ドールメイカー・カンパニー3 (1)

(1)プライド

 その町の中心もやはり官庁街だった。
 県庁舎を中心にオフィス・ビルが立ち並び、最寄の駅の周りには、デパートとシティホテルがどこかで見たような配置で聳え立っている。

 どんよりと曇った冬のある朝、多くのサラリーマンとOLの人の波にまぎれるように1人の女がその官庁街にある1つのビルに飲み込まれていった。
 地味なグレイのロングコートを羽織り無造作なレイヤーシャギーのヘアースタイルにした女は、まるで都市迷彩を施しているように目立たなかった。
 少し古めのデザインのエントランスをくぐり3基のエレベータが据えられているホールの間も通り抜ける。
 そしてその奥の薄汚れた重い防火扉を押し開けると、くすんだコンクリートの階段を上っていった。
 女のヒールの硬い音が反響する。
 けれど2階へと辿り着くと、あっけなくその音は止んだ。
 丁度1階と同じ場所にある防火扉を抜け、再び2階の通路へと戻ったのである。
 エレベータを使えは早いのに、わざわざ回り道をしている。
 それはまるで尾行を確かめるような行動だった。
 そしてたっぷり1分もその扉の脇に佇み後続の足音に聞き耳をたてていた女は、しかしやがて小さく肯くとゆっくりと歩みだした。
 年季の入ったオフィスビルらしく通路には無愛想な古びた金属製の扉が等間隔に並んでいる。
 けれど、どの扉にも会社名を示す表記は何もない。
 しかし女は迷いもせずにそのうちのひとつに歩み寄り、真鋳製のドアノブを掴んだ。
 そして小さく息を吐くと、何かを決意したようにその扉を押し開け中に入っていった。

 微かな軋みとともに、扉の内側の様子が目に飛び込む。
 そこは丁度中小企業の受付のような雰囲気だった。
 入った場所のすぐ脇に来客対応のためか机が置いてある。
 しかしそこに座っていたのは受付嬢ではなかった。
 中年の冴えない男が茶を飲みながら新聞を眺めていたのである。

「よぉ、久しぶりの出社だね。蘭ちゃん」

 扉の音で顔を上げた男はそう言って片手を挙げた。

「おはよ、井出さん。前から思ってたんだけど、あなたホントは空気で動くお人形でしょう?3週間前とまるで同じ動作じゃない」

 女はそういってその中年男に軽くウィンクした。
 外を歩いていた時の無個性が扉を開けた途端に消えている。
 まるで鎧を脱ぎ去ったように、生き生きとした明るい存在感が女を輝かせていた。

「へへへっ、言ってくれるね。俺は蘭ちゃんこそアンドロイドだと思ってたんだけどな。美人の癖に全く隙がねぇ。もっとも・・・」

 井出と呼ばれた中年の男は、そこで少し間を空けた。
 そして片頬で笑みを浮かべながら続けた。

「もっとも、今日は少しばかり、つけ込めそうな危うい感じがあるけどな」

 井出のその言葉に女の表情が一瞬強張る。
 しかし咄嗟に視線を逸らすと、柔らかな笑みを浮かべた口元の残像だけを残して奥の更衣室へと消えていったのである。

 しかし・・・

「ったくっ!オヤジの癖に観察眼だけは鈍ってないんだからっ」

 鏡に映った顔を見詰めながら、女は・・・蘭子は吐き捨てるようにそう言った。

「もうっ、気合を入れてかないとっ!」

 そう自分に言い聞かせると、蘭子は地味なコートをハンガーに掛けた。
 すると途端に雰囲気が一変する。
 蘭子はまるでパーティにでも出席するような、肩を出した黒いロングドレスを纏っていたのだ。
 しかし、このまるで年季の入った役所のような佇まいの事務所にあって、その格好は完全に浮いている。
 蘭子もそれは十分に承知しているのだろう。
 口をへの字にしていた。
 けれど、バッグからコサージュを取り出し胸に着けながら小さな声で何事かを呟いているうちに、その不機嫌そうな表情は拭ったように消えていった。
 そして改めて鏡に姿を晒したとき、蘭子は嫣然と微笑んでいたのである。
 既に蘭子のその表情からは、場違いを恥じる様子は微塵も感じ取れなかった。
 それどころか、その自信に溢れた表情は、かえってこの事務所の方こそ場違いで、恥ずべき存在だと思わせる程であった。

「さ、それでは行きましょうか」

 蘭子は誰にともなくそう言うと、更衣室を出た。
 そして、呆然とした表情で見詰める井出に妖艶な流し目を与えると、手前にある頑丈そうなドアへと足を向けたのである。

 軽くノックをして扉を開ける。
 そこはこの会社の幹部の個室だった。
 正面に大きな両袖机が設えてあり、両側の壁は丈夫そうな作りの本棚で埋められている。
 机の向こうには40歳前後の男が座り、手前で立ったまま背中を向けている男と資料を間に挟んで話し込んでいた。
 机の上には三角柱を寝かせたようなプレートがあり、そこに『四室長』とだけ書かれている。
 奥に座っている男の肩書きなのだろう。

 入ってきた蘭子に気付いたその男は視線を上げた。
 何処といって特徴のない顔をした男である。
 何処に居ても違和感はないが、その代わり視線を外して10秒もすれば忘れ去られてしまいかねない容貌である。
 しかし背広を着込んだその体格は、その風貌ほど平凡ではなかった。
 先程までの蘭子同様一見地味で目立たない雰囲気だが、見るものが見れば鍛え上げていることは隠しようがなかった。

「蘭子・・・」

 あまりに場違いな蘭子の格好に、それまでの打合せを中断して思わず男はそう呟いてしまった。
 するとその言葉に、背を向けて熱心に話していた男もはじかれたように振り向いた。

「蘭子さんっ。あっ、・・ぅわぁ」

 まだ初々しさを残した生真面目そうなその青年は、嬉しそうに頬を上気させて振り向いたのだが、蘭子のその姿に圧倒されてしまい、その後に続く言葉が出てこなかった。
 蘭子はそんな青年にニッコリと微笑みを返したが、すぐに視線を座っている男に向けた。

「あ・・・あぁ。久しぶりの出社だね、蘭子くん」

 蘭子の視線に促されたように男は1テンポ遅れて応えたが、微妙な視線を向いに立つ青年に向けている。
 暗に打合せ中と言いたいのだろう。
 けれどその視線の後を追うように再びその青年に蘭子の視線が向けられると、男の意図とは正反対に慌てたようにその青年は口を開いた。

「あっ、ご、ごめんなさい。つい室長と話し込んじゃって。あははっ、す、すぐ片付けるからっ」

 そう言いながらも、もう青年は広げていた資料を掻き集めている。
 そして両手でそれを抱えると、そのままあたふたと部屋を出て行ってしまったのだった。
 男が口を挟む暇もなかった。

「お久しぶりです。白神さん」

 青年を視線だけで追っ払った蘭子は、そこでようやく口を開いたのだった。
 ここ『都市問題調査会』という公益法人にて第4室長を務める白神は、この成りゆきにそっとため息を吐くしかなかった。
 けれど、蘭子の言葉に応えるように視線を上げた時には、もう完全に切り替えていた。

「体のほうはもう良いのか?」

 父のような優しげな視線を蘭子に注ぎながら言う。
 しかし蘭子はその言葉に驚いたように小首を傾げた。

「あら?何のことでしょう。私、特に何も問題ないのですけれど」

 柔らかな笑みを浮かべて蘭子は返した。

「そうなのか?遠藤からの報告では“あの者たち”と接触したとき、ナイフで刺されたとあったが」

 しかし蘭子はその問いに軽く肩を竦めた。

「大げさですわ。香は心配性だから大げさに言ったのでしょうけど・・・。何でもありませんわ」

 蘭子はそう言うと片手を腰に当て、顎を持ち上げ昂然と白神を見返した。

「そうか。ならば安心だが。我が社の切札に怪我でもされてしまっては、それこそ大痛手だ」

 白神はそう言うとニッコリと微笑み、そこでようやく立ち上がった。
 そして机を迂回して蘭子の前に立つとその手を両手でしっかりと握り締めたのである。

「良くやってくれた。蘭子くん、大手柄だ。ホントに大手柄だよ」

 白神は視線に熱を込めてそう言った。

「は?」

 蘭子はしかし、そんな白神の態度に驚いたように訊き返した。
 こんなリアクションは予想していなかったのだ。

 マインド・サーカスを捕らえるどころか、危うく自分たちが捕まるところだったのだ。しかも明らかに自分が彼らの挑発に乗り、計画外の行動に出たのが原因である。
 今ここで報告などをしていられるのも、咄嗟に香が気転を利かせ一目散に逃走したからに他ならない。
 蘭子は、厳しい叱責を予期していたのだ。
 だから、叱責を受ける前に予め自分のペースで話を進めようと作戦を練ってきたのである。
 無論このドレスもその小道具だった。

 予想に反したリアクションに戸惑ったように咄嗟に言葉が出ない蘭子だが、白神はそのまま続けた。

「4ヶ月前にこの部屋で君に指令を出した時には、正直いって私にも成果が出るとは思えなかった。『マインド・サーカス』なる組織が本当にあるのか、あるいは単なる都市伝説なのか、それさえ私には判らなかった。しかし、君は、いや君たち“蘭子チーム”はそんなあやかしの霧の向こうから、なんとドール・メイカーと呼ばれる当人を引っ張り出してきたんだっ。私の驚きが判るかい、蘭子くんっ」

 白神のその言葉に蘭子の自尊心は実に簡単に膨れ上がった。

 (そうよねっ!確かに私たちがあいつらを探し出したんだったわっ。最後に少々手違いが有っても、そんな事私が上げだ成果に比べれば全く取るに足らないことなんだわっ)

 蘭子は先程までの計算しつくされた表情ではなく、現金なほど素直に瞳を輝かせて白神を見返した。

「あらぁ、白神さん。それじゃ、あんまり私たちのチームに期待されていなかったということかしら?お生憎さまっ。ま、あの程度の素人集団なんて隠れているつもりでも、ポロポロと尻尾を出しているんですもの。ホント尻尾を踏んづけないで歩くのに注意しなくちゃいけないくらいでしたわ」

 この辺のお調子者ぶりは、まさに蘭子の生来のものなのだろう。
 片手を口に当てて、ホホホとか笑いながら、横目で余裕たっぷりに白神を見ていた。

 (やれやれ・・・これでSクラスのエージェントだっていうんだから、ウチの会社も危ないもんだな。ま、お嬢さんの催眠の腕だけは確かに神がかり的ではあるがな・・・)

 白神は完全に表情をコントロールしながら、胸のうちの呟いていた。

「それで、今後のことなんだが・・・」

 白神が話を元に戻そうとすると、その言葉に被せるように蘭子が遮った。

「追撃っ!・・・ですよね、室長っ」

 一瞬にして中身が入れ替わったように、蘭子は瞳に怒気を漲らせながらそういった。

「一人連れて帰りましたけど、あれは完全に下っ端。一気に悪の巣を叩いて、あの根性の曲がった動物達を全員捕獲よっ!」

 蘭子は両手でグーを作って、胸の前で握り締めながら断言した。

「あぁ・・・それは無論だ」

 白神は蘭子の迫力に一歩退きながら、肯いた。

「ただ・・・実施時期については、まだ私も知らされていない。おそらくまだ数週間以上は先になると思うが」

 白神は微妙に視線を逸らしながら言った。
 しかし、その白神の言葉に蘭子は噛み付いた。

「何ですってっ!それはどういう事ですか、室長っ。そんなノンビリしている暇は有りませんっ!すぐにでも体制を整えてください。あのキツネとかいうガキをそんなに野放しにできますかっ!」

 もう完全に私情であった。

「あんのガキ、今度こそケッチョンケチョンにしてやるからねっ」

 しかしそんな蘭子に白神はトーンを一変させて口を開いた。

「拙速はできん」

 静かな、しかしきっぱりとした間違いようのない言葉だった。
 盛り上がりきった蘭子も一瞬口を閉ざさざるをえなかった。

「せっ・・・拙速では有りません。私のチームなら、奴らにだってっ」

 蘭子は局面を盛り返そうと、口調を改めて言いかけた。
 しかし白神はそれを遮る。

「そのチームを何処に派遣すると言うんだい、蘭子くん。君たちの働きで我々は漸くあの組織の取っ掛かりを手にした。そして・・・今はまだそれだけだ」

 白神は硬い表情の横顔を蘭子に向けながら続けた。

「あの組織の実在は確認できた。しかし、実態は依然として霧の向こうだ。しかも、相手は我々の存在に気付いてしまった。ウチの組織の事は判らないが、自分たちを狙っている別の組織が有ることに気付いた奴等・・・。今動けば、闇に消える」
「そっ・・・それでは、いつまで経っても奴等は野放しのままですっ」

 蘭子の押し殺したような声が白神を責めた。

「言った筈だ、無論奴等は叩く。しかし、チャンスは1度きりと考えろ。闇に潜ませてはまた無為な年月を送ることになる。やる時は一斉に、そして徹底的に叩く。サーカスに潜む珍獣達は一匹も逃がさない。無論、君のターゲットの“きつね”もね」

 平凡な仮面を被った男の目に、ハウンド・ドッグのような狩猟への燃える意思が灯っていた。

 (本気なのね・・・室長は)

 日本という諸外国からスパイ天国と呼ばれている自衛意識の乏しい国にあって、唯一その任を担っている組織、国家公安委員会。その表の実働組織が警察庁なら、白神達の属する都市問題調査会は裏の実働部隊の1つに位置している。
 重鎮というには歳若いが、諸外国の百戦錬磨のスパイたちと曲がりなりにも遣り合ってきた男の眼光は、蘭子の口を閉じさせるだけの力を持っていた。
 知らず蘭子の視線にも、対抗するような強い光が灯る。
 しかしそんな蘭子に、白神は再び柔らかな口調に変えて言った。

「それに残念ながら、蘭子チームは当面は活動休止だ」

 突然の白神の言葉に蘭子の目が丸くなる。
 しかし蘭子が何かを言い出す前に白神は続けた。

「まず遠藤くんは療養中だ。かなり腕の筋を伸ばされていたからね、あと1週間は自宅療養。加賀は来週から2週間、護衛任務だ。田代は本来の機構設計の仕事が詰まっている。そして蘭子くん・・・」

 白神はそこで一呼吸おいてから言った。

「君は、今回の特別任務の完遂により、ボーナスと1ヶ月の特別休暇が与えられている」

 井出は相変わらず新聞に目を通しながらゆっくりと茶を啜っていたが、突然第四室長室のドアが凄い音を立てて蹴っ飛ばされたように開いたのを見て、思わず腰を浮かせた。
 中から出てきたのは、無論蘭子である。
 しかし、さっき入っていった時の妖艶な表情が、出てきたときには完全に吹っ飛んでいた。
 口を真一文字に結び顔を紅潮させていたが抑えきれない怒りに柳眉が逆立っていた。
 そして、再び更衣室にドカドカと駆け込むと、中から思いっきりロッカーを蹴飛ばしたような凄い音の後、コートを片手に再度現れた蘭子は、そのまま井出の前を通り過ぎ、表へ出て行ったのだった。
 無論、表のドアが閉まるタイミングで井出が耳を押さえたのは言うまでもなかった。
 2階のフロアに入っている事務所全てに響き渡るような大音響で扉は蹴り閉められたのだった。

「白神さっ・・・・・・あ」

 井出が面白半分に四室長室を覗くと、白神は床に散らばった資料とバインダーの残骸をしゃがんで掻き集めているところだった。
 そして井出の声に上げた顔の額には赤く腫れた痕があった。

「室長~・・・。駄目ですねぇ、セクハラはもっと目立たないようにやらないとぉ」

 井出はニヤニヤとした笑みを隠さずに部屋に足を踏み入れた。
 そんな井出をチラッと見た白神は憮然とした表情のまま、作業を続けた。

「で?どこまでヤッタんですかぃ?キスくらいできました?」

 井出は一緒に書類を拾い集めながら続けた。

「1ヶ月の特別休暇とボーナス・・・。それを伝えただけだ」

 井出から書類を受け取りながら白神はそう言った。

「なぁる・・・。ふふふっ、そりゃセクハラよりあのお嬢ちゃんにはキビシイかもな」

 井出は器用にウィンクした。

「仕方あるまい。いま蘭子に動かれてはかえってマイナスだ」
「ふぅん。そういうモンですかねぇ。あの秦野とかいう男、あいつの口を割らすのは『魔眼の蘭子』が適任だと思うんですけどねぇ」

 井出は不思議そうに訊く。
 しかし逆に白神は訝しそうに片方の眉を上げた。

「井出さん、あんた報告書をまだ読んでないんですか。蘭子は勿論あの男を尋問したさ、それも2昼夜に亘ってね。そして、私のところに放出した・・・例の抗催眠試薬を求めてね」

 井出はしかし、白神のその言葉を聞いて目を丸くした。

「抗催眠試薬だって?ありゃ去年蘭子自身が自分の催眠被験者に試して、大笑いしてた奴だろ?『あらあら、このかわいい猫ちゃんがその試薬の被験者だったのぉ?御~免なさいねぇ、知らないですっかり操っちゃったわぁ』なんて言ってたぜ。それも開発担当者の前で」

 井出のその言葉に白神は苦笑いをした。

「そうだったな。だがお陰で開発部門は本気になったようだよ。あれから半年だが、今のは既に第3世代だ」

「へぇ・・・驚いた。いや、その薬の開発ペースじゃなく、蘭子の態度にさ。あのお嬢ちゃんの性格じゃ、死んだってそんな薬には頼らないと思ってたけどね」

 その井出のセリフに白神は小さく笑った。

「いや、逆だよ。蘭子は薬を使ったって絶対に秦野の口を割らせられない事を予想して寄こしたんだ。それだけ自分の能力に自信満々ってわけだ。あの男を自分の手元に置いておけるギリギリの期間粘ってみたが暗示を解除できなかった。もっと時間が欲しい。そこで一旦男を私に預ける。当然、あの試薬を使うだろう。けれどその試薬では手も足も出ない。すると、公式に私が蘭子に男の暗示解除を依頼する・・・という筋書きだ」

 白神は当たり前のように蘭子の描いた筋書きを説明した。
 しかし井出は解せない顔つきだった。

「はぁ・・・そうっすか。しかし、私ゃまだ報告書を読んでないんですがね、白神さん、あんた一体どうやってあの蘭子が男を尋問したって知ってるんです?そんな話をあのお嬢ちゃんが言うとも思えねぇが」

 そういって井出は疑わしそうに横目で白神を見た。
 しかし白神はその視線を意味ありげに受け止めた。

「聞いたのさ・・・・・・・遠藤くんからね」

 白神はあっさりとそう答えたが、しかし井出の疑念は更に深くなる。

「遠藤香ぃ?ありゃ蘭子チームのサブじゃねぇか。言わねぇでしょうし、それに蘭子が言わせねぇでしょう」

 蘭子の能力を知る立場にある井出は言下に否定した。
 しかし白神は、そんな井出の目を覗き込んでもう一度繰り返したのだった。

「聞いたんだよ。遠藤香から蘭子の取調べの件をね」
「聞いたって・・・・・・えっ?」

 そこで井出はやっと或る事に思い至ったのだった。

「あんた・・・白神さん、さっき確か第3世代って」

 井出の呟くようなその言葉を聞きながら、白神は天井を見上げた。

「まるで・・・そう、夢から覚めたような顔で遠藤は私の前に戻ってきた。そして内規に従い第4室長の質問に全て正確に答えていったよ。それに」

 白神はそこで一旦言葉を切り、視線を井出に戻してから続けた。

「それに、加賀と田代もな」

「解いたって言うんですかぃ・・・あの蘭子の暗示を」

 そのあまりに完璧な暗示は、この諜報活動の専門家達をして『神業』と言わしめていた。
 蘭子が仕立てた潜入要員は、3昼夜に亘る対スパイ用の尋問を難なくクリアするのだ。
 その実績を知っているだけに井出には信じられない思いが強かったが、しかし白神の説明以外に納得できるストーリィもまた無かった。
 そしてその事実が物語る次の展開は、井出には容易に予想がついた。

「ってことは・・・遂にあの組織にメスを入れられるって訳ですかっ」

 ここ数年来、噂が浮かんでは消え、実態を探ろうにも捉えどころの無かったあの謎の集団、『マインド・サーカス』の秘密のベールがようやく取り去られようとしているのだった。
 しかし・・・白神に視線を向けた井出は、目を疑った。
 視線の先の白神は目を瞑ったまま、ゆっくりと首を振っていたのだ。

「抗催眠試薬の第3世代・・・蘭子の暗示を打ち破ったあの試薬は、しかしあの男には効果は無かった」

 白神の声からは感情が抜け落ちていた。

「まだ・・・・・・・我々の力は及ばないようだ」

 井出はしかしそんな塑像のような白神に小さく肩を竦めた。

「ったく、往生際のわりぃ道化師どもめっ」

 そんな井出の呟きに白神はようやく表情を緩めた。

「そう・・・我々の向う方向は間違っていない。おそらくもう一歩といったところだろう。だから私は蘭子を退けた。今の段階ならどちらが先にゴールに辿り着くかは、判らない。しかし、蘭子と試薬研究チームは共同では進めない。どちらも相手を天敵だと思っているからね。しかし・・・」

 その白神のセリフを井出が引き継いだ。

「しかし、今欲しい結果は抗催眠試薬だということですな?確かに組織としてはプライド高いお嬢ちゃんよりずっと扱いやすいだろうしな」

 井出はその選択の正当性を認めながらも、しかし何か割り切れないものを感じていた。
 しかし、その違和感を口にするには井出は少々この仕事に染まり過ぎているのだった。

< つづく >

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