第12章
~The Sages 賢者~ 後編
カフェレストラン「あっとほーむ」PM13:30――――――
岸田の返事を聞くと、ウェイトレスはお盆に乗ったパフェを三人の前に置いた。
「マスター・カラノ・センベツ・デス。オ・・オタベ・・・クダ・・・・サ・・・・・・・」
言い終わらずに、ウェイトレスはカクン、と頭を垂れて、そのまま動かなくなった。
「なんだこりゃ」その様子を見て、岸田が言った。
「充電切れ・・・みたいな感じでしょうか?」山口が言う。アホらしい一言だったが、彼女の様子と合わせると、妙な信憑性があった。
しばらくして、唐突にウェイトレスが再び顔を上げた。しかし、今度は、
「あれ?わたし、どうして仕事してるの?」
さっきとはうって変わって、彼女は表情豊かに、困惑して見せた。
「催眠が解けたようですね」直紀が冷静に言った。
「さいみん・・・?」ウェイトレスは全く事態を飲み込めていない。
「なぁ、アンタ、さっき客に変なことされなかったか?」岸田がウェイトレスに尋ねる。
「へ、変な事・・・って?」ウェイトレスは首を傾げる。
「変な色のライトとか、振り子のようなものを見せられたとか」
岸田は言った後で、そんなあからさまな催眠術師はいないか。と思わず噴き出しそうになった。
「妙に馴れ馴れしく話しかけてきた人はいませんでしたか?」直紀が言った。
なんだそれは。そんな考えで岸田と山口は目を見合わせた。二人の心情を読みとったように、直紀は詳しく続けた。
「催眠をかけるには、基本的にラポールの形成。つまり、術者と被術者の間に信頼関係のようなものが必要です。そのため、我々は相手の心を開かせるような語りが身についているんです。それが、一般の人にはどうも馴れ馴れしいと感じられることも多いそうで」
ふーん。と言いながら、二人は理解出来たような、出来ないような、曖昧な思考をごまかした。
「そういう客と話をしなかったか?」岸田が尋ねた。
「あの・・・ていうか、私、今朝起きてから今までのこと、よく覚えてなくて・・・いつの間にバイトに来たのかも、分からないんです。だから、どんなお客様がいらっしゃったかも、記憶に無いです」
すみません。と、彼女はペコリと頭を下げた。これ以上は彼女の仕事に差し支えそうなので、下がってもらうことにした。体調に異変があるようなら、医院に来るよう直紀が言った。
「どういうことなんだ」
パフェを一口食べて、岸田が言った。
「恐らく今日バイトに来てから今までのことを、催眠が解ければ全て忘れるよう暗示をかけてあったのでしょう」直紀が言った。
「そんなことも出来るんですか!?」山口の口からクリームがこぼれるのを見て、岸田が汚ねぇな。とドヤした。
「記憶の操作というのは、暗示の中でも最も単純な部類です。記憶の種類や期間にもよりますけど、数時間のバイトの出来ごと程度の記憶ならさほど難しいことではありません。ただ・・・」と、直紀はまた難しい表情を見せる。
「それでも、顔を合わせた一瞬の間に、あんな暗示をかけて、更に記憶まで消す。なんて、やっぱり相当な技術ですよ」
「『ケンジャ』だの『ゼウス』だの名乗ってるのは伊達じゃないってことか」
と言って、岸田はスプーンを置いた。甘い物が苦手な彼は、まだパフェを半分以上残してギブアップした。
「あっ」と、岸田が突然声を上げた。
「肝心の、岡崎 有紀の居場所を聞くの忘れてた」
ええっ、と山口と直紀が声を揃える。
「どうするんですか?もう手がかりありませんよ」
山口がうろたえているところに、ウェイトレスが先程注文したコーヒーを運んできた。さっきとは別のウェイトレスだった。
コーヒーカップと交換で、パフェのグラスをトレイに下げる時に、ウェイトレスが岸田が半分残したパフェのグラスの下に、小さな和紙のメモがあるのに気付き、手渡してきた。
メモには神経質そうな文字で、どこかの住所が書かれていた。
「これは」直紀が言った。
「間違いない。岡崎 有紀の居場所だ」岸田が舌を打つ。「分かりにくいマネを」
「パフェ、全部食べてたら、気付けてましたよね」という山口を睨みながら、岸田が切りだした。
「遂に突入する訳だな。相手は催眠術って妙な特技を持ってる。だが、目には目を、だ。岡崎さん、アンタにも協力してほしいんだが」
岸田の言葉に、直紀は力強く頷く。
「是非、そうさせてください。ただ、一つお願いがあるんです」
直紀は申し訳なさそうに続けた。
「これから午後の診察がありますし、夜は少し大切な用事があって、明日の朝に向かいませんか?」
直紀の提案に、山口は顔をしかめた。
「だけど、一刻を争うんですよ。診察はともかく、夜の用事ってのは外せませんか」
直紀は黙って首を振る。
「お願いします。今日じゃないとダメなんです」
どうします?と山口は岸田に尋ねた。岸田はしばらく考えて、口を開いた。
「いいでしょう。俺達にも色々準備がある。ただし、明日の朝は早くなりますよ?」
ありがとうございます。と、直紀は笑って頭を下げた。
某所 PM16:00――――――
屋敷の玄関では、「賢者」の男の、満足げな声が木霊していた。
「いやぁ、思っていたよりも、まずまずの出来だった。うん。猫は嫌いなのだが、やはり中身は人間の女に違いはなかった」
何を言っているんだコイツは。さっさと帰れ。そう有紀は心の中で繰り返していた。それにしても、この男の性欲は化け物だ。アケミとマナミの奉仕を、数時間もこってりと絞り尽しやがった。シャワーを浴びて、紅茶と菓子を平らげ、好みの奴隷猫を一匹、自分専用の奴隷として侍らせた男は、帰り際にはすっかり上機嫌で、気分と声が大きくなっていた。
「約束の通り、ゼウス様と他の『賢者』達には、私から貴様を推薦してやろう。明日の昼には、直々に向かえが来るはずだ」
「感謝いたします。私が『方舟』に入った暁には、貴方様の益々のご出世の為に尽力致します」
有紀は恭しく頭を下げた。
「うむ、当然だな」男はそう頷いた。
誰がお前に尽力などするか。いずれはお前の席に俺が座ってやるよ。そんな黒い腹を隠し、有紀は涼しい顔で男を見送った。
車までの見送りは奴隷猫たちに任せ、玄関の大扉を閉めると、ミカコが歩み寄って来た。
「ご主人様。ティーチャーがお目通りを致したいと仰っております」
「そうか。なら仕上がったんだな。大広間へ来るように伝えろ」
「かしこまりました。ご主人様」
ミカコは猫の礼をすると、廊下へ消えて行った。
大広間で待っていると、ティーチャーが現れた。隣には一人の少女が裸で付き従っている。すでに有紀の奴隷と化しているが、その眼にはキャッツ・アイは嵌められていない。
ティーチャーは有紀の足元に跪いた。
「ご主人様、言われていた物が仕上がりました」
有紀は満足げに微笑んだ。
「ありがとう。随分早く仕上がったんだな」
「ええ。メデューサ様の手で、人格の支配は殆ど済んでおりましたので、あとは暗示を埋め込むだけでしたわ。その暗示も、このコが凄く覚えがいいもので、すんなりと溶け込んで行きました」
ティーチャーは隣で立ちつくす美少女を、うっとりと眼で撫でながら言った。
この少女は、メデューサのキャッツ・アイを提供した見返りに貰って来た、調教中の少女だった。有紀は奴隷猫にする女は初期の催眠の時点から自分で支配した女しか使わないため、他で基礎支配を施された女は必要ないのだが、以前から考えていた、「方舟」に乗る前に達成しておきたい「ある目的」を実行するために使おうと考えたのだった。
有紀は少女の前に立つと、優しく語り始めた。
「お前は私の考えた通りに動く、大切な駒だよ。ティーチャーから教わっているだろう?これから私の行う事に、お前はとても重要なんだ。自分がすべきことを、ちゃんと覚えているね?」
「ほら、ご主人様が質問されてるわよ。ちゃんと教えた通りに応えなさい」
ティーチャーの言葉に導かれるように、少女は口を開く。
「私は・・・・」
少女の口から、これから起こる悪夢の全貌が語られる。それを聞いて、有紀は邪悪に笑う。ある女が、自分の奴隷になる様を思い描いて。そして、ある男が、悲痛に顔を歪める様を思い描いて・・・。
T市内 岸田邸 PM16:30――――――
ただいま、と、岸田は廊下の先のリビングルームに向かって言った。奥から妻がパタパタとスリッパとフローリングの床を擦らせて小走りで現れた。
「おかえりなさい。早かったのね」
「ああ、明日の朝早くに出掛けることになったんで、今日は早く切り上げた」
岸田はバッグとスーツの上着を妻に渡した。
「朝から捜査なの」妻が尋ねた。
「ああ。多分、捕物(とりもの:事件の容疑者などの身柄を拘束するための作戦)になる」
そう、と言ったきり、妻は何も言わなかった。無関心というわけではない。危ない現場に行くと聞いた時は、いつも妻がその表情を不安に曇らせることを、岸田は知っている。だが、妻はそれを言葉にはしない。家族の心配をダイレクトに受けることが、刑事にとってはストレスとプレッシャーになることを、彼女は長年の生活でよく理解しているのだ。だから、何も心配していない風を装う。岸田は妻のそんな心遣いに、感謝している。もっとも、娘の方は本当に無関心なのだが。
「千夏(ちなつ)はまだ帰っていないのか」
岸田はリビングの方を見ながら言った。リビングから人の気配はしない。学校から帰ったら、大抵夕飯までリビングでテレビを見て、夕飯の後はずっと部屋に閉じこもるのが、娘の千夏の、というより、今時の高校生の生活のようだ。
「友達と夕飯を食べて帰るんですって」
妻は言って、寝室にバッグと上着を仕舞いに行った。
「おいおい、女子高生が学校帰りにそんな遅くまで出歩いちゃダメだろ」
岸田は顔をしかめる。娘は父親に無関心だが、父親は娘にいちいち口を出したいのだ。
「そんなだから、無視されるのよ」
と、寝室から出てきた妻は、呆れたように笑う。
「友達っていっても、ちゃんとした大人の女の人だから大丈夫よ」
「大人の友達?千夏にそんな人がいるのか」
岸田はリビングの食卓の椅子に、ドカッと座った。
妻が台所からドリップのコーヒーを持ってきた。
「看護師の人ですって。その人の家で夕飯をごちそうになるそうよ」
看護師。そういえば、ナースになりたいと、千夏が昔言っていたのを、岸田は思い出した。小学校の頃だ。娘はあんなに小さい頃の夢を、まだ抱き続けているのだろうか。
「帰りはその人の旦那さんが送ってくれるそうよ。優秀なお医者様だって」
「へぇ、それならまぁ、安心だな」
岸田はコーヒーのフィルターをカップに差し込み、湯を注ぎ始めた。刑事として、青少年の不逞は見過ごせないが、父親としてなら、娘の社会勉強と考えれば、まぁいいか。と彼は考える。
ふと思いついて、岸田は妻の方を見た。
「それなら、今夜は出前でも取るか?」
T市内 喫茶店 PM17:00――――
沙良は高校生の千夏と向い合って、カフェオレを片手に語り合っていた。左手の薬指につけたシルバーのリングを見せると、千夏は目を輝かせた。
「わぁ、これが婚約指輪ですか?ステキ!」
「本当は、式の日まで付けるのは控えておこうと思ったんだけど、待ち切れなくって」
沙良は恥ずかしそうに笑った。先日、交際相手の男性と食事をした時に、沙良はプロポーズされた。沙良の喜ぶものを持っていく。と言って、少し遅れて東京都内の高級レストランに現れた彼が持ってきたのが、この婚約指輪だった。
「ねぇ、プロポーズの言葉って、どんなだったんですか?」
千夏は興味津津、と言った様子で聞いた。
沙良はまた、恥ずかしそうに言った。
「えっとね。『一生、僕の専属看護師になってほしい』って」
と聞いて、千夏は思わず噴き出した。
「な、何それ、ダサ・・・あ、ごめんなさい」
千夏はまだ笑いが止まらなかったが、申し訳なさそうに頭を下げた。沙良は笑って首を振る。
「いいのよ。私も正直ダサいと思ったし。でも、あの人、直紀さんて、そう言う人だから。仕事にも恋愛にも真面目で、いざという時にカッコ付けるなんて、どうも苦手で。でも、そういう、ありのままの自分で向き合ってくれたことが、凄く嬉しかったな」
嬉しそうに言う沙良、千夏は頬杖をついて、ニヤニヤと見ていた。
「幸せ者ですね。沙良さん」
沙良は笑って頷いた。
「いつかは、二人で診療所を開くのが夢なの。幸せなだけじゃなくて、二人で協力して、もっと頑張らなくちゃ」
「私も、沙良さんみたいなナースになるために、もっと頑張らなくちゃ」
二人は顔を見合わせて笑った。
「そろそろ行こっか。スーパーで買い物しなくちゃいけないし」
「私、お手伝いしますよ」
二人はあれこれ話しながら、店を出た。その背後の席に、ずっと二人を見つめていた人影があったことに、全く気付いている様子はなかった。
『一人オマケがくっついているが、まぁいい。予定通りに動け』
耳元に聞こえる声に、人影はゆっくりと頷く。
「はい、ご主人様」
T市内 住宅街 PM17:30――――――
スーパーで買い物を済ませると、沙良と千夏は、沙良の自宅があるマンションに向かって歩いていた。すっかり打ち解けている二人は、会話が途絶えることが無い。
高校の進路指導の一環として、職場見学で沙良の勤める病院に、千夏がやって来たのがきっかけだった。沙良が患者の世話をする様子を、熱心に見入る千夏の姿が、沙良には印象的だった。
数日後の非番の日、行きつけの喫茶店にやって来た時、定期試験の勉強をしている千夏を見て、沙良はすぐに声をかけた。小学校のときから看護師に憧れていること。そのために進みたい大学が、自分の今の成績では難しいことなどを千夏は沙良に語った。沙良も、看護師に進んだきっかけや、看護師になるための研修で、良かった思い出や、嫌だった出来ごとを話した。気の合う二人は、まるで同い年の友人であるかのように、すぐに仲良くなった。
「うわぁ、大きなマンションがいっぱい。沙良さんて、お金持ちなんですね」
「そんなことないわよ。私のマンションは、この中でも家賃の安い小さい方。結婚したら、早く一戸建てに住みたいんだけど・・・」
そんなことを話すうち、沙良の住むマンションの近くまでやってきた。玄関に入ろうとすると、一人の女性がふらふらと向こうからやって来た。その不安定な足取りを、二人は気にしながらも会話を続けて歩いていた。
女性はマンションの玄関の前で立ち止り、フラフラと揺れるようにその場で前後する。その眼に生気はなく、見るからに様子がおかしい。そして、女性は崩れ落ちるようにその場にグニャリと倒れた。二人はハッとして、すぐに女性に駆け寄った。
「大丈夫ですか!?」沙良は女性の身体を軽くゆすり、反応を見る。どんな状態か、はっきりするまでは無闇に動かしてはいけない。
女性はマブタをピクピクさせ、うう、と小さなうめき声のようなものを発している。意識はあるようだが、状態は良くないらしい。沙良は女性を仰向けにして女性を上体をすこし起こして、屈みこんだ自分の膝にもたれ掛らせた。安静な状態の時、最も楽な姿勢だ。沙良はそのまま女性に話し続ける。
「大丈夫ですか?分かりますか?」
意識レベルの低い状態で、気絶してしまわないように保つためだ。
鮮やかなプロの作業だ。なんてスムーズなんだろう。いつもの穏やかな沙良とは打って変わって、テキパキとした流れるような動きに見惚れていると、沙良が千夏に言った。
「千夏ちゃん、携帯、ある?救急車を」
「え・・・あ、はい!」
千夏は学校指定のカバンから携帯を取り出すと、すぐに119をプッシュしようとした。しかし、
「ま、待って・・・」
女性が手を伸ばし、千夏に何か訴えかけようとしている。
「救急車は・・・いりません・・・ただの貧血ですので・・・」
女性は立ちあがろうとしたが、すぐによろけ、また沙良に寄りかかってしまう。
「ダメですよ。まだ動けないんです。千夏ちゃん、救急車・・・」
「やめて・・・!呼ばないで・・・」
言いかける沙良を、弱々しく制止する女性。どうすればいいかわからず、千夏が携帯を持ったままおろおろしていると、沙良は、ふう、と溜め息をついた。
「仕方が無いわ。私、このマンションの6階に住んでいるから、私の部屋へ行きましょう。少し、休んで行って下さい」
「だ、大丈夫です・・・もう、行きますので・・・」
女性は尚も遠慮するが、沙良はやや強引に女性を肩で支え、立たせた。
「ダメです。私の部屋へ来て下さい。本当に貧血かどうかも診ますので」
少し強気に言われて降参したのか、女性の身体から力が抜ける。
「すみません。ありがとうございます・・・」
千夏も反対側から女性を支えた。近くで見ると、意外と幼い少女であることがわかった。千夏と同じか、少し年上くらいに感じられる。
三人は自動ドアを通り、マンションをへと入った。
『いいぞ。予定通りだ。この女が病人を見逃す訳がないんだ。あとは、この「オマケ」をどうするかだな・・・』
どこからか聞こえてきた声を、千夏と沙良が聞こえる訳も無かった。
タワーレジデンスT 3号館 沙良の自宅 PM17:40――――――
管理人のおじいさんにも手伝って貰って、沙良と千夏は、女性を運んで沙良の部屋へ辿りついた。女性を沙良のベッドに寝かせると、沙良と千夏はリビングルームの食卓で一息ついていた。
「ごめんね、千夏ちゃん。お客様なのに、手伝ってもらって」
コーヒーは散々飲んだから、と、紅茶を飲みながら、沙良は申し訳なさそうに言った。
同じくミルクティーを飲みながら、千夏は首を振る。
「とんでもないです。一大事だったし。それに」
と、千夏は表情を曇らせた。
「私、何も出来てなかった。全部沙良さんに任せっきりで。こんなんじゃナースになんかなれない」
そう言って俯く千夏を見て、沙良は口元を綻ばせた。
「あのね、千夏ちゃん。その気持ちが、一番大事なんだよ」
えっ、と千夏は顔を上げる。
「私も、千夏ちゃんくらいの時に、そんな気持ちになったこと、あったよ。気持ちでは看護師になりたい。って思ってても、こういう時に何も出来なくて、ただ茫然としてるだけで、それが凄く悔しかった」
「沙良さんも、こんなことあったんですか」
沙良はその時の気持ちを噛みしめるように目を閉じて、ゆったりと頷いた。
「ああいう時、知識や訓練だけじゃなくって、確かな経験が無ければテキパキ動くのって難しいものなの。それと、一番大切なのは、気持ち」
「気持ち」千夏は丁寧にその言葉を繰り返した。
「目の前の人を助けたい。っていう、強い気持ち。自分が助けるんだ。っていう大きな責任感。そういうものがあって始めて、あの動きが出来るようになると思うの。何も出来なかったことが悔しい気持ちが、誰よりも早く動いて、一つでも多くの命を救う行動力に繋がるのよ」
「だれよりも早く・・・」
「だから、今日のその気持ちを忘れずに、これからも勉強頑張ってね」
沙良はにこやかに言う。千夏も微笑み、強く頷いた。
カップの中のミルクティーが、ユラリと波立った。
「さてと」
と言って、沙良は立ちあがった。
「あの子の様子を見てくるわ。容体によっては、今度こそ救急車を呼ばなくちゃいけないし」
千夏も何か手伝いたかったが、ここからはプロの仕事なので、素人が出しゃばるのはやめておくことにした。
「あ、紅茶、たくさん作ったから、遠慮せず飲んでね。直紀さんが来るまで、まだ少しあると思うし」
そう言って、沙良は寝室に入って行った。
すごいなぁ、沙良さんは。二杯目の紅茶を飲みながら、千夏は考えていた。こんな風に思ったのは、人生で二度目だ。一度目は、父親だった。
父は、千夏が小学生の頃、よく傷を負って帰宅することがあった。刑事の仕事は、いつも危険が付いてくるものなのだと、父が言っていたのを、子供ながらに千夏は理解していた。母も、父の前では強気でいるが、内心凄く心配していたのを、千夏は知っていた。「パパはね、悪い人から皆を守る、ヒーローなのよ」と、母はよく口癖のように言っていた。
すごいなぁ。パパは。千夏はその時心底そう思った。皆を守るために戦って、そして、自分はケガをして帰って来るのだ。傷だらけになっても、次の日になるとまた、皆を守るために出掛けていく。
では、そんな彼はだれが守ってくれるのだろう。自分の身は自分で守るのだろうか。いや、こうして負傷して帰って、また負傷して。そんなことを繰り返していては、いずれ彼の身はもたなくなるだろう。
だったら、自分がパパを守ってあげよう。傷を負って帰宅した彼を、自分が直してあげるんだ。その為には、医者になろう。いや、でも、ケガをした人を直すだけでなく、世話もしてあげなくちゃ、それなら、ナースになろう。
それが、千夏が看護師を目指すきっかけだった。子供らしい突拍子もない考えだが、それが今日まで千夏の目標となっていた。父が刑事を続ける限り、それは変わることは無いだろう。思春期になり、父とあまり話さなくなってしまった彼女だが、心の中では、やはり刑事として日々走り回る父を、影ながら応援しているのだ。
ガシャン。という音が聞こえたのは、そんな昔の思い出に耽っている時だった。
寝室の方だ。何かあったのだろうか。女の子の容体が悪いとか。やっぱり、何か手伝おうかな。そう思い、千夏はそっと、寝室のドアを開けた。
「沙良さん?」
ドアをゆっくり開けると、ベッドスタンドの薄明かりと、リビングから漏れ込む光で、寝室の中が浮かび上がる。その異様な光景、に、一瞬、千夏は固まってしまった。
寝室の床に膝を付き、ぐったりと座り込む沙良に、覆いかぶさるように少女の顔がネットリとくっついている。二人は絡み付くような口づけを交わしていた。沙良の白いロングスカートから、足を伝って、床に大きく液体がこぼれ、部屋はツンとした臭いに包まれていた。
少女はゆっくりと沙良から唇を離すと、千夏のほうへ視線を移した。その刺すような、冷たい視線に、千夏はぞっとする。沙良はダランと全身を脱力させたまま、天井を仰いで動かない。振り乱された彼女のロングヘアーが、背中へとダラリを這っている。
『ああ、丁度いいところに。あの娘も持って帰ろう』
男の声が聞こえてくる。どこから?そんなことを考えている瞬間に、石像のようになっていた沙良の身体が、ゆっくりと動き出した。
「沙良さん?なにが・・・・」
再び千夏は絶句する。薄暗い部屋の中で、こちらを振り向いた沙良の両目が、まるで獣のようにオレンジの光を放っていたからだ。そして、こちらを振り返る沙良自身もまた、獣が取りついたように、明らかに異常な動作でゆっくりと四つん這いになった。
『サラ、お前がしてもらったように、あの気持ちのいい世界に、あの娘も連れて行ってやれ』
再び男の声が聞こえると、ほぼ同時に、沙良の姿が消えた。いや、素早く千夏の視界の外に移動したのだった。
「ミャーオ」
今聞けば、あまりにも不気味な、沙良の猫の声まねが聞こえたかと思えば、その到底人間とは思えない動きで、次の瞬間にはもう沙良によって、千夏は床に叩きつけられていた。
「いやっ、沙良さん、何するの!やめ・・・!」
声を上げる千夏の口は、沙良の右手で塞がれる。両手両足で乗しかかるように千夏を押さえつける沙良の力は、大人の女性のそれをはるかに超えている。
少女がゆっくりと近づき、懐から何かを取り出した。それが小さな注射器であると分かったのは、首筋にチクリとした痛みを感じた時だった。
「ウッ!ム、ググゥ・・・!」
沙良に抑えられた口が、うめき声をあげ、千夏の全身から力が抜ける。麻酔がかかったように、千夏は指一本、動かすことが出来なくなった。
ぼんやりと開いたままの千夏の目に、少女によって何かが押し込まれた。その何かは、生き物のようにうごめきながら、千夏の両目を圧迫し、千夏の視界は一面がオレンジに変わる。
「ウア・・・ガ・・・アアア・・・」
苦しさに、麻痺した千夏の身体が痙攣し、口からうめき声が再び漏れる。一瞬、沙良の右手が離れると、今度はその口を沙良の唇が塞いだ。
「む・・・ムフゥ・・・ウ・・・」
あろうことか同姓から受けることとなったファーストキスを、千夏の身体は一人手に受け入れて行く。舌を絡ませ、グチャグチャと口内を掻きまわされると、なんとも言えない、淫らな快感が全身を沸かす。同じように千夏の意識もグチャグチャとかき乱され、脳内が沸騰する。口から溢れ出る唾液と同じように、千夏の意識もドロドロと溶けていった。
ピクピクと震えていたマブタは弛緩し、オレンジ色に染まる目は焦点を失う。
薄れていく意識の中で、千夏はある言葉を、頭の中に思い浮かべた。
「パパ・・・」
人形のように横たわる千夏の口をむさぼるように、沙良は尚もキスを続けている。
ビチャビチャと音を立て、千夏の口から、止めどなく唾液が漏れ出す。
『ククク。あの沙良が、遂に俺の猫になったか』
少女の首元のチョーカーに付いたカメラで一部始終を見ていた岡崎 有紀は、嬉しそうに笑い声を洩らす。
ジョロロロロ・・・。
流れ出した液体が、千夏の制服のスカートを濡らし、床に広がる。沙良の寝室に二つ目の水溜まりが出来た。
全身の筋肉が弛緩し、放尿したのだ。それは、この娘が完全に堕ちたことを示すサインでもあった。
『こっちの娘も仕上がったようだ。オマケにしては中々上玉だ。フフ。やはり俺はとことんツイているようだ。連れて行け』
有紀の指示で、この一時の為だけに用意された、名もなき操り人形である少女は動き出す。少女が短く命令を発すると、二匹の新たな猫が、少女の前に「猫のポーズ」で跪いた。
タワーレジデンスT 三号館 沙良の自宅 PM18:30――――――
夜間の診察を切り上げ、岡崎 直紀が恋人である小嶋 沙良の自宅に着いた時は、約束の時間である18時を、大きく回っていた。
ヤバイ。もう食事を始めてるかな。直紀はそう思い、沙良の部屋の扉を開けた。数日前、直紀は沙良にプロポーズをしたばかりで、今回はそれ以来初めての食事だった。ただし、沙良が気に入った、看護師志望の高校生の女の子も一緒だということだった。二人きりでないのは少し残念であったが、どうもその女の子はとても熱心らしく、良い看護師になりそうだとのことだった。沙良があんまり嬉しそうに話すので、まぁ、いいかと思った。看護師や医者としての自分達の話を聞かせてあげるのも、いい勉強になりそうだと、そんな風にも考えた。二人きりで部屋に泊まるのは、また別の日でもいい。
部屋の中はいやに静かだった。明りは点いているものの、人の気配はしない。怒っているのだろうか。いや、大きな遅刻ではあるが、30分程度だ。沙良はそれくらいでは怒らないし、直紀の仕事が時間に融通の効きにくいこともよく承知してくれている。とすると、直紀を驚かせようとして何か企んでいるのか、それとも・・・。
ゆっくりとリビングのドアを開けると、そこにもやはり沙良も、一緒に来ているであろう娘の姿も無かった。しかし、テーブルの向かい合った席に、ティーカップが二つ。片方は空で、もう片方にはミルクティーが半分ほど残っていた。すっかり冷めてしまっている。テーブルの真ん中には、いくつかのティーパックをまとめて使って入れた紅茶が入ったポット。こちらはまだ温かみがあるが、それでもだいぶぬるくなっている。
間違いなく二人はここにいたのだ。少し前に。どこかに出かけているのだろうか。しかし、キッチンにはスーパーの袋が置いてある。買い物は済ませたようだし、いったいどこへ?
寝室に向かうと、直紀は二人が出かけたのではないことを確信した。その異常な光景は、直紀にとって、想定しうる最悪のケースを物語っていた。
散乱した小物。投げ出された布団。二つの水たまりでびしょ濡れになった床と、この臭い。床に落ちて割れてしまった写真立てには、医院にある直紀の机の上にあるのと同じ写真が入っていた。
二人に何が起きたのか、直紀には嫌というほど想像できた。そして、誰の仕業なのかも。
リビングに戻り、他の手掛かりを探していると、床に置いてあるバッグが目に入った。高校指定の黒い手提げバッグだ。申し訳ないと思いつつ、中を物色していると、生徒手帳が出てきた。表紙をめくると、手帳の持ち主である少女の写真が目に入る。真面目で快活そうな、今時の可愛らしい少女だ。そのページには、他にも生徒の名前と住所などの個人情報などが、几帳面に書かれていた。この少女は手帳を制服ではなく、カバンに仕舞って保管するタイプのようだ。
―――S県立T第三高等学校 3年B組 岸田 千夏―――
その名前を見た途端、直紀にある思案が逡巡した。
「お前やっぱり、とことんツイてないな」
直紀は誰にともなく呟いた。
PM18:30――――――
「そうか。やはり彼を懐柔したか」
「賢者」の一人の報告を受け、ゼウスは深く息を吐いた。
「明日の午後には、我々が出向くようにすると、約束を取り付けたようです」
玉座の下に跪いた、中央の「賢者」が言った。
「まったく、勝手な真似を」
左の「賢者」が息を荒げる。
「まあ、新入りとはいえ『賢者』の身分。その彼を見事に動かしたのですから、岡崎 有紀の聡明さの賜物、といえるでしょうね」
右の「賢者」が物腰柔らかに言った。
「『賢者』としての自覚が足りんのだ!」
「その点に関しては、私も賛成致します」
「おい、私語は慎め。ゼウス様の御前だぞ。貴様らこそ、自覚が足りないのではないか」
三人の「賢者」は沈黙する。
「明日の午後。ねぇ。」
ゼウスが再び息をつく。
「いかが致しましょう」
中央の賢者が尋ねる。ゼウスはしばらく沈黙し、やがてゆっくりと話し始めた。
「あの刑事たちは動きそうかな?」
「はい。明日の早朝に向かうそうです」
右の「賢者」が答える。
「明日?何故すぐに向かわない」
中央の「賢者」が尋ねる。
「さあ。色々と準備が必要なのでしょう。彼らは我々と違い、力の無い民。無力なら無力なりに、考えることもあるのでしょう」
「うーん。明日までは待てないねぇ。彼らが時間をかける分、岡崎 有紀も準備が整えられるからねぇ」
ゼウスが言った。
「我々で手を打つべきです。奴はまだ何か動こうとしているに違いない」
左の賢者が鼻息荒く言った。
「じゃあ、今から行こうか。それで、明日の朝に、彼の身柄だけ取りに来てもらう事にしよう」
ゼウスが言った。
「せっかく、私が体制を作りましたのに」右の賢者がやや不満げに言った。
「私としては、そんな無力な民の中にも、我々の想像を上回る者があるのではないかと、期待しているのです」
「口答えするな!」左の賢者がいきり立つ。
「まぁまぁ。こればっかりは、ちょっと急ぎだから仕方がないよねぇ。でも、君の言う事も念頭に置いておくよ。だからこそ、岡崎 有紀の処遇は彼らに任せるのだから」
ゼウスがゆったりと諭す。
「そういうことでしたら、勿論、貴方様のお考えのままに」
三人の賢者は同時に立ちあがった。
T市内 岸田低 PM19:00――――――
車が荒々しく止まる音と、インターホンが鳴ったのは、岸田と妻が出前の寿司を食べている時だった。
「はい」
妻がインターホン越しに出ると、若い男の声が聞こえてきた。
「精神科医師の、岡崎 直紀と申しますが・・・」
「なに?」
聞こえてきた声に、岸田は反応する。一目散に廊下を突っ切ると、岸田は玄関を開けた。
玄関先に立っていたのは、確かに昼間と同じスーツ姿の、岡崎 直紀だった。
「岡崎さん、どうしたってこんな時間に?というか、何で俺の家が分かったんだ」
「やっぱり、あなたの家だったんですね、岸田さん」
そう言って、直紀は岸田にバッグを渡す。
「その生徒手帳に書かれている住所を頼りに来たんです」
バッグの中にある生徒手帳をめくると、見覚えのある写真が目に飛び込んできて、岸田は驚愕した。
「これは、千夏の・・・?」
それは確かに、娘の千夏の写真だった。
「どうしてこれを、アンタが?」
「詳しいことは後でお話しします」
直紀はいつになく切迫した目で言った。
「突然で申し訳ないのですが、今から弟の所にいってもらえませんか」
< 続 >