(よくわからないが、彼女たちはあまり良い子弟ではないかもしれない)
 だから学校を通じて、ここの遺跡の案内役兼発掘屋を手配した。そして4日もかけてこんなド田舎まで出張して、わざわざ指定された小汚い酒場まで来てみたら、紹介されたのが人間なんかで「さいあくー」ということだった。
 田舎育ちの俺にはよく理解できない部分もあるが、なんとなく事情はわかった。
 世界には7つの国があり、それぞれの首都がある。大きな森を中心に発展した、たくさんの精霊がすむ都会で、エルフはそこにしか住んでいない。
 俺のような人間が近づくこともない大都市だが、そこでは希少なエルフが権力のほとんどを掌握し、世界を管理しているらしい。
 エルフの仕事は世界を健全に保つことだ。高い学問を身につけ、魔法を鍛え、時には武器を持って戦うことも辞さない世界の調定者が、今、俺の前にいるエルフの一族。そのエルフの子供として、彼女たちもいろいろと果たさなければならない義務もあるのだろう。この探索もその一環ということか。
 とにかく、俺には荷が重いかもしれないが、報酬は桁違いに多い仕事だ。せいぜいエルフ様の機嫌を損ねないようにやっていくしかない。

「やっぱり報酬少なかったせいかな? 1日50ギルだもんね」
「え、それだけ? 子どもの小遣いじゃん。それじゃこんなのしか来ないよー」
「だって、そのくらいが相場だって教授が言ってたもん」

 ちなみに、俺なら50ギルあれば半年は余裕で生活していける。
 実際の相場の10倍はあろうか。都会の連中の経済感覚はどうなってるんだ。とにかく、絶対にこの仕事を手放すもんか。

「あの、俺、人間ですけど、おふたりには迷惑かけませんから、よろしくお願いします!」

「ねえねえ。それよりさっきのウサちゃん、可愛くなかった?」
「連れてって飼っちゃう?」
「やぁだ」

 俺をすっかり蚊帳の外に置いて楽しそうにするエルフの2人。それでも俺には、彼女たちの美しさが、目に痛いほどまぶしかった。

****

 金色の髪がウィルネ。
 青色の髪がニーナ。

 ウィルネは美しくまっすぐな髪と、秘宝石のような緑の目が印象的で、強気そうな遠慮のないしゃべり方をする。
 ニーナはふわふわした髪と朝焼けのように紅い瞳。ウィルネよりも優しそうな顔立ちで胸が大きい。
 そして2人とも、ふとももや胸元も露わな布地の少ない服装だった。
 本物のエルフを見たのなんて、前に一度だけ探索隊を率いてやってきた男のエルフを遠くから眺めた以来だったが、そのとき聞いた話では、彼らは精霊の中でも際だった自然主義者で、服だって肌を最低限隠す程度のものしかない着ないという話だった。
 彼女たちに会って、共に森を歩き回り、それが本当らしいということを知った。
 道なき土地を歩き回る仕事だというのに、彼女たちはその健康的で白い足や腕を惜しげもなく晒している。人間のように日焼けをしない精霊の肌は、薄暗い森の下でも白く輝いて見えた。
 万能の種族だけあって、森歩きも達者すぎるほどだった。俺の前をひょいひょい飛び回る様子は、初めての森でも苦にしていないようで、そのたびに短いスカートから、これまた小さな下着に包まれた尻がチラチラと見えてしまって、目のやり場に困った。
 俺のことを男と意識していないのか、ウィルネが俺の目の前でブーツの紐を直したときなど、本日2度目の卒倒をしそうになったくらいだ。
 自然と俺の歩みは遅くなる。彼女たちの尻を拝んでいたいっていうのも当然あるが、それ以上に俺の股間もやばい状態だ。

「ちょっと、ニンゲンー。案内役のくせに、トロトロしないでよね」
「え、あ、すみません!」

 そもそも身体能力の違う精霊に、ましてやエルフ様に、重い荷物を背負ったただの人間が追いつけるはずがない。
 こんなとき、荷物運搬用の自動荷車とか、脚力を補助する靴なんかがあればいいのに。
 俺の頭脳と能力を使えば、それが作れるはずだ。アイディアはある。動力も考えてある。あとは必要な材料と技術を手に入れる金だ。
 もう少しの辛抱なんだ。

「ねえ、ニンゲン」

 汗をかきながら必死で2人を追いかける俺の前で、ウィルネがクスクス笑いながら振り向いていた。
 ニーナが「やめなよ」と、これも同じように俺を笑いながらウィルネの肩を叩く。ウィルネは、俺を見下すように目を細める。

「ニンゲンって、動物の肉を食べるって本当?」

 花が咲いたような笑い声が森に木魂する。俺の顔が熱くなる。
 足元がグラグラしたが、なるたけ平静を装って唾を飲んだ。声が震えないように気をつけながら、不細工な愛想笑いを浮かべた。

「……そんなの、大昔の話ですよ。今の人間は精霊と同じものしか食べません」
「なーんだ、そうなの?」

 ウィルネは拍子抜けした顔をした。ニーナは肩をすくめて笑った。2人で顔を見合わせて、さっさと先へ進んでいく。

 嘘をついた。

 魔法下手の人間は、精霊と違って今も家畜を使って生活している。そして貧しい集落では、いまだにひっそりと死んだ家畜の肉を食べる風習が続いている。
 俺の生まれた村がそうだ。
 人間の集落でも、とりわけ貧しい村だった。腹を膨らませるためには仕方なかったとはいえ、よその村の人間にまで蔑まれる習わしだった。
 肉食いは、精霊が人間をバカにするときの常套句だから。

「ニンゲンー。ここからどこ行けばいいの?」
「……西へ向かうと、以前別のエルフの捜索隊が見つけた集落跡がありますので…」
「あ、そう」

 怒りと恥辱と惨めな過去を思い出し、涙がこぼれそうになった。
 でもそれをやったら、たぶん俺は立ち直れなくなる。
 彼女たちは、きっと俺の涙だって笑うに違いないから。

****

「ここ?」
「はい、一昨年発見されたものです。この森では一番新しい遺跡になります」

 2~30戸程度の集落だと思われる。小さな住居の跡は森に消されてわかりづらいが、祭壇と呼ばれる石を組んだ塔がほぼそのまま残っているし、あちこちに掘り起こされた矢じり石や土器の欠片を見つけることもできる。原始人間が生活していた証拠だ。

「ふーん」
 ウィルネとニーナが興味なさそうに周囲を見渡す。
「……で?」
「はい?」
 いきなり疑問符を投げつけられて、俺は間抜けな声を出した。
「宝石はどこ?」

 イライラしたようなウィルネの態度に、俺は返事に詰まる。
 ちょっと困ったことになりそうだ。金持ちで、プライドが高く、そして世間知らずなエルフ様相手に常識を教えるなんて、たかが人間には荷が重すぎる。

「あの、おそらくここに宝石は残ってません」
「なんで!?」
「遺跡が見つかれば真っ先に宝石が採られますから、この程度の遺跡なら半月ほどで掘り尽くされます。ここに残っているのは原始人間の生活品くらいでして」
「えぇー!?」
「本当に?」
「あの、でもお二人の学究の資料には、十分なものがあると思いますが……」

 彼女たちは原始人間の生活を調べに来たと言っていた。余計な宝石探索まで始めたら、それこそいつ帰れるかわからない。
 ここから宝石が出てくる望みは薄いし、手つかずの遺跡なんて数年に一度見つかるかどうかだ。
 目を合わせず、できるだけ彼女たちのプライドに触れないように忠告したつもりなのに、やはり自分たちの無知を言い当てられたと思ったのか、ウィルネの表情が変わる。

「わざわざこんなところまで来てやったのに、ただの土くれ道具見て帰れっての? 私たちは未発見の遺跡を探しに来たの! さっさと案内しなさい!」

 …未発見の遺跡に案内って、どういう仕事だよ。 

****

「ウィルー。暗くなってきたよー」
「全部このニンゲンのせいよ、ニンゲン!」

 八つ当たりはまだ収まりそうもなかった。あれから数時間。俺たちはあてどもなく森を彷徨っている。
 見つかるわけがないんだ。このあたりの森はすでに何度も調査隊が入ってるし、俺たちは探索については全員素人だ。あてずっぽうに穴掘って当たるようなもんじゃない。
 でも、考えてもみれば悪いことばかりじゃない。
 なにしろ日当はとんでもなく高額だ。プライドと金だけはいくらでも持ってる彼女たちが、まさか払い渋るなんてことはないだろう。1日で終わらせるのはもったいない仕事だ。
 それに、なんだかんだ言っても、彼女たちの容姿には惹きつけられる。エルフの女2人のお供ができるなんて、おそらく一生でこれが最後だ。性格は最悪でも、その綺麗な顔と体だけは、しっかりと目に焼き付けておきたい。見た目だけは極上の女たちじゃないか。
 
「灯りつけよっか」
「うん」

 ウィルネとニーナが細い枝をバッグから取り出した。2人がその枝を風を捕まえるように数回振ると、ぼう、と淡い光が枝を包んで夜の森を照らしてた。

 これが魔法。
 精霊が神より授かり、文明をもたらした技術。

 大気中には、エーテルという粒子が様々な性質を含んで存在している。それは全ての物質を形作る最初の一粒であり、宇宙の素でもある。
 魔法とは、そのエーテルを任意に抽出し、法則に従って構築し、現象を発現させることだ。全ての文化と学問の基礎ともなっている。
 不器用な人間は、なかなかこれを使いこなせない。それがまた精霊にバカにされる理由にもなっている。
 ウィルネとニーナは俺の方をちらりと見た。魔法もロクに使えない人間くんは、この暗闇でどうするのかしらって顔で。
 しかし俺は内心でほくそ笑んでいた。彼女たちを見返してやる良い機会だ。

「あの、俺、すごいの持ってるんです」

 バッグから、硝子のビンを取り出した。
 まさか硝子なんて貴重品を俺が持ってるとは思わなかったらしく、2人は意外そうな顔をする。
 こいつら、きっとこれを見て驚くに違いない。これが俺の発明品だ。
 硝子のビンに両端を銅で結んだ炭を突っ込んで密閉する。出来る限り空気を抜いておくのがコツだ。そしてビンから銅の先端を突き出させておく。仕組みは簡単なんだ。

「見ててください」

 人間は魔法がド下手だが、体質が合うらしく雷系の魔法だけは他に比べてマシに扱うことができる。もちろん精霊のように遠くに飛ばしたり、モンスターを焼き切るなんて強力なことはできない。せいぜい触れて痺れさせることで家畜を従わせる程度だ。
 でも、それで十分なんだ。
 俺は雷系の魔法を動力として応用することを考えついた。それを人間の使う道具の力源にする。俺は特訓して、安定した微弱な雷を長時間発生させる技を身につけた。今では半日だって楽に雷を出し続けられる。
 これを利用した発明はたくさん思いついた。だが使える材料はどれも高価だった。金を貯めて、とりあえず作り上げた試作品第1号がこれ。
 俺は手のひらから銅の部分に雷を流す。強すぎてはダメだ。弱くてもダメだ。安定していることが大事。そうすれば、ほら―――。

「え……?」

 エルフたちが目を丸くする。
 俺の手にした硝子のビンの中で、炭が反応して光り出した。それは彼女たちが魔法で点した灯りよりも強い光で森を照らす。
 これが俺の発明。微弱な魔法を使った雷光装置。これさえあればどんな夜道も恐れることはない。普通の魔法よりも、もっと強力な光で闇を照らすことができる。
 俺は誇らしげにエルフのお嬢さんたちを見渡した。だが、彼女たちの表情はみるみるうちに強ばっていく。
 どうした? 驚かせすぎたか?
 俺は雷光装置がよく見えるように彼女たちに近づいた。だが、その途端に顔色を変えたウィルネが怒鳴った。

「ちょっと! 何してんのよ!」

 ウィルネの腰に下がっていたムチが一閃した。目にも止まらない速さで俺の手の上を掠める。
 肌を裂くような風圧。破砕音。
 俺は驚いて尻もちをついた。そして、砕け散った雷光装置の無惨な姿を見て、唖然とした。

「そんな忌々しい道具、私たちに見せないでよ! 気持ち悪い!」
「やだもう、こっち来ないで!」

 嫌悪に満ちた彼女たちのきつい言葉がぶつけられる。だが俺は、それ以上にショックで身動きも忘れる。息をするのも忘れる。 
 確かにこれは精霊にとって忌々しい人間の作った道具なのかもしれない。
 でも、これはそんじょそこらにある農耕具や猟具なんかじゃない。世界でたった1つしかない、俺の作った奇跡だったんだ。人間の希望の光だったんだ。
 それが……あっというまに、粉々だ。

「あー、寒気した。気分悪い」
「もうやだ、ウィル。ニンゲン、気持ち悪いよぉ」
「バカっ、死ね!」
「……すみません…でした……」

 理不尽な仕打ちに、こめかみが焼き切れそうになる。
 どうして、人間ばかりが嫌われる。精霊たちは、どうして人間の工夫を嫌う。
 あれを作るのに3年かかった。
 寝ないでアイディアを練った。材料を揃えるために必死で働いた。精霊の職人にも足元を見られ、それでも頭を下げまくって、ようやく出来上がった試作品第1号。
 その栄えある最初の成果は、エルフ様のご機嫌をとことん損ねただけだった。
 魔法の灯枝の淡い光を振り回し、ウィルネとニーナはさっさと先へ行く。俺は彼女たちの後ろをついて行きながら、砕け散った硝子が暗闇に置いてけぼりにされていくのを、見送るしかなかった。

****

「野宿しまーす」
「えー」
「しょうがないじゃん。そこのニンゲンがちゃんと案内しないんだもん」
「……すみません」

 俺たちはあてどなく彷徨い、森は完全に夜に包まれ、引き返すには遠すぎるほど森の奥にまで入り込んでしまった。
 早く帰りたい。
 あれほど期待に満ちていたエルフたちとの探索も、今は苦痛でしかなかった。せっかくの発明品を粉々にされた衝撃はまだ尾を引きずっている。当分立ち直れそうもなかった。わがままで気分屋な彼女たちに振り回され、俺は身も心も疲弊していた。
 それでもなお、彼女たちの人間差別は止まらない。このぶんでは、約束通りの報酬も貰えるかどうかも怪しくなってくる。

「ニンゲン、あんたは向こうで見張りに立ってなさい」
「え?」
「こんなところでモンスターでも出たらどうする気よ? 私たちが休んでる間に襲われないよう、あんたは向こうで見張りに立ってなさいよ」
「で、でも」
「ウィルー。ここなら寝れそうよ」
「うん、一緒に寝よー」
「やーん」

 窪地になった柔らかそうな草地に、い草を編んだ敷物を広げて、2人は抱き合うように横になる。魔法で点けた焚き火に照らされた白い太ももが絡み合う。

「何見てんのよ。あんたはあっち」

 人の背を超えるほどの大きな倒木に隔てられた暗闇を、ウィルネが指さす。そのウィルネの頬にニーナが唇を押し当てて、チュッと濡れた音を立てる。

「もう、待ってニーナ。ニンゲン、早くあっち行ってよ」
「は、はい」

 俺は慌てて倒木を乗り越えた。
 見張りをしてろって?
 俺だってヘトヘトだ。重い荷物を持って、人間の足でエルフの森歩きに付き合わされて、もう体力も限界もだというのに、夜の見張りまでやれって? お前らこそが、わがままモンスターだろうが。
 目の前には、暗闇の森が広がっている。
 夜目の利かない頼りない人間の身に、見えないモンスターの恐怖がのしかかる。もしも本当にモンスターなんかが現われれば、俺なんて叫び声を上げる前に殺されるだろう。

「あん……ニーナ、お返しよ。ちゅ、ちゅ」
「やぁん。もう、ウィル、くすぐったいよぉ」
「ん…ちゅぷ…うん……」
「あん…ウィル…ちゅ、くちゅ、ちゅ……」

 だが、耳をすませば、そんな恐怖も忘れるような艶めかしい声が後ろから聞こえてくる。

「ニーナ。胸、触るね」
「うん、いいよ…あん、ふわ、あん、んんっ……」
「柔らかい……気持ちいい、ニーナ?」
「あん、いいよ。もっと、強くしても……あんっ、ん、んん……」

 間違いない。
 あの2人、抱き合ってる。

 精霊というのは人間よりも青年期がはるかに長く、そのぶん性欲も強い。特に女性は。
 だが厳格で規律を重んじる精霊たちの間では、婚前交渉などはタブーだ。人間と違って、彼らの間には男女の交際があっても、独身のうちに性行為を楽しむことはないらしい。
 もちろんそれぞれの環境や育ちにもよるだろうが、都に住むエルフなら、当然その厳格な傾向も強いはずだ。
 だから若い女性の間では、同性愛的な行為が結構行われているという話だった。友情の延長で、互いの欲求を慰め合うそうだ。
 例えばあの酒場の女給の中では、エイミとミミは怪しいと俺は睨んでいる。もっとも俺には仲の良さそうな若い女性精霊たちは、みんなそういう風に見えているが。
 このエルフの少女たちも、やはりそうなのか。
 想像はしてても、衝撃的だった。人間が触れてはいけない世界が、俺のすぐ背後にある。

「ねえ、ウィル。待って。ニンゲンさんに声聞かれちゃうよぉ」
「ほっときなさいよ、どうせニンゲンなんだから。もしもニーナのおっぱい覗いたりしたら、私のムチであいつの首を縛り付けてやるから」
「ふふっ、ウィルたら。あん、もう」

 誰が覗くか。お前らみたいなガキなんかに、この俺が。
 なんて強がりながらも、体は正直に反応していく。
 16のとき、村を出る直前に幼なじみを犯すように抱いて以来、女には触れたことなかった。
 汚れを知らないあの白い肌が絡み合い、美しい少女たちの顔が性の悦びに染まっていくところを想像すると、それだけで射精してしまいそうなほどの興奮を覚える。俺の股間はむくむくと膨らんでいく。

「あん、あっ、はぁ…」
「ふふっ、ニーナの乳首ちゃん、コリコリして可愛い」
「やぁ、ウィル…あぁ、ウィルぅ……」

 衣擦れと、荒くなっていく呼吸。耳を蕩かす喘ぎ声。俺のことなんて忘れて、すぐそばで性の遊戯に夢中になっていくエルフたち。

「くそッ。バカにしやがって!」

 屈辱。怒り。いろんな感情が俺の中で渦巻き、全てが性欲のたぎりになっていく。気がつけば俺は自分の股間を握りしめていた。そこはもう爆発しそうになっていた。

「くそ…、くそッ」

 エルフたちの嬌声を背に、激しく陰茎を擦る。
 彼女たちの痴態の想像しながら、耳は敏感に彼女たちの甘い声を拾う。沸騰する怒りと快感。俺は自慰に夢中になっていた。

「きゃあッ!?」
「えっ、何っ!? やだ、なによコレ!?」

 いきなり、彼女たちが悲鳴を上げる。
 慌てて俺は股間を隠す。

「モンスター!」

 背後の暗闇からだった。倒木をよじ登る。そこに無数の気配を感じて怖気立つ。木の上にいくつもの目が光っていた。子供よりも小さく丸まった体が、彼女たちの悲鳴に反応して、一斉に威嚇行動を始めた。

 ―――ゴブリンザル。

 群れで行動する夜行性の小型生物で、ナワバリ意識が強く攻撃的で、モンスター種に指定された生き物だ。猿と名前が付いているが、動物種とはまったく異なる。
 爛々と光る赤い目と長い牙が、たんなるケモノとの違いをことさら主張しているようだった。

「このォ!」

 ウィルネのムチが、風切り音を立てて地を叩く。ニーナが引き絞る弓の先端で、矢じりが魔法を帯びて青く光る。
 さすが、エルフだけあって戦闘態勢に移るのも速い。武器を持たない俺は、倒木の上から滑り落ちるように2人の後ろに尻もちで着地する。大きな石に腰を打ちつけ、思わず大きな声を出してしまう。

「ニンゲン、邪魔しないでよ」
「そこで大人しくしててね」

 さすがに「盾になれ」なんて無茶は仰らないようだ。ありがたく俺は2人の背後に縮こまる。夜のゴブリンザルに出会うのは俺も初めてだ。ましてや群れでかかってこられては、ただの人間風情に太刀打ちできるはずもない。
 ウィルネのムチが唸る。風も切るような速度でサルの皮膚を引き裂いていく。ニーナは数本の矢を一度につがえ、蒼い魔法を矢じりに乗せて放っては、何匹ものサルを貫いていく。
 ただの生意気なガキと思っていた少女たちは、とんでもない戦闘力を発揮して、群れなす凶暴なモンスターを、みるみる片付けていった。
 他の精霊や人間との力量差を見せつけられ、俺は愕然とする。これがエルフか。夜に出会えば死を覚悟しろとも言われるゴブリンザルの群れなのに、もう戦闘の体にもなってない。まるでダンスでも踊るみたいに、優雅で艶やかな虐殺だ。俺はモンスターを恐れる気持ちも忘れて2人の舞に目を奪われる。
 すっかり数の減ったゴブリンザルを弄ぶように、ウィルネがくるりとムチを回して、地面に叩きつける。ひらりと風に舞うスカート。小さな下着に包まれた尻には、まだうら若い女の未成熟さと張りがある。
 ニーナの豊満な胸が、矢を放つたびにぷるんと揺れる。弓を扱うには邪魔になるんじゃないかと思うほど、大きくて柔らかそうな胸が弦に寄せられて形を変える。放って揺れ、男心を刺激する。
 さっきまで、この2人は抱き合って互いを慰めていたんだ。覗いておけば良かったな、と後悔した。

「はい、これでおしまい」

 ウィルネの軽い手首のしなりで、最後の一匹が天に舞い上がり、高い枝に叩きつけられる。
 気がつけば、そこは血とケモノの匂いのする惨劇の場となっていた。

「やれやれ、場所変えないとね」
「ねー。ふふっ、いいところだったのに、残念」
「やだニーナったら。うふふ」

 体を寄せ合ってじゃれる2人を見ながら、俺はふと、前に探索に同行した連中が言っていたことを思い出した。
 遺跡にはモンスターが集まる。
 どういう因果関係があるかは知らないが、モンスターが多く出現する場所ではよく遺跡が見つかるらしい。遺跡の探索隊とモンスターの討伐隊は、ほぼ同義だ。
 俺は発掘を手伝ったことはあっても、探索の経験はない。だからこれはただの勘だ。でもこの巨大な倒木や尖った石の多さ。なんだか、ここらの地形は、他とちょっと違わないか?
 この辺一帯の土地がえぐれたように低くなっている。夜だから気づかなかったが、すり鉢のような地形をしてる。伸びている木も、周りと比べれば細い気がする。
 まるで大きな魔法が炸裂したか、あるいは、流れ星が空から落ちてきた跡みたいに。
 通常の遺跡なら、平地に石積みの祭壇が近くあるからすぐわかる。でも、もし何かの天変地異でここら一帯が破壊され、それから再び森に飲まれたとしたら、こんな姿にならないだろうか。

「ニンゲン、何してんのよ。さっさと行くよ」
「待って下さい。ひょっとして、ここは……」

 俺は棒きれを拾って、地面を突いた。柔らかい草地は簡単にえぐれる。俺はあちこちを掘り起こした。

「ひょっとして、ここは遺跡かもしれません。この地形は少し変です」
「え、本当?」
「やった。私たち、新発見だよ、ウィル!」
「ウソだったら承知しないからね!」
「魔法で掘ってください! この窪んだ土地の中心を!」
「わかってるわよ!」

 ウィルネが手のひらで菱形を作って、そこに息を吹きかけた。目映い光がそこに灯る。美しく煌めく魔法の光。真っ暗な森に星が降りたみたいだ。ウィルネの周りに光が瞬き、次々にその手の大きな光に集まっていく。小さな流星をかき集めるようにして、ウィルネの手の中で光が大きくなっていく。

「いくよ!」

 光が発射される。爆風と一緒に地面が飛び散る。
 というより、強すぎる。
 俺まで吹っ飛んだ。殺す気か。遺跡ごと吹っ飛んだらどうするつもりなんだ、このアマ。

「どう? なんか出た?」

 半分地面に埋まった俺に、ウィルネは子リスのように可愛く小首を傾げてみせる。

「…見てみます」

 どうせ何を言っても無駄だろうから、俺は発掘作業を続行する。ウィルネの魔法の残滓があちこちで光っている。それがまた別の石に反射して、俺に宝の在処を教えてくれていた。
 そこを掘る。案の定、不自然な形の石がザクザク出てくる。精霊の学者あたりに見せれば正確な世代を弾き出してくれるだろうが、俺の素人見立てでもわかるくらいの年代モノだ。じつに滑らかな金属片だ。

 古代人遺跡は、年代が進むにつれて金属時代から石器へと技術的に退化していく傾向があった。
 これは人間文化の衰退を現わすとともに、精霊の魔法文化に同化していく推移を現わしている。これ以降、時代が新しくなるにつれて、精霊と同じように土に還りやすい木製の道具を使用するようになり、遺跡は減っていくんだ。
 発見される遺跡の多くは、その石から木への転換期のもの。しかしこれくらい繊細に加工された破片が出てくるということは、それ以前の、まだ金属文化の熟成していた時代の遺跡ということだ。この滑らかな板はおそらく、戦闘用の盾として使われていたものだろう。

「すごい……これは、大発見だ!」
「本当に? ねえ、それ何?」
「おそらく古代人の盾の一部です。見て下さい。表面がすごく滑らかでしょう? まだ人間が高度な加工技術を持っていた頃のものです!」

 興奮した俺が金属器を差し出すと、エルフたちは悲鳴を上げて退く。そういや、こいつらこういうのが嫌いなんだった。

「そんなのいいから、宝石は? 早く出して!」

 せっかくの発見も、お嬢様たちにしてみれば石ころ以下らしい。少しがっかりだが、精霊にしてみればそんなものだろう。俺は、かつて人間が持っていた優れた技術を発見した喜びで、飛び上がりたい気持ちだというのに。

「灯りを点けてもらっていいですか?」

 エルフたちは顔を見合わせて、2人で魔法の枝を灯す。ウィルネの魔法砲でえぐれた地面が、きらきらと反射する。

「え、なにこれ? 宝石!?」
「いえ……違いますね。灯りを1つ、借してください」

 ウィルネから枝を受け取り、反射する欠片を拾ってみる。硝子だ。薄い。

「ただの硝子片のようです、でも」

 その硝子は異様に硬かった。そして軽い。両手で捻ってもヒビ1つ入らない。桑皮のように薄いのに。

「すごい…どういう技術だ? これ、本当に硝子か…?」
「ねえ、そんなのいいから、宝石ー! 早く拾ってきて!」

 ったく、ババアみたいにガメついな。俺は舌打ちして、窪地の最深部に向かう。
 そこに、おかしな石を見つけた。
 ツルツルと平らな板状の石が水平に横たわるように埋まっている。つなぎ目らしき線がジグザグに走っているが、引っ張っても離れそうにない。
 どのくらいの大きさがあるのかと、土を払ってみても先が見えないほど巨大だ。俺は必死に掘り起こす。だがまだまだ平らな一枚岩がどこまでも続く。
 明らかに人によって加工された石なのだが、どこまで掘り広げても、まだ先が見えない。ここまで大きな加工物は今まで見たことも聞いたこともない。
 ひょっとして、大地を支える石板に行き着いてしまったのかと思う。

「ニンゲン……なにこれ?」

 モンスターをあれだけ残虐に料理していたエルフたちも、怖々といった様子で遠くから俺に声をかける。
 俺にだってわかるもんか。ただ、あちこち掘っているうちに、一箇所だけ板に欠けている場所を見つけた。
 そこを外すと、細い根のようなものが数本伸びている。均等な太さを保ったそれも人工の物に見えた。柔らかく、引っ張っても抜けないほど丈夫。先端は金属のようだ。
 不思議だが、閃くものがあった。まったくの直感で、これに電流を与えてみようと思った。
 手のひらで触れて、集中する。雷光装置を扱うように、一定の強さで。俺の電流は、その根から吸い込まれていく。それも雷光装置と同じ感覚だ。

 ブン、と板が軽く唸った。

「きゃっ!?」
「え、なに!?」
 ウィルネとニーナが悲鳴を上げて、さらに後ずさりする。
 だが俺は、今の実験に手応えを感じて震える。
 やっぱりそうだ。俺の雷光装置と同じ、これは人間の作った板だ。この板は雷に反応する。そして、それを吸い取るのがこの根だ。
 今度はもっと長時間、電流を与える。板は俺の雷を吸い取っていく。行き渡っていく感覚がわかる。板の中に電流を這わせ、内部を探るイメージ。俺はそのまま雷を強める。求められてる量は体感的にわかる。板の求めるものと俺の雷が一致する。

 ガン、と大きな音がして板の一部が開いた。
 とたんに、穴が空気を吸い込み、土も、石も、そして俺も強い力で引っ張られた。

「うわ、わあ!?」

 根に掴まって必死で堪える。エルフのお嬢様はキャーキャー悲鳴を上げて抱き合い、俺を助けてくれる様子もない。根は千切れる。俺は吸い込まれる。
 穴の底は思ったほど深くはなく、すぐに俺は尻餅をついた。降り注ぐ土砂と一緒に俺は埋もれてしまう。
 そして頭の上で、ガンと、また何かが閉まる音が聞こえた。

****

「いた、た……」
 真っ暗だった。でも、幸いにして俺はウィルネの灯りをまだ手に握っていた。
 ぼんやりとした灯りで内部を見渡す。
 そこは、まるで地底に造られた建物だ。さっきの板は、地上の土台ではなく、この建物の天井だったようだ。
 ここは通路の真ん中で、そして前も後ろも、土砂に埋もれている。中から見ると、意外と広くはない。土砂の向こうはまだまだ続いてるのかもしれないが、掘り起こす術もない。
 壁におかしな光の点滅を見つけた。
 ぴったりと合わさった扉のような線があり、その横に箱が置いてあって、そこの端っこが点滅している。扉の上には、細かい穴が空いているが中は暗くて見えない。
 俺は箱の前に屈んで触れてみた。そして、またおかしな感覚を覚えた。
 さっき俺がここの天井に食わせた雷が、若干ここに残っている。この点滅はそれだ。
 俺はその箱を探る。そして、ふたを開く。そこにさっきと同じような根を見つけた。引っ張ると今度は簡単に抜けた。先端の形も同じだ。
 もう要領はわかってる。俺は電流をそこから流した。吸い込まれていく。このおかしな遺跡の中にいても、不思議と俺は怖くなかった。同じ人間の造ったものだという根拠のない安心感がそこにあった。暗闇の森よりも、俺はこの場所に安堵している。
 箱は俺の雷を吸い込んでいく。小さなものなのに無尽蔵の食欲だ。もっとくれ、と喚いているようにも思える。俺はさらに電流を強める。箱はやがて、少しずつ俺の電流を外に放出し始める。

 廊下に電気が灯った。

 俺は歓喜した。明るい。眩しいくらいだ。俺の作った雷光装置とは仕組みが違う。でも、似てる。
 それに、この箱はすごい。雷を貯めるための箱だ。ここに貯めた雷を、必要なだけ放出して道具を動かす。これがあれば人の手を離れても道具は動くわけだ。
 誰だこんなこと考えたの。天才だ。俺は鳥肌立つ。この扉の向こうがこれを発明した人間の部屋か?
 扉にそっと触れる。シュンと軽い音を立てて、心の準備をするヒマもないくらいあっけなくそれは開いた。
 空気が部屋に流れ込んでいく。音もなく灯りが点いて、部屋の全貌が明らかにある。
 まず目についたのは、部屋全体が透明な粘液で包まれていること。しかしそれは外の空気に触れたとたん、乾燥して縮まり、あっという間にボロボロに崩れ、そして小さな塵になって消滅した。
 天井の空気穴がそれを吸い取り、自動で止まる。恐る恐る部屋に入った。とたん、おかしな音楽が鳴る。聞いたこともない楽器の音色。人の声もおかしな響きだ。どこから聞こえてきているのか、演奏している者も歌っている者もいない。
 そっけない部屋だった。真っ白で明るくて、物は少ない。人が生活している形跡は何一つない。
 柔らかそうな黒い革みたいなもので出来た椅子。そしてテーブルの上には、変な道具が乗っている。薄い透明な板だ。それが座ったときに正面を向くように立っていた。よくわからないが、この部屋の住人はここに座ってこれを見ていたということだろうか。
 試しに座ってみる。意外と座り心地はよい。いや、それどころじゃない。柔らかな素材が俺の尻や背中を優しく受け止め、まるで長年使って体に馴染んだ布団のように安心できる。これはすごい椅子だ。
 透明な板は正面にくる。その板の下にまた透明の板が敷かれている。触れてみてわかった。この中にも俺の雷が届いている。ということは、これも雷で動く道具だ。板の右隅に円形の奇妙な印がある。俺はそれに触れた。それが何かのきっかけの印だと思っていた。
 透明な板に、光の線が走る。正面の板に四角い枠ができて、その内部が黒く変わった。そして、黄や緑の旗のような絵が動き始めた。
 手元の板にも光が走る。小さな四角がたくさん浮かんで、おかしな形の線や文字のようなものを描いて点滅した。
 なんだ、これは…?
 正面の板に奇妙な人の絵が浮かぶ。少女のようだ。ゴテゴテしたおかしな衣装を着て、こちらに向かって微笑んでいる。
 これが部屋の主か? いや、幼すぎるし、不自然な絵だ。目が大きすぎるし、鼻が小さいわりに口も妙にでかい。子供の落書きみたいだ。短いスカートは精霊を思わせるが、とても彼らを見ながら描いたとは思えない。どちらかといえば人間に近い。
 なんていうか…上手いのに、わざと現実離れした人物を描いてる感じだ。
 そして、その絵にかぶさるように小さな絵がいっぱいあるんだ。

『ネットワークが切断されています』

 俺には読めないが、何かの文字かもしれない。この部屋の主は、この絵と文字を毎日見て過ごしていたのか? 
 あと気になるのだが、この板からひもで繋がった耳当て帽が伸びている。
 細く軽い板を曲げたようなもので頭部の輪が作られ、耳の部分も小さい。
 なぜ、耳当てが付いているんだ? しかも小さい。これじゃ、いくら寒くても、使い物にならないんじゃないだろうか。
 俺は試しに、それを被ってみる。

 ピ。

 これを被った途端、短い笛の音がして、さっきのテーブルの上の正面の板に、何かが写った。

『IDが存在しません。新規のユーザーとして登録しますか? Y/N』

 やはり文字なんだろうか。解読はできない。とりあえず俺はもう一度手元の板を見る。似たような形のものがいくつかある。やはり文字か?
 俺は真ん中の上の方に『Y』という形を見つけて、そこに怖々と触れてみた。

 ピ。

『ユーザーの登録を実行します。この作業には20秒ほどかかります。ヘッドフォンは外さないでください』

 とりあえず『2』を見つけたから押してみる。なにもならない。
 次に見つけた『0』も同じだ。変化なし。
 だが、いろいろ押しているうちに、また文字が変化した。

『あなたは脳・体力ともに健常な成人男性であることが確認されました。教育レベルは幼児以下と判定されました。インターネットに参加するために必要な知識と常識が不足しています。win基本教育ファイル(日本語版)・win中等教育ファイル(日本語版)をインストールしますか? Y/N』

 すごく長いが、最後にまた『Y』が出た。俺は同じものを押す。

『基準教育年数が10年を超えました。10年以上の教育レベルを一度にインストールすると脳に強烈な負荷がかかります。安全のために分割してインストールするなら“Y”を、危険を理解した上で自己責任で一括インストールするなら“N”を選択してください Y/N』

 そういや、この『N』というのも板にあるな。試しにこれを押してみたら、どうなるんだろう。

 ピ。

「あっ!?」

 とたんに、耳からいろんなものが流れ込んできた。強烈な耳鳴りと吐き気が俺を襲う。
 そして、頭の中ではいろんなものが渦巻く。
 俺の知らない人物。言葉。音楽。文化。法律。地理。風習。

「うわあああ!?」

 頭がビリビリして顔が熱い。血液が全部頭の中に飛び込んでく感じ。こめかみが震える。新しい知識がどんどん頭の中に流れ込んでいく。
 政治。技術。歴史。事件。経済。生物。インターネット。宇宙。気象。工学。医療……。
 工学と医療から情報を得る。まずい。今のこの状態は危険だ。
 俺は画面の前で指を滑らせ、ダウンロードを中止する。俺はこの機械…PCの操作をマスターしていた。そして、このヘッドフォンが、脳とPCを連結させる端末だということも。

 これは、原人以前の人間が築いた文明だ。
 俺はそれを、復活させてしまったらしい。

 電気を通したからだ。最後に使われたからどれくらい放置されていたのか知らないが、彼らの居住空間は地中で完璧な状態で保存され、俺が出力する程度の微弱な電気で、簡単に動作を再開したらしい。
 理屈は理解しきれないが、高度な文明だったということはわかる。
 でも、それがどうして地中の奥深くにこんな形で放置され、誰もいなくなったのか。
 俺は再び画面に向かう。

『未更新の情報が4年以上残されてます。今すぐインストールしますか?』

 俺は分割インストールを選択し、脳に大きな負荷をかけないようにしながら、ネットのログを開く。
 インストール終了まで相当の時間がある。その前に、この部屋の主がどんな人間だったか知りたい。
 どうしてこんな地下に暮らし、そしてどこへ行ってしまったのか。PCの履歴から、彼がどのようなことをしていたのか探る。

“2ちゃんねる”

 専用のブラウザで覗けるそのサイトを、ここの主はよく利用していたらしい。
 中でも“アニメ師常駐スレ”というスレッドのログは200年分も残されている。
 終わり間近のスレッドから、俺は開いていった。

『落書きうp』
『imakanさんだー』
『きたー!』

 この“imakan”ってのが部屋の主だ。どうやらここでイラストやアニメを作っては、ネット上に公開していた男らしい。

『たまには地上絵』

 ログにはそのときのイラストも残されている。青空と太陽の下で微笑む少女。鉄棒に掴まって「くるくるー」と笑ってる。
 デスクトップの画像と同じだ。目が大きくて妙なバランスだと思っていたが、この時代ではありふれたデザインだ。むしろ可愛らしいと思えるくらいに、彼の時代のセンスも俺は理解できるようになっていた。
 そしてこの絵に漂う、懐かしさと切なさも、今の俺にはわかる。

 ずっと昔。おそらく何百年も何千年も昔のこと。 
 戦争と休止を繰り返しながら、世界は人間の文明で栄華を誇っていた。地上は人類が支配し、精霊など存在もしなかった。ここは日本という国で、世界でも指折りの平和な国だった。
 だが、その人類もいつの頃からか少しずつ衰退していく。消えていった、というのが正しいのかもしれない。

『信じられるかい?俺たちの先祖は、かつてこの青空どころか、その上の宇宙にまで行ったことあるって』
『とんでもなく脆弱な船でな。セラミックスだぞ。パンツ一枚でマントル突入するようなもん』
『よっぽど体に自信があったんだろうな』
『そんな話じゃねーよw』

 発展期を終えた社会では、経済は複雑にねじれて、国際政治は不安定で、技術力だけが加速的に進化していった。
 わずかな資源のために戦争を繰り返し、人心は疲弊し、かつての開拓精神を失った人類は退廃していった。

『しかし今の俺たちには、外に出て行く服すらない』
『つーか下着もない』
『全裸が普段着。全裸が寝間着。親と通話するときぐらいだな。ネクタイしめるのは』
『それ全裸の方がマシじゃね?』
『こないだ片っぽだけ靴下見つけた』
『もう片方は俺んちにきてるぞ』
『ペットの服なら50着は持ってるのに』
『うちにはかれこれ200はあるかな』
『ブルマだけで300』
『変態だwww』
『ブルマ以外には何持ってるんだよ?』
『ブルマしかない』
『変態だー!?』

 戦争は地域を広げていく。平和な地域でも、多くの若者が無気力化していった。世間から目を背けるように部屋にこもり、生産力を低下させていった。
 人口が減っていく。
 先進国の間でようやく大量破壊兵器の所持禁止と停戦が進められるようになったが、一部の国は頑なにそれを拒み、また別の国はそのタイミングで参戦を宣言し、世界を混乱させた。
 世界のバランスは少しずつ変わっていく。厭世的な雰囲気が蔓延するなかで、技術力だけは相変わらず飛躍していく。

『そういや今日、俺の324才の誕生日だわ』
『imakan、テラジジイwwwww』
『エロじじいwww』

 高齢化と人口減少に対処するため、遺伝子工学は老化と成長遺伝子の操作を可能にした。
 特殊細胞をアンプル注射するだけで、数十年もの寿命が稼げるようになった。俗に『カンフル』と呼ばれるそれは誰でも簡単に入手することができた。
 しかし、それでも出生人口が増加することはなかった。健康と長命を保証された人類は、むしろ家庭を持って子を育てるという負担を厭うようになっていった。
 老人の福祉負担が減れば、残る問題は少子化だ。人工出産と養育の一部が政府の負担となる。誰でもパートナーなしで子供が育てられて、補助金までもらえるようになるころには、婚姻という風習もなくなった。

『誰も祝ってくれない。。。』
『ばかやろ。うれし涙でキーボードが叩けないんだよ』
『お前に遺伝子を与えた人と育てた政府に感謝してる』
『imakanさんへ。いつもたのしいアニメをありがとう。しね』

 経済活動の多くがネットに移行した。社会そのものが縮小され、PC周りに集約されていく。誰もが個室にこもって生活するのが、当たり前になっていった。
 人々は画面だけの生活に慣れていく。しかし他人との接触のない生活が、正体のない不安とストレスを与える。鬱屈した性欲が持て余されていく。

『それじゃ誕生祝いにウサギちゃんとちゅっちゅしてくるかな』
『エロジジイwww』
『俺もみなぎってきた』
『イラストと同じ格好させるわ』

 高品質なラブドールやオナホが、若者の間でブームだった。男性のみならず、女性用商品でも巨大な市場が生まれ、技術が高められていった。
 高まる性産業の需要。生活の個室化で犯罪は減ったが、倫理観は自己中心的に偏っていく。そして一部の遺伝子工学者たちが、禁断の領域に踏み込んでいった。

 ヒトと動物の遺伝子から新たな生命が創られた。
 それは『ヒト型亜種』と呼ばれ、容姿のデザインもヒトに限りなく近くしながら、他動物の特徴もあえて強調的に織り交ぜ、ヒトとの違いを強調した。
 それが人工の疑似生物だから、人権はないのだとわかるように。

 行き過ぎた実験に先進国は規制を設ける。日本も例外ではなかった。だがその監視の目をかいくぐり、亜種で儲ける者たちはどこにでもいた。
 最初は筋力も知能も弱い愛玩用ペットとして生産された。
 限られた富裕層の中で取引されているうちに、さらに技術は下の市場に流れ、粗悪なコピー製品が出回るようになって、マーケットは国際的に拡がっていった。

 しかし、その粗悪さに嫌気が差した日本の学生たちが、独自で亜種の製造に成功させる。

 低コストでの高い品質が世界を驚かせた。理論上は可能だった人間並みの知能と筋力をその亜種は備えていた。
 高値で売れることを知った学生たちは大量に生産し、すぐに逮捕され、世間を大いに騒がせることになる。
 そしてこの事件が亜種大量生産の引き金になった。
 戦争、経済、性。全ての需要が亜種に向けられる。
 ある国では兵士として亜種が生産される。その隣では国家労働力として亜種が試作される。
 新型の亜種の容姿は美しく、肌は温かく、十分以上の知能もそなえていた。
 それでも彼らは疑似生命体だ。愛玩動物よりも地位の低い、ただの商品だった。
 
『みんないいな。俺のバンビちゃん、早く届かないかな。前の壊れちゃったんだよな』
『変なの使うからだよ。正規品はそう簡単に壊れない』
『もちろん性器だよ。パチモンはすぐぶっ壊れるからきらいです』
『壊れるまでってwwwドSすぎwww』
『アニメのモデルに使ってるだけだよ。エロシーンとかちょっとハードなのやらせてたから』
『どんだけハードプレイだよ』
『ひょっとしてこれの人か?http://xxxxxxxxx』
『それ観たことある。吐いたわ』
『俺じゃないよ。まあ好きな作品だけど』
『いいけど壊れたのそのへんに捨てるなよ。腐ったらひでえ臭いするからな』

 商品である以上、彼らは所有者に対して絶対従順だ。製造時に「人間の命令には絶対に逆らえない」ように遺伝子にプログラムされている。どんなことでも、命令のままだった。
 しかしそれだけでは、盗難や敵国の再利用されるなどの問題も生じた。

『廃品回収のバイトしてる俺にも言わせてくれ。情が移れば殺せないのはわかるが、せめてID消してから出せよ。前に頭のぶっ壊れた犬娘が、家に帰ろうとして暴れたことがある』

 やがてセキュリティとして、各個体や集団の脳に固有のIDを組み込み、専用のボイスコントローラーとセットにして、コントローラーを通して命令した人間だけを所有者と認識するよう、規格が設けられた。
 こうして個人の所有物として、企業の労働力として、戦争のための道具として、亜種は世界的に増えていく。
 亜種製造は大きな産業になった。先進国も全て亜種製造を認め、高い技術が生まれていった。
 耐久力、運動能力、知能。全てにおいて亜種は人間の能力を上回るようになった。日本は特に容姿の向上に心血を注いだ。家事労働用として売られる亜種のほとんどは、性処理用の機能も備えている。男性向けに限らず、女性向けの商品もよく売れた。
 技術競争はますます加速する。

『廃品回収って儲かるの?』
『小遣いにはなる。廊下に出て亜種拾って処理場に届けるだけだし、ドームで野生化した家畜とか狩れば肉も食える。調子いいときは一週間くらいサバイバルするときもあるな』
『テラ健康体wwwうらやますぐるwwwそのいきおいで外に出てみれ』
『無理。俺ていどのサバイバルスキルじゃ即死』

 遺伝子改良は倫理を失した。
 植物、家畜は環境と食糧事情の改善という名目のもと、強い繁殖力と成長力をもった生き物に改良され、既存の生物を駆逐した。
 土壌改良のために微生物も改良され、変質した土壌を調整するため、さらに改良された新種が散布され、ミクロの世界でも生命は一変する。
 戦争に用いられる亜種は、ヒト型とともに、獣に知能と凶暴性を持たせた亜種も使われるようになった。
 生物デザインは様変わりしていく。
 遺伝子改良が諸問題を解決していく代わりに、めまぐるしく変化していく生態系は反面で恐怖を生んだ。そしてその恐怖が戦争を激化させる。戦争の目的は、遺伝子改良のルールを独占することに変わった。
 日本も、アメリカも、中国もロシアもECもアフリカもバイオ戦争に巻き込まれる。一夜のカンブリア紀のように、すさまじい速度で実験的な新種が生まれ、滅んでいった。
 爆発的な繁殖力で土壌の栄養を吸い尽くす雑草と、それを駆除するために作られた昆虫の戦争。肉食亜種の群れが大陸を移動し、彼らの通り過ぎたあとに新種の病原菌が発生する。家畜用の巨大ネズミが異常繁殖して土地を荒らす。ヒト型クジラが海底を喰いあさる。ウイルスタンクになった鳥の群れが海を渡る。
 そして、それを解決するために大量破壊兵器が使われる。
 大気と土は汚染され、浄化のためにさらに新たな生物が作られた。異常な環境が異常気象を招き、砂漠は緑のジャングルに変わり、そのうち海底に沈んだ。
 環境、天候、大気の成分まで地上は変質する。
 やがて地上に人間の住めるスペースはなくなっていく。ほとんどの一般市民が地下住宅に移り住むようになった。

 人口は坂道を転げ落ちるように減っていく。

 地上では一つのルールが生まれた。
 環境に過度の影響を与える生物の製造及びミクロ生物の散布禁止。また戦闘規模を限定するために、亜種による戦闘兵器の使用を禁じる。
 やがて兵器に限らず、戦闘用亜種から地下コロニーを守るために、一切の人工物に触れることを禁じた。家事労働用のヒト型亜種のみ、コントローラーで解除できるようにした。
 すでに地上の環境汚染は深刻を極めており、国力も疲弊し、ルールを抜け駆けするような国はもう残ってなかった。戦争は古代化し、亜種による小規模戦闘が主流となった。
 地下に住む一般市民たちはかつての故郷の光景など忘れた。地上は、生物実験のための試験場となった。

 そして極端に低下した人間の生産力は、やがては唯一情熱を注いでいた遺伝子工学からも離れてしまう。
 長い地下生活による意欲の減退。長命による創造力の低下。社会の陳腐化。生物寿命論。さまざまな理由が考えられたが、地上の浄化が進まない以上、人類は地下暮らしを続ける。
 戦争も尻すぼみに終わった。亜種の労働力だけが人類の支えだった。しかしそれを満足に供給するだけの生産力も維持できない状態だった。

 ついに亜種同士の交配繁殖が設計される。

 人類は、相変わらず亜種を「疑似生命体」と位置づけたまま、彼らに生物としての機能を与えた。
 そして改良種である植物や動物が汚染を浄化し、人類が地上復帰できる環境が整うまで、彼らの労働力を支えに地下での生活を続けることにした。

『外の世界……映像で見る限りは平和そうなんだけど』
『俺んちの上には石が積んである』
『ピース』
『俺なんてカメラぶっ壊された』
『ピース』

 しかし、全ての人間がその消極的な選択を受け入れたわけではなかった。一部の人類は地上へ抜け出し、実験や戦闘のために地上に出ている亜種を操作して、土地を独占しようと試みた。

『地上に出てうまくやれば、高級オナホの子孫たちともヤリ放題なのにな』

 二世以降の亜種は脳にIDがないため、ボイスコントローラーの命令なら無条件に従う状態だ。所有権のない奴隷だ。ある程度汚染が浄化され始めた地域ならば、誰でも地上に出て、そこにいる亜種を従えるはずだった。
 じっさいに、それを試みた人間は数多くいた。
 
 そこでピースと呼ばれる団体が登場する。

 もともとは、疑似生命体であるヒト型亜種にも人間としての権利を認めようという、当時としては特殊な主張を持つネット上の団体だった。
 当初は性処理用の亜種を偏愛する異常性愛者とみられ、事実そういう人間も少なくなかったが、戦争と遺伝子改良で地上の破壊が進むにつれ、平和主義と環境保護思想がそこに加わり、独特の理念を築いていった。
 彼らは、家庭労働用亜種こそが次の地上の主となるべき新人類だと主張した。
 そして人類の亜種に対する一切の干渉禁止と、コントローラーの廃棄と、地上に対する権利の放棄を求めた。
 地上がまだ危険だと言われている時から、彼らは自分たちの購入した家事労働用の亜種と一緒に地上に出て居住を始めた。さらに亜種同士の交配や生活支援を進めて、亜種だけの村を増やしていった。

 地上を亜種のための楽園にしよう。古い考えも文明も捨てて、彼らとともに美しい地球を取り戻そう。

 ピースのスローガンに感化される若者は少なくなかった。むしろ若者ほど亜種への地上禅譲を願って、ピースの活動に身を投じていった。
 そのことを危ぶんだ各国の政府との衝突が始まったが、ピースもテロ化し、地上の戦闘用亜種も彼らに転用された。
 地表の上と下。
 残り少ない人類は完全に分かれた。
 ピースは亜種たちを神の使いのように崇めている。亜種ではなく「精霊」と呼び、地上を彼らの天国へと変えようとしていた。
 そして自分たちは、亜種たちの平和な暮らしを守るための盾となって、地下を監視し臨戦態勢を強めていく。

 それが俺が読んでるログの現在。

 今、ようやく安定の兆しが見えてきた地上が、少数の人間と亜種に乗っ取られようとしているところだ。
 新たな戦争の火種を抱えて、世界は緊張状態のように思えるが、実際はそうでもない。
 地下の人間は…少なくともこのログの住人たちは、この現状を早くにあきらめていた。

『あ~ん。僕もピースになってたくさんの亜種ちゃんたちとちゅっちゅしたいよお』
『それはねーよ。あいつらボイコン禁止だもん』
『やだなにそれ』
『ボイコンなしでどうやって亜種をコントロールすんの?』
『しない。亜種と友人になるんだって』
『意味わからん。ガチで亜種と付き合っても能力的に負けるのは人間だろ。バイブに格下扱いとか、そこまでMになれないわ』
『奴らは人間同士でしかセックスしないという変態どもだからな』
『人間の女なんてピザだし臭いしwwwやめてwwww』
『しかもセックスで子供作って分娩するらしい』
『マジやめて吐きそう』
『今さら人間が子宮出産なんてしたら死ぬだろ?』
『じっさい母子ともにかなり死んでるし、病原菌ウイルスもひどくて子供の生存率も低いらしい。だけどもの凄い勢いであいつらは人間同士のセックスしてる。免疫と出産力あげるために』
『真っ当に老化すれば人の寿命なんてせいぜい50年だっけ。産んでも2、3人くらい?』
『いや頑張れば20人いけるらしい』
『女って化け物』
『地下に戻ってカンフル打てよ。そうしたら出産とかバカバカしくなる』
『カンフル延命とかカプセル出産とか、そういう技術は全部捨てるのがピースの生き方。なぜなら愛する精霊様(笑)にそれが出来ないから』
『なんでそこまでできるの?バカなの?』
『目の前にあんだけオナホ転がってんのに、それ使わないってありえなくね?』
『いや待て。お気に入りの処女オナホがバイブに輪姦されてるのを眺めつつ、自分はババアの吹き出物だらけの尻に射精するわけだろ。それ、かなり気持ちいいって絶対』
『なん…だと…?』
『いや、あいつら自分たちは子作りしまくってるくせに、亜種には結婚までエッチ禁止を推奨してるらしい』
『なんで?』
『だって愛する精霊様たちには、結婚するまで清い体のままでいて欲しいもん(はぁと』
『オナホに処女性とか、ますます斬新なプレイだな…ゴクリ』
『HENTAIをこじらせすぎて宗教になっちゃったのかな?』
『でも、ちょっとわかる。やつらの亜種を見る目は、俺たちがアニメを見るときの目と同じなんだな』
『そう言われると奴らの気持ちが一瞬で理解できる。ふしぎ』
『お前らだって2次元大好きだもんな?』
『好きです』
『俺だって澪ちゃんの処女を守るためなら人間の女とだって…あ、いや、それは無理』
『ですよね』
『アニメと亜種は全然違うだろ。あれはただのオナホ。性処理のための道具。ただチンポをはめてやるために生まれてきたわけだし、彼女たちもそれで幸せなんだよ』
『そのとおり。ここまでやっちゃった人類の責任を、亜種なんかに背負わせて自分たちは隠居しようなんて、無責任にも程がある。人類が最後まで地球をコントロールするべき。大気の洗浄が終わったら、俺たちの出番だ』
『俺はここを出ないけどな』
『むろん俺も』
『ところで地上の亜種人口って、今どのくらい?』
『亜種だけのコロニーでいえば、地下から確認できるだけで244ヶ所。1コロニーに1~3000人。それとは別にピースの集落が200程度。戦闘用亜種はゲリラ体制のため把握不能。でも彼らは今も増え続けてるし、人類が撤退した地域でも森林地帯がガンガン増えてるから、実際のところ亜種村はその2、3倍はあるって言われてる』
『ふむ。では我ら地底人の総数は?』
『主要7ヶ国で2万人ずつくらい。企業と家庭労働用亜種がほぼ同数。戦闘用はそれよりだいぶ少ない。ちなみに地下人類の出生数は、25年連続ゼロ』
『人類 \(^o^)/』
『でも俺らが本気出せば、いつでも地上やれるよ。やつらとは技術力が違う。ピースだけなら数も少ないし、亜種のほとんどを占める家庭用は、人類とって脅威じゃない』
『そう?数は脅威じゃね?』
『いくら亜種が増えたところで、遺伝子自体にガッチガチのセキュリティかかっててるからな』
『セキュリティを外したり、新種のヒト型作れるような大型施設も、政府がテロ対策でブレイクしちゃった。だから亜種は今でも人間の作ったツールには恐怖するし、文明発展の肥やしである自然破壊も制限されてる。食べるための狩りもできない』
『ちなみに陸戦用亜種なんかも、ボイコンなしじゃナワバリくらいしか設定できないただの犬なんだぜ』
『楽勝だな。よし、寝るか』
『てか、ピースはそんな制限だらけの連中を、どうやって自力発展させてくつもりなんだか』
『菜食ごはんのメニューを増やす。あとは細々とやってくしかないな。人類とは違う文明を築くしか』
『原始人村しかできないだろ』
『じっさい今もそんな感じ。木をこすって火をつけてる』
『かわいそすぎる』
『寒くても俺あたためてあげないよ。ネコちゃん以外は』
『それじゃ処女インコちゃんは僕が暖めてあげますね☆』
『地上の観察してる知り合いの話では、どっかの地域に集合すると発熱する微生物が生まれてるって。リンの生物版。ガバっと集めれば簡単に火を起こすこともできるとか』
『俺の友達はもっとその研究進めてる。その微生物の発火遺伝子を分解して、ヒト型亜種の皮膚遺伝子に一部を組み込む。残りを細菌かナノマシンなんかにしてバラまけば、指パッチンで火を起こせるようになるって』
『魔法の完成だ』
『ちょwww散布てwwwそれかなり犯罪www』
『でも俺たちには逮捕する警察もない』
『そいつを絶対に地上に出すなよ。あいつらに魔法与えることになるぞ』
『ていうか理論的に無理だろ。できても全身火だるまになるだけ。つか、登校途中で転校生のあの子とぶつかっただけで火だるま』
『第1話 転校生散る(メガンテ)』
『むしろヒト型の改良とかいらなくね?大気中に何種類かの反応因子を含ませて、集合と結合のルールを仕込むだけで魔法に近いことは可能』
『ナノマシンはメンテ面倒だし、やはりナノ生物がかっこいい。それくらいなら今の設備で作れる。問題は条件付けとバランスだな。環境に与える影響を最小限にして、どれだけのパワー出せる?』
『金髪エルフと剣と魔法の大冒険ができるんなら、俺も本気でダイエット始めるわ』
『頭いいやつが真面目に研究したら、そのうち可能かもな。今じゃ地下にも地上支援派いるし』
『支援派っていうか、ただのバイオタな。昔は政府お抱えで遺伝子改造できたインテリも職を失った。でもそういう連中は今でも亜種か環境をチートするしか生きがいがない。そしてピースの中にも、そういうやつらを利用しようとしてる連中もいる』
『ピースの信条に反するのでは?』
『やつらも一枚岩ではないよ』
『グダグダだな』
『ようするに、真面目に今の状況を良くしようと考えてる人間なんて、いないってこと』
『人類完全に終わってるな。数の問題じゃなくて、生物的に』
『終わってる。もうここまでやったら消えるしかないって感じ。ピースのやつらもそれを感じてるからこそ、あの運動があるのだろう』
『だからって人類の役目をヒト型亜種に譲るってなんよ?それを決めるのは人類ではなく自然淘汰だろ。そんで亜種も人類の負の遺産でしょ。ヒトが滅ぶのなら、せめてその前にヒト型亜種も精算しておくべき』
『おう、やろうぜ。※ただし俺のペットは除く』
『※美少女は除く』
『ところで、いつから人類の終わりが始まったんだろ?』
『当然、亜種が出来た頃からだろ』
『日本の学生たちの罪は重い』
『いいや、その前からだろ。カンフルが出来て、生き飽きるまで生きられるようになった頃から』
『単純に、人口が減りはじめた頃だろ』
『宇宙をあきらめた頃から』
『火を使い始めた頃から』
『それはむしろ始まり』
『人は必要以上のものを欲しがりすぎたんだよ。それが自分たちの首を絞めていった。でも滅びへの転換点がどこだったかなんて、いくら歴史を探っても俺たちには見つけられない。人間ってのは限度のわからない生き物だから。バベルの頃から、ずっとね』
『日本語でおk』
『俺はオナホペットとインターネットがあれば、それ以上は何も望まない。かなり無欲だ』
『人生にはポップでクレイジーなエロスだけあればいいんだって、じっちゃのじっちゃのじっちゃが言ってた』
『この地下暮らしは理想的。PCの前に座ってそこそこの仕事こなして、職人さんが作ったアニメ観て、可愛いペットにメシ作らせて掃除させてフェラさせて1日が終わり、それを飽きるまで続けられる。地上なんかじゃ味わえない贅沢がここにある』
『手の届くところに望む全てがある。これが幸福の到達点。人類が終わった理由もこれだ。天国に着いちゃったんだよ』
『でもさっきのimakanさんの地上絵見て、俺なんかキュンときちゃった』
『それもわかる。俺もあと200才若かったらピースとか言ってたかもな』
『ピースはないけど、一回地上に出てみたい。思いっきり汚ねえ空気吸ってみたい』
『死ぬぞ』
『肺も免疫も弱ってる。ついでに足もむくんで立てない。ほとんど椅子と同化してて、下の世話もペットにやらせる始末』
『200超えたら、みんなそうだよ。俺、このまま植物になる気がする』
『モニターに映った自分の顔が気持ち悪い。てか、モニターの中に収まらないくらいでかい』
『全身むくみ。よく生きてられるよな俺ら』
『生きすぎだよな。でも死ぬきっかけももうワカラン』

『うわああああああああああああああああああああ』

『どうした、imakan?』
『俺のウサちゃん動かなくなった……もう150年使ってたもんな…』
『テラババアwww』

 それからログはしばらく途絶え、1年後の書き込みを最後に終了する。

『新作できたー』
『imakan! imakan!』
『久しぶりだな、おい』
『待ちかねたぜ!』
『うpする前にみんなに報告したいことが』
『黙れ豚野郎!口を閉ざして早く新作アニメを俺たちに差し出すんだ!』
『手早くすませてくれよ。5年ぶりに勃起したんだから』
『俺、地上に出る』
『まさかの自殺宣言』
『萎えたー』
『マジで?殺されっぞ』
『正直、体も動かないし、出てってもピースに殺されるだけだと自分でも思う。でもやっぱり一度でいいから地上の土が踏みたい。走りたい』
『全地底が泣いた』
『よし行ってこい。あとのことは俺に任せろ』
『マスクしろよ。まともに外の空気吸ったら死ぬぞ』
『俺の手作り爆弾送るわ。これでピースのガキどもを吹き飛ばせ』
『さんきゅ。でも自分で作った』
『やる気まんまんww』
『俺の部屋は密閉してゼリーで包んでおく。永久保存。もういらないものばかりだから誰でも好きにして』
『そのうちカンフル拾いに行くわ。行けないけど』
『ボイコン忘れるなよ。エルフ型とかいたらすぐ犯せ。殺される前に』
『3個あるから、予備も考えて2個持ってく。たしかに一度でいいから高級エルフを犯してみたい。これは男の夢。でも俺ウサちゃん派だから最後もウサちゃんがいいかな…』
『どうでもいい。どうでもいいんだよ。それより新作はどうした?』
『ああ悪い。そういったわけで最後の作品だから楽しんでくれ。ラスト5分の主人公のセリフが、俺からみんなへのメッセージだ。盛り込みすぎて1678時間の長編になっちゃったけど、最後まで楽しんでくれよな』
『長編すぎっぞwww』
『誰がそこまで観んだよwww』
『お前はいつもそれだ…まあいい。頑張って観てみるよ』
『おつかれさま。最高のアニメ職人imakan氏に敬礼。最後まで観たことないけどな』
『じゃあな。俺はあんたのファンだったよ』
『俺も』
『そのうち俺も地上行くよ。それまで生き残っててくれ』
『ばいばいimakan』

 ログはこれで終わりだ。
 PCから入ってくる知識も詰め込み終わった。
 ここで更新が途切れたから、これ以降の世界がどうなったかはわからない。
 だが、簡単に想像はつく。
 地底はこのまま衰退して終わり。
 地上に出たピースの人間たちも、文明を放棄して徐々に衰退していくが、なんとか今も生き残っている。
 俺もそのピースの末裔だ。ただのオナホとバイブにマジ惚れして、精霊だなんて崇めておだてた馬鹿の子孫。それが俺なんだ。

 なんてことだよ。笑っちまう。
 あぁ。
 笑いが止まらない。

 PCの下の引き出しを開ける。中のゼリーが風化して消える。
 思ったとおりだ。そこには長命化のカンフル剤が何本も残されている。1本で約80年。運動さえ怠けなければ、ずっと健康なまま生きられる。
 さらに、小さな首輪が1つ。
 それがボイスコントローラー。これさえあれば、どんな亜種でも好き放題に操作可能だってよ。

 笑っちまう。止まらない。腹が痛い。

 どいつもこいつも、バカばっかりだ。
 こんな狭い部屋にこもって、生きてんのか死んでるのかわかんないような生活を送って、何もしないまま趣味に満足して死んだオタク旧人類も。
 身勝手な正義と自己陶酔を、崇高な理念だと勘違いして、大事な財産をペットなんかにタダでくれてやって、子孫には奴隷根性しか残さなかった今の人間も。

 そして、そんなやつらに持ち上げられて、地上の主だなんて浮かれてる精霊どもも。

 バカバカしい。なんてくだらねえ連中だ。

 俺が、お前らの目を覚まさせてやるよ!

< 続く >

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