La Hache 前編

前編

 アルノー砦は、日が高いにも関わらず暗い雰囲気に包まれていた。
 鎧で身を固めた見張りの者も、傷ついた肉体を包帯で覆っている者も、防具や武器についた血や泥をぬぐっている者も、一様に敗北のあまりの重さに頭を押さえつけられて下を向いていた。
 無理もない。とフランツは思った。緒戦で全軍の四割強を失い、さらに指揮官のヴィラン伯ガスパルが戦死する、という大敗北の後では。ましてや、それが敵将の華麗な戦術以前に、指揮官の愚劣な作戦によってではなおさらだ。聞くところによれば、ヴィラン平原に展開していた『少数の』敵軍から挑発めいた文が届き、それを見て激怒したヴィラン伯が各個撃破の好機と見てヴィラン城を出て出撃したところ、気がつけば大軍に囲まれて包囲殲滅されたとか…。軍事にさほど詳しくないフランツでも目を覆いたくなる失策である。
 自分ならどうするか、とフランツは考えた。ヴィラン城を放棄してここアルノー砦に全軍を集めて…いずれにせよ机上の空論であり、彼にその権限がない以上何の意味もない思考であったが。
 フランツは、天に去ってしまった故人を思い起こして呟いた。彼は故人の人となりをよく知る立場であった。

「とにかく神経質で、激発しやすいお方だったな…。それに、周囲にそれを諌めるような人を置きたがらなかったから、ある意味この結果は当然か」

 アルノー砦に現在立て篭もっている兵士のうち、実際に敵軍を矛を交えた故ヴィラン伯旗下の兵はわずか。それだけ惨敗だったのである。後詰めとして戦場に向かっていたエノーム伯グスタフの軍勢が逆に各個撃破されなかったのも、グスタフが大軍に恐れをなして全力でアルノー砦に逃げ帰ったことと、敵軍がどういうわけか追ってこなかったからにすぎない。
 いずれにせよ、開戦前と比べて半数になってしまった軍勢で、兵力をほとんど減じなかった敵軍とこれから戦わなくてはならないのだ。負け戦が見えている状況で兵の士気も上がるわけがない。逃亡者が出てもおかしくないのだが、そこはグスタフお付きの『忠臣』たちが兵をよく監視しているからだろう。
 フランツはため息をついて、被っていた羽根付き帽子で軽く扇いだ。暑かったわけではないが、周囲の嫌な空気を払いたかったからだ。もっとも、扇がれて送られてくるのも周囲の嫌な空気であったが。
 そんなフランツを、恨めしそうな目で見る兵士がいた。その視線に気づくや否や、その兵士はぱっと視線をそらした。

(まあ、彼らにしてみれば僕も同類か)

 フランツは今度は内心でため息をついた。派手ではないものの戦場では場違いな上品な格好。そういった格好が当然である特権階級にフランツは属していた。王族という名の、彼らを指一本で死地に追いやれる特権階級に。
 帽子を直して、視線を避けるように石造りの廊下を歩んでいくと、木の扉が彼を出迎えた。中からは、何か怒鳴り散らすような声が聞こえてくる。フランツはその扉を開けた。
 広間には、座っている男が一人と、鎧に身を包み片手にヘルムを抱えた騎士が数名立っていた。座っている男の前にあるテーブルには場違いなほどに様々な料理と酒が並べられ、それを一心不乱に貪っては、周囲のものに怒鳴り散らし、そして酒をあおっていた。
 明らかに落ち着きがない。恐慌に駆られているな、とフランツは看破した。迫り来る恐怖を忘れるため、彼は暴食と暴飲に逃げているのだ。

「よいか、兵に告げよ! 一兵たりとも生きて帰ろうなどということは許さん! このアルノーで故国を守るための盾となるのだ! 逃げるな! 戦え! そして死ね!」

 言っていることは御立派だが、これでは説得力がない…とフランツが思ったとき、彼が広間に入ってきたことが男たちに知られることとなり、部屋は一旦しんと静まった。男も、騎士たちも一様にフランツの方向を見つめる。
 フランツは一応の礼を保ち、脱帽した右手を胸に当てると挨拶を述べた。

「兄上、いやエノーム伯殿。フランツ、公の命によりただいま到着いたしました」
「ふん、フランツか。五年ぶりといったところか。こんな所まで何の用だ」

 酒の息を吐きながら、エノーム伯グスタフこと彼の兄が忌々しげに言った。彼の言う通りフランツが次兄グスタフと会うのは五年ぶりだが、元々小太りな兄であったが、五年の間に胴回りと首周りが随分と大きくなっていた。髭も髪も伸ばし放題荒れ放題であり、乱雑に食事に噛み付くので髭は様々な食べ物で汚れていた。それなりに小奇麗にしているフランツとは正反対であった。

「父上はアルノーに赴き、軍の一部を率いよと仰せられましたが…」
「貴様のような青二才が軍を率いるか。笑わせるな」

 フランツの言葉を遮って、グスタフが罵るように言葉を浴びせた。
 確かに、フランツに青二才という言葉が相応しいことは本人も認めざるをえない。色白で手足も細く、母譲りの整った容姿をしているフランツであったが、戦場ではまるで役に立たない要素であった。町娘には好かれるであろうが、兵士の信頼を得るには心もとない。
 そしてフランツは、グスタフが自分の権限を他人に侵されるのが嫌いであり、それ以上にフランツ自身の存在を嫌っていることを知っていた。だから、当初からこう言って引き下がるつもりであった。

「仰る通りです。私は一兵も率いたことはございません。戦術の何かもわかりかねますので、兄上に全てお任せいたしますゆえ…」
「身の程を知っているではないか。ならばさっさと帰れ。ここは貴様のようなひよっ子がいていい場ではないぞ」

 笑い出したグスタフに付き合うようにして、周囲の騎士たちも笑った。これをフランツは屈辱には思わなかった。むしろ笑わざるをえないのだろうと、彼は内心騎士たちに同情した。

「ですが、一つお許しをいただきたいのですが」
「なんだ。一応聞いておいてやる」
「これからヴィランに赴き、敵将と交渉を行いたいのですが」
「交渉だと?」

 不審そうに聞き返す兄を無視するかのように、フランツは進言を続けた。

「はい、交渉で時間を稼げれば軍の再編もなしえますし、さすれば勝つ機会も増えようかと…」
「貴様、我が軍が負けるとでも思っているのか!」

 目を血走らせ唾と食べかすを飛ばしながら、グスタフがテーブルを叩いて立ち上がる。ワインを湛えたゴブレットがその拍子に倒れ、テーブルから床へと紅い滝を作った。
 惨敗したばかりじゃないか、とフランツは思うのだが、相手を刺激することを言うのは得策ではないと、つとめて冷静に彼は言葉を返した。

「…いえ、そうではありませんが、何にせよ我が軍には時間が必要です。時間をかければ、敵軍の糧食は乏しくなるでしょうし、隣国の援軍も期待できましょう。そうなれば敵を打ち破ることも容易ではないでしょうか」

 フランツは思ってもないことを並べ立てた。ヴィラン城が敵の手に落ちた以上補給は容易であるし、おそらく敵はすでに外交を通じて隣国に我が方への参戦を牽制しているであろう。そもそも利に聡い君主なら、牽制がなくとも我が方に味方するのは得策ではないと判断するはず。滅び行く公国と心中しなくてはならない理由などどこにもないからだ。
 澱んだ目をしたグスタフは、倒れてしまったゴブレットを掴み、中身が空になったことを見て取るとそれを投げ捨てた。そして封の切られたワインのボトルを手に取ると直接ワインを喉に流し込み、酒臭い息を一つ吐いてから、フランツを指差しながら答えた。

「ふん、まあ良かろう。勝手にしろ。だが、あくまで俺の命令で行ったのだ。それをわきまえておけ。ここの指揮官はあくまでこの俺だ。わかってるな、フランツ。それに貴様が囚われたところで助けには行けんからな」

 つまり、功績は自分の物、失敗すれば勝手に死ね、ということである。欲にまみれた兄らしい言い草だとフランツは思ったが、これで目的は達したのでそれを受け入れることにした。

「承知いたしました。必ずや成功させて見せます。あと護衛の騎士を2名ほどお借りしたいのですが…」
「この危急の折に騎士を寄こせだと…? まあ良かろう。オルモン家の兄弟がいたはずだな、それを貴様につける。もういいだろう、さっさと下がれ。俺は忙しいのだ」

 そう言うなり、兄は再び目の前の鶏肉に貪りついた。
 フランツは一礼すると、広間から外に出た。そして小声でぼやいた。

「やれやれ、困った兄上だ…」

 とはいえ、会見の本来の目的である『護衛の騎士を借りる』ことには成功した。フランツに剣の腕前があるのなら、こんな所に寄らず単独でヴィランへ向かったところだが、生憎と天は彼にそういった才能を与えなかった。よって、ヴィランまでの護衛が必要であったのだ。交渉に至るまでに斃れてしまっては何の意味もない。
 戦ってはならない相手と戦ってしまった、とフランツは思う。敵軍は戦った相手は容赦しないが、降伏した相手には寛大に接すると聞く。そもそも軍事に力を注いでいなかった我々が戦ってはいけなかったのだ。それを、戦力を見誤り自己満足で軍を動かした兄たちが全てぶち壊してしまった。
 いずれにせよ、これ以上の兵士や民衆の犠牲を出さないためにも、フランツはヴィランに赴かねばならなかった。彼には勝算があった。

「もっとも、うまく行けば儲けもの程度、だけどね…」

 肩をすくめて自重するように呟いたフランツの言葉は、石の廊下に反響することなく消えていった。

 約百年前、賢帝ウルギウスの暗殺により、その跡目をめぐって大帝国は七つに分裂した。各地を治めていた大公たちがそれぞれ独立を宣言し、帝国の後継者たらんと兵を挙げたのだ。後の世に《七大公時代》と呼ばれる時代の幕開けであった。
 帝国は分裂こそしたものの、周辺国からの侵入はこの時代を通じてほとんどなかった。それだけ帝国が精強であったことを物語っている。七つの大公国は始めは激しく、やがて散発的に戦いを繰り返したが、一方が他方を飲み込むようなことはなかった。
 やがて時は流れ、旧帝国を知るものは皆天国に去り、七つに分かれた状態こそが当然であると人々が思っていたその時、大公国の一つであるレディウスが動いた。強力な軍備と豊富な国力、そして一人の英雄的な指揮官を得たレディウスは、次々と他の大公国を併呑していったのである。そして現在、七大公国のうち残っているのは最も東方のはずれに位置していたフルハイク公国だけとなった。
 フルハイク公国は、大陸を南北に貫くオーハンス山脈とクランドー山脈の丁度狭間に位置し、東西交易の拠点として財を成した国である。フルハイク領を通過せずに東西の交易を行うには、クランドー山脈を大きく南に迂回するしかなく、時間と金銭の大きな無駄を生む。そういった事情から、公領の都シュバイク城下には大陸東西の様々な品物が流れ込み、商業都市として大きく栄えることとなった。
 もっとも商人に言わせれば「あれで大公がいなければ言うことない」ということなのだが。現フルハイク大公ウィルム二世は美術や骨董、そして愛妻の第三夫人アマンダの贅沢に国庫を使うことに何のためらいも見せない人物であり、その分を加味された税金の重ささえなければより商売がうまくいくとの専らの評判であった。

 フランツは、そんな公国の第三王子として生を受けた。世間の類に漏れず、三男であるフランツも兄たちに異変が起こらなければ単なる地方領主か、もしくは家を出て僧侶・学者・芸術家として生涯を終える身であった。しかし、彼の出生には一つややこしい要素があったのである。
 今は亡きヴィラン伯ガスパル、そしてエノーム伯グスタフは彼の異母兄であるが、ウィルム二世の第三婦人アマンダの子であった。公家の后ともなれば名家から嫁ぐのが当然であるが、アマンダは爵位持ちどころか単なる平民の娘でしかなかった。鷹狩りに出かけた若きフルハイク公が道端で見初めた娘に一夜の伽を命じ、やがてその娘が子を宿していたことがわかるや、一旦ロザイン伯爵家に養子として入れてから、第三夫人として嫁入りさせたのである。当時、南方の大国ナシリム王家から嫁いだ第一夫人エメノアには子がおらず、跡継ぎを欲していたフルハイク家としてはどのような手段を使ってでも男児が必要だったのである。
 フルハイク公は子と后の美貌を欲し、アマンダは金銭と贅沢を欲した。両者の打算からもう一人の子グスタフが生まれることとなったが、その数年後、第一夫人エメノアの懐妊が明らかとなり、事態は複雑化する。この子こそがフランツである。
 ウィルム二世は生まれたフランツに継承権第三位を与え、あくまで兄弟の序列を優先させたが、二人の兄はフランツの『血統』の良さを羨み、妬み、そして憎悪した。そして『血統』を盾にやがて自分たちを追いやるのではないかと勝手に恐れたのであった。
 だが、当のフランツは政治にも軍事にも興味を示さず、三男の気楽さゆえか学問にのみ興味を示した。これ幸いとばかりに、第一夫人エメノアが「不慮の死」を遂げると、二人の兄と彼らの母は、大公を動かしてフランツを南方の自由都市ナミューへ『留学』に出してしまったのである。フランツ本人も、母という政治的後ろ盾を失い、宮廷でのごたごたに嫌気がさしていた折であったので、このままフルハイクに戻らないつもりでその留学の話に乗ったのであった。五年前の事である。

 ナミューでフランツはアカデミーに入学し、そこで語学や薬学や天文学、そして錬金学を学んだ。身分を隠していたため、悪友とも言える友人ができたり、恋人もできたり別れたりと、少々裕福な平民らしい生活を送ることができた。彼の王族らしからぬ庶民的な物の考えは、ここで培われたと言ってもいい。
 そんなアカデミー生活を送っていたフランツのもとへ、周辺国を通じて様々な情報が流れ込んでいた。帝国の再統一戦争に関する話は、常にレディウス国の勝利の話ばかりであった。一人の天才的指揮官の活躍で、百年かかっても統一できなかった周辺の五ヵ国がわずか二年で併合されてしまったのである。
 そしてこの話にはもう一つ衝撃的な話が付随していた。

 その指揮官の名は、ガラドリエル・レイザ・レディウス。
 レディウス国第一皇女であった。

「美しい街並みだな」

 ヴィラン城の尖塔の窓から夕焼けに彩られた街を見下ろしながら、ガラドリエルは言った。周囲の安全が確保されているので、鎧を脱いで軽装となっている。窓から入り込む風が、彼女の長く美しい金髪を撫でた。
 美しいのは髪だけではない。戦争が始まるまでは貴族や諸国の王子からの求婚が絶えなかったという美貌は、戦場を駈け抜けたおかげでやや日に焼けていたが、それでも美しさを損なってはいなかった。ただ、宮廷の奥に鎮座しているだけの姫君とは、まるで漂う風格が異なっている。兵士を束ね、指揮する、凛とした表情が美しさの中に備わっていた。

「はい。ヴィランと言えば西方三名城の一つですから」

 彼女の後ろから、直立不動の姿勢で副官のエファリス・サーガイムが答えた。ガラドリエルと違い、エファリスは黒髪を肩の上で切り揃えている。年齢はガラドリエルと同じであったが、背丈はエファリスの方が若干高い。
 そして彼女は総指揮官であるガラドリエルの副官と、数名の女性兵士のみによって構成される警護隊の隊長を勤めているため、その立場ゆえに未だに首から下は鎧を身にまとい武装していた。

「この美しい街に傷をつけずに手に入れられたのは幸いだった。もっとも、いくら名城でも城の中からではその美しさを堪能できないが」
「まったくです」

 そう言ってガラドリエルは笑みをもらし、エファリスもくすりと笑った。
 エファリスもサーガイム侯爵家の者ではあるが、身分差のある二人がこうして会話できるのも、ガラドリエルがエファリスの母であるサーガイム侯爵夫人を乳母として育ったため、ガラドリエルは自身の三月前に誕生したエファリスを実の姉同然に思っていた。二人は幼い頃から身分を越えて何でも話し合い、友誼を深め、そして絶大の信頼を置く存在となったのである。
 ガラドリエルは街並みから目を離して後方のエファリスに振り向き、わずかに彼女を見上げるように言った。

「エファ、後方のノルネン卿の隊はいつ到着する?」

 あくまで副官としてのサーガイム卿とではなく、姉にも等しい存在のエファと彼女は呼んだ。

「急がせなければ明日の正午にはヴィランに入城できるかと…、急がせましょうか」
「いや、その必要はない。アルノー攻めは明後日だ。今宵は兵を休ませろ。酒も許可するが…くれぐれも羽目を外しすぎぬよう釘を刺しておけ。抵抗こそ受けてはいないが、我々は残念だがまだ侵略者だ。節度を保って行動せねば蜂起に繋がる」
「承知いたしました。兵にはくれぐれも問題を起こさぬよう伝えます」

 レディウスの統一戦争がうまく進んでいるのも、軍規の徹底にあった。一般的に占領地では兵士による略奪や女性への暴行が起こりがちであったが、ガラドリエルは女性ゆえかそれらの蛮行を固く戒め、それでも発生した場合は直ちに捕らえて公開処刑とした。これにより綱紀の粛正と民心の安定の両方を図る、という効果を狙ったのである。
 また、占領地に有能な行政官を派遣し、貴族らの不正蓄財を没収して民衆に分け与えるなどした結果、占領地での反乱は皆無となり、ガラドリエルの民衆たちにおける人気は絶大なものとなった。元々同一の民族が主であった七大公諸国であるから、言語や宗教による対立が起こりにくいことも彼女を助けた。

「よろしい。さて、日も沈んできたことだし、私も風邪を引かぬうちに私室に戻るか…。もっとも、前領主のあの趣味の悪い置物のある部屋に戻るのは苦痛だがな。後で警護隊の者に取り外させるか」
「姫様」

 冗談めかして言ったガラドリエルに対し、エファリスが真剣な顔をして向いていた。その様子にガラドリエルは意外に思いつつ、問い返した。

「どうした、エファ」
「姫様、本日の戦いですが、どうして追撃をお命じになられなかったのですか」

 ガラドリエルに意見を言えるのはエファリスだけであった。そもそもガラドリエルの作戦指揮が間違ったことはないのだから、エファリスですら意見を言ったことはなかった。しかし、エファリスは今回だけはどうしても進言せねばならないことがあった。

「我が軍はヴィラン伯の軍のおびき出しに成功し、ヴィラン平原で包囲、殲滅に成功しました」
「愚かな指揮官だったな。少数の部隊を釣り餌に使い、試しに挑発文を投げ込んだら見事にかかりおった。ああまで見事にかかるとは、愚かとしか言いようがない」

 ガラドリエルはエファの痛烈な視線から逃れるように目を背けてから笑った。
 しかし、エファの言葉は続いた。

「さらに、後方に展開していた敵増援軍をそのまま急襲する機会はありました。いえ、急襲するべきでした。ヴィラン城の占拠をさて置いて直ちに襲えば、各個撃破で敵全軍を壊滅させることも可能でした。さすれば敵軍がアルノー砦に立て篭もることもなく、明後日には姫様はここヴィランではなく、公都シュバイク城におられたはずです」
「…伏兵を警戒すべきだろう。数に勝るとはいえ、我が軍は地理にも不慣れだ。横から襲われれば…」
「フルハイクにそんな軍勢などないことは、姫様が一番ご存知でしょう。それに、姫様の用兵は大胆かつ神速をもって…」
「黙れ!」

 エファを一喝するように、ガラドリエルは叫んだ。それが虚勢であることは本人が一番よく分かっていた。だから、叫ばねばならなかったのだ。

「姫様…」

 呆然とした表情のエファに、ガラドリエルは追い討ちをかける。

「指揮官は、誰だ」
「…姫様、いえ、ガラドリエル様です」
「そういうことだ。今回はまずヴィラン城を占拠し、そこを拠点として補給と増援を待ち明後日アルノー砦を攻める。これは決定だ。もう下がってよし」
「はい…」

 ショックを受けたような表情で歩み去るエファリスの背中を見ながら、ガラドリエルは口内に苦いものを感じていた。
 そして、誰にも聞こえないように呟いた。

「すまない、エファ。そなたの言う通りだ。だが、これは私の最後のわがままなのだ…。私が自由でいられるのは、あと少しなのだから」

 夜半、ガラドリエルは薄い夜着に身を包み、接収した私室で燭台の明かりを頼りに、立ち上がったままテーブルに地図を広げて今後の作戦を練っていた。前領主ガスパルの遺した置物の数々は、既に片付けられており、部屋の中には木のテーブルと天蓋付の大きなベッドぐらいしか残されていなかった。

「アルノー砦…、聞いてはいたがまさに屈指の要害だな」

 顎に細い指を当てて、真剣な顔で考え込む。
 それも無理はない、アルノー砦はシュバイク城へ繋がる唯一の道の上にあり、ここを抜けなければフルハイク公国を覆滅することは叶わない。しかし砦の周辺は道が狭い上に谷底にあって、大軍を動かしたとしても容易に突破することは難しい。
 かつて、フルハイクが七公国の一つレングラントと戦争となった折、アルノー砦で五倍の敵軍に耐え抜いたという逸話がある。その砦がありながら、敵将はのこのことヴィラン平原に出てきて『正々堂々と』戦いを挑んできたのだ。敵軍にはまともな副官、エファのような有能な副官がいないか、それ以上に指揮官が無能かどちらかであろうとガラドリエルは推察した。まともな戦略思考の持ち主なら、守りにくいヴィランを放棄し、初めからアルノー砦に立て篭もるはずなのである。元々戦力差は比べ物にならず、これでようやくガラドリエルの鼻先に手袋を投げつける権利を得られるのだ。

「もっとも、そのおかげで我が軍にも勝ち目が見えてきたが」

 アルノー砦がいかに堅牢とはいえ、既に戦力差は十倍を越えている。五倍の敵に耐えることができても、十倍は無理であろう。ただ単純に進軍を繰り返し、砦の守りにわずかずつのヒビを入れ、割れたところから橋頭堡を確保して敵軍を突き崩していくだけだ。戦術的には美しくないが、戦略的には極めて真っ当な作戦である。
 もちろん、犠牲となる兵の数を無視するならば。

「エファの言うことはもっともだ。わかっている。敵が勝手に砦を放棄してくれたのだから、わざわざ逃がしてやる必要はなかったのだ。兵の犠牲も少なくて済む。だが…」

 苦悩の表情で絞り出すように呟くガラドリエル。そして、続く言葉を飲み込んだその時、扉の入り口をノックする音が聞こえた。
 彼女は扉の方を振り向いて誰何した。

「誰だ」
「姫様、私です…」

 エファの声だ。その声を聴いた瞬間、もやもやしていた心の中がぱっと晴れやかになった。
 尖塔での行き違い以来、数時間ではあるが顔を合わせていなかった。お互いに仕事を抱えていたせいであるが、気まずかったのもある。
 先程は言い過ぎたとガラドリエルは思っていた。作戦を今更変えることはできないが、このわだかまりは取り除いておこう。部屋の中は二人きりだから、一国の姫君が侯爵の子女風情に頭を下げる光景は見られなくて済む。
 ガラドリエルは渡りに船とばかりに、エファリスを呼び入れた。

「そうか、まあ入れ」
「失礼いたします…」

 扉を開けてエファリスが入ってくる。さすがに深夜ともあって彼女は寝やすい軽装となってはいたが、それでもいざという時にはそもまま戦えるような格好にはなっている。しかし、何か様子がおかしい。いつもの張り詰めたような雰囲気ではなく、どこか酔っているような。だが、真面目一辺倒のエファリスが酒に弱く一滴も飲めないことをガラドリエルはよく知っている。
 そして、エファリスは一人で来たのではなかった。後ろに男が一人付いてきている。美男子というほどではないが、それなりに整った容姿の上品そうな男であった。
 眉をひそめ、警戒心を露にしながらガラドリエルは問いただした。

「何者だ、後ろの男は」
「姫様…。こちらの方はフルハイク公国のフランツ殿下にあらせられます…」
「なにっ!?」

 反射的にガラドリエルは立てかけた剣に駆け寄り、鞘から抜いて構えた。軍事だけでなく、剣での戦いでも彼女は負けたことはない。

「どういうことだ、エファ!」
「夜分に参上し、大変失礼いたしました。フランツ・ウィルム・フルハイクにございます、姫。ただ、私は停戦交渉の使者として訪れたのみ。決して姫君を害そうなどとは思っておりません」

 後ろの男、フランツがひざまずいて口上を述べる。様子がおかしいのはエファだけではなくフランツも同様だった。全身をマントで覆い隠し、マントの隙間からわずかに見える首元や膝は布に覆われていなかった。まるで、マントの下は何も着ていないかと思われるように。隠された部分の逞しい男の肉体を想像すると…、

(…と、何を考えているのだ私は)

 ガラドリエルは赤面しつつも、その邪念を追い払おうと軽く首を振った。
 そして、動揺を隠すように必要以上に大声で叫んだ。

「せ、説明しろ、エファ! 使者が来られたのならまず謁見の間に通すのが筋であろう。それをなぜ私室に直接連れて来るのだ!」
「姫様、それは、それは…」

 エファリスの様子がおかしい。顔を赤らめ、何かを必死にこらえている。両腕で体を抱きしめ、小さく小刻みに震えてすらいる。

「エファ…?」
「それは…、フランツ殿下が姫様にお目通り願いたいと…、その…」

 次の瞬間、ガラドリエルは自分の目を疑った。
 エファリスがフランツに急に押し倒すように抱きつき、マントを引き剥がした。フランツはガラドリエルが思っていた通り何も着ておらず、筋骨隆々ではないがほどほどに引き締まった若い肉体が露になった。
 そしてガラドリエルは見てしまった。フランツが男性であることの証が、固く屹立していることに。初めて見たその肉棒から、なぜかガラドリエルは目を背けることができなかった。

(な、なんだ…、私はどうなってしまったのだ…?)

 心臓が高鳴り混乱するガラドリエルをよそに、エファリスは半狂乱となって叫んだ。

「殿下! フランツ殿下! お命じ通り姫様の所までお連れいたしました! ですから、ですから私に、殿下…!」

 エファリスは叫びながら、自らの服を引き裂かんばかりの勢いで脱いでいく。あっという間に豊かな乳房も、決して人目にはさらしてはならない秘所も、全て表に出してしまった。

「エ、エファ…」
「ああ、フランツ殿下…。素敵なお体…。どうか、どうか卑しい私にお情けを…」

 今まで聞いた事のないような甘い声で囁きながら、娼婦のように体をくねらせつつフランツの体にまとわりつき、いやらしく彼と唇を重ねるエファリスを、ガラドリエルはただ剣を構えながら呆然と見ていることしかできなかった。

 …体内に、熱い疼きの萌芽を感じつつ。

< 続く >

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