Bloody heart 一話

一話

「では、2-Cの出し物は、お化け屋敷に決定します」
 『おばけ屋敷』と、白いチョークで黒板に書かれた文字の上に赤いマルが描かれ、拍手とブーイングが教室を満たした。
「あー、マージーカーヨー。ゼッテーコスプレ喫茶店だって! ってか『お化け屋敷』って、こんな狭い教室でどーやってやんだよー」
 机に突っ伏しながら、俺はダダをこねた。
 ちなみに、黒板に書かれた『お化け屋敷』の下には、『正』の字が三つに一の文字。『コスプレ喫茶店』の下には『正』の字が三っつ描かれていた。
 得票差一票。三〇人前後のクラスの人数を考えずとも、実に僅差だったと言えよう。
 まあ、それもそのはず。
「嫌よー、コスプレ喫茶なんて!」
「そーよー。いつも女子にHな服装させて、男子が喜んでるだけじゃない!」
「セクハラはんたーい! お化け屋敷かくてー!」
 一斉に、女子からのブーイング。
 お化け屋敷に投票したのは、全員女子生徒である。
 去年、クラスの男子全員が共謀して、女子全員が『コスプレ』をさせられたため、今年は事前に女子全員が打ち合わせを済ませ、お化け屋敷に投票する事になっていたのだ。
 このクラスの内訳は男子、十五名、女子十六名。団結力が拮抗していれば、あとは数の問題である。
 かくして、民主主義という名の数の暴力によって、俺も含めた男子の夢(どりぃむ)は花と散った。
「お化け屋敷なんて、儲からねーよ!」
「そーだそーだー。打ち上げの金、何処からひねり出すんだよー!」
「いまどき、文化祭でお化け屋敷なんて、やってるトコねーよー!」
 とはいえ、男子サイドから沸き起こるブーイングは、至極ごもっともと言ってもいい意見だ。
 文化祭後の打ち上げ会は、各クラス、およびサークル単位での楽しみと言っていい。そして、そこで振舞われる料理のグレードやその他は、模擬店の売り上げによって大きく左右される。
 売り上げ増を主張する男子サイド、セクハラ反対の女子サイド。
 多数決を終えた後も、双方の意見は平行線のまま、教室のボルテージは果てしなく上がっていき……
 バンッ!!
 激しい音が教室に響き渡り、ブーイングの嵐が沈黙に変わる。
 教壇に立つ、眼鏡にセミショートの髪型の少女……学級長のサナ、もとい、飯塚佐奈が黒板を叩いたのだ。
「さて、男子から打ち上げの売上金に関しての反論がありますが、ここでハッキリと言います。コスプレ喫茶は儲かってません!」
 静まり返った教室に、佐奈の以外な言葉が響き渡る。
 手元のノートを見ながら、去年の売り上げ効率やら、他のクラスの出し物の売り上げやら、あれこれを示すグラフを黒板に書く佐奈。
 その描かれた数々のグラフの中で、1-Cのコスプレ喫茶の売り上げグラフは、時間がたつごとに猛烈な下降線を描いていた。
「これは、去年の文化祭の各出し物の売り上げを、時間ごとにグラフ化したものです。そして、最終的な売り上げはこちら。結局、最終的に普通の喫茶店と変わらない売り上げでした。皆さん、何故だかわかりますか?」
 教室は、沈黙したままだった。
「第一に、飲食店は競合店舗が多いこと。第二に、お客さんがコスプレした女子をジロジロ見ながら長居するから、席の回転率が上がんないこと。加えて、盗撮する人間も出ました。よって、我がクラスでコスプレ喫茶を行うメリットは、何一つありません!」
「でも、お化け屋敷ってのもツマンネーぞー」
「売り上げ上がんなかったら、どーすんだー!」
「客単価上げていけばいーだろーがー」
 男子からのブーイングに、佐奈は余裕の表情でチッチッチ、と指を横に振る。
「私が企画するお化け屋敷が、タダのお化け屋敷なワケないでしょ? 『本格的な』お化け屋敷よ。それに、どっちにしろこれは、多数決での決定事項です!」
 そう言って、再び彼女はバシバシと黒板を叩く。
 チョークの粉が、派手に舞った。

 拉致。
 それは、万国共通でれっきとした犯罪であるハズだ。
 だが、隣近所に独裁国家がある現代日本では、ごく日常的に行われている事のよぉである。
 そう。たとえば今の俺のように。
「偉大なる同志委員長様。おねげぇですから、私をお空に放してあげてくだせぇ」
「ダメ」
 放課後。
 何の因果か、俺――伊藤清吾は、クラス委員であり幼馴染でもある暴君、飯塚佐奈に拉致されていた。
 どうやら、民主主義とか幼馴染とか名がつく存在は、すべからく暴君を生みだすシステムらしい。
「心配しなくても、ちょっとした文化祭のための買出しだけだから。すぐ終わるわよ」
「女の買い物が『すぐ終わる』ためしなんぞ、この世にあるわけ無いだろぉが」
 世界の法則を理由に、俺は逃走を試みるが、がっしりと襟元を掴まれて引きずられてしまう。
「あだ、あだだだだ、痛てぇって、おい、引っぱんな、クビ締まるクビ……っ!!」
「だったら素直に来る!」
 そういって、俺の腕を掴むと、再び、女子とは思えない、おっそろしい力で引っぱられた。って……なんだ、こいつ、こんな力強かったか!?
 やがて、連れて行かれたのは、小ぢんまりとした小さな『店』だった。
「ここ?」
「そうよ」
 その店の存在そのものには、見覚えがあった。駅から学校までの通学路の途中にあるため、おそらく全校生徒が『目にしては』いるだろう。
 だが、意識に止めている生徒は絶無なハズだ。何故なら……
「なあ、ココ『何屋』なんだ? ってか店なのか、ホントに?」
 一応、店舗らしき店構えをしてはいるが、看板も無い。道路に面したガラス張りの陳列ケースも空白。外から中を覗ける窓は無く、出入り用の扉があるだけ。
 ただ、中からたまーに人の気配がするから、俺はどっかの会社が倉庫代わりに使っている、空きテナントか何かだと思っていたのだが……
「ふっふっふ♪ 私が何の勝算もなく、お化け屋敷なんてチープな企画を通したと思う?」
「まさか、ここでお化け屋敷やるってんじゃないだろぉな?」
 確かに、ある意味、何か出てきてもおかしくは無い。
「あら、失礼しちゃうわね」
 出入り口の扉を開けて、出てきたのは……なんというか、美人だった。
 腰まである流れるような黒髪に、すらっとした長身をピッチリとスーツで包んだ美女だ。スーツから現れるラインは、文字通り出るトコ出て引っ込むトコ引っ込んで、いわゆる『パッツンパッツン』の……あ、生唾が。
 ごほん。
「あ、えっと……どうもすいません」
 とりあえず、頭を下げる。
「よろしく。この店の主人。赤井美佐よ」
『妖艶』という単語の意味を、初めて俺は理解したような気がした。
「あ、あの……失礼ですが、この店、一体ナニを扱ってるんです?」
 俺ならずとも、誰もが思い浮かべるであろう疑問に、彼女は微笑を浮かべ、
「いろいろ、よ」
「いろいろ、ですか?」
「そう、いろいろ。とりあえず、中にお入りなさい」
 そういうと、ヒールの靴音を響かせて、店の中へと入る。
 ついていくと、店内には怪しげな品物が、所狭しと並んでいた。
 何かの牙を連ねたネックレスや、笛、小物、トーテムポール、マネキン、果ては兜や刀剣の類まで。
 骨董品店……というより、一種のオカルトアイテム専門のジャンクショップといった趣だ。なるほど、ここでアイテムを揃えたならば、佐奈が言う『本格的な』お化け屋敷も不可能ではないだろう。
「それで、佐奈さん。この間渡したあれ、気に入ってくれた?」
「はい……とっても」
 !?
 一瞬、眼鏡の奥の佐奈の表情に朱が差したような……気のせいか。この潔癖症のおぜぅさま、ついこないだまでグラビアアイドルの写真すら嫌がってたくらいだし。
「それで、ですね、今度、うちの文化祭でお化け屋敷をやる事にしたんです。それで、こちらの品から、幾つか貸し出してもらえないかな、と」
「うーん、貸し出しは原則していないんだけど……そうね、君みたいに『縁』のありそうな子は、買ってもらえるかもしれないし」
 あぅ……
 店長と佐奈のやり取りを聞いて、俺は後退した。
 今、俺のサイフの中には、生活費を除いた自由になるお金は、夏目漱石と野口英世の混成一個分隊(4名)しかない。しかも、この金で月末まであと二〇日、あれやこれや個人的な細かい出費のやり繰りをこなさねばならないのだ。
 正直、余計な出費はカンベン願いたかったっつか、そんな余裕はマジで無い!
「え、えっとぉ……」
 と、その時、後ろに手を触れたそれが、キャハハハハと音を立てて笑い出した。
 何事かとそちらに目を向けると、吸血鬼のマネキンだった。恐らく、何か細工が成されているのだろう。
「あら、この子も『縁』があったのかな?」
「え、そうなの♪」
 クスクスと笑う、店長と佐奈に……なんでだろうか。俺は底知れぬ不安を抱いた。
 マズイ……なんだか分からない。だが、頭の中で猛烈に警報が鳴り響く。
「そ、そうでもないっすよ。俺、お金ないですから。金の切れ目は縁の切れ目っていうけど、元から金が無いんじゃ縁もクソも無いっしょ」
「あら、そう?」
 つぃっ、と近寄ってくる佐奈。その目が、明らかに普段とは違う妖しい輝きを帯びていた。
 ヤバイ。
 ヤバイ。
 ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ!!
「でも大丈夫。すぐにお金なんて『どうでもよくなる』わ」
 そう言うと、佐奈は俺を抱き寄せて唇を重ねてきた。
「ん!!」
 思わず、反射的に振りほどくと、俺は店の出入り口の扉に手を伸ばし……そこで、がくん、と膝から崩れ落ちた。
 動かない……
 動かないのだ、体が。
 まるで、全身に鉛の錘をとりつけられたように、ひどく全身が重い。
「ひどーい、幼馴染の、精一杯の告白を突き飛ばすなんて」
 幼馴染? バカ言え。
「おまえ……誰……だ?」
 妖しい光を放つ瞳を睨み据え、俺は辛うじて言葉を搾り出す。
「私は佐奈だよ。飯塚佐奈。セイ君の幼馴染……」
 そのまま、制服のブレザーを脱ぐ。スカートが落ち、無地のパンツとYシャツだけの姿になる。すらっと伸びた太ももの内側にある黒子には、確かに見覚えがあった。
 子供の頃、一緒にお風呂に入った時と変わらない。だが……
「店長さんにね、とってもステキなモノを売ってもらったの。ふふふ……」
 そういうと、俺の上にのしかかり、再びねっとりと唇を寄せてくる。
「んっ……ぐぅ!?」
 吸われている。
 唇を割り込んだ舌先が、歯茎を愛撫する感触。だが、それだけではない。
 全身の力を吸い取られ、代わりに純化した快楽を流し込まれるような感覚に、俺は翻弄された。
「ぷはぁ。ステキ」
「さ……な」
「ふふ、セイ君の精気、とってもおいしいよ」
 そう言うと、制服のズボンの上から、俺の股間に手を伸ばす。
「ああ、セイ君のおち○ちん。ちゃんと皮がむけて、大きく育ったなぁ……ふふふ」
 服の上から、俺の肉竿を撫で上げる佐奈。そのままチャックを下ろして中身を取り出すと、躊躇うことなく、唇を寄せて、下を出しながら根元から舐め……え、ええええっ!
「うあっ! 佐奈……その」
 蛇か何かのように長々と伸びた舌が、快楽にいきりたった俺のイチモツに巻きつき、ねぶりあげる。
「ああ、セイ君のチ○ポの臭い……男の人のモノの臭い……」
 そのまま、ジュバジュバと音を立てながら、佐奈は舌を蠢かせる。
「すてき……大きくてビクビク脈打って」
 そのまま、蛇が獲物を丸呑みをするように、一気に佐奈は自分の舌ごと、俺のチン○を飲み込んだ。
「んぐぅ……ん……じゅぷ……じゅば……じゅぶ」
「う、おっ……おあっ! さ、サナ、止めっ!」
 口の中で蠢く舌の動きに、下半身の奥底から欲望の塊が導かれ、せりあがってくる。
「ぢぅぅぅ! ちゅぶ、ちゅば、ちゅば……ぢぅぅぅう!」
 止まらない佐奈の舌使いに、いつの間にか、俺の腰も止まらなくなっていた。佐奈の頭を掴むと、その口を犯すように肉竿を突き入れる。
 程なく、射精の衝動が肉竿を駆け上がった!
「うっ……んぅっっ!」
「ぐっ! おぉぉぉぉ!」
 びくびくと脈打ちながら放たれる精を、佐奈の喉の奥に叩きつける。と、同時にゴッソリと体力を奪われたような、虚脱感が全身を襲った。
「ふぅ……おいしかった♪」
 小悪魔そのものの笑顔を浮かべる佐奈。そこには、性に疎い幼馴染の面影も、厳粛な学級委員長の面影も、残っていなかった。
「びっくりしたでしょ。店長にね、コレを譲ってもらったの」
 そう言うと、佐奈はパンツをずり下ろした。ねっとりとした糸が、布地との細い糸を描き……その、蜜をしたたらせる秘唇のむこうがわ。腰のあたりから、細い紐……ちがう、尾が生えていた。
 三角形に尖った先端。全体的に黒ずんだ色。戯画化された悪魔の尻尾のようなそれが、佐奈の尾てい骨のあたりから伸びていたのだ。
「これ、サキュバスの尻尾なんだって」
「このお店はね」
 ヒールを鳴らして、店長がやってくる。
「ダークストーカーへの転生の鍵となる存在(もの)を、扱っているの」
「ダーク……ストー…カー?」
 妖艶な唇が紡ぎだす言葉に、俺は聞き入っていた。
「夜を歩く存在(もの)、闇に蠢く存在(もの)、妖怪、悪魔、異形、物の怪……色々呼ばれているけど、要は、人を超え人を糧とする人に在らざる存在(もの)」
「……」
 店長の説明は、理解できなかった。だが、佐奈の変貌ぶりを見れば、なんとなくそれが何を意味するかは理解できる。
「君は、幸運よ。二つの選択肢があるのだから」
 そう言うと、店長はなにやら小さな箱を、俺に手渡す。中には、一対の尖った犬歯が、あった。
「『覇王の牙』。これが、貴方の『縁』に響いた道具」
「このお店の品物って、『縁』がないと買っても意味が無いモノばかりなんだって」
 そう言うと、佐奈が俺に体をすりよせる。
「これを使うか、サキュバスに転生した佐奈さんに、最後まで精気を吸われるか。選びなさい」
 冷徹な、店長の言葉が、罠に嵌められた俺に響いた。
「セイくんがダークストーカーになるか、私がセイくんを永遠の奴隷にするか……どっちにしても、ずーっと一緒だよ、セイくん」
 淫蕩な狂気に満ちた佐奈の目が、俺を見すえる。
 そして、俺は……

「だいじょうぶ?」
 店から逃げるように飛び出した俺を、佐奈が追いかけてくる。
「触るな!」
 支えようとする手を振り払って、俺は歩き出す。
 ダルい、などという言葉じゃ括れないくらい、体が重い。底なし沼の泥の中を、動いているようだ。
 だが、それでも、一刻も早く、俺はこの場から……あの店と、佐奈の前から立ち去りたかった。
『少し、考えさせてくれ』
 余りにも、われながら虫のいい要求は、いとも容易く受け入れられた。
『少しって、どのくらい?』
『え、あ……1週間……1週間以内に、結論を出すから』
 とっさに出た、言葉。
 勿論、そんな甘い話は無いと思っていた。
 だが、店長はすんなりと俺を解放した。そして……
『はい、これ』
『……金はないぞ』
『いいわ、あげる。特別にタダよ』
 そう言って、手元にくだんの牙が入った小箱を押し付けたのだ。
 そして今、その小箱から、歩くたび、カラカラと乾いた音が鳴っていた。
 と……
「……佐奈?」
 路上に立ち尽くした佐奈が、静かな嗚咽を漏らしていた。
「ごめんね……ごめんね……」
「……」
 思わず、俺は立ち止まってしまった。くそ……
「私、セイ君が好きなの。本当だよ」
 零れ落ちる涙を拭いながら、佐奈は意外な独白……いや、告白をした。
「でも……私、自分の事、つまんない子だって知ってる。私みたいな、虚勢を張らないと他人に何も言えない弱い子は、セイくんみたいな本当に強い子に似合わないって……だから、いつも何処かで自分を変えたいって思ってて……」
「強い? 俺が?」
 以外な言葉に、俺は耳を疑った。
「強いよ。
 セイくん、おじさんとおばさんが、あんな事になっても一人で生きているじゃない。自分で学費と生活費稼いで、学校にも通って」
「んー……いや、それってアタリマエだろ? ってか、殆ど、遺産収入と保険金で食い潰している状態だし。バイト代なんて屁のツッパリにしかなってないよ」
 まあ、普通は祖父母とか親戚に面倒を見てもらうのだろうが……ちょいとした事情で俺は一人暮らしだ。それはともかく。
「私はダメなの。セイ君みたいに強く生きられないって知ってる。だから……」
「……それで人間を棄てたのか?」
 それが、佐奈の弱さなのだろう。
 考えてみれば、クラス委員などの仕事を佐奈が積極的に引き受けていたのも、変わりたい、という願望から来たものなのかもしれない。
「人間には、戻れないのか?」
「戻れるんだけど……恐いの。私が、こうして告白できるのも、この尻尾のおかげだから」
「そっか」
 何かの本で見た話だが、カルト宗教の本質は『イッパツ逆転』だそぉな。既存のルールをぶっ壊し、自分が有利な新たなルールを創造すれば、一躍、勝ち組のヒーローだ。
 勿論、そんなモノは、まがい物率99.9999999999%。常識や日常、価値観、ルールなんてモンは、そー簡単に壊れる程ヤワではない。が……宗教関係に限らず、既存の価値観やルールを破壊し、新たな価値観やルールの創造に成功した人間が、ヒーローたり得るのも、また事実だ。
 そして、佐奈の場合、おおよそ人間が想像し得る範囲の中で、イチバン有り得ない部類に属する博打に、成功した例と言っていい。そんな結果を出した人間に『無かった事にしろ』というのは、いささかムリがある。
「そっか……」
 深く、俺はため息をついた。
「軽蔑した?」
「お前を蔑(さげす)めるほど、俺は強くねぇよ」
 偽らざる本音で、答える。
 佐奈のような弱さは、俺にもある。おそらく、誰にでもあるのだろう。己の弱い所を突かれ、堕落した者を哀れみこそすれ、蔑む資格は人である俺には、無い。
「そうだよね……だから」
 再び、眼鏡の奥の佐奈の目が細く絞られる。フラついたままの俺は、抵抗する事も適わず佐奈に抱きすくめられた。
「だから、私はセイくんを略奪するの。一生、私の奴隷にして」
「ならねぇ。俺は……」
 誰に萎縮せず、誰に怯えず、誰を支配せず、誰を蔑まず。ただ、人と接する時は、真っ直ぐその人を見れるようになれ。他を支配するより、己を支配せよ。
 俺の尊敬するある人の言葉であり、俺の生きるポリシーでもある。
「知ってるよ、セイくんが凄く強い子だって。私じゃ追いつけないくらい、強いって。だから……」
 再び、佐奈が顔を近づけ、俺の唇を貪った。
「……私のところまで、堕ちて」
 奪われる意識と体力。そして、同時に注がれる快楽。
 そして、体が浮遊感を感じた瞬間、俺は気を失った。

「……気分はどう?」
 取り戻した意識の中、最初に目に飛び込んだのは、眼鏡を外した佐奈の顔だった。
 怪しい光を湛える瞳。
 頭の両脇から生えた角とも翼ともつかない漆黒の物体。
 黒く塗られた唇から、ちろちろと覗く艶かしい、赤い舌。
「おまえ……」
 全体的に蝙蝠を模した、赤と黒を色調にデザインされたボンテージレオタードが佐奈の体を覆い、あまつさえ背中から大きな漆黒の翼が生えている。手足はエナメル質のブーツと手袋が、それぞれ二の腕とフトモモまでを覆っていた。
「この翼も服もね、私の魔力が作り出したモノなの」
 そういうと、その場でくるりと回ってみせる。
「どう? 似合う? 勃起した?」
 妖艶そのものな姿で、佐奈は無邪気に、しかし艶然と微笑んだ。
「ああ、綺麗だ。思わず犯りたくなった」
 ウソ偽り無く答える俺に、佐奈は満足したようだ。
 体を起こして周囲を見回すと、その部屋には見覚えがあった。
 子供の頃、遊びに来た時とは家具などの配置が若干変わっているが、まぎれもない、佐奈の部屋だ。
「本当に人間、ヤメちまったんだな」
「うん」
 艶姿のまま微笑む佐奈を見て、ふと……何故か、涙が出てきた。
「セイくん? なんで、泣くの?」
 そう、何故だろうか……何故か。
 答えは、意外にもアッサリと出てきた。
「……俺が、お前を好きだったっつったら、お前は信じるか?」
「!?」
 動揺する佐奈。
 同時に、口にしたことで、その認識が確信に変わった。
「ふ……ふふふふ……は、ははは……あっはっはっはっは!」
 笑う。
 最早、笑うしかなかった。
 土壇場のこの期に及んで、自分の気持ちに気づかされる愚かしさに、最早涙しか出ない。笑うしかできない。
「……じゃあ、な。俺は化け物になるのも、その奴隷もまっぴら御免だ!」
 そう言うと、ポケットに手を突っ込むと、隠し持っていたバタフライナイフを開く。だが……
「だめっ!」
 あっさりと、佐奈に右手を掴まれ、取り押さえられる。そのまま、動かす事ができない。
「離せ……化け物っ!」
「嫌っ!」
 そのまま、強引にベッドに押し倒される。
 通常、佐奈の体格で、男子の俺を押し倒す事など出来はしない。明らかに、人外の力だった。
「……離せ。俺は人間だ。お前とは生きられない」
「どうして人間じゃなきゃダメなのよぉ! 私が好きなら奴隷にだって化け物にだってなって、一緒に暮らそうって、なんで言ってくれないのよぉ!」
 取り押さえながら、佐奈は俺の上で泣きじゃくる。
「俺は……俺が俺じゃなくなるのが、死ぬ事より恐い。例え、誰かの陰謀で他人の意図どおりに動くことになろうが、俺は俺の意思で全てを決めるて行動する事に、誇りを持つ。ただ……それだけだ」
「セイ君……」
「と……俺の尊敬する人なら言うだろうな。ダメだ、俺みたいなガキが口走っただけじゃ、青臭くてイケねぇ」
 そう言って、自嘲と諦観の笑いを浮かべる。
「殺せよ化け物。俺は最後の最後まで、人間で在る事を止めるつもりはない。だから、吸い殺すつもりで頼むわ。気持ちよく……な」
「……馬鹿! 快楽で自我壊して奴隷にして、生かし続けるに決まってるでしょう。セイ君がどうかなんて関係ない。私がセイ君と一緒に居たいの」
 泣いていた。
 いつも、気丈に振舞っていた幼馴染が、俺の目の前で泣いていた。
 上から頬に落ちてくる涙が熱い。とても……熱かった。
「……そうか」
「そうよ!!」
 人と、化け物。双方が、涙に濡れた目で真正面から見つめ合う。
 やがて……『俺は覚悟を決めた』。
「佐奈。どいてくれ」
「やだ!」
「安心しろ、自殺はヤメだ」
 そう言うと、今まで握っていたバタフライナイフを手放す。
 呆然とした表情のまま、俺の意図が読めない佐奈は、おずおずと俺の上から退いた。
「『諦め』を棄てた時、人は人道を踏破する権利人となる、か……」
 俺は、赤井美佐と名乗った女から渡された小箱に手を伸ばし、フタを開けた。その中には、小指の間接二つ分程の長さを持つ牙が一対、収められていた。
「セイ……君?」
「お前が、そうさせた。そして、俺が選んだ。短い人生の間に、つくづく俺は面白い奴と出会い続けたもんだ」
 何故か……使い方が理解できた。多分、これが『縁』って奴か? だとしたら……酷く腹立たしい。
 俺は、その二つの牙を口元に持って行くと、自前の八重歯に重ね合わせた。
「がっ!!」
 突如、激痛が上あごに走った。
 人間の歯は表面のエナメル質の中心に、神経や血管が無数に張り巡らされている。
 その表面のエナメル質、そして、その中の神経や血管までをも『牙』が侵食、融合していくのが、わかった。いや、単純に歯だけではない。歯から上あご、そして……おそらく……
「がぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
「セイ君!?」
 絶叫に慌てふためく佐奈の声が、耳に残った。

 侵されていく。
『牙』が俺の犬歯と融合し、一つになる。
 侵されていく。
『牙』の魔力に犯され、狂った神経と血管が、電気信号と血液を逆流させて肉体を変えていく。
 侵されていく。
『牙』の魔力が、俺の意思を無視して脳髄まで達し……。

 そこで、俺は意識を失った。

「ん……」
 目を開けて、時計を見る。どうやら、30分程気絶していたようだ。
 部屋の明かりは消えており、真っ暗だが、その闇を超えてすべてを見通すことができた。
「ダークストーカーの世界へ、ようこそ」
 妖艶なサキュバス姿のままの佐奈が、そう言って俺を抱き寄せて唇を貪る。
 だが、俺は酷い喉の渇きを俺は覚えていた。
 渇く。
 とても……とても……
「佐奈」
「あっ!」
 無造作に、唇を貪る頭を押しのけた俺は、『目の前の獲物』の首筋に牙をあてがった。
「責任、とってもらうぞ」
 ずぶり。
 肉を裂き、神経を貫き、血管を断ち、サキュバスの首筋にヴァンパイアの牙が突き刺さった。
「あ、あ、あぁぁぁぁぁっ!!」
 甘い。
 魔力のせいで味覚までもおかしくなったのだろうか。とにかく佐奈の血は、とても甘かった。
「うぁああああ、セイ……くぅぅぅぅん!」
 恍惚とした表情で、佐奈が甘えだす。
 足りない。もっとだ……
 ぢぅぢぅと音を立て、佐奈の首筋から血を吸い上げる。牙そのものに血が行き渡り、逆に牙から甘美な毒が生まれ、佐奈の体と心を支配していく。
 奪え……徹底的に、この『牝』の全てを奪い、支配しろ。
 口の中に広がる甘美な味が、そう囁く。
 あれほどの拒否反応を示した俺の体と『牙』が、血を啜る事で、だんだんとなじんでいく。漠然と、これがダークストーカーとしての転生の『儀式』なのだと……理解できた。
「ああああああっ!!」
 牙から送り込まれる快楽を純化させたような毒が、佐奈の肉体を蝕んでいくのが分かる。彼女の股間と唇からとめどなく愛液とよだれが溢れ出し、ベッドを濡らした。
 だが……
「……ここまでだ」
 ひとしきり、喉の渇きを癒した俺は、佐奈の首筋から口を離した。
 本当はもっと吸っていたかったが、これ以上吸い続けると、本当に奴隷にしてしまうと察し、口を離したのだ。
 誰に萎縮せず、誰に怯えず、誰を支配せず、誰を蔑まず。
 吸血鬼になろうが、人外になろうが……幸いな事に、俺は俺のままだった。だからこそ、ポリシーを変えるつもりは、なかった。
「あ……」
 もの惜しそうな表情を浮かべ、佐奈はその場に座り込む。
「どう……して?」
「俺に、奴隷は要らねぇ」
 そう言うと、へたり込む佐奈をベッドに寝かせた。
「じゃあな、明日、学校で」
 なおも未練がましい佐奈の目線を振り切り、俺は部屋を後にした。

< 続く >

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