BLACK DESIRE #8-4

8.

 全てのコトが終わった後、虚脱状態の僕を七魅が送ってくれることになった。三繰は「ふーん」と見た目は特に不満もなく、迎えに来たもう一台の車に乗り込んだ。僕と七魅は来たとき乗ったロールスロイスに対角線に距離をとって座り、しばし無言で景色の流れる様を追っていた。

 時間はすでに夕暮れ時を過ぎ、そろそろ晩飯の頃合いだ。帰ったら幎が食事を用意してくれてるだろうなと、漠然と考えていた。

 その時、僕は車が来た道とは違う通りに入ったことに気が付いた。人気のない路地に進入し、ゆっくりと減速して明かりと明かりの間の隙間陰にぴたりとその身を寄せる。どうかしたのと聞く間もなく、運転席のメイドは「では」とすっと扉から出てあっと言う間も無く暗がりに姿を消した。

「どうしたの、あの人?」
「少し席を外してもらいました」
「すごい身のこなしだね。何かやっていた人なの?」
「子守から戦闘機の操縦まで何でもやるという触れ込みで雇った便利な女です」

 どこのダイハードだ。しかし七魅が言う以上それは冗談ではないのだろう。僕は対角線にいる七魅に視線を戻した。

「こんなところで、どうしたの?」
「少し、お話があります」
「告白なら大歓迎だよ」
「その冗談は聞き飽きました」

 失礼な、冗談なんかじゃないぞ。だが、七魅の気配に何処か厳粛な雰囲気を感じ、僕は軽薄な笑みを消した。それを待っていたかのように七魅は口を開く。

「まずは、1つ。……あまり姉さんを怒らせないで下さい」
「それは今回、身に沁みたよ」

 あれは軽いトラウマになった。延々と股間のモノと、おっぱいと、お尻と、女の子の甘い吐息が混ざり合った空間でこねくり回され、僕の脳味噌までとろけてしまったのではないかと思うくらい、先ほどまで意識が幻の中でループしていた。よくぞまあ僕を含めてあの場にいた全員が貞操を守り通したと思う。もっとも、そんな行為が必要ないくらい僕らの意識と感覚は1つに「繋がって」いたんだけど。

「気を付けて下さい。姉さんが本気になったらあれくらいじゃ済みませんよ」
「……まだ先があるのかよ」
「意識の同調など、初手にしか過ぎません」

 僕の背中を冷たい物が走り抜けた。確かに、あれが序の口というのなら彼女達の才能が畏れを伴うものだという事に納得がいく。あんなサバト紛いのことがちょっとした身振りで出来てしまうなら、本格的な三繰の踊りとは一体どんな代物なのだろう。全くもって見たくない。

「勘弁してよ……。今日だって何回したのかわからないくらいくたくたなんだ」
「……7回です」
「か、数えてたの……?」

 怒っているのか、七魅はそっぽを向いている。それにしても7回とは。体力だけは有るとはいえ、さすがにこれは無いわ。7回とはねぇ。いや、無いわ。
 自覚すると更に疲れがどっと来た。もうお家に帰りたい。

「もちろん、もう君のお姉さんを怒らせるようなことはしません。神に誓って。それで? まだあるの?」

 随分投げやりな口調になってしまった。振り向いた七魅の顔が不満げだ。じっと眉根を寄せて僕を睨んでいたが、しばらくすると気を取り直したのか口を開いた。

「もう1つは……ええと……」

 珍しく、七魅が逡巡するような素振りを見せる。何か悪い知らせなのだろうか。

「どうしたの? ひと思いに言っちゃってよ」
「えっと……ん、つまりですね」

 コホンと咳払いのような仕草を挟み、ようやく七魅は先を続けた。

「つまり、私と達巳君との関係を、更新するべきではないかと思うのです」
「……何だって?」

 さっぱり、まったく、総合的に、全般にわたり、一切合切、一部始終、有らん限り、余す所無く言っている事が理解できない。僕の頭はまだトコロテンになっているのだろうか。

「ですから……今まで以上に協力関係を強化するべく、お互いに歩み寄るべきではないかと、そう提案しているのです」
「はあ。まぁ、そういう事なら異論は有りませんが……でも、どうやって? 和平条約でも結ぶの?」
「交換条件といきましょう。私は、その達巳君の『本』を見せて欲しいのです」
「あん?」

 この本を……ブラックデザイアを見せるだって?

「その代わり達巳君には……その、私が、姉さんと同じように契約することで達巳君の力になります。あなた次第ですが、悪い交換条件では無いと思います」

 そう言って、七魅は上目遣いで僕の表情を覗き見た。
 僕は「ちょっと待って」と頭の中で考えをまとめる。七魅との契約は魅力的だ。彼女も学園ではそれなりの権力を持っているし、ドミナンスは20人位は有るだろう。つまり、姉と合わせれば40人以上を一気に操ることが出来る。今まで以上に能力の活用の幅が広がるはずだ。
 それに対して、ブラックデザイアを見せるというのは僕にとってデメリットがほとんど無い。なにせ、この本は中身はほとんど白紙で、僅かに今までの能力使用の記録が書き込まれているだけなのだ。使用方のページもほとんど些細なもので、僕が幎から教わった事を七魅に伝えた分だけでもそれを上回っているはずだ。つまり、これは僕にとって一方的に有利な条件なのだ。

 「よし、契約成立!」と返答しようとして、僕は何故かその言葉を飲み込んだ。

(……)

 僕の頭はきっと、先ほどの行為のせいでトコロテンになっているのだ。何故なら、こんな不公平な取引は「七魅に悪い」なんて考えてしまっているのだから。いや、きっと七魅の背後にいる三繰がトラウマなのかもしれない。アレを怒らせると今度こそ僕の明日は無い。きっとそうに違いない。

 僕は首を振って余計なわだかまりを打ち消し、放るように七魅の手元に本を渡した。

「いいよ。それくらい」
「……え?」
「今日手伝ってくれたお礼。その本の中を見るくらい、いいよ」
「……」
「それに、大したことは書かれて無いし」

 ああ、そう言えば最終ページには僕の「黒い欲望」が書かれているんだったっけ。七魅は笑うだろうか? それとも呆れる? 別に、他人に何と言われようと堪えないけど。

 七魅は本の表紙を困惑した表情で眺め、そしてまた上目遣いで僕を見た。

「あの……」
「遠慮しなくていいよ」
「困ります」
「え、何で?」
「……」

 何故か、七魅は恨めしそうに僕と本を交互に見つめている。表紙をめくろうともしない。なんで????

「交換条件は、私の方から提示したんです。勝手に一方的な内容変更は困ります」
「いいじゃん、有利な条件になったんだし」
「駄目です。……ともかく、達巳君は本を見せてくれることに同意したのですから、私と契約する権利があります」
「いいよ、またの機会で」
「け、契約は当日限りです」

 「なにそれ」と僕は吹きだした。七魅はとにかく契約しろの一点張りで、何をそんなにムキになっているのか僕の理解力の限界を突破してしまっている。このまま押し問答をしていても運転手メイドは戻ってこなそうだし、僕はとうとう諦めた。七魅から本を受け取り、傍らに置く。

「わかった、今から君と契約する」
「……本当ですか?」
「ああ。でも今日はちょっと疲れたんだ」

 僕はそう言いながら右手の指に巻かれた包帯を解く。風呂場で濡れたため、適当に寮にあった物で応急処置していたのだ。
 薄暗い闇の中、黒っぽいかさぶたが人差し指の腹に鋭い亀裂のように走っているのが見える。僕は、えいやっと勢いを付けて左手の親指でそこを押し潰した。

「何をしているのですか!」

 七魅が慌てて僕の手元に顔を寄せる。狭い車の中、彼女の香りがふんわりとそよいで僕の前髪を揺らした。2人の視線の先で、傷口からはみるみる黒っぽい血が膨らみ始めた。七魅がハンカチを出そうとするのを僕は反対の手で止める。

「ああ、良いんだ。契約の為だから」
「……どういうことですか」
「契約は、僕の体の一部を相手が口にする必要がある。ちょっと痛いけど、血液でも良いんだよ」

 窓に寄って月明かりで確認する。別に化膿してないし、さっきまで風呂に入っていたんだし、雑菌が付いていることもないだろう。溢れる血は今にもこぼれ落ちそうなほど膨らんでいた。

「病気なんかは無いから心配しないでも良いよ」
「別に心配なんかしていません」
「じゃ、はい」

 指を差し出すと、若干七魅は躊躇したように不安げな表情になる。しかし、それも一瞬のことで観念したように目を閉じ、ぱくっと僕の指をくわえた。

(いてててて……)

 七魅の舌がむき出しの神経に擦れて、ちりちりとした痛みが伝わってくる。
 最初、七魅は舌先で傷口を確認するようにつつき、やがて溢れた血を掬い取るように動かしてそれを嚥下した。さらに、舌を動かして皮膚の割れた部分を覆うように巻き付け、舐り、ともすれば愛撫するかのように撫で付ける。口が使えないせいか、まるで子犬のように鼻を鳴らして息をついた。

「もう……いいよ」

 七魅の体から少しずつ、魔力の光がうつろい始めたのを見て、僕は指を引いた。ちゅっと小さな音を立てて唇から指が抜ける。僅かに開いた七魅の瞳は、とろけたように潤んでいた。

「……受容せよ」

 魔力が抜け出た疲労感を覚えながら、静かに第3段階の能力発動のキーワードを口にする。

「黒き欲望の書の使用者、達巳郁太の名において汝を我が従者とする……汝の名を告げよ」

 七魅は再び瞳を閉ざし、唄うように呟いた。

「……哉潟……七魅……」

 三繰の時と同じように、ブラックデザイアの表紙にサーバント・クレストが浮かび上がった。僕は本を取り上げようとしてふと思いつき、左手をその光にかざした。転写されたように手のひらに紋章が浮かび上がる。

「七魅、君を僕の従者とする」
「はい……」

 僕の言葉に七魅はこくりと頷いた。その額に熱を計るときのように手を当て、ゆっくりと離す。……うまくいった。紋章はしばらく七魅の額で輝いた後、すうっと吸い込まれるように内へと消えていった。

「……」
「……終わったよ」
「……はい」

 七魅が目を開く。何か、少し戸惑っているように見える。

「あの……特に何も変わったように感じませんが」
「ん? いいんじゃないの? 取りあえず契約は成功してるし」
「はぁ……」

 ブラックデザイアを開くと、契約者として新たに七魅のページが増えていた。ドミナンスは19。三繰には及ばないが、一般人で2~5位らしいからかなりの好成績だ。
 ふと気が付くと、七魅が僕の手元をのぞき込んでいる。あ、そうだったっけ。

「ああ、この本を貸す約束だったね」
「いえ」

 七魅は首を振ると、ポケットの辺りをごそごそとやって小さな袋のような物から絆創膏を取り出した。

「指を出して下さい」
「あ、サンキュ」

 暗がりのせいか、七魅は少しもたつきながら絆創膏の保護フィルムを剥がして僕の指に巻いてくれた。大事なものを扱うかのように、そっと絆創膏の上から傷口を押さえる。

「痛くないですか?」
「平気だよ」
「そう、ですか」

 つ、と七魅が指から手を離した。何故だ、今日の七魅はなんだか優しいぞ。いつもこれくらいしおらしかったら良いのになぁ。
 若干の照れを隠す為もあって、僕はブラックデザイアをポンと音を立てて閉じ、七魅に向かって突き出す。

「はい、約束。今度こそ文句は無いね?」
「……拝見します」

 七魅が両手でそれを受け取ろうと手を伸ばす。

 その時。
 ガン、と世界が揺れ動いた。

(!?)

 右と左で世界が大きくブレている。七魅を捕らえた視界が2つに分裂して重なったり、分裂したりを繰り返す。急速に、左の視界だけが色を失い、遠ざかる。

(右目と左目が、別の景色を見ている!?)

 ぐわんぐわんと遠近を繰り返す光景に吐き気を覚え、僕は目を瞑る。いや、瞑ろうとした。右の視界のみが暗闇に閉ざされ、色を失ったあやふやな世界のみがそこに在り続ける。

(左目が……僕の言うことを聞かない!?)

 完全に色を失った世界は、凍り付いたように動作を停止する。次の瞬間ガシャーンと鏡が割れるように粉々に砕け散り、そして僕はそこに出来た虚無へと引きずり落とされる。
 バランスを失い、這いつくばる僕。そこは闇に浸された世界。音や匂いも暗闇に浸食され、停滞して地にその屍を晒している。

(なんだ……ここは)

 正面に、仄かな明かりが見えた。それは、剥き出しのコンクリートの壁に出来た20cm平方ぐらいの穴で、ご丁寧なことにこの小ささで鉄格子まではまっていた。そこから漏れているのは月明かりのようだ。決して満月のような強い光ではないが、それでもこの世界の暗黒にはひどく眩しく目に映る。

 僕は立ち上がり、その壁に向かって歩いた。足を着けたとき、ひたりと意外なほど大きな音が沈黙を破る。その振動が壁まで伝わったとき、その前の床が僅かにぴくりとした。

(あ……え? ひ、人だ!)

 動いた床の影は、人間だった。それも、子供だ。女の子のように見える。そう見えたのは、影のような物が彼女の長い髪だと気が付いたからだ。その子は床に横向きに寝そべり、焦点の合わない瞳で虚空に視線を送り続けていた。
 そっと歩を進めると、更に細部が見えてくる。驚いたことに、そしてむごい事に、少女は手足を鎖で繋がれていた。その鎖はほとんど弛みもなく背後のコンクリートの中に消え、体を起こす事は出来ても立ち上がるのは難しそうだった。

「!」

 さらに近づき、そして絶望する。彼女の手首と足首には、どうやったらこうなるのかわからないほど醜い傷跡が有った。恐らく、手足の腱が傷ついている。鎖が無くとも、まともに歩くことが出来るのかさえ怪しい。そして、彼女の長い髪は、よく見れば長い髪では無かった。それすらも、鎖……髪は三つ編みに束ねられ、その髪を鎖で壁につなぎ止めていたのだ……。

「あ……なんだ……これ……」

 僕の呟きにも、少女はまるで反応を示さない。僅かに呼吸のために体が上下していなかったら、屍と判断されてもおかしくないほど、反応が無かった。

「なんだよ、これ」

 混乱したまま、僕は更に呟く。自分は本当に頭がおかしくなったのか、それとも異次元にワープでもしたのか。何から何まで理解を離れている。
 僕は手がかりを求め、周囲を見渡し、そして諦めてもう一度少女に目をやった。相変わらす、何も見ていない目……。

(……! 七魅に……少し、似ている……!?)

 ズキリと左目に痛みが走った。手で押さえると、今度こそ左目は僕の意志に従って瞼を降ろしてくれた。全てがまた暗黒に包まれ、ぐるぐると回転する。回転しながら落ちていく……。

「着きましたよ」
「……え?」

 肩を揺すられ、僕は目を見開いた。目の前に、少し心配気な顔つきの七魅がいる。

「はい、お返しします」

 そう言うと七魅は僕の手にブラックデザイアを乗せた。七魅がずっと持っていたためか表紙が少し暖かい。

「ここは……?」
「達巳君の家です」

 窓から見ると、たしかに高原の別邸だった。いつの間にか車は出発していて、ここまで帰ってきたらしい。その間の記憶が全く無い。

「僕、寝てた?」
「さあ。私はその本を読ませてもらっていましたので」

 さっきの光景は、夢? それにしては、やけにリアルな光景だった。……あの七魅に似た少女は、何だったんだ? 僕は七魅の顔をしげしげと見つめた。それに彼女は目線を反らし「降りないんですか」と僕を促す。

 車から降りると、空に月が見えた。もう、完全に夜の時間帯だ。やれやれ、長い一日だった。ようやく休めるぞ。
 背伸びをし、長い時間車内にいたせいでこった体をほぐす。

「ありがとう、送ってくれて。助かったよ」
「どういたしまして」

 七魅の返事に続き、メイドがうやうやしく礼をしてドアを閉める。そして車の後ろを通って運転席へ向かった。
 スモークの張られた窓が少し開き、七魅がそこから上目遣いの視線を僕に向けた。

「ん? じゃ、また明日」

 別れの挨拶かと思って手を振ったが、七魅は答えない。じっと、僕を見つめている。

「……お手伝いする事が、できるかもしれません」
「え? 何?」

 車が静かに発進する。視線を外すその瞬間、ぽつりと七魅は呟いた。

「……された那由美さんを助ける、お手伝いです」

 すうっと音もなくロールスロイスが加速する。僕はそれを、手を振りかけた体勢のまま固まったように見送った。頭の中に先ほどの七魅の言葉が反響する。

『……された那由美さんを助ける、お手伝いです』

 ……那由美が、何だって?

『○○された那由美さんを』

 ……○○された?

『○ろされた那由美さん』

 ……

『コろされた那由美さん』

 ……七魅は、確かに、そう言った。

   那由美は、

   殺されたと、

   そう言ったんだ。

 僕のもう一つの瞳が、僕の中を見た。
 前々からきしみをあげていた、僕の中の白色の大きな卵。

 その表面に大きく亀裂が入り、そこから赤黒い血がどくどくと溢れ始めていた。

9.

 どうしてこうなったのだろう?
 瀬川水月(せがわみつき)は2枚の写真を手に、途方にくれていた。そこに写ってる光景は、薄暗い路地をバックにしながら一見怪奇現象のような斜光が射し込み、中央の部分を被い隠してしまっている。そこに何が有ったのか写真からはわからない。
 水月はこの写真を何とか元に戻せないか写真屋の店主に頼んだが、フィルムに光が入り込んでいる以上、撮影時のミスだとにべもなく突っ返された。そして今、こうして途方にくれている。

 机の引き出しを開けると、その一番手前には金色に塗られた薔薇の花。このバッチこそ、彼女が生徒会長を守る騎士の一員であることの証であった。いつもはそれを見れば不思議と落ち着くのに、今は、それが水月の失敗を責めているようであった。

 そもそも、水月と現生徒会長・安芸島宮子の出会いは去年の9月の終わりの事であった。毎週金曜日に図書館で行われるとある集会に、部活の後いそいそと向かった水月がふと目をやった読書ブースに座っていた上級生、それが宮子だった。

 正しく、一目惚れと言って良い。すらりと延びた背筋や流れ落ちる髪、少し普通とは違う瞳の色、上品な唇といった全てがいっぺんに彼女を虜にした。すぐさま会の上級生に打診し、苦労の末に宮子を次の集会に参加させることに成功した。そういう意味では、宮子の後援会の発起人は水月であったと言っても良い。

 水月の参加していた集会は「金曜の朗読会」といって、少女達に人気のある小説を演劇風味に読み合わせをする、それだけの会であった。当時人気があったのは「黒百合の騎士」という小説で、水月はその中で騎士、そして宮子は推薦によって姫君の役を請け負うことになった。
 役の上ではあるが、水月は姫に仕える騎士である自分を呼ぶ宮子の声に陶然とした。自分こそがこの美しく儚い姫を守護する騎士なのだと心に誓った。会に参加する乙女達も、見事なはまり役を演じる宮子を自然と信奉するようになった。

 そして年が明け、宮子が生徒会長選挙に出馬するとなって、「金曜の朗読会」がそのまま「安芸島宮子後援会」に姿を変えるのは当然の成り行きであった。後援会の名称を決める際、水月は「騎士団」の名前を使う事を強く推した。そして、「金曜の朗読会」から「金」、宮子がローズティーを好んだ事から「薔薇」をもらい、「黄金の薔薇騎士団」は結成されたのである。奇しくも相手は水月達体育会系の旗頭でもあった早坂英悧率いる「銀の騎士団」であったが、水月は宮子を応援することに何の躊躇いも無かった。騎士である以上、二君に仕えないのは当然の事であった。

 宮子が生徒会長に就任し、3年生が卒業して「金曜の朗読会」は解散したが、水月は心の中で常に黄金の薔薇の騎士であった。宮子の政策にはいち早く賛同の意を表明し、クラスの意見の取りまとめに奔走した。そうする事が自分の使命であると自覚していた。

 しかし、5月の下旬に入り、水月は少し不穏な噂を耳にするようになった。今まで他の生徒とは一線を画したような付き合いをしてきた宮子が、親しげに転入してきた男子生徒と会話をしていたという話を聞いたのだ。水月はいてもたってもいられず宮子とその男が一緒に受けている選択授業の前後の休み時間の様子を覗き見た。そして、噂通りに笑顔で話し込んでいる2人を目撃したのだ。心が千々に乱れた。

 だから、6月の最後に新校則の発表が有ったときは水月の心は暗い喜びに満ち溢れた。あの男が宮子の逆鱗に触れ、この学園から追放されようとしている。それに反対する声もあったが、その代表者はあの裏切り者の源川春であった。水月にとって、郁太とハルは2重の意味で敵となった。

 しかし、だからといって水月は2人を陥れるために積極的に何かをやろうと思ったわけではない。確かに動機となる下地はあったが、そういった小細工を宮子が嫌悪することも良く知っていた。せいぜい、後輩や同級生に源川達に賛同しないよう言い含めたぐらいだ。

 だから。
 だからこそ、水月は途方にくれていた。

 どうしてこうなったのだろう?
 何故、私はあの男を陥れて写真を撮ろうなどと思い込んでしまったのか。

 それは、誰かに勧められたのだと記憶している。
 誰に? わからない。
 どこで? どこか、この寮の中……いや、自分の部屋?
 いつ? 夜。月明かりを覚えている。そう、部屋の明かりが消えて、窓からこんなふうに光が射し込んでいた……。

 そして、その誰かはこう言ったのだ。

「写真を撮りなさい、あの男を不利な立場にするような写真を。ちょっとした騒ぎを起こして、その犯人に仕立てあげなさい。そうすれば、あの男は学園にいられなくなる。あなたのお姉様も、きっと喜んで下さるわ」

 そう、きっとお姉様は喜んでくれる。そう思った。先ほどまでは、そう信じていたのだ。

 何故?
 あの方が、騎士である私にそんな卑怯な真似をさせるはずが無いのに。
 どうして、そう信じてしまったのだろう? わからない。

 でも、結局写真は撮れなかった。撮ったのに、失敗してしまったのだ。これも、きっと運命なのだろう。
 お姉様がこんなことでは喜ばないと、神様が教えてくれたのだ。いや、お姉様を悲しませる事が無いよう、神様が失敗させてくれたに違いない。

 ふぅ、とため息を付く。
 そしてふと水月は辺りを見回した。ここはどこだろう。さっきまで、自分の部屋にいたと思ったのに。
 電気はいつの間にか消えていた。窓からは、不自然に大きな月がこちらを覗き込んでいる。その時、窓辺の月明かりに人の形のシルエットが影を作った。

「あら、失敗したのね」
「……ええ。でも、これで良かったのよ」
「どうして? お姉様は悲しむわ」

 水月は首を振った。どちらにしても、写真は撮れなかったのだ。もうどうしようも無い。

 窓辺の誰かは水月の机から写真を拾い上げた。中央に写る光をじいっと見つめる。

「写真には写らなかったのね」
「ええ」
「でも、あなたは見たのでしょう? 彼の姿を」
「もちろん、そうよ。でも、証拠にはならない」
「そうでもないわ」

 人影は、すっと手を動かして写真の表面をなぞった。すると、不思議なことに写真の中央の不自然な光は跡形もなく消え失せ、そこには驚きの表情を浮かべる白い学制服の少年が残っていた。

「えっ!?」
「良く撮れているわ。上出来よ」

 くすくすと笑い声をあげる影。水月は呆然とその姿を見上げていたが、突然、がくりと膝が崩れた。

「おやすみ、子猫ちゃん。あなたは良い仕事をしたわ」
「……わた……し……」
「良い夢を。大丈夫、この事は誰も知らないわ。もちろん『あなただってね』」

 水月の視界の中、人影が背中からコウモリのような羽をばさりと広げたようにシルエットが拡大した。その光景を最後に、彼女の意識は深い夢の中へと落ち込んでいった。

 コンクリートの屋上に、人影がある。月明かりに照らされたその影は小柄で、何かコートのような物を身にまとっていた。おかしいのはその頭の部分で、異様に尖った不可思議な形の帽子が、その影を鋭角三角形の様なあり得ない物に変えている。よく見ればコートのような物も袖のない黒いマントであった。
 コンクリートに落ちたその影が、ぐにゅりと形を変えた。急速に後ろに伸び進んだかと思うと、突然空中に浮かび上がり、そして翼を持った人影へと変貌したのだ。

「ただいま戻りました」

 それは、肌も露わな衣装を身につけたコウモリの羽を持つ女の姿であった。長い髪をほとんど露出している背中に垂らし、それをかき分けるように一対の羽が肩胛骨の辺りから生えている。こめかみの辺りの髪からは、山羊のように曲がった角が一対、くるりと姿を見せていた。
 その人のような姿の女に、とんがり帽子の人物が振り返りもせず声をかける。意外にも、その声は子供っぽい少女の響きを持っていた。

「それで?」
「現物は無理でしたけど、代わりに本人の『夢』の中から拾ってきましたわ」

 そう言って女が手のひらを上に向けると、そこからふわりと写真が浮き上がる。それは風に吹かれたような気ままな動きをしながら、最終的に帽子の少女の手の中にすうっと滑り込んだ。

「ふぅん……」

 しかし、少女はあまり興味のなさそうなそぶりで写真を一瞥し、鼻を鳴らして手品のようにそれを何処かに隠した。そして、「帰る」と手を一振りすると、いつの間にかそこには体つきに比べてやや大きすぎるサイズの箒が握られていた。

「あの少年はどうするのですか?」
「放って置くさ。『魔法使い』の一員でも無さそうだし、恐らくバックに術者か、高位の悪魔が控えてるな。ただ、まだ最終段階には達していないようだし、ボウヤから感じる魔力も微弱だ。もう少し泳がせた方が良い」
「では、取り返さないので?」

 箒を持った人物は「まさか」と呟く。僅かにとんがり帽子が左右に揺れると、手を離れた箒がすうっと浮き上がり中空で倒れて横向きになった。

「あの本は私の物だ。必ず取り返すさ」

 少女は箒に手を添えるとひらりとそれに横座りした。羽の様に体重が軽いのか、それとも何らかの力が働いているのか、箒はしなる様子も見せずに軽々と少女を支えきり、小さな靴がコンクリートから離れて宙に浮いた。
 もう1人の女も、一瞬月光のような透明な輝きを放ったかと思うとその直後には小さな白い獣に姿を変えていた。ぴょんとジャンプして箒の先端に飛び乗り、髭を揺らして少女の方を振り返る。

「じゃあ、何でこんなちょっかいを? 様子見ですか?」
「いや……」

 すうっと1人と1匹を乗せた箒が舞い上がる。ぐんぐんと高度が上がり、先ほどまで足を着けていた建物が霞むように小さくなっていく。とんがり帽子に黒いマントの少女は、口元を歪めてクスリと笑った。

「……いやがらせ」

 夜空にぽっかりと登った月に、箒に乗った魔女と使い魔のシルエットが浮かび上がった。

10.

 七魅達の工作は上手くいったようで、週が開けても僕の「犯行写真」が出回る事は無かった。ブン屋にも確認したが、生徒会が不穏な動きをしている情報は無いらしい。水面下は兎も角、見た目は健全な広報合戦を繰り広げていた。

 おかしな事といえば、月曜日の朝、登校時にげた箱を確認するとそこにちょこんと絆創膏が置いてあった事があった。その時は首を傾げながらそれをポケットに入れたが、それだけで終わらず、体育の後や昼食後、ふと机を見ると同じようにバンドエイドが置いてあるのだ。

 最初はハルの仕業かと思ったが、あいつは月曜のホームルーム前に初めて僕の指の怪我に気が付き大騒ぎをした。そんな有様だったから登校時にそれを用意できた筈がない。となると、思い当たるのはもう、後は七魅しかいなかった。
 その確認も兼ねて探研部で皆で昼食をとる際、そっと「ありがとう」と耳打ちしたが、七魅は僕の顔をじっとしばらく見つめた後にプイと顔を背けて席を外してしまった。何だってんだ?

 結局、はっきりとした確証を得ることも出来ず、放課後になる。帰り際にげた箱を見ると、またしても例の物が入っていた。しかも、3枚。夜の交換用なのか?

 しかし、そんなに貰っても困ってしまう。だって、僕の鞄には……朝、幎から貰った絆創膏がまだまだどっさりと入っていたからだ。何故みんな僕をそんな過保護にするのだろう。

 しかたなく、僕は帰り道で昼間に巻いた絆創膏を剥がすと、幎に貰ったものに付け変えた。そして、何で絆創膏如きにこんなに気を使わなければならないんだと自分の気の弱さに嘆きながら、家路についたのだった。

 火曜日の放課後、僕は帰りのホームルームが終わるとすぐに教室を出て、一路廊下を西へと向かった。3年生の教室はいろいろ相談毎がしやすいように配慮したのか、職員室と同じく校舎の2階に存在している。中央階段から東へ進むと椿組、榊組、柚組となり、逆に西へ進むと柊組が有ってその向こうが職員室だ。当然、職員室なんかに用は無いから、僕の目的地はその手前の教室だった。そのクラスのある生徒に会いに行こうと思ったのだ。

 しかし、中央階段に差し掛かったところで女子にしては背の高い2人分の人影が何か話し込んでいるのを見かけ、とっさに柱の陰に隠れてしまう。何故隠れたのかと言うと、1人は僕のお目当ての優御川紫鶴(ゆみかわしづる)、そしてもう一人は生徒会副会長の相良冬月(さがらふゆつき)だったからだ。

「……では……話を……代表……」
「……しかし……セイレン……それは……」

 学園中のクラスが解放されたのだろう。にわかに辺りが騒がしくなり始め、僕のいるところまでは2人の話が伝わって来ない。そうこうする内に会話は終わってしまったようだ。

「では。明日、お待ちしています」
「……」

 冬月は紫鶴に武道家のような礼をすると、足早に階段を下りていった。その時、ちらりと僕の方に目をやったように見えたが気のせいかもしれない。
 紫鶴の方はというと、何か深く考えているようで冬月の去り際にもいつもの挨拶は出ず、頷いただけだった。そのままずっとぼんやり立ち尽くしている。

 立ち聞きしていた事を気付かれるかと少し迷ったが、僕は思い切って柱の影から歩き出て紫鶴に近寄った。彼女の思索は深く、僕が正面に立って初めて気が付いたようだった。

「……郁太さん?」
「ごきげんよう、紫鶴さん」

 僕にお株をとられたが、紫鶴も微笑みながら「ごきげんよう」と返す。なんだか、少し様子がおかしい。先ほど冬月と打ち合わせしていた事に関係するのだろうか。
 そのまま、お互い言葉が続かずにしばらく見つめ会う。近くのクラスからお喋りしながら出てきた女生徒達が僕らに気付き、何事かと足と口を止めて遠巻きに様子をうかがい始めた。少し……いや、かなり恥ずかしい状況だ。
 場所を変えようかと提案しかけた時、今度は紫鶴の方から先に口を開いた。

「郁太さん。今、お時間よろしいですか」
「え、ええ。ちょうど僕も紫鶴さんにお話したい事が有って探していたんです」
「では、少し場所を変えましょう。ここでは皆さんの邪魔になってしまいますから」
「はい。噴水の近くの広場でどうでしょうか?」
「ええ。参りましょう」

 僕は紫鶴と並んで階段を下り始める。背中に様々な好奇の視線が突き刺さるが紫鶴は全く気にしていないようだ。鈍いのか、大物なのか。今更ながら騒ぎのど真ん中にいるこの身分が煩わしい。

 さすがに遠慮したのか、噴水の近くまでは興味の目は追ってこなかった。僕らは校舎側から見て噴水の奥側のベンチを選び、そこに人1人分位の間を空けて並んで座る。その距離が今の僕と彼女の立場の違いを現しているようで、なんだかプール大作戦の時が懐かしく感じられた。

 この辺りは通行の死角になっているようだ。噴水の音以外ざわめきや通りがかる人間もいない。僕はしばらく黙って紫鶴が話し始めるのを待ったが、一向にその気配は無い。横目で見ると、その表情は曇りがちで、視線は俯いて芝生の方に向かっていた。

 僕が彼女に会いに来たのは、こんな風に意味の無い沈黙を続ける為じゃない。いつもの紫鶴なら、笑顔で僕の事を迎えてくれたはずだ。そして、その声は不思議と僕を落ち着かせ、明日の決戦へと腹を決める手助けをしてくれた筈なのだ。なぜ、今日は僕に何も言ってくれないのだろう。
 長い無言に僕は耐えきれず、遂に均衡を破ってしまう。

「紫鶴さん。何か話が有るのではないですか?」
「……郁太さんこそ、どうぞお先に」
「僕は、紫鶴さんと少しお話がしたかっただけですよ」
「そうですか……」

 ずるい逃げかもしれない。本当は、会いに来た僕の方が話題を持ち出さないといけない筈なのに。
 また、沈黙。しかし、今度のそれはそう長くは続かなかった。紫鶴は芝生の方に顔を向けたまま、ぽつりと、まるで独り言の様に口を開いたのだ。
 それは、僕の予想とは外れた一言であったが、同時に頭の何処かではそのキーワードがいつか直面するものと予感していた。

「……『七月事件』を、ご存じですか?」

 僕が黙って首を振ると、紫鶴はゆっくりと自分の中に語りかける様にその「事件」の物語を紡ぎ始めた……。

「では、よろしくお願いします」

 安芸島宮子が立ち上がって礼をすると、生徒会執務室に集った数人の委員長達が一斉に返礼した。そして、各々の荷物を手に「失礼します」と部屋から出ていく。執務室には宮子と生徒会書記・漁火真魚(いさりびまな)が残された。
 最後の一人を見送ってから宮子は会長席に腰を下ろす。そして手元の書類に目を落とした。

 学園内は今、明日の生徒総会で行われる総員投票の話題で持ちきりだが、生徒会までそれにかかりっきりになる事は出来ない。夏休みまで後3週間となったこの時期、決めておくべき議題は山積みなのだ。特に2学期に行われる各種生徒会主催の祭行事の調整は、前倒しで夏休み前のこの時期から行われなければならない。

「……どうぞ」

 真魚が宮子のカップにいつものローズティーを容れて手元に置いた。「ありがとう」と宮子はそれを手にし、いったん香りを楽しむように掲げ持ち、そして静かに口を付ける。

「おいしいわ」

 真魚は宮子のねぎらいに黙って礼をした。カップを戻す時の僅かな音が空調の音以外の初めての調べのように部屋に響く。
 宮子はふぅと息をつき、視線を上げた。

「何か言いたいことが有りそうね、マナ」
「あ、いえ……」
「ごまかさなくてもいいのよ。言ってごらんなさい」

 真魚は促されていったんは口を開きかけたが、それをまた飲み込み、しかしその様子をじっと静かに見つめる宮子の視線に観念したようにもう一度口を開いた。

「あの……今回の投票のことなのですが」
「ええ」
「クラスの者にも聞かれるのですが、ええと、その者達はどうも会長のお考えが理解できていないようなのです」
「私の考えというと、新校則の理念についてかしら?」
「いえ、それについては既に十分通達を行いましたから問題ないのですが……」

 眼鏡の奥で真魚の表情が曇る。言って良いことなのかどうか、心の奥で葛藤する。宮子は、そんな真魚を静かな目で見据え、心の整理がつくのを黙って待った。

「……つまり、クラスでも意見が2分されているのです。もちろん、会長のお考えが深いところに有るのは分かっているのですが、反対する者達の勢いも無視できる物では無く、数名が現在の状況に動揺して私に相談してきています」
「そうでしたか。それで、マナはどう答えたのですか?」
「……私は……」

 真魚は視線を宮子から落とし、悔しそうに口を歪めた。

「……私は……私にも、わからないのです。今まで、会長の指示は常に的確で、時には予言者の言葉の様にすら聞こえる事があります。しかし、今は、この星漣が分裂して、あからさまに会長の不支持を表明する者もいます。なにより、私には……会長が、本気で新校則を成立させようとしている様には思えないのです」

 真魚の独白は途中から彼女自身の心象の吐露に置き代わっていた。目尻に涙すら浮かべているその姿に、宮子は優しく微笑むと立ち上がり、そっと頭を撫でた。

「ごめんなさい。あなたが心を痛めている事に気が付いてはいました。しかし、まだ確証が得られるまでは誰にも話す訳にはいかなかったのです」
「会長の……せいでは……」
「でも、もう終わり。全ての準備は整いました。今なら、あなたに話しても問題ないでしょう」

 宮子はハンカチで真魚の涙を拭ってやった。そして落ち着くのを待ち、静かに、歴史書を紐解くように語り始める。

「そもそもの原因をお話する為には、今から1年前に遡らなくてはなりません」
「……1年前と言うと、七月事件ですか?」
「ええ。しかし、七月事件はそこまでの一連の事実を終結させる最後の出来事であり、その始まりは6月の上旬に起こりました。マナは覚えていますね」
「はい……紫鶴さまが、生徒総会で倒れられた事ですね」
「ええ」

 宮子は窓辺に寄り、カーテン越しの陽光に目を細める。それは、1年前へと視線を向けるための儀式の様でもあった。

「紫鶴様の長期入院が決定した後、生徒会に提出された7月の生徒総会での議題……それが『セイレン・シスターの妹』制度の導入でした。長期不在となる紫鶴様の代役を、その制度で決定しようとしたのです」

 宮子はその制度の生け贄となった少女の事を思い、そっとため息をついた。

 同時刻、写真部の部室には来客があった。1人で留守番をしていた橘静香(たちばなしずか)は見知った顔の来訪を喜び、すぐに椅子を勧めて紅茶を用意した。

 見知ったと言っても郁太との関連ではなく、静香が個人的に面倒を見ている1年生の3人だ。その内の1人は同じ写真部所属の夏目文紀(なつめみのり)であり、後の2人はそのクラスメートだった。彼女たちはクラスで委員をやっているため、生徒会に詳しい静香にちょくちょくアドバイスを貰っていた。

 3人が席に落ち着いて紅茶とお菓子に手を出し始めた頃、静香は「今日は何の相談?」と切り出した。思った通り、1年生達はお互いに顔を見て目配せしている。誰が言うか決めていなかったのだろう。

「その、今回の投票の事なんですが」

 仕方なしに、文紀が一番近しい仲という事で口を開いた。

「クラスメートの何人かが、先輩に言われたみたいなんです」
「何て言われたの?」

 ある程度予想は付いていたが、静香は表情を変えずに先を促す。文紀はしばし迷ったが、仲間の視線に後押しされて言葉を続けた。

「その、源川先輩にはあまり関わらない方が良いって……」
「そうなの……」

 静香は嘆息した。やんわりと言っているが、3人が不安でここまで押し掛けるくらいだ。本当はもっと直接的な事も言われているのだろう。

「それと、もう1つ聞いたんです。源川先輩は、去年、この時期に七月事件って呼ばれる不祥事を起こしているって。だから、今回も絶対信用してはいけないって」
「なるほどね」

 人の噂も七十五日と言われているのに、実際はどうだ。もう1年も経つのに、人の評価は何も変わっていない。あの事件は、星漣の生徒が何人も傷ついた。いや、星漣学園自身が傷を負ったというべきかもしれない。

 彼女はその時たまたま騒動の渦中にいた。だから、そのやり玉に上げられただけなのに。誰かを悪者にしないと傷ついた心が折れてしまいそうだったから、その怒りを適当な相手にぶつけた、そんな悲しい出来事だったのに。
 静香は3人の顔を悲しげに見渡し、問いかけた。

「みんなは、七月事件のことを何て聞いてるの?」
「ちょっとだけなら知っています。セイレン・シスター様が入院する事になったために、何か制度を変えようとして、そしてそのやり方に不正があったせいで取りやめになったんですよね」
「だいたいはそんなところですね。当時、導入されようとしていた制度は『セイレン・シスターの妹』制度といって、生徒会とセイレン・シスター本人の同意の元、2年生がその代行業務を行うことを認める制度でした」
「その制度を発案したのが、源川先輩なんですか?」

 勢い込んで文紀のクラスメートが言う。しかし、静香は微笑みながら首を振った。

「いいえ。先輩は制度の対象の方です」
「えっと……」
「つまり、その時『妹』候補として推薦されたのが、源川先輩だったのです」

 えーっと1年生達は同時に驚きの声を上げた。

「別に驚くことではありませんよ。先輩は入学試験をほぼ満点で新入生総代を勤めたこともありますし、1年生ですでに水泳で全国大会入賞もしました。もちろん、人柄も評価されましたが、実績だけでも十分セイレン・シスターに代わる方だったのです」
「で、でもでもですよ? その時はほら、あの方がいらっしゃったのではないですか? 確か、今年のシスター候補だったはずなのでは」
「那由美様の事ですね。ただ、那由美様は2年生の4月に転入してこられた事もあって、まだその当時は学園内でそれほど評価されてはいませんでした。もちろん、それでもいずれセイレン・シスターとなられるだけの輝きはお持ちでしたけれど」

 そして静香は、もう一度ため息をついた。

「……そしてそれが、そもそもの新制度導入のきっかけとなったのですが」

 その言葉に、1年生達はきょとんとした表情で顔を見合わせた。

「セイレン・シスターは星漣の象徴なのです」

 紫鶴の言葉には強い意志が込められてた。そしてそれは、僕には自分自分に対する詰責の様に感じられた。

「その任を負った者は常に自らが模範となり、学園が正しい方向へと進むよう道標となる責任を負います。その者は、自分がこの学園の、300人の生徒達の代表である事を自覚しなければなりません。……郁太さん、この星漣に姉妹校があることをご存じですか?」
「ああ、入学案内で見ましたよ。イギリスの、王室御用達の学校でしたっけ」
「ええ。毎年、12月には両校の代表者が集まって会食をすることになっています。王室の親類も参加される、極めて重要な行事です。星漣からは、代表者としてその年のセイレン・シスターが参加するのが習わしでした」

 それは初耳だ。つまり、セイレン・シスターの地位は、国際的にも大きなコネを作ることができる花形という事なのか。

「代表となるシスターを見れば、それぞれの学校の1年がどのような物であったか、大体わかるのだそうです。象徴としての存在が、正しくあろうとすれば正義は在り、清くあらんとすれば学園の風紀も保たれるのだと」

 紫鶴はそう言うと、悲しそうに目を伏せた。

「私は……その会に参加する事が出来ませんでした」
「でも、それは手術のためでしょう? 入院してたなら仕方ないですよ」
「それはつまり、昨年の星漣が病んでいた事を象徴しているのです」

 きっぱりとそう言い切り、紫鶴は立ち上がって僕を見下ろした。その表情に僕は心臓が止まりそうなほどおののく。今まで見たことも無いような、全ての嘘を断罪せんとする厳しい目つきだった。

「きっかけは、高原那由美さんが4月に転入される前から始まっていました。彼女が、次年度のセイレン・シスターの地位を手にする目的で中途編入するとあらぬ噂が流れたのです」
「……転入?」

 那由美はもともと星漣にいた訳じゃなく、2年生から入ってきたのか……。

「セイレン・シスターはその様な考えで任命されるものではありません。どこか邪な気持ちが有れば、必ず生徒達にはわかるのです。しかし、実際に学校にいる訳ではない、いくつかの卒業生による後援会はそう思わなかったようです。自分の息のかかった生徒にそういった悪い考えを吹き込み、那由美さんからセイレン・シスターの可能性を奪う機会をうかがっていました」
「どうして紫鶴さんがそれを?」
「私が全てを知ることが出来たのは、全部の出来事が終わってしまった後の事です。病院のベッドの上でも、セイレン・シスターの地位にいると自然と耳に入ってくるのです」

 紫鶴が似合わない自嘲的な笑みを浮かべる。その表情に胸が痛んだ。

「そして、その機会はやってきました。私が長く学園を離れなければならなくなったのを見て、その代行者を2年生から選出する事を思いついたのです」
「……それがハル、なんですね」
「はい。2年生の頃から代行者として業務に携わっておけば、次年度のシスター投票で実績の面から選ばれる可能性が有ると踏んだのでしょう」
「ハルはその事、知っていたんですか」
「いいえ。源川さんはただ、純粋に私のお手伝いができると喜んで報告に来て下さいました。何も知らなかった私は、あなたならしっかりできると励ますことしか頭になかったのです……」

 紫鶴の顔に、再度痛みを伴った悔恨が浮かんだ。

 再び、生徒会執務室。宮子は書棚から出した1冊のファイルをめくりながら言葉を続けた。

「後援会の中でも、特に『聖和会』と呼ばれる組織は高原の血筋の者が星漣で活躍する事をおもしろくないと感じているようでした。積極的に『妹制度』導入の為に生徒達に介入していたらしき証拠が後に見つかっています」
「その組織が源川さんに目を付けた理由もわかっているのですか?」
「たまたま……としか言いようが有りません。たまたま、目立つ成績を残していたために選ばれたのだと。実際、源川さんの後援会のメンバーはそれまで彼女と面識があった者はほとんどいなく、事件の後はバラバラになって誰も残らなかったのですから」
「本当に、ただ切り捨てられただけなんですね……」
「その通りです」

 宮子はファイルを閉じ、書棚に戻した。

「しかし、運動は確実に浸透していきました。源川さん自身の魅力もあったのでしょうが、やはり長期に渡りセイレン・シスターが不在になる不安が大きかったように思えます。投票の前日まではほぼ制度の採用は間違いが無いと皆が思うようになっていました」
「でも、あの事件が起こってしまったのですね」
「そう……」

 宮子は執務机につき、深く身体を沈めると目を閉じた。

「……1年前の7月1日……つまり丁度1年前の明日、七月事件が起きました」

「投票の当日の朝、学園内に新聞部の号外が舞い飛びました。内容は、学園内のいくつかの団体が外部の後援会より不正な資金援助を受けていた事実をすっぱ抜くものでした」

 静香の言葉に、文紀は首を捻って呟いた。

「え? あれ? 源川先輩の後援会じゃないんですか?」
「事はそう単純ではなかったのですよ。でも結果的には同じ事になりました。それらの団体の幹部が母体となって後援会を形作っていたのですから。問題は、あくまで『団体名』で発表されたのであって、その実行者の名前は1人として明らかにされなかった点に有ります」

 諭すように言う静香。だが、その口調にはわずかに口惜しさがにじみ出ていた。

「後援会はその日の朝のうちに解体され、参加者は責任を追及される事を恐れて口を噤みました。その日の午後、討論の場で、制度側の人間として会場に立ったのは……先輩、1人だけでした」
「……」
「私は生徒会の人間として会を進行する立場にいましたから、みんなの様子が良く見えました。皆、何かを恐れていました。かつて先輩を支持し持ち上げた人も、その陰で活動資金を上手く手に入れた後援会の人間も、全員、その場にいたはずなのに……皆、あたかも先輩1人がやり始めたことの様に追求しました。あれは……もう、討論じゃなくて……弾劾裁判でした」

 写真部の中を、沈黙が覆っている。1年前の事件……いや、1年前のこの学園の「罪」の重みが彼女たちの口を閉ざしていた。
 かすれるような声で、たどたどしく文紀が問う。

「先輩は……何も言わなかったんですか?」
「先輩はただ、制度の必要性を説いただけでした」
「それもそうですけど、先輩は他の後援会の人の名前を言わなかったんですか!? 裏切られたのに、何も言わなかったんですか!?」

 静香は、ただ黙って首を振った。

「そんな……ひどい……」

 文紀は目に涙を浮かべて呟いた。

「事件の後、源川さんは全ての責任を取るつもりだったのか、あらゆる委員会や部活を自主的に退会されました」

 宮子は静かに話し続けていた。大きな感慨はないが、それでも世間の無情を感じずにはいられなかった。
 真魚も何か感じるものが有ったのか、眉根を寄せて口を挟む。

「でも、それがまた新しい火種になったのですね」
「ええ。当時の水泳部は部員数6人の小規模ながら、リレーでは関東大会への切符を手に入れていました。そこで源川さんの退部はかなりの痛手だったのでしょうね」

 裏切り者と呼ばれてもおかしく無い状況だったし、実際にそういう場面もあったと伝え聞いた。

「それを見かね、当時の歴史探訪研究会の会長が彼女を引き取りました。あの同好会は歴史だけは星漣史とほぼ同じに有る為、後援会からの支持も厚かったですからね。ほとぼりが冷めるまでそこで匿うよう、昨年度生徒会長の荒巻さんから頼まれたようです」
「なるほど……」

 真魚は神妙に頷き、そしてふと思いついたことに「あっ」と顔を上げた。

「会長がその話をされたということは……もしかして、会長は、今回の投票でそれを再現しようとなさっているって事でしょうか!?」
「再現……では有りませんよ、マナ」

 優秀な生徒を見つけた教師のように顔を綻ばせ、宮子は言う。

「私は、その時この星漣が受けた傷を癒したいのです。皆が傷ついたあの事件で星漣が失った大きな存在を、もう一度取り戻したいのです」
「それが、源川春なのですね」

 真魚が勢い込んで言うと、宮子は笑ったまま「70点」と評価した。

「あの時お隠れになった方は、2人いたのですよ?」

 その言葉に、今度こそ真魚は度肝を抜かれて素っ頓狂な声をあげた。

「それじゃ、会長は……まさか、最初から『あの方』を引っ張り出すおつもりだったのですか!?」

 宮子は、今度こそ満点の笑みで優雅に紅茶に口を付けた。

 長い話が終わり、紫鶴は大きく息をついた。
 僕はというと、ただただ昨年あったという七月事件、いや、その前後を含めたハルと紫鶴と、そしてこの学園の悲劇的な物語に圧倒されていた。

 この物語のきっかけで有りながら傍観者としての役割しか与えられなかった紫鶴。

 何も知らずただ懸命に学園の為に走っただけなのに、全てを失い、裏切り者の烙印を押されたハル。彼女に残されたのは、あの探研部の部室という置き去りにされたもの達の墓場だった。

 何が悪かったのか。小細工をした後援会が悪かったのだろうか。使い込みをしてしらばっくれた幹部連中が悪かったのだろうか。最悪のタイミングで記事をすっぱ抜いたブン屋が悪かったのだろうか。疑念をもたらす転入をした那由美が悪かったのだろうか。紫鶴の不在に恐れおののいて新制度にすがった生徒達が悪かったのだろうか。壇上で何の弁解もしなかったハルが悪かったのだろうか。そもそも、セイレン・シスターで有りながら任を全うできなくなった紫鶴が悪かったのだろうか……。

 星漣の生徒達が、全員で罪悪感を抱え、そしてその罪悪感に堪えきったハルのみが全ての責任を負わされる事になったなんて、何という質の悪い冗談なのだろう。

 誰もが悪く……だから、誰も許してはくれない。許されないから、埋めておく。ハルという1人の犠牲の墓標に、全て埋めておく。それが、僕の理解した「七月事件」の姿だった。

 そして僕は、紫鶴が何故こんな懺悔紛いの悔恨を打ち明けたのか、薄々気付き始めていた。静かに、言葉を探す。

「……紫鶴さんは、その時の償いをするつもりですか」
「……私に何が出来るというのでしょう。私はもう、セイレン・シスターでは有りませんし、ただの留年生なのです」
「でも、紫鶴さんはやろうと思った。だから、僕に全てを話している……そうですね?」
「……1つだけ、私にも出来る事が有ると気付いたのです」

 紫鶴は黙って僕を見つめている。僕もそれを、じっと受け止めた。先ほどの考えがだんだんと確信を帯びてくる。焦りが募る。彼女が手の届かない所に消えてしまうような焦燥感が沸き上がる。紫鶴が決定的な判断をしてしまう前に何かを言わなくてはならないのに、言葉が出てこない。

「やめてくださいよ、紫鶴さん。そんな事、しないで下さい」
「……セイレン・シスターの幻想は砕けてしまったのです。それを直せるはずの人も、いなくなってしまった」
「まだ、あなたがいるじゃないですか」
「砕いてしまった本人に何ができるとお思いですか?」
「できますよ。あなたなら出来るはずです。だから、早まらないで下さい」
「もう、遅いのです。私は、明日……」

 思わず立ち上がっていた。無意識のうちに紫鶴を睨みつけ、鋭く発する。

「『紫鶴さん』! あなたはセイレン・シスターだ! 皆を象徴する星のはずだ!」

 ドクン、と心臓が鳴る。身体から立ち上った赤い魔力の糸が宙を延び、紫鶴へと向かう。その糸か彼女に絡み付き……。

 そして、それが

 パシン、と呆気なく砕け散った。

(!!!)

 僕は、その光景に呆然として言葉も発することが出来なかった。紫鶴は僕の叫びなど無かったように言葉を続ける。

「……明日、私は今年度のセイレン・シスターに安芸島さんを推薦するつもりです」

 なぜ、ブラックデザイアの力が通じない……。

「生徒達の意見が分裂している今、この学園には新しい象徴が必要なのです。それには、例え投票が行われなかったのだとしても、1年生の洗礼祭で役を務めた安芸島さんが適任と思います」

 つまり、紫鶴は僕なんかには好意も、関心も抱いてないってことか……。

「1つだけ、私に出来る事。前年度のセイレン・シスターとして、次の代を指名すること。それが、今年度も学園に残った私の義務です。だから……」

 なんて……遠い……。

「明日、私は……生徒会側の討論員として壇上に立つでしょう」

 僕は、もう紫鶴に何も言うことが出来ない。僕に残された、最後の切り札すら通用しなかったのだ。他に何を言えば良いと?

 すっと足を踏み出し、紫鶴が前進する。真っ直ぐ前を見据えたまま僕のすぐ側をすり抜け、静かに歩を進める。するりと長い髪がその後を追いかけ、消えた。

「……ごきげんよう」

 僕に、振り向いて追いかけることなど、出来るはずがなかった。

< 続く >

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