きつねの眷属 第一話

第一話

「はあ!? 昨日、あんだけ言ったのに、アンタ、また忘れたの!?」
「……仕方がないだろ、昨日は忙しかったんだ」
「忙しかった、じゃないわよ。アンタねぇ……、自分が、どういう立場にあるかわかってる? 一組の副委員長なのよ? 生徒の見本にならなきゃいけないアンタが、こんな、遅刻だの忘れ物だの……、人が見たらどう思うかわからない!?」
「さてね。一つのミスにいつまでもうだうだ言い続ける委員長よりは、人望はあるつもりだけど」
「なっ……! も、もういいわ! 行きなさい! 明日、必ずよ! 明日忘れたら、承知しないからね!」

 …………。
 さらっさらの綺麗な黒髪をなびかせて歩み去る委員長、早桐 いくさを遠目に見やる。

 ふう。
 ようやっと解放された。

 俺は、机の上の鞄を手に取り、教室を後にする。
 やれやれ、まったく。
 放課後ぐらい、自由にさせてくれ。

 廊下に出ると、そこにはいつものように芹沢が居た。
 毎日毎日先輩の教室まで出迎えに訪れる、律儀な後輩だ。
 いまどき、本当に珍しい。

「あ……、天月先輩、おつかれ様です」
「ん、おつかれ」
「また、早桐さんに怒られてたみたいですね」

 出会い頭に苦笑される。
 それほどまでに、俺と早桐の小競り合いは定番のことだった。

「今日は、何したんですか?」
「資料を、忘れたんだよ。生徒会会議で必要とかいう」
「あー……、それは、先輩が悪いですね」
「いんや、早桐が悪い。あいつがパソコン使えないのが悪いんだよ。こんなのどう考えてもメールで送った方が早い」
「ははは……、先輩、本当に女性を敵に回すの得意ですよね」
「まあね。いまやクラスの女子の九割が俺を敵視してる。代わりに男子の九割が俺を支持してくれているが」
「僕みたいにですね」

 そう言い、芹沢は俺に、その天使の微笑みを投げかける。
 あー。
 なんで、こいつ男なんだろうなー。
 女だったら、迷わず十秒で抱いてやるのに。
 顔立ちは、とうてい男とは思えない色白童顔のプリティーフェイスなのだが、悲しきかな、芹沢はどう引っくり返しても生物学的に男性だった。

「今日、文芸部のほうはどうされます?」
「ああ、いや、行かない。体調がすぐれない」
「そうですか……、お大事に。僕はちょっと顔出してから帰ろうかと思うんで、階段でお別れですね」
「ん、そうなるな」
「おつかれさまです。お薬飲んで、しっかりお体良くしてくださいね」

 この社交辞令を、こうも心を込めて言葉にできるのは、世界中探してもこいつぐらいなものだ。
 風邪薬なんてものに頼るつもりはなかったのだが、ちょっとばかり薬局に寄って帰ろうと思った。

***

 思えば薬局などという場所に赴いたのは随分に久しぶりだった。
 たしかに俺はよく風邪をひくが、しかしその代わり治癒も早く、薬などを飲まずとも三日もすればまず完治する。そうである以上、その場所とは、本当に無縁に生きてきた、のだが。
 しかし。

 果たして。
 薬局屋の店員とは。
 その頭に、黄金色に輝く尖った耳を生やし。
 その尻に、ふさりと柔らかな尻尾を、いち、にい、さん、九本も、生やしていただろうか。

「いらっしゃいませー」
「……」
「…………?」

 目を、はなせなかった。
 明らかにそれは、何かの間違いだった。
 いったいどうして、この世の中に、狐の耳と尻尾を生やした人間などが、存在していようか。
 何かの、間違いだった。そう思ってはいても、俺は、その一見すると容姿も端麗な女の店員から、目を逸らすことができなかった。

「……あ、ひょっとして、見えてます?」
「…………!」
「何本ですか?」
「……九本」
「あら、すごい。全部見えてますね」

 ……何と、まあ。
 どうにも、今俺が見ているものは、間違いではないらしい。
 もしもこれが、夢でないとするならば。

「よっぽど強く、眷属の血を継いでいらっしゃるんですね……。あ、初めまして。見ての通り、狐です」
「何で、狐が薬局で働いてるんだ」
「趣味なのです」
「……」
「まあそれはそれとして。今日は、どういった症状ですか?」
「ただの風邪、だが」
「風邪……、というか、心労と疲れから来た体内環境の乱れみたいですね。何か、人間関係に悩んだりしてませんかー?」
「……別に」

 見ていて見慣れるようなものではないが、しかしむしろ今となってはその店員の馴れ馴れしさのほうが鼻についてきた。
 適当な薬を買って、早くここから出てしまおう。そしてしばらく、もうこの薬局には立ち寄るまい。
それが、自分にとって最善であるように思えた。

「あ、そうだ。それでは、せっかくですし、狐のよしみでこれをプレゼントしてあげちゃいましょう」
「…………?」
「シールです。これを身体に貼られた人は、貼った人のいうことを自然と聞くようになっちゃいます」

 透明なセロハンの上に四枚ほど貼られた、指の平ほどの大きさの赤い円形のシール。
 そいつを、その狐は、俺の手に半ば強引に握らせる。

「……こんなのを身体に貼られたら、誰だって剥がすだろ」
「一度貼られたら剥がせません。あと、わたしとあなた以外には多分見えません」
「まあ……、にわかには、信じられないな」
「ですよねー。だから、ただでプレゼントしちゃいます。効果としては、ごひゃく万円ぐらいもらいたいところですが、そんなことを言ってもどうせ払ってくれないと思うので」
「そうだな」
「だから、代わりにおくすりを買っていってくださいな。ほしいだけでよろしいです。……ああ、そういえば、そのシール、すこうし副作用がありまして。貼られた人は、貼られたところがとっても敏感になってしまうのです。お気をつけて」

 その狐の言葉の後半は、もう俺はほとんど聞き流してはいたが。
 ともあれまあ、初めから買う予定だった頭痛薬の分の代金を払い、小さなビニール袋にそいつとその奇っ怪なシールを詰めて、薬局を後にした。

***

 家路。
 俺は、不覚にも、少しわくわくしていた。

 まさか、あの狐の言葉を全て信じたわけではないが。
 しかしそれにしても、そいつが少なからず何か不思議な力を秘めているということは、何とはなしに俺自身感じていた。

 と、するなら。
 どいつか、無難な相手に、その力を試してみるほかは、ない。

 そして、無難な相手というならば。
 我が義妹、玉藻に他はない。

「ただいま」

 家の扉を開ける。
 いつもなら、その帰りの表明の言葉にほとんど間髪を入れず、あいつの呼応が帰ってくるはずなのだが。
 仕方がないので、ゆるりと靴を脱ぎ、今に向かう。すると、キッチンから、なんとも香ばしいかおりが漂ってきた。

「……あら、おかえりなさいまし、おにいさま。ちいとも気付きませんでしたわ」
「ただいま。珍しいな、お前が料理か」
「ええ。今日は、おかあさまがお帰りにならないそうなので。メールが届きませんでしたか?」
「うん?いや、確認してない」
「そうですか。まあ、そういうわけなのですよ。というわけで、玉藻は今ハンバーグを焼いているのです」

 ハンバーグ。
 そんな洒落たものが作れたのか、あいつは。
 そのこともまた少し興味をひいたが、しかし、今はそれよりも。もっと試したいことがある。
 俺は、キッチンに向かう、そいつの背後に歩み寄り。

「玉藻」
「なんですの? 今、手がはなせませんの」
「一瞬でいいから、こっち向いてくれよ。一瞬でいいから」
「んー……、一瞬ですわよー」

 呟きながら、しぶしぶと後ろを振り返る、玉藻の鼻の頭に。
 ぴとり、と。
 その、真っ赤なシールを貼り付ける。

「……? なんですの?」
「いや、実はなんでもない」
「もー。忙しいって言ってるですのにー」
「悪い悪い。ところで、玉藻。そのハンバーグ、材料が足りてないんじゃないか?」
「? そ、そうですの? 玉藻は、おかあさまのおっしゃったとおりに作ったつもりなのですが」
「うむ。足りない足りない。ハンバーグってえのには、隠し味で唾液を入れるもんなんだぜ」
「……? そうなんですの?」
「…………! ……お、おう、そうだとも」

 なんと。
 い、いやいや。まだ、まだわからない。
 ひょうっとしたら、また玉藻の天然スキルが発動しただけかもしれない。まだ、シールの効果だと断言するには早すぎる。

 それならば。
 もう少し、過激な方法で、試してみればいい。

「ですが、おにいさま。どれほどの分量でいれればいいんですの? さじを使えばよろしいのですか?」
「ああ、いいや。その前に、ちょっと、玉藻の唾液の味見をさせてくれ。その味つきで、分量を決めるから」
「なるほど。いいですわよー」
「……。よ、よし、それじゃ、俺の人差し指を舐めて、唾液をつけてくれ。それで、味見するから」
「了解ですの。あむ」

 軽く、身体に電流が走る。
 おい、おいおい。
 この、さしもの玉藻といえど突っ込みどころ満載であろう超理論を、しかしこいつは何の疑いも無しに俺の指をほおばり。
 その全面を、ぴちゃぴちゃとその舌でなんともエロティックに舐めまわしている。

「……ん、む……、おにいひゃま、どれぐらいつければいいでしゅの?」
「あ、ああ、いや、もういいぜ。はなしてくれ」
「ひゃい。ん、ふぅ」

 玉藻の小さな口元から引き抜かれた俺の指には、その透明の唾液がぬらりと妖しく光り。
 実際にほおばり、舐めてみる。ほのかに甘く、あぶない蜜の味がした。

「ああ……、これなら、オッケーだな。小さじ一杯分くらい加えて、ソースに混ぜてくれ」
「小さじ一杯ですの?なかなか、多いですわね」
「一度に無理なら、小分けでも構わないから。おいしいハンバーグのためによろしく頼むぜ」
「りょーかいしました。がんばりますわー」

 あ、ああ。
 がんばって、作ってくれたまえ。
 おにいさまは、少し考えるべきことができてしまった。

***

 なんとも、まあ。
 ご都合主義なことだ。
 あったらいいなを形にしてみました、という感じか。全くもってありがたい親切心だとは、思うが。

 義妹の唾液をふんだんに使ったハンバーグを咀嚼し終え。
 手にしてしまった魔法のアイテムの効力にどこか薄ら寒いものさえ覚えながら、俺は、居間のソファの上、自分が次になすべきことを考えていた。

「もー、おにいさま。後かたづけはちゃんとやってくださいまし」
「ああ……、悪い」
「肉料理は水につけないと汚れが落ちないですのよー」

 口ではそんなことを言いながら、しかしさほど不快感を表には見せず、玉藻は俺の食器を流し台に運ぶ。
 再婚した義母の連れ子の、少し年の離れた義理の妹。年以上に背は低く、小柄。漆のような光沢を持つ黒いお下げ髪がかわいらしく、日本人形のような独特の美麗さを持つ少女だ。
 俺は、溺愛している。

「玉藻、片付けが終わったらちょっとこっちに来てくれよ」
「はいな。すぐ行きますの」

 とてとてと歩み寄る玉藻を見て、決心が固まった。
 こいつを、俺のものにしよう。

 このシールの効果は、どうやら完全に本物らしい。
 と、するなら、こいつを使って玉藻を俺の思うように改変することはまっことたやすいことではあるが、しかし、その前に。

 副作用、とかいったか。
 このシールを貼られた人間は、貼られた部位が極度に敏感になってしまう、のだとか。
 俺のイメージする「敏感」という言葉の意味が、まったくそのままこいつに適用されるとすれば、それは副作用でもなんでもなく、まさしく望むところに他ならないのだが。
 まあ、それも、今から。玉藻の身体で、ゆっくりと確かめよう。

 俺は。
 確か、あのシールを、玉藻の“鼻”に貼った。

「玉藻。もうすぐ、お前の誕生日だったよな」
「え? ええ。すぐと言っても、ひとつき後ですけれど」
「プレゼントが思いつかないんだが、お前の好きなものってなんだっけ?」
「玉藻の好きなもの、ですか? お饅頭とか、詩集とか……」
「ああ、あと、俺の靴下だろ?」
「え?」
「俺の靴下のにおいが好きだって、お前、まえに言ってただろ」
「あ、ええ……、そうでしたわね。はい、玉藻は、おにいさまのお靴下の薫りが大好きです」

 ほう、そうか。
 なんとまあ、変態的な性癖をもつ義妹を持ったもんだ。

「じゃあ、まあ、一ヶ月早いけど。ほい、靴下プレゼント。ぬぎたてほやほや」
「え……。い、いいんですの?」
「いいよ、一つぐらい。ただ……、それより、お前、いつも俺の靴下でオナニーしてるんだろ?」
「な……っ! ど、どどどどどうしてそれを」

 シールの効果は、今の認識だけでなく過去の記憶をも書き換えてしまえるらしい。
 義兄妹として最も後ろめたい秘め事を知られていたという、ありもしない羞恥の幻想に顔をゆがめる玉藻。
 まったくどうして、俺の嗜虐心をそそる表情だ。

「なら、せっかくおにいさまが直々にプレゼントしてあげたんだから……、勿論、今この場でそれを使ってオナニーするよな?」
「え、でも」
「でもじゃないだろ。大好きなおにいさまに見てもらえるんだ。願ったりかなったりじゃないか」
「大好きな、おにいさまに……」
「大好きなおにいさまに見てもらえれば、いつもの十倍気持ちよくなれる。玉藻は気持ちよくなりたい。おにいさまの靴下でオナニーするところを見てもらいたい」
「おにいさまに……オナニーを……」
「どうするんだ、玉藻。オナニー、するのか?」
「はい……。おにいさま、玉藻がおにいさまのお靴下でオナニーするところを、見ていてください」

 玉藻は、どことなくとろんとした目つきでそう呟いて。
 黒いワンピースをまくりあげ、やや前傾気味にそのショーツの上から指を這わせはじめた。

「……ん、ぅ…………」
「靴下は、いつもどうやって使ってるんだ?」
「おにいさまの……お靴下は……、いつも、こうやって、においを……ん、ふぁっ!?」
「どうした」
「おにいさまの、おにいさまの、お薫りが、ぁ、ふぁあ、いい、いいです、すごい、におって、玉藻の、だいすきなにおいぃ」

 下着の上からでありながら、しかし、我を失ってしまっているのか、それを貫かんばかりの勢いで、 玉藻は狂ったように自慰を続ける。
 「いつもの十倍」という暗示が効いているのだろうか。しかしそれにしても、作られた性癖でよくもまあここまで乱れることができるものだ。
 そういうところからも、このシールの効果の絶大さが量られるということか。

「は、ひやぁ、もう、ダメです、おにいさま、玉藻、こんなの、すごくて」
「おい、もうイくのかよ。いくらなんでも早すぎるだろ」
「らってぇ、こんな、きもちよすぎるんですのぉ、おにいさま、おにいさまのにおいが、ひろがって、あたま、まっしろでぇ、イきたい、イきたいんですぅ」
「まだダメだ。そうだな……、なら、手使うのをやめろよ。鼻だけ、俺のにおいだけでイくんだ」
「んんぅっ……、におい、だけ……、おにいさまぁ、おにいさまの、においがぁ、玉藻のぉ、やぁ、くさいぃ、くさいですのぉ」

 俺が手を使うなと言った瞬間、激しくうごめいていた玉藻の腕はぴたりと止まり、代わりに、まるで犬のように俺の黒いタイトソックスに鼻をうずめ、惚けたように熱い吐息を漏らす。
 どこからどう見ても、玉藻はもう普通の人間ではなくなってしまっていた。

「まったく、どこまで変態なんだ、お前は」
「へんたい、玉藻、へんたいぃ……、らってぇ、おにいさまの、かおりが、くさすぎるんですのぉ、くさくって、あたま、おかしくなっちゃうんですのぉ……」
「まさか、本当ににおいだけでイくつもりじゃないだろうな。もしそんなことになったら、お前、もう本格的に戻って来れないぜ。俺のにおいを嗅ぐだけで欲情し、俺のにおいがないとイけない牝豚になるんだ」
「めすぶたに、なるぅ……、おにいさまの、においでぇ……」
「嫌なら、我慢するんだ。だが、これから先、お前はそのにおいを嗅ぐたびにクリトリスを押しつぶされるほどの快感が走る。お前は、一度息を吸うたびに絶頂の直前まで登りつめる」
「ひゃ、あぁ、いや、おにいさま、においぃ、ひぃっ、くさいのに、きもちいいのぉ、ひぁっ、やぁ、イきたいぃ、おにいさま、おにいさまぁっ」
「イきたいなら、イけばいい。手伝ってやろうか?よし、玉藻、それならお前は、さと三回息を吸った瞬間、絶頂に達する。その瞬間いつもの百倍の快感が走り、お前は俺のにおいがないと生きていけない変態奴隷に生まれ変わる。さあ、息を吸え!イっちまうんだ!」
「やぁ、いき、すいたく……、ひ、ひぃやぁぁぁぁぁぁっ!? あ、あひっ、い、いひぃぃぃぃっ! い、イってりゅぅぅぅっ、ひぃっ、あ、あひぃっ、くしゃい、やぁ、おかし、おかしくなりゅ、あたまぁ、へん、に、おにいさま、おにいさまぁぁぁぁっ!!」

 ほとんど断末魔のような叫び声をあげ、玉藻は激しすぎる絶頂と共に意識を失った。
 白目を剥き、いまだ、ぴくりぴくりと痙攣を起こしている。……少し、やりすぎたか。初めてのことで勝手がわからなかったといえばそれまでだが、しかしそれにしてもこれはさすがに無計画すぎた。結果玉藻を俺のものにするという望みは果たせたものの、しかし、反省すべき点はいくつもありそうだ。

 ともあれ。
 このシール、なかなかに使い道がありそうだ。
 枚数に限りはあるが、しかし、これを本当に使うべき相手というのもまた、限られている。

 ぱっと思いつく限りでは。
 委員長、早桐 いくさ。

 俺は、気を失った玉藻をソファに寝かしながら、自分が明日なすべきことを考え始めた。

< つづく >

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