0.
とても意外な事かもしれないが、悪魔メイドの幎(とばり)も人と同じように夜はベッドで瞼を閉じ、眠る。
しかし、それは必要に駆られてでは無く、彼女の主人の要望によってである。
以前彼女の主人である達巳郁太(たつみいくた)が、真夜中に廁へ行こうと起き出してきた際の出来事である。ふと階下に気配を感じ、覗き込んだロビーに立つ彼女の黒尽くめを見て死ぬほど腰を抜かしていた。それまで彼は、悪魔は眠る必要が無いという事実にとんと関心が無かったためだ。
自分の所行のせいで郁太の魂が死神なんぞに横取りされては路頭に迷う事になるので、彼女は主人の勧めに素直に従う事にした。夜はあてがわれた屋根裏部屋のベッドで横になるように努めたのだ。
元々、彼女はヒトにとても近しい姿と機能を備えている。幎はすぐに「眠る」ことを覚えた。
9月1日、星漣学園2学期開始の日。
幎の朝は早い。午前4時00分、まだ夜明けの気配も無い頃合いに、ベッドで微動だにせず横になっていた彼女の目は、1秒の狂いもなくパチリと開く。すうっと糸で引かれたかの様に上体を起こし、掛け布団を畳むと素足のままベッドから降りた。
そして手早くいつもの黒服とエプロン、ヘッドドレス、そして靴を身に付け、姿見で髪を整えると梯子を降りて屋敷の2階へ降りる。まだ通路は真の闇だが、彼女の瞳は夜目が利くので明かりは必要ない。ただ、郁太の部屋の前を通る時だけは、音を立てない様に僅かに踵を浮かせて進む。
最初の仕事は厨房の掃除だ。メイドたる者、料理の前後には必ず厨房を完璧に綺麗にしなくてはならない。床に水をまいてブラシで擦り、調理台の上はタワシでピカピカにする。調理に使う器具は予め用意し、刃が鈍っていたら砥石で研いでおく。
準備ができたら厨房の隣の食料庫から必要な材料を取って来て、調理台に並べる。所詮郁太一人分の朝食だ。量はたかが知れている。
郁太は朝は和食を好む。米を研ぎ、炊飯器に入れて彼が起きる頃に炊きあがる様にセットした。
更におかずや味噌汁を用意する。調味料の棚を開けたところで幎は味噌の残りがあと数日分である事に気が付いた。小首を傾げると、ペンを取って調理台の隅のメモに「みそ」と書き込む。これは後で彼女のお買い物メモになるのである。
厨房の中にいい匂いが立ちこめ始め、炊飯器がふつふつと働きだした音をたて始める。
ふと幎は顔を上げ、窓の外の闇が薄らぎ始めている事を目に留めた。先ほどの調味料の入っていた棚の隣を開き、乾燥煮干しの袋を取り出す。それは既に開けられていて、輪ゴムで縦に封がなされていた。
裏口から外に出る。かまちの外には、彼女を待つ複数の者達が行儀良く座って待っていた。
「な~ぉ」
その内の一匹が甘えるような声を出す。猫であった。裏口の外には7、8匹の猫が並んで座って待っていた。
幎がぱらぱらと煮干しを落とすと近寄ってきてカリカリと食べ始める。それを彼女はじっと見つめていた。
やがて猫達の食事が終わり、元通りの姿勢にペロリと口元を舐めながら座り直した。幎は煮干しの袋に元通り封をし、そしてぽつりと呟く。
「行きなさい」
猫達はその号令でだっと四方へと散っていった。一匹もお代わりを求めて残ったりしない。彼らは今日の報酬を前払いで貰ったため、仕事に就くため所定位置へ向かったのだ。
魔法使いが猫や梟を使い魔とする事が多い点から見てもわかる通り、猫という獣は多分に霊的な素質を持つ動物である。人には見えない存在の気配にも敏感で、また身体的な利点としてちょっとした狭い場所に潜り込む事もできる。さらに、市街地で見られても奇異な存在でもない。
そのため、幎は付近の猫を使役して屋敷の見張り役を任せていた。塀の上や藪に配置し、侵入者がいないか監視させるのである。その報酬は昼夜の当番交代時に与える魚の干物であった。
扉の外に出たついでに裏口付近を掃除しようと、一端厨房に戻って箒と塵取を取ってくる。そして、再び扉を開けたところで、そこにのっそりと大きな黒猫が座って顔を洗っているのを見つけた。
黒猫の両手足は中程から白い毛に変わっていて、それがなんだかブーツを履いているように見える。また、鼻の頭から後頭部にかけて一本の帚星のような白い線が走っていた。金色の首輪を身に付け、鈴の代わりに何か小さな板のような物が下げられている。
それをじっと見つめ、幎は両手に掃除用具を持ったまま呟く。
「久しぶりですね、メッシュ」
黒猫は手を止め、髭を震わせながら顔を上げた。そして眠そうに口を開けて欠伸をした。
「――随分と羽振りが良さそうじゃねぇの」
1.
幎の作った朝食を急いで食べ終え、欠伸を噛み殺しながら玄関に向かうと丁度彼女は外で誰かと話しているところだった。こんな時間に来客か?と訝しがりながら靴を履いて扉から出ると、その相手は茶色がかった髪の少女だった。おまけの様に幎の足下でカリカリと小魚を食べている大きな黒猫もいる。
「……何、こいつら?」
「あ、ひっどーい!」
少女――ハルは一瞬頬を膨らませて顔面炭水化物ヒーローとそっくりに膨れ上がる。だが、すぐに気を取り直して顔つきを戻すと「おはよっ! 久しぶり!」と元気よくしゅたっと手を挙げた。それを無視して幎に向く。
「……お迎えに来られた源川様と、メッシュです」
幎はぴーっと薬缶の様に蒸気を吹き上げるハルと猫をそれぞれ紹介した。黒猫はちらっとこちらを見上げたが、そのまま興味無しといった風情で食事に専念している。
「どこかの飼い猫? 首輪をしてるけど」
「旅をしている様です。たまたまこちらに立ち寄っただけかと」
「……野良か、お前」
だとすると、メッシュという名も幎が付けたのだろう。頭に一本の白い筋が走っていて、それが髪を染めた様にも見える。なかなかお洒落なヤツだ。
「あんまり餌をやり過ぎて居座られないようにね」
「かしこまりました」
そう応えながら幎が差し出した鞄を受け取った。猫の方は食事が終わったのか大きく伸びをして顔を洗っている。
「んじゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
深々とお辞儀をする幎。僕はそんな彼女の姿を視界の端に見ながら、スタスタと高原別邸の門を抜けた。2学期最初の登校に適した清々しい朝だ。僕は後を振り返る事なく気分良く右にターンし、一路星漣学園へのコースに乗る。
「あ、こらっ! 無視しないでよイクちゃん! こらー! おはよー! おはよーってばー!! ねーっ!」
真っ直ぐ前のみを見て歩く僕の周りを、朝から何しに来たのか気の知れないアンパン娘がグルグルしながら盛んに「オハヨー」を連呼する。オウムか、おのれは。
まったく、本当にしょうもないヤツだ。何でそんなに僕に構いたがるんだろう? お前なんて、僕のいいオモチャにしか過ぎないのにさ?
ぶーぶー言いながらバタバタと着いてくるハルをうっとおしく思いつつ、どんなに邪険にしてもまとわりついてくるアホ犬を想像してクスリと笑う。そんなに構って欲しいなら、ちょっと茶目っ気を出してみようか。
(――目標、『源川春』。『おはよう』を第1インサーション・キーに設定。書き込み開始……っと)
悪戯の内容を素早く決め、ハルの台詞から適切な用語を拾い上げる。ターゲットとするのは先ほどから少女が連呼している挨拶だ。
発動の言葉と共に、僕の体から伸びた赤い魔力の糸がハルの体にまとわりつく。そして少女の常識という名の認知世界にバックドアを形成し、その扉を開放した。もちろん、本人が気付くことなどあり得ない。
(ドミネーション範囲設定、『星漣学園通学路』。領域支配、スタート)
続けて設定した内容により、ハルの精神を経由して通学路にいた何人かに同じように赤い糸が伸びていく。これぞ、ブラック・デザイアの第5段階能力「領域支配(ドミネーション)」だ。
領域支配の支配力はそれを中継する契約者の能力に左右される。ハルの統制権(ドミナンス)は34だから、学園に向かう者たちのうち、34人まではハルをネットワークの中心として相互に書き込みの内容が共有される。彼女らがどんなに常識外れの異常行動をしていても、その領域にいる限りそれを異常と気が付くことができないのだ。
さて、下準備は完了した。左右を確認し、道路を横断しながら後ろのハルに何気なく切り出す。
「おい、ハル。何か忘れてないか?」
「えー? 何が?」
「何が、じゃないだろう。夏休みでボケてるんじゃないか?」
僕は真顔で続けながら、会話にキーワードを滑り込ませられる様に誘導する。さあ、常識破壊の始まりだ!
「星漣じゃ、男子に『おはよう』って言うときは特別な作法が有っただろ? 忘れてないか?」
「え……あっ!」
何かに思い当たったかの様にハルがしまった!という顔で声を上げる。すぐに「ごめん、忘れてた」と言ってシュンと縮こまった。多分、自分の不作法に僕が怒っているんだと勝手に勘違いしたんだろう。その作法をまだ「思い出して」いないのにさ。
もちろん、実際にはそんな決まりなどありゃしない。存在しない約束事を、さも元々有ったかのように僕の『力』で誤認させたのだ。
「怒ってないよ、別に。でも、今からでもいいからちゃんと『おはよう』ってして欲しいな」
僕はいつもの歩道橋を登りながら後ろのハルに話しかける。そしてその頂上で、振り返って笑いかけた。
「『おはよう』の挨拶の後は、女の子から抱きついてキスをする……だよね?」
僕の発したその常識外れの言葉が、少女の認識にぽっかりと空いた扉から滑り込んでいく。彼女の認知世界を構成する常識・慣習・道徳のデータベースが「おはよう」と言う単語で速やかに検索され、その接続先が僕の発した言葉に置き変わった。
「……うん、そうだったね。おはようの挨拶の時は、キス、しないとね」
少し顔を赤らめながら笑顔を浮かべる少女。異性に抱きついたり、キスをしたりする事に対する羞恥の心は変化してはいない。ただ、それよりもずっと優先度が高く、当たり前の常識として僕の言葉が認識されているのだ。
「えっと……イクちゃん……」
「ほら。おはよう、ハル」
歩道橋の真ん中で戸惑っているハル。こんな誰もが見るような場所で異性にキスをしようなんて、正気の沙汰ではない。星漣学園の躾を受けてきた少女ならなおの事だ。
だが、それも単なるきっかけの問題だったのだろう。僕がハルに向かって両腕を開き笑顔を向けてやると、ハルはほっとして息を吐き、「おはよう。イクちゃん!」と勢い良く抱きついてきた。潤んだ目で一瞬僕の顔を見上げ、瞼を閉じ、そして背伸びして僕と唇を合わせる。
柔らかな少女の感触。息を詰め、懸命に僕へ『朝の挨拶』をするハル。僕もお返しにハルの細い背中に手を回し、抱き返してあげた。
「……んっ……ふぅん……」
子犬の鳴き声のように鼻で息をつくハル。僕は少女の唇の感触を確かめながら、更にその奥を楽しむべく舌先でチョンチョンとハルの前歯をつついた。その意図に気が付いたのか、ハルは一瞬瞼を震わせたがおずおずと口が広がっていく。僕は笑みを浮かべると、すかさず舌をハルの口の中に進入させた。
きゅぅっと僕を抱く手に力が入る。そんなに力を入れるなよ、制服に皺が付いちゃうじゃないか。僕の胸でハルの豊かな乳房が潰れている感触がある。そしてその下で早鐘のように鼓動している心臓の震えも伝わってくる。僕はそんなハルを宥めるように片手を少女の後頭部に上げ、耳朶の後ろ髪を梳くように撫でつけた。
ハルはその僕の動きに安心したのか、徐々に僕の舌の動きに応えるようになってきた。お互いの唇と唇の間の緊密な空間で踊るようにそれを絡ませ、擦り付け、時に相手の口内にお邪魔してそこに包まれる感触を楽しむ。
どれほど熱中していたのか。熱病にかかったように熱くなったハルの膝から力が抜け、腕にかかる体重がおっくうになってきたところで僕は唇を離した。どちらの物ともわからなくなった透明な唾液が二人の唇の間にアーチをかける。
「……はぁっ」
視点の定まっていないハルが熱い吐息を漏らす。そのまま、僕の胸に倒れかかるように体重を預けた。
「……イクちゃん……わたし……ちゃんとおはようって、できてたかな?」
「うん、良い挨拶だったよ」
苦笑しながらハルの頭を撫でてやる。確か、こうされるのが好きだったよな? 僕がハルのくせっ毛の感触を楽しんでいると、ハルは恥ずかしそうに顔を上げて「ありがと」と幸せそうな笑顔を浮かべたのだった。
その後、僕は通学路で知り合いを見かけたら、見境無く「おはよー」と声をかけて回った。その度にみんながみんな、笑顔で僕に抱きついてくる。
春原に挨拶すれば「元気だった?」と抱きすくめられ、静香を見つけて声をかけたら「お久しぶりです」と小さな身体でぎゅっと抱きついてくる。梓には「あらあら、みなさんおはようございます」と一人一人に会釈をした後に、僕の頬を取っての情熱的な口付けをしてもらった。朝顔たち1年生軍団も「先輩、おはようございます!」と飛びつくように抱きついてきて、3人で一斉にキスの雨を降らせる。見知ったクラスメイトにも数人試しに声をかけたら、同じように笑顔を浮かべながら口付けを貰った。
そんなこんなで星漣学園に着く頃には、僕は朝一番の挨拶とキスをした女の子達をぞろぞろと10人近く引き連れてしまっていた。多分、その内の何人かはさっきのがファーストキスだったりしたんだろうなぁ。
まるで僕の前途を祝福するかのような清々しい朝の通学路。そして僕は、その道の途中にあるセイレン像の前でじっとお祈りの姿勢で佇む長い髪の女生徒を見かけ、素晴らしい天の采配に感謝したくなった。
「……紫鶴さん!」
僕の声にその少女がゆるりと振り返る。スカートの裾まである長い髪がその動きの後を追うように弧を描き、それを追ってキラキラと反射した太陽が光の輪を形成する。日焼けの様子もない白くなめらかな肢体を清純さの象徴のような星漣の夏服で覆い、それでもなお内からにじみ出てくる柔らかな母性はすぐさま行って抱きしめられたいという衝動を僕の中に積み上げる。切れ長で慈愛の色を湛えた瞳が僕の姿を捕らえた時、天使のような完璧な微笑みがその顔に浮かんだ。
「……はぁ……」
誰からか知れないが、ため息のような声が僕の後ろから発せられる。言葉も無い。
そうだよな。完璧な美を賛美するとき、人は何て口にすれば良いんだ? 言葉を無くし、ただ圧倒されるしか無いじゃないか。
「――」
微笑んでいた天使の唇が僅かに開く。そこから僕への挨拶の言葉を紡ごうと、すっと静かに息を吸う。
そうだ、挨拶。その言葉は魔法の言葉。それを発するとき、世界の常識は崩れさり、いかなる存在も僕の決めた事柄に逆らうことは出来なくなる。それが例え目の前の天使の少女であっても、僕に朝の挨拶をするときは、きちんとその両手で相手を抱きしめ、接吻を捧げないとならないのだ。僕はその至高の瞬間の到来を確信し、腕を広げて少女を受け入れる姿勢をとりつつ、一歩踏み出した。さあ、紫鶴さん……おいで!
「――『ごきげんよう』郁太さん」
「おは……よ……?」
「お久しぶりですね。お元気でしたか?」
紫鶴に向かって両手を開いたまま、僕は停止する。顔は笑顔のまま、しかし、僕の口は肝心の挨拶の途中で石化したように固まってしまった。そんな僕の様子に、紫鶴は「?」と首を傾げた。
「紫鶴さま、おはようございます!」
「みなさんも、ごきげんよう」
後からやってきた女の子達が僕を追い越し、次々に紫鶴に挨拶をしていく。それに笑顔で「ごきげんよう」と返事を返す。やがて、女子生徒達はセイレン像へのお祈りを済ませ、次々と校舎の方へと歩いて行った。彼女もまた、僕の方に「では、後ほど」と会釈した後にもう一度「ごきげんよう」と挨拶してその後を追って歩き出す。
後に残ったのは、両腕を広げ天を仰ぐ姿勢で突っ立っている僕と、それを不思議そうに指で突っついているハルの2人だけ。
「……なんで泣いてるの?」
「……何であの人はあんなにマイペースなんだよおぉ……」
ハルもまた「?」と首を捻る。そして「置いてっちゃうよ?」と僕の袖を引っ張った。
ぢぐしょう……挨拶キッス作戦……最後の最後で大失敗だぁあ……! 僕を見下ろすセイレン像が、何故か「不埒は許しませんよ」と言っているように見えたのだった。
2.
2学期最初の日は生徒総会の開催日でもある。と、言ってもこの日は授業はまだ無いため、始業礼拝の後にすぐ体育館に集まって総会を行い、午前中には本日の全てのスケジュールが終了してしまう。
9月生徒総会では7月に連絡された通り、新しい保健の先生についての紹介がなされた。また、恒例となった風紀委員会からの今月の風紀目標の発表や、夏休みにあった大会の結果発表、表彰も続いて行われる。街の美化運動へのボランティア参加なんかもあったのか。ま、星漣らしいな。
さて、今日の予定最後のホームルーム終了後、また掃除に行ってしまったハルは放っておくとして、僕は何をしたもんだろう。窓の外の真昼の陽射しを見つめながら、さっさと帰ろうかそれとも誰かに能力を使おうかと考えているとクラス委員長に声をかけられた。
「達巳君、呼び出しよ」
「僕? 誰からです?」
「生徒会長から」
「は?」
「はい、これ」と委員長に渡されたメモには、確かにホームルームが終わったら生徒会執務室に顔を出すように書かれていた。僕、怒られる事したっけ? ちょっと心当たりが有り過ぎるかな……。
流石にすっぽかす訳にも行かないので、渋々と鞄はそのままにして教室を出た。中央階段を降り、食堂の横を通って中央並木経由で時計塔へ向かう。9月とはいえまだまだ南方の太平洋高気圧は衰える気配も無い。ほんの数分外を歩いただけでもう汗が吹き出してきた。
「ふぅ……」
執務室のある家屋に入り、陽射しから逃れることが出来て僕は思わず声に出して息をつく。建物の中は時計塔の上部まで吹き抜けがあるせいか、特に空調等は見あたらないのに十分人間の活動できる気温と湿度に保たれていた。汗を拭い、執務室のある2階を目指して絨毯の敷かれた階段を上っていく。
この建物に入るのはこれで2度目だ。前回は例の裁判騒動の時、総員投票の申請の際。そして今回は生徒会長からの直々の呼び出しで。何だろう、前みたいに面倒な事にならなければいいんだけど。
あの1週間の騒動は僕にとってかなりの衝撃的出来事だった。この星漣が、周囲に囁かれている「乙女の園」というキャッチフレーズのお淑やかさだけの楽園ではないという事を、身を持って体感した。その裏にあるドロドロとした確執や変革を求める若々しいエネルギーや、有象無象の内外の団体との軋轢が、一見平和そのもののこの学園を軋ませ、それでもなお存在する生徒達の信仰に近い「想い」によってかろうじて学園としての体裁を保っているのだという事を思い知った。
自称新聞部のブン屋の話によると、あの7月生徒総会の騒動は昨年の7月に起こった「七月事件」の続きだったのだという。その間、話に聞いただけでもいくつものきな臭い出来事が昨年度、そして今年度1学期に起きている。なんと、去年の12月には生徒の失踪まで起こっているのだという。そして、今年の4月の那由美の死……。立て続けに襲った不幸に、みんながこの学園の抱える闇の存在を感じて怯えない訳が無い。
(この学園には多分、僕のまだ知らない秘密が有る……)
その謎を解くこと、それがきっと七魅が教えてくれた「那由美を殺した」存在の秘密を解く鍵になるのだと、僕は確信していた。
思い詰めていたせいか、いつの間にか階段を登り切り、僕は執務室の扉の前に立っていた。一旦深呼吸して頭の中の思索の残滓を振り払い、分厚い扉をノックする。すぐに「どうぞ」と中から女の声がした。一応「入ります」と声をかけてから扉を開ける。
執務室の中には、2人の人物がいた。1人は僕を呼びつけた星漣学園生徒会長・安芸島宮子(あきしまみやこ)その人。もう1人は驚いたことに今朝あんな別れ方をしたばっかりの優御川紫鶴(ゆみかわしづる)だった。2人は応接机を挟んでソファーに座ってお茶をしていた様で、紫鶴は入ってきたのが僕なのに驚いた様子だった。
「あら、郁太さん? ごきげんよう」
「あれ、紫鶴さんもなんですか?」
中に入っていくと2人とも立ち上がって僕を迎える。宮子は「お呼び立てして申し訳有りません」と微笑むと、僕に紫鶴の側のソファーに座るように促した。紫鶴も横にずれて席を空けてくれたのでその隣に座る。
宮子は自分の執務机に置いてあったエプロンを手に取ると、それを結びながら僕に聞いた。
「達巳君は冷たいものがいいですか?」
「あ、お構いなく」
「確か、パックの苺牛乳が有りましたのでそれでいいですね」
何で僕の好みまでばっちりなんですか。
宮子のエプロンは薄緑色の生地に白抜きで猫のシルエットが並んでいる可愛らしいデザインの物だ。僕は生徒会長のエプロン姿というレアな物が隣の部屋に消えるのを最後まで見送り、扉が閉まるのを待ってから紫鶴の方に向き直った。
「紫鶴さんは何の用で呼ばれたんですか?」
「それが、郁太さんが来られてから話すとの事でまだ内容は聞いていないんです」
「あ、すみません。待たせちゃいましたか」
「私もほんのちょっと前に来たばかりですよ」
そう言ってまだ湯気のたっている紅茶にシュガーポットから砂糖を入れた。なるほど、来たばかりと言うのは本当らしい。
宮子は苺牛乳の入ったグラスを乗せたお盆を持ってすぐ帰ってきた。僕の前にしゃれた竹細工のコースターを置き、その上にグラスを乗せる。その甘くてちょっとだけ酸味の効いた液体を喉の奥に流し込んでいると、宮子はエプロンを元の位置に置き、代わりに縦横20cm位の紙製の箱を手に戻ってきた。
「申し訳ありません。今日は皆出張ってまして私だけなんです」
そう言いながら箱を机に置き、スカートの膝後ろを押さえてふわりと僕達の前に座る。
……なんか、だいぶイメージが違う。いや、もしかしたらこれが本来の宮子なのかもしれない。生徒総会の時のイメージが強すぎて忘れかけていたが、選択教科時に僕の隣で授業を受けていた彼女は、こんな風に物腰がやわらかで話しやすい女の子のイメージだったのだから。きっと他の生徒会メンバーの前では意図してクールな生徒会長の仮面を被っているのだろう。
よし、これからは今の宮子をお隣さんモード、仕事中を会長モードと区別しよう。
「それで、今日の用件は何ですか」
多少の世間話の後、僕はそう切り出した。宮子達のカップも半分くらいになっているし、良い頃合いだろう。宮子も同意見なのか、カップを横に置くとすっと居住まいを正した。おっ、会長モードに入ったか?
「本日お呼びしたのは、お二人に生徒会からのお願いがあるからなのです」
「お願い……?」
まさかまたあの新校則か、とちらっと頭に浮かぶがすぐにそれを打ち消す。その件なら紫鶴はここには呼ばれる理由が無い。宮子は僕の呟きに頷くと言葉を続ける。
「順を追って説明しましょう。本日から星漣は新学期が開始されましたが、この2学期には全校をあげての行事が多く予定されています。まずは、来月に予定されている体育祭、そしてその次には星漣祭……12月にはクリスマスミサという具合です」
星漣祭というのは、他校で言うところの文化祭だ。11月に行われ、この期間中の一般公開日には特別なチケットを持った部外者も学園内に入り、行事を楽しむことができる。また、文化系の部活にとっては作品発表の目玉となる行事であり、この星漣祭のために今も作品作りや練習に励んでいるクラブや同好会がたくさん有るはずだ。確か、季刊文芸紙「やまゆり」秋の号もこの時期に合わせて発行されるんじゃなかったかな。
「この様に2学期は生徒にとっても、そして生徒会にとっても非常に重要で多忙な時期なのです。その為、毎年の生徒会はこの時期に校則に則って『特別役員』を任命し、増員するのが慣例となっています」
んん? 何かきな臭い感じになってきたぞ? まさか僕らをそのナントカ役員にしてこき使おうってんじゃないだろうな。
僕の疑いの視線を宮子は涼しい顔で受け流すと、「お話は変わるのですが」と前置きして次の話を始めた。何だったんだ、今のは。
「さて、11月の星漣祭ですが、毎年生徒会も運営だけでなく、何らかの出し物を用意して参加することが恒例となっています。だいたい持ち回りで各文化系のクラブの支援を受けて行っているのですが、今年は演劇部と合同で劇を実施しようと考えています」
ふ~ん、結構な事ですなぁ。生徒会と演劇部……僕とはまったく、これっぽっちも接点が無いな。
「また、常ならばこの期間だけセイレン・シスターの生徒にも参加を依頼して、毎年一緒に生徒会の出し物に出演していただいています」
ははあ、なるほど。そうなると今年はセイレン・シスター不在だから人手が足りなくなるな。
「ご存じの通り、今年はセイレン・シスター不在のままで2学期を迎えてしまいました。このままでは演劇のメンバーが足りないため、生徒会の出し物を中止せざるを得ません。そこで、よろしければ昨年度セイレン・シスターの紫鶴さまと達巳君に、特別生徒会役員として一時的に生徒会に参加していただき、演劇にゲスト出演をお願いしたいのです」
ほうほう、紫鶴が演劇にねえ。確かに紫鶴が出るならかぶりつきで見たい生徒が大勢いるだろうね……って、あれ? なんかさらっとオマケが付いていた様な……?
「あの……安芸島さん?」
「はい。何でしょうか」
「あの、聞き間違いだと思うんですけど……演劇のゲストに、紫鶴さんと誰を呼ぶって言いました?」
「達巳君ですよ、勿論」
「……は?」
……はいぃいいいい!?
「いやいや無理ですって劇なんか! いや、それ以前に意味不明です! なんで僕なんですか!?」
両手をぶんぶん振って猛烈に否定のジェスチャーをする。僕の座右の銘は「ことなかれ」なのだ。自慢じゃないが演奏会や演劇会では常に裏方をキープし、舞台に上がった事など一度も無い。ゲストなんだからチョイ役なんだろうけど、それでもこの達巳郁太なんぞという不肖の輩には荷が勝ちすぎる。
しかし、そんな僕の猛烈抗議を宮子は微笑んで受け流した。
「しかし、これは生徒会の一存ではなく生徒達からの要望でもあるのです」
「はぁ?」
ちょっと意味わかんないんですけど!?
「今回の演目の決定に当たり、演劇部から『男性』の出演者1名の参加が強く要望されました。ご存じの通り、現時点ではこの星漣学園に男子生徒は達巳君しか在学していません。ですから、是非とも参加をお願いしたいのです」
おぃい……女子校で男子の必要な演劇を計画するなよぉ……。それに僕なんかが出たら絶対場が白けて演劇が台無しになるに違いないよ。
「……何と言われようが、無理なものは無理ですよ。僕は全くの芸無しで、とても人前に出るような度胸なんて……」
僕がそう言って断ろうとした時、隣で黙って行く末を見守っていた紫鶴が初めて「あら」と驚いたような呟きを発した。
「そうでしょうか? 7月の生徒総会の時の郁太さん、すごく舞台慣れしていた様に見えましたよ?」
「いや、あの時は必死だっただけで……」
「集中すれば、突然舞台に上がってもあれだけの生徒達をまとめられるんですもの。郁太さんには才能が有るんでしょうね」
「いや、そんなはずは……」
僕が思わぬ方向からの敵増援の出現に言葉を濁していると、畳みかけるように宮子が「そう言えば」と口を挟む。
「確か、その時の直前に出た新聞部の号外にも、達巳君の学園生活についての意気込みが書かれていましたね」
「え? あれ? そうでしたっけ……」
「ええ。丁度手元に有りますし、確認してみますか?」
手元にあるって、お盆の下に一緒に持って来てたなんてどう見ても最初から「計画通り」じゃないですか!?
宮子は折り畳まれていた瓦版を机の上に広げる。確かに、そこには僕が自称新聞部の蔦林蘭子(つたばやしらんこ)以下4名と会席したときの記事が掲載されていた。紫鶴と宮子は額をくっつける様にそれを覗き込む。
「……ここに、郁太さんの言葉で『星漣に今まで存在しなかった男子生徒としての役割を自覚し』って書いてありますね」
「はい。そのちょっと後にも『もっと星漣の一員としてみんなと役割分担していきたい』と書かれています」
ぐおおおお!? いくら総員投票の票集めとはいえ、ちょっと良いこと言い過ぎだぞ、僕! 何というブーメラン発言!
「なるほど。やはり達巳君は謙遜されていましたが様々な活動で学園に貢献していきたいという意志がお有りなんですね」
「すばらしいお考えですね、郁太さん」
宮子と紫鶴がそう言って僕に微笑みかける。や、やめろぉ。僕をそんな目で見るなぁ! それは票稼ぎの為の上辺だけの台詞なんだよぉ……。
そんな風に内心狼狽している僕の手を、紫鶴のしなやかな両手がきゅっと握り、持ち上げた。
「やりましょう、郁太さん。私も去年は星漣祭に参加できなかったので、今年郁太さんと一緒なら心強いです」
「は、はぁ……」
紫鶴の視線にどぎまぎする僕。さらに、反対の手を宮子もまた両手で握る。
「お願いします、達巳君。生徒会には……いえ、私達にはあなたが必要なのです」
「……」
何という十字砲火。どっちが仕掛けたか知らないが、見事なまでの殱滅作戦に僕の逃れる塹壕などありゃしない。
「……はい、やります……」
両手をこの学園の2大美女に抱えられ、僕の魂は速やかに白旗を掲げてしまったのだった。ほんと、弱いな。僕。
宮子はにっこりと笑みを浮かべると、僕の手を離して姿勢を戻す。そしてここで初めて持ってきた紙製の箱を開き、中から何かバッジの様なものを2つ取り出した。
「では、お二人に特別役員章をお渡ししておきます。在任期間中、これが役員としての証明になりますので必ず制服の左に付けておいて下さい」
僕と紫鶴が渡されたのは、百合の花とそれを巻き留めたリボンをモチーフにした金属製のバッジだった。これが役員章なのか。僕が受け取ったバッジのピンを留めるのにまごついていると、隣の紫鶴が「曲がってますよ」と手を出して直してくれた。う~む、これで僕も生徒会の仲間入りか……。
制服の胸の所を引っ張ってしげしげと見つめている僕を、宮子が微笑みながら見つめている。
「良くお似合いです」
「……そうですか?」
「ええ。後はお二人の役職についてですが……」
「ん? まだあるんですか?」
演劇の助っ人だけじゃないのか?
「はい。紫鶴さまは今のところまだ役職の準備ができていないので後ほどという事にして、達巳君にはこちらをお願いしたいと思います」
そう言うと、宮子はさらに箱の中から細長い布を取り出し、僕に手渡した。オレンジ色のわっか状の布の真ん中に「運営」と黒で刺繍がされている。
「? なんですか、これ」
「腕章です」
「ワンショウ?」
宮子は微笑みを崩さず、何でもないことのようにさらっと軽く僕に告げた。
「達巳君には、2学期の行事全般を取り仕切る『祭事運営委員長』の役をお願いしますね」
「……はぃいいいいいいいい!?」
「おめでとうございます、郁太さん」と隣でひとごとの様に(あ、ひとごとか)喜ぶ紫鶴のマイペースが恨めしかった。
3.
(くそう、とんでもないもんを押しつけられちゃったぞ……)
教室への帰り道、僕はぶつぶつ独り言を呟きながら早足に歩いていた。宮子に上手く乗せられたしまった自分のふがいなさと、思い通りに事を進めた彼女への憤りで周囲の事なんか気にしてられなかった。
あの宮子の事だ。僕を生徒会側に引き入れたのにも何か考えが有っての事なんだろう。しかし、比較的軽めの用事を承諾させておいて、後から「ついで」のように本題をなし崩しに押しつけるやり方はいかがな物か。おかげで只でさえ忙しいのに、更に色々なイベントの取り仕切りまでしなくてはいけなくなった。
廊下の真ん中で足を止め、ポケットに突っ込んでいたオレンジの腕章を取り出して溜め息をつく。まったく、こんな権威の象徴が無くたって僕は十分過ぎるくらいやりたい放題なのにさ。
もちろん、行事の運営は僕一人でやる訳では無い。宮子からも何人かサポートを用意するらしいし、自由に運営委員を増員してかまわないとも言っていた。こうなったら生徒会経験者の静香にサポートを頼んだ方が良いかもしれない。
(……待てよ?)
そこでふと思いついた。運営委員に任命されるって事は、少なくともイベントの期間はそれなりの実行権力を持つって事だ。その際、僕と契約した人間を任命したらどうなるんだろう? 権力を持つって事は周りの人間への影響力が増すって事だろ? その時、ドミナンスはどうなる?
ハルや三繰は委員会に所属していない、言うなれば「ヒラ」の生徒だ。彼女達を役員に指名したら、その分支配力は増すんだろうか?
(……今契約中の3人から選ぶとするなら……)
まず、ハルはダメだな。あれは細かい調整なんて仕事に全然向いていない。目標に向けて突っ走るエネルギーは買うが、サポートには全くと言って良いほど使えないだろう。三繰ならばその辺上手く出来そうだけど、結構仕切りたがりで僕とは趣味の事以外では話とウマが合わないかも。となると……
(やっぱり、サポートを頼むなら七魅かな)
七魅の細部にわたる気の利かせ方は特筆に値するし、気分屋で良く怒るがそんな時でも大抵僕が頼んだ事はちゃんとやってくれる。人の話も辛抱強く黙って聞いてくれるし、やっぱり一番サポート役に向いていると思われる。
そう言えば七魅とはこの間の旅行以来、話をしていない。どうも避けられている様で三繰に聞いてみても自分の胸に聞けの一点張りだ。電話も何件か留守電を入れているが、ちゃんと聞いているのか怪しいもんだ。
まあ、この間の旅行の最終日近くは結構僕も調子に乗って無茶なことをしまくったし、それが気に食わなかったのかな。ハルがまだいるとは言え、あの2人の支援が得られなくなるのはかなりの痛手だ。この後七魅に会いに行って直接謝っておいた方がいいかもしれない。
そんな事を考えながら歩いていると、3年椿組まであっと言う間に戻ってきてしまった。そのまま何気なく開いたままの扉を抜けようとして、丁度中から出てきた人物と衝突しそうになる。
「おっと」
後ろに一歩ステップを踏んで出てきた人物に道を開ける。小柄な人影は、俯いたまま僕の方に目を向ける事もなく何かを腕に抱えたまま急ぎ足で歩み去っていく。その無礼な行動に怒りを覚えるよりも先に、僕はその人影の奇妙なシルエットに興味を引かれていた。
(演劇か何かかな?)
その人物はまるでファンタジーの魔女のように黒いマントを身につけ、とんがったお揃いの黒の帽子をしていた。帽子の下からこぼれた長い金髪がマントの背中部分でたなびいている。外国人か、その血が混じっている事は間違いないだろう。
(あんな生徒いたっけ?)
僕は首を捻りつつ開きっぱなしの教室の扉に再度向き直った。既に他のクラスメイトは帰ったか部活に向かったのか、誰もいない。
何気なく一歩を踏み込んだその時、突如視界がぐにゃりと歪んだ。魚眼レンズで世界を見たかのように視界の端が歪み、教室の広さが認識できなくなる。
「うっ!?」
酷い目眩に僕は膝を付きそうになった。いつも見慣れた教室が凶々しく変貌し、教室の隅の自分の机がやけに遠い……。
(ま、またあの時みたいに右眼と左眼で違う光景を見ているのか……?)
僕はとっさに手の平で視界を覆った。片手を扉の枠につき、手探りで教室の外に後ずさりする。
そして、恐る恐る片目ずつ目を開いてみた。
(あれ……何ともないぞ?)
両目で見直してみても何も起こらない。試しに教室内に一歩足を降ろしてみたが、あの揺らぎは再発しなかった。単なる目眩だったのだろうか?
疑問を感じつつも、教室の後方にある僕の机に急いで向かう。得体の知れない何かの前兆に不安を感じ、この場所を早々に立ち去るべきだと思った。そして机の上に残っていた自分の鞄を持ち上げ、ぎょっとした。
(……軽い!)
鞄を上下に振ってみる。中身は空っぽだ。
いや、空なのは元からなのだ。今日は授業が無いのだから何も教材を入れて来なかった。問題なのはその軽さだ。
僕は急いで鞄のホックを外して中を開き、手を入れて中敷を取り外した。そしてその底に隠されていたもう一つのファスナーを開け、もどかしげにそこに手を突っ込んで鞄の背面側の隠しポケットを漁る。
(無い!)
無かった。そこに隠しておいたブラック・デザイアが、あの黒い本が、丸ごと無くなっていた。ざあっと僕の顔から血の気が引いていく。
(いったい何故……あっ!)
その瞬間、先程教室の入り口で黒い人影とすれ違ったときの光景がスローモーションで思い出される。
(黒いマントに黒いとんがり帽子……黒い影……白い制服……口元に……これは笑い?……そして、小脇に抱えた紙袋……厚手の……本かっ!?)
「さっきの奴か!」
その瞬間、僕は鞄を放り出して教室の扉に駆けだしていた。どうやってこの鞄からあの本を見つけたのかわからないが、あの本を奪おうとする者を絶対に許す事はできない。廊下に飛び出し、マントの女が向かった方に疾走する。すると、前方の階段に消えていくマントの端がちらりと見えた。
「待てっ!」
待てって言って待つ奴がいるかよ! ちくしょう、こんな事なら登校前に全校生徒の顔写真リストを復習しておくんだった! 今でも僕とブラック・デザイアは繋がっている。名前さえ知っていれば第2契約の強制命令で動きを止められた筈なのに!
階段に走り込む。上下とも、黒いマント姿や足音は無い。上か、下か。
逃げるなら1階へ降りた方が良いが、隠れるなら教室の多い3階へ行く方が有利かもしれない。どっちだ!?
とりあえず、勘を頼りに上り階段に足をかけたとき、逆側から階段を踏んで上がってくる足音がした。しめた! 下に変な格好のヤツがいなかったか確かめることができるぞ。
僕が下り階段を覗き込むと、そこには見知らぬ女子生徒が階段を上って来ているところだった。突然の僕の登場に目を丸くする。
「君、聞きたいんだけど……!」
「あ、達巳先輩! 探していたんです!」
え、先輩? じゃあ下級生だったのか。えっと、名前は何だったっけ……?
僕が一瞬躊躇した隙に、その少女は僕に向かって笑いかける。
「『特別役員』の達巳先輩を、探してくるよう保健の先生に言われて……」
「……え? 僕を?」
一瞬、何だろう? その生徒の言葉にひどく甘い響きが混ざって僕の頭は混乱する。そういえば、僕はさっき宮子に役員任命されて……そして、何をしようとしてたんだっけ? 何か急ぎの用事が有った気がするんだが。
「はい。私、『特別役員』の生徒に手伝いをして欲しいって先生に言われて、先輩を探していたんです」
「あ、そうか。そうだよね、役員は先生の手伝いをしなくちゃいけなかったね」
すっかり忘れてたな。僕は「ごめんごめん」と頭を掻きながらその生徒のいる方の階段を下り始める。
「で、どこに行くの?」
「保健室ですよ。先生が待ってますんで、一緒に行きましょう」
その女子生徒は僕の手を取って歩き出す。そうか、先生を待たせてたから急いでいたんだな。僕は一人で納得して、少女に引かれるままその後に着いて行ったのだった。
4.
「私、九条院 真莉亜(くじょういん まりあ)っていいます。1年椿組です」
「ふーん。僕は3年椿組の達巳郁太っていうんだけど……」
「はい。だから、先輩とは体育祭で同じ赤組ですね」
「そうだね」
「よろしくお願いします、達巳先輩!」
女生徒は僕の手を握ったまま、そう自己紹介した。長く豊かな髪を持った少女で、髪質なのかゆったりとウエーブのかかった髪が膝の後ろあたりまで伸びている。目が大きく形の良い眉も上がり気味で、ちょっと勝ち気そうな印象を受ける。小柄だが発育は十分で、ともすれば僕の知っている2年生達よりも充実した肉付きがその制服の下に僅かに見て取れた。
「保健室だよね? そんな、手を引っ張らなくても行けるよ?」
「あ、私良く知り合いにも気安いねって言われるんですよ」
「へえ」
手を離す気は無いらしい。
「九条院さんは……」
「真莉亜でいいですよ」
「ん……真莉亜ちゃんはどうして僕を呼びに来たの?」
「? 保健の先生に言われたからですけど?」
「じゃなくて、なんで真莉亜ちゃんが選ばれたのかなって」
「ああ、そういう事ですか」
真莉亜は納得がいったと頷くと、僕の横まで移動してきてちょいちょいと手招きした。
「ん?」
「実は私……1学期の身体測定をさぼっちゃったんです」
「ええ、何で?」
「お爺様のコンサートがあって……ちょっとフランスまで」
「真莉亜ちゃんのお爺さんは何かの演奏家なの?」
「はい。そんなカンジです。だから、今日早速身体測定やれって言われて、居残りなんです」
口を寄せた真莉亜の息が耳に当たってこそばゆい。初対面でこんな風に話せるなんて、確かに彼女の友人の評価は正当だ。今だってちょっと僕が彼女の方を振り向けば、二人の唇が触れてしまいそうなくらいの距離なのだ。
真莉亜は僕の視線に気が付いたのか、少し顔を赤くすると顔を離してにっこりと笑った。
「ふふ……私、先輩と一度お話したかったんです」
「へえ、光栄だね。なんで?」
「先輩の事、みんな噂で持ち切りなんですよ?」
「そうなの?」
「はい。7月の生徒総会の後、みーんな先輩の事噂してます。だから、どんな人なんだろうなって思ってたんです」
真莉亜の言葉に僕は頭を掻いた。またその話か。どうもあの一回だけで悪目立ちし過ぎたようだ。
「まあ、僕は結局紫鶴さんに助けて貰っただけなんだけどね」
「そんな事無いです。確かにあの時、紫鶴お姉さまのお言葉にみんな感動して生徒会の意見に反対したんですけど、後々みんなで考えてみて、お姉さまの前に先輩がみんなをまとめてくれたからああなったんだってわかって、もう一回すごいなって感動したんです」
うーん、完全にばれてるなぁ。そうなんだよな、あの時の生徒総会は単に演出勝ちだっただけで、実際の所どっちが正しかったとかじゃなくて、単に雰囲気を持ってって勝ち逃げしただけなんだよな。
「その時から私、先輩に興味が有ったんです。あんな風に自分に非難を集中させてまでお姉さまに道を作った男の人って、どんな人なんだろうって」
「はあ、あんまりご期待に添える自信は無いなぁ」
僕の当惑がとぼけている様に見えたのだろうか、真莉亜はくすっと笑って僕の隣に来ると、今度は腕を取った。
「いいですよ。これから私、先輩の素敵なところ沢山見つけてみせますから……あそこが保健室ですよ、先輩。ちょっと先生を待たせちゃいましたかね?」
真莉亜は空いている手で前方の扉を指さすと、僕の手を取ったままグイグイと引っ張ってその部屋に連れ込んだ。うーん、色々と押しの強い娘だなぁ。
保健室では女性の先生が机に座って何か書き物をしていた。僕らの入室に気が付き、椅子を回してこっちを向く。えっと、あれ? 生徒総会で何て紹介されてたっけ?
「すみません、遅くなりました」
「あなたが特別役員の達巳クン? よかった、来てくれたのね」
先生は白衣を着込み、ウェーブのかかった髪のお姉さんって感じの女性だ。ちょっとたれ目で優しそうな雰囲気を醸し出している。なかなかの美人、なんじゃないかな。
「僕は何をしたら良いんですか?」
「あら、九条院さんに聞いてない? 彼女だけまだ健康診断が済んでないから今日やるんだけど、ちょっと手伝って欲しいの」
「そこまでは聞きましたけど……」
女の子の健康診断で、男の僕に手伝える事なんて有るのか?
「お手伝いの内容についてはその都度こっちから言うわね。それじゃまず、着替えを手伝ってあげてくれる?」
「え!? 着替え……ですか?」
「そうよ。彼女、髪が長いでしょ? 検査着に着替えるのにお手伝いがいた方が良いと思うの」
「でも、男の僕が着替えを手伝うなんておかしいでしょ……」
僕がちょっと顔を赤くしながら真莉亜の為を思って抗議する。だが、当の真莉亜はきょとんとした顔で僕の顔を見つめている。
「別に、『特別役員』の先輩が身体検査のお手伝いするのはおかしくないと思いますよ?」
「え……!?」
「そうよ。達巳クンは『特別役員』なんだから、恥ずかしがらずに堂々としてればいいの」
「……」
そう……なのか? 特別役員ってそういう役目の役職だったんだっけ。僕は首を捻りながら「真莉亜が良いって言うんだし」と納得した。
「じゃ、検査着はそのカゴに入ってるから」
「はい」
取り出してみると、薄い青色生地で作られた、紐で前を留めるシャツみたいな物とサンダルが入っていた。しかしこれ、下に着る奴が無いぞ?
「先生、上しか有りませんけど」
「いいの、上だけで」
ふーん、と頷きながら僕は真莉亜の方にカゴを持って向かった。少女は着替え用にカーテンで四角く区切られた場所で首だけその隙間から出して待っている。
「先輩、こっち!」
「お待たせ」
区切られたブースはとても狭く、お店なんかにあるちょっと広めの試着室くらいのサイズしかない。置き場所がないので、僕はシャツとサンダルを手に持ってカゴ自体はカーテンの外に押し出した。
僕が中に入ると真莉亜はすぐに制服を脱ぎだした。ファスナーを下ろし、袖から手を抜いて開いた襟元から肩を抜くと、それだけで星漣の夏服はするりと下まで脱げてしまう。ごく間近に少女の下着姿がいきなり現れ、僕の心臓がドクンと大きく跳ねた。
「先輩。制服、畳んでもらえます?」
「ん、いいよ」
僕の目の前で服を脱いだというのに真莉亜には全く動揺が見られない。うーん、ただの身体検査でうろたえる僕の方がおかしいのかな。
制服を綺麗に折り畳んでいるとその間に真莉亜は靴と靴下を脱いでサンダルに履き代え、腕を背中側に回してブラのホックを外していた。するりとそれが腕から抜けると、小柄な真莉亜にはアンバランスなほど大きな乳房の先に小さく色づいた場所が現れ、僕の心臓は哀れなほどバクバクと鼓動を早くした。
「じゃあ先輩、着せて下さい」
「お、おう……」
浴衣の様に少女の腕を検査着の袖に通そうとすると、「後ろ前ですよ」と真莉亜が止めた。へえ、これって背中側で結ぶんだ。珍しい形のシャツだな。
前方から両袖を通し、エプロンの様に首と腰の後ろで紐を結ぶ。背中側が丸見えだけど、真莉亜は髪が長いからこういう形のシャツの方が着付けし易いんだな。
「どう?」
「……ちょっと大きい、かな?」
「かもしれないね」
首の後ろを一番短いところで蝶結びしたが、まだ襟首が大きく開いていて後ろから胸元が際どいところまで見えてしまっている。シャツの裾も長めで、おかげで前から見たら下着は完全に隠れているが、後ろはさっきも言ったように開いているため丸見えなのは変わらない。
「もう少し小さいのを頼んでみようか?」
「もういいです。検査だけなんだし」
そう言うと真莉亜はカーテンを開けて先生に「準備できました」と告げた。僕は外に出していたカゴに真莉亜の制服や靴下、ブラジャーを畳んで入れる。ふう、あの狭いスペースで裸同然の女の子と二人きりとか、少女の匂いが篭もってくらくらする。それに手伝いなんていらなかったんじゃないか?
「じゃ、あっちから順に計測器を使って計ってくれる? 達巳クンは数値を読んでこの紙に記入していってね」
「は~い」
まずは身長か。昔ながらのスライド式の測定器に真莉亜を立たせ、バーが頭に当たるところまでゆっくりと下ろす。
「149.……8」
「ええ~!? ウソウソ、絶対私150センチありますよ~!」
真莉亜がぷりぷり怒って僕の計測結果に文句を言う。あんまりしつこいからもう一度だけという約束で再計測してやると……。
「ん? 151.5? あっ! 踵を浮かすなよ!」
「ばれちゃったか~」
という具合だ。体重測定の時も「見ないで~」としゃがみ込んで目盛りを隠そうとするが、僕は秤の目盛りを読んで記録する義務があるのだ。きつく言って気を付けの姿勢を取らせ、ばっちりと読んでやった。
「次は……3サイズか」
「はい、先輩。メジャーです」
真莉亜は自分で検査着の裾を持って胸の上までたくし上げた。再び僕の目の前に少女の胸が隠す物も無く露わになる。うー、ちょっとはこっちにも心の準備をさせてくれ。
少女の髪をメジャーの内側に入れないようにするため、背中側を通すときは片手で髪を押さえながらやらなくてはならない。その結果、どういう体勢になるかというと。
「あ、先輩、くすぐったいです!」
「が、がまんしてよ」
背中側で両手を使った作業をしなくてはならないため、どうしても真莉亜の胸に顔が寄ることになる。僕の鼻息を肌で感じ、少女はけらけらと笑いながらくすぐったさに身を捩った。それを計3回、胸と、お腹と、腰で計測してようやく3サイズの測定は終わる。終わった後でなんだけど、これ、最初から真莉亜を後ろ向きにさせてやれば良かったんじゃないか?
さて、あらかた測定が終わったので真莉亜の検査着を元通りに直し、僕達は先生の所に戻る。そこでは既に次の検査の準備が出来ていた。
「はい、達巳クン」
「休憩ですか?」
手渡された紙コップにそう判断して真莉亜に渡そうとする。だが、先生は「あ、違うのよ」とそれを押し留めた。
「まだ検査は終わってないの。達巳クンには、そのコップの目盛りの所まで九条院さんの尿を採ってきて欲しいの」
「にょう……検尿ってことですか!?」
「そうよ」
「トイレはここを出てすぐの所を使って良いから」と何でも無い事の様に微笑みながらペンでドアを指す。でも、検尿ですよ? おしっこですよ? 僕が狼狽して真莉亜を見ると、彼女もこれは恥ずかしい様で顔を真っ赤にして僕の顔を見上げている。
「あ、えっと……真莉亜ちゃん、一人でもできる?」
「え、多分……」
真莉亜の返事にほっとしたのも束の間、先生は「ダメよ、達巳クン」と指を立てて僕らに注意する。
「達巳クンは『特別委員』なんだから、めんどくさがっちゃダメでしょう? それに一人だとこぼしちゃったり、汚しちゃったりするかもしれないんだから。ちゃんと達巳クンがおしっこを採ってあげるのよ、いい?」
面倒くさがってる訳じゃないんですけど……。でも、ここまで言われちゃ仕方がないな。まだ顔の赤い真莉亜を連れて、検尿コップを片手に僕は保健室から出た。
5.
先生の言った通り、保健室の外にはすぐ職員用のトイレが有った。扉を開くと入ってすぐに簀の子が敷いてあって、そこでトイレ用のサンダルに履き代えるようになっている。
職員用のトイレは狭く、個室が2つしかない。僕と真莉亜は奥側の個室に一緒に入った。当然、ここも狭くて洋式便器1個の周りには辛うじて2人が立っていられるだけのスペースしかない。
便座の蓋を開けると綺麗に清掃されていて、汚れもなかったが念のため備え付けのウェットティッシュで便座を拭いておいた。
「じゃ、座ってくれる?」
「はい」
真莉亜は検査着の横裾から手を入れて、するすると下着を膝まで下ろした。そして髪の毛を片手でまとめながらすとんと便座に腰を下ろす。僕は紙コップをあてがおうとしてはたと停止した。
「あ、すみません。これじゃ出来ませんよね」
そうなんだ。コップをあてがうには真莉亜の膝の間に手を入れないといけないんだけど、下着が膝にかかったままだと隙間が無いんだよね。
「足を上げますから、片っぽ脱がしてもらえます?」
「うん、わかった」
真莉亜は左足を内股気味に持ち上げた。僕は言われた通りに少女の下着を持ってその足首から抜いてやる。その際、持ち上げた脚が検査着の裾を捲り上げてその中が影の中に見えそうになり、僕は慌てて目を下に反らした。真莉亜は何とも思ってないのか、それとも気が付かない振りをしてくれたのか黙っている。
ようやく膝が自由になり、真莉亜はおずおずと脚を左右に開いて座り直した。
「あの……これでいいですか?」
真莉亜が両手で検査着の裾を捲り上げる。白くなだらかなお腹やその中心の小さなおヘソ、太股と下腹部の継ぎ目のようなくぼみのライン。その間の茂みは少女の髪とは対照的に薄く、彼女の秘密の部分を隠す役目はあまり果たせていない様だった。
やっぱり恥ずかしいのか、真莉亜はたくし上げた手を口元を隠すように顔に当て、僕の方を上目遣いで見つめている。さっきまでの気安い雰囲気はなりを潜め、なんとも可憐な表情に僕はますます心臓の鼓動を早くした。
「う……うん。さっさとやっちゃおう」
「はい。お願いします」
腰を屈めると少女の下腹部がますます近くなった。呼吸のためにお腹が動いているのが良く見える。僕はそれらの光景に目をくらくらさせながら、少女の股間の下に紙コップをそっと差し出した。
「いいよ」
「じゃあ……出します」
真莉亜がそう言うと、お腹にきゅっと力が入った。しばらくじーっと動かないで待つと、コップの中にチョロチョロとおしっこが落ち始める気配がし始めた。個室の中にアンモニアの臭いが漂い始める。飛沫が飛んでいる様で、コップを持つ僕の指に温かい滴が落ちる感触があった。
「あ、ちょっとかかっちゃった」
「えっ! あっ、ごめんなさいっ!」
「いいから、そのままで。後で洗えば良いんだから気にしないで」
「あうぅ~……」
ここまで来たら毒食らわば皿までだ。それに止めてと言っても止まるもんじゃないだろうし。……ん?
「あれ? 線まで来たらどうすればいいんだ?」
「え? コップを退かせばいいんじゃないですか?」
「あ、そうだよね」
間抜けな疑問だった。良いところでコップを引いて僕は腰を伸ばして立ち上がった。真莉亜はまだちょろちょろと残りを出し続けている。
先に手を洗おうと個室のドアに手をかけ、あっと気が付いた。
「そう言えば、鍵かけてなかった」
「あっ」
真莉亜と顔を見合わせる。そして同時にぷっと吹き出した。何をか言わんや。こんだけ大騒ぎでやっといて、鍵の一つ二つで何を今更だった。
トイレの手洗いで両手を洗い、ハンカチで手を拭いているといつの間にか真莉亜のおしっこの音は止まっていた。コロコロとトイレットペーパーが回る音がして、ごそごそと動く音が続く。僕は真莉亜が自分の股間を紙で拭いている光景を想像して自然に顔が熱くなるのを感じた。
しばらく待つと、水洗トイレの作動音がして扉が開き、真莉亜が顔を出した。
「先輩、もういいですよ」
「うん。じゃあ戻ろうか」
真莉亜が手を洗うのを待ち、僕はまだ温かいコップを手に保健室に戻った。少女もサンダルを履き代え僕の後ろをトコトコと着いてくる。
待ちかまえていた先生は細長い検査紙をコップにちょいちょいと浸すと、それを一旦かざして色の変化を見て、机に用意してた何かの機械にそれを読み込ませた。
「残りは捨ててきてね」
そう言って僕にまだたっぷりと入っているコップを渡す。何だ、ずいぶん簡単なんだな。これじゃトイレでドタバタしていた時間の方が随分長い。
先ほどのトイレに僕だけ逆戻りして便器に黄色い液体を捨て、レバーを引いて洗い流す。コップはどうしようかと思ったが、別に再利用するようなもんでもないし、トイレに備え付けの屑入れに放り込んだ。
保健室に戻ると先生はベッドの所にいて、真莉亜をそこに座らせて何か話をしていた。やれやれ、まだ検査は続くのか。
僕が戻ってきたのを見て取ると、先生は次なる検査の内容を説明しだした。
「次は九条院さんのお尻の検査。肛門と直腸を実際に見て、触って検査するのよ」
「それも……僕がやるんでしょうね」
「そうね。そうしてもらうと助かるわ」
ため息がちに呟いた僕の言葉に先生は笑顔で頷く。そして薄いゴム手袋と滑りを良くするローションを僕に手渡した。僕がそれらの準備をしている間に先生は真莉亜に先ほどの話の続きをする。どうやら問診をしていた様だ。
「九条院さん、今朝はお通じ有った?」
「はい」
「便の様子に何か変わったところは?」
「いえ、特には」
しっかりと受け答えしてはいるが、僕にそんな話を聞かれるのが恥ずかしいのかちらちらとこっちを気にしている。僕だって聞きたくて立ち聞きしてる訳じゃないんだよぉ。
「はい、終わり。じゃあ次は立って下着を脱いで、そうしたらベッドに手を突いてお尻をこっちに向けてくれる?」
「わかりました」
いよいよ真莉亜の直腸検査だ。少女は立ち上がって先ほどのように下着を下ろすと、今度は自分で足から抜いて側のカゴの中に入れた。そして僕達にお尻を向けると足を肩幅に開いて立ち、上体を倒して片手をベッドについた。もう片方の手は検査着を引っ張って股間の割れ目の部分を覆うように隠している。気丈にこっちに目をやっているが、その顔は耳まで真っ赤に染まっていた。
「はい、じゃあまずは肛門付近のチェックね。見た感じ何か異常が無いかしら?」
先生はそう言って僕をお尻を剥き出しにしている少女の後ろに寄らせ、自分は両手でそのお尻を左右に割り開いた。穴の周りの盛り上がっているところや皺の様子が良く見える。
真莉亜のそこは小さくて形も整っていて、汚いところというイメージは全然湧いてこない。じーっと見つめているとその視線を感じるのか、時折ぴくぴくと肌を震わせていた。女性器を隠す手には力が込められていて、気が付いたら引っ張り過ぎて肩がずり落ち、胸が襟元からこぼれてしまっている。本人はそれどころじゃ無い様だけど。
「……別に、おかしな所は無いと思います」
「そうね。外観は問題無さそうね」
先生が頷き、真莉亜からほっとした気配が感じられた。
「次は触診するから、九条院さん? さっき言った様に深呼吸して力を抜いて、合図したらうんちをする時みたいに息んでね」
「はい……」
「達巳クンはお尻の穴に手を当てて、すこしお薬を伸ばしておいて」
「わかりました」
言われた通り、人差し指を使って真莉亜のお尻の穴をぬるぬると撫で回す。薄いゴム皮膜越しに少女の堅く閉じた秘密の部分の感触が伝わってきて、凄くいけない事をしている気分になる。
「じゃ、せーのでゆっくり指を入れてね。はい、せーのっ」
その合図で真莉亜の内腿に緊張が走り、同時にお尻の穴がぱくっと緩んで僕の指が沈み込んだ。驚いたことに、薬の効果なのかそのまま第2間接くらいまでお尻の中に指が入っていく。
驚いたのは僕だけではなく、真莉亜も
「あっ、あっああぁあ!?」
と悲鳴とも嬌声ともつかぬ声を上げてベッドのシーツをぎゅっと握り締めた。
僕の指にきゅうっと締め付ける真莉亜の直腸の感触が伝わってくる。そこは彼女の体温で熱く火照っていた。
「達巳クン、もっとゆっくりしてあげないと」
「す、すみません……」
「ま、いいわ。指、動かしておかしな所が無いか確認してくれる?」
「えっと、こうですか?」
「〆∂∝∵§*♂っ!」
僕がくるりと指を回すと真莉亜は形容し難い声を上げて悶絶した。サンダルから踵が浮いて膝がぴんと延び、腰がガクガクと痙攣した様になる。そんな様子を見ても先生は「ふーん……」と何かカキカキと手元の書類に書き物をしていた。
「もう少し奥まで指、入るでしょ?」
「え、まあ……」
僕は逡巡しながら答える。入り口付近を撫でただけでこれなのに、一番奥まで指を突っ込んだらどうなっちゃうんだろう? 真莉亜の様子を見ると、身体から力が抜けているのかシーツに横顔を付けてはぁはぁと息を荒げている。
「せんぱぃ……まって……まってくらぁい……」
ろれつも回っていない様だ。この薬、ただのローションじゃなくてちょっとヤバい成分も入っているんじゃないだろうな。しかし、先生は非情にも「時間も無いし、やっちゃって」と僕に告げた。僕も「まあそういう事なら」とぐっと指を押し進める。
「あに゛ぁあ゛あああ!?」
真莉亜の喉から尻尾をふんずけられた猫みたいな声が出た。同時に股間を押さえていた手がパタリと落ち、そこからぷしゅっと水滴が散る。
「おわっ!」
身体を近づけていたせいでもろにその滴をもらってしまった。僕の制服にぱたぱたと無色無臭の液体が染みを作る。先生はそんな真莉亜の様子を見ても「あらあら」と暢気なものだ。
「九条院さん、もう少しの我慢だからね」
「……まだやるんですか?」
「せっかくそこまで指が入ったんだから。念入りに変なところが無いかチェックしてあげてくれる?」
「……りょーかーい」
指を動かし回しながら、内壁を擦ってそこに出来物が無いか確認していく。真莉亜はその都度泣き声のような声を漏らし、身体を震わせた。入り口の辺りまで終わらせてようやく指を抜く頃には、少女の身体からは完全に力が抜けてしまって、お尻の穴はもう何も入っていないのに口を開いたままになっていた。その内腿はおしっこを漏らしたかの様にびしょびしょに濡れている。
先生と僕はぐんにゃりと力を失った真莉亜を持ち上げてベッドに寝かしてあげた。
「どうするんですか、この後。彼女、伸びちゃいましたけど」
「そうねえ……」
手袋を外しながら聞くと、先生は人差し指を頬に当てて首を傾げ、思案する。
「後ちょっとだし、先生と達巳クンで調べちゃいましょうか」
「え!? 本人の同意無しでいいんですか?」
「検査だし、それに『特別役員』の達巳クンもいるし、大丈夫よ」
ほんとかよ。だけど僕はその言葉に潜むどこか甘い響きに何となく「そんなもんか」と納得してしまった。
先生は真莉亜の腋の下に手を入れて位置をずらしている。僕は次に何をするのか聞いてみる事にした。
「次は何をするんですか?」
「後はね、女の子の一番大切なところをチェックするのよ」
「……はぁ」
真莉亜の身体がベッドを横切るように向きを変える。先生は少女の上体を自分のお腹に寄りかかるように起こすと、手を伸ばして少女の両足首を掴みV字を作るように持ち上げた。当然、ベッドの反対にいる僕の側からは検査着の下の彼女の秘部やその下のお尻の穴まで丸見えだ。
「わぁっ!? なんて格好させてるんですか!?」
「この方がよく見えるでしょ? ほら、達巳クン。まずは九条院さんの膣口……赤ちゃんの産まれて来る場所を見つけてみて」
先生の言葉に僕はゴクリと喉を鳴らす。真莉亜はまだ意識がはっきりしていない様で首が据わっていない。僕は誘われるようにまだ濡れそぼっている少女の股間部に近づき、両手の指を使ってそこを開いてみた。「ん……」と真莉亜が洩らした声にドキッとする。
「どう? わかった?」
「は、はい。多分……」
「じゃあ、まずは出来るだけそこを開いて、直径を測ってみてくれる?」
「はい……」
手渡されたメジャーを少女の股間に宛がう。先ほどの嬌態のせいかそこは赤く充血しており、時折中からとろっと粘液を吐き出している。ぐっと親指と人差し指で左右に開くと、穴の奥の方に白っぽい膜のようなものが見えた。
僕が目盛りを読み上げると先生は頷き、更に次の指示を出す。
「いいわ。最後は膣の長さを測るからね」
「長さですか?」
「そうよ。九条院さんの膣口からの奥行きを調べるの」
「えっと、このメジャーを伸ばして中に入れるんですか?」
僕が真莉亜の股間を開いたまま尋ねると、先生は笑いながら首を振った。
「違うの。これが今日『特別役員』の達巳クンに来て貰った一番の理由なんだけど……女の子の膣の長さはね、君のペニス……つまりおちんちんで測って欲しいの」
「……へっ!?」
えっ? 待て、今何て言ったこの先生。僕ので、真莉亜の膣の長さを測るって……つまり、コレを真莉亜の中に挿れるって事だろ? それってつまり……。
「これは『特別役員』の達巳クンにしか頼めなかったの。お願い、先生を手伝って。ね?」
……まあ、ただの測定だし。ただ、僕のモノを真莉亜の膣の一番奥まで入れて長さを計るだけなんだし、問題無いよな。
「わかりました。どうしたらいいですか?」
「ありがと、達巳クン。難しい事は無いの。ただ、ペニスを九条院さんの膣口に当てて、奥に入れるだけでいいの」
「こうですか?」
僕は言われたとおり、すでに屹立していたモノを真莉亜の股間にあてがう。少し腰を前に出して押し込んで見ると、先端に何か引っかかるものが有るのを感じた。僕の脳裏にさっき中を覗き込んだ時に見た白っぽい膜が思い出される。
「そう、そのまま、前に押し出せばいいの」
「わかりました」
僕は頷き、先生の言う通りに腰に力を入れた。
6.
その時だった。
僕の左目の中で何かバチッと火花が飛んだような気がした。
(――ダ・メ・ダ・!)
脳裏に何者かの声が響く。僕はその衝撃に呻き声を上げながら思わず目を覆った。
「達巳クン?」
前方から女の声がする。僕は反射的にその相手を突き飛ばし、反動で自分も後方に飛び下がった。その声の主が「きゃっ!?」と無様に床に倒れた気配がある。
僕は目を見開き、周囲を見渡した。昼下がりの保健室、ベッドにはほとんど全裸の少女が横向きに倒れている。その顔には見覚えがある。さっき、階段のところであった女子生徒だ。名前は何だったっけ……?
この部屋には僕とその少女と、今まさに床に手を付いて起きあがろうとする白衣の女しかいない。
「どうしたの、達巳クン。いきなりちょっと乱暴だぞ」
その女は人差し指を立てて僕に向かってぷりぷり怒る。どこか本気には見えないのが愛嬌なのか。しかし、その外見に騙される訳にはいかない。
「……お前、誰だ?」
「えっ!?」
白衣の女はびっくりして目を大きくする。一瞬、動きを止めた後戸惑った様に口を開いた。
「本当にどうしたの? 今朝紹介があったでしょ、今学期からこの学校に赴任してきた――」
「違う!」
僕は大きな声で遮った。女はびくっと体を震わせて言葉を止める。
そうだ、思い出せ。今朝の生徒総会で司会は何て言っていた? 今月から来るはずだった新しい先生は……。
「……新しい先生は、都合により再来週から来る事になった、そう紹介されたぞっ!」
「……」
どうして思い出せなかったのだろう。確かに今朝、そう紹介されたのだ。だから、今目の前にいるこの女が新しい保健の先生である筈が無いし、それなら誰なんだという事になる。
おどおどと視線をさ迷わせている女。しかし、僕からの視線がまるで緩まる気配を見せないとみると、観念したのか目を閉じてふぅとため息を吐いた。
「――まさか自力で目を覚ますとは思いませんでしたわ」
「……!!」
まるで違う声色。口元には先ほどまで全くなかった嫌らしい感じの笑いが浮かび、細く開かれた眼には僅かに光を放っているかのような緋色の瞳が見える。何だ……この女?
「防御魔法を用意してたのですか? 意外に用心深かったんですね」
なんだろう、目の前の女にダブって何か影の様なものが見える。僕はふと思いついて右目を閉じてみた。
すると、この世に有らざる存在を見通す魔力の左目には、はっきりと捻れた角を持つ女の姿が映っていた。
「その姿は……!」
「ふぅん? その眼が契約の代償という訳ですのね」
牙の生えた口で女がケラケラと笑う。こいつ、幎の同類……悪魔の眷族って奴か。
「僕に何をするつもりだ?」
「残念ながら、本とあなたを引き剥がす試みは失敗してしまいましたわ。大人しく支配を受け入れていればちょっとは良い目を見れましたのに」
そう言ってベッドに倒れている女生徒に流し目を送る。この少女を使って、僕に何かしようとしたのか? ……待て、本だと? そうだ、僕の本!
「お前が僕の本を盗んだのか!?」
「その言葉はあまり正しくはありませんね。……しかし、行方が気になるなら、屋上に行ってご覧なさいな」
「……屋上? あっ!」
連鎖的に先ほど教室から出てきた黒マントの事を思い出した。あいつは屋上に行ったのか? だが、この女の言う事を信用しても良いのか?
僕が睨みつけてもその女はまるで堪えた様子は無い。それどころか、軽くステップを踏むように後ろに下がると、突然その身体が壁際に出来た自分の影に沈み始めたのだ。
「なぁっ!?」
「ほらほら、お急ぎなさい、坊や」
「待て!」
既に女の身体は半分以上影の中に沈んでいる。僕がそれを追いかけようとベッドを飛び越えた時にはもう、その女はまるで墨汁の水溜まりに沈むかの様にぽちゃん、と消える。
『あまり女性をお待たせするものではありませんよ?』
最後に女はそう言い残し、影ごと保健室の中から消えてしまった。
(くそっ! 何なんだ!?)
僕は保健室にさっきの女生徒を残して廊下に飛び出した。手がかりは今の女の言葉しかない。屋上に行くしかないのか。
しかし、これは罠だ。どう考えてもそうとしか結論は出ないだろう。もっと戦力を整えるべきではないのか。
僕は先ほどの出来事を思い出す。なぜ、あの保健室に行ったのか。
先ほどの少女は階段のところで会った娘だ。たしか……九条院真莉亜といった。彼女が「怪しい人影を見た」と言うので保健室に行ってみたんだっけ。だが、そこでそこで待っていたのは黒マントの人影ではなく、そして本物の保健医でもなかった。あの真莉亜という少女もあの角の女に操られていたんだ。
だが、僕が魔力を持った存在を見通す目を持っている事は想定していなかったようだ。正体を暴かれ、女は僕に手出し出来ないと知ると逃走した。つまり、あの女の目的は僕に直接危害を加える事じゃない? やはり……あの本、ブラック・デザイアが目当てか。
ブラック・デザイアを使うためには魔力を本に注がなくてはならない。だが、現代の人間に魔法なんて使える筈がない。だから、僕の代行として、悪魔の幎があの本の力を使用する手伝いをしてくれているのだ。そうすると、あの悪魔もまたブラック・デザイアの力を欲しているって事なのか? 本とあの女と、そして使用者となる人間が揃ったら、ブラック・デザイアは僕達から奪われてしまうのか?
希望はまだ有る。僕とブラック・デザイアは今だ繋がっているのだ。意識を集中すればこの校舎のどこかにまだ本の気配が有る。「力」の行使だって可能だ。
あの女が何をしようとしていても、まずは本を取り返すことが先決だ。黒マントの少女から奪い返せれば何とでもなる。その際、きっとブラック・デザイアの力が役に立つ。取り戻すだけじゃない。うまく黒マントを僕の従者にする事ができれば、永続的に僕の支配下に置くことが出来る。そうすればもう二度と手出しをする事は出来なくなるだろう。
あの女の企みも直前で躱す事が出来た。保健室でのタイムロスはほんの数分程度だった筈だ。相手が体勢を整える前に奪い返さないと! 僕は走りながら携帯を取り出し、七魅の番号を呼び出した。
(TLLLL……TLLLL……)
出てくれ……出てくれ……。
携帯を耳に当てながら走る。だが、たっぷり30秒はコールしてるのに留守電に繋がる気配すらない。……くそっ、ダメか!
屋上へ上ることのできる校舎端の階段の下まで来たところで僕は見切りをつけ、一旦切って次の相手に電話をかけた。同時に階段を上り始める。今度の相手はすぐに繋がった。
『はーい! 三繰お姉ちゃんでーす!』
「おい、側に七魅がいるなら代わってくれ!」
僕は息を切らせながら必死に呼びかける。だが、三繰はすぐにその嘆願を拒否した。
『ざんねーん! ナナちゃん今は達巳君と話したくないってさ』
「くそっ! そんな場合じゃないんだよ!」
『どしたの? 随分せわしない様子だけど』
「あの本が変な黒マントに……ああ、もう! とにかく女子の情報を1人、今すぐ欲しいんだ!」
まだブラック・デザイアの契約は僕と共にある。あの女子生徒の名前さえ分かれば、能力を使って本を取り返すことだって簡単な事だ。
『ふーん……残念だけど、ナナちゃんはもう達巳君に協力したくないって。ま、私に分かる程度なら答えてあげるけど』
「なんだって!?」
くそっ! こんな時に……。しかし今はとにかく時間が無い。この際三繰でも誰でも良いから助けが必要なんだ。僕は七魅の機嫌を直すことは後回しにし、三繰に先ほど見た黒いマントの女生徒の情報を思い出せる限り伝える。
『……ふーん……切りそろえられた金髪で、身長はナナちゃんより低め、ねぇ……』
「そう! 何か情報無いか!?」
もう3階だ。もうすぐ屋上に着く。僕は焦って聞いた。
『いや、有るけどさ……それ、本気で言ってる?』
「なんだよ!?」
『だってさ、その娘、どう考えても達巳君のクラスの娘だよ?』
「……は?」
最後の階段の途中で、僕は思わず立ち止まってしまった。
『達巳君の正反対、廊下側の一番最後の席に座ってるでしょ? 3年椿組・エアリア=マクドゥガル。どう考えてもその娘しかいないよ』
「……」
……一緒の……クラス?
『おーい、もしもーし……つみく……』
携帯の声が遠くなり、聞こえなくなった。ディスプレイを見ると、アンテナが立っていない。ここだと電波が届かないのか……。僕はもう用無しとなった携帯を切ってポケットに突っ込んだ。目の前には屋上への唯一の出入り口となっている鉄製の扉がある。
前にも、こんな事があった様な気がする。その少女の事を尋ねると同じクラスの筈だと指摘されて、それなのに僕はそいつを一度も見かけたことは無いのだ。あれは、いったい何時の事だったっけ?
(……いや! とにかく今は、まず本を取り返すことだ!)
僕はぐっと歯を噛み締めて気合いを入れ直し、扉のノブに手を掛けた。
「おーい、もしもーし? 達巳くーん、聞こえてるー?」
三繰が電話の向こうの相手に話しかけるが、返事は返ってこなかった。その内、通話終了の画面が携帯に表示された。
「あら、切れちゃった」
つまらなそうにそう言い、三繰は携帯をポケットに戻す。そして傍らの妹に向き直った。
「良かったの? 達巳君かなり困ってたよ?」
「別に……私は彼と話す事なんて有りませんから」
七魅はぷいと向こうを向いたままそう答えた。そのままスタスタと帰路につく。さきほどまで、通話中の三繰をどうしても気になるといった風にちらちら様子をうかがっていたのだが。
「まったく、ナナちゃんもそんなに意固地にならないで――」
『――達巳君と話してみればいいのにさ』
そう、続けようとした言葉が、しかし三繰の口から出てくる事は無かった。途中で言葉を止め、きょとんとした顔で口を閉じる。その気配を感じ、七魅は訝しげに眉を寄せて振り返った。
「どうしたんですか? 途中まで言いかけて」
「……んー」
三繰は首を捻りながら、「ま、いいか」と一人で納得した。それを怪訝そうに見つめる七魅。
だが、姉の急な心変わりはいつもの事なのでじきに諦め、ほっと息をつくと元通り前に向き直った。三繰も特に何も言わずにそれに続く。しかし、その内心ではまだ首を捻っていた。
(なんだったんだろ? 何を言いかけたんだっけ?)
言葉の途中で、ど忘れしたかのように「何か」を忘れてしまった。そのせいで言葉を続けられなかったのだ。
(……ま、思い出せないって事は別に大した用事じゃないよね)
そう自分だけで納得し、三繰はその疑問を速やかに忘れる事にしたのだった。
7.
少し堅い扉を押し開けると、気圧の違いで一気に正面から風が吹き込んできた。陽はまだ高く、中との光量の違いに一瞬別の世界に紛れ込んだかのような錯覚をする。
(どこだ……どこにいる……)
手をかざしながら周囲を見渡す。コンクリートの床面は残暑の陽光を十分に反射し、上から下からまるでオーブンの様な勢いで僕に影のない世界を見せつける。校舎の縁には僕の身長の3倍もありそうな立派なフェンスが堂々とそびえ、完全に外の世界との境を形成していた。しかし、そこに僕以外の影は存在しない。誰もいないのか? 僕は焦りを込めて「どこだ……」と呟いた。その時だった。
「――誰かお探しかい?」
僕の頭上から、突然声をかけられた。はっとしてとっさに数歩駆けて距離を離し、そして急いで振り返って上を見上げる。 たった今、僕が出てきた屋上階段の扉、その建物の上に人影があった。とんがった帽子と風にひるがえったマントが揺らめく二等辺三角形を形作っている。帽子のつばが広く、顔が影に隠れて表情を読むことが出来ない。僅かに笑いを浮かべた口元が見えるだけだ。
「――それとも、探しているのはこの本かい?」
すっとその人影が左手を持ち上げた。そこに黒い本が見えた瞬間、僕はためらう事無くその本に向けて命令を飛ばした。
(対象、『エアリア=マクドゥガル』。インサーション・キーを『本』に設定。書き込み開始!)
即座に僕から魔力の赤い糸が延び、その人物に絡みつく。そして、僕は確かにそこからカチリと思考のバックドアが開かれる音を聞いたのだ。
「……ああ、君がその『本』を見つけてくれたんだ? それは僕の『本』なんだ。見つけてくれて有り難う」
僕は相手に向かって微笑みを浮かべながら言葉を発する。その言葉が相手を捕らえ、認識を書き換えていく様を観察しながら……。
「すまないけど、その『本』は君には必要ないものだろう? 『本』を返してくれないかい?」
僕の言葉に、マントの人物はピクリと反応する。手を伸ばして黒い本を僕の方に向けて差し出し……そして、笑い始めた。
「……くっくっくっくっく……」
「……どうしたのさ? その『本』、返してくれるよね?」
「いや、本当に申し訳無いね」
そいつは右手で帽子を取る。ばさりと、その中に押し込められていた長い金髪がこぼれ出た。そして、その帽子を、まるで服に付いた埃を払うようにぱたぱたと動かし……僕から伸びた赤い糸を、いとも簡単に払い除けたのだった。
「!? なん……」
「ボーヤ、これは君の物なんかじゃないのさ」
蜘蛛の巣でも払うかの様な気軽さでブラック・デザイアの魔力を払い除け、再び帽子を被る少女。その下の蒼い瞳が僕をじっと見つめる。
「見ての通り、私はこの本の原理も、特性もよく理解している。書き込みが行われる前に無効化する事なんて造作も無い事なのさ」
「……!」
「さて。どうやらボーヤには大人しく渡してくれる考えは無い様だし、今度はこっちから仕掛けさせてもらおうかな……ラミア!」
「はい」と言う返事は、僕の真後ろから聞こえた。はっと後ろに眼をやると、いつの間にか先ほど保健室で見た角のある女がそこにいた。驚きによろめくようにそのラミアと呼ばれた女から遠ざかろうとする。だが、その一歩が突然くるぶしまでドプンと泥の中に踏み込んだかのように沈んだ。
「なっ……!」
慌てて足を運ぼうとするが、反対の足までコンクリートの床に沈みかける。倒れかけ、焼けた床に手を突いてかろうじて堪えた。
「無駄ですよ。あなたはもう、私の影の中ですわ」
女の背中からコウモリのような翼が伸びる。それが作る影が陽光を遮り、僕の身体と手をついたコンクリに影を作った。途端、その部分も足と同じく液状化し、体が黒い影の中に沈み始める。
「何だっ、これっ!?」
精一杯にもがくが、ドロドロのタールのようにとろけた地面は僕の身体を一切支える気配がない。それどころか、まるで底なし沼に沈むかの如く生暖かい闇の中にどこまでも身体が落ち込んでいく。
「安心しろ、ボーヤ。命までは奪うつもりは無い」
「何をするつもり……!」
「ま、少しだけ忘れるだけだ。少しだけ、な……次に目が覚めたら、本の事も、この学園の事も、そしてお前の欲望の事も全てきれいさっぱり忘れて、全うな人生に戻れるさ」
遙か高見にいる少女が僕に向かって告げる。僕は顎まで闇に飲まれながら、かろうじてそちらに顔を向けた。
「お前は、誰……だ……!?」
「もう分かっている筈だろう? この本を使えたのだからな」
いつの間にか、ラミアと呼ばれた角のある女が影を移動して少女の後ろに立っている。陽光の中、2人は冷ややかに今まさに暗黒に飲まれようとしている僕を見下ろしている。
少女はもう一度帽子を取り、そして僅かに微笑みながら僕を見つめた。
「――私は、エアリア=F=マクドゥガル。かつて在った千年魔法王国の最後の魔女で……この黒き欲望の書『ブラック・デザイア』の……最初の契約者だ」
ついに視界が全て闇に沈む。遠くの方から、エアリアと名乗った少女の声が虚ろに響いてくる。
「……ボーヤ。お前の悪夢はここで終わる。どうか次は素晴らしく希望に満ちた……」
急速に意識が遙か「下」に向けて落ち始める。
「……良い夢が見られん事を」
その呟きと共に、ついに僕の意識に暗黒の帳が下ろされたのだった。
「おーい、そろそろ飯だぞー」
高原別邸に上がり込んだ黒猫は、図々しくも館の中を歩き回りながら声に出してメイドを呼んだ。ふかふかの絨毯の上をぽふぽふと歩きながら、食事をくれる黒尽くめのエプロン姿を探す。
だが、シャンデリアのある大広間で、掃除用具を辺りに投げ出してうずくまっている黒い人影を見て、その歩みが一瞬止まった。
「おい、どうした?」
黒猫が近づいてみると、メイドは左手で顔を押さえ、反対の手を床について這いつくばっていた。顔を押さえた手の指の間からぼたぼたと黒っぽい液体がこぼれて絨毯の上に染みを作っていく。
「……郁太様に憑かせていた使い魔が……何者かに、破壊されました」
「攻撃か? 何だ、この街にはまだそんな物騒な奴が残っていたのか」
髭を揺らして呟く猫に軽く頷くと、メイドは身体を起こす。すでに指の間からこぼれる液体は止まっていて、しゅうしゅうと黒い霧のような物を僅かに左目を押さえた手の隙間から漏らしている。よく見れば絨毯に落ちた黒い液体も血ではなく、黒い影のような正体不明の「何か」であった。
黒猫は立ち上がったメイドを見上げ、うろうろと歩き回りながら独り言の様にブツブツ呟き続ける。
「小僧に直接攻撃が有ったって事だな。今あいつはどこにいる?」
「わかりません。最後に感じたのは学園の敷地内と思われます」
「ふーん。そりゃもう、とっつかまってるな。下手すりゃ契約の強制解除まで有りそうだ」
黒猫の狭い額に皺が寄り、不機嫌そうな顔を形作った。
「舐めた真似しやがって」
8.
翌日、哉潟七魅は登校して早々に教室に姉を置いて3年椿組に向かっていた。
(ちょっと様子を見るだけ……そう、何も無いことを確認するだけ)
昨日三繰が電話を受けた時、七魅もすぐ隣にいたのだが、結局何が起きているのかわからなかった。後で三繰に聞いてみても「何のこと? 知らな~い」と、とぼけられて結局内容について聞き出すことはできなかった。
結果として姉にも見捨てられた状況になり、七魅は郁太の状況が気になって仕方がなかった。ならば電話の一本でもして確認すれば良いのだろうが、七魅の側からアプローチをかけるのだけは死んでも嫌だったのだ。
だから、こうして朝っぱらからこそこそと姉にも行き先を誤魔化し、郁太のいる3年椿組に向かっているのだが……。
(どうせいつもの様に源川さんと騒々しく登校してきてるんでしょうが……念の為です)
別に、いなければいないで清々するから、それをハッキリさせるだけ、と何度も心の中で呟きながら、七魅は件の教室の扉の影からそおっと中を覗き込んだ。
果たして、問題の人物はまだ学校に来ていない様であった。机の横にまだ鞄が無い。しかし、隣の源川ハルはもう先に来ていて、自分の席でクラスメイトと何か話していた。その様子にも別段変わったところは無い。
ハルの普段通りの姿にちょっとほっとしたが、今度は何故源川ハルと別々に登校しているのかが気になった。あの男のことだ、また何かやらかしたのかもしれない。
周囲をぐるりと見渡して左右の廊下の奥に視線を走らすが、少年の姿はまだ見えない。少し迷ったが、七魅は「ちょっと確認するだけ」と心の中で呟いて椿組の教室にそろっと入っていった。
「……おはようございます」
「あ、おはよう、七魅ちゃん!」
ハルはクラスメイトと単に挨拶をしていただけの様だ。七魅が声をかけると会話を止めて向き直り、顔にいっぱいの笑顔を浮かべて応えた。
「ん? 何か用かな?」
「あ、いえ……」
まったく普段と変わりが無い。郁太の事となると過剰とも言える反応を見せるこの少女がこれだけ平常通りなのだ。きっと何でもなかったのだろう。七魅の心から速やかに不安の雲が晴れて気が軽くなり、少しだけ話して少年が来るまでにさっさと教室に戻ろうと思った。
「今日は、一緒に来なかったんですね」
「うん? 誰と?」
「達巳君です」
いつもこの2人が一緒にいるのはもう周知の事実である。だから、この話題も例えば郁太が寝坊したとか、郁太がハルを怒らせて別々に来たとか、そんな些細な笑い話で終了するものと七魅は考えていた。だから、
「え?」
と、不思議そうにハルが言ったとき、七魅はそれこそオウム返しに「え?」と口にしてしまった。
「ごめん、えっと、誰って言ったっけ」
「え……達巳君ですよ?」
「んんん? ごめんちょっとど忘れしちゃって……えっと、誰だっけ、それ?」
今度は七魅が唖然とする番だった。ハルが何を言っているのかわからない。ちょっとしたお茶目とか、からかおうとかそういうものでは無く、本気で「達巳君とは何者なのか」考え込んでいる。
「ねえ、達巳君って、誰だっけ?」
ハルはさっきまで会話していたクラスメイトにも聞いてみたが、その生徒も「さあ……」と首を振った。その様子を見て、七魅の背筋にぞくりと冷たいものが走った。思わず考える前に口走る。
「ふざけないで下さい! 達巳君です! あなたの隣の、この席の達巳郁太君です!」
七魅がハルの隣、窓側最後尾の席を指さす。しかし、ハルと側のクラスメイトはぽかんとした顔でお互いに顔を見合わせた。
「あの……七魅ちゃん、何か勘違いしてないかな?」
「勘違い?」
「うん。勘違いだと思うよ」
春は七魅を宥めるように、そして言い含めるようにゆっくりと言葉を続ける。
「だって、椿組は4月から一回も席替えしてないし、だから私の隣の席は1学期からずっと変わらないで、あの人が座っているよ?」
BLACK DESIRE
#13 達巳郁太の消失 I
七魅は一瞬、ハルが何を言っているのかわからなかった。席替えをしていないのは七魅だって承知していたし、だからその席には5月にあの少年が転校してきて以来、座っている生徒が変わっていないのは当然なのだ。
だが、どこかおかしい。自分とハル達の間に、途方もなく大きな認識の溝があるような気がする。席替えをしていないなら、そこに座る生徒が変わることなどあり得ないのに。
その時、ふと、七魅はハルの言葉に潜む違和感に気が付いた。
(……4月から……ずっと……?)
その言葉が、七魅の中で空転する。ゆっくり、ゆっくりと何か、恐ろしいものが下の方から沸き上がってくる。それは、実体を持たない強烈な違和感。ハル達と七魅の間に、目に見えないスクリーンが有って、似ているのに違う別々の世界の物語を見ているかの様な距離感を覚える。
突如、吐き気にも似た悪寒が七魅の身体を襲った。頭部から血の気が引き、ぐらぐらと世界が揺れているかの様な平衡感覚の喪失を認識する。
それはかつて、5月にあの少年が転校してきた時にも感じたものだ。この星漣に男子生徒が存在するという異常に、誰も気付かずに普通の光景として溶け込んでいる。それを自分だけが気が付いているという認識の相違がもたらす目眩と圧迫感。それと同等、いや、それ以上の違和感が七魅の意識を消失させようとする。
……何者かが、この教室に近づいてくる。違和感の主が、さも日常の1コマの振りをしてこの学園に侵入してくる。しかし、誰もそこに潜む矛盾に気付かず、当然の様に朝の挨拶を交わして「それ」を迎え入れる。
「おはよう、――さん」
目の前のハルが、存在しない者の名前を呼んだ。はっとして七魅は正面に近づく人物に焦点を合わせる。
「ええ。おはよう、ハル」
そこに立つのは、黒。
星漣の黒い冬服。
この教室に存在するどの生徒とも異なる姿。
長い黒髪。愁眉。切れ長の目。瞳孔の存在すら見えない真の黒色の瞳。
すっと整った鼻の形。静かに微笑みを浮かべる唇。
手足は長く、すらりと一枚の絵のような立ち様。
黒いストッキングの先には同じく黒い靴。手に持つのはやはり黒い鞄。
影よりも黒い黒。
白い、清純を絵にしたかのような星漣の夏服ばかりのこの教室で、明らかに異質な姿。だが、同時にまるでこの星漣の一部、いや星漣そのものとすら感じられる圧倒的なまでの存在感。矛盾したその存在が、窓際の席の前に立つ七魅に視線を向ける。
「……確か、柚組の哉潟さんね。私の席に何か?」
自分に向けられたその声に、七魅の胸の奥でドクンと大きな鼓動が鳴り響く。理性がその存在を否定するのに、感情がその声の持ち主を受け入れようと思考を押し流す。
懸命に自らの意志を留め、七魅は押し殺したような声を出すのが精一杯だった。
「あなたは……」
その人物の漆黒の瞳が七魅を見つめる。若干の沈黙の後、静かに口を開いた。
「――私はこのクラスの、高原那由美です」
七魅の膝から、ふぅっと力が抜けかける。このまま気を失って、そして眼を覚ましたら全てが夢だったらどんなに良いかと思う。
しかし、それこそがあり得ない夢なのだ。悪夢の先に続くのは、また悪夢という名の偽りの世界。昨日までいた存在があからさまに別の何かに置き変わり、それに誰も気が付かない、認識の破壊された異常なる世界。
そう。そこは、あの少年が最も望んでいた、そして誰もが見失っていた星漣の姿。失われていた可能性が死の国より呼び戻された、裏の時間の世界。
星漣学園の新たな日常が、静かに、七魅の知る世界を浸食していた。
< 続く >