第1話 恋人ごっこ
「おはよう、知佳」
「あっ、おはよう、サッちゃん」
朝の講義がある大教室に入ると、知佳はいつもの場所に座っていた。
私が挨拶すると、笑顔で小さく手を振ってくる。
それだけで、私の胸は、きゅんってなってしまう。
私、橘沙月(たちばな さつき)と彼女、秋山知佳(あきやま ちか)が出会ったのは、去年の春、この大学に入ってからだ。
お互いに話が合って、すぐに仲良くなった。
同じ学部で、一緒の授業も多かったし、ふたりとも地方から出てきて一人暮らしというのもあって、普段からよく一緒にご飯を食べたり、互いの部屋に遊びに行ったりしている。
周りから見たら、私たちはとても仲のいい友達同士に見えるだろう。
いや、たぶん知佳もそう思ってる。
でも、私にとっては違う。
私には、知佳は友達以上の存在なんだから。
……私は、知佳に恋をしてる。
自分が、女の子しか好きになれないことに気づいたのは、高校生の時だった。
仲のいい友達が男の子の話をしていても、私だけ中に入れない。みんなに彼氏ができても、私だけ取り残される。
学校中の女の子から人気の男子を見ても、胸がときめかない。
それなのに、かわいい女の子を見ると、心臓がドキドキすることがあった。
決定的だったのは、生まれて初めての恋。
相手は、部活の後輩だった。
小柄で、ふわっとウェーブした長い髪に、ぱっちりした瞳と、くりんと長い睫毛。
色白で、少し丸みのある顔にいつもニコニコと笑顔を絶やさなくて、まるで、お人形さんみたいに可愛らしかった。
それでいて、ちょっと頼りないところがあって、守ってあげたくなるような子だった。
仲のいい先輩後輩として、ふざけてじゃれ合うなんていうのは、女の子同士ならよくあることだったけど。
何かの弾みでその子を抱きしめたときに、自分の胸が締め付けられそうなくらいに切なくなるのを感じた。
自分が、彼女に恋していると確信したのはその時だった。
だけど、それから少ししてその子がバスケ部の男子とつきあい始めて、私の初恋は儚く散った。
……そう。
彼女は、男の子に心をときめかせる普通の女の子だった。
私の恋は、スタート地点に立つことすらできなかった。
ごく普通の女の子は、女の子を恋愛対象にはしない。
私がどれだけ恋心を燃やしても、その恋は叶わない。
そんな苦い想いを抱いたまま高校を卒業して大学に入った私は、知佳に出会った。
人数の少ない専門の授業で初めて隣の席になって言葉を交わした時に、私は胸の高鳴りを抑えることができなかった。
少し丸顔で、くりっとした大きな目は、初恋の相手に似ているかもしれない。
でも、黒くて真っ直ぐな髪がよく似合う、鼻筋の通ったすっきりとした知佳の顔立ちは、あの子とは違う。
とにかく、すごくピュアな感じのする子だな、というのが第一印象だった。
その印象は、仲が良くなるにつれてどんどん強くなっていった。
知佳は、素直で、感情の表現が豊かで、笑うとすごく愛くるしい。
それでいて、少し天然なところがあって、危なっかしくて目が離せない。
本当に、純粋そのものな子だった。
知佳と仲良くなって、一緒に過ごす時間が多くなればなるほど、彼女を好きだという思いも膨らんでいくのを、私は抑えることができなかった。
でも、その思いを伝えることができない。
きっと、知佳も普通の女の子のはずだから。
このままだと、初恋の時と同じ苦い思いをまたすることになる。
……そんなのは嫌だ。
だからその日、私はある計画を実行に移そうとしていた。
* * *
「知佳ー!できたから場所空けてー!」
私は、湯気を上げているフライパンをキッチンから知佳のところに持っていく。
そこでは、知佳がコタツ兼勉強机の場所を空けて、鍋敷きを置いて待ってくれていた。
今日は、知佳を私の部屋に呼んで、一緒に晩ご飯を食べる約束をしていたのだった。
私も知佳も料理するのが好きなので、よく、互いに自分の部屋に呼んではふたりだけの晩餐会をやっているのだ。
「わぁ、おいしそう!ねえ、サッちゃん、今日の料理はなに?」
「季節の野菜と鶏肉のレモンソテーだよ。さ、熱いうちに食べて食べて!」
「うん!…………あっ、おいしい!すごい、レモンの香りと酸味がしてて、お肉なのにすっきりしてる!」
「でしょ!作り方は簡単なのよ。鶏肉と野菜をソテーして、塩と粗挽きの黒胡椒で味付けして、火を切る直前にレモンの絞り汁をかけて全体になじませるだけ!」
「へえぇ。……うん、お野菜もおいしい。こんなに熱々なのに、レモンの酸味が飛んでないんだね」
「そうなのよ。それにね、お皿に盛りつけるのよりも、こうやって熱々のフライパンから直接取り分けて食べる方がおいしく感じるのよね」
「あ、でも、それ言えてるかも。ずっと熱々だしね」
「まあ、その分油が跳ねてるから、後で机の上をよく拭かないといけないけどね」
「大丈夫、あたしも後片付け手伝うから」
ご飯を食べながら、知佳との会話が弾む。
いつもと同じ、私にとって夢のような時間が過ぎていく。
だけど、いつもと違うのはその後のこと……。
ご飯を食べて、知佳とふたりで後片付けを済ませる。
「ふう、ごちそうさまでした、サッちゃん」
「どういたしまして。お茶でも飲む?それとも、コーヒーがいい?」
「あ、じゃあ、お茶にしようかな」
「うんっ、お茶ね。…………はい」
寛いでいる知佳の前に、温かいお茶の入ったマグを置くと、私は用意してあった黄緑色のキャンドルをさりげなく机に置いて火をつける。
「ん?蝋燭なんか出してどうしたの、サッちゃん?」
「ふふっ、これはね、ただの蝋燭じゃないのよ、アロマキャンドル。いい香りがするでしょ」
「あ、ホントだ、いい匂い……」
知佳が、すぅっと深呼吸する。
蝋燭の炎と一緒に、部屋の中に甘い花の香りが立ちこめ始めていた。
「でしょ。アロマキャンドルって、アロマテラピーなんかで使ういろんな種類の香りがあってね。これは気分が落ち着いてリフレッシュできる香りなの」
「ふうん、そうなんだぁ……」
くんくんと香りを嗅ぎながら、知佳は感心して私の話を聞いている。
知佳に話したことは、決して嘘じゃなかった。
私が選んだアロマキャンドルの香りは、リンデンカモミール。
その効果は心身の緊張を解して、リラックスさせるっていうの。
アロマの効き目に少し期待していた部分はあるけど、本当に必要なのは蝋燭の炎そのものだった。
「あのね、これを使って、もっとリフレッシュできるちょっとした気分転換法があるんだよ」
「気分転換法?」
「そう、それをするとね、すごく気分がすっきりするの」
「へえぇ……」
「私がやってあげるから、ちょっとやってみる?」
「それって、すぐできるの?」
「うん。すごく簡単なんだから」
「うーん……じゃあ、サッちゃんがそう言うんなら、やってみようかな」
「じゃ、決まりね!それじゃ、こっちに真っ直ぐ座り直して、知佳」
「え?こうかな?」
私は、後ろにベッドがある側に知佳を座り直させる。
ちょっと狭いけど、これから私がやろうとしていることには、きっとそこの方が都合がいいと思った。
「うん、そんな感じ。それでね、このキャンドルの炎をじっと見つめるの。これ以上できないていうくらいに集中してね」
「うん……」
知佳が、アロマキャンドルの炎をじっと見つめる。
私から見ても、じっと息を詰めているのがわかる。
「それじゃあ、炎を見つめながら一度深呼吸してみようか。この香りを胸いっぱいに吸い込むような感じで」
「うん。すうぅー……はあぁー……」
「それじゃあ、また炎をじっと見つめて。きっと、さっきよりも集中できるはずだから」
「うん……」
知佳が、また息を詰めて炎を見つめる。
「どう?さっきより集中できてる気がしない?」
「そう言われると……そうかな?これ以上できないくらいに集中してたつもりなのに、もっと集中できてるかも」
「じゃあ、もう一度深呼吸して」
「すうぅー……はあぁー……」
「で、もう一度炎を見つめて。そうしたらもっと集中できるはずだから」
「うん……」
「さあ、もう一度深呼吸してみて」
「すうぅー……はあぁー……」
「ほら、炎を見つめて。さっきよりももっともっと集中できるよ」
「うん……」
「もう一度深呼吸」
「すうぅー……はあぁー……」
「炎を見つめて」
「……」
よっぽど集中してるのか、知佳は私の言葉に返事を返さなくなっていた。
息を詰めてじっと目を凝らす知佳の瞳に映った炎が、ゆらゆらと揺れている。
時々、炎が大きく揺れると、それに合わせるように知佳の瞳も揺れる。
「今、知佳はすっごく集中できてるから、この炎しか見えないし、私の声しか聞こえないよ。さあ、もう一度深呼吸」
「すうぅー……はあぁー……」
「炎を見つめて」
「……」
「もう一度深呼吸」
「すうぅー……はあぁー……」
「炎を見つめて」
「……」
「もう、知佳はこの炎しか見えないし、私の声しか聞こえないよ」
「……」
じっと炎を見つめたまま、知佳が小さく頷く。
だけど、その反応はだいぶ鈍い。
これでもう、知佳は軽い催眠状態になっているはずだった。
そう、これは催眠術。
私は今、知佳に催眠術をかけようとしていた。
きっかけは、本屋で手に取ってみた心理学の本だった。
どうしたら、私の知佳への想いを遂げることができるのか。
そんなことを考えながら心理学のコーナーを漫然と見ていたときに何気なく手に取った本。
たまたま開いたところに、催眠術について書いてあった。
その時、ふっとある考えが頭をよぎった。
催眠術を使って、知佳に私の恋心を受け入れてもらえることはできないんだろうか、って。
そんなこと、本当はしちゃいけないのはわかってる。
だけど、頭の中に浮かんだそのアイデアを振り払うことができなかった。
気づいたときには、催眠術に関する本を何冊か手に取ってしまっていた。
いったん調べ始めると、いつしか私はすっかり夢中になってしまっていた。
漠然と、私がイメージしていた催眠術とはだいぶ違うこともわかったし、いろんなかけ方があることも知った。
催眠術をうまくかけるためには、施術者と被術者の間に信頼関係があると成功しやすいこともわかった。
反対に、被術者に警戒心があるとかかりにくいことも。
その点は、私と知佳との仲なら問題はないと思う。
でも、やっぱりいきなり催眠術をかけようとしたら、知佳も変だと思うかもしれない。
いろいろと考えた結果、この、蝋燭を使った方法なら、知佳に怪しまれずに催眠術をかけることができるんじゃないと思った。
それを、今日実行に移したというわけだった。
「ふぅ……」
私が大きく息を吐いても、知佳はじっと炎を見つめたままだ。
たぶん、うまくいってるとは思うけど、実際に催眠術をかけるのは初めてだから、まだ少し不安がある。
だけど、さっきから心臓がドキドキして、やけに昂ぶっている自分がいた。
もう一度大きく息をして、気持ちを落ち着かせた。
そして、知佳に語りかけ始める。
「いい?これから私がカウントダウンすると、知佳はどんどん深いところに沈んでいくよ。でも、それはすごく気持ちがよくて、知佳はすぅって深く沈んじゃうの。そして、私が0まで数えると、すごく楽になって、体から力が抜けてしまうよ。わかった?」
「……うん」
じっと炎を見たまま、知佳が頷く。
「じゃあ、始めるよ。10、9、8、7、6……」
私は、10から数をカウントダウンしながら、ゆっくりとキャンドルを後ろに引いていく。
それを追って、知佳の視線が遠くを見るように動く。
「5、4、3、2、1、0。ほら、力が抜ける」
0まで数えると、知佳の体はぐったりとベッドに凭れ、頭も力なく下を向いた。
「今、すごく気持ちいいよね」
「……うん」
ぐったりしながらも、知佳は私の声にはちゃんと反応する。
うん、うまくいってる感じがする。
「じゃあ、もう一度体を起こして炎を見て」
「……うん」
知佳が、体を起こしてキャンドルの炎を見る。
その瞳は、さっきよりもぼんやりとしていた。
「もう一度カウントダウンするよ。そうしたら、知佳はもっと深く沈んで、もっと楽になるよ。ほら、10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、0」
私がキャンドルを遠ざけながらカウントダウンすると、0まで数えたところで知佳はぐったりとベッドに寄りかかる。
「もう一度体を起こして炎を見て」
「……うん」
また、知佳が体を起こして炎を見る。
でも、その動きは緩慢で、炎の方に視線を向けているけど、その目はどんよりとして、焦点が合っていないみたいだった。
「じゃあ、もう一度カウントダウンするね。今度カウントダウンすると、知佳は自分の一番深いところまで沈んで、すごく気持ちよくなれるよ、いい?……10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、0」
もう一度0までカウントダウンすると、知佳がくたっとベッドに凭れかかる。
見ただけでは、眠っているようにしか見えない。
「知佳は今、自分の一番深いところにいるよ」
「……うん」
下を向いて、眠ったような状態で知佳が返事を返してくる。
うまく、催眠術にかかってくれたみたい。
「ここには、悪いことをする人はいないからすごく安心で、素直な気持ちになって、聞こえているこの声の言うとおりにしちゃうよ」
「……うん」
「じゃあ、いい?よく聞いて。ここにいるのはとても気持ちいいよね?」
「……うん、気持ちいい」
「この、気持ちいいところにまた来たいと思う?」
「……うん」
「じゃあ、合い言葉を決めておこうよ。知佳がいつでもこの気持ちいいところに戻って来ることができるように」
そう。これはすごく大事。
こうして深い催眠状態になった時に、約束事になるキーワードを決めておくと、知佳をまたこの状態にすることができる。
「そうだ、合い言葉はこうしようよ。”自分の中の鍵を開けて、知佳”って。この言葉を聞くと、知佳は心の鍵を開けて、この気持ちのいいところに戻ってこれるの」
「……うん」
「そして、”自分の中の鍵を掛けて、知佳”って言葉を聞くと、目が覚めるの」
「……うん」
「もう一度言うよ。普段は忘れているけど、知佳は、”自分の中の鍵を開けて、知佳”って言われると、どんな時でもこの気持ちのいいところに来て、”自分の中の鍵を掛けて、知佳”って言われると目が覚めるの」
「……うん」
「じゃあ、合い言葉を聞くと、今のことは心の奥にしまって、すごくすっきりした気分で目が覚めるよ。……”自分の中の鍵を掛けて、知佳”」
「ん……んん~!」
合い言葉を言うと、知佳が体を起こして、軽く頭を振ってから伸びをする。
「……あれ?サッちゃん、あたし、寝ちゃってたの?」
「うん。すごく気持ちよさそうにしてたから、ちょっとうつらうつらしてたのかもね」
「そうなんだ。なにも覚えてないや」
「すっきりした気分でしょ?」
「ホントだぁ。すごくすっきりして、気分が軽いよ」
「ね、効果あるでしょ。じゃあ、もう一度やってみない?もっとすっきりするよ」
「いいよ、やってみる!」
「じゃあ、このキャンドルの炎を見つめて」
「うん」
目の前にキャンドルを差し出すと、知佳はそれをじっと見つめる。
「”自分の中の鍵を開けて、知佳”」
「あ……ん……」
合い言葉を言うと、知佳の瞳がだんだんぼんやりしていって、くたっとベッドに凭れかかった。
……本当にうまくいったんだ。
合い言葉がちゃんと機能しているのを見て、改めて催眠術がうまくいったんだという実感が湧いてくる。
でも、急いだらダメだよね……。
私が読んだ本には、催眠術は繰り返しかけるほどかかりやすくなって、深くかかるようになるって書いてあった。
だから、もう少し……。
「ほーら、すごく気持ちよくて、気分が軽いよね」
「……うん」
知佳は、力なくベッドに凭れかかったままで返事を返してくる。
だけど、本人の意識はほとんどないみたい。
「じゃあ、合い言葉を言うと、今のその軽い気持ちで、すごくすっきりして目が覚めるよ。……”自分の中の鍵を掛けて、知佳”」
私が合い言葉を言うと知佳が体を起こして、瞳の焦点がゆっくりと合っていく。
「あれ?あたし、なんかすごく気持ちいいところにいたような……?」
「ね、これがこの気分転換法の効果なのよ。自分が、すごく気持ちのいいところにいたような気がして、気分がすっきりするの」
「うん、本当に気分がすっきりしてる!」
「じゃあ、もう少しやってみようよ」
「うん!」
それから、私は同じことを4回繰り返した。
繰り返すたびに、合い言葉を言ってから知佳の体がぐったりするまでの間隔が短くなっていく。
「”自分の中の鍵を開けて、知佳”」
合い言葉を言ったとたんに、知佳の体がくたっとなる。
まるで、糸の切れた人形みたいに。
そろそろ大丈夫かな?
そう思った私は、次のステップに進むことにした。
「ここにいるのはすごく気持ちいいよね?」
「……うん」
「ここには、悪いことをする人はいないから、すごく安心できるよね?」
「……うん」
「だから、なにを言っても、何をしても安心だよね」
「……うん」
「今、聞こえているこの声に訊かれたら、何を訊かれても答えちゃうよね」
「……うん」
「知佳は、誰かとつきあったことはあるの?」
私は、ずっと気になっていたその質問をぶつけてみる。
「……あるよ」
やっぱり……。
知佳みたいな可愛らしい子だから、周りがほっとくわけがないとは思っていた。
だから、その答えもある程度は予想していた。
でも、その返事を聞いたときに、胸がきゅと締めつけられる思いがした。
「その人は、男の人?」
「……そうだよ」
私、なに当たり前のことを訊いてるんだろう?
知佳も女の子のことが好きだなんて、そんな都合のいい話なんてあるわけないのに。
そんなところに淡い希望を持っていた自分に、少し呆れてしまう。
「それはいつ?誰と?」
「高校生の時……。1年の冬に……滝井先輩に告白されて……」
「滝井先輩って?」
「ひとつ上の先輩で……サッカー部の選手で……あたし、サッカー部のマネージャーだったから……」
どんよりと曇った瞳のままの知佳の口から、ぼそぼそと語られる、私の知らない知佳の思い出。
知佳が高校の先輩とつきあっていたことはもちろん、サッカー部のマネージャーをしていたことも知らなかった。
当たり前のことだけど、私は大学に入ってからの知佳しか知らない。
ファッションや音楽や、マンガなんかは好みが合っていたので、そういう話はよくしてたけど、私がスポーツにはあまり関心がないので、これまで話題に上ったことはなかった。
私の知らない時間を過ごしてきた知佳が、そこにいる。
「ねえ、今は誰かとつきあっているの?」
「うう……ん…………。つきあって、ない……」
……なんだろう?
今、知佳の返事が返ってくるまでに少し間があったような気がするけど?
「じゃあ、誰か好きな人がいるの?」
「う……うう……ん……」
心なしか、知佳の表情が少し歪んだ気がした。
なんなんだろう、これって?
……あっ、もしかして!
「知佳、その滝井先輩とはどうなったの?」
「先輩が東京の大学に入って……遠距離恋愛になって……最初は電話とかメールとかしてたけど……やっぱり、なかなか会えないから……どちらからともなく連絡しなくなって……」
「そのまま、自然消滅しちゃったってこと?」
「……うん」
気のせいなんだろうか?
ぼんやりと力のない知佳の目に、涙が浮かんでいる気がする。
「もしかして、知佳はまだその先輩のことを引きずっているの?」
「……うん」
気のせいじゃない。
深い催眠状態になっているはずの知佳の目から、涙がこぼれ落ちた。
こんな状態でも、その先輩のことが知佳に涙を流させている。
そんなに、その人のことが好きだったんだ……。
涙を流している知佳の姿を見ると、なぜか、胸がしくしくと痛む。
私は、まだその理由がなんなのか、自分でも気づいてなかった。
でも……知佳は、その人の前ではどんな顔をして、どんな風に接してたんだろう?
ふと、そんな思いが私の中に浮かんできていた。
きっと、そこには私の知らない知佳がいる。
その頃の知佳を、見てみたい。
私の知らない、高校生の時の知佳を見てみたい。
純粋に、そんな願望が浮かんできていた。
そして、それができる方法があることを、私は知っていた。
年齢退行……。
催眠術をかけた相手の精神的な時間を戻していくこと。
たとえ、時間の経過とともに普段は忘れてしまっていても、意識下には過去の経験や記憶は残っている。
深い催眠術にかけることができれば、そういった経験や記憶を呼び覚まして、ある特定の時まで精神的に戻すことができるって本に書いてあった。
きっと、今の知佳くらいの深い催眠状態なら、それができるんじゃないだろうか?
「いい?これからカウントダウンすると、知佳の時間が少しずつ戻っていくよ。12から始めて、1まで数えたら知佳の中の時間は1年戻るの」
「……うん」
「じゃあ、始めるよ。……12、11、10、9、8、7、6、5、4、3、2、1。ほら、もう知佳の時間は1年戻ったよ」
「……うん」
「その頃、知佳ってどうだったのかな?」
「新しい友達もできて……ひとり暮らしにも慣れてきて……ようやく大学生らしくなってきたかなって感じ……」
知佳が、ぼそりぼそりとそう答える。
これでうまくいってるのかな?
初めてのことだから、うまくいってるのかどうかよくわからない。
「新しい友達って?」
「……沙月ちゃん。橘……沙月ちゃん……」
やっぱり、うまくいってるのかもしれない。
知佳のその返事を聞いて、私はそう感じた。
まだ、仲良くなったばかりの頃、知佳は私のことを、サッちゃん、じゃなくて沙月ちゃんって呼んでいたことを、久しぶりに思い出した。
だから、今の知佳はあの頃の知佳なんだ。
だったら、このまま続けたらいいのね。
「それじゃあ、もう1年時間を戻すよ。……12、11、10、9、8、7、6、5、4、3、2、1。ほら、また、知佳の時間は1年戻ったよ。……その頃の知佳はどうしてたのかな?」
「進路指導の先生に言われて……志望校を決めなきゃいけないけど……。滝井先輩の行ってる大学を受けようかどうしようかって……。最近、先輩からメールもあまり返ってこないし……なかなか会えないし、寂しいなって……」
また、知佳の表情が悲しそうに歪む。
もう、この頃にはやりとりが頻繁じゃなくなってたんだ。
それなのに、知佳はその人と同じ大学を受けるかどうか悩んでたなんて……。
知佳の悲しそうな顔を見ると、また私の心がきゅって痛んだ。
「じゃあ、もう少し時間を戻そうか。……12、11、10、9、8、7、6、5、4、3、2、1。ほら、知佳の時間はまた1年戻ったよ。……知佳は今、滝井先輩とつきあってるよね?」
「……うんっ」
今度は、嬉しそうに返事をする。
なのに、そんな嬉しそうな知佳の顔を見ても、なぜか自分の胸が締めつけられる。
これで、知佳はまだ高校の先輩とつきあっていた頃に戻ったはず。
あとは、どうしたらいいんだろう?
……そうだ!
「ねえ?知佳は、滝井先輩の家に遊びに行ったことはあるの?」
「それが……まだ行ったことないの……」
「そうなんだ。じゃあ、これから知佳は、初めて滝井先輩の部屋に遊びに行きます」
「滝井先輩の……部屋に……」
「そう。滝井先輩の部屋で、先輩とふたりっきりなの。ほら、こっちを見て、知佳」
「……ん」
知佳のぼんやりとした目が、私の方を見る。
「今、自分の目の前にいるのは滝井先輩だよ」
「あたしの……目の前にいるのは……滝井先輩……」
「もう一度繰り返して。自分の目の前にいるのは、滝井先輩」
「あたしの……目の前にいるのは……滝井先輩……」
「もう一度」
「あたしの……目の前にいるのは……滝井先輩……」
「もう一度」
「あたしの……目の前にいるのは……滝井先輩……」
知佳が、私の顔を見つめながら、何度も繰り返し呟く。
今思っても、なんで自分はそんなことをしてしまったんだろうと思う。
ただ、その時の私は、知佳がそんなに好きな人の前でどんな姿を見せるのかを知りたかった。
「そう。ほーら、よく見て。ここにいるのは滝井先輩だよね」
「……うん、あたしの前に……滝井先輩がいる……」
「そうだよ。じゃあ、いい?知佳は、つきあってから初めて滝井先輩の家に遊びに来て、先輩の部屋でふたりっきりになったところだよ。わかった?」
「……うん」
「そして、今、知佳の目の前に滝井先輩がいます」
「……うん」
「じゃあ……”自分の中の鍵を掛けて、知佳”」
「……ん。あれ、あたし……?あっ……オサム先輩?」
合い言葉を言うと、知佳が寝惚けたように首を傾げ、そして、私の方を見て、オサム先輩、と呼んだ。
……よかった。
知佳は、私のことを本当にその先輩だと思ってるみたい。
ぶっつけ本番でやってみたけど、うまくいったんだわ。
滝井先輩の名前は、オサムっていうのね……。
知佳が、その先輩のことを名字じゃなくて名前で呼んでいる。
それだけのことなのに、胸がチクッてなる。
「先輩?あたし、なにしてました?」
「なにって……私の部屋に遊びに来て……」
「ふふふっ!先輩、ヘンなの。いっつもは”俺”って言うのに、”私”だなんて!」
あっ!
そうか、今、私は男の子のはずなのよね。
滝井先輩って人は、自分のことを、俺、っていったのね、気をつけないと。
少しドキッとしたけど、怪しむどころか、おかしそうに笑っている知佳を見て、少しホッとする。
それにしても、無邪気に笑っている知佳の顔、本当に楽しそう。
見た目はいつも見慣れている知佳のはずなのに、気のせいかその表情も仕草も、少し子供っぽく見える。
やっぱり、高校生の頃に戻ってるからなのかな?
「ちょ、ちょっと言い間違えただけだろ」
私は、できるだけボロが出ないように、男の子っぽい話し方をしてみる。
「だって!先輩の話し方、なんか女の子っぽくてかわいかったんだもん!」
「お、おまえなぁ!知佳の方が、よっぽどかわいいじゃんか、よ」
「きゃはははっ!もうっ!」
ぎこちない男の子しゃべりをしながら、知佳をぐいっと抱き寄せた。
そうすると、楽しそうに笑いながら、知佳は自分から体を預けてくる。
それだけ、安心しきっているんだ……。
それは、女の子同士でもじゃれ合って抱き合ったりすることはある。
でも、こんなのは初めてかもしれない。
「おまえなぁ、いつまでそうしてるんだよ」
「やーん!先輩ったら!」
こっちにしなだれかかったままの知佳を押し返すと、座り直してまだきゃっきゃっと笑っている。
本当に、今の知佳はよく笑っていた。
いや、もともとよく笑う子なんだけど、私の知っている彼女よりもさらにテンションが高い。
「なにはしゃいでるんだよ、おまえ」
「だってぇ、初めて先輩の家に遊びに来て、とっても楽しいんだもん!」
目をキラキラさせながら、知佳は部屋の中を見回している。
「意外だなぁ……。先輩の部屋、すごくきれいに片付いてるー」
本来の、大学2年生の知佳なら何度も遊びに来て見慣れているはずの部屋を、知佳は物珍しそうに眺め回す。
たしかに、私の部屋はよく言えば機能的、悪く言えば素っ気ないくらいに片付いている。
その分、女の子の部屋っぽい飾りっ気がないから怪しまれずに済むけど。
「オサム先輩って、絶対好きな選手のポスターとかいっぱい部屋に貼ってると思ったんだけどなぁ……」
そうか……その先輩って、そんな感じの人だったんだ……。
「ああーっ!」
「え?な、なに?どうしたのよ?」
いきなり知佳が大きな声を出したものだから、思わず女の子しゃべりになっちゃった。
でも、それに気づいた様子もなく、知佳は目の前を指さしている。
「先輩って、自分の部屋にもテレビがあるんだーっ!」
知佳の指す先には、私の部屋のテレビがあった。
そうよね、私だって、実家の自分の部屋にはテレビがないものね。
子供の部屋にテレビがないことなんて、けっこうあるだろうし。
というか、知佳はここが学生用のワンルームマンションの部屋だってことにすら気がついてないみたい。
たぶん、ひとり暮らしの部屋なんか、今の知佳には想像の範囲外なんだ。
「すごいなー!いいなー!」
「そんなにいいか?」
「いいよーっ!だって、自分の部屋にテレビがあったらいつでもゲームができるもん。あたしなんか、テレビのある部屋でしかゲームできないからいっつも母さんに怒られてるのにー!」
唇を尖らせてむくれている知佳が、今の私にはやけに子供っぽく見える
本当に、私の知らない高校2年生の知佳がそこにいた。
でも、私にはわかっていた。
こんなにはしゃいでいる知佳の気持ちは、私に向けられているものじゃない。
知佳のその笑顔は、滝井先輩に向けられているんだ……。
「……先輩、どうしたの?」
いきなり、目の前いっぱいに知佳が顔を近づけてきた。
でも、たった今まであんなにはしゃいでいたのが真剣な顔つきになっていて、笑みの消えた、その、クリッとした大きな瞳が不安そうに陰っていた。
「……えっ?なにが?」
「なんか、今、悲しそうな顔してたよ」
やばっ!
今、気持ちが沈んでたの、気づかれちゃったみたい。
私は、取り繕うように慌てて笑顔を作ってみせる。
「い、いや、気のせいだよ。……それよりも、知佳ってそんなにゲームすんのかよ?」
「うんっ、するよ!」
「少しは勉強した方がいいぞ」
「えっ!どうしたの、先輩!?」
すると、私の言葉に、知佳が驚いたように目を丸くする。
ええっ?
私、なにかおかしなこと言った?
「どうしたって、なにが?」
「オサム先輩が勉強しろなんて!熱でもあるの、先輩?」
私の額に、知佳が手を伸ばしてきた。
「バカッ!熱なんかないって!」
「きゃん!」
その、温かい感触に心臓がドキンとなって、慌てて知佳の手を払ってしまっていた。
私、知佳の手がおでこに当たった、それだけのことで胸がきゅう、ってなっちゃった。
さっきから、自分の感情をうまくコントロールできない。
「ねえ、今日のオサム先輩ってばなんかヘンだよ?」
「本当になんでもないから!」
「そう?」
「そうだって!だいいち、学生なんだから勉強も頑張るのは当たり前だろ」
「先輩ってあんまり勉強してるイメージないんだけどなぁ……あ、でも、先輩の本棚、難しそうな本がけっこうあるんだ」
「あっ、それはっ……」
知佳が見てるのは、大学の授業で使ってるテキストが並んでる辺り。
当たり前だけど、どれも高校生が読むような本じゃない。
「そ、それはだな……ほら、俺だって大学行ってやりたいことがあるから、そのための勉強を今からしておこうと思ってだな……」
「へえぇー!?すごいなぁ……。オサム先輩って、サッカーにしか興味ないって思ってたのに、いろいろ考えてるんだぁ」
「あ、ああ。俺だって、やりたいことあるからな」
「ねぇ、先輩はどこの大学行くんだっけ?……あたしも、先輩と同じ大学受けようかなぁ」
「えっ、知佳……」
さっきまではしゃいでいた知佳が、また真顔になった。
知佳が滅多に見せないその表情が、さらに私の胸に突き刺さる。
「どうしたの?先輩?」
「あっ、いや、なんでもないんだ」
「なんか、さっきから元気ないよ」
「そっ、そうか?」
「そうだよ。いっつも冗談ばっかり言ってて元気いっぱいなのに。今日は口数も少ないし。やっぱり元気ないよ」
それは、私はその先輩のことを全然知らないから、下手にしゃべるとかえってボロが出るっていうのはあるけど。
さっきから、胸が高鳴ったり締めつけられたりで、うまく話せない。
それに……。
天真爛漫だけど、いや、天真爛漫だからこそ、知佳は敏感に感じ取っているのかもしれない。
私の心の中にある、この思いを。
「そうかな……」
積み重なっていくその思いに、私は短くそう答えるしかできない。
すると、知佳がニヘッと笑って私の顔をのぞき込んできた。
「そうだ!あのねっ、あたしが、元気になることしてあげようかっ?」
「……元気になることって?」
「それはね、こう…………ちゅっ!」
「……んっ!?」
知佳の腕が私の頭を抱いて、その唇が当たる、柔らかい感触がした。
私を抱く知佳の腕も、私の唇に当たるその唇も、全てが温かくて柔らかい。
人は、こんなに優しく人を抱きしめることができるんだって思うほどに知佳の愛情がこもっていた。
「どう?元気が出た?」
「え?あ……」
すぐに唇を離して、知佳がニコッと笑う。
胸が破裂しそうなくらいにドキドキして、私は返事もできないでいた。
私、知佳とキスしちゃった……。
でも……。
一瞬の胸の高鳴りは、すぐに切なさへと変わっていく。
そう。
知佳の優しさも、愛情も、全部私を切なくさせるだけ。
だって、知佳が何を言っても、何をしても、それは全部先輩のためだもの。
私のためじゃない。
私は私。
滝井先輩じゃなくて橘沙月だって言いたいけど、そんなこと言えるわけがない。
どのみち、言っても知佳にはわからない。
今の知佳は、まだ私と出会ってないんだから。
……どうして私、こんなことをしちゃっちゃんだろう?
こんなことをしても、胸が痛いだけなのに。
私は、知佳と恋人同士になりたい。
こんな、カップルの真似事をしたいんじゃない……。
こんな苦しい思いをするのは、もう耐えられない。
「知佳!」
「きゃっ!先輩!?」
私がぎゅっと抱きしめると、知佳が驚いたような声を上げる。
その耳許で、私は囁いた。
「”自分の中の鍵を開けて、知佳”」
「あ……」
私の腕の中で、知佳の体から力が抜ける。
「いい?これから、知佳の中の時間を進めるよ。1から12まで数えたら、知佳の時間は1年進むの、わかった?」
「……うん」
「じゃあ、数えるよ。……1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12」
私は、1年ずつ知佳の年を元に戻していく。
もう、その日はそれ以上何をする気も起きなかった。
自分でやったことなのに、すごく打ちのめされた思いだった。
そして、知佳の時間を今に戻して、私は合い言葉を言う。
「じゃあ、知佳はすごくすっきりした気持ちで目が覚めるよ。……”自分の中の鍵を掛けて、知佳”」
「ん……。あれ?サッちゃん?」
目を開けた知佳が、私のことをサッちゃんって呼ぶ。
だけど、不思議そうに私の顔をのぞき込んできた。
「どうしたの、知佳?」
「サッちゃんこそ何かあったの?泣きそうな顔してるよ」
「えっ、いやっ、気のせいだよ、きっと」
「そうかなぁ?なんか、ちょっと元気がなくなってるし」
「そう?もしかしたら、疲れてるのかもね。それよりも、ほら、もうこんな時間よ」
「あっ、ホントだ!もう帰らないと!」
私が指した時計の針は、もうかなり遅い時間を示していた。
「そこまで送っていくね」
「いいよ!そんなに遠くないし」
「じゃあ、マンションの外まで」
「うん」
ふたりで部屋を出て、マンションの外まで知佳を見送った。
「じゃあ、また明日ね、サッちゃん!」
「うん、また明日」
手を振って別れて、また自分の部屋に戻る。
「うっ……ううううっ……」
ドアを閉めて、鍵を掛けたとたんに涙が溢れてきて、私はその場にしゃがみ込んでしまったのだった。
< 続く >