ドールメイカー・カンパニー3 第2幕(9)

(9)長い長い一日の始まり

 翌朝は、前日とはうって変わって快晴だった。
 木之下達3人は早々とホテルを後にすると、放射冷却で凍える町へと車を走らせた。
 行き先は蘭子のアジトである。
 “きつね”くん達の居たマンションは掴んでいたが、流石に直接乗り込んで交渉が出来るとは思えない。
 それどころか美咲同様、たちどころに催眠で絡め取られてしまうことは十分に考えられるのだ。
 美咲を思い通りにできる唯一の希望は、同時に両刃の剣でもあった。
 だから、朝食を取りながら協議した結論は、先ずは蘭子の動静を探りコンタクトの機会を待つという少し消極的なプランだった。

 幸いな事に、昨日美咲が仕掛けた盗聴器がある。
 トランスミッタで飛ばした音は、アジトから1ブロック離れた路地に隠してある器材が録音している筈だ。
 回収すればこの半日の状況を確認できる可能性が高かった。

「さぁて、ナビの設定は出来たから。それじゃ蘭子さんのアジトまで運転は宜しくぅ」

 木之下は川瀬にそう声を掛けると、いそいそと後部座席に移動する。
 無論そこには2人の完全な奴隷になりきっている美咲が待っているのだ。

「チーフ、お待たせっ」

 木之下は無造作に美咲の首を引き寄せると、すっかり主人気取りで舌を吸った。
 すると忽ち美咲の頬が上気する。
 体の芯から欲情が湧き上がってくるのだ。
 “きつね”くんの暗示には、まだ何の綻びもみえなかった。

「んっ、んふっ」

 美咲は健気にキスに応えながら、ゆっくりとその右手を木之下の股間に当てる。
 そして硬い手応えを感じると、ゆっくりとさすり始めるのであった。

「おい、木之下よぉ。お前、その調子だと絶対干涸らびるぜ」

 ミラー越しに視線を合わせて川瀬はニヤッと笑った。

「へへへっ、別に飢えてる訳じゃないだけどね。ちょっとこの時間は面白いことがあるのさ」

 木之下はそう言ってから、美咲の尻をピシャッと叩いた。

「ハメてやるよ。下だけ脱ぎな」

 そして助手席のヘッドレストに掴まるような姿勢で美咲を立たせ、目の前に突き出させた真っ白いの尻をゆっくりと撫で回す。
 しっとりした肌の、ヒンヤリした手触りが絶品だった。
 そして自らもズボンを降ろした木之下は、完全に勃起したペニスにその熱い肉洞を導いたのである。

「礼はどうした?」

 運転しながら川瀬が美咲に訊く。
 すると昨夜教え込まれた言葉が躊躇いもなく美咲の口から零れ出た。

「あっ、ありがとうございます。木之下さまっ。美咲のマ○コは木之下さまのペニスを挿入して頂き大変光栄でございますっ」
「光栄か。美咲、クラスレスのチンポを咥えるのがそんなに光栄なのか?」
「はいっ。美咲は、木之下さまと川瀬さまの専用便器ですから。木之下さまの子種で美咲の子宮を満たして頂きたいですっ」

 変われば変わるモノである。
 自らのプライドの為に2人を殺そうとした女は、朝日の眩しいこの時間から部下の言いなりに肉体を捧げているのだ。

「良いだろう、美咲。お前の子宮に俺のザーメンをタップリ注いでやるよ。ただし、その前にお前にはいつものヤツをやって貰う」

 そして欲情にとろけた視線を背後に向けた美咲に、木之下は持っていた携帯を手渡したのだった。

 回線が繋がるなり相手の声が聞こえてくる。

『おぅ美咲か、どうだ首尾は』
「うっ、うんっ。順調よっ・・あっ・・蘭子のっ、居場所はっ、掴んだしっ・・んっ」

 美咲は普段の口調に戻ってそう答えた。
 相手は、そう、木之下の元上司、雪野主任である。
 そして木之下は2人の会話を聞きながらゆっくりと腰を使っていたのだった。

『なんだっ?声が跳ぶなぁ』
「うんっ、いま、走行中だしっ、あっ、悪路だしっ」

 美咲は必死に声を抑制して答えた。
 気を抜くとすぐに嬌声が漏れてしまいそうなのである。
 木之下はずっと雪野主任の下で働いていたため、朝のこの時間に2人が携帯で連絡を取り合っている事を知っていたのだ。

 (ふっ、ざまぁみろっ!テメェの女房はもう俺の肉奴隷なんだぜっ。いつだって好きな時に突っ込み放題なんだよっ!)

 陰湿な元上司の顔を思い浮かべながら、木之下は昂ぶりを抑えきれなかった。

『そうかっ。朝から大変だなっ。それじゃもうすぐ尻尾を掴めそうなのか?』
「そのつもりっ、よっ。期待してっ、待っててっ」

 美咲の報告に、携帯から雪野のイヤらしい笑い声が漏れ聞こえる。
 虫酸が走るほど不快なその声は、しかし今の木之下には最高の媚薬だった。

 (笑ってるが良いぜっ。テメエの無能が美咲を俺らの共同便所にしたんだからなっ)

 木之下は服の下から両手を突っ込むと美咲の両方の乳房を鷲掴みにし、そのまま思いっきり腰を振った。
 そして送話口を抑えると、何の躊躇いもなく元上司の愛妻にタップリと注ぎ込んだのだった。

「美咲ぃっ!出してやるぜっ!」
「あぁっ!!いいっ!」我を忘れて美咲が仰け反る。

『ん?おいっ、どうしたっ?聞こえてんのか』

 長い沈黙に雪野が訝しそうな声で訊く。
 すると木之下の精液をその子宮にタップリと溜めたまま、美咲はやっと声を出して答えたのだった。

「えぇ・・・聞こえてるわ・・・なんだか・・・電波状態が悪くって・・・ご免なさいね」
『いや、別にいいが。それじゃ、今朝はこの辺にしとくか。吉報をまってるよ』

 夫のこの言葉に、美咲は繋がったままの木之下を振り向き視線で問う。
 するとは木之下は満足げに頷いて美咲の尻を撫でてやった。

「えぇ、判ってるわ。有難う」

 こうして夫婦の会話はいつもどおり終わったのだった。
 いつもと違うのは、だから携帯を折った途端、その口に濡れ光るペニスが突きつけられた事くらいなのである。

「なかなか、楽しそうなことしてるじゃねぇか」

 後部座席で足を大きく広げ、股間を美咲に舐めさせている木之下に、川瀬が羨ましげに言った。

「だろ~っ。やっぱり人妻は旦那の前でいたぶるのが最高だね。夫婦の会話を聞きながら女房に中だしするくらい楽しい事ってなかなか無いぜ」
「明日は俺にさせてくれよ」
「良いぜ。タップリ楽しめよ」

 木之下はそう言うと川瀬と顔を見合わせてニヤッと笑いあった。
 これから回収する盗聴器に何が記録されているかなど知る筈もない今の2人は、だから今が人生の幸せのピークだったことなど判るはずもなかった。

                    *

 遮光カーテンが勢いよく引き開けられた。

 外は久しぶりの快晴である。
 ベッドに眠る男の顔を、その明るい朝日が直撃する。
 眠りこけている男は、すると一瞬顔を顰め、寝返りをうった。
 まだ微睡んでいたいのだろう。
 けれど布団にもぐり込んできた暖かな重みが男の体に圧し掛かり、優しく目覚めを促した。

「朝ですよ。起きてください」

 優しい声と湿った息が耳に吹き込まれる。
 男は目を瞑ったままその重みを抱きしめた。

「う~~ん・・・、何時ぃ今ぁ」

 すべすべの背に手をまわしてその曲面を探るように動かしながら訊く。
 すると相手もまた男の裸の体に自分の体を押し付けながら囁いた。

「そろそろ7時半ですから」

 その言葉に男は、“きつね”くんは、やっとうっすらと目を開く。
 するとそこには、自分を見下ろしている怜の顔があった。
 普段のキリッとした怜ではなく、まるで母のように柔和な表情である。
 幼い頃の両親を除けば、怜のこんな表情を見たことがあるのは“きつね”くんだけだろう。
 “きつね”くんは2,3度瞬きをしたあと、そんな怜を見上げニッコリと笑った。
 そして怜の首を引き寄せると、その頬に自らの頬をこすり付けたのだった。

「おはよっ、怜」
「おはようございます、ご主人様」

 怜はそう言って、少し照れくさそうに年下の主人を抱きしめたのだった。
 ゆっくりと睡眠をとり、すっかりリフレッシュしたその肉体だったが、昨夜の痴態はまだ記憶に新しい。

 3日ぶりに捜査から開放され署を出た怜の脳裏には、もう『ご主人様』のことしかなかった。
 一刻も早く帰り、その顔を見たかった。
 だから雨の県道をバイクで疾走すると、怜は一直線にこの部屋へとやってきたのだ。
 そして呼び鈴に応えて扉を開けた“きつね”くんを目にするや、怜の自制は一気に弾けた。

「きつねさまぁっ!」

 小さく叫ぶと、怜はずぶ濡れの姿のままその体に抱きついたのである。
 ヘルメットが三和土に落ちて派手な音を立てるが気にもしない。
 抗議の声はキスで封じる。
 そしてそのキスを続ける間に器用にライダーズジャケットを脱ぎ捨てていったのだった。
 途端にふわっと湧き上がった怜の香りが“きつね”くんを包む。
 そのフェロモン全開の体臭を吸い込むと、熱烈な抱擁やキス以上に“きつね”くんの体は熱くなった。
 怜を自分のモノにして以来、“きつね”くんは時間を掛けてその心と体をチューニングしていた。
 けれどそれと同時に、“きつね”くんもまた怜の強烈な個性に魅了されていたのだ。
 本物の野生動物のようなストレートな求愛に忽ち股間が反応してしまう。
 そしてご主人様のその兆候を察知するや、怜は魔法でも使ったよう素早くジーンズを引き下ろして、その股間に顔を埋めているのである。
 キスの余韻にゆっくりと目を開けた“きつね”くんは、だからいつの間にか自分のペニスをパックリと咥えている怜を呆れたように見下ろすしかなかった。
 そして怜は両手でその肉の竿をゆっくりと愛撫しながらピンクの舌を淫らに這わせ、ワザとその様子を観察させている。
 見上げる瞳の淫蕩さ・・・

 ついさっきまで敏腕刑事として同僚の男達と渡り合っていた姿からは想像もできなかった。

「夜は長いんだよ、少し落ち着いたら?」

 両手を腰に当てそんな怜を見下ろしながら“きつね”くんは言った。
 すると怜は“きつね”くんの肉棒を口に含んだまま顔を横にふる。
 そしてまるで息継ぎをするようにホンの少しだけ口を離した時に、怜は答えた。

「ダメッ!3日分を取り戻すんだからっ、全然時間が足りないわっ」

 そして次の瞬間にはもう再び肉棒を喉の奥まで咥え込み、一生懸命首を前後に振り出していた。
 気付いてみれば、怜はいつの間にか全裸になっている。
 “きつね”くんがドアを開けてから、まだ3分も経っていないだろう。
 それどころか、まだドアに鍵さえ掛けていない。
 この性急さや奔放さは、まさしく怜の特質だった。
 これが諒子であれば、まず“きつね”くんをベッドに引っ張っていくのが先だろう。
 そんな事を考えながら“きつね”くんは小さく微笑んでいた。

「怜、もういいよ。そこで四つん這いになりなよ。入れてあげる」

 “きつね”くんは三和土を指す。
 すると怜はほんのりと上気させた頬と恥ずかしげな笑みの残像を残して三和土へと降りた。
 そして言われたとおりその場に四つん這いになると、膝を伸ばし“きつね”くんに尻を捧げる。

「どうぞ・・私の体でお楽しみ下さい」

 口調だけは殊勝な怜であるが、待ちきれないと言わんばかりに溢れかえった粘液が腿を伝っている。
 “きつね”くんの手が尻の割れ目を押し開くと、その量は更に増えた。

「“お楽しみください”ねぇ・・・モノは言いようだよなぁ」

 けれどその口調とは裏腹に“きつね”くんの肉棒にも力が漲っている。
 そしてゆっくりとその先端を怜の肉の割れ目に押しつけて・・・

「うわぁっ!」

 驚いた“きつね”くんは思わず声を上げた。
 自分が腰を前に進めるその直前のタイミングで、怜の尻がグイッと後ろに突き出されたのだ。
 ペニスはまるで飲み込まれるように、怜の胎内に収まっていた。

「はぁああんっ」

 こらえきれない快感を噛みしめ怜の嬌声が漏れる。
 そして四つん這いの不自由な体勢ながら自分から腰を振り始めた。
 体内の硬い肉棒を味わいだしていたのだった。
 “きつね”くんは怜のその意表を突いた行動に呆れたように目を丸くしていたが、やがてニヤリと口を曲げると反撃に出た。

「まったくっ、狼というより悍馬だよな、怜は」

 そして自ら振り続けている尻を軽く撫でた後、上体を前に倒し両手を伸ばして怜の乳房をギュゥッと握りしめたのだった。

「あうっ!」

 その瞬間、怜の脳天に突き抜けるほどの快感信号が走った。
 とても愛撫とは呼べないほどに力を込めて握ったのだが、それがヒートアップした怜にはちょうど良い刺激なのである。
 口の端から涎が零れる。

「怜、もう少し体を起こして。そう、ほらドアの鍵を閉めて貰えるかな」

 怜の腰の動きを相殺するように自らの腰を動かし、軽くジレンマを与えてやりながらそう口にする。
 すると快感という餌を求めて怜は欲情にトロけた脳をフル活用して目の前のレバーを捻った。
 このへんは動物の調教と同じである。
 金属質の施錠音を聞きながら、“きつね”くんは2度腰を使い怜に褒美を与えた。

「も、もっと、もっとぉ、お願いっ」
「今度は、方向転換だよ。ほら、右回りで」

 “きつね”くんの手が掴んだままの怜の乳房を再び握りしめた、ただし右側だけ。
 すると怜の体は、まるでその手に操られるように右にゆっくりと回転していく。
 乳房からの快感にその瞳は何も見ていなかった。
 操られるままに動いている。
 完全なラポールで結ばれた2人には、既に命令も暗示も差が無くなってきていた。
 180度方向を変えたところでもう一度怜に“餌”を与えた“きつね”くんは、そのままゆっくりと怜を押すように前に進み始める。
 下腹部を怜の尻にピッタリとくっつけ、両手を怜の乳房に回し、与える快感で舵取りをしながら廊下の奥へと移動していった。

「お願いぃぃ~、もっとしてっ、もっとぉ」

 薄暗い廊下には怜の湿った声と、まるでナメクジでも這ったような粘液の染みが点々と続く。
 そしてすっかり主導権を奪われた怜の頭の中では、もう自分の置かれた状況を把握する事すら出来なくなっていた。
 体を貫く肉の快感だけが全てだった。
 それを思いっきり前後に動かして貰える事が、それだけが望みの全てなのである。
 矜持も、意地も何もかも投げ捨て、ただそれだけを求めた。

『どっ、奴隷にっ、奴隷にお恵みをっっ』
「負けを認める?」
『み、認めますっ!ま、松田怜はっ、今日もっ、ご主人様にっ、完敗ですっっ!』

 自分ではそれを口に出来たのか、それとも頭の中で叫んだだけなのか、それさえ判らなかった。
 けれどそんな些末な事は、体の中心を貫く『快感』が生み出した歓喜で瞬時に粉砕される。
 力強い律動が遂に怜の体内をかき混ぜ始めたのである。

「ーーーーーーーっ!!」

 声にならない叫びとともに、怜の背筋が弓のように反った。
 そしてその筋肉の痙攣を強引に押し返しながら“きつね”くんの下腹部は怜の尻に何度も繰り返し打ち付けられたのだった。

 逞しく、それでいて女らしい柔らかみも十分に備えた尻を両手で掴み、その肉の間に自らの肉棒を出し入れする。
 するとあの精悍な怜がまるでオモチャのようにいいなりに反応する。
 その光景は、支配に馴れた“きつね”くんでさえ堪らなく刺激的だった。
 すぐに快感の限界線を超えてしまう。
 そして美咲で出せなかった不完全燃焼の欲望を一気に解消するように、何の躊躇いもなく怜の最奥にドクドクと流し込んだのだった。

 燃えるように熱いその体液を感じた怜は、数分間に亘る絶頂のピークから更なる高みへと全身の細胞を燃え上がらせ、そして遂に力尽きベッドへと倒れ込んだ。
 そしてそんな怜の尻を抱えながら、“きつね”くんもまた痺れるような快感の名残に溜息を吐いていたのだった。

「ふぅぅ・・・最高」

 怜も、そして諒子もこうしていつも主導権を握ろうといろんな手管で“きつね”くんに挑戦してくる。
 負けず嫌いな2人には、何もする前から黙って尻を差し出すことなど考えられないのである。
 たとえそれがご主人様であっても、なんとか主導権を握りたいといつも考えている。
 だからこそ“きつね”くんもまた楽しめるのだ。
 怜達の手管を躱し最後に屈服させ、こうして差し出させた尻にタップリと注ぎ込むことは男の征服欲を満たしてくれる。
 けれど、それはどちらかというと副賞のようなモノだった。
 “きつね”くんの楽しみは、そうではなく怜達の繰り出すその手管そのものにあるのだ。
 美女が男に対し与える影響力、それは催眠では無いにしろ相手を容易に取り込み、そして支配する強い引力を備えている。
 操る事を生業(なりわい)とする“きつね”くんにとって、自分に対しその力を行使する2人はこの上なくスリリングな時間を提供してくれる存在なのだ。

「気分はどお?」

 暫くして目を開けた怜に、“きつね”くんは囁いた。
 廊下の途中で訳が判らなくなった怜は、いつの間に自分がこのベッドに辿り着いたか判らなかった。
 気が付けばベッドの中で“きつね”くんの腕の中に抱かれている。
 けれど戸惑いはない。
 これがいつもの事なのである。
 この年下のご主人様に今夜も完敗したのだ。

「悔しい・・」
「何故?」
「プライドがズタズタよ。一生独りで生きていける筈だったのにっ」

 怜は頬を“きつね”くんに擦りつけた。
 するとすぐに“きつね”くんの声が答える、その表情がありありと脳裏に浮かぶ口調で。

「・・・じゃ、独りにしてあげようか?」

 怜はその答えを予期していたようなタイミングで両手を“きつね”くんの首に添える。

「殺してやるわ。それで貴方を食べちゃうから」
「ふふふっ・・・君が言うと猟奇殺人というよりホントの食物連鎖みたい」

 “きつね”くんの言葉に2人は顔を見合わせて笑った。

「リベンジしてみる?」
「当たり前よ。まだ精々1日分しか受け取ってないんだからっ」
「良いのかな?3連敗するともっとプライドが傷つくけど」
「足腰たたなくしてあげちゃうからっ」

 暗闇でチュッと音がすると、それを合図に再び衣擦れの音としめった呼吸音が始まり出す。
 それが昨夜の出来事だったのだ。

「今日はどうされるんですか?」

 朝のシャワーの後、テーブルに着いた“きつね”くんにトーストとコーヒーを差し出しながら怜は訊いた。

「ん?もうすぐ出かけるよ」
「うそっ、いつもより早いんじゃないですかぁ?今日は私、午前休なんですよ。ゆっくりできると思ってたのにぃ」

 怜は隣に座り、誘惑するように腕を絡めた。

「うん、学校は午後だけなんだけどね。ちょっと仕事が入っちゃって」

 朝のニュースを見ながら“きつね”くんは何気なく言う。
 けれど怜の表情は曇った。

「ドールメイカーの仕事ですか?まだ春休みには早すぎですよ」
「もちろん単なるヘルプだよ。1人堕とす程度らしいから、午前中で終えて午後から学校」

 けれどそれを聞いても怜の表情は晴れない。
 自分は平気で乱闘事件にも介入していくくせに、“きつね”くんがドールメイカーの仕事をするというだけで心配で堪らないのだ。

「宜しければバックアップしますよ?午前休だし・・・」

 けれど“きつね”くんは間髪入れずに断った。

「全然いらないよ。僕がバックアップなんだよ。バックアップのバックアップなんて聞いたことがない。それにもし必要になったら諒子に頼むさ」

 けれど諒子の名を訊いて怜が黙っている筈がない。

「あらっ、私の方が全然役立ちますよ。あんな素人じゃ見張りもできやしないっ。却って足手まといだわ」

 怜の言葉には全く容赦がない。
 けれど“きつね”くんは小さく笑みを浮かべると2度うなずいた。

「判ってるよ。確かに怜と諒子じゃ経験に差が有りすぎだからね。でも、もう決めてるんだ。ドールメイカーの仕事をする限りにおいて、怜には黒子に徹して貰うよ。正面に立つのは諒子なんだ」

 優しい口調ではあるが、それは間違いなく“きつね”くんの命令だった。
 怜が口を挟める事ではない。
 無言で視線を落として頷くしかなかった。

「怜が刑事だってことは僕にもメリットが大きいんだよ。それに・・・」

 慰めるような口調のその言葉を、怜はしかし遮った。

「それに、もしも私の正体がウチの連中に知れたら、逆に物凄いデメリットになる・・・ってことですよね」

 後を引き継いだ言葉に、“きつね”くんはもう一度頷いた。

「そういうこと。特にバックアップなんてつまらない仕事じゃそんな冒険はできないさ」
「判りました。雑魚キャラは諒子に任せますわ。でもボスキャラと対決する時は是非呼んでくださいね」

 冗談ぽい口調だが、その視線は真剣だった。
 本当に心配性になったようである。
 “きつね”くんはそんな怜の頬にチュッとキスをすると、ニッと笑いかけた。

「ピンチになったらちゃんと呼ぶよ。“助けて○ラえも~んっ”てね」
「あら、了解ですわ。そしたら『どこでも○ア』ですぐに参上いたしますから。目を瞑って良い子で待っててくださいね」

 まるでいたずら小僧の母親のような眼差しで怜は唯一の主人にそう言ったのだった。

                    *

『・・・えぇ、それでいいわ。明日の10時にスカイビルに呼び出しを掛けさせたから。仕込みはやっぱり私がするわ。あなた達は運搬担当。宜しい?』

 スピーカからは驚くほど鮮明に蘭子の言葉が再生されていた。
 盗聴記録を回収した2人は、車をコンビニの駐車場に止め早速内容の確認を始めていたのだ。
 頭を寄せ合い一つの音源に聞き入っている。
 しかし盗聴成功に沸き立ったのは一瞬だった。
 すぐに核心に触れたその会話は、2人から表情を奪うには充分な内容だったのである。
 そして録音を聞き終わった途端、木之下は右手の拳を左手の掌に叩きつけた。

「畜生っ、なんてタイミングなんだっ」
「美咲っ!スカイビルの場所っ、判るかっ?!」

 川瀬は怒鳴るように美咲を振り向いた。
 すると美咲は弾かれたように慌ててカーナビの地図を呼び出していた。

「ここですっ。それで私たちがここっ。そんなに遠くありません。到着時間は40分って出てますっ」

 腕時計を覗き込んでいた木之下はその言葉に指を鳴らす。

「よぉ~しっ、間に合うっ。ギリギリだけどな。5分前に到着だっ」
「美咲っ、すぐ出発だっ。すっ飛ばせよっ、“きつね”狩りが始まっちまうっ」

 木之下の言葉に川瀬はもう一度美咲に怒鳴った。
 その言葉に、運転を代わった美咲はランクルを猛然とダッシュさせる。
 駐車場を飛び出すや、タイヤを鳴らしながら加速。
 3人の体はシートに押しつけられた。
 そして重いエンジン音を聞きながら木之下はもう一度拳を左手の掌に叩きつけたのだった。
 まさか、もう既に作戦がスタートしていたなど、考えもしていなかった。
 愚図愚図していたら肝心の交渉相手が手の届かないところに連れ去られてしまう。
 そうなってはもう破滅しかなかった。
 木之下はジリジリするような気持ちで間に合う事を祈っていた。

「頼むぜ・・・このままスカイビルまで行かせてくれよ」

 しかしそれを耳にした川瀬が何かを思いついたように顔を上げる。

「そういやぁ・・・間に合ったとしてどうやって阻止する?俺はまだ『きつね』って奴の特徴を聞いてないぜ。お前は聞いてるのか?」
「いや、聞いていない。っていうか、俺らは誰も奴の顔を知らないんだ。勿論チーフは会ってるんだが、すっかり記憶は消されているようだし・・・」

 木之下は抜け目なくそれを確認していたようである。
 けれどその話を聞いて川瀬は目を丸くした。

「お、おいっ、なんだよ、それじゃ駆けつけても何もできねぇじゃねぇかっ」
「あぁ、だから俺たちが注目すべきは『きつね』ではなく蘭子のほうだろう。あの女を見つけ出しチェックする」
「蘭子・・・か。う~ん、確かにそれしか手が無ぇなぁ。しかしよ・・・少しヤバイかもよ。俺やチーフは少なくとも面識はある。万が一でも面が割れたら、後で蘭子の追求があるかもしれないぜ」
「判ってる。一応俺が前に出るよ。昨夜、変装した姿は見れたしね。でも・・・やっぱり時間が欲しいな。奴らの罠がどんなのかも判らないと邪魔しようもない」

 木之下の眉間の皺が険しくなる。
 けれどその時、川瀬が不意に呟いた。

「いや、そうでもないぞ。俺、思いついた」

 そして訝しげな木之下の視線を跳ね返して続けた。

「要は『きつね』の旦那が蘭子たちと会わないようにすりゃぁ良いんだよな?」
「なんだ?何をする気だ?」

 木之下が身を乗り出したところで、しかし車がいきなり減速した。
 思わず前席のシートに手を突いて体を支えた木之下は、顔を上げて前を見る。
 するとそこには踏切で渋滞している朝の通勤風景が映っていた。
 思わず拳を固めた木之下だったが、川瀬は違った。
 自分の鞄を漁ると、そこからPDAを取り出したのである。
 そしてブラウザを立ち上げ何かを熱心に検索し始めたのだった。
 木之下がその画面を横から覗き込んでいると、やがてその画面に『スカイビル』の名とその中の店舗情報が表示されたことに気付いた。
 けれどそれでもまだ川瀬のプランが判らない。
 しかし川瀬はそんな木之下を完全に無視すると、運転席の美咲に訊いた。

「おいっ、携帯持ってるかっ?足のつかねぇヤツッ」
「有りますっ。私の鞄に一つ常備してるのが」
「上等っ」

 そして川瀬はその携帯を探り当てると、間髪を入れずに電話番号を入力した。

「おいっ、何処に掛けてるんだっ」
「しっ!」

 木之下の問い掛けは、しかし人指し指を口の前に立てた川瀬によって遮られた。
 僅かワンコールで相手が出たようである。
 そして川瀬は押し殺したような声を作って、ゆっくりと言葉を紡ぎ出したのだった。

「おいっ。1回しか言わないからよく聞け。たった今、お前達のビルに爆弾を仕掛けた・・・」
『・・・はぁ?』

 間抜けな相手の声が漏れ聞こえる。
 しかし木之下はその声と同じくらい間抜けな顔をして、川瀬の顔を見つめていたのだった。

                    *

 頬を斬るような冷たい風は、しかし抜けるような青空と同居していた。
 “きつね”くんはモコモコのダウンのファスナをしっかりと閉め、両手はそのポケットに突っ込んだまま、明るい午前の街をテクテクと歩いている。
 目指すビルはもう目の前だった。

「うぅっ、さっっぶぅ」

 折りからのビル風に額の髪が舞い上がると、“きつね”くんはホントの狐のように目を細めて首を竦めた。
 足を速めて回転ドアに飛び込む。
 すると途端に世界が変わった。
 暖かで少しだけ薄暗い静かなロビーが広がっていたのである。

「やっと着いたぁ」

 溜息とともにゆっくりと視線を巡らす。
 するとすぐにエレベータを見つけた。
 ロビーの端の一角である。
 腕時計にチラリと視線を向けた後、“きつね”くんはそこへ向かった。
 最上階の喫茶店が待ち合わせ場所なのである。

 ビジネスマン達が数人立ち話をしている横を抜け、ゆっくりと歩く。
 しかしエレベータのインジケータが見えるところまで来て、“きつね”くんは少しだけ足を早めた。
 3基あるエレベータのうち1基の扉が開いたのだ。
 けれど降客はたった2人、そして到着を待っている客もいない。
 扉はすぐに閉まろうとする。
 そして微妙な距離にいた“きつね”くんは、結局ダッシュすることを選んだのだった。
 閉まり掛ける扉に手を挟み、もう一度開扉させる。

「間にあったぁ」

 そして自分が乗り込むと同時に最上階を押し、『閉』ボタンに指を掛けた。
 しかし小走りに駆けてくる中年の女性に気付くとその指を『開』に移動させる。
 そして申し訳なさそうに頭を下げて乗り込んで来たその女性に、“きつね”くんは気軽に訊いたのだった。

「何階ですか」
「あ、すみません。あの、10階をお願いします」

 言い終わると同時に10階が点灯し、そして扉が閉まった。
 すぐに上昇の加速度を感じる。
 “きつね”くんは移動するインジケータを見上げながら、しかし何か違和感を感じていた。

 (えっと・・・何だろう)

 ちょっとした引っかかりに、“きつね”くんは無意識に深呼吸した。
 精神集中する時の癖である。
 しかし、肺に溜めた空気をゆっくりと吐き出そうした途端、膝からカクンと力が抜けた。

「あ・・・」

 咄嗟に片手を伸ばし壁に縋ろうとしたが指が届くより先に、膝が床にぶつかった。
 振り仰ぐ視界には、先ほどの女性が自分を不思議そうに見下ろしている姿が映る。
 助けを求めるように口を開いた。
 しかしそこからは微かな呻き声が漏れるだけだった。

「どうされました?」

 驚きよりも好奇心いっぱいの表情でその中年の女が腰を屈める。

 (おかしい・・・)

 自分の身に起こった事より、その女の表情に違和感が湧き上がった。
 焦点がぶれ始めた視界に、自分に覆い被さるようにして顔を覗き込んでいる女の顔が迫る。

 頬の弛み、目尻の皺、厚い化粧の匂い・・・

 しかし、メガネの奥のその瞳に、自分を見つめているその瞳に気付いた時、“きつね”くんは一瞬にして事態を把握した。
 全てがクリアになり、全てを完全に理解した。
 反射的にジーンズのポケットに手を伸ばす。
 しかし“きつね”くんの意思とは裏腹に指は途中で勢いを失った。
 そして相手に理解の光が灯ったことを気付いたように、女もまた目を細めたのだった。
 口元にはアルカイック・スマイルが浮かぶ。

 けれども、その表情を見詰める者はもういなかった。
 “きつね”くんは奈落のような眠りに引き込まれながらも、心の内に仕掛けた退避扉を全速力で駆け抜け心理シェルタを発動させたのだった。

 “きりん”さん・・・貴方が落されていたなんて・・・

 意識が完全に途切れる寸前、脳裏にポツリとそのフレーズが浮かび、そして・・・

 ブラック・アウトした。

 すると、まるでそれを待っていたかのようにエレベータは上昇スピードを緩め、やがて停止した。
 10階へ到着である。
 そして扉が開くと同時に、大型テレビのダンボール箱を台車に乗せた男が2人無言で乗り込んできたのだった。
 何れも屈強な体格である。
 そして床の上の“きつね”くんを見ても表情一つ変えない。
 それどころか流れるような動作で「閉」ボタンを押すと、伏した体を軽々と担ぎ上げたのである。
 その間、もう一人の男はダンボールの上を開き、その中を晒す。
 エレベータの明りに照らされたそこはカラッポであり、代わりに木枠で補強してあった。
 先程の中年女は無言でそれを覗き込むと、小さく肯き男に目で合図する。
 すると2人の男は、抱えた男をダンボールの箱の中に丁寧に入れ、そして蓋を閉じたのだった。
 1人の意志ある男が運搬物になった瞬間である。

                    *

 ぽ~んっ、という微かな音と共にエレベータの扉が開く。
 最上階の喫茶室から出てきた客は、礼儀正しく降客優先でエレベータの前を開けて待っていた。
 けれど到着した箱に乗客はいなかった。
 だから皆、それぞれ連れと話しながら次々と乗り込んでいく。
 無論、この箱が十数階下にいる時に発生した出来事など気付く者は居なかった。

 ゆっくりと扉が閉まっていく。

 日に何度となく繰り返されるルーティンがまた始まるのだ。
 しかし、その当たり前の動作に、この時異変が生じた。
 閉まりかけた扉の動きが不意に止まったのだ。
 そして逆に全開の位置まで戻ってしまった。
 操作盤の傍に居た乗客が不思議そうにもう一度『閉』ボタンに指を伸ばす。
 しかしその時乗客達の耳に、突然館内放送が飛び込んできたのだった。

「おっ、お客様並びに全従業員にお知らせしますっ。ただいま消防より連絡があり、当ビルに爆発物を仕掛けたとの情報が、あ、ありっ、至急避難するよう指示がありましたっ。速やかに、非常口よりビルの外に退去願いますっ。なお、エレベータは使用できません。繰り返します、エレベータは使用できませんっ。非常階段をご利用願いますっ」

 泡を食ったその放送に乗客達は血の気のひいた顔でエレベータから飛び降りた。
 そして緑の非常口サインを追って小走りに非常階段へと急いだのだった。

 一方、“きつね”くんを罠に掛けた女はその足で地下駐車場のトイレに直行していた。
 輸送担当の男達とはすぐに別れ、別々のエレベータで降りてきていたのだ。
 男達はそのまま運送会社にカムフラージュされたトラックでアジトへと向かう。
 そして女も別コースを辿って、その場所で合流する手筈なのだが・・・

「お待たせしちゃったかしら?」

 コートを脱ぎながら唯一閉まった個室に外から声を掛けると、それが合図だったのか、中から女が出てきた。
 しかし、驚いた事に2人の女の出で立ちは全く同じだったのである。
 それだけではない。
 小太りの体型も、そして何よりその面差しも、鏡に映ったようにそっくりだったのだ。

「それじゃ、あとは宜しくっ」

 女はそう言って相手にコートを手渡すと、パチンと目の前で指を鳴らした。
 すると個室から出てきた女はまるでスイッチが入ったように表情を取り戻す。
 そしてニッコリと微笑むと、手渡されたコートを羽織り目の前に翳された車のキーを受け取って、何事もなかったように出て行ったのだった。

「さぁて、ここからが第2の化かし合いなのよね」

 女はそう呟くと鏡に向かった。
 そしてバッグから小さなナイフを取り出すと自分の顎の下にその切っ先を軽く突き立てる。
 すると女の弛んだ皮膚が捲り上がったが、何故か血は一滴も出ない。
 そしてその皮膚の端を掴むと、無造作に捲りあげたのだった。
 一瞬にして女の顔が若返る。
 ダブついていた顎がスッキリと美しいラインを取り戻したのだ。
 女はそして、そのまま俯いて洗面ボウルの上で顎と頬を丁寧に洗った。
 特殊メイクの残滓が消える。
 するとそこには20代のきめ細やかな美しい肌が完全に蘇っていた。
 そしてウィグを毟り取ったその姿は間違いなくSクラス・エージェント『蘭子』、その人だったのである。

 蘭子の代わりに出て行ったのは、だから単なる『デコイ』である。
 蘭子のセラに乗り、柏田会との打合せどおりにアジトへと向かうのだ。
 けれど・・・

「居ない・・・でしょうね」

 それが蘭子の読みだった。
 “きつね”くんをゲット出来た時点で自分の役目は終了している。
 あとの使い道はスケープゴートしか考えられなかった。
 おそらくアジトには罠が張られている事だろう。
 捕らえて、万が一マインド・サーカスとの交渉に失敗した時に差し出せるよう準備している筈だった。

「ま、殺される事はない筈だから、辛抱してよね」

 以前、蘭子が捕まっていた時に、その姿を見学していた女達から体型が一番近いのを選びこの『デコイ』に仕上げておいたのだ。

「甘いのよね、あの爺さん。自分が狸であることを悟らせたら、それだけでこの稼業は失格よ」

 蘭子は個室の中に置かれていた紙袋から地味なジャケットを取り出しそれを着た。
 そして髪を後ろで束ね、メタルフレームの眼鏡を掛ける。
 たったそれだけで蘭子は平凡な事務員へと姿を変えたのだった。

「さぁて、それじゃ“きつね”くんの居場所まで案内して貰いましょうか」

 蘭子は鏡の中の自分にウィンクをしてそう呟いた。
 “きつね”くんのジャケットには発信器を忍ばせておいたのだ。
 その為にわざわざ仕込みを買って出たのである。
 “きつね”くんが昏倒してから10階につくまでは僅かな時間だったが、それでもポケットに小型発信器を突っ込むには充分過ぎる時間だった。
 PCでトレースを行えば、いずれ場所が特定できるだろう。
 蘭子は意気揚々とトイレを後にした。
 しかしちょうどそのタイミングで、あの館内放送が流れてきたのだった。

「なぁにっ?この騒ぎはっ。まったく困ったヒトがいるものね」

 呆れたように呟いた蘭子は、しかし無視して階段を上り掛けたが、そこでふと足を止めた。

 (これがもしもあと5分早かったら、今日の計画は頓挫してたわ・・・)

 待ち合わせの変更を余儀なくされた“きつね”くんは、きっと“くらうん”に連絡を入れるだろう。
 そうすれば“きりん”の連絡の嘘がばれる。
 いずれは堕とされていたことも発覚するだろう。

「凄いラッキーだったの?・・・違うわね、こんなタイミングが偶然の訳がないわ」

 蘭子の目が厳しくなる。
 柏田会に邪魔をする理由がない以上、この計画が第3者に漏れているのは明白だった。

「少し不用心だったかしら・・・」

 そう呟きながら、しかし蘭子は再び階段を上がりだした。
 もう計画は走り出してしまっている以上、迷っている時間は無いのだ。

 出たとこ勝負っ!

 蘭子は腹を決めると1階ロビーに出た。
 すると、そこにはどこから湧いて出たのか、背広姿のサラリーマンとOL達が我先に出口に殺到していたのだった。

「あらまぁ・・・なんだか凄い好都合だわ」

 今の出で立ちであれば、完全に群衆にとけ込んでいる。
 蘭子は人の列に加わると、背を押されながら太陽の下へと押し出されたのだった。
 雲一つ無い青空と頬に当たる冷たい風が気分を高揚させる。
 蘭子は大きく深呼吸した。

 蘭子の長い長い一日がたった今始まったのである。

 そして同じ頃、『デコイ』は決められたコースを正確に辿っていた。
 街へ向かう反対車線はいつもどおりの渋滞であるが、逆に郊外に向かう道はガラガラだったのだ。
 抜けるような青空に『デコイ』もまた気持ちよさげな笑みを浮かべている。
 数台あとをつけてくる柏田会の車の事など全く気付いていなかった。
 けれど、それもまた蘭子の想定どおりなのである。
 出来るだけ自然に振る舞い、アジトまで行って貰えばOKである。
 蘭子が姿をくらますためのミスディレクションには、それで充分だったのだ。

 だから、蘭子にとって徹底的に不幸だったのは、その渋滞している対向車線に1台のランクルがいた事だった。

「あっ・・・あれっ!あのセラッ」

 抜け道を探すように左右を見渡していた美咲の視界に真っ赤なセラが飛び込んできたのだ。
 後部座席の2人も反射的に視線をあげ、その車を捉える。

「ら・・・蘭子だっ!」

 木之下が叫んだ。
 明るい日差しにドライバーの顔はクッキリと見える。
 そしてその顔が昨日変装して出掛けた時の蘭子の顔と全く同じだったのだ。

「間違いないっ!ナンバーも合ってるっ」

 川瀬も興奮した口調で喚いた。
 けれどそのセラがすぐ脇を通り過ぎた時、ドライバーの横顔を間近で見た時、美咲は何か違和感を感じていた。
 ほんの一瞬のことに、その違和感の正体までは判らない。
 しかし、その違和感の訳を考える前に命令が下った。

「美咲っ!追えっ!」

 川瀬である。
 そしてその命令は、今の美咲には神の声に等しいのだ。
 美咲は直ちにコクンと頷くと、対向車が数台通り過ぎた後の僅かなタイミングに強引に車をUターンさせた。

「ついてるぜっ、俺たち」
「ああっ!この渋滞で絶対ダメだと思ってたよっ」

 2人の男達は興奮した口調で、そう言い合う。
 けれど独り美咲だけが、無言でステアリングを握っていた。
 厳しい視線は何を見ているのか・・・

 そして・・・

 ちょうどその頃、怜の部屋で電話が柔らかな音を立てていた。
 この部屋の主人は3日分の新聞に目をとおしているところだった。
 猫のようなしなやかな身のこなしで立ち上がると、受話器を取り上げる。

「はい・・・」

 誰何するような口調は、しかし相手の名乗りを聞いてすぐに氷解した。
 目が輝いている。

「用意、出来たんですかっ?!」

 弾むような口調が、珍しい。

「えぇ、えぇ。大丈夫ですよ。何時までやってます?今日は」
「あぁ、そうですか。それじゃ、4時・・半にしましょうか」

 そして通話が終わるやいなや、小さくガッツポーズをした。

「やったっ、もう来たんだっ」

 そしてソファに置いてあったキツネのぬいぐるみをギュッと抱きしめたると、悪戯そうな笑みを浮かべて小さく呟いたのだった。

「良いわよね、今夜は。きっと喜んでくれる筈だし」

 そして、すぐにクローゼットに足を運ぶと、外出の支度を始めたのだった。

 怜の長い長い1日もまた、こうして始まったのである。

< 第2幕 奈落(終了) >

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