わたしのごしゅじんさま 第4話

第4話 ~ご主人様、爆誕!~

・Master-01

 窓をじめじめとした水滴で埋め、梅雨の雨はぼくの心を代弁するかのように降り続ける。それも、勢い良くバケツをひっくり返したような雨ならまだ力強さがあるだろうに、何を考えてか霧雨+αな中途半端な降り方。責任者、出て来い。

「おいおい、何をあんにゅいしてるのかなぁ?」

 勘弁して欲しい。
 いまは落ち込んでるんだから、春雄の幻聴の相手までしてられない。幻聴も、それぐらいは察して欲しいと思う。TPOは対人関係における、重要なお約束だと思うワケで。

「よーよー、シカトかよー。なまいきだぞー、道明のくせにー」

 む。何て失礼な幻聴だなんだろう。
 こうなったら必殺!憂鬱な溜息っ

「はぁぁぁぁぁ・・・」

 机に突っ伏して、顔だけ窓に向けた体勢でコレをやると、結構ソレっぽく見えたりするんだよね。でも、憂鬱なのはウソという事でもないので、意外とこれって自爆だったりするのかも。うぅ、なんだか本気で落ち込んできた・・・。

「構ってくれよぉ、なー」

 とうとう、幻聴が構ってクン化してしまったらしい。ぼくは仕方なく身体を起こして、右手方向に顔を向けた。そこには何となく所在なさげな様子の幻覚・・・いやいや、春雄がいた。ぼくが反応したのが嬉しかったのか、ぱぁっと表情が明るくなる。

「おろろろろぉ~ん、みぃちぃあぁきぃぃいぃ」
「わ、わわっ!」

 春雄はその場に跪くと、ぼくの身体をがばっと抱き締めて、教室中に響くような声を上げた。ぼくはあまりの事に、満足に反応もできなかった。なんか、春雄の芸風変わった?それとも、そんなに淋しかったのかな?でも、ぼくの胸に顔を押し付けて、ぐりぐりとするのだけは止めてほしい。いや、ホントに。

 たったったったったったったったっだっだっだっだっだだだだだだだ!!

 お昼休みが始まったばかりとはいえ、こんな事をしていて目立たないはずがなく、当然のように廊下を走る足音が・・・。しかも、走ってる途中で走る理由にムカついて、なおかつストレスが加速的に溜まっていく、そんな感じの足音がこのクラスに近付いて来た。そりゃ、あれだけ大きな声で騒げば、隣のクラスには聞こえようってものだと思う。

 がららっ!
 自らの気持ちを代弁するかのような、勢い良く戸を開け放つ音。そこにある影は――。

「こぉの・・・ばかはるおーっ!」

 小柄な身体を砲弾のような勢いで走らせたのは、当たり前だけど工藤さんだった。顔を羞恥で真っ赤に染め上げて、ぎゅいいぃんと黒板の前を突っ切り、きききぎがららららっと机をいくつか犠牲にしながら遠心力を打ち負かし、物理法則を無視するが如く直角にターンを決めて――。

「春雄、君の事は忘れないよ・・・」

 ぼくは情感を込めて小さく呟くと、強引に春雄を引き剥がした。だって、巻き添えはいやだから。え゛、という感じの表情の春雄に、どこか諦めが混ざった生暖かい笑顔を向けて、ぼくは小さく頷いた。(ぼくだけは)大丈夫、まいふれんど。

「とぉっかぁぁぁぁぁん!!」

 プロレスの技の教科書(そんなものがあったらだけど)のお手本にしたいぐらいに華麗に、工藤さんのドロップキックが春雄の顔面に突き刺さった。汗とか涙とか涎とか血液とか不思議な液体とかをキラキラと撒き散らしながら、春雄が首をヤバげな角度に曲げたまま、錐揉みしながら床と平行に数メートル飛んだ。
 その一生の間に一度見られるかどうかという光景に、クラスのあちこちから感嘆の溜息と小さな拍手が沸き上がった。惜しかった。もし写真を撮っていたら、末代までの語り草に出来そうなほどの豪快かつ美しい飛びっぷりだったのに。

「ばか春雄、なにしてるのよっ!」

 ぜはぜはと荒い息を吐きながら、工藤さんが肩を怒らせている。けど、春雄からの応えはない。突っ伏した背中がかすかにヒクヒクとしているから、多分生きてはいるんだろうけど。
 それから工藤さんはぼくの方に振り返った。まさか攻撃の矛先がぼくにっ!なんて戦々恐々としたのだけど、どうやらそうじゃなかったみたいだった。工藤さんは恐怖に固まったぼくの手をひしっと取ると、真摯な瞳をぼくに向ける。

「だめだよっ」
「え?」

 意味が判らずにへんな声をあげるぼくに、工藤さんは根気強く繰り返した。握られた手が、少しイタい。それだけ真剣なんだろう。いっそ、必死と言ってもいいかも知れない。

「だめだよ・・・オトコノコ同士であっちの世界に行っちゃ!」
「え゛」
「行ったら、帰ってこれなくなっちゃうんだから!」
「えぇっとぉ・・・」

 凄い。この論理展開には、さすがのぼくもびっくりダ。もしかして、ぼくの周りの日常は、意外と波乱万丈な人間関係で構築されているのカモ。ぐるんぐるんと回る思考で、そんなふうに失礼な事を思ってみたり。

「いててて・・・まさか全体重を乗せきったドロップキックとは・・・やるな、みどり」

 復活したらしい春雄の声に、ぼくは何の気無しに振り返って・・・唖然とした。

「ん、どした、道明?」
「ひぃぃっ!」

 春雄の普通の声がコワい。普通すぎてコワい。ぼくは、思わず悲鳴を上げた。
 だって、春雄の首は、色んな意味でヤバい方向に曲がったままだったから。「メディック!メぃディーック!!」なんてクラスの誰かが叫んでる。女の子の悲鳴まで聞こえてくるし、気分はもう戦場。ちなみにこの教室の中で冷静なのは、被害者と加害者の二人だけだったりする。

「春雄、もらってくね。それとみどりがいない時は、春雄に近付いたらダメなんだからね。うつるんだよ。危ないんだよ。襲われたら、ちゃんと悲鳴を上げてね」
「じゃあ春雄、ちょっとメシ行って来るわ。元気だせよ」

 言いたい事だけ言うと、核弾頭カップルは立ち去って行った。クラスのみんなのどろんとした目が二人の背中を追尾してるけど、気にする様子の欠片も無い。歩く度に、春雄の頭がカックンカックンと揺れるのはコワかったけど・・・きっと、大丈夫なんだろう。
 そうして、教室の中にだんだんと平穏が戻り始めた。いくつもの取りとめのない会話が混ざり合った、ざわざわとした喧騒が気持ちいい。さっきまでの雰囲気が異常過ぎたというだけかも知れないんだけどね。

「あ・・・」

 それで、自分がさっきよりもだいぶ気持ちを持ち直してるのに、気が付いた。
 もしかしたら、春雄は本当にぼくを元気付けようとしてたのかも。
 まだまだ、いろんなモノが足りてないなぁ・・・溜息を吐きながら、そう、ぼくは思った。

・Master-02

 ぼくが落ち込んでいたのは、この間のデートが原因だった。
 もともと予定していたスケジュールをこなせず、えっちを求めてくる綾峰さんにも外という状況のせいもあって、最後まで出来ず、酷く中途半端な印象が残ったから。
 あれでは、綾峰さんも満足出来るはずも無い・・・そう思い出したら、落ち込む自分を止められなくなってしまったというのが真相だった。

「ふぅ・・・」

 いつまでも落ち込んでいたら、周りにも迷惑を掛ける。そうは思っても、考えれば考えるほど、溜息は溢れてしまう。

「あの・・・美味しく、ないかな?」

 ほら、今だって綾峰さんが心配して・・・。

「新しいメニューに挑戦したんだけど、不味くはないと思うんだけど・・・」

 不安げに言う綾峰さんに、ぼくは思いっきり動揺して、思わず手にした箸を落としそうになってしまった。

「わたたっ、ごめん!ちょっと考え事しちゃって!美味しいよ、目が飛び出るほど美味しいって!」
「さすがに目が飛び出るのは困っちゃうね。・・・あの、何か悩みがあったら、遠慮なく言ってね。その方が・・・私も嬉しいな・・・」

 視線を微かに逸らしながら、綾峰さんが後半は呟くように言った。きっと、それが精一杯なんだろう。ぼくが頭の中をぐちゃぐちゃにしているのと同じように。

「・・・ありがとう。でも、大丈夫だから。・・・それにしても、この鶏肉とチーズのフライは凄く美味しいね。ウチの母親に見習わせたいぐらいだよ、ホントに」

 ぼくがはぐはぐと食べるのを見て、綾峰さんの口がほんの少しだけ綻んだ。やっとぼく達の間に柔らかい雰囲気が漂うのを感じて、いつもこうできたらいいのに、なんて思った。多分、ぼくと綾峰さんは違う人間なんだから仕方が無いのかも知れないけど、それでも一緒の時間とか気分とか楽しさとかを共有できたらいいのに。

「ご主人様のお母様って、こういう料理は作ってくれないんですか?」

 ぼくは、『ご主人様』って言葉に反応して、焦りながら周りを見渡したけど、声の届きそうなところには誰もいなかった。まぁ、雨の降ってる日の屋上入り口なんて、普通はこないか。綾峰さんはぼくを安心させるように、微笑みながらコクリと頷いた。ぼくは安心すると、口を開いた。

「あまり、料理が得意じゃないみたいなんだ。なんだか大雑把な料理が多くて。塩コショウで焼いただけとか、いろんなものを入れて煮込んだだのね。もう慣れちゃったけど、やっぱり料理が美味いっていいよね」

 いまやぼくの生活には、綾峰さんのお弁当が必要不可欠になってるぐらいだし。休みの日に会わない時なんて、食事が異様に味気無く感じるほどだ。母さんと父さんには言えないけどね。

「私は、お母さんから料理を教わった訳じゃないから、なんだか羨ましいです」

 ちょっと寂しそうな口調に、ぼくの胸がちくりと痛んだ。失言その1だ。

「じゃあ、今度うちに来て、母さんに教えてあげてくれる?」
「え?」

 綾峰さんは驚いたようにぼくを見て、それから興奮を隠せない子供みたいな表情を浮かべた。いつもの綺麗という顔が、そうするととても可愛らしく見える事に、初めてぼくは気がついた。

「で、でもっ。その、お母様に私が教えるなんて、そんな図々しい事っ」

 なんだか、美味しそうなケーキを前にしたダイエッターみたいです、綾峰さん。
 食べたいのに、食べたら困るぅ、みたいな?
 わたわたと慌てる様子を堪能してから、ぼくはフォローを入れた。

「別に、一緒に料理するだけでもいいし。そんなに気負うほどのコワい母親じゃないからさ、大丈夫だよ」

 あ、綾峰さんの顔が安心したみたいに綻んだ。それどころか、本当に嬉しそうにほわわわんと何やら考えているご様子。それがどんな妄想なのか、にへらと唇の端が緩むのが見えた。
 なんだか綾峰さんの新しい一面が見れたみたいでお得感があるのデスが、見なかった方が良かったのかも、なんて後悔にも似た気持ちも否定し切れなかったり。

「ご迷惑でなかったら・・・近いうちにお邪魔させて頂きますね」

 それが本当に嬉しそうな笑顔だったから、ぼくもつられて嬉しく感じながら頷いた。
 外はしとしとと雨が降っていたけど、なんとか楽しいランチタイムを過ごせそうだった。

・Master-03

 今日は土曜日。綾峰さんから「大事な話があるの」と呼び出され、またもあの豪邸へと向かってるところ。
 でも、『お話』の内容は、教えてもらえなかった。
 別れ話でないと信じられるくらいには自惚れられるけど、かといって推察できるほど情報がある訳でも無し。不安が30%、期待が70%って感じ。
 誕生日はお互いにまだ先のはずだし、ナニカの記念日って事もなさそうだし。
 そんな事をつらつらと考えながら、ぼくは綾峰さん家に向かった。

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 ここまで広いと、ぼくみたいな庶民には現実感が無くて、羨ましいとか妬ましいとか思う前に、ほぇええええと感嘆の声を上げるしかないワケで。

「でも、お掃除なんて大変なんですよ?一人でしたら、一ヶ月くらいかかっちゃいそうですもの。自分の手に持ちきれない宝物って、実はただのお荷物って気が・・・」

 応接間で、綾峰さんと向かい合って、紅茶などを嗜みながらの会話だ。穏やかな表情で話す綾峰さんは、その顔に苦笑めいたものを浮かべていた。
 でも、やっぱりぼくには実感がわかない。狭い部屋にいかに効率良く漫画やプラモデルを置くか、なんて事だったら良くわかるんだけどね。

「『大は小をかねる』って言うけどね。でも、確かにここの掃除なんて想像もしたくないなぁ」

 ぼくが周りを見回しながら言うと、綾峰さんがくすくすと笑った。

「オトコノコって掃除が苦手だから、しょうがないかも」

 そう思ってくれるとありがたい。
 ぼくがずぼらだとか、片付けが下手だとか、ぼくの部屋を見た時に思わないで欲しいから。そう思ってから、ふとその意味に気が付いた。綾峰さんを家に招待するってコトは、家族に『恋人』って紹介するってコトじゃないか。想像すると、それは多分に気恥ずかしいコトなのでは・・・。うわ、想像しただけで頬が熱を持つのが感じられた。

「ね、ご主人様の隣に行ってもいいですか?」

 ぼくが一人で赤くなってるのを見て、なにを思ったのか綾峰さんがそう言った。言葉こそ質問の形式を取ってはいたものの、綾峰さんはぼくの返答を待たずに立ち上がった。

「う、うん・・・って、ええっ!」
「うふふ、ごろん♪」

 てっきり隣に座ると思ってたから、ぼくは綾峰さんの行動に驚きの声を上げてしまった。だって、ぼくの足元にぺたんって座って、頭をぼくの太ももに預けられたら、誰だってびっくりすると思うし!

「ん、ご主人様の匂いがする・・・」

 酷く甘えた口調で言われた日にはもぉ、ぼくはどうしたらいいんでしょうか。焦りまくる思考が空回りして、ぼくはカチンコチンに固まったまま、畏まって座ってた。
 ぼくの動揺など知らないとばかりに、綾峰さんは頬をぐりぐりと腿に擦り付けたり、抱き枕みたいに腿を抱え込んだりと、楽しんでいらっしゃるご様子。今にもゴロゴロと喉が鳴りそうなほど、嬉しそうに見えた。

 ――なんだかなぁ

 綾峰さんの嬉しそうな顔を見ただけで、ぼくまでこんなに幸せになっちゃうのって、なんだか単純すぎるんじゃないだろうか。でも、どう取り繕ってもこの幸せな気持ちは、隠しようが無いものだから。理由は簡単、ぼくが綾峰さんにベタ惚れだから。惚れた弱み、ご愁傷様です。
 ぼくは手を伸ばして、さらさらと手触りのいい綾峰さんの髪に触れて、指先で弄ぶようにくしけずる。頭を撫でるのと、髪を弄るのを同時に行うと、綾峰さんが悪戯っぽい上目遣いでぼくを見上げた。キラキラと輝くような瞳に、ぼくの目は釘付けになる。もしも腿に綾峰さんの重さを感じていなかったら、誘われるように顔を寄せてしまったのではないだろうか。魅力的・・・いや、そんなありふれた言葉では表現しきれないような、酷く吸引力のある目だ。

「ね、お願いがあるの・・・」

 まるで空気を震わせるのを恐れているような、吐息混じりの微かな声。
 いまこのタイミングで言われたら、断れる訳が無い。
 ぼくも、この空気を壊すのが怖くて、声を出さずに小さく顎を引いた。それだけでぼくの思いが綾峰さんに伝わって、彼女の笑顔が深くなった。

「私の催眠術・・・受け入れて欲しいの・・・」

 一瞬、何を言われたのか、判らなかった。きょとんと見返すぼくに、綾峰さんは言い辛い事を告白するみたいに、こきゅっと咽喉を鳴らせてから口を開いた。

「あのね・・・澪や兄さんが身近で気が付かなかったけど、『普通』の人って『ご主人様』じゃないのよね。だから、佐原くんがどうして戸惑うのか、判らなかったの」

 それは、方向を変えただけで、ぼくがずっと悩んでいた事。
 綾峰さんは、どうしてぼくに『ご主人様』という属性を求めるのか・・・ずっと判らなかった。それは、どうしてぼくなのかという以上に、不思議で不可解だった。

「だけど、もう私は変えられない。・・・多分、無理に変えても、どこかに負荷が出るだけだと思うの。だから、佐原くんに私の所まで来て欲しい。そうしてくれたら、私の全部をあげるから」

 ずっと、言おうと思っていたことなんだと思う。綾峰さんはぼくに『お願い』と言いながら、酷く迷いの無い、まっすぐな瞳でぼくを見詰めている。

「それが、催眠術なの?」

 知っているのに、酷く言い慣れない言葉のように、ぼくは聞き返した。多分、冗談として笑い飛ばすという選択肢もあったろうし、一言で拒絶するのもアリだと思う。けど、今のままで綾峰さんとの間の微かな不協和音を感じていたぼくには、とても魅力的なお願いに聞こえた。

「うん・・・なんていうのか、危険なことじゃないの。ただ、普段とちょっと違う考え方とか行動を取れるようになるだけで、例えるなら、お酒を飲むとつい気が大きくなるとか、そんな感じなの」
「普段とはちょっと違うけど、ぼくはぼくのままって事?」

 コクリと、綾峰さんはぼくの腿に頭を預けたまま、小さく、けれど確かに頷く。

「・・・」
「・・・」

 逡巡は一瞬。けど、どこかすがるような感じの綾峰さんの目を見て、ぼくは思わず頷いていた。
 後悔するかも知れない。
 傷付くかも知れない。
 けど、できる事があるのなら、やってみたかった。
 惚れた弱み、だね――諦めにも似た、だけどどこか晴れ晴れとした気持ちで、ぼくは心の中で呟いた。

・Master-04

 ぎゅっと抱き締められる。けど、強く圧力が掛かるんじゃなくて、優しく包み込まれる感じ。
 綾峰さんの、甘い匂いがぼくを包む。
 触れ合った服越しの胸から、綾峰さんの鼓動が伝わる。

 トクン・・・トクン・・・トクン・・・。

 少しだけ速く感じるのは緊張しているからだろうか。
 ああ、ぼくの鼓動も、少しだけ速いかも。
 緊張しているワケじゃないのに、不思議な感じ。
 こうして綾峰さんと抱き締めあってるのに、興奮するんじゃなくて落ち着くなんて、そっちの方がおかしいのかな。けど、春の日の午後にも似て、まどろむような、そんな気持ちよさと倦怠感が全身を包んでる。思わず・・・眠っちゃいそう。

「ね、私の鼓動・・・感じてる?」
「・・・う・・・ん・・・」

 のろのろと、意識を綾峰さんの鼓動に向ける。
 鼓動は目じゃ見えないから、瞼を閉じた。
 鼓動は耳じゃ聞こえないから、何も聞こえなくたって、いい。
 ただ、暖かい空気に包まれて、柔らかい鼓動を受け止める。

 トクン・・・トクン・・・。

 さっきよりも、鼓動が緩やかになった気がする。
 綾峰さんの鼓動に合わせるように、ぼくの鼓動も緩やかになる。

 トクン・・・トクン・・・。

 いつしか、ぼくたちの鼓動は一緒のリズムを刻んでた。
 どこまでも、ぼくと綾峰さんの境界が不明瞭になって、けど、それが幸せで。

「・・・・・・」

 綾峰さんの声が、聞こえる。
 何を言っているのか判らないのに、それがぼくの心に染み込んでいくだけが判る。
 夢の中のように曖昧なのに、どこか確信と実感がある。
 不思議じゃないんだ。
 きっと、これはそういうもの。

 さぁ、新しい僕を始めよう。

・Master-X01

 僕は、ゆっくりと目を開いた。十分に睡眠を取った朝のように、思考も身体も充実しているのが判る。いまなら、何をするにしても、最高の効率で行える、そう感じた。
 いつの間にか、僕はソファーに座らされていたようだ。そして目の前の床には、跪いて僕を見上げる綾峰さん・・・いや、遥がいた。

「遥」

 僕の声に、ビクンと身体を震わせる。それは期待によるものだろうケド、反応としてはNGだ。

「遥は僕の奴隷だろう?なら、ご主人様に呼ばれたら、どうするのかな?」
「も、申し訳ありません、ご主人様」

 首を垂れる遥に、僕は手を差し伸べた。顎に手を添えると、目線を合わせるようにグイっと持ち上げた。

「あっ」

 驚きの声を上げながら、けれどその顔は頬を染めている。
 けど、遥の期待なんて、知らない。
 僕は、僕のしたいようにするだけ。

「遥は酷い奴隷だね。ぼくでは満足出来ずに、僕という人格を作るなんて、さ。これじゃあまるで、ぼくが遥のおもちゃみたいじゃないか」
「あ・・・ちが・・・」

 怯えたように口篭る遥。けど、その目の奥に、隠しきれない欲情の色が仄見えるのは、どういう事なんだろう。

「お仕置きしてあげる。いいね、遥」
「は・・・はい・・・ご主人様・・・」

 まだ何もしていないというのに、遥は快楽に喘ぐような顔で、僕にそう返事をした。

・Slave-01

 ご主人様が、私を見詰めている。
 いつものように、興奮と賛美のブレンドされたものではなく。
 どこか冷ややかで、まるで無機物を見るような目。

 ――あ

 秘所が濡れるのが感じられた。
 何もされていないのに、身体中が熱い。
 乳首も硬くなってカップの内側で擦れてるし、全身が敏感になって、今にも力が抜けてしまいそう。

「まずは、服を脱いで。全部だよ」

 そう命じながら、ご主人様はソファーの上で脚を組んだ。それ以上動く様子も無く、私を冷ややかに見詰めている。私は「はい、ご主人様」と返事をしてから、身に纏ったものを脱ぎ始めた。
 ご主人様に見て頂く為の、白いリボンが可愛くてお気に入りの水色のワンピースを脱ぐと、純白でフリルをあしらった下着が晒される。上下お揃いで可愛らしいのだけど、上目遣いでちらっと見たご主人様の表情は、特には変わらなかった。
 モノを見るような、感情の窺えない目。
 佐原君の顔で、佐原君の目なのに、こうまでも違う。
 酷く性的に興奮しているのに、心の片隅で大事なものを無くしてしまったような寂しさを感じて、その矛盾に呆れた。

 ――自分で、そう願ったというのにね

 小さく苦笑して、前屈みの姿勢でブラのホックを外し、ブラをその場に落とした。興奮に張った乳房が、開放感に震える。それほど大きくは無いけど、形良くツンと上を向いた形は、秘かに私の自慢。ご主人様に見られている・・・そう思うだけで、乳首が痛いほど硬くなった。

「ん・・・」

 次いで、ボトムがすっかり濡れてしまっているパンツを、サイドから指を挿し込んで下ろした。つぅっと愛液の糸が秘所とパンツを繋いでいるのが見えて、羞恥に顔が熱くなった。

「全て・・・脱ぎました、ご主人様」

 私は、全身を余す所無くご主人様に晒しながら、秘所から溢れた愛液が、腿の内側を伝うのを感じた。

・Master-X02

 僕の目の前で、遥が全てを預けるように全裸になった。全身が発情しきっている。指先で軽く突いただけで、小さな絶頂に辿り着くんじゃないだろうか。
 力が入らないのか、カクカクと震える足を、愛液が伝っている。本当なら今すぐにでも挿入して欲しいのだろうに、自分からおねだりしない所は良く出来た奴隷だと思う。
 けど、今はお仕置きの時間だよ。

「じゃあ、頭を僕の左手の方に、お尻を僕の右手の方に向けて、僕の脚の上で四つん這いになるんだ。・・・そう、そんな感じ」

 従順に言われた通りの姿勢を取る遥に、僕はご褒美とばかりに、胸をぎゅっと掴んだ。

「うああっ!」

 愛撫なんて優しいものじゃない、ただ玩具をこうしてみたくなった、そんな一方通行で勝手な行為。けど、遥は苦痛の中に快楽のようなものを見い出しているみたいだ。我慢するだけとはどこか違う、甘い感情の混ざった表情で僕を見上げている。
 なら、続けよう。
 僕は、ぼくと同じ笑顔を浮かべて、遥を見下ろした。遥は一瞬驚いたような顔をして、それから蕩けるような笑みを帰してきた。その、瞬間に合わせた。

 パァン!

 掌で、遥のまろやかな曲線を描く尻を、強めに打ち据える音。突然の事に遥は声も無く仰け反ろうとするけど、胸を掴んだ左手が、それを許さない。

 パァン!

 僕も掌に、拍手をし過ぎた時みたいなジンジンする痛みを得たけど、止まらない。いや、止めてあげない。小さく呻く遥の表情を愉しみながら、何度も右手を揮い続けた。
 何度叩いただろう。遥の尻が赤く染まり、そこだけが熱を持ったように熱くなった頃、遥の様子に変化が発生した。

「んくぅ・・・んっ・・・あぁ・・・ふっ!」

 まるで軟体動物のようにくねくねと、その染み一つない背中をくねらせている。紅潮した顔は、絶頂の寸前のように笑みに似た表情を浮かべている。声だって、打たれた瞬間は鋭い呼気を吐くものの、その直後に甘い喘ぎを漏らしている。
 間違いない。遥は尻を打たれて、快楽を感じている。
 普通の女の子なら苦痛に泣き叫ぶところが、遥はまるでそれが愛撫のように受け止めたんだ。
 僕は遥の耳元に唇を寄せて、半分意識が飛んでいるような状態の遥に囁いた。

「まさか、感じてるの、遥?」

 僕の問に、遥は何度も首を上下に振った。それから、だらしなく開いた口で自分の状態を説明する。

「あぁ・・・お尻がじんじんして・・・ふあ・・・すごく、あついんです・・・。はぁ・・・それと・・・打たれたときに・・・おなかの奥のほうまで・・・びりびりって響いて・・・あたま、まっしろにぃ・・・はぁあ・・・」

 うわ言めいた喘ぎ混じりの言葉で、遥はいかに自分が感じているかを口にした。それだけ言う間も、なよなよと尻を動かしている。多分、赤くなるまで打たれた尻が、いまだに遥に焼けるような快楽を与え続けてるんだと思う。ある意味、イキっぱなしだった。

「今日はこのまま、前でするよ。後ろは今度・・・ゆっくりしてあげる。さぁ、どんな恥ずかしい格好で入れて欲しい?犬みたいに四つん這いでもいいし、犯されるみたいに後ろからでもいい。決めさせてあげるよ」

 遥は潤んだ瞳で僕を見上げて、「あぁっ」と感極まったように声を上げた。それからいそいそと床に下りると、備え付けのテーブルにうつ伏せ気味に手を付いた。お尻は僕が入れ易いようにだろう、くいっと突き出されている。

「うしろ・・・うしろからおねがいします。めちゃくちゃに、してくださいっ」

 僕の方に顔だけ振り向かせながら、甘えるような声でねだった。
 何度も叩かれて、赤く腫れ上がったお尻。僕はそれを指を突き立てるように握って、ズボンを下ろして出したモノを、遥のぐちょぐちょに濡れそぼった秘所に挿入した。

「ひぁあっ!」

 しっとりとした髪を振り乱し、遥が高い声を上げた。
 僕のものを包み込む粘膜は、襞が自身で蠕動するような動きを見せる。遥の気持ちを代弁するように、引き抜く時は絡まり、突き入れる時は奥まで引き込もうとする。そこだけが、まるで遥とは違う、別の生き物みたいだった。

「くっ」
「ひゃんっ!」

 少しだけ感触の違う場所――Gスポットだろうか――に僕の先端が擦った瞬間、思わず射精してしまいそうな快感が、僕の背中を駆け抜けた。遥も同じように快感を得ていたらしく、テーブルに突っ伏すようにビクンと震えた。
 でも、まだ終わらせるワケにはいかない。
 もっと、泣かせてあげる。
 短い喘ぎを断続的に漏らし、絶頂が近い事を訴える遥に、僕は動きを緩やかに変えて、耳を愛撫するように意地悪く囁いた。

「遥、イキそうなの?」

 瞬間、ビクビクッと身体を震わせ、遥は泣きそうな顔で頷いた。

「イキたい?」
「イキたいっ!イキたいよぉ!」

 僕の問に、またもビクッと身体を波打たせ、叫ぶように答える。
 でも、僕は腰の動きを速くしてはあげない。

「僕がイクまで、イッたら許さない。絶対に我慢するんだよ、いいね?」
「ひぃんっ・・・そ、そんな・・・ああっ」

 ゆっくりの抽送でも、遥は貪欲に快感を貪っている。けれど、僕から命じられた事を破る事も出来ず、悩乱したように歯を噛み締め、頭を振りたくっている。まるで、声を出したらイッてしまうと信じているようだ。
 遥の様子を愉しんでいると、僕の中にもだんだんと射精感が高まってきた。押さえる事は出来そうだけど、これ以上遥を焦らしても可哀想だし。

「もう少しで僕もイクから、そしたら遥もイクんだ」
「・・・っ、は、はいっ!あっ、あっ!ああっ!イクっ!イッちゃうっ!きてっ、きてっっ!!」

 遥の中が、痛いほどにきつく締め上げてくる。僕は快感に抗うのを放棄し、その代わりにタイミングを合わせて一番奥に突き込んだ。先端がコリっとした感触に当たるのと同時に、全ての精液を遥の中に叩き込んだ。

「くっ!」
「ひゃふっ!あ、かっ・・・ぅああああ゛っ!」

 絶叫に近い悲鳴を上げ、遥が絶頂に達した。今まで我慢していたからだろうが、その分深く達したようで、暫く硬直したように仰け反り、それから「はぁ・・・ん・・・」と呻くとテーブルに倒れ込んだ。今度は逆に、身体中の骨が無くなってしまったかのように脱力して、時折ひくひくと痙攣している。それなのに、秘所だけがいつまでも僕を離そうとせず、精液を最後の一滴まで吸い取ろうとしているみたいだった。

「ふ・・・ふふっ・・・あははははは」

 僕は、生まれ変わったかのような爽快感に、笑いを抑え切れなかった。
 意識を失くしたままの遥を前に、僕はいつまでも笑い続けた。

・Master-05

 ぼくは、ゆっくりと目を開けた。
 こころを落ち着けて、深呼吸をする。

 ――うん、大丈夫。覚えてる、ぜんぶ

 服も着ているし、まるでさっきのは夢の中の出来事みたいに感じるけど。
 でも、あれは本当にあった事。
 この右手にも、痺れるような痛みが、あれは現実だったと主張している。

「おはようございます、ご主人様」

 ぼくの目の前には、幸せ絶頂な感じの笑顔を浮かべてる綾峰さん。なんて言うか、接触しただけで幸福感が感染しそうだった。まさにエボラウィルス幸福バージョン。高感染率、高致死率(死なないけど)で、誰も敵わなそう。

「ご主人様、お加減はいかがですか?頭が痛かったり、記憶に障害があったりとかしません?」

 聞きながら、それは無いと確信しているんだろう。綾峰さんの鉄壁の笑顔は、破綻の欠片すらも見当たらない。

「うん、ちょっと疲れたけど・・・これはしょうがないよね」
「はい」

 語尾にハートマークが付きそうな感じで、綾峰さんが頷く。
 気のせいかも知れないけど、綾峰さんなんだか肌の艶がさっきよりも良くないでしょうか。もしかして、ぼくって精気を吸われた?吸われまくった?

「うふふ」

 コワい想像で頭が一杯になってるぼくに、綾峰さんが嫣然と微笑みながら近付いてきて、ぼくをきゅっと抱き締める。甘えるようにぼくの頬に口を寄せて、ちゅっと音を立ててキスをする。なんだかもう、やりたい放題だった。
 けど、前よりも距離が近付いたみたいに感じて、ぼくもまんざらでもなかった。
 ふんわりとした甘い綾峰さんの匂いに包まれて陶然とするぼくを、くすくすと笑いながら綾峰さんが見詰めている。
 何故だか、次に綾峰さんが何を言うか、耳で聞くよりも早く、心で強く感じた。

「ごしゅじんさま、だーいすきっ」

 ――ほらね

 嬉しそうにキスの雨を降らせる綾峰さんを受け止めながら、ぼくは頬が緩むのを押さえ切れなかった。
 普通でない関係、おおいに結構。
 こうなったら、二人で誰よりも何よりも、究極に幸せになってみせるから。
 誰にとも無く、心の中で呟いた。

 ――乞う、ご期待っ!

< 終わり >

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