超越医学研究所HML JINBO電撃作戦(後編)

JINBO電撃作戦(後編)

 皆さん、超越医学研究所・主任研究員の神保美紀です。
 私ともと子ちゃんは、キャシー竹橋さんの病状の原因を探るべく、オーストリア・ウィーンにあるエリノア財団の本部にやってきました。
 財団の理事長はご不在でしたが、研究員のドクター・ケルセンブロック、管理部長のミス・ダニエラには、とても親切にしていただき、私たちは目的に一歩近づくことができたのです。
 少しトラブルもありましたが……。
 ドクターMという謎の医師が、どうやらキャシーさんの過去に深く関係しているらしい、ということがわかってきました。
 だけど、このドクターMの一件、何やらきな臭い匂いがしてくるのですが……。
 
 ――ここは神保美紀とニコライ・D・ケルセンブロックが夕食をともにした、ウィーン市街のとある古式ゆかしきレストラン。
 美紀とニコライが食事を終えて、レストランを出ようとするその時、若い女性と、彼女に影のように付き従うかのような、二人の屈強な男性の三人組とすれ違った。
 女性は、すれ違いざまに短い口笛を鳴らした。
 
「誰かと思ったらニコルのお坊ちゃんじゃないか。このヤブ医者」
「ニーナ……」
 大きく胸の開いた派手な衣装。ジャラジャラと音を立てているアクセサリー。蓮っ葉な口のきき方。
 男二人の格好も、町のチンピラといういでたちで、明らかに店の雰囲気には似つかわしくない三人連れであった。
 知らない人間から見れば、その筋の人間か、芸能人といったところだろう。
 
「女連れとは隅におけねえな。これからホテルかい?」
「ニーナ……。失礼なことを言うんじゃない。この方は日本からのお客様だ」
 ニーナと呼ばれた少女は、へっへっ、と下卑た笑いを残して、店の奥の方に入っていった。
 ボーイがあわててとんできて、「困ります」と、しばらく押し問答をしていたが、やがて三人は壁際の席におさまった。
 ニコライがニーナと呼んだその娘は、テーブルに着いてからもじっと美紀の方を見ていたのだが。
 
「昔、彼女の母親を診察したことがあるんです。素直な娘だったんですが……。彼らはロシアからの移住者です。ああしてグループをつくって、ロシア・マフィアともつながりを持って、いい気になっているんです」
 ドクター・ニコルは勘定を済ませ、美紀を先に立たせて店を出た。
「実は彼女は……」
 と、何か言おうとしてニコルは口をつぐんだ。
「お役に立てなくて申し訳ありません。ドクター神保」
「いいえ、とんでもない。とても楽しかったですわ」
 
 
 ――次の朝、私ともと子ちゃんが、財団本部に顔を出しますというと、ミス・ダニエラが、ドクター・ケルセンブロックと、運転手のイワノフさんを集めて、何やら深刻なお顔で相談していらっしゃるところでした。
 
 ミス・ダニエラが開口一番こうおっしゃいました。
「たいへん申し訳ありません、ドクター・神保。データ管理システムにトラブルが生じ、メンテナンスを行わなければならなくなりました。
 イワノフにでも案内させますので、それまでの間、ウィーン市内でも観光していらっしゃっては?」
「ホーフブルク宮殿から、シュテファン寺院、少し足を伸ばせばウィーンの森までご案内できます。今は少し寒い季節ですが、カーレンベルクの丘からは、ウィーン市街が一望できますよ」と、イワノフ氏。
 ドクター・ニコライは申し訳なさそうに、
「僕がご案内してもいいのですが、あいにく午前中は医療専門校で大脳生理学についての講義が入っていまして」
「あら、それではぜひ、ドクター・ニコライのご講義を拝聴させていただきたいですわ」
「やだ! あたし、ウィーンの森行きたい!」
「もと子ちゃん……!」
「行きたい! 行きたい! 行きた――い!!」
 
 もと子ちゃんったら、子供みたいに手足をバタバタさせて。ふう……仕方ありませんわね。1日ぐらい息抜きをさせていただいても……。
 
「申し訳ありません、イワノフさん。お忙しいところを」
「いえ、よろしいのですよ」
 
 それから私ともと子ちゃんは、イワノフさんにご案内いただいて、ウィーン市街を観光して歩いたのです。
 
 ウィーンの旧市街のほぼ中央に位置するシュテファン寺院。130メートルを超える高さの北の塔からは、市内の様子が一望にでき、とてもすばらしい眺めでしたわ。
 
 ホーフブルク王宮は、かつてのハプスブルク家の居城です。バロック様式の見事なミヒャエル門から入りまして、左右に続くのが旧王宮を見てまいります。
 一般公開されている「皇帝の部屋」の、食器、陶器などコレクションの数々は、それはすばらしいものでした。
 
 そして私たちは、午前中のうちに、ベルヴェデーレ宮殿までたどり着いたのです。オイゲン公の夏の離宮として、建てられたバロック様式の建物。
 ヨーロッパの貴族たちは、短い夏を、避暑地に遊ぶという形で楽しんだのですわね。
 上宮と下宮に分かれた宮殿の、上宮は現在、ウィーン美術の傑作を集めたオーストリア・ギャラリーとして一般に公開されています。
 一階には、いにしえのビーターマイヤー朝の作品の数々。
 二階には、グスタフ・クリムト、エゴン・シーレに代表される19世紀末から、戦後に至るウィーン幻想派の作品を集めたスペースが設けられております。
 
 「接吻」とタイトルの記された絵画の前で、私たちは足を止めました。
 きらびやかな金色の衣装をまとった男女が抱擁し、今まさに口づけせんとする場面を幻想的な筆致で描いた作品ですわ。
 男性の方が背が高いので、女性は上を向き、眼を閉じ唇を待ち受ける。
 ちょうど私と、水道橋所長の身長差がこれくらい……って、まあ、いやですわ、私ったら、芸術を前にしてイケナイ妄想にふけってしまうなんて。
 
「これは、クリムト」
「ほう、ドクター神保はクリムトをご存知ですか?」
「グスタフ・クリムト……よく存じ上げております。日本でオーストリア世紀末美術の企画展を観たことがありますわ」
「ウィーンの芸術が日本でも理解されていることを誇りに思います。実は私も、芸術の都に憧れて、ロシアから留学生としてウィーンにやって来たのですが……」
 
 イワノフさんはロシアの方だったのですね……。イワノフさんの学生時代というと、旧ソ連邦の時代でしょうか? 私は何かイワノフさんの経歴に複雑なものを感じたのですが、その時は黙っていました。
 
 そして私たちはさらに歩みを進めて、一枚のクリムトの絵の前に立ったのです。
「『ユーディット』と呼ばれる絵です。正確には、ホロフェルネスの首を抱いたユーディット」
「………………」
「ユーディット、宿命の女。女性が男の首を抱いていることから、この絵は長い間『サロメ』と呼ばれていました」
 唇のあいだから歯を覗かせ、薄目を開け、衣服は前開きで、片の乳房を剥き出しにしたほっそりした肢体の女性……。それは官能的で恍惚とした表情は酷薄なイメージを与えるものでした。
 「接吻」の、あふれるようなエロスと生命感に比較して、この絵から私が感じたものは、は死と隣り合わせのみだらな官能でした。
「旧約聖書から題材を取っています。ユーディットは美貌の寡婦にして、ユダヤの救国の女性……。祖国を救うためにアッシリア軍の敵将、ホロフェルネスを誘惑し、その首を切り落としたのです」
 ユーディットを題材に作品を描いた画家は、古今数多くいたそうですが、その時私達が目にしたクリムトの描く「ユーディット」は、ひどく退廃的なイメージに満ちており、誤って悪女サロメと呼ばれていたのもわかる気がいたします。
 
 イワノフさんのお話につりこまれてしまったのか、私は行き詰るような気分のまま、ギャラリーを出たのです。
 
 心に一片のトゲが刺さったような、そんな気持ちを抱きつつ、私達はウィーン北の森一帯に点在するウィーン風居酒屋で、食事とワインを取ることにしました。
 もと子ちゃんったらそんなに食い散らかして、恥ずかしいったらありゃしませんわ。
「ドクター神保は……」
 イワノフさんがおもむろに口を開きました。
「医師としての仕事に誇りを持っていらっしゃる。尊敬に値します」
「いえ、私は当然のことをしているだけで……」
 ここはカーレンベルクの丘の裾野。丘全体が森になっており、頂上からはウィーン市外はもちろん、ドナウ川の流れも一望に見渡せるそうです。
「あの、イワノフさんって、ロシアの方なのですね?」
「私はアフガンからの帰還兵でした」
「……………」
「ソ連邦の崩壊後、祖国で生活できなくなった私は、学生時代を過ごしたウィーンにやって来ました。ミス・ダニエラのご好意により、今ではエリノア財団で働かせていただいています」
「ご苦労、なされたんですね」
「いえ、死んだ戦友たちからすれば、私の苦労など……」
 聞いてはいけないことを聞いているような気がしていたのですが、気がつくと私はイワノフさんの顔をじっと見つめていたのです。
 イワノフさんは、終始無表情で、それでいて何もかもわかったような顔をしていらっしゃいました。
 しばらくの沈黙ののち、イワノフさんは自分の片方の目を指差して、おっしゃいました。

「私の目を御覧ください」
 私ともと子ちゃんは、つられてイワノフさんの目を覗き込んだのです。
「私は戦争で片目を失いました。私の右目は義眼です」
「それは……」
 なぜかその時、イワノフさんの目が、チカチカッと光ったような気がしました。
「祖国のため……ユーディットのように美しく、気高くとはいきませんでしたが……私達は命がけで……」
 いけませんわ。急に眠気が……。
「すみません……イワノフさん……私、ちょっと……」
「お疲れのようですね、ドクター神保……」
 イワノフさんの言葉が、まるでこの世でない、どこか遠くから聞こえてくるような心地がして……。目の前がくらくらっとして……。
 
「ドクター神保、あなたには恨みはないが、これもミス・ダニエラのご命令です」
 もと子ちゃんががっくりとテーブルに突っ伏したのが目に入りました。
「もと子ちゃん、あなた、こんなところで眠ってはいけませんわ……」
「ふにゅ?」
 もと子ちゃんにそれ以上反応はありませんでした。そして私の記憶はいったんそこで途切れたのです……。
 
 ――神保美紀と小川もと子の二人が昏倒すると、どこからともなく、一人の派手ないでたちの若い女が、チンピラ風の男二人を従えて現れた。
 女は、美紀を見ると、ニヤリと狡猾そうな笑みを浮かべた。
「あたしこの女知ってる。ゆうべニコルとデートしてた日本人だよ」
 
「ニーナ、早くこのお二人を車にお連れするんだ」
 店内には彼女達のほかにも、数組の客がいたが、イワノフと彼が呼び寄せたロシア人達の手際のよさに、声を上げる暇さえなかった。
 
 気を失った美紀ともと子が連れてこられたのは、周囲を森に囲まれた、ログハウスだった。
 二人は、眠り続けたままイスに縛りつけられている。
「兄さん、この女何さ? 金ヅル?」
「知る必要はない。お前達はここまででいい。ご苦労だった」
「つれないこと言わないでよ、兄さん。締め上げるんだったら手を貸すわよ」
「手荒な真似をする必要はない」
「あ~~ら、兄さん、でもあたしにも都合ってもんがあるの……。アレクセイ! ドミトリー!」

 イワノフの腹部に拳銃が突きつけられた。
 背後からアレクセイ、ドミトリーと呼ばれた二人の男が、イワノフを羽交い絞めにし、机に押さえつけた。
 
「何の真似だ? ニーナ」
「どうせダニエラの差し金だろう? あの糞ババアにひと泡吹かせてやるのさ」
 仲間割れか、内輪もめか、痴話ゲンカか……。ますます雲行きが怪しくなってきた。
 何も知らずに眠りこける神保美紀と小川もと子。
  ・
  ・
  ・
「ミス・ダニエラ、ドクター神保はまだお戻りではないのですか?」
「いいえ。もう夕刻ですし、直接ホテルにお帰りになったのかもしれませんね」
「おかしいな……。イワノフも戻っていないようだし。こんな時間までどうしたんだろう?」
「……………」
「僕のほうで、ドクターMに関する資料をまとめてみたんだ。きっとドクター神保にも喜んでもらえると思ったのに」
 ミス・ダニエラは眉根にしわを寄せ、やがてきっぱりと言った。
「ドクター・ニコル。あなたにお話があります」
「は?」
「これ以上、ドクター神保に詳細な情報を与えることは、私達にとって得策とは思えません」
「何をおっしゃっているんです、ミス・ダニエラ? ドクター神保はわざわざ日本からお越しになったんじゃありませんか。
 超越医学研究所は、エリノア財団の関連組織、いわば僕達の仲間じゃありませんか」
「しかし彼女達は日本人です。
 この件については、欧州連合の利権を優先的に考える必要があります」
「そんな……何を言っているのかわからない!」
「それともうひとつ、ドクター神保は、財団のマル秘データに不正アクセスした形跡があります」
「それは知らなかった……。しかしそもそも何がマル秘なんです?! 彼女はただ自分の患者に関する情報を知りたいだけでしょう!」
 
「とにかく、ミス・エリノアがご不在のいま、彼女の調査活動はいったん中止してもらうべきです!」
「理事長は、きっと僕の考え方に賛成してくれます!」
 
 机をはさんで、ミス・ダニエラとニコライ・D・ケルセンブロックとのにらみ合いが続く。
 その時、突然、ニコライの携帯電話が鳴った。
 ニコライが胸ポケットから電話を取り出して耳にあてると、電話の向うから聞こえてきたのは、若い娘の能天気な声だった。
 
「ハ~~イ、ニコル。あたしよ、ニーナ」
「ニーナ? 何で君が?」
「ニコルの日本からのお客さんは、あたし達と一緒にいるわ。
 ニコライの顔色が変わった。
「ニーナ! ニーナ! どういうことだ? なぜドクター神保が君と一緒なんだ?!」
「兄さんのお手伝いよ。平穏公然にお客さんをお連れしろって頼まれたワケ」
「イワノフもそこにいるのか?! いったい何が目的なんだ?!
「さあ~~~ね、ダニエラにでも訊けば?」
 ニコライはミス・ダニエラに鋭い視線を向けた。
 ミス・ダニエラの表情に狼狽の色が走った。何も知らないというように、あわてて首を振った。
 電話の向こうのニーナの声が続けた。
「別に命までどうこうなんて言わないけどさあ、痛い目にあわせてほしくなかったら、あんた一人でこっちまで来てもらおうかしら? ニコルのお坊ちゃん」
 ・
 ・
 ・
 ――ここはどこ?
 ――私は何をしているの?

 ――どこまでも続く道。薄暗い森の中を私は歩いている。
 ――素肌に空気がねっとりとからみついてくるような感覚。
 ――闇に抱かれたいという気持ち。
 ――木々の枝葉が、まるで触手のように私の身体を這いまわり、絞めつけてくる。
 ――痛い……。イヤ、そんなところに触らないで……。
 ――叫びたいのに声が出ない。叫びたいのに……。

 ――キャシーさん。
 ――水道橋所長。
 ――助けてください……。助けて……。

「目が覚めたかい?」

水の底から浮かび上がってくるような感覚があって、私はまぶたを開きました。
目の前がぼんやりした状態から、しだいに鮮明に像を結んでくると、そこには私を見おろしている若い女性の姿が……。

「ニコルが来るってさ。よかったね、ヤポンスキのお姉さん」
 気がつくと、私ともと子ちゃんはイスに縛りつけられて身動きの取れない状態になっていました。
 私達をこのような目に合わせているのは、たしか昨晩お目にかかったニーナさんとおっしゃる娘さんをはじめとするお三方でいらっしゃるようですわね。
 おかしいですわ、私達あなた方に恨みを買っていただく覚えはございませんのですが。
「落ちぶれ貴族みてえな喋り方をする女だな。おまけにこのセンスのねえメガネ……。ニコルも趣味が悪いぜ。
 別にあんたにこれといった恨みはねえんだがな。
 ニコルのお坊ちゃんや、ダニエラの糞ババアの鼻を明かしてやりてえんだ」
 
「ドクター神保、ミス小川、こんなことになって申し訳ない。私の責任です」
 私達の隣で、イワノフさんも縛られていますわね。私の記憶ですと、イワノフさんの術中にはまって昏倒したものと思ったのですけれど。何かトラブルでもあったのでしょうか?
「お恥ずかしい話ですが、ニーナは私の妹です。ニーナ、今すぐご婦人方を解放するんだ」
「兄さんもおとなしくしていることね。この女達が痛い目を見ることになるわよ」
「SMはいやですよぅ」
 と、もと子ちゃん。
 
「逃げようなんて思うんじゃないよ。ぶっくらわしてやるからね」
 どうやらあまり歓迎すべき状況ではないようですわね。
 
 私ともと子ちゃん、イワノフさんの三人は、イスに縛りつけられたまま、薄暗い、窓のない小部屋に押し込められました。
 
「イワノフさん、どうしてこんなことに?」
 私は疑問をイワノフさんにぶつけてみました。
「できるだけ平穏にお話をうかがうつもりだったのですが、失敗でした」
「なぜそんなことを……?」
「もう隠してもムダですね。ミス・ダニエラは、あなたがキャシー竹橋の秘密の核心に近づき過ぎることを危惧しておいでです。
 いや……あの……ここにお連れしようとしたのは私の独断ですが」
「……………」
 悪い人ではなさそうなのですが、板ばさみになってご苦労されているようですわね。

「イワノフさん、ひとつお聞きしてよろしいでしょうか?」
「はい、私に答えられることでしたら」
「エリノア財団はどうしてキャシーさんに強い関心をお持ちなのでしょう?」
「ドクター神保はご存知では?」
「私はキャシーさんの症状を完治させたいだけですわ。
 彼女の症状が、軍隊と関係がありそうなことはわかっているつもりですけれど」
「……私のような者には詳しいことはわかりません。
 ただ、あの女が常人をはるかに超える異常な能力を持っていたことは確かだと思います。
 私も暴れるキャシー竹橋を取り押さえようとしましたが、一人では歯が立ちませんでした。
 アフガン帰りのこの私がです。
 それに、財団の医療施設に収容されていたキャシー竹橋にかかわった担当医や職員が、説明不能の錯乱状態を示したことは事実です」
「それは、私も覚えがありますわ」
「これは私の思い込みかもしれませんが、旧ソ連軍がアフガンで実験していたとも言われる『サイコ戦』……精神攻撃とでも言うべきものらしいですが、彼女はその訓練を受けていたのでは?
 私が使う催眠術など子供だましのようなものです。すみません、これ以上のことは私には……」
「……ありがとうございます、イワノフさん。たいへん参考になるお話でした」
「もう少し、時間があれば、ほどけそうなのですが……」
 イワノフさんは、縄をほどこうと努力なさっているようです。
 私は暗闇の中で目をつぶり、日本での、超越医学研究所での日常に思いを馳せました。
 いつか、私とキャシーさんは、戦争のことに話が及んだとき、本気とも冗談ともつかない会話をかわしたことがありました……。
 
 ――キャシーさんは、人を殺したことがありますの?
 ――あたしは兵士だったからな……。殺して、殺して、殺しまくったさ。
 ――私も、人を殺したことがありますわ。
 ――おまえは医者だからな。そういうのを殺したとはいわないさ。
 
 兵士であったキャシーさんは、戦場で人を殺したことを訥々と語ってくださったのです。でも彼女は、きっと命の大切さをわかってくれていると思っています。
 ・
 ・
 ・
 ログハウスの前に車が停まり、ニコライが降り立った。
 すでに周囲はすっかり日が暮れ落ちている。
 
「ニーナ、約束どおり一人で来たよ。ドクター神保たちは無事だろうな」
「……何だよ、その白衣は? よっぽどあわてて来やがったな。
 心配すんなって。無事だよ、今のところはな」
 ニーナはニコルを、小屋の中に招じ入れた。そこで彼が見たものは、縄でイスに縛りつけられた美紀、もと子、イワノフの三人。
 ニーナの手には拳銃が握られ、
 アレクセイ、ドミトリー……取り巻きの二人の男の手にはナイフが光っている。
 
「どういうことだ、ニーナ?」
「行きがかり上ってやつさ……。無事に帰れるかどうかは、あんた次第だよ、ニコル」
 ニーナさんはその時、ずるそうな笑みを浮かべて、
「それじゃあニコル、その女裸にひん剥いてやんな」
「な、な、な、な、何を……! ニーナ! そ、そ、そ、そんなこと、で、で、できるわけ……!」
 ドクター・ニコルが飛び上がりました。
 もう少し落ち着いて行動なさらないと、つけこまれますわよ。
「ニコルがイヤだっていうなら、この女の頭吹っ飛ばしてやるぜ。
 死ぬのと生き恥とどっちがいい?」
 ニーナさんはそう言って私のこめかみに銃を押しつけました。
 
「これはいけないことですわ。人の命を何だと思ってますの?」
「あんたは黙ってな! さあ、ニコル、言われたとおりにしな!」
「やめるんだニーナ。君はそんなことのできる女じゃない!」
 押し問答をしているうちに、だんだんニーナさんが苛立ってきているのがわかりました。
 引き金にかけた指に力が入ってきました。
 
「よろしいですわ。ドクター・ニコル。彼女のおっしゃるとおりになさって」
「ドクター神保……」
 もし、私の読みが正しければ、隙を見つけることができるかもしれませんわ。
 
「この女もニコルに優しく脱がせてほしいってよ。……あとでほえ面かかせてやるぜ(ボソッ)」
 ニーナさんにうながされ、ドクター・ニコルが青ざめた表情で、私に一歩近づきました。
 ちょうど私からは見上げる位置に立っておいでです。
 そこで彼は、私の姿を見おろして首を振りました。
「この状態じゃ無理だろう」
 私は後ろ手にぐるぐる巻きに縛りあげられていますので、このままで服を脱ぐのは少し難しいですわね。
「それもそうだな。アレクセイ、こいつの縄をほどいてやんな。おっと、おかしな真似すると、こっちのガキが痛い目を見るぜ」
「ふにゅう……」
 もと子ちゃんはさっきから少しボーっとしていますわ。きっとワインの飲みすぎですわね。
 
 アレクセイと呼ばれた大男が、ナイフで私の縄の結び目を切りました。
 ばらばらっと縄が床に落ちて、私は取りあえず自由になったのです。
 
「ニーナは僕に対して個人的な恨みがあるんです。今回のことも僕を困らせたいからに違いありません。あなたともと子ちゃんを巻き込んでしまって、たいへん申し訳なく思います」
「お気になさらないで、ドクター・ニコル」
「ほらほら、無駄口聞いてねえで言われたとおりにしねえか!」
「ニーナ……」
「よろしいですわ、彼女のおっしゃるとおりになさって」
「し、し、しかし、ドクター神保……!」
「そんな他人行儀な。美紀って呼んでくださいな」
「ハア?!」
「ほら、いつもどおりにしていただければよろしいんですわ。ブラウスのボタンをはずして……」
「ドクター神保……い、いや、み、み、み、み、美紀さん?! そんな、いつもどおりって?!」
「だって、昨夜のニコル、とても情熱的だったじゃありませんか」
「じょ、情熱的って……な、何のことで、で、で」
 
 ニーナさんの眉が、「ヒク!」と吊りあがったのを私は見逃しませんでした。
 私は目でドクター・ニコルに合図したつもりなのですが、わかっていただけているかは疑問ですね。
 少し興奮しすぎですわ。
 ドクター・ニコルが手を伸ばしました。
「こっ、これは夢……正夢? い、いや、そうじゃない……!」
 ボタンをはずす手が震えていますわよ、ニコル。
 第一ボタンをはずして……そうそう、その調子。
 第二ボタンもはずして……そろそろ胸の谷間があらわになってきますわね。
 ちょっと恥ずかしいですけど。
 ブラウスの前をはだけて……。
「美紀さん……! ま、ま、真っ白な肌が! 真っ白なブラがぁ!」
 目が血走ってますわね。
 サービスしてあげますか。
 ちょっと胸を突き出してあげますわ。
 むにゅ。
「いやぁん」
「うひゃああ――――――ッ!」
「ニコルぅ、ブラもはずして欲しいですわぁ」
 
「なに歓んでやがる?! この変態女! 露出狂! エロメガネ!」
 ニーナさんがガマンできずに、思わず私とドクター・ニコルの間に割って入ろうとしたその時、私は彼女の拳銃を持つ手をぐいとつかまえたのです。
「ひッ!」
 彼女はあわてて私の手を振りほどこうとしたのですが、それこそこちらの思うツボでした。
 相手の動きに合わせて私は身体を反転させ、そのはずみでニーナさんを床に投げとばしたのです。
 彼女の手から離れた拳銃を、私はしっかりと確保しました。
 ……ふう。
 こう見えても私は大学時代、合気道同好会に所属していましたのよ。
 
 ニーナさんは、一瞬、脳しんとうを起こしたらしく、頭を抱えていましたが、私が拳銃を握っているところを見て目を剥きました。
 形勢逆転といったところですわね。
 
「このアマ……よくも」
 二人の大男が、警戒しながら私の背後に回りました。
 私はやむなくニーナさんに銃口を向けましたが、もちろん私は銃を撃つどころか、今まで持ったことすらありません。
 ただ、いつかキャシーさんが冗談まじりに銃の撃ち方というものを教えてくださったことがあります。
 その時の記憶が、ふいに頭の中によみがえってきました。
 
 ――銃の反動は思ったより強い。
 ――銃は両手で握り、腰をおとして構えろ。
 ――威嚇する時は一発撃て。
 ――当てる時は必ず二発撃て。
 
 冗談半分と思っていたのに、キャシーさんの目は真剣でした。
 
「面白え、撃てるもんなら撃ってみな」
 ニーナさん、あなたは完全に私の射程距離に捉えられていますわ。
 ナイフを手にした二人の男が、じりじりと私のほうに近づいてきます。
 とびつかれたらアウトですわね。
 
「へ……へへへ、まさか本気で撃つわけじゃねえよな、姉ちゃん……。
 おっと、安全装置がかかったままだぜ」
 
 ズドン!!
 
 小屋の中に轟音が響いて、私が手にした拳銃から弾丸が発射されました。
 弾丸はどうやらニーナさんの頭上数10センチの壁にめり込んだようです。
 ニーナさんは壁によりかかったまま、へなへなと腰を抜かしました。
 あわてふためいて、遁走しようとするアレクセイとドミトリー、二人の大男。
 するとその時、イワノフさんが自分の縄の結び目を引きちぎるようにして振りほどきました。どうやら縄抜けに成功したようですわね。
 次の瞬間、イワノフさんは目にもとまらぬ速さで二人の男達との間合いをつめると、当て身をくらわせて、悶絶させました。
 
「ヒューヒュー! 主任、カッコいいですぅ!」
 もと子ちゃんがイスをガタガタいわせてます。
 あなたはもう少しそのままでいてくださいますこと。
 
 私は彼女に銃口を向けたままです。おかしな動きをすれば、二発目を撃ちますわ。
 ニーナさんは、ドクター・ニコルに救いを求めるような視線を向けました。
「し、し、し、知らなかったんだ。この女がプロだなんて……。
 た、た、助けてニコル……!」
 どうやら失禁なさったようですわね。
「私はプロではありませんわ。拳銃を撃ったのは初めてですもの」
「ひ、ひ、人殺し! 人の命を何だと思ってやがんだ?!」
 
 その時、ドクター・ニコルはニーナさんをかばうかのように、すうっと私と彼女の間に割って入りました。
「ニーナ、君とイワノフの母親を僕は救えなかった。僕は医者としての最善を尽くしたつもりだったが……。結果、君の母親を死なせてしまったのは事実だ。
 恨みがあるのならなぜ僕に直接仕返ししない?」
「フン! あたしはな、メイン・ディッシュは最後までとっておく主義なんだ。
 あんたが苦しんで、苦しんで、のた打ち回るところが見たいのさ!」
 
「やめるんだ、ニーナ。私と一緒にドクター・ニコルと、ドクター神保に謝るんだ」
 お兄さんのイワノフさんが、声をかけました。
「あの時、町医者たちが貧しい移民の私達を相手にしてくれなかった中で、唯一母を診てくれたのは、ドクター・ニコルでした。
 ニーナも口には出しませんが、ドクター・ニコルには恩義を感じているはずです」
「それじゃあ、なぜ?」
 それには答えず、ニーナさんは膝を抱いて、嗚咽をもらし始めました。
 
「もうよろしいですわ、ドクター・ニコル、イワノフさん」
 私は銃口をおろしました。
 まるで駄々っ子みたいな愛情表現ですけれども、女心も、わかってあげた方がよろしいですわね、ドクター・ニコル。 

 ――その神保美紀の心の声を、ニコルが聞いたら、あ・ん・た・に・ゃ・言・わ・れ・た・く・な・い、と思ったことだろう。
 
 ともかく、ひと騒動ありましたけれど、私達は、無事エリノア財団本部に帰ったのです。
 

 管理部門のオフィスに入りますというと、ミス・ダニエラが難しいお顔をしていらっしゃいます。
「ミス・ダニエラ、ご心配をおかけしました。ただ今戻りました」
 眉間に深いシワを寄せて、ミス・ダニエラは言いました。
「ドクター神保、あなたを危険な目にあわせたことについては謝ります。
 ただ、私はデータ管理の責任者として、これ以上あなたに財団のデータ収集を認めるわけにはいきません」
「ミス・ダニエラ! そもそもあなたの秘密主義が今日の事態を招いたんです!」
「お願いします、ミス・ダニエラ! 私達には情報が必要なんです!」
「だからといって、極秘データに不正アクセスしていいということにはなりません」
「そ……それは」
「ミス・ダニエラ、それは問題のすり替えでしょう!」
 
 その時です。
「おやおや、どうしましたの? 騒々しい」
 その場の空気に似つかわしくない、落ち着いた女性の声が突然聞こえてきました。
 声のした方向に視線を向けると、そこにはお一人の銀髪の女性が……。
 
 とたんにミス・ダニエラとドクター・ニコルが驚いた声をあげました。
「ミス・エリノア!!」
「理事長! お帰りは明日以降になるはずでは?!」
「予定を早めて帰ってきたのです。いろいろ気になることがありましてね」
 
 この方がエリノア財団理事長でしょうか。
 すでに老婦人といってよいお年ですが、知的で、毅然としていらして、とてもお美しい女性ですわ。
 
「お、お見苦しいところをお見せしました、ミス・エリノア……! 説明すると長くなるのですが……!」
「あなたが言っているのは、ドクター神保への情報提供の件ですわね? ミス・ダニエラ」
「は、はい……」
 
「日本のドクター水道橋が、私あてに個人的なメールを送ってよこしたのです」
「そ……それでは……!」
「『自分の優秀な弟子、ドクター神保に最大限の協力をお願いする』と」
 
 まあ、所長は私のことをお気遣いいただいていたのですわね。私、感激に胸が震える思いがいたしますわ。
 ところで、水道橋所長自らのメールということは、ここではたいへん大きな意味があるようです。
 
「あのドクター・水道橋が……。マサムネが……。この20年、個人的な手紙一本よこさなかったマサムネが、私に『お願いする』と」
「お許しください! ミス・エリノア! こんなことになるなんて」
 ふだん冷静な人だけに、ミス・ダニエラの狼狽ぶりがとても際立っていました。
 私は思わず声に出していました。
「極秘データのガードを破ったのは私なんです! ミス・ダニエラはそれを咎められただけで……!」
 
 その時、理事長は私に向かってにっこりと微笑まれ、
「ドクター神保、私の部屋にいらっしゃい」
 と、おっしゃいました。
 そして私はいざなわれるままに、その場を後にすると、理事長室へと歩みを進めたのです。
 
 
 初めて足を踏み入れたエリノア財団の理事長室。
 大きな窓から外の光がさしこむ、塵ひとつない清潔な室内に、マホガニーの事務机と応接セット。
 本棚には医学書のみならず、文学書、画集がびっしりと並び、ミス・エリノア……理事長が並々ならぬ知性の持ち主であることがそのことからも容易に知れました。
「コーヒー? それとも紅茶になさる?」
「あ、それではコーヒーをお願いします」
 私を来客用のソファに座らせますと、ミス・エリノアは、ご自身でコーヒーをいれてくださいました。
 
「理事長、このたびはとんだご迷惑をおかけして……申し訳ありませんでした」
「いいえ、迷惑なんてとんでもないのよ。あなたはあなたのお仕事をなさればそれでいいのです」

 ミス・エリノアは、自分でもコーヒーを口にされました。そして、お互い何を話すでもなく、微妙な時間が過ぎていきました。
「あの、ひとつおうかがいしてよろしいでしょうか?」
「何かしら?」
「水道橋所長とは、以前一緒にお仕事をされていたことがおありになるのですか?」
 そう、私には先ほどから気になって仕方のないことがあったのです。
 水道橋所長のことを「マサムネ」とお呼びになる理事長と、所長との関係とはいったい?
「私の昔の名前は、エリノア・シュミット・水道橋」
「!!」
 一瞬、頭を殴られたかのような衝撃を感じたのですが……。
 私は不思議なほど冷静でいられたような気がします。
「では、水道橋所長とは……?」
「夫婦だったこともあったかしら。でも、あの頃のことは楽しい思い出。もう昔の話ですもの……。今でも、時々あの人のファミリー・ネームを使っているのは、未練かしらね」
 
 私は、ミス・エリノアにお会いした時から、そうではないかという気がしていたのです。
 
 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、ミス・エリノアは、しごくにこやかに話しかけてくださいました。
「キャシー竹橋は元気にしていますか?」
「はい、最近では日常生活にはまったく支障はありません」
「それはよかったですね。彼女を日本に移したのは正解だったようです」
 
 ミス・エリノアはそうおっしゃってくださいましたが、まだキャシーさんの症状には気になる点が多すぎるのです。だからこそ私がエリノア財団にまでやって来たのですが。
 
 さらにミス・エリノアは襟を正して、次のようなお話を始めました。
 
「20世紀、ヨーロッパは二度の大戦を経験しました。
 さらにアフリカやイスラム世界の紛争、血塗られた歴史は幾度となく繰り返されてきました。
 その裏で、人類が医療技術を飛躍的に発達させてきたという事実もあるのです」
 
 ミス・エリノアは、そこまで話されて、いったんコーヒーを口にされました。

「エリノア財団は、ヨーロッパ貴族の末裔であった私の父の遺産によって設立されました。
 若かった頃の私や、マサムネは、戦争がもたらした負の遺産でもある医療技術を、それでも人類の幸せのためにと、後の世に伝えていくよう研究を始めました。
 それがエリノア財団や、超越医学研究所がつくられたそもそもの理由です。わかってくれますね?」
「はい」
 
 エリノア財団はもともとヨーロッパ大戦時の、軍隊において発達した医療技術の継承と発展を目的として設立されたもの。
 だから水道橋所長も、軍属としての経験を持っていらっしゃるということでは。
 そして、キャシーさんが超越医学研究所に入院された理由も……。
 エリノア財団が、そのスタートで、血なまぐさい戦争の洗礼を受けていたとしても、ミス・エリノアや所長のお志は、きっと人類に対する愛に向けられていたものと信じていますわ。
 
 若かった頃の、希望に燃えていたミス・エリノアや水道橋所長……。
 美しい思い出の中の、光に包まれた水道橋所長……。
 
 私、少し腑に落ちない点を感じたのですが、気にしないことにいたしました。

「キャシー竹橋もまた、戦争の可哀想な犠牲者なのです。あなたはきっと彼女を救ってくれますね? そのためでしたら、エリノア財団は協力を惜しみません」
「はい、ありがとうございます、ミス・エリノア」
 
 エリノア財団がつくられた理由、財団と超越医学研究所との関係、それはとりも直さずミス・エリノアと水道橋所長とのご関係……。
 一日二日で知るにはあまりにも意想外のお話ばかりでしたが、でも、そのことを知ってしまったいま、なぜか胸のつかえが取れたかのように、私の心はなぜかとても晴れ晴れとしていたのです。
 ミス・エリノアが二杯目のコーヒーをいれてくださって、その時、私はとてもあたたかい気持ちにつつまれていました。
 
 それから数日、短い滞在期間でしたが、ミス・エリノアからは、たいへん多くのことを学ばせていただきました。
 私ともと子ちゃんは、万感の思いを胸に、ウィーンを後にしたのです。
 
 
 ……と、話はここで終わりになるはずだったのですが、実は私達が帰ったあと、エリノア財団に一人の男がやって来たそうですが、私がそれを知ったのは少し後になってからでした。
 財団のニコルが私あてにメールを送ってくださったのですが、その中身というのがたいへん気になるものでした……。
 

 ――親愛なるドクター神保
 
 突然メールをさせていただきます。
 取り急ぎ貴女の耳に入れておきたいことがあります。実は、貴女方がエリノア財団を後にされた翌日、理事長の元に一人の招かれざる客がやって来たのです。
 その男は、何の前触れもなくふらりと現れました。彼は、財団本部の警備網をかいくぐって現れたのです。
 ・
 ・
 ・
「久しぶりだね。エリノア」
「大佐……どうやってここに?」
「昔の名前では呼んでくれないのかね? エリノア、君はいつまでも綺麗だよ。」
「ここはあなたのような人の来るところではなくてよ、大佐」
「警備の連中にはしばらく眠ってもらっている。私が今日来たのは君に用があったからだ」

 理事長が「大佐」と呼んだその男は、ひどく不吉な雰囲気のする、まるで血の匂いでも漂わせているかのような男でした。

「貴様は何者だ?! 早急にここから立ち去れ! さもないと……」
「ドクター・ニコライ、おやめなさい。彼は私のお客さんよ」
 私の言葉を理事長はさえぎりました。そして私に黙っているようにと目配せしたのです。

 男は口元に冷たい薄ら笑いを浮かべて言いました。
「人を探している」
「うちは警察でも探偵事務所でもないわよ」
「キャシー竹橋……女だ。999歩兵遊撃隊の生き残りさ。
 エリノア財団がかんでいるはずだね。ここに担ぎ込まれたという確証を私は得ている」
 
「あなたはまだ戦争屋をやっていらしたの?」
 理事長のその質問に、男は答えず、
「タニア・シティでの軍事作戦については、君も知っているだろう?」
「思い出したくもない忌まわしい事件だわ」
「きれいごとを言うものじゃない。エリノア財団とて戦争の落とし子ではないかね」
 男の失礼な物言いに対しても、理事長は毅然とした態度を崩しませんでした。
 
「キャシー竹橋。彼女は私の女だ。引き渡してもらおう」
「さあ、ここにはそんな人はいませんよ」
「ここにいないのならその行き先を知りたい」
「無理やりにでも私の口を割らせればいいことでしょう? あなたなら簡単なはずよ」
 
 男はしばらく無言のまま、理事長を見おろしていました。
 ミス・エリノアの気迫に押されたのかもしれません。
 やがて、諦めたらしく、こう言いました。
「……私も君の背後の欧州連合を敵に回す気はないよ。
 今日のところは引き揚げよう。いずれまた近いうちに、エリノア」
 
 ……男はそういい残して出て行きましたが、その口ぶりから察して、キャシー竹橋が財団に運び込まれ、治療を受けていたこと、その後いずこかに転院させられたことについて、何らかの確証を得ているものと思われました。
 いずれキャシー竹橋の居所を突き止めるための行動に出ることでしょう。
 ドクター神保、十分に注意してください。
 あの男は、貴女や、キャシー竹橋に不幸をもたらす人物、そんな気がしてなりません。
 

 あなたの――ニコライ・D・ケルセンブロック

< 終わり >

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