女王の庭 第2章

第2章 かぼちゃの馬車

 山越崇行が下川倫子から催眠術のことを教えられたのは、それより数ヶ月前だった。
 崇行はまったく信用しようとしなかった。倫子は証拠を見せてやると言った。次の日、午後3時に、ヒルズにある喫茶店で待ち合わせることになった。

―――

 待ち合わせの場に現れたのは、倫子ではなく小野寺晴菜だった。

「えっ、なんで晴菜ちゃんが? ミッちゃんは?」

「え? 『なんで』だなんて……。」
 晴菜の表情が固まる。
「私と山越クンのデートのなのに、それこそ、どうしてミッちゃんが?」

「え? デート? 晴菜ちゃんとおれ? デートって?……その、晴菜ちゃん、今井はいいの?」
「ん? 今井クン? 今井クンがどうかしたの?」
「おいおい、晴菜ちゃんのカレシだろ?」

「えっ? カレシ? 今井クンが? ウソ? そんなわけないってば。カレシと言える人がいるとすれば、それは……」
 晴菜は俯いてそのまま黙り込む。

 噛み合わない会話に、崇行はすっかり混乱した。
「ま、座ってよ。コーヒーでも?」
 晴菜を座らせて、晴菜の分のオーダーをする。手洗いに行くと言って席を立つ。座るなりいきなり席をはずす崇行を、晴菜が傷ついたような目で見送る。

 崇行はトイレの前で考え込む。
 どうなってるんだ? とりあえずミッちゃんだ。ミッちゃんに聞かないと。アイツがおれを呼びつけたんだし。

 ケータイごしの倫子の声は得意げだった。
《どう、驚いた? 私の催眠術》
「どういうことだよ? ちゃんと説明しろよ」
《昨夜言ったじゃない。私の催眠術の効き目を思い知らせてあげるって》

 どうやら倫子は、晴菜に催眠術をかけ、崇行の恋人だと思いませて、デートさせているらしい。「本当かよ、催眠術でそんなことできるのかよ?」《その目で見たでしょう?》といったやり取りを重ねる。

《ま、そういうことだから、今日はハルハルにつき合ってあげて。恋人として。ちゃんと楽しませてあげてね》
「待てよミッちゃん。そんな、いいのか? 晴菜ちゃんには今井というれっきとしたカレシがいるんだし。
 やっぱ、おれ、できないよ」
《今日1日だけよ。気にしなくていいって。ことが済めば、ハルハルも全部忘れるようになってるから》
 倫子が軽い口調で言う。

「いや、そういう問題じゃないって。なんか、これ、晴菜ちゃんを騙してるってっことじゃないか? 今井も! 裏切るってことじゃないか! そんなことできるわけないよ」
《なにヘンなヒヨりかたしてるの? 昨日の晩、酔っ払って、晴菜ちゃんが大好きだ~って言ってたじゃない。今井さえいなければ、ものにしてやるのにとかなんとか。昨夜の時点で、立派に裏切りよそれ》

 え? おれ、そんなこと言ったのか? 思い出せない。だが、晴菜にひそかに恋心を抱いていたのは本当だ。だから、酔っ払ったらそんなことを口走ってもおかしくない。いかんいかん。酒には注意しなければ。

《ほんとのとこね、ハルハルも、タカユキにはまんざらじゃないのよ。今井クンさえいなければね。
 だから今日のはいいのよ。二人ともの夢をかなえてあげたんだから。1日だけの夢。1日だけの恋人。素敵じゃない? 織姫と彦星みたい》
「嫌だよ。おれは、晴菜ちゃんのことが好きだからこそ、今井と晴菜ちゃんに幸せになって欲しいんだ。二人の幸せを壊すようなことはしないって決めてるんだ」

 ケータイの向こうで倫子がケラケラと笑う。
《やっぱりハルハルのこと好きだったんだ》

 このアマ!
「カマかけてたのか」

《いえいえ。ただ、酔っ払いの言うことだからね。たいがいの人は、ハルハルのこと好きだって言うから、信用していいもんだか。
 それにしても》 
 倫子は崇行を馬鹿にしたように言う。
《タカユキって、バカね。笑えるわ。好きだからこそ耐えるってのの? なにそれ? 殉教者のつもり? ふふふ》

 むかっとする。
「なんにしろ、おれは帰るから」

《えー?なんでぇ? 忍ぶ恋をつかの間でも実らせるせっかくのチャンスなのに。
 本気なの? さっきの勘違い殉教者ごっこ? そんなふうに自分を騙すのはよくないよ、タカユキ。もっと自分に正直にならないと。ハルハルと今井クンが幸せになれば自分はいい、なんてのはギマンよ。嫌な思いしてカイカン感じるなんてヘンタイよ。本当に自分が幸せになることを考えなさい》

「ミッちゃん、いったい何がしたいの? 晴菜ちゃんに催眠術かけたりして」

《わたしはただ、ハルハルとタカユキの小さな秘密の夢をかなえてあげたいだけよぉ》
 からかう口調。

「そんなのいいんだよ。おれのことは。
 晴菜ちゃんと今井の幸せそうな様子見たら、そんなことどうでもよくなるだろう? あの二人が、おれの夢なんだよ。ミッちゃんが勝手に、おれの夢のことを小さな秘密の夢だとか、ヘンなふうに決め付けてとやかく言うなよ」

 倫子は、また大きな声で笑う。癇に障る笑い声だ。
《なになに? 今井クンには敵わないから? ハルハルとデートしたら、かえって惨めな気持ちになる? せっかくあきらめようと思ってたのに? あきらめた夢をまた見てしまうってか?
 ウザいよ》
 倫子の辛らつな罵倒が、自分でも意識していない心の急所にグサリと突き刺さる。
《そうそれにね、しっかりと催眠術かけてタカユキにラブラブだから、ハルハル、タカユキにフられたら、たぶんすっごく傷つくと思うな。あんな美人だよ、生まれてこのかたたったの一度だって男にフられたことないんじゃないかな? ショックだろうな~。自殺するかも。いいのぉ? 大好きな晴菜ちゃんに、そんな思いさせて。ハルハルの幸せを守るんでしょう? 殉教者さん?》

 倫子は晴菜の気持ちを人質にとって脅す。そうやって、崇行の抑圧された願望を正当化できるよう促してやる。本当に大事なものを見誤らせて。
《今日1日だけだから。ね? タカユキ? ハルハルを傷つけないためにも、1日だけつきあってあげて。そしたら、ハルハルは全部忘れるから。私も、ハルハルにつらい思いさせたくないのよ。だから、ハルハルをフったりなんかしないで》

 倫子の言うことに納得できたわけではない。本当に晴菜のためだなんて思えない。
 だが、晴菜が傷つくとか、倫子のためでもあるとか言われると……。どうせ今日1日だけで晴菜は忘れてしまうし、晴菜も裏切ったなんて意識はないんだし……。だったら、今日1日くらい……。
 自分のために話に乗ったのではない。しかたがないからだ。
 そう自分を正当化する。後ろめたさを押しやる。

「……わかったよ」
 崇行は、いかにもしぶしぶといった調子で、承諾する。

《アリガト。やっぱりハルハルのこと一番心配してるのは、わたしとタカユキだけよね。あっ、そっか、今井クンもね。
 そういうわけでハルハルをよろしくね。デート楽しんでね。いい思い出作ってね。
 私、ちょっとハルハルにも電話しとこうっと。デート中でもなんか用あったら私に電話ちょうだい。あっ、電話するのは、ハルハルが見てないところでね》
 そう言って倫子は電話を切った。

 崇行はすでに、魂の半分を悪魔に売り渡していた。

 ケーキを食べながらおしゃべりをした。
 晴菜が崇行を見つめる視線に、どぎまぎした。

 まさか晴菜ちゃんとデートしているなんて信じられない。うちの大学中の男たちが、晴菜ちゃんとデートするためになら、どんなことだってやるだろう。
 いったい、ミッちゃんの催眠術ってのは、どこまで効いているんだろう? 本当に、晴菜ちゃんはおれのことを恋人だと思い込んでいるんだろうか? 今井とはあんなにラブラブなのに?
 まさか、晴菜ちゃんとミッちゃんと二人しておれのことをかついでいるのか? 喫茶店を出たところで、今井とミッちゃんがどっきりの看板を持って立っているとか?
 いや、ミッちゃんはともかく、晴菜ちゃんがそんな趣味の悪いふざけ方をするわけがない。

 だからといって、倫子が言うように、催眠術のおかげで、そんなうまい具合に晴菜が恋人になっているというのもにわかには信じがたい。。

「ねえ? どうしたの? タカユキ、ずっと黙ってるけど?」
 あれこれ悩んでいる崇行のことを不審そうに晴菜が見つめている。

「え? いや、なんか、信じられないなぁって思って。ここでこうしてるのが」
「どうして?」
 晴菜が真剣に崇行を見つめる。

「だって、まさか晴菜ちゃんがOKしてくれるとは……ね」

 晴菜がむっとした様子を見せる。
「さっきからその話ばっかり。なんかいやだな。私のこと疑ってるみたいで」
「いや、そういう意味じゃなくて」
 黙りこむ。気まずい沈黙。

 晴菜が、ケーキのかけらを半分に削り、それをまた半分に削り、というのを繰り返して、最後にフォークでペシャリとつぶす。
「山越クン、私といるの楽しくなさそう……」
 さっきまで、タカユキと呼んでいたのに、急にまたよそよそしく苗字で呼び始める。

「そんなことないよ。晴菜ちゃんとデートできてうれしくない男なんていないよ」

「みんな口先でそう言うよ。でも、山越クンさっきからぜんぜん晴菜の話聞いてないし」
 晴菜は崇行の顔を見ずに、ケーキのかけらを粉々にして皿の上に平らにならしている。
「山越クン、ずっとつまらなさそうにしてる」

 予想外の展開に、崇行は慌てる。
 たしかに、今井のことがチラついて、いまいちノリ切れていないのは確かだ。でもそれをこんなふうに、晴菜ちゃんにからまれるとは……。

「私、ミッちゃんから、山越クンが私のことを誘ってくれてるって聞いて、ほんとにうれしかったのに」 
 あ、おれがミッちゃん経由で誘ったことになってるんだな。ま、妥当な線か。

 だが、それにしても、話の流れがなんだか不穏だ。

 晴菜は大きく息をつくと、崇行を正面から見て聞く。
「正直に答えて。今日私を誘ったのって、ミッちゃんから何か言われたから? ミッちゃんに私のこと誘えって言われたの?」

 えーと、広い意味では間違いではないけど……

 崇行が答えに戸惑ったのをどうとったのか、晴菜が視線を下に落とす。
「やっぱりそうなんだ……」
「いや、違うよ。そうじゃなくて、ミッちゃんから言われたのは……」

「やっぱりミッちゃんから何か言われたんだ」
 晴菜が、珍しく人の言葉を途中でさえぎる。
「山越クン、ミッちゃんの言うことなら何でも聞くんだね。
 私といるよりミッちゃんといるほうが、いつも楽しそうだし。
 いつも私が聞いたらごまかすけど、やっぱりミッちゃんのことが好きなんだ」

 いったい、どういう誤解なんだ?
 たしかに、晴菜からは、倫子のことをどう思っているかとか、よく聞かれるし、崇行と倫子をくっつけたがっているのがありありだったが……。
「違うって」

「ウソ」
 覆いかぶせるように晴菜が言う。
「さっきもずっと、晴菜が話している間、ミッちゃんのこと考えてたんでしょう?」

 それは、ミッちゃんの催眠術がどうなってるんだ、と考えたんであって……。
「それは、そういう意味で考えてたんじゃなくて」

「やっぱりミッちゃんのこと考えてたの? 女の子とデートしてるときに、ほかの女の子のこと考えてたの?」
 崇行の失言だった。さっきから失言ばかりを繰り返している。
「いや、だから、ちゃんと聞いて」

 晴菜は、それ以上聞いてられないとでも言うように、勘定を握って立ち上がった。
「山越クン、今日は無理につき合ってもらって、ごめんね。私じゃつまらなかったでしょう? 帰るね。電話してミッちゃん呼んだげるから、ここで待っててね」
 少し声を詰まらせてそう言う。

 えっ、帰るのか? 
 まさか?

 晴菜は、バッグを持ってとっとと席を立つ。

「待ってよ晴菜ちゃん」
 崇行は、慌てて立ち上がる。その拍子に、袖でテーブルの上のシュガーポットをひっかけてしまう。床に落ちて砂糖がこぼれる。

 うわっ。
 とりあえずシュガーポットだけを拾おうとしているうちに、さっさと晴菜が立ち去ってしまう。

 ああ、行ってしまった……

 周りの客がじろじろと見る。身の丈に合わない女の子と、なんとかデートにこぎつけたものの、あっさり逃げられた男の図……か。
 ウェイターが、こぼれた砂糖を掃除して、シュガーポットを交換する。

 わずか30分のデートだった。憧れの晴菜との、たった1回のデートの、無残な結末だ。
 奇しくも倫子が言うとおり、本当につかの間の夢になってしまった。
 なにがいけなかったのだろう? 
 考えるまでもない。崇行の不注意だ。
 晴菜がはにかみながら崇行を見上げてくれたときは、あんなに幸せだったのに。
 やっぱり、崇行の頭の隅で、今井のことがひっかかってたせいか。

 それにしても、晴菜がこんなにはっきりした態度をとったのも意外だった。それに、倫子にやきもちを焼くなんて。
 でも完全な誤解だ。
 崇行がちゃんと説明できれば、あのままデートを続けられたはずだ。夢のような時間が、まだ1日続いたはずなのに。
 崇行が自分でチャンスをふいにした。
 そう思うと、心残りだ。もう1回やり直せたら……

 でも、これでよかったのかもしれない。結果的には、今井を裏切らずにすんだとも言える……。

 テーブルの上には、晴菜が食べ残したケーキが、ばらばらに分解され、ケーキ皿で無残な骸をさらしている。

 ケータイが鳴った。倫子だった。

 まずい奴から電話が。晴菜を傷つけることだけはするな、って言ってた。
 留守電モードにしようか、とも考えたが、どうぜ逃げられない。
 電話に出る。

《何やってるのよバカ!》
 早速怒鳴られる。
《今どこ?》

「さっきの店にいて、反省している」
 崇行は神妙に答える。

《バカ、なにやってるのよ。ここは追いかけるトコでしょう!?》

「だって」

《バカ。死ね。余計なこと言ってる暇ないの。ハルハル泣かしたら許さないからね。今すぐ駅まで走って。死ぬ気で走れ。私に殺されるか走り疲れて倒れ死ぬか今すぐ選ぶのよ!》
 倫子に怒鳴られて、飛び上がるように立った。
 立ち上がった拍子に、またテーブルの上のシュガーポットを引っ掛けてしまう。まったく、この店のウェイターはなんなんだ? 今度はシュガーポットは拾わずにそのまま放っておく。二人分の支払いは晴菜が済ませている。ウェイターを突き飛ばすようにして店を出る。

 エレベータを待つのがもどかしくて、エスカレーターを走り降りる。エスカレーターの途中のステップで、二人並んで立っている客の間を乱暴に掻き分けて通り抜ける。
 駅への連絡通路は地下。
 階段を3段おきくらいに飛ばして、最後のところで転がり落ちる。
 走っているうちに、少し吹っ切れたような気分になる。
 うじうじ悩んでいてもしようがない。追いかけよう。晴菜ちゃんのことを好きな気持ちは本当なんだし、今日1日だけかもしれないけど、誤解されたままというのもいやだ。このままで終わらせたくない。

 駅の改札まで来た。
 途中晴菜に会わなかった。
 もう地下鉄に乗ってしまった?
 いや、女の子の足で、そんなに早く移動できるわけがない。
 通り過ぎて気づかなかったのか? 他の道順で帰った? 地上から?
 気ばかり焦る。

 ケータイが鳴った。倫子だ。
《バカ。何度も電話したのに、なぜ出ないの? 今何してる?》

「悪い。走ってたから。いま駅の改札」
 崇行はハァハァと息をつきながら答える。

《その様子じゃ、すこしはやる気示してくれたみたいね。ハルハルの所在地情報よ。大階段のところにいるって。電話中泣いてたよ。ここは、あんたが慰めるのよ》

 その晴菜の感情は、倫子が作ったニセモノのはずだ。倫子がこんなふうに崇行を励ますというのは、何かが歪んでいる。だが、走り回って、身体の中にアドレナリンが溢れている崇行は疑問に思うこともなかった。倫子が誘導するとおりに、まっすぐに気持ちは晴菜に向かった。晴菜のニセモノの気持ちを慰めることが、ヒロイックな行動に思えて、酔いしれる。今井へのホンモノの友情は、押しやられている。

「おっし」
 崇行はそう気合を入れて、倫子の指定した場所に走った。ケータイの向こうで倫子がほくそえんでいるとも知らずに。そもそも、崇行が直接晴菜に電話を入れれば、全てが、まさに全てが解決していたということにも気づかずに。

 崇行は、汗だくになりながら、コンクリートと大理石の階段を駆け上った。
 やっと晴菜を見つけた! 二人連れの若い男たちに話しかけられていた。晴菜が「いいえ」というように手を横に振って立ち去ろうとする。それを男たちが引き止めている。

 ナンパされてる!

 走り疲れたはずの崇行だが、走るスピードを上げて駆け寄った。晴菜の名を呼ぶと、気づいてくれる。あっ、と驚いたような表情を浮かべる。そこから崇行に手を振ってくる。

 ナンパ男たちは、猛スピードで走ってくる崇行に腰が引ける。「なんだ連れがいたのかよ」と肩をすくめるようにして立ち去った。晴菜がその二人に、じゃあね、と手を振る。
 そんな男たちに手を振ることないってば!

 崇行が走り寄ると、晴菜は嬉しそうな顔をした。ハンカチを出して、崇行の汗を拭いてくれる。崇行は息が上がってうまくしゃべれない。それを見て晴菜のほうから、話しかける。
「タカユキ、追いかけてきてくれたんだね! そんな力いっぱい! 嬉しい。ごめんね、タカユキ。私ね、ミッちゃんに怒られちゃった」

 倫子からは泣いていると言われたが、意外とあっけらかんとしているのに驚く。それもこれもどうやら倫子の手回しらしかった。
 喫茶店を出た晴菜は、倫子に電話した。崇行の待ち合わせ場所に、自分の代わりに倫子を呼ぼうとした。その用件だけ伝えて晴菜がすぐに切ろうとするので、倫子は驚いて経緯を聞き出した。晴菜と崇行の会話を聞いて、倫子は、憤然と晴菜に説教した。
 ハルハルのほうが自分勝手だ、デートのマナーに反する、そもそも、タカユキの気持ちを考えると、ハルハルの言葉は残酷な誤解だ……。ハルハル、謝れ。
 ただし。それ以前に、タカユキも馬鹿だ。すぐにハルハルを引き止めて、誤解を解くべきだ。男なら。ハルハルを好きなら。

 だから、倫子は、謝りに引き返そうとする晴菜をそこに待たせた。崇行に電話をかけて、今度は崇行を説教した。少しぐらい懲りたほうがいいということで、崇行を焚きつけて走らせた。

 倫子は、その経過を晴菜に知らせて安心させた。晴菜は、申し訳ない気持ちで、でも心待ちにしながら、崇行が追いかけてくるのを待っていた……
 そういうことらしかった。
「ごめんね。なんか、走り回らせちゃって。ミッちゃんが、それくらいさせたほうがいいって言うから」

「いや、いいんだよ。おれも目がさめたって言うか、吹っ切れたっていうか、そんな気がするから」
 崇行は、迷いなく、今日1日の晴菜とのデートを特別な思い出にしようと思っていた。

 全て倫子の思惑通りだった。
 崇行は、すっかり倫子が用意した夢の世界に入り込んでいた。
 晴菜の言葉は倫子の催眠術に汚染されているはずだと疑うことができなかった。倫子にうまく振り回されて、晴菜への思いしか見えなくなっていた。今井への配慮は心の片隅にしかなかった。ましてや倫子への疑惑など浮かびもしなかった。

 崇行はしばらくベンチで休んだ。晴菜がスポーツ飲料を買ってきてくれて、かいがいしく崇行の汗を拭ってくれた。ひんやりとした晴菜の手が額に触れ、風が吹くと晴菜の髪が崇行の頬に当たる。

「これからどこ行く?」
「タカユキはどこ行きたい?」

「そうだなぁ」
 デートといえば……。
「映画でも見る?」

 晴菜が顔をしかめる。
「え?映画見るの? せっかくタカユキとデートしてるのに? それじゃタカユキと話できない。
 ねぇ、やっぱり私と話してるの、つまんないの?」

「いや、そんなことないってば」
 喫茶店のやり取りを思い出して、崇行は緊張する。

「あ、ごめん、また嫌なこと言っちゃった。でも、たとえば今井クンだったら、楽しみにしてた初デートで映画なんて、そんなこと絶対に言わないだろうな」
 晴菜はさらに口を滑らせてしまう。

 今井と比べられて、崇行が顔をこわばらせる。晴菜も、しまった、という顔をして、両手で口元を覆う。その、いかにもなリアクションがまた、崇行の心にグサリと突き刺さる。

 晴菜が、気まずい雰囲気をごまかすように言う。
「えと、タカユキは、ヒルズには詳しい?」

 崇行も、話をそらそうとする晴菜の気遣いに答えて、なにごともなかったかのように装いたい。
「いや、実は初めてなんだ」
 この答えでは、崇行としてはますます気まずい気持ちになる。今井なら、こういう人気スポットに詳しそうだな……。

 晴菜は慌てて言い添える。
「あ、そっか~、それで、映画見ようとか、そういうことになったんだね」
 泣きたくなるような気遣いだ。
「実はね、晴菜ね、ヒルズには詳しいの。だから案内してあげる」
 そう言って、落ち込みがちな崇行をフォローしてくれる。

 晴菜は崇行の手をとって立ち上がる。崇行の手を引いて先を歩く。
 崇行は、ふと気づく。はしゃぎがちな女の子に引っ張られて歩く男。ものすごくデートらしい光景だ……。

 晴菜が言う。
「とりあえず展望台かな。それから、ショッピング。毛利庭園もあるけど、あそこは夕方のほうがロマンチックよ。カップルがこっそりキスしてるの。見たことないけど、たぶん」
 いたずらっぽく崇行の顔を見る。
「あ、でも展望台も夜のほうが夜景が綺麗かな」

 毛利庭園…… カップルがキス!
 晴菜とのキスを意識してしまう。
 想像したこともなかった。あの、憧れの晴菜ちゃんと……。ちらりと晴菜の唇を盗み見る。ピンクのルージュが乗った唇。意外と大きくて、官能的だ。

「タカユキ? いまなにかイヤラしいこと考えてた? 鼻の下伸びてるよ」

 うわっ。晴菜ちゃんって、こんなに勘が鋭かったっけ? 恋すると、男の挙動に鋭くなるってことか?

 ニセモノの恋だという意識はすっかり抜け落ちている。

「いや別に。ただ、晴菜ちゃんに見惚れてただけだよ」
「ふーん。なに考えて見惚れてたの?」

 清純そうな晴菜が、こんなふうに男をからかうなんて意外な一面だ。
 崇行は、ごまかすように、晴菜から渡された小さな案内パンフレットを開く。ショップ欄を見ていて思いついた。

「あっ、そうだ、ペットショップ!」
「えっ何?」
「晴菜ちゃん動物好きでしょ? ペット見に行こう!」
「え? なんで?」

 これは気のきいた思いつきだ。映画のミスを挽回できる。そう思って自信満々だったのに、晴菜の反応は意外と鈍い。
「だって、晴菜ちゃん、前に言ってたじゃん。ペット好きだって。イタチの一種のなんとかってペットがいて、お店に行って頼んだら抱かせてくれることがあるって。すごくカワイイって」

「あっ、ああ」
 晴菜がすこしきょとんとした顔で口ごもる。すぐに笑顔になる。
「タカユキ、覚えてくれてたんだ、そんなことまで。嬉しい」

「見に行こうよ。その、なんとかってペット」

 晴菜は少し迷ったような表情をする。
「うーん、でも、今日はいいの」
 そう言って、いたずらっぽく上目遣いで崇行を見る。

「なんで?」
「うーんとね。私、ちょうど飼いたいペットがいるんだ」
「うん」

「どんなペットか話していい?」
 甘えるようにもったいぶる。

「うん。教えてよ」

「えーとね。それはね」
 すまし顔で右手の人差し指を立てる。その人差し指を崇行に向ける。
「それは、タカユキ。私の欲しかったペット。今日やっとつかまえた!」
 そう言って、崇行に抱きつく。

 うわっ、むちゃくちゃ可愛い!
 抱きついて来た晴菜のからだが、崇行の腕に密着する。微かな香水の香りが崇行を包む。崇行は思わず晴菜の背中に両手を回す。

 幸せだ。
 晴菜ちゃんにこんなふうにじゃれてこられて、恋に落ちない男がいるわけがない!
 まさに夢のひと時だ。
 その一瞬、こんな時間を与えてくれた倫子に感謝した。

 デートは楽しかった。
 晴菜が始終崇行を引っ張りまわした。
 晴菜は本当に、崇行の恋人として振る舞った。自分の気持ちに疑いを抱いている様子はない。
 催眠術でこうまで人を変えられることに、驚かされる。

 バッグ店で、晴菜は白の地に赤と黄の大柄な模様のバッグに見惚れていた。つい買ってあげようと言ってしまって、値段を聞いて目玉が飛び出そうになった。
 晴菜が平然と言う。
「ヴィトンにしてはむしろ安いくらいだよ?」

「え? ヴィトンって? ルイ・ヴィトンのこと? これ違うだろう? ルイ・ヴィトンって、あの茶色に花柄とLとVのマークだろう?」
「ヴィトンって、あの柄しかないって思ってたの? いつの時代の話よ? えーっ、もー、信じられない! てゆうか、そこ、店のプレートにヴィトンって書いてあるし」

 さすがお嬢様だ。欲しがるものの値段が庶民とは桁違いだ。うかつに買ってやるなんていって失敗した。学生用のクレジットカードだと、カードの限度額さえ超えている。

「嬉しい。タカユキ、今日は私の欲しいもの何でも買ってくれる?」
 と、晴菜は、崇行をからかいながらも、崇行の懐事情はわかっている。同じ柄でももっと値段の安い財布を選んだ。
 買ってもらうのはやめないというのは、とりあえず、崇行のメンツを傷つけないための気遣いだろう。
 それでも、崇行にはかなり無理のある出費だ。今後しばらくは生活が厳しくなりそうだ。

 晴菜は、本来欲しがっていたバッグより、予算を大幅に削ったにもかかわらず、崇行のプレゼントに大喜びだ。
「嬉しい。タカユキとのデートの記念。一生大切にするね」

 一生大切にする……。

 晴菜の今日の思い出が1日限りだとわかっている崇行にはこたえる言葉だった。
 明日の朝、目が覚めて、この財布を見つけたとき、晴菜ちゃんはどうするのだろう? ゴミ箱に捨てる? 忘れ物だと思って警察に届けるとか? それではあまりに寂しすぎる。
 あ、そうだ。ミッちゃんに頼もう。思い出は今日限りでいいから、この財布だけでも捨てないように催眠術でなんとかしてもらおう……。

 晴菜は崇行へのお礼に、腕時計を選んでプレゼントしてくれた。晴菜は、崇行の顔や腕と合わせながら、あれこれ悩んで選んでくれた。崇行にはブランド物なんてまったくわからない(これもきっと今井ならわかるんだろうな……)。スイスの老舗で、どこかの王室ご用達だとかなんとか。
 高価そうだが、晴菜によると、同じメーカーでも、廉価ブランドのシリーズで、さっき買った財布とおなじくらいの値段らしい。晴菜は、崇行を遠くに追いやってから、家族カードにささっとサインしていた。

 さっそく晴菜は崇行の腕にその時計を巻いた。無骨なデザインの時計だった。
「タカユキも、一生大切にしてね。ほんとに、一生壊れないくらいしっかりした腕時計だから。それで、将来タカユキが他の女の子とつきあっても、晴菜のこの時計はずーっと一緒だよ。将来タカユキが他の女の子をどんなに好きになったとしても、晴菜の時計が一緒にいた時間には、誰もかなわないんだから」

 そんな切ないことを言う。晴菜自身は今日限りでこの時計のことは忘れてしまうのに。

「うん。絶対に一生大切にするよ」
 崇行は、心からそう誓った。

 きっと、カードの利用明細が回ってきたときには、すっかり何もかも忘れてしまった晴菜は不審に思うことだろう。
 これもミッちゃんの催眠術で何とかしてもらおう。晴菜が崇行のために選んでくれた時計だ。崇行が自分でお金を払って買い取って、一生の宝にしよう。

 崇行は、1日限りの恋人に残された時間を、最高のものにしようと思った。

 少し気取った高級レストランに行き、バーでおしゃべりをした。

 途中、倫子から電話が入った。
《どうしてタカユキから私に、電話報告が1回もないの?》
 どうしていちいち報告しないといけないんだ?
《ま、便りがないのはよい報せ……なのかな?》

「一度ミッちゃんに電話しようとしたら、晴菜ちゃんが拗ねちゃって。ほら、ミッちゃんとおれの関係疑ってるじゃん? デート中に他の女のコに電話かけようだなんてサイテーって言われて、ケータイ取り上げられそうになった」

 デート冒頭のやり取りの後も、晴菜は、倫子のことを色々と詮索してきた。ミッちゃんのことどう思ってるのとか、いつもミッちゃんとはどんな話するのとか、やっぱりミッちゃんのほうが話してて面白いかなとか、ミッちゃん綺麗だよねとカマをかけて来たりとか。
 晴菜ちゃんと二人きりのほうがうれしいよ、晴菜ちゃんのほうがかわいいよ、と答えたので、晴菜は喜んでくれるかと思いきや、ぶすっとして、今度は「私の親友のこと悪く言われるのってカンジ悪い」と拗ねる。

 まったく女心ってのは……
 崇行はすっかり恋人気取りでそんなことを思う。

 倫子が作った1日限りの夢の牢獄に、鎖でつながれた虜囚。

《もうっ。だから、ハルハルの前では私に電話するなって言ったでしょう? 今は電話してて大丈夫なの?》
「ああ。席はずしてる」
《きっと、夜に備えて化粧に気合入れてるのよ。たぶん勝負パンツに穿き替えてるな》

 崇行は飲んでいたワインを吹き出しそうになる。
「ちょっと、なんて……。からかうなよ。そんな……そんなわけないじゃないか。晴菜ちゃんだよ?」

 あっけにとられたのはむしろ倫子のほうだ。
《え? 何考えてんのよ? あんたバカ? 清い関係で終わろうとかキモチ悪いこと思ってんの? あんたチンポついてんの?》

 女がチンポって言うな!
「だって、晴菜ちゃんだよ。今井だって、つき合い始めて2、3ヶ月指一本触れさせてくれなかったって」
 今井の名前が出ても、今はずいぶん遠くの人間にしか思えない。

《えっ? そんなふうに聞いてるの? ハルハルはハルハルで、今井クンがぜんぜん手を出さない、触ってきてさえくれないって悩んでたわよ。ヒロくんは本当は晴菜のこと好きじゃないんだー、とかなんとか落ち込んでたよ》

 2、3ヶ月指一本触れなかった、というのは大げさだ。だがいずれにしても、晴菜が今井弘充に身体を許さなかったのは、すべて倫子が晴菜に誤解を吹き込んだせいだ。
 もちろん、そんなことは崇行が知る由もないことだ。

「えっ? そうだったんだ? たぶん今井は、まったく気づいてないよ。なんといっても晴菜ちゃん、あんな清純そうな子だから。……ちょっとその、意外だ」
 崇行は、裏切ろうとしている友人の名を、他人のように平然と口にする。

《その清純イメージが間違ってるのよ。そういえば、ハルハルって、ふさふさした毛の動物大好きよね。そういうコって、寂しがり屋で、身体の接触を求めるんだって、どっかの雑誌の心理分析に書いてあったよ》
 倫子は適当に思いついたことを言って崇行をけしかける。
《きっと、タカユキが抱いてくれなかったら、ハルハルはショックだよ。まだ口説かれてないとしたら、すっごく気にしてるよ。もうキスはしたよね?》

「してないよ。まさか、そんな……」
 言われてみると確かに、電飾でかざった庭園や、ライトアップした夜景だとか、ロマンチックな場所で、気まずい雰囲気があったような気がする……。

 操られた幻想の恋心を相手に、ガキの初デートのように真剣に思いわずらっている崇行。

 倫子はその焦りと切迫感を煽り立てる。
《もう、なんでそう、ハルハルが相手だとみんなそうなるの? ハルハル、絶対に気にしてるよ、こんな遅い時間になっても、全然キスしてもらえないこと。今日の最初のときのこと思い出しなよ。タカユキがちょっと上の空ってだけで、『タカユキはミッちゃんに頼まれてイヤイヤここにいるんだ~』って妄想爆発しちゃう女の子なんだよ? ヤバいって。そりゃハルハル化粧直しに行くわけだよ。きっと、自分の魅力がないんだって、鏡の前で悩みこんでるよ》

「えっ? そうなのか?」

 倫子の思惑どおり、崇行はすっかり不安になる。
 晴菜のことが好きだから、キスさえためらっていたのに、それが逆に晴菜を傷つけていたなんて……

 その不安自体が倫子によって作られた虚構なのに。

《デートの最初で、ハルハルが喫茶店から逃げ出したときにも言ったけどね。今度ハルハル傷つけたら、私も許さないからね》
 倫子は別方向からけしかける。

「う、ああ、わかった、けど、どうやって?」
 相手があの小野寺晴菜だと思うと、中学生のようにおろおろしてしまう。

《バカ。何歳よあんた? なんのためにそのウンコみたいなもの股の間にぶら下げてんのよ? さっさと押し倒してその辺のホテルででも植え込みででやっちゃえばいいのよ》

 なんて下品なもの言いをする女だ……
「植え込みって……」
《冗談よバカ。ハルハルにそんなことしたら、暴行罪で訴えるわよ。ハルハルにふさわしい、ちゃんとしたホテルで、思い出の夜を締めくくりなさい。大丈夫よ。ハルハルだって準備万端待ち構えているはずだから。普通に「どっか泊まっていく?」とか言えば、黙ってついてくるから》

 少し気が楽になった。
「あ、ああ」
《頼りないわね。ほかになにか聞きたいことある? コンドームの本物見たことある? 心配だわホント》 
「ばか言うなよ、大丈夫だよ」

《ハルハルの性感帯教えてあげよっか?》

「えっ? 晴菜ちゃんの?」
 初めて崇行は、生々しく晴菜の肉体を想像してしまう。ぞくりとする。

《ウフフ。背中を攻めてごらん。あとね、相手がハルハルだからって、お上品に優しくしようとか思って正常位ばかりじゃだめよ。
 ほな、がんばりや~》

 変態オヤジのような言葉を最後に、倫子はケータイを切った。

 なんていうオンナだ……。
 こんな下品なオンナがあの上品な晴菜と親友というのが信じられない。

 崇行はふと気がついた。
 プレゼントの財布と時計のことをミッちゃんに頼むのを忘れたな。

 化粧室から帰ってきた晴菜は、倫子の言ってたとおり、化粧が少し濃くなっているような気がした。崇行のことを上目遣いで見て、花柄のキャミソールの胸元をいじったりしているところは、言われてみると確かに、誘ってもらいたいというサインなのかもしれない。

 できるだけ自然な調子で、倫子に言われたとおりにホテルに誘ってみた。
 内心ではドキドキだった。
 晴菜はあっさりとOKした。視線を下にそらしながら、でもはっきりと頷いてくれた。

 やった! 晴菜ちゃんと!

 夢にも昇るような思いだった。
 晴菜がくすくすと笑っているので、少し恥ずかしくなった。
「晴菜ちゃん? なに笑ってるの?」

 晴菜は、慌てたように少し口ごもるが、やがてこういった。
「その、ね、さっきね、私、タカユキってホモなんじゃないかって、本気で疑い始めてたところだったから」
 からかうように笑いかける。
「そういえば、今井クンの肩触るところなんかちょっとアヤシかったかな、とか考えてた。ほんと、ホモじゃなくてよかった」

「ちょっとカンベンしてくれよ!」
 浮かれている崇行もつられて笑う。倫子の言うとおり、晴菜がやきもきしていたらしいとわかって、少し嬉しかった。
 ホモだとまで言われたほど仲の良い今井弘充のために、越えてはいけない一線を越えようとしているという意識は、まったくなかった。

 ホテルまで歩いた。途中で晴菜とキスをした。晴菜を気遣って、優しく唇を重ねる。晴菜のほうは嫌がる様子はない。おずおずと崇行が舌を差し入れると、晴菜も受け入れてくれる。キスは一瞬だったが、崇行にしてみれば、憧れの晴菜との繋がりを実感できた、光輝く一瞬だった。

 ホテルの部屋に入ったとたんに、そっと晴菜が身を寄せてくる。崇行はキスの続きをする。晴菜は目を閉じて受け入れる。小野寺晴菜とキスしているんだと思うと、二度目のキスも感動は衰えない。
 じっくりと、優しく。そう思っていると、晴菜のほうから舌を伸ばしてくる。あの晴菜ちゃんが! 崇行は恍惚とともに、舌を絡ませる。晴菜がこたえるように、崇行の背中に回した腕に力を込めて、身体を密着させてくる。晴菜から漂う汗の匂いが刺激的だ。崇行は、晴菜の腰からお尻へと手を動かす。甘いキスを味わいながら、ジーンズに包まれた晴菜のお尻に触る。晴菜がかすかに腰をうごめかせる。ジーンズの厚い生地が恨めしい。
 すぐそのままベッドに押し倒したいくらいだったが、ぐっとこらえる。

 先に晴菜がシャワーを浴びている間、崇行はそわそわと、部屋の中を歩き回った。こんな胸の高鳴りは、初体験以来だ。
 まさに夢の一夜だ。小野寺晴菜と、本当にこんなことになるなんて。

 小野寺晴菜は、テレビや雑誌の中でしか見たことのないような、別世界の美女だ。崇行にとって天上の女性だ。大学ではじめて見かけたとき、そこだけ光が当たっているように見えた。ほかの女が一挙に色あせた。
 そんな美女が今井弘充とつき合い始めて、崇行も一緒に行動するようになって、崇行は、それだけで幸せだった。
 最初から崇行には手が届かない女だと思っていた。

 その晴菜ちゃんと、もうすぐ……。
 そう考えると、ぞくぞくと体が震えた。

 晴菜のあとにシャワーを浴びた崇行は、そそくさと身体を流して、ろくに身体も拭かぬまま部屋に戻る。ベッドに腰掛ける晴菜の元へ待ちかねたように向かう。
 照明を落とし、晴菜の隣に腰を下ろす。晴菜が身を寄せてくる。
 細い肩を抱く。3度目の口づけを交わす。
「晴菜ちゃん、好きだよ。こんなこと、夢みたいだ」
「うれしい」

 キスを繰り返し、そのつど互いに舌を絡ませ合う。
 予想外に晴菜の反応が柔軟で、行為に対して前向きなので、気負いしていた崇行も、リラックスできる。

 バスローブ越しに、背中に回した手で優しく撫でてやる。晴菜は上半身をなまめかしく揺らす。シャワーの熱湯の火照りが残った胸元から、ほのかな香りが匂い立つ。

 もしかして、シャワーのあとで香水つけた?
 晴菜ちゃんが、おれとの夜のために……

 崇行は、右手でうなじを下からそっとこすりあげてやってから、背中側からバスローブのなかへ手を入れる。その流れでバスローブをはだけさせて、乳房にまで右手を滑らせる。

 ああ、晴菜ちゃんのオッパイだ!

 下側から持ち上げるように乳房に触れる。吸い付いてくるような肌触り。そして、華奢な晴菜には似合わないくらいの量感。体型の割に意外とバストがあることは知っていたが、実際に触ってみるのは感動が違う。崇行はその乳房を、柔らかさを確かめるように揉み続ける。そして、乳房の上側のふもとにキス。少しだけ手のひらで乳首をかすってやってから、唇で乳首を愛撫。

 晴菜がローブの袖から腕を抜く。ベッドの上に二人で倒れこむ。

 崇行は、左の乳房をふもとからゆっくり上るようにして、愛してやる。上り詰めた乳房の頂上には、すこしつついてやるだけで、未練なく右側の乳房。

 これが晴菜だと思うと、いくらでも舐めていられる。もっとひたすら乳首に吸いつきたいのだが、ぐっとこらえる。晴菜にも、崇行との夜を味わって欲しいから、ちょっと焦らしてやりたい。

 舌で攻める対象を、鎖骨の辺りや、わき腹に散らす。
 晴菜の表情をうかがう。満足そうに、崇行に身をゆだねている。手の届かない存在だった晴菜が、すべてを崇行に任せてくれている。

 崇行は、そっと晴菜の左の乳首をくわえる。晴菜がかすかに身を動かす。感じてくれているのが嬉しい。舌先で丁寧につつく。愛情を込めて。
「素敵なおっぱいだよ」
「うふふ。そういうこと言うんだぁ」

 晴菜の横に寝そべる。晴菜の身体を横向きにして、背中側に回り込んでうなじにキスしながら、今度は右の乳房を手のひらで覆って、乳首をつまむ。耳たぶや耳の下にキスしてから、胸への刺激を優しく続ける。
 晴菜が嬉しそうな吐息をつく。

 晴菜の顔を覗き込むと、うっとりと遠くを見つめるような表情をしている。
 清楚だった晴菜の、見違えるようなその色っぽい表情を見ていると、崇行もたまらなくなる。
 先を急ぎたくなって、晴菜のショーツの前から右手を入れた。

 晴菜が、クスンと笑う。
「どうしたの? 急にせっかちになっちゃった?」
「あ、ごめん」

「ううんん。いいの。私も……」
 そう言って誘うように微笑みかける。吸い込まれそうな微笑。

 崇行は身を起こして、晴菜の下着を脱がせる。晴菜が腰を浮かせてそれに協力してくれる。その動きがとてつもなくなまめかしい。

 今すぐにでもつながりたい気持ちを、なんとか抑える。太ももの根元を優しく撫でる。晴菜が小さく太ももを開くので、それに答えて、女性器にも手を伸ばす。指で確かめる。かすかな湿り気を感じる。そっと撫でてやる。

「キャン」
 小さく声を上げて、晴菜が身をくねらせる。甘く囁く。
「タカユキ、ねえ、そこを、舐めて。感じさせて」

 晴菜がこんなことを口にするなんて。暴発を抑えないといけないのに、刺激が強すぎる。
 崇行は、晴菜に求められたとおり、舌を這わせる。まず外側から丁寧に。晴菜の香りを味わいながら。

「ンフン」
 かわいい声で、晴菜は、きちんと反応してくれる。

 下から上へ、掃き上げる。溢れ出す蜜の味を感じながら、真ん中から全体に舌を押し広げて、また掃きあげる。
 花びらに沿って指を軽く滑らせて、崇行は少しためらう。

 今、晴菜ちゃんのあそこに触っているんだ!

 崇行が動きを止めたので、晴菜が促すように下半身を動かす。

 晴菜ちゃんに、求められている!

 思わず逸って、粗雑に核の部分に触れてしまう。

 晴菜が、「アンン」と声をあげる。
「ダメ。強すぎるよタカユキ、もっと優しく」

 晴菜にたしなめられながらも、自分の指が晴菜の官能を動かしていることに、崇行は酔う。晴菜に求められるとおり、じわじわと、責める。晴菜の反応が高まる。何度も声を漏らす。

 ああ晴菜ちゃん。なんて可愛いんだ。

 これ以上、待っていられない。
「晴菜ちゃん、入れていい?」

「んふん」
 晴菜は、聞いているのかいないのか。ただ、崇行が覆いかぶさるようにすると、腰を合わせるように身体をずらし、足を開けてくれる。その動作で、受け入れてくれたことがわかる。

 いよいよ小野寺晴菜と繋がるんだ。興奮のあまり体が震える。
 気があせって大雑把に腰を突き出したせいで、うまく入らない。これじゃまるで初体験みたいじゃないか。
 知らず知らずのうちに先端がクリトリスに触れたらしく、晴菜が大きく声を上げて身体をくねらせる。

 腰を引いてからやり直した次の挿入もうまくいかない。
 大事なときに……。

 気が焦る。崇行の下半身のほうも、待ちきれそうにない。

 晴菜がもどかしげに唸り声を上げる。
「ンンン、タカユキ、早く」
 せかされている。晴菜に求められているという事実に、崇行は興奮する。だめだ、急がないと、ヤバいかも。

 興奮をこらえる。手を添えるようにして丁寧に入る。すっかりと準備のできている晴菜のあそこが、優しく迎え入れてくれる。包み込まれる。晴菜もそれを感じて、声を上げる。
 ついにそのときだ! 晴菜が潤んだ目で見つめている。なんて色っぽい表情だろう。崇行の運動に応じて、口を半開きにして、それを右手で押さえながら、言葉にならない声を上げる。それを見ているだけで、出してしまいそうになる。晴菜のあそこが優しく締め付けてきて、それに追い討ちをかける。

 だめだ、もっと晴菜ちゃんを感じさせてから。

 興奮しすぎないようセーブして浅めに腰を送る。晴菜にはそれが変化のある刺激になったらしい。大きく声を上げる。身体をくねらせる。それが崇行へのフィードバックになって締め付ける。

 崇行は自分を抑え切れなくなる。がむしゃらな抜き差しを繰り返す。

 ああ、晴菜ちゃん。愛してるよ。
 恍惚とともに、崇行の夢の1日は、最高の一瞬を迎えた。

 射精した後も、崇行は優しく晴菜を愛撫した。晴菜もそれに答えてくれる。晴菜も、後から遅れてイッてくれたようだ。崇行の身体をいとおしむように胸やお腹にキスをしてくれる。

 二人並んで横になりながら、しばらく幸せな余韻に浸る。

 突然、晴菜がシーツにもぐりこんで、崇行のペニスに指を絡ませる。
「うわっ、晴菜ちゃん?」
 晴菜が握ってくれるなんて思いもよらなかったので、驚く。早くも勢いを盛り返す。

 お腹のあたりからくぐもった声が聞こえる。
「もう1回したい?」

 晴菜ちゃんがそんなあからさまな誘いを……。
「い、いいの?」
「だって、私まだまだ足りないもん」

 なんて感動的な言葉だろう。この言葉を、大学中の小野寺晴菜ファンに聞かせてあげたい。
 一度関係を持ったからか、あの小野寺晴菜が、とても大胆だ。

「ね、いいでしょう?」
 晴菜が崇行の股間をあやしてくれる。
「もちろん。晴菜ちゃんとなら何回でも」

「ねえ、今何時?」
 ベッドサイドのデジタル時計を見る。1時……。

 深夜12時で魔法は解ける。

 はっと気がついた。
 行為の最中だがかまわずに、ベッドサイドの照明のつまみを回して明るくする。身体を起こして、勢いよくシーツをめくりあげる。

「きゃっ、恥ずかしいじゃない?」
 崇行の股間から顔を上げた女は。
 晴菜ではなく倫子だった。

 ああ、やっぱり……。

 昨日の1日が終わったと頭が認識した途端、崇行の全ての記憶がよみがえっていた。

 催眠術って、こういうことだったのか……。

 催眠術をかけられていたのは晴菜ではなく、崇行だったのだ。
 今日1日、倫子のことを晴菜だと勘違いさせられていたのだ。
 それが、倫子のくれた、一日限りの恋人の正体だった。

 そういえば、顔のパーツや、肌の色や、髪の毛のウェーブやら、普段見知っている晴菜と違うと感じることがあった。崇行はそれを、晴菜と接近できたからこそ得た、新たな発見だと思って喜んでいたくらいだったのに……。
 倫子のケータイからの指示が、晴菜の言動と、やたらと一致していたわけだ……。

 復活しかけていた崇行の一物が、瞬時に柔らかくなった。倫子は、つまらなさそうにそれを指先でつついていた。

 ショックで意気消沈している崇行のために、倫子は冷蔵庫から取り出した缶ビールのプルタブを開け、差し出してやる。崇行は、機械のようにそれを受け取って、一気に飲み干した。

 ばかな男。
 というより、かわいそうな男。

 倫子はもう1本缶ビールを渡してやる。バスローブを着たまま、椅子を前後逆向きにして腰掛ける。椅子の背もたれの上に両肘を置いて、そこに頭を乗せる。裾がはだけて見えそうだけど、ま、すでに一度寝ちゃった関係だし、晴菜のフリして上品ぶる必要もなくなったわけだし、いいか。

 そのだらしない姿勢のまま、崇行の様子を見守る。
 崇行がぼそっとつぶやく。
「全部、ミッちゃんだったんだ……」

「うん、そう」
 崇行が、倫子への恨みをぶちまけてきたりしないように、先回りして、さも同情ぶった口ぶりで話す。
「タカユキ、本当にハルハルのこと好きだったんだね。私、ちょっと感動しちゃった。あんなに思われてるなんて、ハルハル幸せだなって思っちゃった」
 話の焦点を倫子から晴菜にずらす。ごまかしと、耳に心地よいなぐさめの言葉。

 崇行は何ごとか口の中でつぶやく。
 財布がどうのこうのとか、腕時計がどうのこうのとか。

 きっと、今日1日の思い出を反芻しているんだろう。さっき全部ウソだとわかった思い出。
 てゆーか、最初から、全部ウソだとタカユキもわかっていたはずなんだけどね。でも、タカユキのやつ、かなりそのウソに入れ込んでしまってたからね。

 崇行の気持ちをなぞるように、倫子が優しい口調で、「あんなこといわれてうれしかったよ」とか「あのとき私もドキンとしたよ」などと、崇行の気持ちをかきたててやる。

 実際には、崇行の浮かれるさま、自分勝手な恋人幻想に、内心失笑していたのだが。
 倫子がちょっと笑いかけたり、好意をほのめかすだけで、崇行の奴、すっかり有頂天になってた。

 晴菜を演じてみて倫子が痛感したのは、晴菜という名前だけで、小野寺晴菜のブランドだけで、これだけ男が思い通りになるのかという驚きだ。倫子は、晴菜を演じながらおそるおそる、自分の(晴菜の)魅力を利用してみたのだが、それが全部、予想以上にハマる。
 とうてい自分では買えないプレゼントを、贈ってやるなどと言い出す。それから、「ペット捕まえた!」なんてウザいことを言って崇行にしがみついたときの、あのメロメロの表情。えっちしてても、倫子は晴菜ぶってほとんどマグロだったのに、崇行のやつ1人でコーフンして先にイッちゃうし。喫茶店での最初の一幕だって、言いがかりをつけてデートをすっぽかした挙げ句、男が追いかけてくるのを待つなんて、たいがいの女がやったら愛想つかされるだけのはずなのに、晴菜なら許される。
 それにしても、あの一幕は効果テキメンだった。崇行は、あれですっかり迷いがふっきれたらしい。逆に、入れ込みすぎるくらいに入れ込んでしまった。晴菜からのニセモノの恋心に、すっかり舞い上がってしまっていた。

 倫子は、嘲笑う内心を隠しつつ、親身な顔で崇行を慰めながら、崇行の感情を誘導した。相手の心に染み入るような優しい声で。

 崇行の中では、相反するいくつもの気持ちがぐちゃぐちゃに混乱している。

 隠し、押さえ込んでいた晴菜への恋心。それが久しぶりに揺り起こされて、過剰な刺激を受けたことで、不健康にくすぶっている。
 気持ちが満たされたと思ったとたんに、その満足感を全て失ったという喪失感。
 騙されたという思い。
 もう二度と晴菜の気持ちが崇行に向くことはありえないという、無力感。
 自分への誓いを破り晴菜や今井を裏切った罪悪感。
 ネガティブな感情を誰かのせいにしたいという気持ち。自分は悪くないと正当化したい欲求。

 実際、崇行は悪くない。恨むなら、倫子だ。
 だが、そうならない。
 ここに倫子がいるから。
 倫子があまりにも親身だから。倫子を恨めば、崇行の味方はいなくなる。

 適当に混乱させて、崇行がすがりつきたくなるような誤った理屈を与えてやろう。自分に都合のよい正当化をさせ、間違えた決断をさせてやろう。大事なところでは、催眠術を使って補強してあげてもいい。とにかく、崇行自分の頭で、道を踏みはずしてもらおう。

 倫子に慰められて、崇行の気持ちが落ち着く。倫子の甘い言葉に導かれて、崇行は混乱した心を、間違った場所に収める。
 倫子は言った。

「自分の気持ちを無理やり押さえ込んじゃダメよ。ちゃんと正直にハルハルに向かわないと」

「そういう意味で、今日のはよかったんじゃないかな」

「私、タカユキに口説かれて、ほんとにタカユキのこと好きになりそうになっちゃった」

「タカユキが、なんでいま、こんな喪失感を感じてるのか、考えてみてよ。最初から、ハルハルの気持ちはニセモノだってことわかってたのに、なんで今さら、こんなに心が苦しいんだろう?」

「それはね、きっとタカユキが、本当にハルハルのことが好きだから。この心の穴は、本当にタカユキがハルハルと結びつかないと、埋まらない」

「あんなにタカユキに思われるなんて、ハルハル幸せよ」

「今日のタカユキの選択を、ちゃんと自分で見つめるのよ。ハルハルと今井クンが幸せになることより、タカユキはハルハルへの思いを取った。それがタカユキの本心なのよ。その選択を軽々しく否定しちゃダメよ。自分の気持ちから逃げないで。自己否定のほうがラクなときもある。でも、ラクなほうに逃げないで」

「ハルハルのこと好きで好きでしょうがなくて、でも本当の自分から目をそむけてたっていう、これまでのタカユキのキモチ、私、なんかわかる気がする」

「私もしかしたら、タカユキのこと、ちょっと好きだったのかも」

「タカユキのえっちのやり方、優しくて好き」

「でも、現実に、タカユキがハルハルをものにできるなんてありえないよね。ハルハルって頭固いから、絶対に今井クンへのスジ通しそうだもん」

「なんで、ハルハルは、今井クンを選んじゃったんだろうね。単に、タカユキより先に今井クンに会ったってだけなんじゃないかな」

「私、タカユキの力になりたい」

「ハルハルとえっちしてるって思ったとき、どういう気持ちだった? これまで味わったことがないくらいキモチよかった? でも、所詮相手は私なのよ。ホンモノのハルハルとしちゃったら、もっとキモチよさそうと思わない?」

「男が女の子より先にイツちゃったらだめよ。
 でも、はじめてえっちする相手と、一緒にイッちゃうのって、むずかしいよね」

「こう考えたらどう? 今回のは予行演習だったって。本番では、本物のハルハルを、しっかりイカせちゃおうよ。あんまり相性ばっちりだったら、きっとハルハル、ゾッコンになっちゃうと思うよ」

「ねえ、ハルハルと今井クンって、どう考えても、タカユキの親切につけこんでるよ。自分たちのデートにつき合わせて、見せびらかしてるなんて。タカユキのこと馬鹿にしてるよ」

「私の催眠術ってすごいでしょ? 今日のでわかったでしょう? きっと私の催眠術を使えば、タカユキの心の穴を埋めるやり方が見つかるかも。一緒に考えようよ」

「せっかく性感帯教えてあげたのに、全然攻めてくれないんだもん。ちゃんと、後ろからえっちしながら、背中も気持ちよくして、って言ったのにぃ」

「ねぇねぇ、ハルハルを後ろからヤッちゃうのって、どういう感じかな? あのキレイなコが、ハダカで四つんばいになってるって、なんか、ソソるよね?」

 ……

 幻惑的で悪辣な言葉の数々。
 倫子はたたみかけた。繰り返した。ときおり、煙に巻くように急に話題を変え、崇行がまっとうなことを考える暇を封じる。そしてまたひとところに戻ってくる。順番を変え、言い方を変え、表から裏から語りかける。崇行の自尊心を満足させる。崇行の劣等感を掻きむしる。逃げようとする心につけ込む。信じる心をすくませる。

 下絵のあったはずのキャンバスに、細い線を何本も重ねて別の輪郭を描く。いつの間にか、下絵とは異なる別の絵が描かれていく。

 こうして、崇行は、魂の残り半分までを悪魔に売り渡した。

 次の日、4人でお台場に遊びに出かけた。
 見慣れたはずのものが、崇行には、新鮮に見えた。

 晴菜はやはり、昨日の「小野寺晴菜」とは違っていた。
 昨日の晴菜よりも肌は白い。唇はより小さくつつましく、瞳はより深く輝いている。髪の毛の色はより黒く、昨日のようにパーマはかかっていない。

 まったく違う。見違えたことが信じられない。

 そして、あらためて晴菜の美しさに感嘆する。胸が疼く。
 昨日、あんなに夢中になった「小野寺晴菜」よりも、はるかに美しい。倫子も美人だが、晴菜の前ではくすんで見える。

 これまで気にもとめなかった晴菜の動作や態度が、今日初めて見たかのように、崇行の心に引っかかる。
 崇行に見せる晴菜の笑顔は可愛らしい。だが、その笑顔が弘充に向かうとき、はるかに明るく輝く。晴菜の最良の部分は、弘充だけに与えられる。
 晴菜は、弘充だけを見ている。崇行のことは、晴菜の目にはただ映っているだけに過ぎない。崇行が左手首にはめている新しい腕時計には気づかないのに、弘充が着ているシャツのブランドは言い当てる。

 崇行と弘充は、女の子2人のためにソフトクリームを買いに行った。崇行は、両手にソフトクリームを持って、弘充より先に戻って来た。左手のソフトクリームを晴菜に差し出そうとする。晴菜はにっこり笑いながらそれを断った。

「ありがとう。でもわたしは後でいい、ヒロくんのをもらうから。それはミッちゃんにあげて」

 拒まれたような気持ちになる。気持ちが表情に出ないようにこらえる。

 崇行の手からは受け取れないというのか? 毒が入っているとでも思っているのか?

 崇行は、固い笑顔のまま、倫子にソフトクリームを渡す。
 倫子はそれを右手で受け取りながら、ニヤリと笑って左手で自分の財布を持ち上げて崇行に見せた。新品のヴィトンの財布だ。昨日、ヒルズで崇行が買ったものだ。

 それに答えて崇行も、左手首を胸元に上げる。新品の角ばった腕時計の文字盤を倫子に見せる。崇行は、デート中に自らに誓ったとおり、この腕時計を大切に使うことにしている。

 崇行と倫子の二人だけが知っている。
 裏切りの証。企みの証。密約の証。

 崇行と倫子は、目を見交わして、声を出さずに笑い合った。

< つづく >

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