第6話 ―粘土[前編]―
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「んっんんーー」
上機嫌に歩く握出の姿に俺は疲れてしまった。
仕事を辞めたいと思ってしまったら、仕事を続けたいと奮起させるのにどのくらいの力を取り戻さなければいけないのだろう。
今の俺には取り戻す力がなかった。
辞めたい。
ただそれだけの思いが募ってくる。
顔に現れ、態度に表れ、営業なんて出来るものではなかった。
それでも握出は寛大だった。
俺の不祥事をすべて受け入れ、なお俺を配下につかせているのだ。
せめて怒鳴ってくれれば、
せめて無視してくれれば、
握出は笑って済ませた。それがとても怖かった。
握出は人間以上だった。誰も手を出せるものではなかった。
一体何処から間違えてしまったのか?
いきいきしている握出の働きはさらにエムシー販売社を成長させた。
一ヶ月で億単位の収入を得られるようになった。
人を騙している訳じゃない。
人の夢をかなえる道具、グノー商品。
だが、人の夢をかなえたことで、いったいこの世の中の誰が救われた?
当事者に満足感を与えただけで、決して誰も幸せにはなっていない。
夢は叶ったら更なる向上心を募らせる。人を犯して、次に来るのは人を隔離する。身も心も自分のモノにするため、更なる危険に手を染める。
欲を闇に染める。
当事者だって結局幸せになっていない。不幸になっていくのに気付かない。
気付かないこと、知らないことは罪だ。ならば俺が世界に知らせよう。
表立たない会社に裁きを与えるんだ。
浄化されろ。俺もおまえも同罪。罪は俺もかぶろう。だから覚悟を決めろ、
握出 紋。
「さて、此処までくればもう大丈夫でしょう」
とある行き止まりで握出は足を止めた。俺は気付かない間に袋小路に入ってしまっていたのか。握出に付いてきただけだ。だが、なんの疑いもなく、茫然と歩んでしまったために、光の当たらない場所で、握出と向かい合ってしまった。
一気に身体が警告音を鳴らす。あまりに遅すぎるアラームだった。
「千村くん。君には本当に世話になりました。グノー商品は急成長に伸び、私の存在は形を成した」
「形を成したって……最近太り気味じゃねえか」
態度は既に上司とか関係なくタメ口である。握出はまったく気にしていない。
「お腹の中には何が入ってるんでしょうかね?脂肪?筋肉?残念ながら私は肉なんて食べた事がありません。それは美味いのですか?」
「握出がベジタリアンだったとはしらなかった」
「べジ……ああ。草食動物のことですか。再び生えてくるものを何度も食べられることに対してだけは同意しますが、草なんて食べて何が美味しいのですか?」
臆しながらも、必死になって声を荒げる。そんな俺の姿に握出ははに噛むだけだ。
握出がおかしい。いつもの握出と違う雰囲気を持っている。
こいつは何を言おうとしている?
こいつは俺に何を語りかけている。
何を連想させようとしている?
「ほらっ、もっとあるじゃないですか。血が滴り落ち、涎が湧いてすぐにでもむしゃぼりつきたい絶品の料理」
聞きたくない。全身の穴から汗が流れ落ちる。
熱い。
心臓をえぐって掴みだしたいくらいに、吐き気がする。
握出、おまえはそれを言うのか。
「――人の欲ですよ」
ドクンと俺の心臓が昂った。
「何もない場所から生まれ、形を成し、絶妙を醸し出す。……そうですね、人など粘土みたいなものですよ。欲を如何に盛りつけられたかによって人間形成が出来るのです。
進学、就職、結婚。様々な材料に練られ、生地を鞭打ち、竈で焼いて、やがてパリーンと無残に割られる。もしくは御蔵行きですかね?人の行きつく所なんてそんな場所です」
欲の入る器。人間というのは空洞の壺。何もない、何も持たない。
だから壺に花を生けよう。水を入れれば花は元気になり、やがて立派に成長する。しかしそれは枯れるまでの期間。
枯れればまた違った花を生かすのか、
それとも花を生けるのを辞めるのか。
それは、神のみが決める気まぐれ。壺に意思はない。
ただ生けたいと思ったから壺を買い、飽きてしまえば役目を終える。
ああ、それはなんて純粋に生きたモノの人生。
それを認めないのは――
「人は変わる。おまえの行きつく所が終着場所じゃない」
「人は変わらない。人は己のことしか考えない。他人のことなど気にもしない。千村くんもそうです。グノー商品で何を見ました?
人の夢、他社より先へ。
人の業、他社より上へ。
人は誰かと比べられなければ生きていけない。優劣だけが人を快感へと導く。だから私だけが導けるのです。私は人とは違います。プライドも意地もありません。私は初めから負けています。でも勝ち負けにはこだわりません。優劣よりも大切なものを初めから手に入れてしまったのですから。私は私なりの戦い方を知っていま
す。それ以外に本気になることはありませんが、戦場に出たら誰にも負ける気はしません。私はエムシー販売社営業部長です!!」
こんなに堂々と自慢できる人がいるだろうか。羨ましいと同時に頼りがいがあると思える。会社に誇れる営業部長だと思う。だが、
「そんな肩書の為に、人を堕としたのか?」
人を犯し、人を誑かし、人を模し、人を愚した!
「おまえはどれだけ愚弄するんだ!神にでもなったつもりか!?」
「神になるつもりはありません。私は営業部長。私が指針するのです。それが上に立つ者の宿命です。ですが私は劣っています。つまり私よりも全人類は――」
「ふざけるな!なんという驕りだ!!」
下手に出ている様に顔色を伺いながらも、心の底では馬鹿にしている。怠慢でも謙遜でもない。傲慢だ。
しかし握出は、傲慢でも構わないと言う。
「それほどエムシー販売社は優れています。人が信頼しているということです。世の中には神を信仰する方々もいれば仏を信仰している方々もいます。ですが営業の信頼に勝ることはありません。死人に口なし。都合に良いように人は神を理解する。辛い事実から逃げた罪を救世主として形作ったのが神と私は思います。残念なが
ら私は辛い事実を突き付けます。救世主には成しえません。自分を救えるのは自分自身だけですから。だから私が出来ることは、救いの道具を添えることだけなのです。大人の道具、大人の嗜み、大人の行動こそ真に人は救えるのです。
神も悪魔もありません。用は使い方次第です。グノー商品は元々人を煽てる商品なのですから」
「なんだと?」
「優劣だ、勝敗だ。その先に一体何を見たいのです?栄誉ですか?肩書ですか?そんなものは後から付いてきます。優劣に拘って人を陥れるのは何を隠そう貴方方自身ではありませんか。人の欲は純粋な道具でさえ狂気の武具として変えてしまう。
私は気付いたのです。自ら育てた闇に喰われて人は滅ぶ。グノーよりさらに質の悪いグレイヴによって!!」
人の中にしか神は存在しない。人の脳はそれほど他種より優れているから。
ただの商品を悪魔の道具に変えるのも人なのだ。
人の意志なのだ。
「粘土の型を支える土柱。汚れた信念こそグレイヴ!今日、人が数多もつ予言の日となる!!」
この世界は、グレイヴによって闇に染まる。他の誰でもない、人によって世界は崩壊する。純粋はなく、白濁の水を知らず内に飲まされる。
この世に純粋に生きている人間などいないのだから。
「じゃあ、俺の言おうとしているのは……」
俺の矛盾を握出は指摘する。
「そう。千村くんもまた、グレイヴに毒された被害者です。人は救えない。変わろうともしなければ変わることもありません」
「ちがう!!」
「人は救済など必要としていないのです。滅びの道を進んでいようと、それが間違いであったとしても、自分が気持ち良ければそれでいいのです。快楽が好きなんですよ。仕方がありません、本能というものです。セックス&バイオレンスで生まれたのです。だからグノー商品は救済から手助けの道具として生まれ変わったのです
。それが人の望みです」
営業マンは先を見越して行動する。その結果が破滅を暗示するのなら、
神の唱えた予言よりも、予言者が予測した未来よりも具体的な発言だった。
「私が叶えるのです。私だから叶えられるのです」
握出だけが叶えられる術を持っている。それが営業部長という名の称号。
「ですが悲しむことはありません。人は欲のままに生きること、それが力に変われば必ず人は進化します。自分勝手が許され、やがて優劣がはっきり分かる世界がもうすぐ訪れるのです。『グノーグレイヴ』はもうすぐ完成します。そのとき人は、変わらない運命から変われるのです。グノーグレイヴによって自ら変わりたいと願
うようになるのですから」
人を救えるのは己のみ、ならば人が救えるように環境を変えてやればいい。
変わりたいと思わなければ人は救えないのなら、本能に直接語りかける出来事を起こしてやればいい。
第三者に成るのではなく、第三者に介入するのでもない。
そこには握出という存在はない。残るのは握出によって影響を及ばされたことも知らない無知な弱者。
モノを大事にしないから、壊すのか。
モノを大事にしないから、壊せるのか。
「あ、あはは……ははははははは」
俺は笑いが込み上げてきた。人を壊すことで再構築を図らせること。それが人の望みだと。しかし、
「ようやく分かりましたか。今のままでは人は救えない。それが私の事実です」
それが握出の望みに成っている矛盾。望みを持つことが出来ないゆえに、人の望みを自分の望みに置き換えてしまった無能さ。
握出―おまえ―は人―おれ―を救おうとしていたこともあった。救うだのなんだの言っておきながら、本心では人を救えないだと?
なんだ、俺は握出紋というものがやっとわかった。
「おまえの言うことは嘘八百じゃねえか」
綺麗事だけを並べ、人の為とは考えずにグノー商品を売っている。俺よりも空っぽの販売意欲。
握出は嬉しそうに笑った。初めて俺は握出に触れたような気がした
「ええ、そうです。私の喋ることが嘘でも、偽りの救いで顧客になるのなら私は喜んで嘘をつきましょう。それに気付いた時、『私の喋ることは全て嘘になった』」
握出にとって真実も嘘も関係ないのだ。この全てが偽りなのだから。だから壊してもいいんだ。他の誰よりも辛い現実を生きているのだから。
希望を持つことも許されない。絶望しか生かされない。
悲しすぎる現実。握出の願いはすべて嘘に変わる。
楽しさを求めるのが人の大多数の意見だとしたら、握出だけは楽しさを求めてはいけない。
人生に喜劇はない。握出の人生はまさに悲劇そのものだから。
嘘、偽りに捕らわれた握出紋という概念は、誰かのためにという意欲すら持つことは許されない。
当たり障りのない人生を望むしかない。喜劇を求めるのなら、他人に求めるしかないのだから。
それに選ばれたのが、俺なんだ。幸福に過ごしていた俺の人生を壊したいから、優しい顔で俺に近づいてきたのか。
「おまえの言うことなど信じない。俺は許さない!俺の信念さえ嘘に変えたおまえが何を説こうとしている!?」
「信念なんて諸刃のように折れやすい。人は器。信念はその素材。くっくっく、憎しみを以てその先に辿りつけ。貴方も私の見たその先が見えますか!?」
闇に染まった欲。人が人を信じない独立世界。絆、友情、繋がりは全て切断される。一人で戦うことこそ最も弱い戦術。一人でやれると思いこむ思想こそ最も弱い考え方。
「人は最も脆く、最も弱い存在なんだと認めさせること。道具よりも劣る下等生物。くっくっく……さあ、己が弱いと認めるのならば、私が力を授けようじゃないか。弱さを偽りで隠し、力によってねじ伏せろ!殻を破るんだ!人が変わる瞬間を私に見せてくれ!」
握出の見る未来に誰が映るのかは分からない。人が『人の形』をしているのかさえ分からない。
でも、握出の言っていることは、かつて俺の言っていることと重なる。
人は救えない。人が人を堕とすことの惨めさを唱えているのは、俺だ。
人には悲劇しか残ってないと思うのは、握出だけじゃない。俺も一人だ。握出と俺の言っていることは同じだ。ただ違うとすれば、
俺は人が救えるのは他人だけで、道具が救いの力を持っていると思っていることに対し、
握出は人が救えるのは自身だけで、その先に救いの力が待っていると思っていることだけ。
「なんだ、じゃあ俺とおまえは一緒じゃねえか」
握出の見る未来に、無意識にでも人の可能性を少しでも信じているのなら。
折れることのない心の支え。たとえ道具で人を操ろうと、人は決して他者に臆さない。
握出の言葉をそっくり返そう。
「人は最も脆く、最も弱い存在なんだと認めさせること。それが最も強い意志。道具よりも優れた上級製品。強さを真実に変えて、信念によってねじ伏せろ!殻を破るんだ!人が変わる瞬間を俺は垣間見る!」
握出がつまらなそうに舌打ちをする。俺ははっきり言ってやる。
「握出、埃被っているぜ」
俺は誰かの為に会社に就くという考えはなかった。他の誰よりも自分の為に働きたいと思った身体。地位も、名声も給料も、今後待っていたであろう結婚も。
それを捨てて、人の為に何かしようと仕事に精を出したのは、握出と出会ってからだ。
グノー商品の素晴らしさを伝えたかったんだ。
決して、握出のように人を騙していた訳じゃない。握出が俺の信念すら嘘に変えたのだ!だから絶対に許さない!
「私の言うことはすべて嘘になる。その意味がまだ分かってないようですね」
握出が目を細める。
「『お腹がいたくなってきた』」
それが嘘?何を言い出したのか最初は理解できなかった。と、思った途端、
ぐるるるるるるるぅぅぅ
「なっ!」
急にお腹の調子が悪くなって蹲ってしまう。虫の居所が悪い。お腹が人に聞こえるくらい大きな音を出したのは人生で初めてだった。
「な、なにをした?」
「『激しい腹痛に襲われた』」
「ぐうううううううううううううううう!!!」
痛い。この痛みは、握出の言う通りお腹からきている。何事もなかった俺のお腹が握出の言う通りに不調を訴える。つまり、握出の言ったことは嘘でもあり真実でもある。
握出を睨むと、正解と言わんばかりに歪に嗤った。
「ウソ、エイト、オー!オー!!僕、アクデモーンー、なんてね。くくく……。如何です?道具に頼らなくても、他者に影響を及ぼすことはできる」
人の更なる先、進化する方向には人を騙す術が百通りある。
「私の言うことを信じていれば幸せになることも可能だったのに。幸せになりたいと言いながら幸せになろうとしない矛盾。それが人間。不幸だと言って貯金をし、他人の不幸には歓喜し、蜜の味を啜っている。そんな幸せが欲しいのなら差し上げましょうか?この私が!!?あひゃひゃひゃひゃ!!!!」
よほどハイになっているのか、聞いたことのない笑い声をあげながら、初めて見た人の可能性を垣間見た。
グノー商品よりさらに質が悪い、グノーグレイヴという私欲の力。
壊れている。
握出は既に、別のモノになってしまった気がした。
「そんな偽りの幸せなんていらない。幸せは誰かに与えられるものじゃない。自分が掴み取ってこそ価値があるんだ」
「……幸せに形などないから最高級の形で成してあげようと言うのに」
「いらねえよ。小さくても、本物が欲しいんだ」
悲劇なんて誰も望まない。物語は喜劇で終わる方が救われる気がするから。
続編が欲しい訳じゃない。頭の中で掻き立てられるその先を俺は読みたいんだ。
「握出、終わりにしよう。俺が終わらせるんだ」
俺は腹痛に悩まされながらも懸命に立ち上がる。息があがるほど俺の体力は消耗しているのか。握出は俺の姿を見ると、ふっと笑みを消した。
「嘘を嘘と見抜けられなければ生きていくのは難しい。喜劇こそ嘘。エンターテイナーによって作られた娯楽に何が救われるのです?現実には悲劇しかありません。それが真実」
「なら俺は、悲劇を喜劇に変えてやる。悲劇が嘘なら喜劇が真。おまえを倒せば俺にとって喜劇」
「なんて暴挙!刑務所に入ろうが、それが千村くんの真実なら喜劇ですか……ケキャキャキャ!面白いですね、その考え方。そんな考え方をしちゃうと、もう誰も私を止められなくなっちゃいますよ?グノーグレイヴに満ち満ちた世界。人が人を見下す下種社会!!」
「俺が止めるんだ!あくでえええええええええええええええええええ!!!!!!」
握出だけは居てはいけないんだ。この世界に生きる営業マンに全力で謝らしてから、俺が裁く!その為に、あいつの襟を掴まなければいけない。
傍に寄らなければいけない。
「威勢がいいですが、はてさて、私まで辿り付けますか?」
握出はあくまで冷静だ。いや、既に先へ到達している握出だからこそ冷静で居られるのだ。
ならば俺は、道具に頼ってでもたどり着いてみせる。
心臓に手を置き、ぐっと力を入れる。すると、俺の懐からグノー商品『時計』が現れる。時を止められる魔法の道具。
「握出、止まれええええ!!!」
かちっと押した瞬間、時が止まったように全てが無音になる、動けなければ嘘もつけないと思っていた。
「おおおっ!身体が動かない。……どうやら時を止めたようですね」
握出は無音の世界で喋り続けていた。
「っ!なぜ?」
「しかし、そんなこと然したる問題じゃありません。時が止まると言うことは休むということです。既に私は時の止まった世界で生きているのです。休みなどないのですから。24時間勤務を31回続けること12か月過ごしていれば、時の止まった世界で動くことなんて造作もありません。営業とはそういうものです。過酷さ故
に可能性を秘めているのです」
身体を柔軟に動かし、体操をしながら語りかけてくる。確かに時は止まっているのに、握出は既に自由に動けるまでになっていた。
「ウソだろ……」
信じられない。時計など握出には関係ない。元々住んでいる世界が違いすぎる。戦う意志を示してしまったことに後悔した。握出には勝てない。負けると分かっていても戦わざるを得ない。
そうだ。勝つ戦いではない。負けてでも俺の満足感が満たされれば、進んで俺は負けを認めよう。
握出を殴る。それだけが俺の目標。
「一つの真実に十の嘘がありますからね。一体何回騙されれば気が済むのでしょうか?お分かりでしょう?信念、意地、プライドなど無意味です。まずは頭の中を真っ白にすること。人の言うことに一度は耳を傾け、零からの始めて自己の再構築をはかりなさい」
握出にとって信念やプライドはいらないと言えば、それを聞いた俺の中からもうすぐ消えるだろう。心の支えは脆く、バキッという音が聞こえ、折れて崩壊していく。だが、その信念が俺を奮い立たせる。一度握出を殴らなければ気が済まない。
全力で駆けて握出に距離を詰める。
あと五歩、四歩……
「それでも、曲がらない信念を持ちたいんだ!」
おまえが思っているほど、世界は汚れていないのだから。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!くら――――」
「っ!」
手を後ろに振りかざす。走りと殴るタイミングを合わせて距離を詰める。
三歩……二歩………
・・・・・・・・・・・・
ピタッと足が止まる。
「俺は……何をしていたんだ?」
握出の前できょろきょろしている俺に、握出は笑った。
「もう何度目になるんでしょうかね?」
握出と目が合い、距離感が近すぎた事に気付き「申し訳ありません!」と深々と頭を下げる。「いいえ」と握出は軽く流した。
「千村くんには素質があると思った。人よりさらに向上する精神。逸脱する身体能力、成人を軽く超える行動力。私と供に次の段階に行きましょう。人は変わらない。むしろ今はデチューンが好まれる時代。変われるのは、変わろうと思っている人だけです」
何を言っているのか分からない。ただ俺に素質があると言われると、営業マンをしていて嬉しくなる。握出のもとで働けて嬉しく思う。
「はい」
また俺の内に新しい信念が建っていく。
握出のもとで働こう。この人を裏切ってはいけない。握出は味方と、いう柱が。
「さあ、次のステージに行きましょう。グノーグレイヴは間もなく全ての人の内に生まれます」
握出が再び営業の話を始める。今日もまたグノー商品を薦める仕事が始まる。俺たちは歩き出す。
「――私が求めるのは束の間の娯楽。ウタカタの現世を楽しむための」
握出がつぶやいた一言。聞くには少し怖い、まるで悪魔のような吐息。
嘘か真実かわからない。
でも、きっとそれが握出紋を作っているのだろう。
< 続く >