(4)屈辱
その日、諒子は帰宅するなり、何か違和感を覚えた。
学校では殆ど教職員全員を敵に回しての激論を戦わせてきたところだった。
ようやく健志と連絡がとれた学年主任達は直ぐに諒子を引き連れて謝りに行こうとしたのだが、それを諒子がきっぱりと断ったのだ。
昨日までは大人の判断として健志に頭を下げるポーズをしても良いかなと思っていたのだが、京子の手紙を読んでしまった今、もうそれは出来なかった。
一切の妥協を排した徹底抗戦あるのみだった。
「石田先生・・・。あなた、昨日は謝りに行くって同意したじゃないですか」
学年主任が困りきった表情で言う。
「あら、どうして私達が謝るんです?私はてっきり黒岩君が謝りに来るもんだと思ってました」
「何を言っているんですかっ。あれは冤罪だって・・・」
「誰がそんなことを?」
「私が申し上げたでしょ。あれは前期の試験の・・・」
「見せてください。私が取り上げた年表と、前回の試験と今回の試験の問題を」
「えっ?!・・それは・・・どこに保管したかなぁ」
諒子が昨日の態度を一変させたため、主任達は慌てた。
そのうえ諒子の本気になった時の眼光は凄まじく、たとえ理屈では反論できてもそれを諒子に受け入れさせることは誰にも出来なかった。
結局、諒子を除いた主任と担任と歴史教師が謝りに行き、この場を収めることになったのだった。
黒岩家に行く道すがら、3人は戦々恐々としてた。
肝心の諒子が来ないばかりか、敢然と反旗を翻しているのだ。健志の叱責は目に見えている。それどころか、理事長本人が居るかもしれないのだ。
理事長の逆鱗に触れるかと思うと、3人とも生きた心地がしなかった。
しかし教師達の心配は杞憂に終わった。
状況を報告すると、健志は軽く頷いただけだったのだ。
「ま、そんなところだろうな。あの女がしおらしく謝りに来たら、こっちが驚いちまう」
健志のその態度で教師達はほっと一息吐いた。
「とにかく私の指導力不足で、“若”には大変ご迷惑をお掛けしました。帰ったら、厳重に言い聞かせますから」
「いや、そんな事しなくて良いよ。ほっといても近いうちに素直になると思うからさ」
健志はそう言うと小さく笑った。
既に罠は完成している。
京子に子供が生まれたその日が、諒子の最後の日になるのだ。
今さら部外者に邪魔されたくはなかった。
「はっ・・そうですか・・・かしこまりました。それで、“若”はいつから出席されますか」
「そうだね・・・明日は行こうかな」
生意気な諒子の最後の姿を見ておくのも悪くないな・・・健志はそう思い、もう一度ニヤリとした。
そんなことが有ったため、結局諒子は帰ってきた主任達からの叱責は免れたのだが、代わりに同僚の教師達からの無言の非難を浴び続けることになった。
しかし諒子は昂然と面(おもて)をあげ、その視線を跳ね返していった。
臨戦体勢といった雰囲気が、諒子の中に居る戦いの女神を目覚めさせ、逆にその輝きを増大させていったのだ。
体中に気力が充実していた。
そのせいかもしれない。帰宅した時に、何かいつもと違う小さな変化に気付いたのだ。
「ただいま。美紀・・・居ないの?」
その声に、風呂場から美紀が姿を現した。
「おかえり・・・お姉ちゃん」
諒子はその美紀の顔を見て、少しだけ違和感を感じた。しかしそれが何であるか・・・諒子はその時は気付かなかった。
「遅くなって御免ね。ご飯先に食べた?」
「え・・・?あぁ・・うん、食べた」
「そう。じゃ、私もすぐ食べちゃお。美紀は先にお風呂入っちゃってよ」
「・・・うん」
美紀はそう答え風呂に行きかけて、もう一度振り向いた。
「・・・あの・・・お姉ちゃん・・。なにか・・・私に話しは無い?」
「え?何、いったい・・・」
諒子はちょっと驚いて訊き返した。
美紀はそんな諒子の顔をじっと見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「ううん。無いんならイイ。私、先寝るわね」
諒子に背を向けると、美紀は自分の部屋に入っていった。
そして二人の運命を決定付ける事件は、その翌日に起きてしまったのだった。
健志は自分の言葉どおり、2日ぶりに登校してきた。
既に教師達の情報操作で、健志の事件は冤罪だったという結末が生徒達の間にも広まっていて、健志に不快な思いをさせるリアクションは皆無だった。
全てが以前のまま、健志の校内のステイタスに些かの翳りも無かった。
しかし廊下で偶然出会った諒子の視線だけは、健志をして背筋が寒くなるような気分にさせた。
(ちっ・・・相変わらず可愛げのねぇ・・・。すぐに後悔させてやるからな、その生意気な態度をっ)
しかし健志の校内でのイベントは、今日はそれだけだった。
あとは退屈な授業を受けるだけ。
諒子襲撃計画を前にして、ぽっかりと平穏な日常が出現していたのだ。
放課後を迎え、剣道部に顔を出そうと考えたのは、そんな退屈が原因だった。
カシーン・・・カシーンッ
広い武道場の中を竹刀のぶつかり合う音が響いている。
健志が入っていくと、練習中の部員達が次々に挨拶をして来た。
健志はそれに軽く応えながら、控え室のある奥に向っていった。
ちょうどその手前で女子部員が練習している。
その中で一人、健志の目を引く存在がいた。
(あれは・・・たしか・・・)
女子部員にフォームを教えてもらいながら素振りをしているその面影・・・健志の肉欲と憎悪を一身に集めている石田諒子の分身、美紀であった。
髪をポニーテールに纏めて真剣に竹刀を振る様子を見ているうちに、健志の中に新たな欲望が膨れ上がってきた。
(へへへ・・・中々カワイイじゃねぇか。ちょっと誘惑しておいてやろうか・・・。姉貴は強姦に継ぐ強姦で、ボロボロにして、妹は弄んで捨てるってのもいいかもな)
健志はキラリと目を光らせると、爽やかな仮面を被り美紀に近づいていった。
「きみ、なかなかスジが良いね。フォームが綺麗だ。ちょっと僕の相手をしてみない?」
健志にそう話し掛けられたのは、美紀がひと休みをして、タオルで汗を拭っている時だった。
勝気そうな瞳が健志を見上げる。
しかし口元には悪戯そうな笑みが浮かんでいた。
「え~、先輩がぁ、お相手してくれるんですかぁ?」
雰囲気にそぐわないのんびりした気の抜けたような声で美紀が応えた。
「ああ。君は上手くなるよ。一目見て判った。ただ、ちょっと打ち合ってみないと、癖とかが見えてこないから、僕と一戦してみない?」
これは健志の常套手段だった。
やさしい雰囲気で女子部員を誘い、手合せの時には少し強い口調で指示し、最後にもう一度優しく労わる。
この手管に、爽やかなマスク、そして校内のステイタス・・・健志の狙った獲物で逃した相手は少なかった。
「わぁ~、ありがとうございますぅ。先輩に指導していただけるなんて、感激ですぅ」
美紀はそう言って、急いで防具を付けた。
一方、健志はまだ着替えもしていない。制服のままだ。
「先輩、着替えはされないのですかぁ」
「ん?僕はいいよ」
「え~、でもぉお怪我なさったら、大変ですよぉ。絶対つけるべきですぅ」
「ははは・・・。大丈夫だって。伊達に3年間主将を務めてないよ。僕に遠慮しないで思いっきり仕掛けておいで」
健志はそう言って、余裕で応えた。
「本当に良いんですかぁ」
「OK,OK。さ、始めよう」
「わかりましたぁ。それではおねがいしまぁす」
美紀はのんびりとそう言うと、中央で健志と向き合った。
正眼で構える健志。そしてそれに上段で向う美紀。
健志は余裕で踏み込もうとした。
しかし美紀の目を見てその足が止まった。
(なにっ)
さっきまでののんびりした口調とはかけ離れた、冷徹な眼光。
射すくめられたように足を止めた健志に対し、美紀は一歩踏み込んだ。
(なんなんだ、こいつっ)
健志は本能的に一歩退いた。
しかし、その自分の動作に自分で腹を立てた。
(女子部員のくせにっ)
ムキになって健志は間合いを詰めた。
すると、まるで潮が引くように後退する美紀。
健志はその様子を見て自信を深めた。
(そうだ、女相手に俺がさがるなど不必要だっ。攻めるのみっ)
そして更に間合いを詰めようと健志が踏み出した瞬間だった。
まるで鏡のように美紀も間合いを詰めて来たのだ。
“あっ”と思った瞬間、健志の眉間で美紀の竹刀がピシッと音を立てていた。
一瞬、呆然とする健志・・・
まるで力を込めない一撃だったため、健志に肉体的ショックは無い。しかし・・・
「やったぁ。先輩から一本とっちゃったぁ」
目の前で無邪気にはしゃぐ美紀を見ていると、むかっ腹が立ってきた。
しかし、他の部員もこの騒ぎに注目している。
大人気ない態度は取れなかった。
「ははは、まいったな。油断、油断。でも、きみ、なかなか良いセンスだよ」
健志は爽やかな仮面を付け、笑顔を振りまいた。
「え~、本当ですかぁ。うれしい。ありがとうございましたぁ」
美紀がそう挨拶するのを、健志は遮った。
「じゃ、2本目いこうか。今度は油断しないよ」
そう言って、自分から開始線まで移動した。
黒岩のプライドが女に勝ち逃げなど絶対に許さないのだ。
「え。もう一本ですかぁ。判りました。よろしくお願いしますぅ」
美紀もひょこひょこと移動し、再び健志に相対した。
既に正眼に構えている健志。
そして美紀がゆっくりと構えるのを、何気なく観察している・・・風を装っていた。
もう遠慮をするつもりは無かった。
上段に構えた瞬間に、油断した喉元に必殺の突きを繰り出し、生意気な女を吹っ飛ばすつもりだった。
(所詮、諒子の妹だ。姉貴の分まで味あわせてやるぜ。こういった『事故』は剣道では偶に有るモンだよ、お嬢さん)
わざと視線をずらし、美紀の油断を誘う。
そしてさり気なく周りを観察した。
OK、注目している者は居ない・・・
健志の口もとが小さくめくれあがった。
そんな思いを知らず、美紀は先ほどと同じ上段に構えたのだった。
だんっ!!
その瞬間、床を踏み鳴らす程の出足で、健志の竹刀が一直線に美紀の喉下に伸びていった。
しかし美紀は、何の反応も出来ないようにピクリとも動かない。
勝利を確信した健志は、恐怖に歪む美紀の顔を求めて防具の隙間に視線をあてた。
しかし、そこに見たものは・・・
人形のように整った滑らかな肌、誘うような赤い唇、そして・・・人を寄せ付けない峻厳な瞳
(諒子・・・?)
ほんの僅かな時間のうちに、健志は奇妙なデジャブを感じた。
そしてその一瞬の幻が健志を幻惑した!
健志の竹刀が美紀の喉に突き刺さるその一瞬、健志は確かに見たっ、まるで陽炎のように美紀の体が透きとおり、消えていくさまをっ!
(きっ、消えたぁっ!)
美紀の喉を貫く手ごたえを計算に入れていた健志は、まるで空気のような手ごたえの無さに完全にバランスを崩し、前方へ倒れこむような体勢で泳ぐように駆け抜けていった。
しかし健志の視界から一瞬にして消え去った美紀は・・・、健志が倒れこむような姿勢で走り込む、その真横に居たのだった。
奇跡のような動体視力と、反射神経そして体捌きである。
そんな美紀の目の前を健志の後頭部が無防備に晒されたまま、通り過ぎようとしている。
その一瞬っ、美紀の瞳に青白い稲妻が走ったっ!
「はっ!!」
声にならない気合が、息吹が口から漏れ、美紀の全ての体重を乗せた竹刀が、一直線に健志の頚骨を叩いたのだっ!
びだんっ!!
聞きなれない異音と重い振動に武道場の全員が練習を中断し、振り向いた。
そこに見えたもの・・・、それは竹刀を放り投げ“きゃぁっ”と飛び退く美紀と、その横に聳え立つ奇妙なオブジェであった。
真っ黒いオブジェが床に斜めに立っている・・・、視覚が捉えた映像を脳が認識するまでの僅かなタイムラグ、その間、その場の部員達は、不思議なものを見るように“それ”を眺めていた。
そして、オブジェの上半分がゆっくりと2つに分かれ、それが人間の足であると認識した途端、その情景を脳は正しく把握した。
顔面から床に突っ込み、その勢いで倒立してしまった人間の姿だったのだと・・・・・・・・・
大騒ぎになった。
*
結局、美紀が自宅に帰りついたのは、7時をまわっていた。
まさに『蜂の巣を突付いたような・・・』という表現以外、言い表せない状況だったのだ。
武道場中の部員が駆けつけ、完全に気を失っている健志を取り囲み、部長と、主将と、女子部主将が言い争いを始めた。
「早く助け起こせっ!」「ダメだ、動かしちゃ!」「手当てをしないとっ!」「救急セットはっ?」「医務室に」「馬鹿ッ、救急車だ」「それより先生に」「いいから早く救急セット!」「誰か先生を呼びに行ってっ」「きゃぁ、陽子っ、何?貧血?」「うわ、こっちもだ。おおい、担架、この子、気分悪いって」「馬鹿、イイから早く救急車だっ」「おおい、血だ、血だ、うわっ、広がってるっ!!」・・・・
まるで時間の無駄の典型のような会話が延々と続き、たまたま武道場にやって来た教師が事態を知ったのは10分もしてからだった。そして、この馬鹿騒ぎは、メンバーを一新して再び繰り返されることになったのだ。
事態を知った教師が血相を変えて職員室に飛び込むと、大声で叫んだ。
「た、大変だっ!く、黒岩君が剣道で大怪我をしたっ!」
その声で武道場に集結した、校長、教頭、そして学年主任。
血溜まりのなか、うつ伏せで倒れている健志を発見した3人が叫ぶように言い出したのだ。
「早く助け起こせっ!」「ダメだ、動かしちゃ!」「手当てをしないとっ!」・・・
救急車が栄国学園の敷地に到着したのは、事件発生から30分以上も経ってからだった。
そして学校の主だったメンバーは我先に救急車に同乗し、あるいはその後を車で付いて行き、病院の待合室で患者達の顰蹙を買うことになったのだった。
そして、ようやく事態が沈静化してきたのは手当てをした医者から健志の様態を聞かされてからだった。
「命に別状はありません。しかし、鼻骨は砕けていて、当分は入院が必要でしょう。おそらく人工骨を埋め込むことになると思いますよ。それ以外は、前歯が上下とも4本折れていますね。その影響で口内が数箇所裂傷を負っていますが、大きな傷ではありません。なお、心配されていた頚骨や頭部への影響ですが、レントゲンで見た限りでは特に問題はないようです。数日後にはCTの結果がでるので、それで最終的な判断が下せると思います。なお当人の意識は既に回復してます。軽い脳震盪だったようですね。ただし、今晩は面会は差し控えてください」
医者は事務的にそう伝えると、すぐに次の患者の治療に戻っていった。
結局、この場には校長と教頭が残り、後で来る予定になっている黒岩剛を待つことになった。
気が重い仕事では有るが、こればかりは他人には任せられない。万が一、剛の機嫌を損ねるような事が有れば、校長といえどもその職を追われる事は必至なのだ。
一方、学校に戻った方の任務は、事故原因の追求である。
その任は学年主任の江田が行うことになった。ここでも想いは一緒である。事故の原因を突き止め、その責任を負う人間を特定し、黒岩に差し出さねば、自分の首が危なくなるのだ。
早速武道場に待機させていた生徒達に話しを聞き始めた。すると、のっけからうってつけの名前が飛び出してきたのだ。
「なに?石田?石田美紀かっ、2Bの」
江田の目がキラリと光った。
(これ以上ないような、キャスティングじゃないか。これをネタにあのクソ生意気な新米教師にねじ込んでやれる。上手く黒岩さんに報告できれば、最高のスケープゴートじゃないかっ!)
江田は緩みそうになる口元を手で隠しながら周りを見渡した。
「石田っ!石田は居るかぁ?」
すると生徒達の人垣が割れ、後ろから美紀が姿を現した。
「石田っ!お前、なんて事をしたんだっ!!」
美紀が口を開くより先に、江田は一喝した。
美紀は、目を真ん丸く開けてビックリした表情で江田を見た。
(教師もヤクザも同じ。一発かましてビビらせてしまえば、後は簡単なのさ)
江田の常套手段だった。
「お前、相手は大怪我したんだぞっ。いったいどうやって償うつもりだっ!」
カサにかかって言い倒そうとし始めたとき、急に横槍が入った。
「違います。美紀ちゃんの所為じゃ有りません」
女子剣道部の主将、田中知美だった。
「ち、違うとはどういう事だ。黒岩くんは、石田と対戦して大怪我したんじゃないかっ」
「事故です。単なる事故なんです。それも、公平に見て、不注意なのは先輩の方でした」
知美は冷静に話し出した。
事故から既に2時間も経っている。その間、武道場に待機を命じられた生徒達は、その時間を利用して事故の原因追求を既に行っており、もう結論は出ていたのだった。
「田中の云うとおりです。黒岩先輩は自分の意志で防具を付けなかったのです。石田は先輩に防具を付けるよう云ったんですよ」
剣道部の部長が更に付け加える。
「しかも、石田は剣道は全くの素人なんだ。今日、偶々体験入部にやってきて、田中に竹刀の持ち方から教わっていたんですよ」
そこで、ようやく美紀が口を開いた。
「わ・・・わたし、ビックリしちゃって。先輩、急にすっごい早く突っ込んできたから、怖くなって横に避けながら竹刀を振ったら、ナンカ先輩に当たっちゃったみたいで・・・。御免なさい・・・怖かったの・・・」
おどおどした様子で下を向きながら美紀がそう口にすると、回りの生徒達の心配そうな視線が美紀に集中した。
「先生、美紀を責めるのはオカシイよ。先輩の怪我は心配だけど、でもそれは剣道部のルールを守らなかった先輩にも責任が有るんだから」
江田の思惑とは異なり、現場の生徒達には美紀を庇う意見が大勢を占めていた。
さすがに現場に居なかった江田が、現場の総意を無視して美紀を加害者に仕立て上げることは出来なかった。
内心忸怩たる思いがあったが、そうなってはここで時間を潰す訳には行かなかった。早く責任者を仕立て上げ、黒岩に差し出さなければ、自分が詰腹を切らされることになってしまうのだ。
江田は慌ててその場を後にした。
そして、ようやく武道場の生徒達は帰宅を許されたのであった。
「あ~、疲れたっ」
美紀は玄関で靴を脱ぎながら、脱力感を感じていた。
しかし、奥から出てきた諒子の顔を見て、慌てて気を引き締めた。
「美紀・・・。ちょっと来なさい」
厳しい表情で美紀に一瞥をくれると、諒子はリビングの扉を開けた。
「どういうつもり?」
美紀を正面に座らせると、諒子は美紀を見つめて問い糾した。
「え~・・とぉ、あれはぁ・・・偶々おこった事故なんですぅ」
美紀が気の抜けた声で応えると、諒子の視線が更に厳しくなった。
「真面目に答えなさいっ!どうして貴方が剣道部に居たのっ」
机をバンと叩いた。
すると美紀の表情から、先ほどまでのとぼけた雰囲気が拭い去られていった。
「体験入部ってやつよ。知美ちゃんに誘われたんで、行ってみただけよ」
そう答えると美紀はぷいっと横を向いた。
「この間は興味ないって云ってたじゃない。どうして急に行く気になったのっ」
「・・・別に・・・理由は無いわ。誘われて断れなかったから行ったのっ!」
「じゃあ、どうして相手に怪我をさせたのっ」
「だからっ、事故なのっ!そう言っているじゃないっ!」
「・・・そんな嘘が通用するとでも思っているの?」
諒子の口調は徐々に穏やかになって来た。しかし、視線の鋭さは先ほどの比ではなかった。
諒子が試合のときにのみ見せる静かな圧力が瞳に漲っていた。
さしもの美紀も視線を合わせていられなくなった。
悔しげに視線を逸らせた。
「あたしは・・・間違っていない・・・」
「何を言っているんですかっ!貴女は、剣道を一体何に使ったのっ!武道を一体なんだと思っているの!」
諒子は再び机を叩いた。
しかし、それでも美紀は怯まなかった。
視線を上げると、諒子の視線を真っ向から受けてたったのだ。
「私は間違っていないっ!ケダモノを退治するために竹刀を振るって何が悪いのっ!腐った根性の毒虫は踏み潰すしか無いじゃないっ!」
美紀は両手で机を叩くと立ち上がった。
「美紀ちゃん・・・あなた・・・まさか・・・」
諒子の瞳が驚きに見開かれた。
「お姉ちゃんが、悪いのよっ!どうして私に言ってくれなかったのっ!一歩間違ったら私の友達があのケダモノの毒牙にかかってしまうかもしれないのよっ!そうなってからじゃ、遅いのよ!」
美紀は一気にまくし立てた。
「読んだのね・・・手紙を・・・」
「見たわっ!あんな・・・あんな酷い話っ・・・絶対に許せなかった!あんな奴が同じ学校にのうのうと通っているなんてっ・・・・・我慢できないじゃないっ!!」
涙を滲ませた瞳で自分をキッと見据える美紀を、諒子は痛ましい思いで見つめ返した。
美紀の心情はよく判る・・・諒子の中にも確かに美紀に賛同する気持ちが有ったのだ。
しかし・・・諒子は後悔の念にかられていた。
(何故・・・どうして美紀にこんな事をさせてしまったのだろう・・・。やるなら自分が矢面に立たなければならなかったのにっ!このままでは『黒岩』という権力が美紀に向ってしまう。何て馬鹿なマネを・・・最低な手段を取ってしまったんだろう・・・)
「美紀・・・」
諒子が静かに口を開いた。
その瞳はもう先ほどまでの怒りを留めていなかった。むしろ、静謐な透き通るような“気”を湛えていた。
「貴方のした事は、もう元には戻りません。そして貴方の動機が如何に正当であるかなどまるで関係無しに、貴方が直面しなければならなくなった事態が有ります・・・。判っているのですか、貴方は『黒岩の復讐』の標的となったのですよ」
「『復讐』って・・・、何言ってるのっ!元々の原因はっ・・・」
「そんな理屈が通用するようなら、あんな酷いマネを誰がするモンですかっ!」
美紀の言葉に被せるように諒子が断言した。
「京子さんに・・・清水先生にあれだけの事をしでかした異常者よっ。『黒岩』の権力にのぼせあがったそんな男が、貴女をこのまま放っておくと思ってるのっ?」
「冗談じゃないわっ!あんな男、いつだって相手になってやるわよっ!っていうか、相手にならないわ」
「貴女・・・まさか黒岩健志が自分で向ってくるなんて思っているんじゃないでしょうね?」
その諒子の言葉に、美紀に表情に始めて微かな怯えの表情がよぎった。
「手紙に書いてあったじゃない・・・。本当がハッタリか判らないけど、相手はヤクザも使うことを匂わしているのよ。貴方にそれをかわせるの?」
「・・・」
諒子の正面からの問いかけに、美紀は反論できなかった。
怒りに自分を見失っていた・・・美紀は始めてそのことに気が付いた。しかし・・・
「じゃあ、お姉ちゃんはこのまま何もしないのっ?京子さんを置き去りにして逃げ出すの?復讐が怖いから見て見ぬ振りをするのっ?」
その言葉に諒子はゆっくりと、しかしきっぱりと頭を振った。
「京子さんを見捨てることはしないわ。私が全ての禍根を断つつもりだったのよ。もう、あと何日かであのガキが私を招待してくれる事になっていたの。小賢しい罠を張ってね。そこで全てに決着を付ける事にしてたのよ。それが・・・」
諒子にしては珍しく溜息をついた。
「お姉ちゃん・・・自分が犠牲になって・・・」
「『犠牲』?冗談じゃないわっ!私を誰だと思ってるのっ!あのガキや、見張りのヤクザが4,5人居ても関係ないわっ。まとめて叩きのめすだけよ。その上で全ての証拠を突きつけて小賢しい『黒岩帝国』を叩き潰してやるつもりだったのっ」
美紀はそこまで聞いて、始めて自分がとんでもない失敗をしてしまったことに気付いたのだった。
この姉なら・・・諒子なら確かにそうするし、それにそう出来るだろう・・・美紀は悟った。
「わ・・・わたし・・・」
美紀は自分の失態に歯噛みした。
プルプルプル・・・プルプルプル・・・
二人の一瞬の沈黙を埋めるように、突然電話が鳴り出した。
諒子は立ち上がると、電話に出た。
「はい、石田ですが」
『・・・諒子さん・・・まだ・・・居たんですか?』
受話器の奥から小さな切迫した声が漏れてきた。
諒子の目が見開かれた。
「京子さん?京子さんね?今どこ?電話しても大丈夫なの?」
諒子の声に美紀の肩がピクンと震えた。
姉の顔を食い入るように見つめた。
『諒子さん・・・わ・・私の手紙・・・読んで頂いたのでしょうか・・・』
「・・読んだわ。全部読ませていただきました」
『あ・・あれは全部本当のことです。私のこと軽蔑されたでしょうが、でも諒子さんっ、信じてください、貴女が狙われているんですっ』
「京子さん・・・。貴女は私の大切な友人です。私は貴女を尊敬しています。貴女の勇気に敬意を表します。あんな酷い状況で・・よく私に知らせてくれました」
『やめて下さい。私には勇気なんて全然ありません。ほんと・・・少しでも、諒子さんの千分の1でも勇気があれば、こんな酷いことにならなかったのに・・・。今だって、夕方から急に見張りが居なくなって・・・それでやっとこんな時間になって電話できたんです。そうじゃなかったら・・・』
「でも、決心して電話してくれた。ありがとう。貴女の本当の優しい真心がわかります」
諒子の言葉に電話の向うで京子の小さくすすり泣く声が聞こえた。
『じゃあ・・・それじゃあ、早くっ、早く逃げてっ。あの・・あの男が怪我をしたらしいんです。ですから今なら大丈夫です。今のうちに・・』
「いいえ。私は逃げません。私が逃げ出したら、京子さんも、ご主人も、あなたの赤ちゃんも、あの男に人生をメチャメチャにされたままになってしまいます。あの男の事は私に任せてください。必ず然るべき報いを受けさせます」
諒子の落ち着いた言葉が、京子にショックを与えた。
「そ・・そんなこと、無理ですっ!あ、あ、あ・・・あの男に・・・刃向かうなんて」
「京子さん・・・落ち着いてください。そしてよく思い出して欲しいの。今は、封建時代じゃないのよ。たとえどんなに権力を握っていても、不正な行いは処罰されるの。どんな人間も法のもとには平等なの。恐れないでっ!貴女は何一つ悪いことはしていない。怯えなければいけないのは、あの男の方なのよっ!」
なんて自信に満ちた言葉なのだろう・・・京子は電話から漏れてくる諒子の声に次第に慰撫されていった。
「京子さん、私には考えがあります。別に無謀なマネをするつもりも有りません。ここだけの話し・・・私には信頼できる友人が居ます、ここの県警に。あの男の行為は犯罪そのものです、たとえ未成年だとしても。だから・・京子さん、私、貴女の許可が貰いたいの。警察が動けばきっと貴女にも辛い事があると思います。貴女にも、貴女の家族にも。でも、今のこのままで、あの男の仕打ちを一生受け続ける事を考えてみてっ。人間の尊厳を踏み躙られたまま貴女の子供を育てて行けるというのっ?」
「諒子さん・・・わ、わたし・・」
京子の声は逡巡に満ちていた。怯えと希望の間で・・・
「お願いっ!お姉ちゃんの言葉を聴いてっ、お姉ちゃんを信じてっ!」
突然、受話器から見知らぬ声が割り込んできて、京子は驚いた。
「だ・・誰?」
「私、美紀っていいます。石田諒子の妹ですっ。御免なさい、わたし、お姉ちゃん宛の京子さんの手紙読んでしまいましたっ。私信を読むなんて最低です。改めてお詫びに行きますっ。でもっ、これだけは聞いて下さい。京子さんっ、京子さんは全っ然悪くないっ!貴女を悪く言う人が居たら私、絶対に許さない!貴女が恥ずかしがったり、引け目を感じる事なんか何も無いんです。だからっ、あの男と戦おっ!あんな奴、あの程度の下衆男、恐れるに足りないわっ。今日、私、竹刀であのケダモノの頭をブッ叩いてやったの。本当は頭をかち割ってやるつもりだったんだけど、意外に硬くて顔面を潰しただけになっちゃったけどね。今ごろは病院でピーピー泣いてるわ、きっと。本当に見せかけだけの男よ。あの男の正体なんか、そんなものよ。恐れないでっ!お姉ちゃんを信じてっ!きっと大丈夫、お姉ちゃんは私なんかより100倍も強いんだからっ」
突然の美紀の乱入に京子は戸惑いを隠せなかったが、それでも美紀の溌剌とした言葉が京子に新たな勇気を与えたようだった。
(なんていう姉妹なんだろう・・・諒子さんといい、美紀さんといい、溢れんばかりのエネルギーに満ちている。この二人が応援してくれている・・・私はもう一人じゃないんだ)
恐怖と希望の間で振れていた京子の心がようやく片方に落ち着いて行った。
「・・・ありがとう・・・わたし・・・頑張ってみる。諒子さん、力を貸してくれる?」
「京子さん・・・こちらこそ有難う。勇気を持ってくれて。私、貴女の信頼は絶対に裏切りません。今度はこっちから攻める番よ。自分のしでかした事が、取り返しのつかない事だって事を想い知らせてやりましょ」
諒子の落ち着いた声に、信念と情熱のエネルギーが加わった。
3人の美しい女達の意思が一つに纏まり、黒い霧をまとった牙城に宣戦を布告した瞬間だった。
< つづく >