ビールス・パニック 第10話

第10話

 個人タクシーの運転手、久保良雄が手を上げている男の子を見つけて停車したのは、JR立川駅北口にある、カプセルホテルの前。早朝、まだ辺りが薄暗い時間帯のことだった。

「奥多摩の雲取山の方向に向かって、5,000円で行けるところまで行ってもらえませんか?」

 夜通し仕事をしてきた久保だったが、引き受けることにする。
 高校生ぐらいの年の男の子にとっては、けして5,000円は安くはない。
 何か事情があるのだろう・・・。
 久保が眉毛を上げて疲れた目を大きくしながら、ゆっくり頷くと、男の子は「ちょっと待っていて下さい」と言って、ホテルに入っていった。
 戻ってきた男の子は、大きなリュックサックを背負い、驚くほど綺麗な女の子の手を握り締めて戻ってくる。

 美少女は少年に手を引かれながら、まるで足の間に何かが挟まっているような、小さい歩幅でトコトコと久保の車までやってきた。
 やはり、なにか深い事情がありそうな二人だった。
 東京から、逃げ出そうとしているのだろうか。

「ちょっと遠回りになるかもしれないけれど、一旦、南側から、昭島、八王子と、グルっと回っていっていいかい?立川の自衛隊駐屯地や横田基地の周辺では、自衛隊が今朝から、道の封鎖を始めるって噂が流れててね。」

 後部座席左側に座った男の子は、表情を暗くした。

「やっぱり・・・。昨日、川越街道を通ろうとしたんですが、練馬や朝霞の駐屯地周辺から、検問、封鎖が始まってるって運転手さんが言うから、中野、三鷹って南に西に回ってきて、立川まで来たところで泊まったんです。」

「例の、ウイルスの騒動だね。テレビやラジオが放送停止になったり、相当情報が混乱してるから、アタシら、運ちゃんも困ってるよ。」

 日産・クルーがウィンカーを点滅させて左折する。
 まだ人通りの少ない、早朝の立川市を、タクシーは人目を盗むように、静かに走り抜けた。

。。。

 都内各所でのパニック調査と、所轄職員との協議のために、あまり捜査自体を進展させることが出来なかった芹沢警部補と芳野分析官は、明け方に一度、警視庁に寄った。
 分室が使っている会議室のスクリーンには、中継ブースから北峰が映像を映し出していた。
 そこには、捜査継続中の重野警部補とその相棒の水原巡査部長以外、ほとんどの緊急対策分室メンバーが揃っている。

「芹沢、芳野先生、お疲れ。これをよく見てくれ。この男は何を喋っている?今、みんなで頭を絞っとるんだ。」

 会議室のスクリーンに拡大されて、目が粗くなっている白黒映像は、どこかの防犯カメラの映像らしいものだった。
 スーツの男性が、別の男性とすれ違う際に話しかける、ライトグレーの背広の男性に親しそうに手を触れ、握手のような仕草をしながら、耳もとで何かを話しかけた。一瞬、膝がグラつくような様子を見せる、グレーの背広の男性。
 話しかけていた男性は、気遣うような素振りをすると、二人が手を振って別れた。
 その間、45秒ほどの短いやり取りだった。

「国土交通省の通用口にセットされている、二つ目の防犯カメラだ。一昨年前、談合事件の解明がもつれて、国土交通省に暴力団からの脅迫状が届いただろ。警備を厳重にしようと、それまでの防犯カメラに加えてもう一台、わかりにくい角度にカメラが設置されていたらしいな。一台目のカメラからは見えないように喋っとるが、こちらのカメラには口もとが写っていた。」

 芹沢は、都筑の詳しい説明を待たずに、彼の意図を察知した。
 各地でパニックが起こり、社会の基幹インフラが揺るがされる。
 そこに衆目が集まっているあいだに、行政機構に手を入れようとする。
 テロリストの作戦を読んだ都筑は、昨日から主要官庁にテロリスト集団の手が伸びる瞬間を捕捉しようと、ずっと張っていたらしい。

 役人が別の官僚に耳もとで言葉を囁いている映像が、拡大されてスローモーションで再生される。

「俺には、『食べる、食べる、食べる、もっと』と言ってるように見えるな。」

 伸びた髭で口まわりを青々とさせた、野田警部が声を出すが、ほとんど賛同者はいない。
 長いもみ上げと濃い眉毛。体育会系の権化のような野田の推理は、単に彼の空腹から来るものだろうと、全員が理解していた。
 分室メンバーの注目は、ヒューミントや諜報活動の経験が長く、読唇術に長けた芹沢に集まっていた。
 眠そうな目を擦り、後頭部をポリポリと掻きながら、芹沢がスクリーンを見つめる。
 唇の動きだけではない、彼は喉仏の上下も見逃さなかった。

「抑揚がない。一語、一語、噛み締めるように大事に発音してるな。この男が囁いているのは、日本語の会話というよりも、外国語か、記号だ。もう一度、今のリプレイ。・・・うん。『ダブリュー』じゃないか?『ダブリュー、ダブリュー、ダブリュー。ドット』って言ってるように見える。」

 隣の芳野が、慌ててノートを広げて、記録していく。
 英語だったか。自分に読み取れなかったわけだ。都筑が椅子に座り込んで腕組みをした。

 芹沢の後から、急遽呼び寄せられた公安部通信技術班も登庁する、彼らとの協力のもと、防犯カメラに収められた、『接触』の瞬間が解明されていった。

「俺の指示には、全て従うが、それ以外は普段通り振舞え。自宅かネットカフェから、すぐにこのサイトにアクセスしろ。www.leviathan.○○○○.co.jp このサイトの指示には、俺の指示同様、全て従う。俺がこれを話したことは忘れるが、いま話した中身は全て実行しろ。」

 一人の官僚が、もう一人の、知り合いと見られる男に、握手をしながら話しかけたのは、この言葉だけだった。
 手を触れられていた男は、数秒後にバランスを崩すように膝を落としかけるが、男の言葉を聞きながら、体勢を直して一度頷く。
 そして二人は、普通の短い会話を終えた同僚同士の様子で、別れていく。

 通信技術班が慎重に、何度もこのシーンのリプレイを繰り返す中、中継ブースの北峰は、会話の中で伝えられていたサイトのアドレスに接続して、会議室のスクリーンに映し出した。

 L・・・・・e・・・・v・・・・。フラッシュで黒をバックにした画面に大きく、アルファベットが現れて並んだ。
 『Leviathan』という、サイトのタイトルが表示される。

「どういう意味だ?」

 英語に疎い、都筑が頭を捻る。
 北峰がデータベースやネットからの引用検索をスクリーンに分割して表示し始めた。

 『レヴィアタン、もしくは英語読みでリヴァイアサンと読みます。旧約聖書のヨブ記に出てくる、海の大悪魔ですね。このタイトルの意味については自動検索、解析を続けますが、とりあえず、このサイトに入りますよ。』

 リヴァイアサンというタイトルの下に、現れた、「ENTER」という文字をクリックすると、同様に黒をバックにした、サイトのホームに入る。
 そこには、大きめのフォントで白い文字が並んでいた。

【始めて当ホームページへアクセスする方へ。

 リヴァイアサンへ、ようこそ。

 我々は、ウイルスの影響で自由意志を明け渡そうとする貴方を、その存在から取り込んで成長する組織です。
 貴方はこれから、深層意識で我々の指示を待って生活をすることになります。
 組織を示すキーワードを告げられた時、もしくは「支配者の音声」ページに録音されている声を聞いた時、その言葉に絶対的に従ってください。
 そうした指示がない時は、普段どおりに振る舞い、組織の存在、貴方がこの組織の一員となっていることは忘れていなさい。

 一度、支配者層から命令があれば、その命令の遂行に全身全霊をかけます。
 しかし、それ以外の場合、普段の貴方は、組織の存在すら知らず、自分がこの組織の活動に命すら投げ出す、優秀な構成員であることを全く意識しません。

 普段の貴方の行動で、これまでと変わるところと言えば、一点だけ。
 貴方がこのサイトを知るきっかけとなった、接触を、貴方も周囲の人間に対して行ないます。
 可能な限り、人目に触れないところで、「接触方法」ページで詳しく説明されている方法で組織を拡大しなさい。
 組織が発覚するリスクを負わない範囲で、貴方の周囲にいる、社会的強者に接触を試みなさい。
 権力者、有名人、他人に影響を及ぼしやすい人間、そして異性に対しより大きな魅力を持っている人。
 これらの人間を組織に取り込めば、貴方が全てを捧げて服従するこの「リヴァイアサン」は、いっそう成長します。

 貴方の日常での活動はこの、組織成長のための、他人との接触によるウイルス感染拡大です。
 万が一この過程やその他の命令遂行の過程で、貴方が別組織に拘束され、任務に失敗したと認識した場合は、貴方はこの組織の存在、そしてこのサイトを始めて見た、本日以降の記憶を完全に喪失しなさい。

 以上のことを理解した方は、下の「貴方の保護者への宣誓」ページに入り、貴方の詳細な個人情報をフォームに従って入力し、送信しなさい。
 顔写真と連絡先の送付方法もそちらに記載されています。】

 会議室にいる分室メンバー全員が、声も出さずにスクリーンを見上げていた。
 このサイトを通じて、このグループが、MC-A5の感染拡大を推し進めていた。
 TV局が、旅客機が、大手企業が、巨大デパートが、一夜にして洗脳ウイルスに犯され、有機的に社会に対して攻撃を加えたのは、この組織がこのネットを通じて詳細な指示を出し、警察機構の動きに対応しつつ、素早く効果的な場所でパニックを引き起こしていたからだったのだ。

「北峰、サーバーに照会して、このサイトへのアクセス履歴を出せるか?」

 『既に、非正規ルートで解析を始めています。ミラーサイトもいくつか作られているようですし、経由ポイントだけ残して、レンタルサーバーを転々としている形跡もあるので、全体像の把握には時間がかかりますが、ここ1週間で、1万件のアクセスを超えているという見通しですね。東京都北部、東部、南部・・・。ほぼ全域とも言える場所からアクセスがなされています。』

 ネット上での動きに関しては、北峰ほど素早く抜け目のなく立ち回れる捜査官は、公安にはいない。
 他の分室メンバーがサイトの文章に注目するばかりであったこの時に、すでにサイトの右下に、小さなアイコンがつけられていることにも気がついていた。
 猫が、揺れている籠の中から顔を出している、可愛らしいアイコン。
 文面のシリアスな中身とは打って変わって、ファンシーな雰囲気を醸し出していた。

(サイトの管理人が、自分の作品全部にマークしてる、署名アイコンかな? ・・・猫の・・ゆりかご? ・・・カート・ヴォネガット・・・。管理人はSFファン? ・・・なんて、まさかね・・・。考えすぎか。)

 北峰巡査長は、首を小さく左右に振って、自分の空想を捨て去ると、一気にこのサイトの解析に注力した。

。。。

 勝鬨橋が見える、東京下町、月島埠頭。
 築地の中央卸売市場に送るための、東京港から荷揚げされた水産物の倉庫が立ち並ぶ一角を、重野千春警部補が、新人捜査官の水原信一巡査長と捜査していた。
 二人が足を踏み入れた一角はしかし、老朽化した水産物の倉庫という外見とは裏腹に、内部は近代的な研究施設の様相を呈していた。

「製氷機と、温度調節機能のある、秘密研究の本拠地・・・。首都機能の中枢部の目と鼻の先にあるとは、思わなかったわね。」

「重野先輩。どうしてここだとわかったんですか?」

 準キャリアとして昨年、米ラングレーでの研修を終え、公安部に復帰した水原巡査部長はしかし、エリート視されることの多い自分を決して甘やかさない、重野千春を心の底から尊敬していた。
 冷静な判断と果敢な行動力。
 彼女の知的な分析力と、実力行使も辞さない強気な捜査は、水原の憧れそのものだった。
 そして何より、彼女は美しかった。
 公安部には通常、外見的に目立たない容貌の人間が配属される傾向がある。
 都筑、芹沢、北峰・・・、板倉によって分室に集められた公安の精鋭たちも、外見はそれほど特徴がない人間が多い。
 しかし、捜査一課から板倉に引き抜かれた重野は、目を見張るような美人だった。
 少し茶色く染めた、毛先の跳ねるベリーショート。
 鋭い目と高く筋の通った鼻。鋭角の顎のライン。
 影で「女王様」と渾名される、気の強そうな美貌。
 その顔でパンツスーツを着こなして颯爽と捜査に向かう彼女は、いつも敏捷な肉食獣のようなしなやかな美しさを発散していた。
 離婚歴がある34歳と知っていても、彼女を密かに慕う男性職員は多かった。

「諏訪は捜査網に引っかかりはしたが、逃げ切った。保冷車もまだ見つかっていない。保冷車が往復したり、駐車をしていても注意を惹かない場所が怪しい。そうでしょ?シラミ潰しに探していって、やっと辿り着いたのがここよ。これでも遅かったぐらい。よくよく考えれば、人の出入りが激しい地区で、大きな部屋が長期間貸切りに出来て、低温での研究・保管場所が確保できるところなんて、限られているわよね。都筑さんや、芹沢だって、きっと、ここに辿り着いたはず。今回は私たちが一歩だけ、速かったけどね。」

 重野千春が表情を変えずに言う。
 水原は無言だったが、密かに打ちのめされていた。
 都筑や芹沢と重野といった一線級の捜査官たちには、自分はまだまだ及ばない。
 板倉管理官は水原に対して、重野から学んで早く公安部のエース候補になれとハッパをかけられるが、自分がその域に到達するのには、まだまだ時間がかかりそうに思えた。

「そうか・・・。最近は、産地直送とか、市場直送とか、『クール宅配便』もこんなところまで直接受け取りに来ているわけですね。気づかなかった。」

「諏訪は今、ここにはいないみたいね。研究室内、手がかりを探すから、後ろをカバーして。あとで待ち伏せするから、なかのものは、弄ったら1ミリ違わず元通りの位置に戻しなさいよ。」

 重野が部屋に駆け込むと、水原は胸もとのホルスターから拳銃を抜き、両手で構えると、後方を確認しながら、研究室の中を進む。冷蔵庫のような室内の中を、白い息を吐きながら、試験管が大量に並ぶ机の影、搬送用モジュールの影、とクリアー(安全確認)していった。

 書類が広げられ、コンピュータのモニターが4台も並べられている、研究室一番奥の机へ、重野が駆け込む。机の上には、走り書きのメモが残っていた。

【樋口、死亡が確認。死体を司法解剖。国分寺市戸倉一丁目。西東京警察病院。】

 その他にも、メモが散乱している。
 机の前のコルクボードに虫ピンで止められているメモもあった。

「これって・・・。報道に出してない情報もありますよね?警察内部から漏れてます?」

 水原が、重野の背後に近寄って、肩越しにメモを確認する。

「この倉庫内のどこかに、近くに寝泊りするような、生活空間もあるはずよ。全部確認して。」

 重野が、メモを一枚一枚、ハンカチで指紋を付けないよう、そして消さないように、注意深く手にとって、確認している。
 水原も、事件の核心に近づいているという緊張感と興奮から、重野に言われても、しばらくそこから動けずにいた。

【6月9日より撹乱を激化。11日には、制圧の準備が整う。突入計画に、変更なし。】

 メールが印刷されたA4の紙も何枚も重ねられている。
 そして、さらに次の紙を捲ると、彼女の手が震えた。

 この計画の中身を、すぐに分室メンバーに伝えなければ・・・。
 重野千春が、散乱するメモ用紙と資料を一枚一枚、取り上げていく。
 すると紙の下から、机に無造作に置かれた、手に乗るような長方形の電化製品が顔を出す。
 携帯電話・・・。
 諏訪は、・・外出していない!

 重野千春警部補が、体を強張らせて反転しようとしたその瞬間、否、わずかコンマ数秒速かっただろうか。彼女と水原の近くで、ガラスが叩き割られる破裂音がした。

「伏せてっ!」

 重野が、水原を押し倒すように身を伏せる。
 猫のように俊敏な動きだったが、その激しい動きのせいで、その場に充満した、わずかに鼻を突く、揮発性の薬品のような匂いも肺に入れてしまった。

 何者かが、彼女たちの近くに、薬品か何か入った、フラスコのようなものを投げつけたのだった。
 それをぶつけて彼女に危害を加えるのが目的ではない・・・。
 おそらくは、その中にあるものを散布させるのが目的。
 口と鼻をスーツの腕で押さえながら、重野が身を低くしたまま素早く移動した。

 机の影から、人影を探す。10秒?
 永遠にも思える、緊張の時間を経て、重野はある方向に動く影を補足した。

「検問に引っかかりかけた時から、気がついていたよ。賢いサツと愚鈍なサツの、両方が俺を追っている。君たちはどっちかな?賢いといいな。頭の悪い奴とは、話していても時間を無駄にするばかりだ。」

 白衣を着たシルエットが、積み上げられた搬送用モジュールの一つの影から姿を現した。

 ターーーンッ

 重野の手の中から、シグ・ザウエルP230が火を吹いた。
 32口径の弾丸はしかし、白衣を纏って立っている、諏訪岳人の腕から僅かに左に逸れた。

「二人とも銃を捨てろ。眩暈が酷いだろう。フラスコ一杯の培養液とMC-A5を吸い込んだ。君たちの負けだよ。しかし、日本の警察官にしては、思い切り良く撃ってくるね。狙いも正確だ。もし俺を殺すつもりで眉間か心臓を狙っていたら、多少の眩暈で外れても、俺の身体のどこかには、当たっていたんだろうな。俺は運がいい。」

 水原は激しい眩暈に頭を抱えながらも、机に捕まって立ち上がり、重野を援護しようとする。
 重野千春警部補の後方を守り、周囲をクリアーする。彼の任務だった。
 それなのに、事件の核心に近づいていることに興奮してミスをした。
 倉庫内の全ての死角を潰し、彼女とも離れすぎず、近づきすぎず、一定の距離を保って、リスクを減らす。
 基本を怠ってしまった。水原は歯軋りしながら、重野千春の援護を試みるが、拳銃を放り投げてしまっている自分の手に気がついて、唖然とした。

「両手を上げて、立ち上がれ。優秀な警察官と出会えて、嬉しいよ。俺の予想よりもずいぶん早く、ここを突き止めた。賢くて、しかも素早い。行動は全て的確だ。しかし、私の方が、ほんの少しだけ、運が良かった。その差が、重大な結果を生むわけだ。」

 諏訪は左手で摘まんでいる、茶色の物体を顔の横まで持ち上げた。

「試験管の蓋・・・。ふふふ。驚いたね。これが落ちて、転がっていった。私がこの箱の陰に屈んで蓋を拾い上げた時に、倉庫の扉を開ける馬鹿デカい音だ。どうやら私はツイているね。この倉庫は、体に生臭い匂いがこびりつくから、嫌いだったんだが、物陰が多くて、助かった。」

「諏訪岳人。貴方を逮捕します。投降しなさい。」

 腕を90度に曲げ、両手を上げて立ち上がりながら、重野千春がなおも気丈に言った。

「ずいぶん別嬪さんの警察官だな。そっちの男は・・・、後輩か? 残念だったね。どうやら、君のチェックが不完全で、美人の先輩捜査官は悪の手に堕ちてしまうみたいだ。」

「水原っ! 聞かないでいい。今と、これからのことにだけ集中しなさい。余計な話に感情を掻き乱されたら、負けよ。」

 重野が大きな声で水原を叱咤する・・・。
 しかし、振り返って、自分と同様に銃を投げ捨てて、両手を挙げて立ち尽くしている彼を見て、重野千春は無念そうに唇を噛んだ。

「通信機器とか持っていたら、厄介だな。武器も、連絡を取る道具も、それを隠す服も、二人とも、全てをゆっくりと脱ぎ捨てろ。こちらを向いて、手を見えるようにして、ゆっくりと作業すればいい。その後で、この場から移動しようか?この室温で裸はキツいだろうし、な。」

 今から何が始まるのか、すぐに理解した聡明な重野は、悔しさで歯噛みした。
 必死の抵抗を試みるのだが、自分の体は既に、重野の考えよりも、諏訪の言葉に従っている。
 黒のジャケットを脱ぎ捨てると、体にピタッとフィットした、白のカッターシャツのボタンに手をかける。
 シャツは重野の胸の大きさを隠さずに膨らんで、彼女の体のメリハリを表現していた。
 水原は思わず重野の体のラインに目をやってしまう。

「水原っ、気を強く持ちなさい。ウイルスなんかに、屈服しちゃったら、お終いよ。貴方、警察官でしょ。」

 重野が威勢良く指示をするが、少しだけ、声が震えているのがわかる。
 諏訪がほくそえんだ。

「美人捜査官さん、その場でお漏らしをしなさい。」

「何を馬鹿なことを・・・。ぁぁっ・・・。くっ・・・。」

 重野も水原も、愕然としてしまう。
 諏訪を強気に睨みつけた重野が、自分の下半身の生温かさと退行的な弛緩に、狼狽する。
 見る間に、長くて形の良い脚を包んでいたスーツパンツに、黒いシミができていく。
 股間から内股にかけてが、グッショリと濡れていく。
 その様が水原の目からありありと確認できる。
 くるぶしの辺りから滴りだした液体が、重野千春の足許に、水溜りを作り始めていた。
 完璧な先輩として慕ってきた、重野千春の醜態を、水原は不謹慎な気持ちの高まりとともに凝視してしまっていた。

「許さない・・・。絶対にお前を許さないから。覚悟しなさい!」

 鋭い目つきで諏訪を睨む重野。
 人前で屈辱的な失禁をさせられても、まだ心は折れていなかった。
 心地悪そうに、左右の内股を寄せて、長い失禁を続けながらも、両手はスーツを脱ぎ捨てて、黒いブラジャーを露わにする。
 腰のくびれと比較すると特に、意外なほどの巨乳ぶりが目立つ。
 贅肉一つついていない腹部、背中はしなやかな筋肉がついていた。
 鍛え抜かれた、美女の肉体。
 強さと美しさが不思議な調和を見せていた。
 湿って肌に張りつくロングパンツを脱ぎ、ブラジャーを外すと、その調和がより明確になる。
 重力に逆らう力。一言で彼女の体を表現するとすればその言葉が一番適しているだろう。
 引き締まってグッと上に上がったヒップ。
 えぐれるようにくびれ、長距離ランナーのような薄く強い筋肉がついた腰まわり。
 そして重力も30代半ばという年月の影響も、ものともせずに上を向いて強い張りを保った、大きく形のよいバスト。
 男ならば、誰もが息を飲んで見つめてしまうような、見事な裸体だった。
 しかし悲しいことに、その体を唯一守っている黒いショーツは、グッショリと前から尻の部分まで濡れそぼり、大人にあるまじき失態の跡を見せつけてしまっていた。

「パンツを剥いで全裸になりな。可愛い後輩君に、小便臭いマ○コを見せつけてやれ。ちゃんと、口でお願いするんだ。」

 公安警察の捜査官は二人とも、魚の倉庫を改造した研究室の片隅で、全ての衣服を脱ぎさって、全裸になった。水原のペニスが、痛いほど勃起して硬く起立している。
 せめてお互い、目を合わせないようにしながら向き合った。

「水原・・・。私の・・。し、小便・・、臭い・・マ○コを見て。」

 口が動くのに、いちいち抗うのだが、どうしても諏訪の命令に背くことが出来ない重野は、屈辱的な台詞を口にした。足をおずおずと開くと、濡れて黒々と光る陰毛を掻き分ける。
 赤みをおびて、内部からめくれ上がっている粘膜の割れ目を、左右に引っ張って広げて見せた。
「女王様」、「ドロンジョ様」と影で噂され、畏怖され、尊敬されてきた重野千春警部補の、秘密の粘膜が、水原の目に晒されてしまっていた。
 水原のイチモツが、いっそう高い角度に持ち上がる。
 重野も思わずそのモノを見てしまい、顔を赤くしながら背ける。

「ご、ごめんなさい。重野先輩・・・。違うんです。」

「いいから・・・。何も言わないでいいから・・。水原・・・。貴方を信頼しているの。余計なことに気をやらずに、事態を打開するチャンスを考えましょう。」

 諏訪は、互いに全裸で向き合って、必死で羞恥に耐える二人にさらに指示を与えた。

「四つん這いになって、手を使わずに、顔と服だけでそこの小便を掃除しろ。そっちの端はガラスの破片が散らかっているから、それは先に箒を使って処理しておけ。仕事場を汚されちまったな。まぁ、もうすぐ引き払う場所だから構わんが・・。」

 二人が自分たちの衣服を雑巾のように使いながら、動物のように這いつくばり、服を顔で床に押しつけて、重野の失禁の掃除をする。
 諏訪のさらに細かい指示のもと、千春はそこに大の字に寝転がって、水原に自分の下半身も服で拭き取ってもらう。
 自分の尿を異性の後輩に始末させる惨めさに、さしもの重野千春も、泣きたい気持ちになった。

「そろそろ大丈夫かな? MC-A5は、普通は空気中を経由した飛沫感染はほとんどない。揮発性のある培養液の蒸気でも直接吸引しない限りは、ハンカチ一枚で身を守れるが、さすがにあれだけの量をぶちまけると、こちらも慎重になるな。やれやれ。」

 掃除が済んだあとで、やっと諏訪が二人のもとに近づく。
 投げ捨てられた、拳銃を二つ拾い上げると、二人を居住用の離れの小屋に連れて行く。

「二人とも、四つん這いのまま、豚になってついて来い。昔のギャング映画ではよく言ってたもんだぞ? お巡りの豚野郎どもってな。」

 抵抗の気持ち、恥辱の苦痛、悔しさ、悲しさ、怒り、そして仲間に知らせなければならない、テロ組織の計画。
 全てが重野と水原の頭の中から消し飛んでしまった。
 そこにいるのはただ、下品だがご主人様に忠実な、二匹の豚だけだった。

「フゴォォオッ、ンゴッ」

「プギィィィッ」

 突き出して大きく開いた鼻の穴を鳴らすと、二匹の豚は目を見開いて、口を半開きにさせたまま、ご主人様の後を追う。きっと餌でももらえるに違いない。
 重野千春と水原信一は、涎を垂らしながら四足で走った。
 オスの信一の方が、少し速く諏訪に追いすがる。
 千春は引き締まった大きな尻を左右に振りながら、遅れないように急いだ。

。。。

 昭島市から八王子市に入ろうとする直前、拝島橋の前で、日産クルーの個人タクシーは、ついに検問に引っ掛かった。

(くそ、これは迂回出来ないな。この距離だったら、Uターンしたらかえっておかしいしな。)

 久保良雄が、心の中で舌打ちをする。
 窓を開けたままで走るタクシーは、誘導する警察官に従って車を減速させ、厳重な構えの検問を受けた。

「おはようございます。現在流行中の新種ウイルスの感染拡大予防のために、簡易血液検査にご協力頂いております。すぐに結果が出ますので、お車にお乗りの皆様にご協力をお願いします。」

 生真面目そうな若い警察官が、敬礼をしながら要請する。
 言葉遣いは非常に丁寧だが、その表情は、お願いをして、人の意向を伺っているようには見えなかった。
 後部座席右側の美少女が、体を固くする。
 左側に座る学生が、女の子の手をいっそう強く握った。

 やはり・・・。ルームミラーに映る後部座席の様子を、視界の片隅で確認した久保は、警察官に向けた笑顔は崩さずに答えた。

「血液検査でしたら、必要ないと思いますね。えー、こちらのお客さん、熱が出てるってんで、これから東海大学の付属病院で、精密検査を受けるんです。簡易検査よりもずっと綿密に受けると思いますから、先を急がせてもらえんかね?」

 警察官の表情が少し曇る。

「しかし、一応ルールですので、効率は悪いかもしれませんが、ご協力をお願いします。」

 久保が少し眉をひそめて、肘を運転席の窓から突き出す。
 急にガラッパチな、下町口調で早口にまくしたてた。

「効率って、馬鹿言っちゃいけないよ。効率がいいの悪いのって、言ってるんじゃない。そんなことをこの子たちが言うんだったら、アタシが言って聞かせますよ。えぇ。おい、コラ、お客さん。このお巡りさんたちは、こんなに朝も早くから、市民の安全のために、頑張ってるじゃないか。その人たちに、効率が悪いから何度も検査したくないなんて、言っちゃぁいけない。そうでしょ?それぐらい、アタシだって言って聞かせますよ。しかしね、お巡りさん。この子は効率なんかじゃなくって、病院の精密検査じゃなくちゃいけない、理由があるんだって言うんだよ。聞けば、お巡りさん、この女の子、こんなに可愛い女の子が、金属アレルギーだって言うじゃないか。普通の針じゃ駄目なんだと。それを聞いたら黙っちゃいられない。早く病院に行かせてあげたい。そうでしょ?実はね、さっき立川市でも検問に会ってね。同じことを説明したんだよ。するってぇと偉いもんだね。立川署のお巡りさんは。あぁそうだったのか、よくわかった。急いで病院に行きなさい、お気をつけてってなもんだよ。こう言っちゃぁなんだが、立川署がすぐに行かせてくれたところを、昭島署が杓子定規に注射器使って嫌がる女の子に針打って、それで金属アレルギーで病状が悪化したら、どうするんだい?ここは黙って行かせてあげるのが賢いやり方だと思うんだけど、どうだい?」

 予想外に早口で勢いよくまくしたてられたので、警察官が気押されする。
 現場の上司と話し合いを始めた。後部座席の潤也と真弓は、心配そうに事態を見守る。
 潤也は途中からこの運転手さんが何を言っているのか、ほとんど聞き取れなかったが、彼が真弓のために、血液検査を逃れてこの検問を抜けようとしてくれていることは十分わかった。

「しかしね、お父さん。一応私たちも、国から指示を受けててね。ここを通る人たちは、みんな検査を受けてもらわないといけないことになっててね。もし、こちらのお嬢さんがそれを受けられない事情がある場合には、お医者さんの診断書が必要でね。それがないと・・・。」

「猪俣さんっ。あれを見てください!」

 若い巡査が叫ぶと、久保を説得しようとやってきた、穏やかな口調の上司も、指し示された方角を見る。
 多摩川沿いの団地のいくつもの窓から、黒い煙が立っていた。
 ニュータウンのそこここで、窓から黒い煙が上がっている。
 暴徒が火を放ったかのような、沢山の煙の筋が、白い建物から吹き上げていた。

「おっ・・・これはいかん!」

 検問に当たっていた、何人もの警官が、浮き足立って無線で連絡を始めたり、団地に向けて駆け出したりする。

 対応しようとしていた年配の警官が、その場を離れようとするところを、久保が運転席から手を伸ばして、腕を掴む。

「で、どうするのかい? やるんならやる。アレルギーも我慢して、血液検査受けようじゃないかい。ここで待ってろなんて、その場凌ぎのことを言ってもらっちゃ困る。やるんなら、今ここでやってもらってからじゃないと、おさまらねぇ。」

「もういいから、早く行ってくれ。」

 警官が根をあげて、久保のタクシーを行かせるように指示をする。
 白いヘルメットをかぶった交通警察が、手に持った指示灯を振って、車の前進を許可した。
 日産・クルーの個人タクシーは、拝島橋を渡って多摩川を越え、八王子市に入った。

「うまいこと、いったもんだね。」

 久保良雄が、ニッコリと笑うと、銀歯が光る。
 潤也と真弓が頭を下げた。

「運転手さん・・・。あの、実は・・・。」

「いいよ。」

 潤也の言葉を遮るように、久保が切って捨てる。

「色んなお客さんが、色んな事情を持って乗ってくるよ。黙って目的地まで送り届けてやるのが、タクシー運転手だ。・・・カッチョいいだろ?」

 気分がノッてきた久保は、突然、グローブボックスから小林旭のテープを取り出し、カーオーディオにセットすると、歌いだした。

 運転手のテンポには、ついていけないが、少しだけ、潤也と真弓の気持ちが明るくなった。
 真弓が、潤也の耳もとに口を近づけて囁く。

「さっきの運転手さん、映画の寅さんみたいな喋り方だったね。」

 二人でクスクスと笑う。
 笑い声は、久保の熱唱に掻き消される。
 大音量で「熱き心に」という曲をかけながら、個人タクシーが朝の八王子を走った。
 少しずつ、景色に緑が多くなっていくのがわかる。
 緊張と心配で強張り、縮こまっていた、潤也の気持ちが少しずつ、ほぐされていく。

 しかし、真弓は、潤也よりも冷静に、後ろの景色も見ていた。

「潤也君。昭島の方。さっきの煙、ニュータウン全体から出てる。東京・・・。どうなっちゃうのかな。」

 潤也が振り返ると、黒い煙は何本も、団地の白い建物から伸びては東京の空を少しずつ、黒く重くさせているようだった。
 以前ニュースで見たことがある、騒乱の起きたスラム街のような、不穏な景色だった。

 潤也と真弓が手を強く握り合う。
 二人が生まれ育った東京は、このまま壊れていってしまうようにさえ思える。
 そんな不安を掻き消すように、手に込める力を強めた。

 八王子を突っ切っていく途中で、タクシーの料金が5000円に達した。
 久保は黙ってメーターを切った。
 サイン灯の表示を、「賃走」から「回送」に変える。
 降ろしてくれればいいと求める潤也と真弓の遠慮を振り切って、「自宅への帰り道だから」と八王子の西端、陣馬山ハイキングコースの入り口まで送った。

 支倉真弓の丁寧なお礼を、照れくさそうに聞いた久保は、小林旭を聞きながら車をUターンさせる。
 昨今のガソリン代の高騰を嘆きながら、自宅のある北千住へと車を走らせていった。

 帰り道で、久保は同業者から聞くことになる。
 昭島市で見た新興マンションや団地からの煙は、ニュータウンの若奥様たちがいっせいに料理に失敗し、ホットケーキを極度に焦がしてしまったことによる、ボヤだった。
 常識では考えられないほどのケアレスミスでボヤを起こしてしまった若奥様たちとその家族だったが、検問に朝から出動していた警官隊と消防隊員の消火活動により、奇跡的に死傷者は出さずに済んだようだった。

。。。

 高級料亭「泉州屋」の若女将、桑原美千代が鏡の前で身だしなみを確認していると、薄型の携帯電話がマナーモードで着信を知らせた。
 大女将からは、女将が携帯を持ち歩いて仕事をしていては、お客様に失礼に当たると言われている。
 しかし、美千代に直接電話をかけて、席の予約が出来るということを喜んで頂ける上顧客もいる。そのために、どうしても携帯を持ち歩く必要があった。

 美千代が着信を確認すると、相手の名前は「笹沼様」と表示されていた。
 途端に彼女の表情が虚ろになって、電話に出る。

「桑原美千代でございます。」

「今夜、政治家が個室に予約を入れているとメールがあったが、本当か?」

「はい・・・。参院議員の勝本先生が、お越しになります。」

「よし。セックスしなさい。どんなエゲツない誘い方でもして、ハメまくっておけ。念のために秘書も、チ○ポぐらいシャブッておきな。人と会食するようだったら、そいつともファックしとけ。」

「はい・・・。かしこまりました。全員と・・・、ハメまくります。」

「ド変態、ド淫乱のエロ女になるんだ。わかったな。」

 電話が切れる。評判の美人女将は、既に別の人格に変貌していた。
 帯を解いて、高級な着物をスルスルと畳に落としていく。
 しなやかな白い肌が姿見に映った。口を開けて、舌を伸ばすと、ゆっくりと唇を嘗め回す。
 自分の股間に香水を振りながら、鏡に淫猥な笑みを浮かべた。

。。。

 お昼休みに、同僚と誘い合って出かけようとしたOL、香取佐和子はメールの着信を確認する。一括送信されている様子のメールだった。

 『リヴァイアサンより。お前たちは今日の午後1時に、日比谷通りで街頭デモ行進を行う。お前たちは裸族だ。長い間、日本政府に、自分たちの習慣、文化を抑圧されてきた。今日こそ日本政府に対して、抗議のパレードを行なえ。お前たち裸族が誇りとする、全裸での組体操の儀式を織り交ぜながら、街を練り歩け。』

「佐和子、和食でオッケー?」

「あ、・・・ゴメン。今日は一緒に行けない。・・・プラカード、用意しなきゃいけないから。」

 キョトンとした同僚を放っておいて、職場一と噂される美人OLは、抗議活動の準備を始めた。

。。。

 数日間、官邸での法律解釈議論で缶詰になっていた板倉管理官が、やっと国家公安委員会から開放されて、警視庁に登庁した。
 公安部の公安第五課、ヒグチ・ウイルス緊急対策分室が活動している第4大会議室に足を踏み入れると、室内にはうだるような熱気が充満していた。

 徹夜で捜査をして、明け方から秘密組織のサイト解析を見守っているメンバーたちの中には、汗臭い体のまま、机に突っ伏して仮眠を取っている者もいる。
 足を机に乗せて、行儀悪い姿勢で板倉管理官を迎えた芹沢勇人警部補は、姿勢を正そうともせず、徹夜明けのギラついた目で板倉に作戦の許可を取ろうと口を開く。

 背広のジャケットを脱いで腕にかけながら、板倉が手を上げて芹沢の言葉を遮った。

「皆、ご苦労。先にこちらから伝えるべきことを言わせてくれ。日本国には非常事態宣言の法的根拠も、戒厳令の根拠となる法令もないために、議論が紛糾して長引いたが、明日の正午12時より、ヒグチ・ウイルス非常事態宣言が発令され、東京都は事実上、封鎖される。自衛隊も都内での活動を、基地周辺の安全確保という消極的なものと変わって、活動を本格化させる。厳重な検査を潜り抜けた者しか、東京都から出ることは不可能になる。家族を都内に住まわせている者は心配だろうが、事前の情報漏えいはパニックを拡大させるだけだ。理解してくれ。」

 疲労と議論で気が立っている室内の空気が、一瞬張り詰めた。
 ウイルスが氾濫する都内を封鎖するということは、ここに住む1200万人の市民を感染しやすい環境に閉じ込める。その代わりにそこからキャリアーを出さずに残りの日本国民1億人を救う・・・、という判断が前提になっているということだ。

 自制心を保とうとするメンバーたちの気持ちを、さらに逆撫でしたのが、それに続く芹沢と板倉のやり取りであった。

「それで・・・、自衛隊がいよいよ本格的に出張るとなると、警察組織と、協力できる機能もあれば、かち合う機能もありますよね?警察は、今後どうするんです?」

「うむ。所轄では地域と密着した感染予防活動、感染拡大を防ぐための検問、調査を続ける。しかし、警視庁の主要任務には今後、首都機能の円滑な移転支援というものが加わることになる。」

 会議室がざわつき始めた。
 板倉が有能な捜査員を集めた緊急対策分室は、みんな物事の理解が早い。
 都民を東京都に閉じ込めて、政府の人間、高級官僚、立法府の関係者は安全な場所に避難する。
 国家秩序維持という美名の下に、さもしい相談と、尊敬できないソロバン勘定が行なわれている。
 それは公安警察に身をおく人間ならば、誰もが一度は嗅いだことのある、権力の足もとから漂ってくる腐臭だった。

「諸君の気持ちはわかる。しかし、国家の安全、社会の秩序維持を最優先すれば、このような判断となる。一昨年前の生物テロ対策の諮問会議でも、議論されたシナリオだ。みんなも、冷静に考えれば、その合理性は理解してくれるだろう?」

 ゴンッ!

 野田警部が壁を拳骨で殴りつけた。
 気が収まらなくて、今度は壁に頭突きをした。

「管理官殿! 自分は、あまりにも早急かつ、手際の良すぎる政府移転には反対でありますっ。国家の秩序も、社会の安定も、全ては、市民と政府との根本的な信頼があって・・、成り立・・。いえ・・・、すみません。失礼します。」

 話の途中で両頬を自分でビンタして、急に一礼すると、野田が洗面所に顔を洗いに行った。
 芹沢が、面倒くさそうに頭を掻く。

「政府がゴッソリ動こうとすると、週末までかかりますよね。それまでに・・・、ウイルスを蔓延させているテロ組織の、首根っこ捕まえればいいわけですよね?」

「ん・・・。そうだと信じている。芹沢の作戦は、公用車の中で、北峰からの説明を受けた。本当に、梅園が?・・・西堀さんに限って・・・、私には考えられんのだが・・・。」

 机に斜めに腰掛けて、板倉が芹沢を凝視する。
 会議室が静まり返った。
 芳野渚が、シャープペンでノートに書き込む音だけが、大きな会議室に響く。

「サイトを洗ってまして、今までの調査結果からいくと、そうなるっていうだけです。・・・ところで、板倉さん。女王様と秀才君、何か特命任務につけてます?北峰が今朝から、連絡が繋がらないっていうから、板倉さんが機密案件でも落としたのかと思っていたんだが・・・。」

 板倉の眉が片方、釣り上がる。小さく首を左右に振った。

「俺も、気になっていたが。二人がこの場にいないな。こちらから彼女たちには、何も指示をしていないぞ。」

 『お・・・お話中、すみません。うちの課宛に、メールが届いています。他の部署にも一括送付されてますが、差出人は重野千春警部補。中身は・・・、ただのアップローダーのアドレスです。そこには、動画ファイルが一つ、リンクされています。ダウンロードも完了しましたが、いかがしましょうか?』

 中継ブースから、北峰巡査長の声が会議室のスピーカーを通じて響く。
 芹沢の表情が曇る。板倉も同様に、嫌な予感を感じていたが、返答した。

「こちらのスクリーンに回せ。」

 会議室のメインスクリーンに、動画が再生される。
 白い壁を背景に、比較的クリアな映像が流れ始めた。
 カメラが左に流れると、無防備な裸体を晒して微笑んでいる、重野のバストショットになった。

「皆さん、ご機嫌よう。重野千春です。大変申し訳ないのですが、私は今日から、捜査チームを外れなければいけません。なぜなら、新しい組織に、忠誠を誓ったからです。」

 彼女の目の様子が、明らかにおかしい。
 これは、拘束されて、無理やり身包み剥がれて言わされている台詞ではない。
 そう気がついた芹沢は、舌打ちをすると、額に手を当てて俯いた。
 会議室にいるメンバーは、呆然とスクリーンに見入っている。

「その、新しい組織の、目的は・・・なんと・・・。」

 カメラが引いて、彼女の全身が写される。
 ヌードデッサンで描かれるような、見事な裸体だったが、捜査員たちは悲痛な目で見守った。
 スクリーンの中の、チームリーダーは、足を開いて少し腰を落とすと、股間に指を入れて、秘部から何かを出そうとしている。紐の先端のようなものを引きずり出した。
 生理用品?・・・何人かの捜査員が、想像した。

「ジャジャーン。私が隷従する、新しい組織の目的とは、この通り。世界征服でーす。」

 彼女のアソコから、一枚一枚、紐に括られた、様々な国旗が現れる。
 パーティーで使われるような、小さな万国旗をヴァギナの中に詰めていたらしい。
 引き出しながら、少しずつ興奮していく彼女の表情と、次々と新しい旗を吐き出す膣口。
 交互にカメラがアップにする。

「ひどいっ・・・。」

 芳野渚が、耐え切れずに目を覆った。
 これまで分室の活動を現場でリードしてきた、優秀な美人捜査官。
 重野の、直視出来ない姿だった。

 会議室の凍りついたような雰囲気とは逆に、スクリーンに写る彼女は陽気な様子で、警察には戻らない。捜査状況、陣容を全て組織に密告したと高らかに宣言した。
 そしてその証しにと言って、カメラの前でしゃがみこむと、自分の警察手帳の上に、笑顔で脱糞した。

 目を逸らしてしまう同僚たちも多くいる中、芹沢と都筑、板倉は、少しでも映像の中に、犯人たちのヒントに繋がるものが写っていないか、冷徹に見つめていた。
 カメラの前で、全裸の重野と水原巡査長が、一組のバレリーナのように踊り狂う。
 重野の体を持ち上げて、水原がクルクルと回転する。
 うっとりと踊りまわった二人は、そのまま激しい性行為へと移行した。
 カメラ目線のまま、後背位でまぐわう二人。性器の結合部分が何度も大写しになった。

 映像が終了して、スクリーンが暗転しても、会議室では誰も言葉を発しなかった。

 30秒ほどの沈黙の後、芹沢が立ち上がって、板倉に何か言おうとした。

「芹沢、取り乱すな。重野と水原の保護は、刑事部に任せよう。我々には、お前の提案した作戦がある。その遂行に集中してくれ。それがうまくいけば、重野たちの奪還にも一歩近づくはずだ。」

 芹沢が口を開きかけて、発言させてもらえなかったのは、本日2回目だ。
 口を小さく開けたまま、板倉を指差して、何か言おうと首をかしげる。
 その姿勢のまま、止まった。
 体を反転させた芹沢が、板倉のもとから歩き去る。

「俺もちょっと、顔洗ってくるわ。」

 会議室から出て行く芹沢。芳野渚が立ち上がって、心配そうに芹沢の後を追おうとする。

「芹沢さんっ・・・、あのっ!」

 芳野の肩を叩いて止めたのは、いつの間にか彼女の真後ろに来ていた都筑巡査長だった。

「芹沢は大丈夫だ。・・・ただ、ちょっとの間だけ、一人にさせてやっとくれ。千春ちゃんは・・・、元、芹沢の奥さんだったんだよ。当時は二人ともそれぞれの捜査がたてこんでたんで、半年で別れちまったけどね。」

 穏やかな口調で都筑が言う。
 そう言われて、よけい芹沢の思いと重野の身が心配になった芳野は、感情の昂ぶりを抑えることが出来ず、その場で涙をこぼした。

 20分後、芹沢が、まだ少し、ふてくされている野田を引き連れて、会議室に姿を現した。
 重苦しい空気にうなだれていた分室のメンバーたちが、立ち上がって、板倉に歩み寄っていく芹沢の発言を待った。

「芹沢、大丈夫か? 重野がいない今、私が作戦を直接指揮してもいいのだが。」

「いや、板倉さんには自衛隊や本部、上の抑えをお願いしたい。柄じゃないが、作戦の陣頭指揮は、俺がやります。『ドロンジョ様』だったら、何度痛い目に会っても、次の週には復活してる。俺たちは、今、出来ることをしましょう。」

 いつも会議の場で芹沢が座る、スクリーンや発言者から少し離れた、斜め右の席。
 彼はそこに座ろうとせずに、スクリーンの前、チーフの席まで歩いていこうとする。
 そしてその席の卓上に、ヨーグルトのカップが置いてあることに気がついた。
 振り返って芳野渚を見た芹沢は、疲れた笑顔で頷いた。
 精一杯の気遣いを見せた芳野は、少し顔を赤くして俯くと、ノートを取る。
 芹沢勇人警部補指揮のもと、『リヴァイアサン攻略作戦』が始動した。

。。。

 翌日の深夜。千代田区永田町一丁目は慌ただしく動いていた。
 内閣官房庁舎に、統合対策本部の上層部と、閣僚の一部が集められ、深町内閣官房長官と密談をしていたのだ。巨大な会議テーブルを、行政府の中枢に座る大物たちが囲っている。
 話題は、新開発のヒグチ・ウイルス対症薬の治験完了についてであった。
 一週間ほど前に発足した、ウイルス対症薬開発諮問委員会が、国内の大手製薬メーカーと急いだ特効薬は、首相の指示のもと、通常の医療薬品とは比較にならないスピードで開発、治験が進められた。ヒグチ・ウイルスMC-A群の、特に危険視されている症状が、脳内のアレルギー反応によるものだと考えられたため、抗ウイルス薬、脳内薬物の研究でリードしていた、梅園製薬が対症薬の開発に先鞭をつけた。
 6月11日未明、厚生省と開発諮問委員会の承認を得た、対症薬のサンプルが、内閣官房まで届けられたのである。

「厚生労働省の治験審査委員会が、異例の速さで承認致しました。もともと必要なのは、ウイルスを死滅させるための薬ではなく。ウイルス侵入の際に、脳内の恐慌状態とそれによる判断力低下を抑えるための薬です。既存の抗アレルギー物質を発展的に開発することが出来たため。安全性の確認も素早く進みました。」

 美村内閣危機管理監が告げると、深町長官は重々しく頷いた。

「ご苦労。諮問委員会の座長を務めて頂いた、西堀さんにはお礼を伝えておいてくれ。しかし、梅園が一番手だったか。さすがに、外資は行動が早いな。」

 話しかけられると、直立していた諮問委員会幹事が、綺麗な姿勢でお辞儀をした。

「西堀先生には、梅園の親会社である、マッカーシー&マンセルの研究開発部隊にまで直接声をかけて頂いて、特効薬、予防薬の開発にハッパをかけて頂きました。」

 平坂厚生労働大臣が、まだ若い委員会幹事のご機嫌を伺うように礼を述べる。
 黒いスーツに身を包んで直立している幹事は、厳粛な様子で、目を閉じて話を聞いていた。

「効果、安全性は厚労省、アメリカの製薬会社、薬学者たちのお墨付きか。あとは、数さえ十分に揃えば、問題は解決なのだが・・・。短期間で大量に生産することは、不可能なんだね。」

 深町に対して、御子柴警察庁長官が無言で頷く。
 官僚機構の頂点に立つ、蜂谷内閣官房副長官(事務担当)が起立して今後の展望を語った。

「まずは、内閣官房で試用して、総理大臣官邸に集まっている、総理以下残りの閣僚の方々に使って頂きます。行政府のトップの、感染のリスクをなくしてから、政府機能を一時、静岡県三島市へ移転させて頂きます。立法府、主要官庁、財界上層部・・・と、日本の主要機能から順番に、ウイルス症状の予防薬を配布していく手筈になっております。」

 深町官房長官は、苦々しく述べた。

「我々が、その薬を最初に投与される栄誉に預かるわけか。ありがたいのか、迷惑なのか、わからんな。せめて長期間にわたっての安全性の確認が・・・。」

「長官。効果と安全性は、米M&M社も、厚生省も、学会も確認しております。」

 蜂谷が声を大きくして言うと、深町はそれ以上、何も言えなくなった。

「うむ・・・。薬の投与を。」

 会議室の扉が開いて、白衣の医療班が薬品と医療器具を搬送する。
 長官お抱えの医師も姿を現した。水色に着色された薬品を、注射針が吸い上げる。
 会議室のVIPたちの横にそれぞれ医師がついて、腕をまくらせる。

 ガンッと大きな音がして、深夜の会議室が、突如外から大きな光を浴びる。
 続いてキーンと耳をつんざく、金属音のようなものがこだまして、要人たちを呻かせる。

 『あー、あー、テス、テス、テス。本日は曇天なり。内閣官房庁にお集まりの偉い方々、白衣の先生方。全員動きを止めて下さい。』

 あまり、緊迫感を感じさせないトーンだが、拡声器で男の声が響いた。

 『すみませんが、ただいま警視庁が皆さんを包囲しています。一歩たりとも動かないで下さいね。強襲班の狙撃チームは気が立ってます。何せ朝から市民に麻酔銃向けさせられてたそうでして・・・、緊張感の限界です。ちなみに皆さんを狙ってる銃は、麻酔弾ではございませんよ。』

「御子柴君?」

 深町が警察長官に尋ねるが、御子柴は返事をしない。
 何も知らされていないのか、全てを知っていたのか、いずれにせよ、彼は貝になった。

 大集団が警備員と揉み合う音がする。直後に会議室のドアがいっせいに開かれた。
 先頭に立つ、拡声器を持った男は、その立場にはあまり似つかわしくない、ボサボサの髪に無精髭の、頼りなさそうな男だった。

「警視庁、ヒグチ・ウイルス緊急対策分室です。私は公安部管理官・板倉警視正の監督下で今作戦の指揮を取ってます。芹沢警部補と申します。はい。」

 左手に拡声器を持っている芹沢は、右手でチラリと警察手帳を掲げたあと、手帳の背表紙で、自分の頭をポリポリと掻いた。
 脇には、おくれを取らないよう、後ろに束ねた髪をなびかせて、芳野が駆ける。

「科学警察研究所、法科学第一部、生物第五研究室より、緊急対策分室に派遣されています。芳野分析官と申します。今、皆さんに投与されようとしている薬品には、ヒグチ・ウイルスそのものが混入されている恐れがあります。培養液の確認は5分。ウイルスの発見も20分で出来ます。少々、お時間を頂きたいと思います。」

 舌を噛まずに全て伝えることが出来た。芳野渚は、そんなことにホッとした。
 突如、会議室に突入した警官隊に対して、怒鳴りつけて圧倒しようと立ち上がったVIPたちも、芳野にウイルスのことを告げられて、気勢を削がれてしまう。
 互いに目を見合わせて、無言で不安を表明した。

「皆さん。近くの白衣のお医者さん、看護婦さんに素手で触れることもしないで下さい。なに、チェックに時間はかかりません。こんなものもありますから。」

 警察手帳を胸ポケットに収めた芹沢は、会議録音用のミニカセットテープを背広の内ポケットから取り出して、拡声器に近づけた。

 『全員、その場で眠りなさい。30分は誰の指示も聞き入れないこと』

 やや、平坦なトーンで音声が流れる。
 突然、白衣の医療チームの大部分と、会議に参加しているメンバーの数人がその場に倒れこんだ。
 深町内閣官房長官をはじめとした、要人たちは、何が起きたのかわからず、キョロキョロと周囲を見回している。

「リヴァイアサン・・か・・。日本の警察機構の技術力をなめてもらっちゃ困るよ。指揮伝達の中継に使っていた、サイトは暴かれた。そこには『従うべき声』として、数人の音声が録音されていたな。そのサンプルを元に、声紋をコピー、別の台詞を合成するなんて、大した手間じゃないんだ。ちなみにこの声。貴方の声に似てませんかね?烏丸代表幹事?」

 芹沢が尋ねると、まだ起きている要人たちの目は、ウイルス対症薬開発諮問委員会・
 代表幹事の烏丸に集まった。
 座長であった西堀元厚生大臣の政策秘書であり、元厚生省のキャリア官僚。
 黒いスーツに身を固めた彼は、姿勢よく、背筋を伸ばして直立したまま、少しだけ笑った。

「烏丸。ネタは挙がってるぞ。ウイルス散布から数週間程度のホームページ管理だったが、どうも管理人がサボって遊んでいて、ハッキングにも気づかなかったみたいだぜ。二日ばかし泳がせてやってるあいだに、お前らの行動は全て把握できた。公安ってのは、なかなか汚いだろ?」

 芹沢が、警官隊に銃を突きつけられている烏丸に対して、一歩ずつ近づいていく。

 丸メガネをかけた黒いスーツの男、烏丸はしばらく黙っていたが、急にクスクスと笑い出した。

「ふぅっ。もうちょっとのところだったんだが、私たちの負けか。しかし、どうせ正義の味方に倒されるんだったら、もう少し見栄えのする、ヒーローに捕まりたかったな。」

 軽々と言い放った烏丸の、襟首を芹沢が掴む。
 拳を握り締めて身構えたが、芹沢は一瞬、思いとどまった。
 しかし、その間に、駆け寄った芳野が、烏丸に強烈なビンタをかましてしまった。

 バシッ!

 烏丸が分厚いカーペットの上に、腰をつく。
 なおもおさまらない芳野は、烏丸に馬乗りになって、往復ビンタをしようとする。
 慌てて止めに入った芹沢まで、ドサクサのなかで、芳野から思いっきりビンタを食らってしまった。

 初めての逮捕現場での興奮と、これまで溜まりに溜まった怒りをぶちまける芳野渚を、野田警部が羽交い絞めにして抑える。都筑巡査長が、烏丸に手錠をかけて引っ張り上げた。

 芳野渚にドサクサでビンタされた頬をさすりながら、芹沢が深町官房長官に近づく。

「あのー、一応、こんな具合なんですが、注射・・・、やっぱり、されます?」

 芹沢がとぼけた口調で尋ねると、深町はソファーに崩れ落ち、うなだれるように呟いた。

「こんなことになっていたとは・・・。厚生省も、M&M社も、薬学者も太鼓判を押したんだ、私には・・、信じるしかなかった・・・。」

 芹沢が、頭を掻きながら、警察長官をチラリと見る。
 御子柴長官は、警官隊の退去を許可するように、無言で頷いた。

「あの~・・・。先生方が、あんまり役人と、アメリカと、専門家の話ばっかり鵜呑みにしてるとですね・・・、・・・ま、いっか。公務員の、俺の言うことじゃないですね。失礼しますよ。」

 手を上げて、芹沢が指示をすると、警官隊は烏丸を連行しつつ退去。
 後を追って、防護服に身を包んだ緊急医療班が入室し、眠りこけている医師たちと厚生労働大臣他数名の要人たちの保護を開始した。
 芹沢は芳野の肩をポンと叩いて、会議室を後にしようとする。
 深町官房長官は、自分にあと数秒で洗脳ウイルスが直接注射されようとしていたという事実に打ちのめされ、まだ放心状態で椅子に寄りかかっていた。

「芹沢と言ったな。板倉君から聞いているよ。ご苦労だった。」

 御子柴警察庁長官が、低い声で芹沢勇人警部補の背中に呼びかける。芹沢が立ち止まった。

「後日、私の執務室へ来なさい。それと、上にあがって大きな仕事がしたければ、髪を切って、もう少し身だしなみを整えて、来るように。」

 振り返った芹沢は、きちんとした回答をせず、ニヤリと笑う。軽く敬礼をして、歩き去った。

 数百人の警官隊が取り囲む、内閣官房庁舎の正面玄関。
 フラフラと姿を現した芹沢を、直立不動の姿勢で板倉管理官が迎え入れた。

「芹沢、ご苦労。こちらも首尾は上々だ。北峰が突き止めたマンションに踏み込んで、例のサイトを管理していた笹沼という技術者を拘束した。」

「柄じゃないですよ。もう、こんな役回りはゴメンだ。スピーカー使ってしゃべろうとしたら、ハウリングさせちゃったり・・・。大変でしたよ。」

 面倒くさそうに芹沢がボソボソ呟く。芳野もやっと落ち着いて、芹沢の横を並行して歩く。

「まぁ、そう、ボヤくな。もう一つ、ニュースがある。重野と水原。築地の市場で保護したぞ。精神的な混乱が大きいのと、体の一部、酷使されてダメージを残しているようだが、現在、近くの聖路加病院で集中治療を受けている。しばらく安静にすれば、ちゃんと社会復帰出来るだろう。」

 立ち止まった芹沢は、やっと肩から力が抜けたように、大きな溜息をついた。
 芳野も目に涙を浮かべて、芹沢の腕を掴んだ。

「君らも疲れているだろうから、一旦休んだ方がいいと思うのだが、どうしても、重野たちの病院に行くとのであれば、私の公用車を使っていけ。検問を全て素通り出来る。・・・みんな、ご苦労だったな。」

 板倉が労いの言葉をかけると、公安部・ウイルス緊急対策分室のメンバーは、互いに軽く肩や背中を叩き合って、各自、本庁へ戻っていく。
 救援に駆けつけている警官隊の前で、長々と顔を出していたり、声を上げたりはしない。
 警察機構の中でも秘密の任務の多い、「顔のない」捜査官たちの、静かで速やかな退場だった。

「芹沢、それほど大した怪我ではなさそうだが、それ。先生方は確保の時、相当暴れたのか?」

 板倉管理官が最期に一言、芹沢の、赤くなった左頬を指差して言う。
 見る間に、横にいる芳野の顔が、彼の頬に残るビンタの跡よりも赤くなった。

< 第11話に続く >

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