BLACK DESIRE #16-2

3.

 達巳郁太に黒い本を拾わせる。

 それをいかに自然に少年に行わせるか、七魅はその演出に頭を捻った。以前、少年からはあの黒い本を手に入れた経緯を、「偶然」拾ったのだと説明されている。ならば、出来るだけそれに沿って実行する必要があった

 しかし、少年の通る道にただ置いておいただけでは、誰か他の本当に偶然に通りがかった生徒に拾われてしまうかもしれない。もしかしたら少年が本の存在に気が付かないかもしれない。あるいは、拾ったところを誰かに見られ、不審がられるかもしれない。
 または、哉潟家の力を使う事も考えた。少年に「本を偶然拾った」と経緯も含めて思い込ませる事は可能だ。だが、それはそもそも少年に本物の黒い本を思い出させるという目的からすれば、余計な暗示によって逆にそれらの記憶を取り戻す事を阻害する危険性が有った。

 あれこれ考えた末、七魅は至極単純な手を使うことにした。黒い本を置く時間と人、拾う時間と人を全く同じにすれば思い悩む必要も無い。つまり、郁太自身にそれを捨てさせ、その直後に拾い直させる事にしたのだ。

「……達巳君はその本を手に持ったまま、この部屋を出た後正門に行きます」

 三繰が抑揚を付けた言葉を、それに合わせた手振りと共に宙へと送り出す。少女の周囲に漂う折り重なった幕のような気配をたなびかせ、それは正面の椅子に座らせられた少年の元へと伝播していく。

「本を手に持って……正門へ行きます」

 茫洋として焦点の合ってない目でその少年──郁太は呟いた。三繰の言葉が、今、少年の思考に織り込まれたのだ。

「途中で携帯が鳴ります。セイレンさまの前です」
「セイレンさまの前で、携帯が鳴ります……」
「携帯を取ると、とっても面白いことを聞かされます。達巳君は思いっきり、体を動かしてしまうくらいに笑います」
「とても面白いことを聞かされて……思いっきり笑います」

 その内容とは裏腹に、まるで人形のように意志の感じられない瞳と口調。操り人形のように三繰の言葉を繰り返していく。

「笑ったら、そのひょうしに手に持った本を落としてしまいます。足下に、本を落とします」
「笑ったら、足下に本を落とします」
「本が落ちたら、電話が切れます。電話が切れたので携帯はポケットに戻します」
「電話が切れて、ポケットに戻します……」

 三繰の隣では哉潟の力を受け継いだ双子のもう一人、七魅がその様子をじっと見つめていた。眉根を寄せ、一心に郁太の様子を見つめている。少女にしては珍しい事に体面も無く指の爪を咬んで、苛つきを隠そうともしていない。そもそも、こんな異常で非常な事態で無ければ哉潟の力をこんなに深く使うのは御法度であった。

 七魅の苛立ちを余所に、三繰の方は舞のような優雅さでゆったりと仕上げにかかる。

「今私が言った事は、達巳君がこの部屋を出た後、扉が閉まった瞬間に、すっかり忘れてしまいます」
「扉が閉まって……すっかり忘れます」
「いいですね? 本の事も全部、この部屋の中で言われたことは全部、忘れてしまいます」
「全部……忘れてしまいます」

 子供をあやすように優しげに、咬んで含めるように繊細に、寝かしつけるようにゆっくりと唄う三繰。空中に舞う見えない羽を拾うように静かに手の平を上に向けた。

「達巳君、立ってください」
「はい……立ちます」

 そう自分で言いながら、少年はまるで自身の意志を持たぬ操り人形の如く、天からの糸で引き上げられている様な不自然な姿勢で立ち上がった。三繰がそっと微笑み、手の上の羽をゆっくりと押し出すように手の平を返し、横へ動かした。

「さあ。その扉を抜けて、この部屋を出て。その後はいわれた通りにして下さい」
「はい……この部屋を出て……正門に向かいます」

 郁太はぎくしゃくと扉の方を向くと、本を手に持ったまますうっと歩き始めた。ノブに手を掛け、ゆっくりと開き……そして振り返ることなく外に出る。少年が手を離すと、ドアが誰の指示も無くひとりでに閉まる。チャ、と小さく音がした。

「……ふぅ」

 三繰が目を閉じて小さく息をつく。持ち上げていた手を顔の辺りに当て、瞼の上に指を置いた。ちりん、とその手首に下げられた小さな鈴が音を鳴らす。

「本当に良かった? ナナちゃん」
「……ええ」

 口元にやっていた手を降ろし、ちっとも良さそうじゃない表情で七魅は短く答えた。目線はまだ少年の出ていった扉に向けられている。その視界には、先程まで見えていた郁太の思考の糸で編まれた「織物」の残滓をまだ追っていた。

 七魅が他人の頭の上に漂う「糸」の存在に気が付いたのは、まだ小学校に上がる前くらいの事であった。最初は糸屑の様なものに見えたが、よく見るとそれには太さが無く、更に目を凝らすとどこまでも長く伸びていたり、あるいは誰か他の者に繋がっていたりした。輝いているものもあったし、黒く濁っているものや透明で透けているものまであった。誰かが決まってこの糸、という訳でもなく、日によって、あるいはほんのちょっとの間に別の色になったり、接続先を変えたりした。

 この「糸」が見えているのはどうやら自分以外には、姉の三繰だけのようであった。他の者には見えないそれを、双子は「なんだろうね?」と不思議がった。

 ある日、階段を上っている途中で、ふとすれ違った男性の「糸」が目の前を漂っていた事があった。今までは高く上へ上へと伸びていたそれが、初めて手が届く位置に有り、気が付いたらそれに手を伸ばしていた。
 指先が触れた瞬間、そこからじくりとした痛みと共に一瞬、世界が反転した。隣で三繰が「あっ」と声を上げるのが聞こえる。足下の方でものすごい音がした。

 気が付くと、階段の途中でうずくまっていた。周囲には人が集まっている。姉が心配そうに自分の顔を覗き込んでいた。

「何があったの?」

 七魅がまだぐるぐるしている視界を堪えながら聞くと、三繰は首を振り、そして下の方を見ながら言った。

「おじさん、転んじゃった」

 そして、小さく付け加えた。

「……ナナちゃんが『糸』に触ったら、急に足が無くなったみたいにすてーんって、落ちちゃったの」

 幸いなことに、その男性は左足の骨折だけですんだようであった。「驚かしちゃってごめんね」と痛みを堪えて苦笑いしながらその男性は救急車で運ばれていく。
 三繰の機転で、落っこちたおじさんに驚いて七魅も転んでしまった事になっていた。「糸」の事や七魅のした事も一切話さず、それらの出来事は2人だけの秘密となった。

 「糸」とは何なのか。

 疑問は有ったが、そのような事故があった後は2人はそれに出来るだけ触れないように気を使った。七魅はきっとあれは何かのスイッチなのだと思った。あれを引っ張ると、体のどこかの力が無くなってしまうのだ。それから数年間、双子は誰にも「糸」の事を話さず、心の中に仕舞っておいた。

 その「糸」の事を再び考える必要が出てきたのは、双子がほぼ同時に2次性徴を迎えた頃であった。体の変化と共に「糸」を見る力が増大したのか、1人の人間から何本も何本も糸が生えているのが見えるようになったのだ。更に意識を集中すれば、その「糸」を手繰って目玉の奥、鼻腔の暗闇、耳の穴の空洞を通り抜け、頭蓋の中からそれを引き出し、「糸」で編み上げられた「網」を広げて見る事まで出来た。

 「網」は広大で広げても広げても果ては無いようで、それは時には山や海を越えて空の向こうまで届いていたり、星に届きそうなほど高くそびえていたりした。それらは全て双子が「糸」と呼んでいたもので編まれていて、それらの一本一本が小さく揺れているのが伝播していき、やがて大きなうねりとなって旗のように「網」全体を揺らめかせていた。

 2人は「網」が見えている状態でその人に話しかけたり、見えるところで身振りを行ったりすると、それに呼応するように「網」に揺らめきが起こることを発見した。また、急に引っ張ったり掴んだりしなければ、言葉や身振りでそれらを操っても幼い頃の失敗の様な事はそうそう起こらない事も学んだ。双子の行為は自分達の持つ能力への興味によって、段々と大胆になっていった。

 誰かに意識を集中して空中に「網」を浮かべ、それに向かってふぅと息を吹きかけて揺らしたり、反対に指で軽く摘んで動きを止めてみる。するとそれらの者は急に泣き出したり、笑い出したり、息を詰めて真っ赤になったりとおかしな反応ばかり返した。次第に少女達はこの「網」を操って他人の反応を引き出す事を面白がる様になり、それは双子の秘密の遊びとなっていく。

 やがて、2人はそれらの「網」を自在に操る術を見つけだす。「網」に糸を付け、自分や他人の「網」を橋渡しするように繋げると、その感情や感覚が共有出来ることに気が付いた。また、網自体をあやとりのように組み替えれば、まるで別人のように話し方や行動が変化することも発見した。2人の少女は世界で自分達だけの遊びに夢中になり、まるで蝶の羽を毟るがごとく無邪気な残酷さで他者を操ることを楽しんだ。それが幼さ故の無頓着から来る、とてつもなく恐ろしい行為であった事に気が付くのはずっと後の事である。

 姉妹は哉潟家のしきたりに従い、秘伝の舞踊をその少し前から身に付けさせられていた。舞の奥義として、2人の母は良く「織物」を宙に浮かべた姿を想像する様に教示した。七魅達はその言いつけを守り、舞を踊る際には常にその「織物」を周囲に思い描きながら動作する様に気を付けた。

 その奥義の本当の意味を知るのは、2人が親戚筋を集めた親族会に於いて、秘伝舞を披露した時であった。しきたりに従い、伝統の衣装と手鈴を身に付け、香を焚き、祝詞を唱いながら指の先の空気、爪先の下の舞台、動きに揺らめく自分の髪の一本一本にまで神経を通わせて舞踊る。すると、その舞に誘い出されるように人々から「網」が浮かび上がってきたのだ。

 舞の一つ一つの動作に反応するその無数の「網」の光景は、折り重なった美しい錦織の様であった。いつも練習の時に想像していた「織物」のイメージが、その瞬間かっちりと2人の能力と繋がった。哉潟姉妹の力は、それ単体では不十分だったのだ。伝統の舞と組合わさり、それは完成した。
 美しく艶やかに周囲を満たす「織物」の世界は、2人を舞に没頭させた。より強く、より大きく、はためく錦織を煽りたてるように。紅く燃える炎のように。蒼く轟く大波のように。初めて2人に訪れた興奮のまま、激情に任せてひたすら舞い乱れる。それは全てのその場の人間の意志が融合された陶酔感と、生命をすり減らしながら奈落へと駆け落ちる破滅感に満ちていた。

 そして、その親族会の後、双子は一度世間から姿を消す。

 双子の力を初めて「恐ろしいもの」と言ったのは、彼女たちの今は亡き祖母であった。祖母は、彼女の更に祖母から遙かな昔に哉潟家が持っていた、そして今は失われた力の事を聴き覚えていた。神事に於いて人々を扇動し、神秘体験をもたらした巫女としての力の事を。
 聡明な祖母は、その力の事を良く知らねばならんと、泣きじゃくる少女に静かに、力強く説いた。こんな力いらないと顔を伏せるその少女に、2度とこんな事を起こさないよう、力の使い方を学ばねばならないと根気よく説得した。

 それから、数年の月日が経った。

 七魅達は自分達の力の事を知るため、様々な種類の本を読み漁った。自分達の力に類似するところが無いかと催眠術関連の本も読んだが、それはあまりにも2人の見ている世界とかけ離れていて参考にもならなかった。むしろ、超常現象をあつかった眉唾ものの本の方が、どちらかというと似ていると感じた。

 七魅が決定的なイメージを掴んだのは、無秩序に選んだ本の中の一冊から解剖学に関しての本を読んでいた時である。分厚い本の後半のページを開いた少女は、見慣れた「網」の姿を写し出した写真に「あっ」と驚きの声をあげた。
 七魅が見て驚いたもの。それは、脳神経──シナプスの写真であった。2人が舞の時に見ていた「網」……それは、人の脳を一枚の広大な敷物状に広げた、神経ネットワークの構造図だったのだ。

 「糸」とは、感情や意志を司る脳神経の一本であり、それで組み上がった「網」はつまり神経の繋がった脳皮質の展開図である。それが揺れている様に見えたのは、電気信号でやり取りされた情報が見えていたのであり、それに作用することが出来たという事は、双子にはそれらの神経に直接信号を送ったり、構造を組み替える力があるという事だ。哉潟家の持つ神秘の力は、遂に現代医学の明らかにした科学的事実と融合した。

 そのイメージを掴んで以来、七魅達の力は恐ろしく細やかで統制のとれたものとなった。一連の舞を踊らなくとも相手に気づかれない範囲の動作でちょっとした暗示をかけたり、感覚の共有を行う事が出来た。哉潟姉妹は血筋の持つ恐ろしく強大で無慈悲な巫女の力を、洗練された技術として完成させたのである。

 現在の七魅達は、様々な検証や考察の結果、自分達の力を「超能力」の一種であると考えている。この力は、ヒトの頭部に限定した微細な「透視」と「念動」の能力の複合した力である、と。
 舞の仕草や香の匂い、鈴の音はその力を働かせるための呼び水に過ぎない。能力の本質は、それらの下準備によって頭蓋に開いた意識の穴から、見えないメスを突っ込んで外部から相手の脳に施術を行う事にある。つまり、哉潟の秘技とは……「人間の脳を超能力で外科的にいじくり、心を思い通りに操る力」……外法とも言える、危険極まり無い能力なのである。

 郁太が部屋を出て数分後、例の七魅の監視システムは少年の姿をモニターの1つに見つけた。暗示通り、郁太は黒い本を手に急ぎ足で校舎を出て、正門に向かっている。周囲から見れば下校を急いでいるように見えるだろう。

 しばらくした後、郁太はセイレン像の前で不意に立ち止まった。片手に本を持ったまま、ポケットから自分の携帯を取り出す。そしていかにも着信があったとばかりに携帯の画面を一瞬確認し、それを耳に当てた。

 その瞬間、少年に劇的な変化が起こる。真顔だった表情が一気に歪み、同時に体を捩り始めたのだ。携帯を耳に当てたまま、とてつもなく面白い事を話しているというように顔中をくしゃくしゃにして、口を開けてくすくすと笑い出す。腹を抱え、肩を震わせて更にはげらげらと大笑いし始めた。
 その手から力が抜け、手に持っていた本が取り落とされた。おかしさを堪えるためかダンダンと踏み鳴らされていた踵が、丁度それを踏みつける。「あ?」と笑いを含んだ意外そうな顔でそれを見下ろし、少年は本に気付いた。

 しばらくの間、郁太は体をぷるぷると震わせながらその本の黒い裏表紙を見つめていた。やがてそれが治まると携帯をポケットに納め、腰を屈めて本を拾い上げる。靴跡のついた裏表紙をはたき、裏返してそちらの砂も叩いて落とす。そしてその黒い表紙をじっと見つめた。

 少年は周囲を見渡し、他に誰も居ないことを見て取ると改めてその本に向き直った。右手に本を持ち直し、表紙を開く。しばらくその裏に書かれている何かに目を走らせると、だんだんと少年の眉が面白がっているように吊り上がり始めた。そして、もう一度周囲を見渡し自分を観察している者がいない事を確認する。

 少年は何事も無かったように真っ直ぐ前を見ると、その本を小脇に抱えて自然な足取りで歩き始めた。急ぐでもなく、ことさらゆっくりでもなく。落ち着いた様子でそこを歩み去る。

「……」

 一部始終を見ていた七魅は、郁太の姿が校舎内に消えるのを確認すると、モニターを消した。

「まずは、成功かな」

 三繰がほっとしたように言うのに対して「ええ」と頷く七魅。上手くいったのにも関わらず、何処かうかない顔をしていた。

4.

 少年は悩んでいた。
 もちろん、悩まない若者などいないのだし、もしも仮に悩みなど何も無いと豪語する若年者がいたなら、それは心が幼すぎるか、または世の中を舐め切っているかのどちらかだろう。だが、ここで言いたいのはそういう階段を上り始めた若者のコンプレックスに由来するパトスの事では無い。もっと実際的で、そして即物的な悩みだ。少年は、手に入れた謎の「黒い本」について悩んでいたのだ。

 少年がその本をどうやって手に入れたのかと聞かれたら、「偶然拾った」と答えるだろう。正しく、それ以外に答えようが無い。気取って言うなら「運命の悪戯」としか表現できないし、もっと詳細に説明しても「帰り道に電話をしていたら、何か踏ん付けて、拾ってみたらこの本だった」となる。たまたまそれに気が付いたのが自分だっただけで、少年にそれを拾う必然など何処にも無い。

 そもそも、少年が悩んでいるのはそれを拾った経緯などではない。拾ったものの扱いに困ったら警察に行けばいいし、学校内で拾ったものなら受付にでも事情を説明して後は任せればいい。落とし物とは、古来からそうやって持ち主の元に帰ったり、帰らなかったり、帰る以前に持ち主が判然とせず何処かの倉庫の奥で長い期間眠り続けたりする物なのだ。

 しかし、少年はそんな事では悩まない。持ち主の元に帰すという発想自体が湧いてこない。何故なら、少年はその時、この本の使い方について悩んでいたからである。

 少年──達巳郁太は、図書館2階の指定席で目の前の本をじっと睨み続けていた。じぃっとそれの分厚い表紙を穴が空くほど見つめ続け、やがて、これまでと同じように不意に手を差し伸べてその表紙をめくる。その表紙の裏には、金色のインクで何か細かい文字が書き込まれていた。

 ── HOW TO USE ──

──この本は、欲望を実現する力を持つ

──この本を使用する事ができるのは、自らの命よりも重大な欲望を持つ者だけである

──その欲望に、自身が気が付いてないとしても、この本の力を使用することが出来る

──その欲望は、この本を最後まで使用することによって実現する

 郁太は首を捻る。まるで何処かの漫画だ。
 その漫画のお話では本の力を得た主人公は持ち前の頭脳を駆使して世界を良くする為に悪人を殺しまくるのだが、目の前にあるこの本はそこまで過激ではない。これの使用者の命よりも重い願望を叶えるのだという。いや、代償としてはどっちもどっちか?
 だが、果たして自分にそんな大それた欲望があるのかどうか。一小市民の郁太には心の棚をひっくり返してもそんな重そうなものがでんと構えているとは思えなかったのだが……。

──この本を拾う者は、上記欲望を持つ者を本自身が選択する

 ……どうやら、郁太がこの本を拾ったのは偶然では無かったらしい。しかも、この説明によれば自分では気付いていない「命を懸けるべき」願望を郁太は持っているのだと言う。ほんとかよ? と思うところであるが、ここは堪えて先に進もう。

──この本は1ページにつき1つの欲望を叶える事が出来る

──そのページの力は、浮かび上がった内容に使用者が必要な事項を書き加える事によって発動する

──発動した力の効果時間は、その欲望を1回叶えるか、次の日が昇るまでの間である

──1つの欲望を叶えなければ、次のページに欲望が浮かぶことは無い

──使用者の最も重大な欲望は、最終ページにて叶えられる

 なるほど、ページをめくってみても最初の1ページ目を除きずっと白紙のままだ。一番最後のページにも何も書かれていない。すると、自分自身も気付いていない大それた願望は最後の最後までこの本の指示通りにやってみないとわからないという事か。何とも回りくどい道具である。初見では殆どのページが空白のままだったから、単なる凝ったメモ帳かと思ったくらいだ。

 郁太はため息をつき、本を閉じた。その表紙に今の説明書きと同じような金色でタイトルが書かれている。

── PLUCK DESIGNER ──

 プラック・デザイナー? 「決断の設定者」とでも訳すのだろうか? だが、そこはかとなくパチモン臭が漂っているのは何故だろう。
 郁太は何処かでこれに似た様なものを見た事がある気がして仕方がなかった。首を捻って思い出そうとするが、せいぜい出てきたのは先ほどの漫画の死神ノートだけだ。
 それに、今はそんな事に拘っている場合では無いのだ。少年は再度表紙を開き、白い本文ページの最初の一枚を視界に入れた。

『第1の欲望
  次の1人に対し、使用者とキスする事は挨拶の一部であると思い込ませる。』

 妙にしなやかな女性っぽい字でそう書かれている。郁太の字ではない。恐らく、これが本が叶えてくれる最初の欲望なのだ。この一文の下の空白に郁太の好きな人物の名前を書けば、その人物は制限時間の1日が経つまで、単なる挨拶のつもりでキスをしてくれるって事なのだろう。何というか、即物的願望過ぎて読んでいる郁太自身、顔が火照ってきてしまう。

「……1人、か」

 郁太はぽつりと呟いた。そう、少年の悩みはこの一言に尽きる。たった1人、自分の知る魅力的な女の子達の中から、この力を使う者を選ばなくてはならない。何せ、この本の力は1回叶えたらそれ切りで、これ以降似た様な効力のものが出てくる事があるのか、まったくの未知数なのだ。だから、少年はその1人を誰にするのか、ずっと真剣に悩んでいたのである。

「誰にしようかなぁ……」

 少年の脳裏に幼なじみの少女や、クラスメイトのスポーツ少女、最近妙に優しくしてくれるいつも半眼の少女、その明るい姉や生徒会長の少女、学園の姉のような少女、妹のような少女達の姿が次々と浮かんでは優先順位を入れ替えていく。口元にはニヤニヤと自分勝手な妄想に浸る男子特有の笑いが浮かんでいた。
 その頭には、本来当然の様に浮かんでくる筈の、「そもそもこんな非現実的な事が実際あり得るのか?」という疑問は何故か浮かんでこない。どうした訳か、少年はすっかりこの本が「本物」であると信じ込んでいた。

「……よし!」

 郁太は遂に妄想のリストの中から一人を選んだ。ペンを手に本に向かい、空白部にその少女の名前を一気に書き込む。そしてそのページ全体をもう一回見直して頷くと、勢い込んで立ち上がったのだった。

 正直なところ、七魅は郁太が自分を指名する確率は7割くらい有ると踏んでいた。理由を列挙したら、次のようになる。

・最近、郁太に一番近いポジションの女子である。

・能力の使用に失敗しても、からかって誤魔化す事のできる関係である。

・夏の合宿で、一回失敗している。

・友人があまりいないので、一人での呼び出しにも応じる可能性が高い。

 エトセトラ、エトセトラ……
 いくつかの要件は自分で指折り数えてずーんと落ち込みそうになるところも有ったが、今はとにかく、それが有利に働きそうなので極力考えないようにする。それに、七魅が指名されたならわざわざ他の少女が郁太に会う前に捕まえて、危険な能力を使って暗示をかける必要も無い。演技で乗り切れば良いのだから。

 と、頭ではわかっていたのだが、実際のところ郁太から「空き教室に一人で来て」とメールの着信を受けてみると、姉に「ちょっとリラックスしなよ」と笑われるくらいカチンコチンに緊張してしまった。5回は大きく深呼吸をし、「いっ……行ってきますっ」とぎくしゃくとした足取りでくすくすという笑い声を後に、指定された場所に向かう。今更ながらあの黒猫にのせられた気がしないでも無いが、後の祭りであった。

 途中、はっと気が付いて手洗いに駆け込み、給水機で何度も口を濯ぐ。鏡で身だしなみをチェックし、良し、と自分で納得して頷いたところで、「何これ」と自分の必死さに気が付いて赤くなった。

 鏡を睨みながら深呼吸を繰り返し、いつもの自分の表情になるまで気を落ち着ける。そもそも、あの少年の事だ。もしも1人と制限をかけなければ、それこそ自分を実験台に5人や10人とキスしまくっていたに違いない。1人に絞ったからこそ、成功率と失敗した場合のフォローのしやすさから自分を選んだのだろう。

 そういう考えに行き着くと、いつの間にか鏡の中の少女は普段通りに眉根を寄せた半眼で、そこにはいない軽薄そのものの笑いを浮かべる少年の姿を睨みつけていた。よし、これでいい。あの少年と会うときは少々挑戦的なくらいが自分らしいのだ。
 手洗いを出た少女は入った時とは対照的に、肩を怒らせこれから決闘に向かうのだと言わんばかりの表情になっていた。

 郁太の指定した空き教室は、校舎の3階の一番外れにある。屋上に上がる階段の反対側で、位置としては保健室の2階上だ。ここは昼間から余り人が寄りつかない場所であり、放課後ともなるとその前の廊下まで人気が絶える。だからこそ、この場所はちょっとした休み時間など、他の建物に移動する暇がない時に七魅と郁太が相談事をする時に利用していた。

 七魅が教室のドアに手をかけるとその鍵はすでに外れていて、先客がいることをうかがわせた。もう一回深呼吸し、それから扉をスライドして開ける。そこから教室の中を見渡すと、窓際に使わない机や椅子が押しつけられたように寄せられ、その中の椅子の一つに郁太が座っているのが見えた。少年は少し驚いたように顔を上げ、七魅の方を見つめている。

「……何か用ですか?」

 七魅は素っ気なく見えるよう、扉の方を向いてそれを閉めながら言った。声が上擦らないようにゆっくり溜めて喋っているため、少し声に棘が有るように聞こえる。

「あぁ、いや、用ってほどでもないんだけど……」

 ガタタンと椅子が鳴った。「おっと」と言って少年は立ち上がった時に蹴立てた椅子を窓際に押しやる。七魅は少年の方に向き直り、その行動をじいっと観察した。

「……用も無いのに呼んだんですか?」
「あ、いや、うん。用が無いって訳じゃなくて、ちょっと話でもしようかと……」
「話、ですか?」

 七魅は意外そうな顔で視線を返した。「うん」と頷く少年を見つめ、「どのような?」と尋ねる。

「あ~っと、そう、お弁当の事」
「何かリクエストでも?」
「いや、お弁当箱、僕が洗って返した方がいいかな?」

 七魅は困惑した。いったい、この少年は何を言っているのだろう? こんな話をするために呼び出したのか?

「……いえ、それだと次の日のお弁当が作れませんから」
「あ、そうだった。ごめん」
「……」

 それだけ? 七魅は眉根を寄せて郁太を見た。少年は汗をかきかき次の話題を探しているように見える。何なのだ、この状況は。

「あー……そうだ。この間の合宿は楽しかったね」
「そうですか。達巳君に喜んでもらえたなら、姉さんも嬉しがると思います」
「あ、うん」
「伝えておきましょうか?」
「え……あ、お願いします」

 郁太はシュンとしてしまった。それを見て七魅はだんだんイライラしてくる。何でこんなに時間を無駄にしているのだろう? 本題にさっさと入ればいいのに。

(……キスするんじゃないんですか?)

 郁太は視線を上げ、そして七魅の顔を見て慌てて視線を逸らし、早口で喋り出す。

「あの合宿、楽しかったなぁ。また一緒に遊びに行けるといいねぇ」
「ええ、皆さん楽しそうでしたからね」
「い、イルカもかわいかったよね?」
「メイド達が甘やかしてますから、人なつっこいんです」
「温泉があんなにあるなんてすごいよね」
「曾祖父が買い取ったらしいです、あの島に温泉が湧いていると聞いて真っ先に」
「先見の明がある人だったんだね」
「レジャー施設にする案もあったらしいですけど、突っぱねたらしいです。あれだけの島を自分達だけのものにしてしまうんですから、ずいぶんと業突張りだったのでしょうね」
「そ、そうなんだ……」

 またも会話が途切れる。七魅はすでに自分の口調にもイライラが現れていることに気が付いていない。

(キスしないんですか? キスするんじゃないんですか? キスするつもりで呼んだんじゃないんですか?)

 ギリギリと強まる少女の視線に、郁太は首を竦めてまた目を逸らした。

 もちろん、少年も「そのつもり」で七魅を呼び出したのだ。プランとしては、七魅と軽い世間話をしながら距離を近付け、弁当の話題などで喜ばせ、そして気分と雰囲気の良くなったところで別れ際に軽くキスをする、とこんな感じだ。
 だが、その少年の計画は七魅が教室に入ってきた瞬間に崩れさっていた。ちらりとその表情をうかがい、完全に少女の目が据わっているのを確認してゴクリと唾を飲む。

(お、怒ってる! 間違いなく! 怒ってらっしゃる!)

 何が不味かったのだろうか、と郁太は心の中で必死に記憶を辿った。最近の少女は郁太に、気味が悪いくらい優しくしてくれる。それはもしかして郁太に対して何かのアプローチだったのだろうか。それに対して何の返答も行わないから怒っているのだろうか。

 そもそも、七魅の「料理の実験台」という言葉を何処まで信用するべきだ? 言葉通りに受け取ったなら、郁太の方が感謝されこそすれ、怒られる謂われはない。百歩譲ってそれが少女の照れ隠しで、本当はもうちょっと好意的なものだったとして(その方が少年的にも非常に嬉しいのだが)、それで弁当の話題を出しただけで怒り出すというのは理屈に合わない。もうちょっとこう、むず痒くなりそうな反応でも良いのではないだろうか。

 実は、あの弁当にはとてつもない七魅からのメッセージが隠れていたとか。時折少女の見せる不可解な行動と、それを理解しない少年への理不尽な怒りの発露具合を見るに、今回もその可能性が有る。しかし、おにぎり弁当にリンゴのウサギから何を読みとれと?

 ええい、もう何でもいいから謝ってしまえ、と少年の脳内で小さな郁太が勧める。取り合えず、目の前の少女が発する威嚇行為に対する対処は大体がそれで何とかなる。だが待ちたまえ、と別のちび郁太がそれをすんでのところで制止した。
 果たしてそれで2人の関係が軽い挨拶でキスに持ち込めるような状態に持ち込めるのか? 例え例の本の力が有っても、今のまま顔を寄せようものなら即座にスナップの利いたビンタが飛んでくるか、弁慶を一撃で即死させる蹴りが叩き込まれるかのどちらかだろう。それ、貰ってもいいのかい? と2番目のちび郁太が尋ねると、最初の方はブルブルと首を振って自案を引っ込めた。とにかく、七魅に機嫌を直して貰わなくては……。

 一方、その相対する少女の内部では。
 どうして少年がいつまでもキスの事を持ち出さないで雑談でお茶を濁しているのか、苛立ちと不安と泣きたくなるようなふがい無さに、台風の中で途方に暮れびしょ濡れになって立ち尽くす帰宅不能者の有様であった。苛立ちとは少年の目的に対するやる気の無さに対してのものであり、不安とは本当は少年は自分となんかしたくは無いのではないかという自信の無さへのものである。そしてふがい無いのは、さっぱり少年が何を考えているかまったくわからない自分へのものであった。

(源川さんには、躊躇い無くしたんじゃないんですか?)
(ひぃい、ますます怒ってる~!?)
(キスしないんですか? キスしないんですか? キスしないんですか? 何でキスしないんですか!?)

 外見とは裏腹に、七魅の心の内はもの凄い勢いで下向きに傾いていっていた。それをえいやっと無理矢理上向きに変えようとするから、なおさら刺々しく攻撃的な口調になる。気付かず空回りしてイライラを噴き出し、それを感じて少年はますます萎縮する。マリア坂を転がり落ちるボールを見ているような完璧なる悪循環であった。

 遂に二人の間で言葉が途切れた。気まずい沈黙が5秒、10秒と続いていく……。

(なんで怒ってるのさ? 僕が何か悪いことしたの? 謝って欲しいの? そうすれば機嫌を直してくれるの?)
(なんでキスしないんですか? 私相手じゃしたくないんですか? 私の事、そんな価値も無いとしか思っていないんですか?)
(どうしてそんなに僕のこと怒るのさ? 僕のこと嫌いなの? 怒ってばっかりじゃわからないよ! 七魅が何考えてるかわからないよ!)
(私の事、ただの駒としか見てくれないんですか? 私に興味ないんですか? どうしてそんなに酷い態度でいられるんですか? 私の事、そんなに、嫌いですか?)

 あと少しであった。もう少し、2人が黙っていたら、あとちょっとで七魅は自分の心の欠片を、その瞳からこぼしてしまうところであった。しかし、その直前、少年の方が根を上げていた。ふう、とため息をついて、「……僕のこと、嫌い?」と呟いたのだ。

「……は?」

 まるで自分の心を写し取ったような言葉に、七魅はぽかんと口を開けて固まった。それこそ、黒猫の言葉に同じように唖然とさせられた時よりもずっと、心の底に大穴が出来たような空隙が生まれた。

「……どうして、そうなるんですか?」
「あれ……?」
「嫌いな人の呼び出しに応じますか……?」
「あ……」
「無視しますよね、普通……」

 少年もようやく自分の思考を空吹かしし過ぎてどこかのネジが外れてすっとんでしまっている事に気が付いた。

「え、あれ? 七魅は、僕の事、嫌ってない……」
「……はい」
「怒ってるのは、僕の事が嫌いだからじゃない……?」
「嫌いな人に、お弁当をあげたりしますか?」

 「しないね」と、素直に少年は頷いた。そして、はたと首を傾げる。

(……僕って、馬鹿なんだろうか?)

 そんな少年の様子に、七魅の方もすっかり毒気が抜かれた様になっていた。首を傾け、片手を髪にやって一房つまみ、それに視線をやりながら呟いた。

「……私が達巳君を怒っていると?」
「え、違うの?」

 七魅はふぅと息をついた。ほんとの気持ちは、その正反対だったのに。

「……バカみたい」
「バカとは酷い。バカって言う方がバカなんだぞ?」
「……かもしれません」

 少し疲れ気味に微笑み、少女は「ちょっと座りませんか」と窓際の椅子2つを指さした。郁太も頷き、そこに並んで座る。ぎゅうぎゅうの机の間にせせこましく腰を下ろしたため、自然と肩が触れ合った。

「あ、ごめん」
「……窓、開けて貰えます?」
「う、うん」

 カラカラと郁太が窓を開ける音を聞きながら、どうして謝ったのかしら、と七魅は考えた。

(少しは意識して貰えているんでしょうか?)

 ぼんやりと外を見ながら考える。夕暮れが近いのか、どこか遠くの方でカラスの鳴き声が聞こえた。風の温度も変わっている気がする。ふわりと流れ込んだ空気が七魅の髪を揺らがせ、少女は自然な仕草でそれを押さえた。ふと、隣から視線を感じる。

「……何か?」
「あ、いや」

 郁太は少女の横顔から眼を逸らした。少し、顔が赤い。

「ああ、ここからならヤシロザクラが見えるんだ」
「……本当。1階違っただけで結構遠くが見えるんですね」

 少年の指さす方を見ると、確かに昼間2人が昼食を共にした大きな桜の樹がすぐそこに見えていた。日差しが傾き、シートを敷いていた辺りはもう木陰にはなっていない。その場所での出来事を七魅は思い出し、ほんのりと頬を染めた。

(あの時……私……)

 郁太に膝を貸し、その寝顔を見ているうちになんだかおかしな気分になっていた。魂が引かれるように、顔を寄せ、お互いの息吹が感じられるほどに接近してしまった。

 あの時、黒猫が声をかけなければ……どうなっていたのだろう? 危なかった、という気持ちと、はしたない、という恥じらいと、そしてもう少しだったのに、という苛立ちが3分の1ずつ七魅の心を治める。無意識に指先を自分の唇に当てた。

(私って、雰囲気に流されやすいのでしょうか……)

 これは恋じゃない、そういう認識が七魅にはある。その筈だ。しかし、そう納得する心の中で、もう一人のちび七魅がいたずらっ子そのものの顔で言うのだ。

(でも、○○なんでしょ?)

 そうじゃない、とはもう言えなかった。さっき、あれほどの醜態を見せて、それを自分自身に誤魔化す事は不可能だった。でも、だからといってその気持ちをそのまま認めるのも嫌だった。

(私と達巳君は対等なんです……)

 自分だけがそういう気持ちで居るなんて、不公平だと思った。だから、少なくとも郁太側がそう言い出すまで、私だってその気持ちを認めてあげない。そんな、妙な意地を張る七魅であった。

「……昼間は、よく眠ってましたね」

 自分の気持ちを気取られないよう、口にやっていた手を注意深く窓の縁に戻しながら少女は言った。

「ああ、うん。ありがとう」
「どういたしまして」
「最近、七魅優しいね?」
「……お礼です」
「料理の練習の?」
「……はい。達巳君は実験台ですから」
「酷いね」
「そうでしょうか?」
「うん、酷いよ」
「そうですか……」

 七魅は窓の外を見ながら、「では、他にもお礼が必要でしょうか」と呟いた。少年も同じようにしながら、それには答えず黙っている。しばらくして、郁太は口を開いた。

「手作り弁当なんて、夢みたいだ」
「夢じゃないですよ」
「いや、でもさ? あの新聞屋じゃないけど誤解されるかもしれない物じゃない?」
「誤解……ですか?」
「うん、そう。だって、七魅が料理の練習に僕を使ってるなんて誰も知らない訳だし」
「別にどう思われようが、構いませんよ」
「僕と七魅が……つき合ってるとか?」

 郁太の言葉に、七魅は体を向けて少年を見つめた。少し顔が赤いが、郁太も七魅をじっと見つめている。少女は、ゆっくりと静かに口を開く。

「……それなら、それらしい事もしてみますか?」
「え、あ? 何を?」

 少年は見る間に真っ赤になって慌てた。それを見て七魅は少し優越感に浸り、ふふっと笑いをこぼす。

「あれ? からかわれた?」
「冗談です。私と達巳君がそういう事になるなんて、きっと、猫が人の言葉を喋るくらいの可能性ですから」
「それは不可能って言ってる?」
「今から人語を解す猫を探しに行きますか?」

 楽しそうに言う七魅に、「ひどいなぁ」とこぼす郁太。七魅は口元に手を当て、微笑みながらそんな郁太を見つめている。思いも寄らず、自然に言葉がこぼれ出た。

「それなら、キスでもしましょうか?」
「……は?」
「キスなんて、挨拶の一部みたいなものでしょう? 別に恋人じゃなくたって、してもいいんじゃないですか」
「……あ、え? う……うん」

 少年は突然の話に戸惑っているようだった。だが、七魅の方は珍しく積極的に郁太の手を取って立ち上がらせると、窓の外から見えない位置にそっと引いて行った。

「どうしたんですか? 落ち着かないようですけど?」
「い、いや、別に……」
「初めてなんですか?」
「そ、そんな事は……」
「そうでしょうね」

 ちくりと、小さな痛みが七魅の胸に走る。七魅が知っているだけでも郁太はハルと何度もキスしているし、目の前で紫鶴とするところも(あの時は『食事』と誤認していたが)見ている。たぶん、今の少年には記憶が無いだろうけれど。

(あ、そうか……)

 七魅は唐突に気が付いた。郁太が状況や能力の結果としてキスするのでは無く、最初からキスする能力の対象として女の子を選ぶのは、七魅が最初なのだという事に。素直に、それを嬉しいと思った。胸の内が疼くように熱さを増した。

「じゃあ……いい?」

 郁太が恐る恐る少女の両肩に手を置く。それを合図に、七魅は瞳を閉じて、少年との身長差を合わせるために顎を上げて上向きになった。
 若干の空白の時間の後、少年がそっと腰を屈める気配がする。外の光が少年に遮られ、自分の顔に影が落ちるのを感じた。

(……これで、やっと……)

 やっと……やっと、何なのだろう? 
 七魅もそれが何なのか良くわからない。だが、予感は有る。この一瞬で、きっと何かが変わってしまう。それが郁太の側に起きるのか、それとも七魅の方なのか、いっぺんに両者に起こるのか。それは喜ばしい変化なのか、後悔と痛みを伴うものなのか。躊躇いはあるし、こんな状況で良いのかという疑問もある。しかし、きっと。

(私は、忘れない)

 少年にとってどれだけこれが些細な事であっても、少女はこの瞬間を忘れないだろう。七魅が郁太の事を決して忘れなかった様に。それはきっと何年経っても、何十年経っても、七魅の心の中の青い宝石箱に大切に仕舞っておかれるのだ。この一瞬を、永遠に。

(……)

 ……しばらく、沈黙のみが存在していた。

(……?)

 やがて、少しもったいを付け過ぎじゃないかと七魅が訝しがり始めた頃、突然その肩に掛かった手にずん、と重みが増した。そのまま、少年は七魅を抱きすくめるように覆い被さってくる。ぱちくりと少女は眼を見開いた。

「えっ!? な、何を……!?」

 しょせん七魅は1人の女の子だ。同年代の男子の力で押さえ込まれて振り払える筈もない。その重みに七魅は膝を折るようにして空き教室の床の上に押し倒された。少年の頭は七魅の胸の上辺りに突っ伏している。

「達巳君!? いくらなんでも今日は……?」

 言いながら肩を掴んだ手に自分の手の平を重ね、そこに全く力が入っていない事に七魅は気が付いた。腕を持って持ち上げると、だらりと糸の切れた人形のように手首が下がる。慌てて郁太の頭を持ち上げてみると、少年は眼を閉じてすっかり眠り込んでいた。

「え……あれ? 達巳君……?」
「時間切れだな」

 呆然としている七魅の横から、聞き覚えのある声がひょいとかけられた。まさか、そんな馬鹿な、と七魅がびっくり仰天の様相で窓を見れば、その縁の上にはいつもの黒猫がひょうひょうと髭を震わせてた。

「悩み込み過ぎなんだよな、小僧も妹ちゃんもさ。見ているこっちが気を揉んじまうぜ」
「……見て、た……ですか?」
「ああ。最初から、ばっちりとな」

 かーっと七魅の顔が真っ赤に火照る。そんな七魅に向かい、黒猫はため息でもつきそうな様子で喋りかけた。

「ま、取り合えずギリギリで小僧に本の魔力が効いたと思い込ませる事は出来たし、目的は達したとしておかなきゃなんねぇな」
「……もう、魔力切れなんですか?」
「うんにゃ。そっちじゃなくて夜の時間の方だ」

 黒猫がそう言うと同時に、校内に下校時刻を知らせるチャイムが鳴り響いた。いつの間にかそんなに時間が経っていたらしい。ふと、少年からかかる重みが減少したことに気が付いて七魅が膝の上に眼をやると、その体は足の方からすうっと机の作る影の中に溶け込んでいくところであった。

「夢魔の時間だ。小僧の意識もまたそっちの世界に囚われる。こうなるともうこっちの世界からは手出しが出来ないな。また明日って事だよ。そら、さっさと帰り仕舞いをしな」

 黒猫は尻尾を振り振りそう言うと、「それじゃ、俺は一足先に門のところで待ってるぜ」と窓の外に前足を踏み出しかけた。そして、ふと思い出したように床に座ったままの七魅を振り返り「擁護する訳じゃあないが」と前置きして言う。

「それと、小僧がいかに色に惚けた知恵無しだとしても、顔を寄せただけで噛みついてきそうな威嚇状態の妹ちゃんには、なかなか口付けしようって気にはならなかっただろうよ」
「は……」

 「ま、両方テンパってたのは見てて十分面白かったけどな」と言い捨て、黒猫は来たときと同じ窓から外に跳び出ていった。恐らく窓の下の落下防止の縁を伝って校舎を出るのだろう。

 少年が完全に消えてしまい、1人で取り残された七魅は押し倒されて膝を付いた姿勢のままじっと動かずにいた。頭の中で、先ほどまでの自分の行動と今の黒猫の言葉がぐるぐると遠心分離機もかくやというほどの速度で回り続けている。しばらくして、七魅はようやく体を起こすと、両手を膝の前につきがっくりと頭を垂れた。

(私って……馬鹿なんでしょうか?)

 うなだれた今の七魅の心と姿を、3文字で簡明に表現するとこうなる。

    orz

< 続く >

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