第2話
目が覚めると、そこは人家の中だった。
木板を重ね合わせた天井から、細長い陽光が流れ落ちてくる。空気は冴え冴えと冷え、朝鳥の歌が軽やかに踊っていた。
寝起きではっきりしない目を、ぐるりとめぐらせる。
壁にはよく手入れされた狩猟具。かまどの中で消したての炭がぐずっている。歩けば端まで十歩もないだろう小さな部屋の中は、小奇麗に整頓され、その隅にあるベッドの上で私は一人、毛皮をかぶって寝ころんでいる。
そう。寝ていたのは、私一人だった。
「――いかん!」
跳ね起きると同時に木綿の衣をひっかぶり、転げるように外に出た。
驚いて飛び立つ小鳥たち。風光る森の中、一目散に坂道を駆け降りる。
「はっ、はっ、はっ……!」
ものの十秒もしないうちに息が切れてくる。地上に降りて三ヶ月、いくぶん慣れたとはいえ肉の器の不便さときたら、筆舌に尽くしがたい。おまけに寝相が悪かったのか、背中の筋まで痛んでくる始末だ。
もつれる足に鞭打って、ようやく坂を降り切ると、そこは小さな泉だった。
水がきらめき、魚が跳ねて、光が舞う中、ほとりで水を汲んでいる一人の若い男。
山の男のくせに、その体は細く、赤毛を戴いた横顔はとことん垢抜けている。
男は私に気づくと、面長の顔をほころばせた。
「やあ、おねぼうさん」
私は落ち葉を踏みつけながら、ずかずかと歩み寄った。
「水汲みは私に任せろと言ったろう、イシュタル」
「あんまりよく寝てたものだったから」
「いいからよこせ」
男――イシュタルの手から木桶を奪い、泉に叩き込む。次いで引き上げようとするも、水でいっぱいになったそれは案外重く、体がよろけた。
「っと、無理しなくていいよ。まだ体に慣れてないんでしょ?」
支えようとする手を、ぱしりとはねのける。
「さわるな。これしきで決めごとを破るわけにはいかん」
「律儀だねぇ、天使っていうのは。それともキミだけがそうなのかな」
「他の者のことなど知らん。が、これは私の性分だ。……おい、さわるなと言ってるだろう!」
なおも腕を伸ばしてくるのを怒鳴りつけると、イシュタルはその撫でっぽい肩をひょいとすくめた。
「冷たいなぁ。昨日はあんなに激しく求めてきたのに」
「なっ……!」
顔に火がついた。
「きっ……貴様っ!」
「わあっ、ととっ!」
水の入った桶を振り回す私を、イシュタルは笑いながらかわす。その笑顔がまぶしくて悔しくて、なおも彼を追いかけまわす。
と、その無理が痛めた背中に来て、不意にバランスが崩れた。
「わっ!」
もろともにもつれ、地面に倒れる。目を開ければ、そこはイシュタルの胸の中だった。身を呈して私をかばったのだ。
仰向けになった彼の体、その右足のヒザから下は――何もない。
「す……すまん、大丈夫か?」
「キミこそ」
微笑み返してくるイシュタル。大事はないらしい。ほっと息をついたそのすぐ後から、怒りが追いかけてきた。
「いつもいつも、お前はそれだ! 自分のことより他人のことばかり気にかけて……少しは身勝手になれ!」
「そうは言っても性分だから」
ぐ、と唇を噛みしめる。
(私より動けない体のくせに……)
と出かかった言葉を喉元で飲み込む。
イシュタルはもともと都の人間で、王家の祭事を司る神官の嫡子だった。
だが、王宮内の権力争いに巻き込まれ、家族は皆殺し。イシュタル自身も片足を切断された上で都を追放されて、この山に移り住んだのが五年前だという。
それ以来、ずっと一人で……
「イシュタル……」
涼やかな風が吹いた。木の葉がさえずった。泉の上に、おだやかに波が立った。
私の口から、思いがけない言葉が漏れた。
「逃げよう、イシュタル」
一度流れ出せば、思いはとめどなかった。
「天界では父君が――神が大洪水を起こす準備をしている。あの方はすべての人間を滅ぼすおつもりなのだ」
「シェム……」
「私はお前に死んでほしくない。ここよりもっと高い山に逃げれば、あるいは」
「そうしたら、キミはどうなる?」
二の句が継げなかった。
「それって裏切りじゃないのかい? 神様に対する」
「そ、それは……」
戸惑う私の肩を押し、杖をついて立ち上がるイシュタル。支えてやると、二人向かい合う形になった。
「僕はね、ぬけがらだったんだ。家族を奪われ、都から追い出され、この森に住むようになってから、何も信じられなくなっていた。いつでもいい、死んでしまえばいい。毎日毎日、本気でそう思っていた」
「イシュタル……」
「だから、キミが空から降りてきたあの日、僕は心の底から喜んだ。天使さまが迎えにきてくれたんだ、ってね」
イシュタルの手が髪を優しくなでる。
その手の温度。私の愛したぬくもりが、言葉を超えて頭に伝わってくる。
「あのときのことを覚えているかい?」
「……忘れるものか」
三か月前のあの日。私が天界から降り立ったのが、この山だった。
「本当にもう、驚いたよ。天使さまが木の上に降りたった――と思ったら、そのまま地面に真っ逆さまだもの。こんな間の抜けた天使がいるのかと思った」
「あ、あのころはまだ人間の体に慣れていなかったから……おい、そんなふうに思っていたのか!」
「はは、ごめんごめん」
と白い歯を見せるイシュタル。こいつはいつも軽口で私を怒らせる。そして「ごめんごめん」で懐柔するのだ。いつも。
「だから、ね」
不意に表情を改めて、
「足を痛めて動けないキミを介抱したのも、結局は自分のためだった。早く体を治して天国に連れて行ってもらおうってね」
「それは前にも言っただろう。それは別の天使の役目だ。私は関係ない」
「そう。……でも、それを知ったころにはもう、僕は死にたくなんてなくなってた。キミと、キミと過ごす日々を愛してしまっていたから」
イシュタルはそう言って幸せそうなため息をついた。
やっぱりこいつは気にいらない。
いつも、私が言おうとすることを先に言ってしまう。
(私もだ、イシュタル――)
お前は、私が見てきたどの人間とも違う。違った。
天界で私が監視してきた人間たちは、皆が皆、汚れきっていた。食欲、性欲、金、権力、盗みに殺し。欲望と憎しみにまみれた醜い生き物、それが私にとっての人間だった。こんな連中がなぜのさばっているのか、私は不思議で仕方なかった。
でも今は分かる。私が見ていたのは人間のほんの一部分。いや、人間を疎む私の心こそが、そういう部分を見ることを望んでいたんだ。
傷ついた足に包帯を巻いてくれた、その手のあたたかさ。
寝物語に都の話をしてくれた、その声のおだやかさ。
いつも隣で微笑んでくれた、その瞳のやさしさ。
私を溶かす、イシュタルのすべて。
だから私は足が治っても去らなかった。天界から見下ろし続けた百年より、下界で過ごした三カ月のほうが、はるかに輝いていた。ずっとずっと、『人間』を教えてくれた。
「私も同じだ」
微笑みかけると、イシュタルが見返してきた。
「私も愛している」
私は自分を恥じる。
逃げよう、などと――後ろめたさがある証拠だ。
私はこの男を愛している。そのことに自信がある。そして同時に、愛されていることにも。
そうだ。この気持ちに、悔いも憂いもありはしない。愛することは善にして徳だと、父君はいつもおっしゃっていたじゃないか。
ならばこの感情は罪ではない。汚れでもない。天使の、そして人間の清らかさの何よりの証だ。
父君に会おう。会ってありのままを話し、滅びの洪水を止めていただこう。それが、私が彼のためにできる恩返しだと思う。
「シェム……」
「イシュタル……」
どちらともなく唇を合わせた。
いつのまにか風は凪ぎ、大気はどこまでも澄んでいた。背中をあずける樹から、水を吸う音がした。額に陽のあたたかさが伝わった。
イシュタルの手がそっと胸に下りた。
「! こ、こら、調子に乗る……んうっ?」
一旦離した唇が、またふさがれた。今度はもっと深く。
「んっ……ふうっ」
たったそれだけで力が抜ける。瞳がとろける。――情けない。
続けて衣を脱がそうと動く手、
「イシュ、タ……ば、か……こんな、ところで……あぅっ……」
止めようとするが、腕に力がこめられない。たちまちはだけられる胸、沿わされる舌。
「んふうっ……」
乳房を持ち上げる手と、這いあがってゆく舌。ぞくぞくする快感が小波となって背筋を伝う。やがて舌が頂上に達したときには、その先端はすっかり尖ってしまっていた。
「もう固くなってるよ、シェム」
「わ、わざわざ言わなくていいっ……くぅんっ!」
口でくわえられ、高い声が出た。
「んっ……ふ、あぁ……んっ! ふっ! んんっ!」
続けて小鳥のようについばんでくる。どうにか声を抑えたいが、頭の後ろを刺すような快感がそれをさせてくれない。
「う、ううっ……!」
「我慢しないでいいよ。もっと聞かせて。声」
「で、も……あっ、んんっ!」
なおも執拗に愛撫の雨が降る。
「ふうんっ……だめぇ、イシュタル……やっぱりこんなところじゃ……」
と、イシュタル、意地悪く笑い、
「そうは言っても、こんなに感じてるキミをほっとけないよ」
「かっ……感じてなんか……」
「感じてる。言葉遣いが可愛くなってるもの。キミのクセ」
「っ……~~っ!」
ばしばしと叩く、
「ごめんごめん」
と、苦笑しながら、イシュタルは不意にまじめな顔を向けてくる。
「シェム、愛してる」
「……う……うん」
「愛してる」
「うん……」
「愛してる」
「うん。うん……」
幾度も繰り返される愛の言葉。それだけで私は子犬のようにおとなしくなってしまう。私の愛した手と声と顔が、私を愛してくれる。それだけで十分な気がした。
「シェム、後ろ向いて」
言われるまま泉のほうを向いて、よつんばいになる。立ったままでは片足のイシュタルがつらいからだ。
「つっ……」
「どうしたの?」
「背中が……少し痛くて」
「大丈夫? やめようか?」
後ろからの心配そうな声に、私はうつむいたまま答えた。
「……やめたら……殺す」
プッ、と吹き出される。
「わ、笑うなっ」
「ごめんごめん。言うとおりにいたします、天使さま」
おどけた声と体重が、そっとおおいかぶさってくる。唇をとがらせる私の顔が水面ごしに見えたらしい、イシュタルはまた小さく笑って耳たぶに口づけた。
「入れるよ」
「ん……」
熱い塊が足の間に触れた。固く尖った亀頭が、ゆっくりと入ってくる。
「んっ…………あああっ!」
熱く濡れた秘洞を抜ける肉棒。息が詰まり、胸がいっぱいになる。
「はぁ……あっ、イシュタルの……ぜんぶ、入っ……た」
「動くよ」
「う……ん、ああんッ!」
ずず、と剛直が膣内をこする。
最初ゆるやかだった動きはやがて激しさを得て、奥を、そして入口をかき乱した。そのたび快感は膨れ上がり、熱は量を増す。愛液がみるみるあふれてくる。
「あっ、あっあ、ひゃうんっ! ふああっ、んんっ、はぁぁん!」
繰り返される抽送、膣奥を叩く肉棒、脳を焦がす熱い波。気持ちいい……気持ちいい。
身を焦がす快感の中で、しかし――またしても大きくなってきたのは、背中の痛みだ。
(いっ……痛っ……なんだ、一体?)
最初、筋を違えたかと思ったが、そうではない。ズキズキと点滅するようだった痛みは、いまや絶えず締めつけられるかのようだ。
痛い。背中が痛い。
いや、痛いのは、背中ではなく、
(翼――?)
イシュタルから聞いたことがある。ときおり無くしたはずの足がひどく痛み、まるで巨人の手で握りつぶされるような感覚があるのだという。
この痛みは、まるでその通りの、そしてどこかで味わったことがある――
「……あうっ!」
一際激しく突かれ、さらに前へ体がずれる。
水面に己の姿が移り――それを見た瞬間、私の脊髄に氷柱が突き刺さった。
片方の羽が、無い。
額縁をばらまくように、頭の中で記憶が弾けた。
蝋燭に照らされた牢屋。椅子に腰かけた悪魔。理不尽な賭け事。千切られた、羽。
顔を振り向ける。と、そこにいたのは想い人ではなく――紫の長髪にヤギの角、褐色の肌に黒猫の笑みをたたえた女だった。
「貴様ッ!!」
女――アンはぺろりと舌を出した。
「あら、バレちゃった」
「き、貴様っ、よくも……!」
「よくも思い出を汚してくれたな、かしら? どうしたの英雄サン、まるで恋するオンナノコみたいよ、んん?」
言いながら体をすりよせてくる。豊満な胸の感触が背中に伝わる。イシュタルの体は悪魔のものにすり替わっていて、それでもその肉棒だけは、彼のままだった。
沸騰しそうになる頭をどうにか抑えつける。
「……アンドロギュノスの真似ごとか。たわむれが過ぎるぞ、悪魔」
「たわむれでないことなんて、この世にはないわ。愛も夢もまぐわりも。だからもっと踊ればいいのよ。もっと」
「はっ……残念だったな。遊びは終わりだ。貴様の幻術は破った。私の勝ちだ」
勝ち名乗りをあげる私に、アンはしかし、
「ふぅん」
とつぶやき――いきなり腰を突き出した。
「くあっ?!」
衝撃が脳幹を貫く。悪魔は鼻で笑う。
「シェムハザイ? お遊びはまだ終わってないのよ。最後まで泳ぎましょう、この水びたしの股ぐらで」
「ふ、ふざけるなっ! そ、そんなっ、くぅっ、たわごろ、が、ひゃううっ?」
「なぁに? ろれつが回ってないわよ、マドモアゼル」
「今すぐ離れろっ! 幻からは醒めた、私の勝ちだ!」
「そうしたいのはやまやまだけれど……アナタがワタシのコレを放してくれないんだもの」
秘洞に収まったの剛直をゆさぶりながら、ふざけたことを言う。
なら無理やり引き抜いてやる、と私は前へ這いずった。が、すぐさま肩を押さえつけられ、
「貴様っ、いい加減に……?」
そこから先の言葉は、なかった。
肩ごしに振り返ったその顔が、今度は、イシュタルに変わっている。
そして、その顔が、見たこともないほど悲しそうな、切なそうな顔でこう言うのだ。
「シェム……どうして拒むんだい? どうして僕を受け入れてくれないんだい?」
「たっ……大概にしないか! もう正体は知れてるんだ!」
「正体? 何言ってるんだい、僕のことを忘れたの?」
「っ……!」
幻術だ。
だまされるな。まどわされるな。かどわかされるな。
「ねぇ、シェム……」
「黙れ、黙れ! その声を使うな、その顔を使うな! イシュタルを騙るな!!」
「僕を嫌いになったの? そうでないなら」
「黙れと言うんだァ!!」
ヒジを跳ね上げて引きはがそうとする。が、簡単に受け止められ、逆に腕をとられた。
そして悪魔はなおもイシュタルの声で、
「どうしてそんなことを言うんだい? こんなにも……君のことを愛してるのに」
「うっ……」
イシュタルの手が顎に伸びてくる。イシュタルの顔が、迫ってくる。
「愛してる、シェム」
「あ、あ、あ……」
拒むことはできなかった。触れる唇に、侵入してくる舌に、心の防御がぐずぐずに崩される。
「んっ……うんんっ……」
「ふうっ……くふう……あんっ!」
抽送が再開される。そして胸へ愛撫も。その両方に抗おうとして、でも、どうすることもできない。
「おっ……おのれ……くうっ、さわるな、さわるなぁ……」
拒絶するのは言葉だけ。体中のどこもが、触られるたびに素直に震え、赤らんでしまう。
「あんっ! んあっ、あっ、はあぁん! んっ、くっ、ふううんっ!」
「シェム、僕のシェム……」
剛直が先端近くまで抜かれ、また刺される。嫌だと思うのに、思いたいのに、心も体もそれを待ちわびている。じゅぷ、じゅぷと、水音を立てて、受け入れてしまう。
「やぁっ、あっ、あっ、はなせっ、この、悪魔ぁ……!」
「愛してる、シェム、愛してるよ……」
「いや、いやあっ!」
ささやきと快感。二つの毒が私を侵す。落ちてしまえと誘い込む。罠とわかっていながら、歩まされる。
(だ……め……)
もうダメだ。
我慢が出来なかった。涙があふれ出た。越えてはいけない一線を、越えてしまった。
私は屈服の声をあげた。
「ああっ、イシュタル、イシュタルぅ! あああん!」
あたたかい手。おだやかな声。やさしい瞳。
「好きっ、好きぃ、ふああっ、イシュタル、好きぃ!」
彼と作った思い出のすべてが。
一つ一つ。
丁寧に。
丹念に。
心を込めて。
――汚された。
「あんっ! あっ、あっ、あはあっ、ああああんっ!」
やがて脳を支配するしびれが、限界まで高まった。足腰が震え、秘洞が狭まる。絶頂が近い。
「く……くくくっ……くくくくくくく!」
それを察したように、頭上から悪魔の笑い声が落ちてきた。触れ合う肌の感触は、いまや女のそれだ。
きつく目をつむる。
私を抱いて、いや、犯しているのはアンだ。
けれどももう、絶頂からは逃れられない。ならば、せめてまぶたの裏にだけでも、彼の姿を――。
「くくっ、滑稽・滑稽・滑稽! 最高の喜劇よ、シェムハザイ……!」
傷口をえぐる悪魔の声に、私は体の奥から声をしぼり出した。
「こ、ころして、やるっ……殺してやる、殺してやるっ、殺してやるうううぅッ!」
涙とともに吐き出す叫び。それをかき消す高笑い。そして終結に向けて速まる肉のぶつかり。
何もかもが混ざりあい、ぐちゃぐちゃになってゆく感情の果てに、真っ白な光がはじけた。
「ふああああああああああああああっっっっ!!!」
白んでゆく視界の中、最後に聞こえたのは、女の声――
「ワタシの勝ち、ね」
周囲を確認する必要はなかった。
牢屋の中で目覚め、アンの姿を認めた瞬間、私は相手に飛びかかっていた。
「うああああああああ!」
気合一閃、突き出す右腕。そこから伸びた光の剣が完璧な手ごたえとともに、アンのみぞおちを貫いた。あっさりと――あまりにあっさりと。
しかし。
「あはっ。すごいわ、アナタの。太くて、カタくて、大きい……」
悪魔は絶命するどころか、そのまま笑いながら歩を進めてくる。ずぶ、ずぶ、ずぶ……と、肘までを飲み込んだ腹の傷口からは、しかし、血の一滴たりとも漏れてこない。逆に封じられたのは、こちらの腕だ。
「でも、おイタはだめ」
「ぐっ!」
とっさに出した左腕を、悪魔は右の手でカベに縫いつける。と同時に、もう片方の手で首を掴む。はりつけになった私を覗き込む目は、血に照り光る刃物そのものだ。
「おとなしくして。食べさせて、アナタのそれ」
ぞくっとするような声と吐息が首筋を通り過ぎて、右の肩に向かう。ゆっくりと焦らすような緩慢さでアンの口が開き、そのとがった牙が、翼に食いついた。
「ぐあああああっ!」
羽の根元に食い込んだ犬歯をさらに強く押し込み、顎を左右に振れば、そのたび発狂しそうな痛みが全身をかき乱した。
そしてついに――悪魔の牙が私の翼を食いちぎった。
「――――!」
ブヅン、と。
私の中の何かが切れた。私を天使たらしめるすべてのものが、まさにこのとき、完全に消え失せたのだ。
アンが胴から腕を引き抜く。傷口は瞬く間にふさがり、解放された私はその場に崩れ落ちた。
「う……」
さっきまでの痛みは、嘘のように消えている。そのかわり、果てどもない重みが体中にのしかかってきた。初めて肉の器に入ったときの、さらに何倍もの重み。そして疲労感。
これが――人間。
「残念無念。いかがかしら、全てを失った気分は? いっそスッキリしたでしょう?」
ころころと転がる悪魔の笑い声が、頭の中で反響した。
(全てを……失った……)
そうだ、私は天使でなくなった。もう空を飛ぶこともなければ、剣を出すこともできない。天界に帰ることかなわず、このままこの牢屋の中で朽ち果てるのだ。
普通であれば、ここで打ちひしがれるか、泣き崩れるかだろう。
だが。
「……まだだ」
奥歯を噛みしめ、震える膝で体を持ち上げる。
「私は、何も失ってなどいない」
そうだ、一番大事なものが残っているじゃないか。
私には帰るところがあるじゃないか。
私には――イシュタルがいるじゃないか。
「まだ終わっていない……私には賭けるものが残っている」
「どこに? 羽(チップ)はもう無いようだけど」
「ここに」
心臓を指差す。全身の血液が沸騰するのが分かった。
たぎる血のままに、私は宣言した。
「命を賭ける」
目を丸くするアン。
「お前が勝ったなら、私の心臓をくれてやる。その代わり、負ければすぐさまここから解放してもらう。いいな!」
対するアンの顔は――まさに悪魔的だった。
「くくっ……そう、そうなのね。アナタはそれを望むの。そうまでして戻りたいのね」
と、その獰猛な笑みを不意にかき消し、
「でも、今からアナタが目にするのは、絶望よりもなお暗きもの。終末よりもなお救われぬもの」
蝋のような指が私の足元を指す。
「そこから先に踏み出すのは、少なくとも勇気ではないわ。好奇心は猫を殺す。執着心は人を殺す。このまま甘くて淡くてあいまいな夢に遊ぶのも、一つのシアワセよ」
道化め。この魔女め。
この女は、最初から私がこう言うことを予見していたに違いない。
まっすぐに指を指し返す。
「猿芝居はよせ。つまらぬ挑発などいらん。乗ってやろう、お前の書いた筋書きに」
アンは今一度口の端を吊り上げた。
手の平を上向けて差し上げる――と、そこへワインをたたえたグラスが浮かび出た。
「ブラーヴォ。素敵よ、シェムハザイ。乾杯しましょう、アナタのおぞましき未来に」
それを斜めに傾ける。こぼれたワインはしかし、グラスの中からいつまでもなくならず、やがて床の上に大きな真円の水たまりを形作った。
「お入りなさい。アナタにはその価値がある」
言われるまでもなく、その前に立つ。足先を差し入れると、水たまりの底に床は無く、無限に開いた穴の予感が足裏に伝わった。だがもう臆することなどありはしない。
(イシュタル……必ず戻るからな、お前のもとへ)
私は最後の戦場へ身を投げ出した。
鳥の声が聞こえる。紅に染まった空を、黒い影が一つと二つと横切り去ってゆく。
「カラス、か……」
時は夕方。冷えた西風が木々をすり抜けてゆく中、私は一人、坂道に立ちつくしていた。
身にまとうのは皮衣。手には何も持たず、見上げれば坂の上、山腹の中ほどに見慣れた小屋が見えた。
「……ここ、は……イシュタルの山、か」
と、突然、背後から両目をふさぐ手。
「だぁ~れ……わっ!」
刹那、投げ飛ばそうとして伸ばした腕は、すんでのところでかわされた。
「わぁ、あぶないあぶない。また投げられるところだったわ」
目の前で、そう言って胸をなでおろしたのは、意外な人物だった。
「ア、アゼル?」
天界から降りて以来、はぐれっぱなしになっていたアゼルだ。
「アゼル、お前……どうしてここに」
「どうして? ずいぶんな言い草ね。さんざん人に探し回らせておいて」
唇をとがらせる彼女を前に、私は頭の中をさらった。
これは幻術。私の記憶を再現した、悪魔の幻だ。そして、この空間において正気を保てなければ、私の命はない。
よし。ここまではいい。ちゃんと自我は保っている。
だが――前回の賭けから記憶は進んでおらず、なぜアゼルがここにいるのかも全くわからない。ということは結局、何も知らぬのと同じこと。
(目の前で再現される過去に付き合うほか術はない、か)
「ねえ、聞いているの、シェム?」
幻のアゼルがずい、と詰め寄ってくる。可憐な顔も、眉根を寄せるその叱り方も、まるきり本物だ。
「大変だったのよ、本当に。捜索三ヵ月目にして、この山で貴方たちを見つけたときのわたしの喜び、あなたに理解できる?」
「あ、ああ、面目ない……」
と、ふと気がついた、
「……貴方、『たち』?」
「そう。人間さんと一緒にいたでしょう。片足の」
「イシュタルのことか」
「そう、イシュタルさん。いいお名前よね」
と、そこでようやくアゼルは笑顔を見せた。天界で見ていたとおりの、花の開くような微笑みだった。
「さっき偶然、泉のところでお会いしたの。水汲みに行ってらしたようだけど」
「……あいつめ、あれだけ言ったのに」
舌打ちをする私に、アゼルは「歩きましょうか」と泉の方向を指さした。
坂道を二人で並んで下る。頭上には朱の天幕が張られ、真珠のような白い月が浮かんでいる。ゆったりと泳ぐ黒い点々は、巣に帰るカラスの群れだ。
「きれいね」
「ああ。地上も悪くない。イシュタルとは話したのか?」
「ええ。おもしろい方ね、あの人間さん」
「おもしろい? まぁ……多少変わったヤツだとは思うが」
「だって、いきなりノロけられちゃったもの。貴方のこと愛してるんだって」
「ぐっ!」
喉が詰まりそうになった。
あいつめ、初対面のアゼルに何を……
「なぁに。シェムったら照れることないじゃない」
「べ、べつに照れてなどいない!」
「ふぅん。ならいいけど?」
横目で笑いながら、腰の後ろで手を組んで歩く。私が念押しに「照れてない」と言うのにもとりあってくれない。
「でも本当におかしい人」
と、もう一度クスッと笑うアゼル。鈴の転がるような声で、
「だって、天使と人間が愛し合えるわけないじゃない」
「え……」
思わず足が止まった。
頭上をカラスの群れが飛び越してゆく。
アゼルはかまわず坂を下ってゆく。
「それでね、わたしがそう言ったらね。あの人、『そんなことはない』なんて言い張るの。ムキになっちゃってもう、かわいいったら」
「……」
後ろで組んだ手が、揺れながら遠ざかってゆく。ざわざわと胸に蠢くものがあった。
考えてもみろ。
アゼルは何のためにここに来た? 天界で彼女は自分のことを何と言った?
『貴方のお目付け役』――そう、彼女は私の行動を監視しにきたのだ。
それが、はぐれた末にようやっと見つけたと思ったら、人間と通じあっていた。彼女はどう思う?
イシュタルを愛したことに悔いはない。ないが、私は彼女にまだ何の事情も話していない。そんなときにアゼルがイシュタルに出会ったら――
止まった足を急がせて、アゼルの背中に追いすがる。先を行く親友の顔は、長い髪に隠れて見えない。
「でもほら、冗談も過ぎるとなんとやらじゃない? あの人、身の程知らずの上にしつこいのね、食い下がられて」
「アゼル」
「何しろ親友の身にかかわることだし、わたし、らしくもなく、えーと……イラついちゃって」
「アゼル!」
肩をつかんだところで、ようやくアゼルは言葉を止めた。斜陽を吸った横顔が、ゆっくりこちらを向く。
ぞっとした。
その顔はあまりにも――あまりにもいつもどおりで。柔らかく開いた花のままで。
「シェム。だから、ね」
どろり、と夕日が溶けて。
「ちょっとだけ、おしおきしてあげたの」
カラスが一つ、大きく鳴いた。
私は唾を飲み込んだ。
「アゼル……それは、どういう……」
「あ。ほら、見えた。あそこに」
アゼルが指さす先。坂道の終わりに泉が見えた。
異様な光景が広がっていた。
カラスがいる。十匹、二十匹――いや、もっと。まるで黒い小山だ。
それが口々に鳴き声をあげ、羽をばたつかせながら、我先に何かをついばんでいるのだ。何かを。
黒い予感が私を走らせた。カラスの群れを蹴散らして、空へ追い払う。散り散りになった黒い塊。その中心。隠れていたモノが姿をあらわす。
見た。見てしまった。
「あ……あ、あ……」
予感は確信へ、そして絶望へ。
一体どれくらい凌辱されていたのだろう。ボロボロのずた袋のようになったそれは――
「イシュタル!」
その体を抱き上げる。
両目をくり抜かれ鼻をこそぎ取られた顔は原型をとどめておらず、しかし、血に黒ずんだ赤髪は、まぎれもなく彼のものだった。
その左胸には、突き通されたような大穴がある。
――アゼルの得物は、槍だ。
「イ、イシュ……」
「かわいそう」
ふわりと柔らかな感触が首筋を包んだ。
「かわいそうにね、シェム。こんな悪い男にだまされて……でももう大丈夫」
声はやはり羽毛の柔らかさだった。
「これはね、とと様の命令じゃないわ。むしろわたしは、とと様から貴方を守りたいの」
「……」
「貴方には、とと様に対する裏切りの疑いがかけられてる。これから監察に降りてくる天使たちがいるわ。だけど安心して。悪い虫はつぶしたし、貴方の潔白はわたしが証明してあげるから」
絹の手がそっと顎をなでてくる。肩越しに、顔と顔が向かい合う。
「だから、ね。一緒に帰りましょう、わたしの愛しいシェム……」
切なげな吐息が近づいてくる。濡れた唇と、細くすがめられたその瞳が、ゆっくりと――
「――ッ!!」
突き飛ばした。
アゼルが背中から転がり倒れ、私は水から上がったように息を吐きながら立ち上がった。
「はあッ、はあッ、はあッ! ……アゼル!」
首だけを起こしながら、アゼルは信じられないものを見る目をしている。
続く言葉が出てこない。何を言えばいいのか分からない。
私はどうすればいいのだ? どうしたいのだ? アゼルを憎めばいいのか? それとも謝ればいいのか?
(私は、私は――)
答えを出せず立ちすくむ、そこへ、アゼルはゆっくりと上体を起こす。
その顔には、なぜか一切の感情がなかった。
「アゼル……?」
かわりに、口元から赤い筋が垂れ落ちる。
そして。
その腹から、赤黒い、血と臓物が。
袋の破れたように。
私は自分の手元を見た。
右手に、べっとりと血がこびりついている。
「そ、そんな……」
――『裁きの剣』。
「わ、私……私……そんな、そんなつもりじゃ」
顔を上げると、アゼルの目はもう、どこも見ておらず。
「……シェム……どうし、て……」
消えるようにつぶやいて、その体が横倒しに伏した。
「あ……あ、あ、あ、あああああ」
目の前が灰色になった。震えが止まらなかった。両足が消え、果てしなく落ちてゆく感覚が来た。
落ち着け。これは幻だ。悪魔の見せた偽りの光景だ。気を静めて目を閉じろ。そうしてまたゆっかりまぶたを上げれば、ほら、微笑みかけてくるアゼルとイシュタルが……
「……っ」
そう思いたいのに、そう信じたいのに、なのに、視界を埋めるのは、二人分の骸。
ズズ……と地面が揺れた。地震かと思った瞬間、それは大きなうねりとなって私の足元に殺到してきた。
水。
泉の水が爆発的にあふれ出し、坂を逆流しているのだ。
「な――?」
遠くへ目をこらせば、川も湖も、そして海もその水位を上げ、牙をむいて陸を襲っている。
洪水だ。
神が地上を洗い流すべく、裁きをくだされたのだ。
「ま、待ってくれ! まだ、まだ……」
だが迫りくる水は止まるわけもなく、草木を次々と飲み込んでゆく。
二人の体を両脇にかかえ、空へと逃げる。――が、自分を含め三人分の体重を支えるには、肉の翼はあまりに非力だった。失速した末、木にぶつかり、二人を取り落としてしまう。
「しまっ……!」
手を伸ばしても遅かった。目の前で、二人の体は濁った波に吸い込まれた。
見えなくなる。アゼルとイシュタルが、私が想い、私を想ってくれたかけがえのない者たちが、手の届かないところへ消えてゆく。
私は顔をおおった。両手で隠れた視界よりもなお、目の前は真っ暗だった。
(なぜ――)
なぜだ。なぜこんなことになる。
私はただ。私はただ――
「いやあああああああああああああああ!!!」
悪夢のような幻が明けた。
いや、幻ではない。悪夢でもない。
あれは過去。私が出会った、私が引き起こした、まぎれもない現実。私の罪。
「おめでとう、アナタの勝ちよ」
アンが祝福の言葉にも、私は身じろぎひとつできず、床にうずくまっていた。
「どうしたの? もっと喜びなさいな。最後まで正気を保てたのよ?」
(……正気?)
私は、正気でいられたのか。……そうなのか。
違うような気がする。もう私はとっくに狂っているような気がする。あの洪水で正気を失った自分が、そのまま今につながっている――いっそそうあってほしいと思う。
「地上は……どうなったんだ……?」
「根こそぎ流されたわ。ノアという男とその家族、それから少しだけの生き物を残して、ね」
鉄の鎧を着せられたようだった。
「洪水から逃れたアナタは、近くの高い山へと身を隠した。水が引いてから山を降り、アゼルとイシュタルの遺体を捜すも見つからず。途方にくれているところに、天界からの刺客がやってきてそのまま逃走、そして翼を射られてガケから落ちて――」
カツン、と靴音を立てて、アンはこちらに歩み寄った。
「もう分かったでしょう? アナタは忘れていたんじゃない。『忘れたかった』のよ。あまりにもつらすぎて、認めることを拒んだの。だからワタシはそれを叶えてあげた」
褐色の腕が私を抱きすくめた。
「可哀想に、ね。思い出さなければ真っ白なままでいられたのに」
「……」
私は答えない。答えられない。迷い子の瞳で、ただ弱々しくつぶやくのみ。
「どうすれば、よかったんだ……私は……私のしたことは間違っていたのか……?」
アンは首を横に振った。
「生きることは選択すること。そして全ての選択に正解も不正解もないの。あるのはただ、導き出された結果だけ。それがアナタにとって幸であるか不幸であるか、それはアナタ自身が決めればいい」
ともすれば冷たく聞こえる言葉とは裏腹に、髪をなでる手はやさしかった。私はうつむいた。
「私は決められない。その資格も……ない」
「そう」
と言って。
「でも、賭けの清算はしなければ、ね。約束通り解放してあげる」
え、と顔を上げた瞬間、
「――!」
ごん、と岩の落ちるような音とともに、視界が暗転した。
そこは、まるで夜の海の中だった。
右も左も何もない。どこまでも闇は果てず、頭上からほんのわずか差し込む光が、かろうじて視界を約束するのみ。目をこらせば、足元からぽこぽこと小さな泡が生まれては浮かび上がってゆくのが見えた。
そんな奇妙な空間の中で、私とアンは二人、向かい合っている。
「解放するんじゃなかったのか」
褐色の指が揺れるのが見えた。不思議なことに、この闇の中でも、彼女の姿だけは切り出したようにはっきりと見える。
「そうよ。アバンチュールはもうおしまい。正確に言えば……アナタは、最初から、ここにいた」
「……どういうことだ?」
アンは答えない。その赤い瞳が、一度閉じて、また開かれる。
「!!」
巨人の胃の中に放り込まれた気分だった。
アンは何も変わらない。瞳の色も形も元のままだ。なのに、周りの空間があきらかに重みを増した。
(なんだ、この重圧――!)
喉が渇く。血が冷える。膝が震えて、崩れそうになる。
直感が言った。こいつはタダの悪魔じゃない。サタンよりベルゼバブよりアスタロットより、もっと恐ろしい何かだ。
「何者なんだ……お前は……」
ずっと考えていた。そして分からなかった。
人の記憶を操り、幻術を駆使する。どれだけ頭の中をさらっても、こんな悪魔は知らない。見たことも聞いたこともない。敵なのか味方なのかもわからない。
私を助け、私を苦しめる、この女は一体――
「ワタシの名前はアン・ネイムド。アナタの望みをかなえる、名前の無い召使い。アナタの望みはかなえてあげた。今度は、ワタシの望みをかなえてちょうだい」
「なんだ……と?」
「ワタシの名前はアン・ネイムド。つまるところは名無しのアン。だからワタシの欲しいもの、それは――」
花弁の開くように笑って、指を立たせる。それが向かう先は、私だった。
「アナタの名前、よ」
< 続く >