第一話
堂々としていればかえって目立たないというのは本当らしい。
最前列で漫画を読んでいる少女に辰巳が気づいたのは、四時間目がもう間もなく終わる頃だった。
「近本、授業中に何を読んでるんだ!」
辰巳の言葉に含まれた怒気に、教室の空気が緊張をはらむ。
一人二人とクラスメイトが姿勢を正すなか、雫は静かに本を閉じると、教壇に立つ辰巳を見上げた。
(これくらいで動揺して、どうするんだ)
眉一つ動かすことなくこちらを見つめる雫の顔は、息苦しさを感じるほど整っている。自分の高校時代を思い返してみても、これほど容姿に優れている生徒はいなかった。
しかも、あの胸。
雫を見下ろす辰巳からは、制服を大きく持ち上げる胸の膨らみがよく見える。ブレザーを着ていてこれならば、裸になれば一体どれほどのものだろう。
不遜な態度に怒りを覚えながらも、豊かな乳房に目を奪われてしまう自分が腹ただしかった。
そんな教師の動揺を見抜いているかのように、雫はことさらゆったりとした動作で本を持ち上げると、表紙が見えるようにひらひらと振った。
「見ての通り、ブラックジャックです」
人を喰ったような態度に、教室のどこかで失笑が漏れる。
よく見れば、雫の机にはノートも教科書も置かれていない。いっそ清々しいまでの授業放棄だ。
「そうか。でも、学校で漫画を読んじゃいけないことは知っているよな」
「知らないです。図書室にも置いてあるんですけど、読んだらダメだったんですか?」
あくまでも雫は辰巳の神経を逆撫でする。挑発を続ける少女も、それを楽しそうに眺めている周囲の生徒も、何もかもが自分を馬鹿にしているような気がしてならない。
「くだらない揚げ足を取るんじゃない! 授業中に漫画を読むなと言っているんだ。ちゃんと俺の話を聞け!」
「聞いてましたよ。オゾン層が破壊されて地球が温暖化するんでしょ? それ、間違ってますから。オゾン層の破壊と地球温暖化は関係ないです。フロンが温室効果ガスだからごっちゃになってるんじゃないですか? 生徒に勉強を教える前に自分が勉強してくださいよ」
予想もしていなかった反撃に、全身の血が燃えるように熱くなった。目の前の景色がちかちかと点滅して、鼓動の音が聞こえてきそうなほど心臓が暴れている。
「先生って亜法大なんでしょ? うちの高校からそんなとこ行ったら恥ですよ。理事の親戚かなんだか知らないけど、せめて担当科目ぐらいちゃんと教えてもらえないとこっちが困るんで」
容赦なく続けられる教え子の言葉に、膝まで震えはじめる。
(こんな屈辱は受けたことがない)
県内でも有数の進学校であるこの高校は、本来ならば三流大学をなんとか卒業したばかりの辰巳が採用されるような場所ではない。全ては理事を務める伯父の力だ。
隠さなければならなかったはずの関係はいつからか周知のものとなり、以来、生徒ばかりか同僚である他の教師にさえ軽んじられている。
いまや、辰巳の味方は一人しかいない。
「もー、ひどいよ近本さん。亜法大で恥って言われたら、あたし恥確定じゃん」
成長期の幼さを残す甘ったるい声に、張り詰めていた空気が緩んだ。
雫は一瞬だけ声の主に目をやると、呆れたようにため息をつく。
「たしかに、白石さんはがんばらないとやばいかもね。この前の数学で赤点だったのなんて、白石さんくらいなんじゃない? よくうちの高校受かったなーって思ったもん」
「ひっどーい。あれはちょっと、時間配分間違えただけだから。次は近本さんより上の点数取るから、見ててよ」
教師ですら怯むような美貌と才気を持つ雫を相手にしても、夏帆はまったく物怖じすることがない。親が教師だというこの快活な少女は、あらゆる生徒から見下される辰巳にも、先生だというだけで敬意を持って接してくれていた。
いまも、自分を引き合いに出して未熟な教師をフォローしようとしている。
「あたしが本気出したらすごいよ。近本さんだって、すぐに漫画なんて読む余裕なくなるんだから」
「そっか。まあ、がんばって」
興が削がれたのか雫はあっさりと引き下り、教室には白けた雰囲気が漂う。結局、授業中に漫画を読んでいた件については有耶無耶になったまま。
自分が副担任を務めるこのクラスさえ、辰巳は一人では収めることができない。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴るまで、教室には環境問題を説く辰巳の言葉だけが虚しく響いていた。
「はあ……」
職員室に戻り、自分の席に着くと自然とため息が漏れた。
(一体いつになれば何事もなく授業を終わらせることができるんだろうか)
教師になって一月ほども経つが、未だにミスなく授業を終えられたことがない。板書の内容もノートに整理しているし、ちゃんと進行のシミュレーションもしているのに、どうしてこうなってしまうのだろう。
再びため息をこぼすと、隣の席で書類を整理していた沙織が体を向けてきた。
「どうしました辰巳先生。授業で何かありましたか?」
担任としてクラスで何があったのか気になるらしい。言葉こそ心配する体だが、探るような目で辰巳を見ている。
「いえ、大したことじゃないんです。その、近本と少しモメただけで」
「ああ、近本さん。他の先生からも授業態度が悪いと言われたことがあります。一度、きちんと話をした方がいいかもしれませんね」
「新海先生の授業でも、うるさいですか?」
「いえ、私の授業では特に。だからなかなか注意する機会がないんですが」
「つまり、相手を選んでるってことですか。本当にふざけた奴だな」
何気なく漏らした言葉だったが、辰巳は即座に失敗を悟った。
案の定、沙織は冷たい目でこちらを見据えている。
「生徒のことを奴と言うのはやめましょう。それから、生徒に怒りを向ける前に、まずは自分にも直すべきところがないか考えてみてください」
「……はい。申し訳ありません」
担任と副担任という関係ではあるが、沙織は事実上辰巳の教育係も兼ねている。生徒からクールビューティと讃えられるこの先輩教師は評判に違わぬ冷徹ぶりで、懇々と説教されたことも一度や二度ではない。初めこそいちいち言い返していたが、尽く論破されてからはその気力もなくなった。
それからは、ひたすら頭を下げて屈辱に耐える日々だ。「これもすべては俺のことを思っているからだ」と自分に言い聞かせることで、辰巳はなんとかプライドを守っている。
そんな辰巳の心情を読み取ったのかどうか、沙織はふいに表情を緩めた。
「一年目から難しいクラスになってしまって大変だと思いますが、お互いがんばっていきましょう。私も出来るだけフォローしますから」
いつも通り、立派な指導教員はだめな新人教師を注意したあとのフォローも忘れない。お手本のような飴と鞭。
(これだけでやる気になるんだから、俺もちょろいもんだよな)
話の終わりを示すように書類整理へ戻った沙織の横顔を盗み見ていたら、辰巳はEラインの話を思い出した。鼻の先端とあごの先端を結んだ線より上下の唇が少し後ろにあるのが、極めて美人の条件なのだとか。なるほどその横顔は見惚れてしまうほど美しい。
辰巳の教育係が沙織であることも、風当たりの強さに拍車をかけているに違いない。教師になってまだ一ヶ月にも満たないが、様々な男性教諭が沙織にコナをかける姿を目にしていた。
いつも淡々とアプローチをかわしている沙織だが、恋人はいるのだろうか。あのでかい胸にしゃぶりついている男がいるなんて、うらやましい限りだ。
(たとえ相手がいたところで関係ない。沙織は必ず俺のものにする)
自ら艶めかしい肢体を差し出す沙織を想像して、股間が膨れ上がる。新しい環境にしばらくおとなしくしていたが、そろそろ動いてもいい頃だ。
細身のスーツに浮かび上がるボディラインに劣情を催していると、ふいに沙織が顔を向けてきたのでどきりとした。
「そういえば、明後日の保護者会の資料はどうなっていますか? 今日の午前中までに予稿を見せてもらうというお話だったと思いますが」
「あっ……!」
一瞬で顔から血の気が引いた。他の仕事に掛かりっきりになっていて、すっかり手をつけるのを忘れていたのだ。
「すみません、まだ出来ていないです。あの、明日の午前中でもいいでしょうか」
「特に用事がなければ今日中でお願いします。元々、今日の午前中という話でしたから。仕事はきちんと期限内に終わらせる習慣をつけてください」
「……わかりました。なんとか、今日中に終わらせます」
今から取り掛かったとして、終わるのはいつになるだろうか。放課後は陸上部の顧問もしなければならないが、二十一時を過ぎれば報告書を書くことが義務づけられている。
「私も今日は残ってする仕事があるので、わからないことがあったら聞いてください」
「はい、申し訳ありません」
沙織ならば辰巳が書類を作成するまで付き合うだろう。そして、手抜き仕事ではまず受け取ってくれない。
つまりは二人仲良く残業確定ということだ。
(またやらかしちまった)
じっとしていたら不愉快な気持ちに押しつぶされそうで、衝動的に職員室を出た。
同僚や生徒から馬鹿にされながら、なぜこんな仕事を続けなければならないのだろう。辰巳には教育者への憧れもなければ、子供を導く使命感もない。
(教師になったのは間違いだったんだろうか)
何度となく繰り返した後悔で頭を埋め尽くしたまま、あてもなく廊下をぶらついていると、対面から歩いてくる人影が見えた。
「あっ、辰巳先生!」
辰巳に気がついた夏帆は、小走りで近づいてくると、胸に抱えたノートを差し出してきた。
「ちょうどよかった。先生、忘れ物だよ」
「おお、ありがとう」
一刻も早く教室から去りたいあまり、ノートを持って帰ることを忘れていたらしい。下手をしたらそのままゴミ箱に捨てられていたかもしれないと思うと、ぞっとする。
「わざわざ持ってきてくれて、悪いな」
「だって、ノートがなかったら先生が次の授業で困ると思って。ごめんね、先生。中身ちょっと見ちゃった。そしたら、授業の進め方とかびっしり書いてあるから、びっくりしちゃった。だから先生の授業はすごくわかりやすいんだね」
夏帆は一息にまくし立てるように言った。その淀みのない口ぶりから、少女がノートを持ってきた本当の目的は自分を励ますことだと悟る。
優しい教え子の思いやりに、心が太陽に照らされたように暖かくなる。教師と生徒でさえなければ、その胸に顔を埋めてしまいたいほどだ。
「ありがとう。そう言ってくれるのは白石だけだよ」
「ううん、そんなことないよ。みんな先生の授業はわかりやすいって言ってるもん。近本さんは誰にでも厳しいから、気にしないで」
もしも自分が同い年の少年なら、間違いなく夏帆に恋をしていただろう。柔らかな人柄だけではない。必要以上に主張することのないパーツがバランスよく配置されたその顔は、端正に整っている。
沙織や雫とはタイプこそ違うが、紛れもない美少女だ。
「じゃあ先生。あたし、戻るね」
「ちょっと待ってくれ。甘えてばかりで悪いんだけど、一つ頼み事していいか。陸上部の道具が届いてな。体育倉庫に置いたままになってるから、昼休みに整理を手伝って欲しいんだ」
この高校では昼休みにグラウンドに出ている者など誰もいない。まして、普段は鍵をかけられている体育倉庫など寄ろうはずもない。
誰も邪魔は入らない。
「えー、しかたないなあ。その代わり、テストの点数サービスしてね」
股間はもうはっきりと自覚できるほどに熱を持ち、立て続けの失態で溜まったストレスが暴力的なまでにはけ口を探している。
まずは夏帆からだ。
○
「白石、一旦休もうか」
箱から取り出したハードルを重ね、整列し終えたタイミングで辰巳は小休止を切り出した。
まだまだ未開封の箱はたくさん残っている。もともと一人で片付けるつもりの仕事だったが、これほど重労働になるとは想定していなかった。
「悪いな白石。こんなに大変だと思ってなかった」
「大丈夫だよー。あたし、体力あるんだから。先生だって知ってるでしょ」
ブラウスを肘までめくりあげ、夏帆はしなやかな腕に力こぶをつくった。わんぱく少年のような幼さを感じる仕草だが、むじゃきに笑う少女にはよく似合っている。
中学時代は100m走で全国大会にも出場した経験があるという夏帆は、この高校では珍しく勉強よりも体を動かすことを好む生徒だ。高校でも陸上部に所属し、一年生ながらリレーのエースを任されている。
辰巳は知らなかったが、地元のローカルテレビでは美少女アスリートとして取り上げられたこともあるらしい。
これで勉強さえできれば非の打ち所がないのだが。
「そうだな。お前がこの間の実力テストでクラス最下位だったこともよく知ってるよ」
「あっ、ひどい! そんなこと言うなら、もう手伝ってあげないよ」
こうやって気軽に冗談を言うことができるのも、相手が夏帆だからだ。
クラスだけでなく陸上部でも関わりのある夏帆は、もっとも接触の多い生徒だ。うぬぼれでなければ、夏帆も慕ってくれているように思う。おそらく、同じ短距離走に打ち込んでいたという共通点があるからだろう。
これからすることは夏帆のためにもなるのだ。酷いことはしない。必ず幸せにしてみせる。
「勉強ができるようになりたいなら、いい方法があるぞ」
「えっ、ほんと?」
教室でも自虐的な冗談を口にしてみせた夏帆だが、本当は勉強ができないことに悩んでいると知っている。人を疑うことを知らない素直な性格も、最初のターゲットとしてはおあつらえ向きだ。
「ああ。催眠術って知ってるか?」
「えっと、あの、ときどきテレビでやってるやつだよね。あなたはだんだん眠くな~るとか、そういう」
腕を持ち上げると、夏帆は振り子を振るような動作をした。
「もしかして、先生できるの?」
「ああ。大学のときにゼミで教えてもらったんだ」
辰巳の専攻分野は社会教育学であり、実際は独学で風俗嬢を相手にして身につけたにすぎない。だが、単純な夏帆は教師の真っ赤な嘘を信じたようだ。
「じゃあ、あなたは勉強が大好きになる~とか、そういう催眠をかけるの? それって、なんか怖いかも……」
「ちょっと違うかな。自己暗示をかけるんだよ。つまり、自分で自分に暗示をかけるってことな。自分はいまものすごく集中してますって」
「えー、そんなことできるの?」
「できるよ。白石だってレースの前に自分が勝ってる姿をイメージして、気持ちを落ち着けたりすることないか? それと一緒だよ」
思い当たる節があったのか、夏帆は「たしかに」とつぶやいた。
「で、自己暗示をかけるのにもコツがいるから最初だけ手伝ってもらった方がいいんだ。どうする、やるか?」
「はい、やってみたいです!」
これまでの付き合いで夏帆の性格はよくわかっている。絶対に断られることはないと思っていたが、それでも体の奥底から形容しがたい感情が湧いてきて、体が震えそうになる。もし誰も見ていなければ、その場で小躍りしたいくらいだ。
「それじゃ、白石がやってたようにベタなやつでいくか」
いざというときのために、導入用の小道具は常に持ち歩いている。
辰巳はスーツの内ポケットから、ひし形の水晶にチェーンを取り付けただけの簡素な振り子を取り出し、夏帆に手渡した。
「あたしが持つんだ」
「ああ。俺が動かす方法もあるけどな。目の高さにくるよう、振り子を上げてくれ」
夏帆はほこりを払ってから昇降台に腰を下ろすと、先端の水晶が目の前にくるまで腕を持ち上げる。
「まずは集中力のテストだ。振り子をじっと見つめてくれ。ぜったいに目を逸らさないように……。そのまま、振り子が左右に揺れているイメージをしてくれ」
垂れ下がった振り子を、夏帆は寄り目になって凝視する。辰巳が正面にいることをまったく気にかけた様子のない、一点に意識を集中させた顔。
さすがにスポーツで優秀な成績を残しているだけあって、いい集中力だ。
ふいに、風俗嬢を相手に初めて催眠術をかけたときのことを思い出した。あのときも振り子を用いた施術だったが、あれから何人の女を堕としただろう。
大学を卒業して以来すっかり疎遠になってしまったが、肉欲に溺れた日々のことはいまでも色鮮やかに思い出すことができる。あの頃は本当に楽しかった。
そして、いま。これまで相手にした風俗嬢では及びもつかないような美少女をものにしようとしている。
夏帆の想像を助長するため、辰巳が目の前で軽く右手を揺すると、それにつられたように振り子がぴくりと揺れた。その瞬間を見逃さず、追い込み暗示を叩き込む。
「ほら、振り子が揺れてきた。少しでも揺れると、もっともっと揺れてくる。右に左に、どんどん揺れる……」
かすかな揺れが、暗示をかけるに従って少しずつ大きくなっていく。しかし、夏帆には自分が振り子を動かしているという意識はない。
自分の意思に反して揺れる振り子を、少女は目を丸くして見つめている。
「すごく揺れてきた。そのまま揺れる振り子を見ていると、今度はお前のまぶたから力が抜けてくる。振り子を見ていたらお前のまぶたが重くなってくる……」
振り子の揺れはますます大きくなり、それに比例して夏帆のまばたきが増えてきた。
何度もまばたきを繰り返すうち、瞳を閉じている時間が長くなる。
「まぶたが重い……。振り子を見ていることがつらくなる……。そのまま目を閉じてしまいたい……」
ぱっちりとした二重のまぶたが垂れ下がり、大きな瞳を覆い隠していく。口が半開きになり、とろんとしたその表情はいまにも眠ってしまいそう。
「重い……まぶたが重い……もう目を開けていることができない……目を閉じるとすっごく楽になる……」
夏帆は最後の気力を振り絞るように、ぴくぴくとまぶたを痙攣させていたが、やがてそれすらもなくなり、薄皮一枚ほどの隙間が閉じられた。
完全に目が閉じられても、振り子は揺れたまま。
「まぶたが閉じてしまうと、今度は腕が下がっていく。腕がどんどん下がって、太腿まで降りていく」
辰巳が声をかけると、夏帆の手が少しずつ下がってきた。頭の上にあった腕が肩まで降り、振り子が太腿に触れそうになったところで水晶を受け止める。
振れるものがなくなっても、夏帆のまぶたは開かない。上手く催眠状態に入りかけている。
「腕が太腿につくと、お前の意識は深いところに落ちていく。……ほら、ふかーく眠って」
太腿に拳が触れた途端、夏帆の首が前に折れた。すかさず肩に手をおき、頭を揺らしながら暗示を与える。
「お前はもう何も考えられない。ただ、俺の言葉に従っているとすっごく気持ちよくなれる……。さあ、これからいろいろなものに変身していこう。お前は俺が三つ数えると洗濯機になる。たくさんの洗い物が入れられた洗濯機になるんだ……三……二……一……〇! さあ、お前は洗濯機だ! いま、スイッチが入ったぞ! ぐるぐる回って、汚れを落とすんだ!」
昇降台に座ったまま、夏帆は上体を渦のように回しはじめた。
洗濯機になった夏帆は辰巳の指示に従って、ときに回転方向を切り替えながら、詰め込まれた洗濯物の汚れを落としている。体を後ろへ傾けるたび、遠心力に従って大きく口が開いた。
「まだまだ汚れは落ちてないぞ! もっともっと早く回るんだ!」
暗示に従って回転速度を更に上昇させた夏帆は、足で床を蹴って勢いよく上体をぐるぐると回し、昇降台から転げ落ちそうになるほど体を傾ける。足を振り上げた勢いでスカートがめくれ上がり、薄緑色の下着があらわになった。
大汗をかきながらも夏帆は回転の速度を緩めることがなく、振り乱された髪が額に張りついている。
「洗い物の汚れは十分に落ちたみたいだ。もう洗濯の必要はない。回転を止めてしまおう……。いま、電源が切られたぞ。お前はもう動かない」
どこまでも回り続けるように思われた夏帆だったが、辰巳が動きを止めるよう指示すると、椅子からずり落ちそうな姿勢で動きを止めた。
それでもまだ頬を赤く上気させ、口に髪を咥えたまま、肩で息をしている。朱が差した肌には艶があり、はだけた胸元はいかにも欲情を唆るようだ。
姿勢を正してやり、呼吸が元に戻るまで待ってから深化を再開する。
「今度は空を飛ぶ鳥になろう。三つ数えるとお前は鳥になっている。三……二……一……〇。ほら、お前は鳥になった。お前は大空を羽ばたいている」
カウントが〇になった途端、夏帆はその場で手をぱたぱたと上下させはじめた。どんな想像をしているのか、気持ちよさそうに頬を緩め、ゆったりと両手を振っている。
鳥になった少女はときおり羽を休めるように動きを止めては、両腕を大きく広げて再び大空を舞った。
「あっ、銃声が聞こえてきた! ハンターがお前を狙っているぞ! 逃げろ逃げろ! 大急ぎでハンターから逃げるんだ! 真っすぐ飛んでいるだけじゃ危ないぞ! 体を振って逃げるんだ!」
優雅に空を漂っていた夏帆の顔が瞬時に強張った。
ハンターへの恐怖にかられた夏帆は顔面をくしゃくしゃにして、激しく手を振りながら、的を絞られないよう体を右へ左へ傾ける。
まさに必死の形相。辰巳にまで緊迫感が伝わってくるようだ。
「銃弾が当たってしまった! 痛い! 痛い!」
びくんと夏帆の体が跳ねた。苦悶の表情を浮かべ、顔から汗が吹き出していく。どこまで銃弾に打たれた自分をイメージしているのか、一、二度と引きつけを起こしたあと全身が震えだした。
素直で想像力が豊かな夏帆は催眠にかかりやすいタイプだと思っていたが、想像以上だ。見ているこちらが不安になるほど強固に暗示が作用している。
どうやら、これ以上深化させる必要はなさそうだ。
「苦しい、体に力が入らない……。どんどん力が抜けていく……。頭も重くなって、何も考えられない……」
暗示を繰り返すうちに少しずつ震えが収まってゆき、レース後のように乱れていた呼吸が落ち着きを見せたちょうどその頃、夏帆は深い眠りに落ちた。
(まず、一人)
同僚からも生徒からも侮られる屈辱の日々。
これまでさしたる苦労もなく生きてきた辰巳にとって、人生で一番苦しい一ヶ月だったかもしれない。
だが、それも今日までだ。
すっかり遠ざかっていた夢のような日々が、今日からまたはじまる。
< 続く >