記憶のカケラ

プロローグ

「ああ・・・だ、だれ? あっ! いやっ! いやぁぁぁっ!」

 女が悲鳴を上げる。

 気がつけば男に組み敷かれ屹立を挿入されていた。

 すでに男は激しく動いており、濡れきった秘肉は屹立を受け入れてしまっている。

「ああっ! いやっ! ああんっ!」

 気持ちとは裏腹に身体が反応しきっていて抵抗ができない。抗う言葉も甘さを含んでいる。

「くそっ! やっぱりダメか・・・我慢しろ。もうすぐいくから」

 吐き捨てるように言って男は律動の速度を速める。

「あっ! あんっ! あんっ!」

 男の動きにシンクロして喘ぎは高くなっていく。

「うぉぉぉっ!」

 男は叫びながら膣内に射精した。

「あぁぁぁんっ! ああっ・・・ええっ・・・うそっ・・・」

 ブルブルッと身体を震わせる男を見て女は最悪の予感に襲われた。

 女のことなど眼中にない態度で男はベッドから降りて服を着はじめた。

「あ・・・あの・・・」

 余韻で思うようにならない身体が恨めしい。

 男は背を向けたままジーンズをはきTシャツを着た。

「ねえ・・・答えて・・・ここどこ? 中で・・・出しちゃったの?」

 しかし、男は無言でドアを開けて出て行ってしまった。

「うわぁぁっ!」

 股間から流れ出る精液を見て女は泣き出した。

理由

 円山町のラブホテルから男の影がひとつ。ジーンズのポケットに手を突っ込み、すこし前屈みになって西の方へ歩いていった。

 10分も歩かなかっただろう。男の姿は古めかしい洋館作りの建物に消えていった。横書きの表札には厳めしい字で「松濤菜園」と書かれている。

 男の名は伊達公彦。かっこいい名前だが不細工だ。年は30才。職業はフリーランスの研究者と名乗っている。

 公彦は天才だった。東大医学部を首席で卒業すると理学部の大学院に編入して研究に没頭した。しかし、あまりにも自己中心的な性格が災いして人望はまったくなかった。なにしろ、人の命を救ったり社会に貢献することなどまったく興味がないと公言していたのだから無理はない。それは公彦の本音だった。

 メインの研究テーマは「記憶」で、シナプスの伝達物質とそのシステムを解明するというものだったが、利益を得たのは院生時代に趣味で育てていた植物から抽出した農薬耐性遺伝子だった。アメリカの国家戦略にまで影響を及ぼすと言われる巨大企業マウントムーン社が特許を買い取り、それを資金にして松濤の洋館を買った。そこを研究室として独立した。収入も、その企業から莫大な契約顧問料が入ってくる。研究室の名を「菜園」にしたのはそんな訳だ。しかし、これは公彦が自身をマッドサイエンティストだと思っていて「しょうとう」を「まつど」に読ませる洒落に過ぎない。

 公彦は顧問料のほとんどを記憶の研究に使っていた。

 人の記憶をフラッシュメモリーのように記録して別の人間に植えつける。あるいは記憶そのものを編集することが当初のテーマだった。ある植物の中だけに繁殖するバクテリアを偶然発見したことが研究を現実的なものにした。このバクテリアは海馬の神経組織とよく似た構造を持っており、人のDNAを植え込むと、そのDNAの持ち主の記憶がコピーできるはずだった。動物で実験を繰り返し完全ではないが埋め込んだ記憶がその動物を支配するようになった。問題は、そのバクテリアが体の中で長く生きられないことだった。さっきも、恋する女の記憶を抽出して植え込んだバクテリアを行きずりの女にスプレーで振りかけて実験してみたのだ。行為の途中でバクテリアは死んでしまい、女は正気に戻った。

 不細工なだけでなく、ひねくれた性格ゆえ公彦はまったく女にモテなかった。もちろん人並みに性欲はある。女と付き合いたかったが、まるで機会などなかった。いや、嫌われ続けた。そんな公彦だが幼なじみの白鳥玲子に恋をしたことがある。高校生のときに告白した。しかし「あなたみたいなジコチューとは付き合えない」と言われて振られた。玲子はその後、野球部のキャプテンと恋に落ちてゴールインした。公彦は呪詛に満ちた目で二人を見ることしかできなかった。以来、女に対して屈折したものの見方しかできなくなった。

 モテないのならテクノロジーで女を操作したいと考え、医学部に進学したのだ。記憶を研究テーマに決めたとき大学では教授連から「そんなことができたらノーベル賞確実だが不可能だ」と歯牙にもかけられなかった。インターンは嫌だったし病院も嫌いだった。分子レベルの解析が必要になり理学部の大学院に進んで研究を続けた。現段階では不完全だが記憶をともなった感情を抽出する技術が確立している。複雑な言語と関係した記憶を分析するのは無理だったが、記憶と結びつく特徴的なグルタミン酸受容体を見つけた。恋愛感情を司る物質だった。それは記憶と感情のカケラにしか過ぎなかったが公彦の目的を達成するのにはぴったりなものだった。公彦は高校時代に集めた玲子の髪の毛からDNAを採取して記憶のカケラをともなったグルタミン酸受容体を抽出しバクテリアに埋め込んで培養を続けていた。

 肉体的な欲望を発散するだけなら風俗でもできる。金に飽かせて通ったこともある。しかし虚しさだけが残った。公彦は本気で自分に奉仕してくれる女が欲しかった。正確に言えば玲子の面影を求め支配したかったのかもしれない。

 バクテリアは空気感染しないので培養液に入れてスプレーで噴霧する。液が鼻や口の粘膜に付着すれば数分でバクテリアは海馬に到達する。あとは女に声をかけて記憶を操作すればいいのだ。さっきの女で人体実験は三人目だった。一人目は記憶の操作に手間取りホテルへ誘う前にバクテリアが死んでしまった。二人目は服を脱がせて抱き合った時点で気がつかれ逃げられた。そして、やっと成功したと思った三人目はフィニッシュ寸前に元に戻ってしまった。感染した段階ではバクテリアに埋め込んだ偽の記憶が海馬を支配するが、バクテリアが死んだ後は元に戻ってしまうことから、それらの記憶はコピーされずに消滅してしまうことがわかっていた。脳内でバクテリアが生き続けられるようにするか、バクテリアの記憶が脳に移植されるようにするかしないと公彦の目的は達成できない。

 バクテリアに感染した女はグルタミン酸受容体の働きによって恋愛感情を抱く。その記憶は断片的なもので言葉による暗示で操作できる。公彦の行動を辿ってみよう。

 渋谷にあるカフェで公彦は好みの女を見つけた。エアコンの位置を確認して風上側に座った公彦は袖に隠したスプレーのノズルを女に向け必要量を一気に噴霧した。培養液は無味無臭だが、当然顔が濡れるので女はハンカチを取り出して何事が起こったのかあたりを見回す。しかし次第に表情が変わっていく。そのタイミングで声をかけるのだ。

「ひさしぶりだね」

「あっ・・・ええと・・・」

「なんだよ。忘れちゃったの? 公彦だよ。高校で一緒だった」

「きみひこ・・・さん・・・」

「冷たいなぁ・・・無理もないか。十年ぶりくらいだからね」

 傍で聞かれていても怪しまれないような言葉を選んで公彦は記憶の操作をはじめる。本名を言ってもバクテリアが死んでしまえば覚えていないから楽なものだ。

「そ・・・そうだっけ・・・」

「ここに座ってもいい?」

 バクテリアの効果で公彦に好意を感じている女はうれしそうにうなずく。誰が見ても偶然の再会に思うだろう。

「ごめんね。大学が忙しくて連絡もしないで。でも、こんなところで、こうやって会えるなんて神様の導きみたいだ」

「そうね」

 女の頬が赤く染まる。

 この時点でバクテリアに埋め込まれた記憶が公彦と結びつく。高校時代に好きだった男だと思い込んでしまうのだ。

「ねえ、場所を変えてゆっくり話そうよ。それとも予定があるのかな?」

「ううん、大丈夫。私も公彦さんと会えてうれしいから・・・」

「じゃあ、出ようか」

 公彦が席を立つ。女は後からついていく。怪しむ人間など誰もいない。

「ずっと会いたかったに連絡もしないなんて僕はバカだったと思うよ」

 外に出た公彦は女の肩を抱き寄せる。

「わたしも・・・」

 女は恥じらうようにうつむく。

「この機会を逃したくない。いいだろ? 君を抱きたいんだ」

 過去二回の経験からメッセージはシンプルなほど効果的なのがわかっていた。説明を加えすぎてしまうと本来の記憶と混乱してしまうのだ。最初の女はそれで失敗した。

「はい・・・」

 女がうなずいた。公彦は背中を押して円山町へ向かった。バクテリアの効果は一時間から一時間半くらいしか持続しない。

 ホテルの部屋へ入るなり公彦は女を抱き寄せてキスをした。舌を絡めると女が応えてくる。埋め込まれた感情とはいえ気持ちが伝わってくる。それが続いたら、どんなに素晴らしいことだろうと思いながら女の服を脱がせはじめる。

 裸になった二人はもつれ合いながらベッドに倒れ込む。

「ああっ! 公彦さん・・・そこ・・・ああんっ! 気持ち・・・いいの」

 風俗の女と違って、女は公彦の愛撫に本気で応えてくる。

 この時点で、もう一回バクテリアに感染させて効果を延長させることも考えたが、振り出しにもどってしまうリスクがあるから止めた。

 秘肉は濡れきっていた。指を入れれば嬌声をあげて応えてくる。

 公彦は女に覆い被さって蜜壺に屹立をあてがう。

 女は期待に満ちた潤んだ眼で見つめてくる。

「はうぅぅぅっ!」

 一気に挿入すると女は背中を弓なりにして甘い喘ぎを漏らした。

 バストの感触を楽しみながら公彦は挿送を開始する。

 こんどはうまくいく。そう思った。

 ホテルを出るまでバクテリアが生きてくれることを願った。

 しかし、途中で女の表情が驚きに変わった。

 それを見た公彦の気持ちも一気に冷めた。

 あとは知ってのとおりだ。

言語

 公彦の研究は体内でバクテリアの寿命を延ばすことへとシフトしていった。感情や記憶をコピーしてしまうよりバクテリアの寿命をコントロールできた方が欲望を叶えるのに都合がいいと思ったからだ。それに、研究が記憶をコピーする段階に移ってもデータが多い方がスムーズに進むはずだった。

 公彦はバクテリアが生息する植物の酵素に注目した。非常に特殊なもので単体で取り出すと、バクテリアの成長を促すほかに様々な働きをすることがわかった。おかしなことに研究をしている間、公彦は蚊に刺されなくなった。どうやら、この酵素には昆虫類の嫌う物質が含まれているようだった。

 動物実験を繰り返し、酵素を対象となる人間に与えておいてバクテリアを感染させれば、すぐに死滅してしまうことはないレベルまで研究が進んだ。

 そんなある日、マウントムーン社から連絡が来た。ここのところ研究の成果がないので報告を要求するものだった。確認のため査察官を派遣して一定の成果が認められないのであれば援助を打ち切るというのだ。

 一週間後、ミズーリ州の本社から査察官が到着した。マサチューセッツ工科大学でバイオテクノロジーを研究した人物らしい。空港まで迎えに行った公彦は驚いた。ケイト・ムーアという名前から女性であることはわかっていた。目の前に現れたのはビジネススーツに身を包んだ20代後半の美人だった。青い眼にプラチナブロンドの髪、身長は165センチくらいだろうか。抜群のプロポーションで、このままモデルか女優としてデビューしてもおかしくないほどの美貌だった。しかし、その口調は冷たく、到着するなり公彦の研究室に行って研究課題と成果を確認したいと言い出した。

 公彦は一週間かけてまとめたレポートをケイトに見せた。例の酵素が持つ除虫効果についてだ。データをまとめる段階で公彦自身も驚いていた。あらゆる昆虫に対して効果があるのだ。植物自体は特殊な環境下でしか育たないので作物に混ぜて育てることは不可能だったが、酵素を作り出すDNAを抽出して作物の遺伝子に組み込めば殺虫剤は不要になるはずだった。

「これが本当なら素晴らしい発見よ」

 時間をかけてレポートに目を通したケイトはため息をつくように言った。

「ここ2年ほどこの研究に集中していて報告が遅れましたがデータは本物です」

 バクテリアのデータを取るときにまとめておいた植物のデータがアリバイになった。これなら公彦が、この研究に没頭していたと見せられる。

「実用化の目処は?」

「まだ遺伝子のメカニズムが解明できていませんが、それをクリアできれば大丈夫です。問題は生態系に与える影響くらいでしょう。あとは受粉かな。なにしろ、まったく虫を寄せ付けないのですから、周囲の環境も変わってしまうと考えられます」

「そんなことは気にしないで研究を続けて。すぐに本社へ連絡を入れるわ」

 ケイトはiPhoneを取りだした。

「研究を続けるにあたって必要なものとかある?」

 報告を終えたケイトは公彦に言った。

「特には・・・このままで大丈夫です」

「あなた、ひとりで研究をしてるのよね?」

「はい。身の回りの世話は専門の会社に依頼していますから」

「そういうことじゃなくて、助手とかは使わないの?」

「僕は嫌われ者ですからね。だから大学にもいられなくなったんです。独りの方が集中できるし、気が楽ですから」

「信じられない。こんなに才能があるのに・・・」

「それより納得してもらえましたか?」

「もちろんよ。援助は続ける・・・というか、マウントムーン社としては、あなたの研究を独占したいと言ってるわ」

「よかった。合格ですね。用が済んだのならコーヒーでもいかがですか?」

「いただくわ」

 公彦は酵素をたっぷりと入れたコーヒーを淹れた。

 動物実験では酵素が血中に入り効果が出るまで1時間から2時間ほどかかる。時間を稼ぐため、公彦は施設を案内して実験の方法を実際にやりながら説明した。

「すごい。あなたは天才だわ。この技術の価値・・・あなた、わかってる?」

「えっ?」

「DNAを植え込む方法よ。あなたが開発したんでしょ?」

「そうですが・・・」

「こんな効率がいい方法があるとは気がつかなかった。ほかにも応用できるなら、この技術はすごい値段で売れるはずよ」

「そうですか・・・」

 そんな話に公彦は興味がなかった。ケイトにバクテリアを感染させることしか考えていなかった。

「これはなに?」

 ケイトはバクテリアを培養しているシャーレを覗き込んだ。

「研究の副産物です。ヒトの脳組織と似た組成なんですよ。もともと僕は医学を学んでいたので興味があって育てているんです。それより、ちょっと」

「えっ・・・?」

「場所を変えましょう。喉が渇いてしまって・・・ここは暑いですからね」

 バクテリアや植物を育てるため室温は高めに設定してある。それに、実験室へ移ってから2時間以上経った。

「あなたも、どうぞ」

 公彦は冷房の効いたリビングダイニングへ行きサーバーからミネラルウオーターを紙コップに注いだ。ケイトに渡したコップにはバクテリアを付着させてある。

「ありがとう」

 スーツの上に防護服を着て汗をかいていたケイトはミネラルウオーターを一気に飲み干した。

 数分後、ケイトの表情が虚ろになった。

「ケイト、僕を覚えているかい?」

「もちろんよ。キミヒコ・・・」

 公彦の考えていた通りだった。バクテリアに埋め込まれた感情と記憶は一時的に人格を支配する。だから、いままでどおり英語での会話が成立する。つまりバクテリアが伝達する記憶と感情はかりそめのものなのだ。

「こうやって君に会えてうれしいよ。僕はたまらなく君が欲しいんだ。ベッドルームへ行こう」

「ええ」

 ケイトは公彦の言いなりだった。動物実験では酵素の働きは10時間以上継続するはずだ。

「脱いで。すべてを僕に見せて」

「はい」

 ケイトはスーツを脱ぎブラウスのボタンに手をかける。

 プレイボーイ誌のピンナップなどでしか見られないような素晴らしい身体だった。ブラジャーとショーツはショッキングピンクのレースで縁取りされた黒いシルク製で、おおよそ日本人には似合わない派手なものだったが、ケイトが着るとゴージャスで美しかった。

 下着姿のケイトは公彦の方を向いて誘うように笑うと最後の二枚を脱いだ。挑戦的に突き出すバスト、キュッとくびれたウエストの下には手入れしているらしい赤みがかったヘアーが控えめに生えていた。

「素晴らしい。僕はこの日が来るのを待っていたんだ。こっちへ来て、もっとよく見せて」

 あわてる必要はないのに、いままでの習慣か公彦は服を脱ぎながら言った。

 ケイトが抱きついてくる。

 体臭と香水が強く匂った。

 ケイトは積極的だった。公彦をベッドに押し倒して貪るように唇を求めてきた。公彦は圧倒されながらも身体のいたるところに手のひらを這わせ、その感触を楽しむ。

「オウッ!」

 ヒップの隙間に手を入れて秘肉に触れるとケイトは唇を離してそう叫んだ。

 公彦は、その情緒のなさにちょっとウンザリしながら愛撫を続ける。

「あなたが欲しい」

 ひとしきり悶えたケイトは公彦を跨いだ。睨むような目で公彦を見ると屹立に手を添え蜜壺にあてがう。そして自ら腰を落として挿入した。

「アウゥゥゥッ!」

 獣のような声を上げるケイトを公彦は見ていた。視覚的には申し分ない光景なのだが、なにかもの足りなさを感じる。

 挿入されながら右手でクリトリスをまさぐるケイトを見て公彦は「そうか」と思った。狩りの高揚感がないのだ。ケイトの方から求めてきた時点で公彦は醒めたのだ。むしろ、三番目に実験した女が気がついて、嫌がるところを無理矢理組み伏せているときの方が何十倍も興奮した。

 はやく出してしまおうと公彦は両手でバストを鷲づかみにしながら腰を突き上げる。

 乱暴にされるのが好きなのかケイトは激しく悶えた。

「来る! 来ちゃう!」

 そう叫びながらケイトは何度も絶頂を迎えた。

 やっと公彦が果てたとき、ケイトは放心状態になって崩れ落ちた。

 これまでならバクテリアが死滅して元に戻る時間だ。しかしケイトは這うようにして公彦に寄り添ってきた。

「ケイト」

「なに?」

 そう答える声は甘い。空港であったときの冷たさなど微塵もない。

「服を着るんだ」

「どうして? このままでいたいのに」

「再会のお祝いに美味いものを食いに行こう。寿司、それともフレンチとかの方がいい?」

「あ、それ、すてきね」

 ケイトはそう言って頬にキスをする。

 望んでいた恋人とのひととき。そのはずなのに公彦の心は冴えない。自分が追い求めていたのは白鳥玲子の面影だったことを思い知らされたからだ。英語での会話はいまいち現実感に欠けるし、ケイトと玲子じゃ容姿が違いすぎる。

 酵素の効果は確かめられた。性欲も満たした。ケイトは大事なスポンサーの査察官だ。このままで気がつかれては問題が起こる。つい、バクテリアを使ってしまったが、あとの面倒を考えると関係のある女に手を出すのは控えるべきだったと思った。

「それから・・・」

「なに?」

「言いにくいんだけど・・・その・・・中で出しちゃったんだ・・・」

「あっ・・・たぶん大丈夫だと思う・・・今日は・・・」

「トイレにビデがある。念のため使った方がいい」

「わかったわ。そうする」

 ケイトが身なりを整えたタイミングで公彦は動物実験用のスプレー式麻酔薬でケイトを眠らせた。そしてバクテリアを殺す抗生物質を注射してリビングのソファーに寝かせる。

 1時間も経たないうちにケイトは目を覚ました。

「う、う~ん・・・」

「気がついた?」

「あ、頭が痛いわ・・・私・・・どうしたのかしら?」

 何かを疑うような顔でケイトは公彦を見た。手探りで衣服を確認している。

「気を失っていたんだ。時差ぼけと過労、それに脱水による一時的な虚血だと思う。実験室が暑かったからね」

「そんな・・・」

「言わなかったっけ? 僕は医者でもあるんだ。ちゃんと検査をしてみないと確実なことは言えないけど、診断に間違いはないと思うよ。ちゃんと飛行機で眠れた?」

「そういえば・・・報告書をまとめていて眠れなかった・・・」

「だろう? 承諾を得ないで悪かったけどリンゲルの点滴をした。脱水は怖いからね」

 注射跡が見つかったときのアリバイだった。ケイトも研究者だからめざといはずだ。

「そうだったの・・・」

 そう言ったときケイトのiPhoneが鳴った。メールの着信らしかった。パスワードを入れて内容を確認しているケイトを公彦は見つめていた。

「とにかく・・・お礼を言わなきゃ。ありがとう。助かったわ」

 メールを読み終わったケイトはニッコリと微笑んだ。

「どういたしまして」

 微妙に態度が変わったケイトに訝しさを感じながら公彦は返す。

「私、ホテルに荷物を送ってあるから行くけど、あなたは今晩予定ある?」

「いや、特にはなにも」

「だったら食事を一緒にどう? 本社へのレポートを書くのに、もうすこし話を聞きたいの」

「だったらここでも・・・」

「いえ、荷物の中にパソコンも資料も入っているから。それに、考えたら私たち昼食も摂ってない。レストランでちゃんとしたものを食べたいわ」

「わかった。じゃあそうしよう」

「今何時かしら? 時差を直すの忘れちゃって」

 ケイトは時計を見る。

「5時少し前かな」

「そう、だったら7時にしましょう。プラトンホテルに来てくれる」

「わかった」

「タクシーを呼んで」

 こうしてケイトは松濤菜園を出て行った。

策略

 公彦は心配だった。ケイトが勘づいていないか、すくなくても目が覚めたときには怪しんでいる様子だった。痕跡は考えられる限り消したつもりだが、もしものこともある。そのときの対処はどうしたらよいのか、あれこれと考えを巡らす。

 結論としては、とぼけ通すしかない。それしか思いつかなかった。物的証拠はないはずだ。厳密に調べれば膣内に精液が残っている可能性はある。それに血液を検査すれば抗生物質も検出される。しかし来たばかりの日本でそこまで調べることはできないはずだと自分に言い聞かせる。

 公彦はジャケットを着て外へ出た。

 プラトンホテルまではタクシーを使えば渋谷から15分ほど、7時5分前にフロントでケイトを呼び出す。ロビーで待っていると華やかなワンピースに着替えたケイトがやってきた。化粧も昼に比べてフェミニンなものだ。なにより、その笑顔が公彦を安堵させた。

「お待たせ。東京は不案内だから、このホテルのダイニングを予約したの。それでいい?」

「もちろん。好き嫌いはないから」

「食事代はマウントムーン社の経費だから最高のものを食べましょう」

 そう言うケイトの表情は媚びを含んだものだった。

 メニューをオーダーして食前酒で乾杯するとケイトは単刀直入に切り出した。

「あなた本社で働く意思はある? あのDNA植え込みの技術のことも報告したの。できれば本社の研究室で指導して欲しいって。いままでの契約顧問料にプラスして報酬も払う。悪い条件じゃないと思うけど」

「ちょっと考える時間が欲しい。そんなこと思いもしてなかったから」

「あなたの才能を発揮できるチャンスだと思うんだけど」

「うん。ありがたい話だと思う。でもお金の問題じゃないんだ。僕は一人で研究するのに慣れてしまった。大勢の研究者と仲良くやっていく自信がないんだ。大学でも浮いていたからね」

「それは、あなたが天才だからよ。アメリカは自由の国よ。新しい可能性に賭けてみない?」

 そこまで言ったときに前菜が運ばれてきた。

 アメリカへ行ってしまえば記憶の研究はできなくなる。それに、アメリカに公彦が追い求めるような女がいるとは思えなかった。どうやって断ればいいのか、公彦はそればかりを考えていた。

 メインの料理を食べ終えデザートが運ばれてきた。

「聞いて・・・私はプライベートでも、あなたに来て欲しいの」

「それって・・・」

「報告書を提出して終わりじゃ寂しすぎるわ」

 ここまで言われたとき公彦の心の中で警戒信号が鳴った。自慢じゃないがモテたことなど一度もない。これだけ魅力的な女性が、それも今日会ったばかりなのに、こんなことを言い出すなんて信じられなかった。

 しかし、もう一方で違う可能性についても考えていた。バクテリアの記憶がなんらかの理由でケイトの脳内に残っている可能性だ。そうならば調べてみたい。公彦はデザートを食べながら考え続けた。

「急に無口になっちゃったのね」

 そう言うケイトはビジネスではなく女の顔をしていた。

「うん・・・あれこれ考えちゃって・・・」

「アメリカはいいところよ。きっと気に入ると思うわ」

「うん・・・」

「もうすこし飲まない?」

「ああ、いいけど」

「だったら場所を移して飲みましょうよ。もっとお話しをしたいし・・・私の部屋でルームサービスを頼みましょう」

 一度抱いてしまったケイトには興味がない。しかしバクテリアの記憶が残っているなら調べてみたかったので誘いに乗ることにした。

 ケイトはウエイターを呼び、シャンパンを部屋に持ってくるよう頼んだ。

 ケイトの部屋はセミスイートだった。公彦をソファーに座るよう促すと、シャンパンをグラスに注ぎ隣に座った。

「あなたの才能に乾杯」

 そう言ってグラスを掲げる。

「正直言って、狐に鼻をつままれた気分だ」

 軽くグラスを合わせて公彦が言う。

「どういうこと?」

「日本のことわざでね、信じられないことが起こったときに言うんだ」

「なにが信じられないの?」

「ふたつある。ひとつは僕の技術について。僕は自分のためにやっただけだから、それほどの価値があるとは思えない。もうひとつは君の気持ち。僕らは今日会ったばかりなんだ。君は僕のことを知らないし、僕は君のことを知らない」

「だったら・・・教えて。あなたのこと」

「いいよ。聞いたらきっと嫌いになる。僕が医学部に進学したのは自分の興味を満たすためだった。研究をバイオテクノロジー系にシフトしたのも同じ理由。僕には他の人の幸せなんてどうでもいいんだ。そう言い続けていたら僕は嫌われて一人で研究をするようになった。同じ理由で女性にも嫌われ続けた。自己中心的だってね。どうだい? 幻滅しただろ?」

「そんな・・・あなたが作り出した遺伝子のおかげで世界中の人たちが安く食料を得られるようになったし、会社にだって利益をもたらした・・・」

「だから・・・僕はそんなものに興味がないんだ・・・でも、ありがたいと思っているよ。そのおかげで研究が続けられるんだから」

「私はあなたの研究に・・・いえ、才能にショックを受けたの。あなたと一緒に研究がしたい・・・その気持ちも信じてくれないの?」

「評価をしてくれたのはうれしい。でも、さっき言ったように一人で研究をするのが性に合っているんだ」

 酔ってしまったのかもしれない。公彦が、これほど饒舌に自分のことを話すのは初めてだった。

「話を聞いて、よけいあなたのことが好きになった。あなたの研究を助けたい。私じゃ不足? あなたは私のこと嫌い?」

「君は美しくて聡明で魅力的だ。だれも嫌いになる人なんていないと思うよ。ただ、僕はマウントムーン社に売った研究のほかに大事なテーマがあるんだ。それを続けたい。アメリカへ行ってしまったら、それができなくなる」

 ここまで来れば本当のことを言うしかないと思った。

「どんな研究なの?」

「ヒトの記憶を解析して保存すること。そのメカニズムが知りたくて医学部へ入ったんだ。遺伝子の操作はその副産物に過ぎない。だから売った」

「あの農薬耐性遺伝子が副産物・・・だって言うの?」

「そうだ。でも、会社にとっては価値のあるものだったんだろ。だから、その対価をもらって僕は研究を続けている」

「信じられない。あれが副産物だったなんて・・・たくさんの研究者が躍起になって見つけようとしていたものなのに・・・」

「これがすべてだ。約束する。必ず除虫効果のある酵素を作り出す遺伝子は完成させる。だから、あとは僕の好きにさせて欲しい」

 そこまで聞くとケイトはがっくりと肩を落とした。

「ところで・・・」

「なに?」

「君は僕のことを好きだって言ってくれたね。できれば聞かせて欲しいんだ」

「なにを?」

「そんなことを言われたのは生まれて初めてなんだ。その逆は数え切れないくらいあったけどね。いつから、どんな理由で、こんなに不細工な僕に、そんな感情が芽生えたのか、それが知りたい」

 公彦はバクテリアの記憶がケイトの感情に影響を与えているのかが知りたかった。

「あなたが造作もなくDNAを植え込んでいるのを見たときショックだった。本当に尊敬した。それだけ・・・」

 公彦に落胆と感動が同時に訪れた。バクテリアの記憶がケイトに影響を与えていなかったこと、そして、女性から好意を告げられたのは初めてだったこと、なんとも言えない複雑な気持ちだった。

 しばらく沈黙が続いた。

 公彦の心にどうしても引っかかることがあった。麻酔から覚めたケイトがメールを読んだ途端に態度が変わったことについてだ。

「ケイト、もうひとつ聞かせて欲しいことがある」

「なに?」

「君が意識を失って目覚めたとき僕を疑っていたね?」

「・・・」

「当然だと思うよ。初対面の男のところで意識を失ったんだから、なにを疑われても無理はない。でも、君はメールを読んだ途端に態度が変わった。あれは本社からのメールだったんじゃないかな。僕に見せてくれない?」

 ケイトの顔が青ざめた。なにかを言おうとして公彦の顔を見て、首を振って肩を落とした。

「やっぱりそうか。僕は帰る。いい夢を見させてもらってありがとう」

 公彦が立ち上がった。

「待って!」

 ドアノブに手をかけようとしたときケイトが叫んだ。

「お願い! 私を信じて! あなたを想う気持ちは本物なの」

「いいよ・・・もう・・・芝居は終わりだ」

「メールを見せるわ。でも・・・だから、あなたを夕食に誘ったんじゃない。本社の意向が私の希望と合致してたのがうれしかったの・・・」

 ケイトはiPhoneを取り出してパスワードを打ち込みメーラーを開いた。そして公彦に差し出す。

 内容のほとんどは公彦が思っていた通りのものだった。公彦の研究を独占するために手段を選ばないこと。女の武器を使っても公彦をつなぎ止め本社へ連れてくること。成功したときの具体的な報酬まで記されていた。

「信じて。私は本当に、あなたの研究を助けたかった。あなたは私がやりたいと思ってもできなかったことを、いとも簡単に成し遂げた。それを見たときに私は決めたの。あなたの研究のパートナーになりたいって・・・もし、あなたが私の身体を欲しいのなら、それを利用してもいいって・・・ごめんなさい・・・私、会社を辞めるわ・・・」

 そこまで言うとケイトは涙を流した。

「本当に会社を辞める意思はあるの?」

「ええ・・・大学に戻るわ・・・」

「戻ってどうする?」

「私にもテーマがあるの。植物に意思や感情があるのか、それを解明したかった。高校のときボーイフレンドに弄ばれて・・・彼は私とのセックスを友人に覗かせていたの。お金を取って。それにビデオにも撮られて・・・男が信じられなくなった。苦しくて悲しかった。その心の傷を植物が救ってくれた。だから、癒しのメカニズムが植物にあるのだとしたら・・・私は植物の本質を知りたかった」

「どうやら、僕らは同類らしいね」

「えっ・・・?」

「僕が記憶をテーマにしたのは初恋の女性を再現して、それを操作したかったからなんだ。お互い過去に引きずられている」

「そんなことができるの?」

「ああ。ある程度は完成している」

「すごい・・・」

「それよりマウントムーン社へ酵素を作るDNAの製法を独占させれば、君は15万ドルもらえるんだろう? やめるのはそれからでもいいんじゃない?」

 メールには研究を独占できれば15万ドル、公彦をアメリカへ招致できれば20万ドル上乗せすると書いてあった。

「あなたの話を聞いていたら、それも虚しくなったわ」

「それじゃあ会社を辞めて僕のところで研究する?」

「えっ?」

「設備は見たとおりだ。じゅうぶんだと思う。それに植物に感情はあると思うよ。いま育てている植物に思い当たる節があるんだ」

「ほんとに? それ、教えてくれるの?」

「ああ。君の気持ちが本物なら悪い条件じゃないと思うけど」

「魅力的な提案ね」

「どう?」

「いいわ。私を助手にして。その代わり・・・」

「植物のことが知りたいんだろ?」

「そうじゃない・・・あの・・・」

「なんだい?」

「今夜は・・・ここに・・・ずっと一緒にいて欲しいの・・・」

 素の自分を好いてくれる女性が初めて現れたことに公彦は感動していた。

「やっぱり、狐に鼻をつままれた気分だ」

 公彦はそう言って笑った。

「だめなのね・・・」

「そうは言ってない。でも・・・」

「でも?」

「初めてのことなんで戸惑ってる」

「えっ・・・?」

「女性から誘われたことがないんだ。こういうとき、どう答えていいのかわからないんだよ」

「イエスって言えばいいのよ」

 やっとケイトが笑った。

「じゃあ・・・イエス」

「うれしい」

 ケイトが抱きついてきた。

 そして濃厚なキス。脳みそが蕩けそうだった。なのに一方では心が醒めていた。なぜだかわからなかった。

「まだシャンパンが残っているわ。それともベッドへ行く?」

 映画のワンシーンのようにケイトは公彦の首に手をかけて言った。

「時間はたっぷりある。もうすこし話をしよう」

「いいわ」

 二人はソファーに並んで座った。

 ケイトはアイスバケットからシャンパンの瓶を取り出してグラスに注いだ。

「ケイト、君の気持ちはとてもうれしい。でも、僕にはまだ現実感がないんだ。たとえて言うなら美しい絵画を手に入れた気分なんだ。それを自分の手で汚してしまってもいいのか悩んでいる。君は高校時代に弄ばれた傷があるじゃないか」

 なぜかケイトに対する性欲が湧かない言い訳だった。

「あなたって、やはりミステリアスね」

「そんなんじゃない。臆病なだけ・・・いや自己中心的なのかな? だから女性にはモテない」

 公彦は苦笑する。

「ピュアなのね」

「買いかぶりだよ。でも、君のそばにいると安心する。不思議だね。こんな気分は初めてなんだ」

「じゃあ、今夜はここにいてくれるのね?」

「ああ。そうしたい。もし君があれを望んでいるなら・・・無理かもしれない。最初に謝っておくよ。それでもいいかい?」

「やっぱり不思議な人ね・・・本社のデータには独身、恋人はなし、偏屈だけどゲイじゃないってあったし」

「そんなことまで調べられているの?」

「もちろんよ。あなたが大学で孤立していたことも知っていた。あなたは、それを隠すこともなく話してくれた」

「それより・・・いい考えが浮かんだ」

「なに?」

「君は会社を辞めない方がいい」

「どうして?」

「まず、例の研究はマウントムーン社に売り渡す」

「ええ」

「何か理由を作って僕は日本から離れられないことにしよう。たとえば飛行機恐怖症とか」

「そんな・・・」

 ケイトが笑う。

「で、遺伝子の植え込みに関する技術を君に教えるんだ。それなら君と一緒にいられるし、会社も納得するんじゃない?」

「素敵なアイデアだわ」

 ケイトは真剣な顔になって目を輝かす。

「そうすれば君は報酬をもらえる。それに植物の感情についても研究ができる」

「本当? なにか発見したの?」

「そこまではいかないけど、シャーレで培養していたバクテリアのこと覚えてるかい?」

「ええ」

「ある植物と共生しているんだ。あのバクテリアは脳と同じ組成だって言っただろ。そこには原始的な感情と同じ種類のグルタミン酸受容体が存在して、植物の脳みたいな役割を果たしているんだ。明日、見せてあげるよ」

「おお、神様。なんていうこと。感謝します」

 ケイトは両手で公彦の手を握って言った。

「僕は神様じゃない」

 公彦は苦笑する。

「いいえ。あなたに会えたのは神様の巡り合わせだわ」

 こうして夜は更けていった。ケイトは公彦の腕にすがってひとつのベッドで眠った。公彦はそれを心地よく感じながら眠りに落ちた。

「おはよう」

 ケイトの声で目が覚めた。見ればバスローブを着けて濡れた髪を拭いている。

「やあ、おはよう」

 満ち足りた気分だった。

「まだ夢を見てるみたいだ」

「私は狐かしら?」

 ケイトは公彦の鼻をつまむ。

 二人は見つめ合って笑った。

 気がついたらケイトが公彦の心の中に住んでいた。それを知って公彦は愕然とした。

「信じられない」

「なにが?」

「僕にこんな朝が来るなんて」

「だったら・・・」

 ケイトはバスローブのベルトを解いた。

「僕には資格がないんだ」

「えっ・・・」

「君が意識を失ったのは虚血なんかじゃない」

「どういうこと?」

「あのバクテリアを使って君の身体を支配した。だから君には記憶がない」

「ええっ!?」

「僕は君を実験動物として使い・・・抱いた・・・君の気持ちがうれしいから、このまま騙し続けることはできない。僕は狂った科学者だ。君と一緒になる資格のない男だ」

「・・・」

 ケイトの顔が青くなる。

「悪かったと、いまは思っている。と言うか、君と一晩を過ごして・・・自分がこんな気持ちになるとは・・・幸せな気分だった。いま、やっとわかった。昨日までの僕は悪魔だった。許しを請う資格もない」

「・・・」

 ケイトは口もきけない様子だった。当たり前だと思った。急にいい奴なんかになれる訳がない。変わってしまった自分が苦痛だった。公彦は黙って服を着はじめる。

「僕も高校のときのボーイフレンドと同類だったのさ。いや、それ以下だ。すまなかった。さようなら」

 公彦はドアを開けて出て行った。

 研究を続ける気もなくなっていた。

 憑き物が落ちた気分だった。玲子の存在が公彦の心から消えていた。

同士

 昼前に研究室のインターフォンが鳴った。

 モニターにはケイトの顔が映し出されていた。

「ケ・・・ケイト・・・」

「入れて。話があるの」

「わかった・・・」

 ドアを開けるとカジュアルなジャケットにパンツ姿のケイトが立っていた。

「いい?」

「もちろん」

「味見の結果を聞きに来たの」

 公彦がドアを閉めるとケイトが言った。

「えっ?」

「あなた、ここで私の味見をしたんでしょ? 失格? だから昨夜、私のことを抱かなかったの?」

「からかうなよ。そうじゃない。朝になってよくわかった。自分が嫌になったんだ。僕には君と付き合う資格がない。もう研究もやめる」

「あなたは私のこと嫌い? 私って、そんなに魅力ない?」

「いや、今朝、起きて君を見たとき猛烈に君を抱きたくなった。しかし、それじゃあ騙し続けなきゃならない。だから告白した」

「私も考えた。ショックだった。でも・・・あなたは真実を語ってくれた。自分の気持ちを整理したら怒りはなかったの。あなたを失うことの方が怖かった。だから来たの」

「じゃあ・・・」

「あなたの手伝いをさせて」

「もちろん・・・と言いたいけど・・・僕はテーマを失ってしまった」

「どうして?」

「過去の女の記憶を甦らせて自分のものにしたかっただけだから・・・君が現れたことで意味がなくなったんだ。人の記憶を操作するのは狩りみたいで楽しかった。言い訳になるけど監査官を送ってきたマウントムーン社に対する鬱憤があって、それを君にぶつけてしまった」

「教えて、本当に記憶を甦らせたり操作したりできるの?」

「ああ。短時間だけどね」

「どうやって?」

「ここで立ち話もなんだから実験室へ行こう。その方が説明しやすい」

 こうして二人は実験室へ向かった。

「これが、そのバクテリア。初恋の女性から採取したDNAから記憶をともなった恋する感情を抽出して植え込んである。このバクテリアに感染すると海馬が支配されるんだ」

 公彦はシャーレを取り出して言う。

「信じられない・・・」

「現に僕はこれを使って君を抱いた。君は高校生のころに戻って・・・いや、このバクテリアに植え込まれた恋する高校生になったんだ」

「質問があるの」

「なに?」

「ほかの感情は抽出できるの? たとえば怒りとか悲しみとか」

「できるよ。すべてはグルタミン酸受容体の組成に依存してるんだ。僕には必要のないものだからやらなかったけど、動物実験では確認している」

「そ・・・それ・・・絶対に本社に教えちゃ駄目・・・」

 ケイトが震え出す。

「農作物に関係ないから・・・教えるもなにも・・・」

「知らないの? マウントムーン社は軍とも太いパイプがあるの。この研究が知られたら独占されるだけじゃなく隔離されてしまうかも・・・どんなマインドコントロールより強力だわ」

「いいよ。もう僕には必要ないものだ。データはすべて消去しよう。それより植物の感情については・・・」

「待って!」

 ケイトか公彦の話を遮った。

「あなたには野心がないの?」

「野心って?」

「この発見を公表すればノーベル賞だってもらえるはず」

「そういえば、大学でこのテーマを選んだとき、そんなことができたらノーベル賞だって教授に言われたよ」

「有名になりたくないの?」

「興味ない」

「この発見を使って世の中を変えたりとか思わないの? 権力側には魅力的な力よ・・・マッドサイエンティストって言ってたじゃない」

「メトロポリスに出てきたロトワングみたいに? 冗談じゃない。僕はそんなのまっぴらだ。マリアを作り出すまでの情熱は理解できるが、そのほかは共感できない。僕は一人がよかったんだ」

「よかった・・・って、どういうこと?」

 ケイトは公彦が過去形で言ったことの意味を聞きただした。

「そう。いくら記憶を甦らせても、それはかりそめのものに過ぎないって今朝気がついた」

「それって・・・」

「そう。君のことだ。昨夜、初めて人のために研究したいって思った。そして目が覚めたら自分に資格がないことに気づいた」

「キミヒコ・・・」

「悪かった。許してくれ」

 ケイトはゆっくりと首を振った。

「僕は君のために生きたいと思った。でも、それは許されないことだ。この研究室を売って、どこか南の島で一人で暮らすよ。もう、人と関わるのは・・・」

「あなたらしいわ。でも駄目。私も一緒よ」

「あんなにひどいことをしたのに許してくれるのかい?」

「私も同罪よ。会社のため、いえ、報酬のためにあなたを売ろうとしたんだから」

「よかった。僕にも運命の神様が微笑んでくれることがあったんだ」

「ねえ、提案があるんだけど」

「なに?」

「あなたの発見。私がマウントムーン社に高く売りつける。他社が目をつけてるとか理由を付けて。そっちの方が有利なら本当にそうしてもいいわ。契約顧問料もどっさり取って、南の島が好きなら大きな研究所を作って、そこで一緒に研究するっていうのはどう?」

「君と一緒に研究できるなら場所なんてどこでもいいよ」

「じゃあ、私たちはパートナーで同士ね」

「ああ」

 公彦はケイトを抱き寄せた。性欲というのではなく、そうしたかった。

 本当のセックスをするのは初めてなんじゃないかと思った。

エピローグ

「やっぱり、あなたは悪魔ね」

 ケイトがそう言って笑った。

「えっ?」

「だって、私をこんな気持ちにさせるなんて」

 ベッドの上で二人は生まれたままの姿で抱き合っていた。

「まだバクテリアの記憶が残っているのかな?」

「そんなんじゃないわ。本当のことを言うと、あなたがDNAの植え込みを見せてくれたときから・・・その・・・欲しかったの・・・」

「よかった・・・本物で・・・」

 ケイトの感情が本物であることくらいバクテリアの産みの親である公彦はわかっていた。違和感がないのだ。

「ねえ」

「なに?」

「あなたを天使にする方法を思いついちゃった」

「なにそれ?」

「バクテリアが生息している植物のこと。いまの私たちの気持ちを植え込んで売り出すの。世界中がハッピーになれるわ」

「あれ・・・食えるのかな?」

「遺伝子操作で美味しくすればいいじゃない。あなたにだったらできるでしょ」

「そうか。おもしろそうだね、それ」

 ケイトの冗談は実現した。公彦は美味だと言われる果物の成分を生み出す遺伝子を分析して例の植物に植え込んだ。

 マルスと名付けられた果物は爆発的に売れた。なにしろ食べると満たされたときの幸福感が味わえるのだ。公彦はグルタミン酸受容体から記憶のカケラを取り除き、効果を純化していた。

 当初はドラッグではないかと疑われたが製造権をマウントムーン社に売却することで政治的に解決した。

 世界は幸福感に満たされた。

 そのときになってケイトは思った。天使にするなんて嘘をついてしまったと。なぜならマルスとは禁断の木の実の名前だったのだ。

「ごめんなさい」

「なにが?」

「あなたを天使にするって言ったのに、アダムとイブをそそのかした蛇にしちゃった」

「なんだ、それ?」

 いま二人は南海の孤島に暮らしている。

「ねえ、この島の名前」

「ええと・・・なんだっけ? 何度聞いても覚えられないんだ。発音が難しすぎる」

「エデンって呼ばない?」

「いいね、それ」

 海沿いのテラス。沈んでいく夕日を眺めながら二人は笑った。

< 終 >

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