(5)連鎖
「お姉ちゃん、誰?警察の知り合いって」
京子との電話を切ると、美紀が不思議そうに訊いてきた。
「え?あぁ・・・」
美紀の何気ない問い掛けに、珍しく諒子の歯切れが悪くなった。
「なに?どうしたの?まさかデマカセ・・・」
「違うわ。本当に居るのよ・・・。そのはず・・なんだけど」
「え~、なにその自信なげな態度は・・・。本当に知り合いなの?」
「そうよ」
「ふうん・・・。で、いつの?大学?それとも高校の時の?あ、それともバイトしてた時の?私が知ってる人?」
「美紀は・・・会ったことは・・ってゆうか見たことは有るよ。学生の時の知り合い」
「え?誰?女の人なの?もしかして柴田さん?じゃなけりゃ岩田さん・・・」
「違うわ。松田っていう人・・・」
「・・・??誰?私本当に会ったことある?富士之宮高校の人なの?」
「いいえ。高校は三岡高校・・」
「三岡高校って・・・えっ!三岡の松田って、あの松田怜のことぉ?」
美紀の眉が持ち上がり目が丸くなった。
「ちょっと、呼び捨てにしちゃ駄目でしょ。これから相談しようって人を」
諒子が顔を顰めた。
「なっ・・・だって私、お姉ちゃんがあの人のこと呼び捨て以外で云っているの聞いた事ないよ」
「うるさいなぁ、もう。しょうがないじゃない、やな奴なんだからっ!」
諒子はプイッと横を向いた。しかし、それでいてどこか嬉しそうでも有った。
「どうして、あの人のことだけそんなに毛嫌いするの?何だかんだ云っても、結局お姉ちゃんは中1から大学を卒業するまで、負け知らずだったんだから。あの人にも勝っていたのよね」
「私が優勝していたのは、中1から高1までの4年間だけよ。高2で初めてアイツと対戦してから、私は一度だって勝ったことは無かった」
「え~何言ってるのよ。優勝カップも盾も揃ってるじゃない」
「それはね、ただ私が負けなかっただけ。誰が見ても明らかな負けにならなかっただけのことよ。自分でもよく判る、私の剣は正道、そしてあの人のは邪道・・。審判はみんなそう見ていたわ。だから決着が着かなかった時、どちらに旗を揚げるかは最初から決まっているのよ」
諒子は悔しそうな表情で頭を振った。
「最初に対戦した時からそうだった。基本も定石も駆け引きも何も無い、ただ只管1本を狙い仕掛けてくる。普通ならこんな容易い相手は居ないの。実際、対戦するまでそう思っていた。どうしてこの人、ここまで勝ち上がって来れたのかしらって。でも、違った。最初の一太刀で判った。腕が痺れるような一撃、剣の軌跡が見えないなんて初めての経験だったわ。私、初めて夢中になった。時間を忘れて集中したわ。受けて、受けて、受けて・・・そして僅かな隙を見つけて攻めて。気が付いたら時間が終わってた。審判が全員私に旗を上げているのが不思議だった。そして・・そしてね、アイツが私を見てるのっ、睨みつけてるのっ、『あと1分あったら、完全に叩きのめしてやったのに』っていう目付きで!この私をよっ!もう悔しくて、悔しくって。優勝トロフィを持って帰った晩が、私にとって1年で1番悔しい夜だったわ。そしてね、一睡も出来なくて朝早く師匠の道場に行って稽古をしてもらった。師匠も判っていたみたい。どっちが押していたかを。それで来年こそはって思って、夢中で稽古したわ。もうそれまでとは比較にならないくらい真剣にね。そしてね、その結果が自分でも判るの。あぁ、私強くなったって。もう去年の私じゃない。あんな邪道の剣に惑わされる事はもう絶対に無い。そんな事有り得ないって。決勝戦の日の前日、この日が私が1年で1番優しい気持ちになれた日だった。松田怜に偶然会っても、『明日は宜しく』って挨拶したりして。でもね・・・違ったの。私が完璧だと自負していた戦法も、試合運びも怜の一太刀で全部吹っ飛んでしまったわ。怜も去年の怜じゃなかった。私が少しでも怠けていたら、最初の一太刀で勝負はついていたわ」
諒子はそこで小さく息を吐いた。
「こんなことが、6年も続いたのよ。信じられる?おまけにあの女は剣道なんかホンの余技だったんだ。柔道に空手、ボクシングもしてたって言ってたかしら。ホント、呼び捨てにしたくもなるわ」
美紀は唖然とした表情で諒子の話しを聞いていた。
「うわぁ・・・。お姉ちゃんって、意外と悲惨な青春を送っていたのね」
美紀の感想を聞いて諒子は頭を抱えた。
「やめて。思い出したくも無いわ」
「でも、そんな人がお姉ちゃんの話しを聞いてくれるかなぁ。向うだって、いっつも押しているのに優勝をさらわれて、意外と根に持ってたりして」
「さぁ、どうかしら・・・。ま、話してみないことには判らないけどね」
諒子はそう答えたが、どこか自信ありげだった。
「で、今は何処の部署に居るの?」
「さあ・・・知らないわ」
「え?じゃあ、何処の警察署なの?」
「知らないわよ、そんな事。大学4年の大会以来会ってないんだから」
「え~・・・。大学4年って・・・怜さんも4年よね、当時は」
「当り前じゃない」
「じゃあ、お姉ちゃん、どうして怜さんがここの県警に勤めてるって知ってるの?」
「だからぁ、地元で警察官になるって言ってたから」
「いつ?」
「だから大会の時よっ。もう、あったま悪いわねっ」
「お姉ちゃん・・・それって、怜さん本気で言ってたの?警察官って公務員でしょ、試験とか受けなきゃなれないんだよね。全国大会の時に、本当に試験受かってたのかなぁ」
美紀の疑わしげな表情を見て、諒子もふと不安になった。
(確かに格闘技が得意だからって、それだけでなれるモンでも無いわよネェ・・・)
「まあ、想像しててもしょうがないから、直接本人に訊いてみるしか無いわよね、お姉ちゃん」
「ん?あ・・そうだ・・・」
諒子はそこで急に何かを思い出した様子だった。
「なに?」
「アタシ、そう言えば怜の連絡先知らなかった・・・」
「・・・」
美紀の沈黙が妙に居心地の悪い諒子であった・・・
*
真っ赤な大型バイクが夜の繁華街をゆっくりと流していた。
黒の艶消しのレザージャケットに同じく黒のレザーパンツ、ヘルメットは赤を基調にして星が描かれている。身体にフィットしたウェアとヘルメットから背中に伸びた髪が、乗り手を女、しかもすこぶるスタイルのいい若い女であることを示している。しかし、この界隈で遊んでいる若者、縄張りとしているヤクザ、そして舎弟たちは、誰一人このバイクを挑発しようとは思わなかった。
怯えた視線、忌々しげな表情、敵意・・・見る者によって様々な反応を引き起こすそのバイクは、しかし一方で、希望の光としても歓迎されていた。
低いが滑らかなサウンドを轟かせたそのバイクが近寄ってくると、路地からカツアゲの少年達が消え、暴力バーの従業員の物分りが目に見えて良くなるのだ。
たった一人の、警察官になってまだ3年目の女刑事、松田怜の名前と経歴は、彼女の商売相手たちに知れ渡っているのだった。
怜の携帯がジャケットのポケットで振動を始めたのは、いつのもコースの見回りが丁度終わった時だった。
仕事の時間は疾うに過ぎている。自宅までの帰宅経路の間にある繁華街の見回りは、言って見れば怜の個人サービスみたいなものだった。従って無論相棒もいない。
怜は即座にバイクを左に寄せ、駐車車両の間に突っ込み止めた。
途端に店の呼び込みをしていたパンチパーマのお兄さんが慌ててバイクの前に止まっていたベンツに走りより、窓から顔を出した男に耳打ちした。
運転手はサングラス越しに後ろをチラッと振り向くと、小さく肩を竦めて発進させた。
ほぼ同時に後のBMWも走り去り、呼び込みの兄さんもいつの間にか消えていた。
繁華街に突如出現した奇跡の真空地帯の中心で、怜は無造作にヘルメットを取った。
そして張り付く髪を頭を振って無造作に振りほどく。
ふわっと広がる髪と、その間から覗く猫のような視線、ジャケットで強調されたスタイル・・・
まるでスポットライトが当たったような存在感は、道行く人に女優のコマーシャル撮影かと思わせるようなものだった。
しかし怜は周りのそんな視線を完全に無視すると、ジャケットのジッパーを下ろし、鳴り止まない携帯を取り出した。
一瞬、課長の陰湿な視線とキャリア特有のもったいぶった言い回しが頭に浮かび小さく眉を顰めたが、事件の知らせかもしれない連絡を無下に切るわけには行かなかった。
「はい、松田です・・・」
怜の低い声が携帯のマイクに吸い込まれた。しかし想像していた課長の声の代わりに、馴染みの無い声が携帯から漏れてきた。
『あ・・・あの・・・石田ですが』
怜は記憶を探り眉を顰めた。
「失礼ですが・・・どちらにお掛けでしょうか」
『あの・・松田さんですよね。松田怜さん・・・』
「えぇ。そうですが・・・」
『私、石田です。石田諒子・・・安西師範から松田さんの連絡先を伺いまして・・・』
怜は珍しく眉を上げると、携帯を見つめた。
石田諒子っ!
自分の格闘技の師匠の名を上げて連絡してくる『石田諒子』といえば、“あの”諒子しか居ない。
怜の脳裏に鮮やかに諒子の立ち姿が蘇る。そして同時に、あの凍るような眼差しも・・・
『所詮、我流の剣などその程度のもの』と言わんばかりに6度の挑戦をことごとく退け、審判の旗を常に勝ち取ってきた女のその視線を怜は忘れたことは無かった。
「あ・・・」
怜は間抜けな声を出したまま、沈黙してしまった。
しかし、その致命的な失態を慌てて打ち消すように怜は努めて冷静に声を出した。
「あぁ・・・。どうも、お久しぶりです・・・」
『あ・・あら、こちらこそご無沙汰しております・・・』
二人とも当り障りのない挨拶は口にしたが、まるで試合開始の時のように相手の出方を窺っていた。
無論、痺れを切らしたのは怜だった。
「で?」
最短の問い掛けの言葉を発したのだ。
『ご相談があります』
諒子の言葉も短い。しかし怜はそこに微妙なトーンを嗅ぎ取っていた。
「相談・・・。それって私の仕事に関係すること?」
『はい。』
「判った。今何処にいる?」
怜の決断は早かった。
石田諒子のことは剣道の試合でしか知らない。しかし、人物を知るにはそれで充分だった。
その諒子が自分に・・・刑事に相談を持ち掛けてきた。それは生半可な事態では無いという事だ。
怜の瞳が鋭く輝き始めた。
住所を聞き取ると携帯を切り、怜は再びエンジンを始動した。
重いサウンドが高揚した怜のテンションを刺激する。
真っ赤なバイクがゆっくりとその場所を離れたのは、まもなくの事だった。
マンションの駐車場に爆音のような排気音が一瞬轟き、そして次の瞬間に沈黙した。
その音で美紀は視線を上げ時計を確認した。
電話を掛けてからまだ20分しか経っていない。
(まさかね・・・)
そう思って視線をテレビに向けた途端、インターホンの呼び出し音が鳴った。
「は、はいっ」
『松田です・・・』
スピーカから低い声が漏れてきた。
美紀は諒子と顔を見合わせた。
「で?」
リビングのソファに腰を落ち着けるなり怜は切り出した。
そんな怜を美紀は唖然と見つめていた。
皮のジャケットを無造作に着こなし、長い髪の間から猫のようにキラキラと輝く瞳で諒子を見つめている姿は、同性の目から見ても惚れ惚れするようなかっこ良さだった。
そして、その正面には姉の諒子が端然と座っている。
こちらは、喩えるならアイス・ドールといったところか・・・。
体中に硬質な“気”が張り詰めている。こんなテンションの高い諒子を見るのは久しぶりだった。
諒子は無言で懐中から手紙を取り出した。
「これをご覧下さい」
怜は物憂げなほどゆっくりと手を伸ばしてそれを受け取った。
そして、丁寧に1枚1枚に目を通していった。表情に変化は無い。最後まで目を通し、そして再び手紙を封筒に戻しテーブルに置いた。
「で?」
怜は三度(みたび)この言葉を口にした。
「この手紙を書いた人は、私が今勤めている栄国学園高校の教師です。産休中で私の前任者でもあります。手紙に書かれていたガ・・少年は、ウチの高校の3年生です」
諒子は簡単に関係を説明した。
「『黒岩』って・・・あんた知ってるの?」
「教えたことは有るわ」
「いや、『黒岩剛』の方・・・」
「ウチの理事長・・・ですね」
「他には?」
「他に?他に同じ名前の人が居るんですか?」
「いや・・・。そうじゃなくて、『他の顔』を知っているか?ということ」
「・・・いいえ。存じません」
諒子の受け答えを怜は興味深げに見つめていたが、その答えにちょっと肩を竦めた。
「そうか。あんた東京だったもんな。だったら、教えてあげる。『黒岩剛』っていう悪党のボスのことを」
そして怜は、この地域に君臨する男の横顔を語った。
基幹産業のオーナーという表の顔と、闇金融という裏の顔、さらに暴力団との関係や、政治家との連携、それから派生した警察へのコネクションなどなど。
「とにかく大物だよ。近頃じゃ中央の政治家でも珍しいけど、カリスマ性もあってどんどんシンパが増えていくんだ。それと・・・その一方で、敵対する相手には一切の温情も掛けない。こいつの乗っ取った会社の前経営者は、放逐された途端にあらゆる不運が舞い込むことになっているんだ。交通事故、詐欺、火事、家にトラックが突っ込んだ事件も有ったな。それに何もライバル経営者ばかりじゃない。アイツのスキャンダルを追いかけていた記者の家は3度も放火されている。記者を辞めるまで毎日のように無言電話が掛かって来て、それが原因で離婚。その直後にアル中になっちゃったみたいよ」
怜は身の毛のよだつような話しを、世間話のように口にした。
しかし、怜を見つめる2人の表情に怯えの色は無かった。それどころか、諒子の瞳に宿る闘志が更に膨れ上がったようだった。
「それだけ掴んでいて、警察はどうして動かないのですか。市民の安全が脅かされているのですよ」
まるで真剣で切りかかるような眼光で諒子は問い掛けた。
なまじっかの相手では、諒子の迫力に飲み込まれてとても満足に返答できないだろう。
しかし、怜はそんな諒子の瞳を涼しげに眺めて、小さく笑みを浮べた。
「狸だからね。簡単に尻尾を掴ませてはくれないさ。ただ・・・意外なところで足を滑らす事も有るようだな」
怜はそう言って視線を先ほどの手紙に向けた。
「この手紙を利用するのですか?」
「あぁ。ただ奴を引っ張る材料にはならない。単なる妄想と言われるだけさ。そうじゃなくて、このガキは黒岩一派の意外なウィークポイントである可能性が高いってことさ」
「つまり・・・健志を使って揺さぶりをかけるってことかしら・・・」
諒子の目が強い光を放った。
「気に入らないってツラだね」
「却下です。そんなことしたら、真っ先に京子さんが酷い目に遭うわ」
「無論、保護する」
「出来るのですか?赤ちゃんも一緒なんですよ。それにご主人に何て言うのですか」
「被害者の亭主か・・・。話すしかあるまい?」
怜が簡単に片付けたその言葉に、美紀は目を剥いた。
「だ・・駄目ですっ!京子さん、ご主人に知られたくないから・・・」
「だからつけ込まれるんだっ!」
美紀の言葉を怜は一蹴した。
「お嬢ちゃん、夫婦っていうのは共に苦難を乗り越えていくものなんだ。妻の最大のピンチ・・・夫に知らせないでどうする」
(確かに怜の言葉は正しい。しかし・・・)
諒子は珍しく迷っていた。
それはひとえに清水圭吾という人物を知っていた所為だった。
「それは・・・やっぱり出来ない。貴方の言葉は正しいわ・・・普通なら」
「普通じゃないのか?」
「ご主人は・・・私の主観でしかないけど、信用できない。最悪・・・」
酷く言い辛そうな諒子の言葉を怜が引き継いだ。
「最悪、黒岩につくかも知れない・・・ってことか?ったく、どいつも、こいつも」
諒子が頷くのを見て、怜は毒づいた。
「判った。まず清水京子の保護プランを作ろう。それからガキを叩いていく」
「どうするの?」
「とりあえず署内に極秘プロジェクトを立ち上げる。なんせ超大物だからね。内通者に知られないことが最重要って訳」
「内通・・・って、警察署内部にぃ?」
美紀が目を丸くした。
「当然。っていうかそのためにああいった奴らは、普段から警察にコネクションを作っているんだ」
「大丈夫でしょうね?」
諒子が念を押した。
「あぁ。何度か失敗しているからね。署内の勢力図はだいたい把握できたサ。今度こそ、叩くっ!」
怜は自信ありげに言い切った。
「この手紙、しばらく預かるよ。いいね?」
そう言って怜は手紙を取り上げるとジャケットのポケットに突っ込んだ。
「あと・・・このお嬢さんには、当面はガードを張り付かせるよ。明日の午後くらいから来れると思う」
そういって怜は美紀に顎をしゃくった。
「そうね、お願いできるかしら」
諒子もあっさりと了承した。
独り美紀だけがむくれていた。
「要らないわよっ。私だって自分の身くらい守れるわっ」
「そうだろうね。でもさ、あんたに手を出した連中を逮捕できるのは警察だけなんだ。しばらく監視はさせてもらうよ」
そう言って美紀の頭をポンと叩くと、怜は来た時と同じく、風のように去っていった。
うまく言いくるめられた美紀はそれ以上二の句を継げなくて、黙って見送るしかなかった。
勝てるっ!この戦い・・・諒子は怜の去った後のソファを見つめながら確信していた。
ただ楽な姿勢でソファに掛けていただけなのに、諒子をも圧倒するような胆力を漲らせていた怜の存在感が、諒子に生まれて初めて、戦う前にその勝利を確信させたのだった。
しかし・・・さしもの諒子もその確信が僅かな油断を生じさせたことに気付いていなかった。
そしてまた、松田怜の強烈な光を放つ魂の裏側に、目に見えない鎖が巻き付いている事など、今の諒子は知る由も無かったのだった。
< つづく >