第01話
チュパ。ジュル……チュポン! ピチュ。クチュ。
五十インチの大きな液晶画面一杯に映し出された巨大な二つのピンクの物体。
卑猥な水音を立て、粘液を滴らせ、ナメクジの交尾のように、ぬめり、のたくりあう――それは求め合う舌と舌。
(……これは……何?)
姫宮 聖美(ひめみや きよみ)は、驚きのあまり、画面を見つめたまま、ただ呆然と凍り付く。
『はぁ……はぁ……はぁ……』
画面が少し引き、唾液でヌラヌラ光る唇と唇とが、互いに互いを吸い合う様が明らかになる。
情欲に燃えたディープキス。
カメラが近すぎて、ほとんどが鼻からアゴのラインにかけてのアップなので、よく分からないが、線が細くまだ髭剃り跡も見当たらない若い男性と、おそらく年上の女性とが無心に唇を貪り合っている。
個人撮影のビデオ――それもカップルが互いの合意の上で撮影したもののようだ。
(……私……一体、何を見ているの?)
山奥の湖畔に建てられた別荘の朝は爽やかで、まばゆい日差しが差しこむ広々した寝室には窓から樹々のざわめきが聞こえる。
だが、そんな朝の風景は今の聖美の意識には全く届いていない。ただただ、寝室に備え付けられた大画面に映し出される映像の異様さにひきずり込まれて行く。
『ん! んんっ! んっ!』
どうやら、ビデオカメラを握っているのは男性の方らしく、時折、キスに夢中になるあまり、画面が大きく揺れる。
一瞬、カメラが下に向き、大きなむき出しの乳房が男性の薄い胸板を直接圧迫しているのがチラリと見えた。
(裸?! それじゃ、やっぱりコレって……)
「アダルト……ビデオ?」
聖美は嫌悪感に無意識のうちに眉をひそめる。
元がお嬢様育ちの聖美でも、それがいわゆる『ハメ撮り』という部類に属する映像である事は分かる。
しかし、聖美本人は三十*歳になる今までこんな『プライベートかつ露骨に性的な映像』は見た事が無かった。
無論、アダルトビデオ自体は好奇心旺盛な中学生の頃、興味本位で同性の友人と数回『見学会』を行ったはある。しかし、いずれもソフトなものばかりで今では記憶にも残っていない。
十八歳の若さでいわゆる『出来ちゃった結婚』をした身としては、ことさら、清純派を気取るつもりもないが、十*年間ひたすら息子の健やかな成長を願って来た『母』にとって、それはあまりに縁遠い世界だった。
(でも……でもコレ、マー君が、私に『見て』って――)
最初はタチの悪いイタズラだと思った。
自分は一人息子の雅人(まさと)に担がれたのだ、と。
ついさっき、確かに雅人はこう言った――『ママに僕の恋人を紹介したいんだ』と。
そう言って、少し緊張の面持ちで白地に手書きラベルのDVDを手渡してきたのだ。
聖美は驚きと、息子の成長の証としての誇らしさと、かすかな寂しさとを同時に感じ、困惑せずにはいられなかった。
(マー君、女の子に全然興味なさそうだったのに、いつのまに――でも、そういえば、幼稚園の頃からかなりモテてたもんね。あー、でもでも、イキナリ『恋人』って早すぎない? キミまだ*学二年生でしょ? うー……今の子ってこういうの早いのよねぇ――どうしよう、変なコだったら? だいたい、『DVDで紹介』って何? ホントにもう! イマドキの子と来たら! ちゃんと家に連れてきて紹介してくれなきゃダメじゃない、マー君! あー、だけど、イザ本人を目の前に連れて来られたりしたら、私、色々アラ探しをしちゃいそぅ……うん、きっとするな。それが分かっててわざわざこのタイミングで持って来たなら、作戦勝ちよね。ああ、どうしよう。見たいような見たくないような……)
などなど、複雑な心境のまま受け取ったDVDをプレイヤーにかけ、再生を始めた聖美だったのだが――
『あ……ダメ! あっ! あっ!』
不意に画面が切り替わり、男性のピンク色の乳首がチロチロと舌先でねぶられる様がアップになる。どうやらカメラの持ち手は男性から女性に変わったらしい。
声の感じからすると『男性』というより、まだまだ『少年』という言葉が似つかわしいようだ。
可愛らしくツンと固くなった小さな突起の上で、ウネウネとこねまわすように女の淫らな舌がうごめく。
ツンツンと軽くつついたかと思うと、急にむしゃぶりつきチュウチュウと音を立てて吸い付く。
『うっ! あっ! ああっ!』
『うふふ』
女は明らかに『少年』に嬌声を上げさせる事を楽しんでいる。
荒い鼻息に内心の興奮が表れていた。
少年も決して嫌がってはいない。快楽に素直に身を任せている。
それは一切演出の無い、ありのままの男女の肉欲の宴だった。
(……マー君、どうしてこんなもの見せるの――私に?)
イタズラ――なのだろうか?
『恋人を紹介する』と偽って母親にアダルトビデオを見せる――*学二年生の少年としては少々悪趣味が過ぎるような気がする。
だが、実際のところ、自分は少しホッとしたのではないか? 『変なコ』を紹介されなくて済み、安堵が半分、残念さが半分というのが今の偽らざる素直な心境だ。
笑い飛ばすべきか、少し真面目に怒るべきかを考えはじめた矢先、聖美は初めて“ソレ”に気付いた。
『だ、ダメだよぉ! 僕、もう感じすぎちゃうよぉ!』
ドクン!
心臓が大きく脈打つ。
この、甘えるような少年の声――には聞き覚えがある。
いや、『聞き覚え』などという言葉ですむ話ではない!
「まさか……まさか……そんなっ!?」
急にカチカチと鳴りはじめた歯を押さえるかのように、口元に手が上がる。
信じられない、という表情で首が小さく左右に振られる。
しかし、そんな聖美をあざわらうように、カメラは少年の顔を下からのアップで、はっきりと映し出す。
『あっ! そこ、気持ち良い! いいよおぉ!』
すっと通った鼻筋、紅い唇、切れ長の二重の目――少女のようにも見える美少年が、だらしなく快楽に顔を歪める。
「マー、くん……」
聖美の全身からサーッと血の気が引いていく。
『ああ! もっと! もっとナメて! は、反対側もっ! ああんっ!』
大画面一杯に恥態を晒し、あられもない声を上げているのはまさしく最愛の我が子、姫宮雅人に他ならなかった。
「え? ちょ――ちょっと、待ってっ!? それじゃあ……」
(『恋人』!?)
まるで、自分に関係ないと聞き流していたニュースに、知合いの名前を見つけた時のように慌てふためく。
「そんなっ! まだ*学生の子供によくも……よくも、こんな恥知らずな真似をっ!」
遅まきながら相手の女性に対する、激しい怒りと困惑とがこみ上げてくる。
あまりの嫌悪感に吐き気すら感じる。
(一体全体、どこの誰なのっ!?)
目をつり上げた憤怒の形相で、もう一度最初から見返そうと、リモコンに手を伸ばしかけた瞬間――最愛の一人息子の柔肌に舌先を這わせている、憎っくき淫乱女の横顔が大写しになる。
「――え?」
聖美はポカンと口を開け、また、その場で固まる。
『あはっ! マーくんてば、かわいいこえっ!』
汗にまみれ頬を紅潮させ、少年のあげる嬌声にますます舌を激しく動かす美女。
大きな二重の目に、くっきりとした眉、形の良い唇と、スッと通った鼻筋。
人形のようになめらかな白い肌は興奮に紅く染まり、うるんだ瞳で雅人に微笑む。
少女のように可憐だが同時に成熟した妖艶さも感じさせるその淫らな表情はゾッとするほど美しい。
(コレハ……ダレ?)
一目はっきりと見た瞬間に、すでに答えは出ている。だが、意識が、理性が、なにより、自分の中の『良識』が“ソレ”を認める事を頑なに拒む。
(コレハ――コレハ――コレハ――コレハ――コレハ――)
思考停止――それは恐ろしい衝撃から心を守るための自己防衛。
何も考えられず、聖美はただ画面を見つめ続ける。
(ナニヲ……ミテイルノ……ワタシ? コレハ……ユメ?)
夢なら醒めて欲しかった。それも今すぐに。
だが、『悪夢』という名の『醒めない現実』は、聖美をがっちりとその顎にくわえこんで放さない。
『ねぇ……ねぇ、マーくぅん。ママのオッパイもナメナメしてぇ!』
『うんっ!』
ゾッとするほど自分に良く似た美しい顔が、ゾッとするほど自分に良く似た甘え声で、ゾッとするほどおぞましい行為を息子にせがむ。
「そんな……そんな……」
プツプツと全身に鳥肌が浮かぶのを感じる。
『わぁい!』
巨大な液晶画面の中では実物より遥かに大きく拡大された美乳に、喜色満面といった様子で息子がむしゃぶりつこうとしている。
『ねぇ、ママ。またオッパイ少し大きくなってるでしょ?』
『ふふ。マーくんが、たくさんたくさんモミモミするからだよ』
『だって、ママのオッパイ、柔らかくて触ってると気持ちいいんだもん』
『……アン!』
ずっしりとたわわな乳房を手に収めた雅人は、嬉しそうにニギニギと優しくそれを握り、白い肌に指が埋まるのを楽しむ。
「やめて……」
『ねぇねぇ、マーくん。ママね、はやく、オッパイでるようになりたいなぁ』
『きっと、もうすぐだよママ。僕、うーんと頑張るからね!』
『うん! はやく、かわいいあかちゃんうませてね!』
「お願い……やめて……」
『それまでは、こうやって僕が……』
『あぁん! あかちゃんはそんなエッチなしゃぶりかたしないよぉ、マーくぅん!』
「やめてやめてやめてやめてやめて! やめてええええええっ!」
絶叫してテレビに駆け寄り、コンセントを引き抜く。
プツン。
途端にあたりは、樹々のざわめきだけが聞こえる穏やかな朝に戻る。
「い、一体……どういう事なの、これは――」
荒く息をつきながら、頭をかきむしる。
今見たものが全く理解出来ない。
世の中でよく言う『CG』や『合成映像』というものなのだろうか? それにしてはあまりにリアルな映像である。一見した限り息子の雅人と聖美本人にしか見えない。
破滅的におぞましい『有り得ない行為』をしている、という一点さえ除けば、全てがごく自然な映像だった。
もし、これを他人が見たら――
「あーあ、ちゃんと最後まで見て欲しいなぁ」
背後から聞こえた声にビクッと振り返る。
「……マー君」
寝室の入口には、いつのまにかからかうような表情を浮かべた雅人が立っていた。
「それ、せっかく徹夜で編集したDVDなんだから、さ」
一人息子は、混乱する美母に向かい、意味有りげにウィンクしてみせる。
■■■■
姫宮家が一家三人揃って別荘に出かけたのは、ゴールデンウィーク初日の事である。
夫の洋三(ようぞう)の仕事が忙しさを増し、一人息子の雅人が*学生になってからは、こんな風に家族揃って旅行するのは極めて珍しい事だった。
“今年は丸々一週間、別荘でのんびり過ごすぞ!”と、いつものように洋三の提案は唐突で強引だったが、最近、『家族全員参加』という押しつけを嫌がり始めた微妙な年頃の雅人が、珍しく何の異議も唱えなかったため、話はトントン拍子に進んだ。
世間一般の平均から考えるとだいぶ裕福な部類に入る姫宮家の別荘は、人里離れた山奥の美しい湖のほとりに建てられている。
ありがちな観光地などではなく、洋三の仕事の知合いが一族で所有する私有地に無理を言って建てさせてもらったもので、そこは静けさといい、景色の美しさといい文句のつけようのない、まさに『別天地』と呼ぶに相応しい場所だった。
もっとも『便利さ』と『静けさ』は大抵トレードオフの関係にあるもので、『文句のつけようの無い静けさ』とは言い替えれば『とても不便』という事である。
一番近い町からの距離は約二十キロ。あたりに民家や店は無く、携帯の電波も届かない。飲み水は湖から引いた水を洋三の会社で取り扱っている特殊な濾過装置で浄化している。これも『フィールドテスト』と称して無理矢理取り付けさせたものだ。
さすがに電気と電話線は引かれているのだが、もし何かあった時の事を考えると、正直、聖美は不安を隠せない。しかし、何事につけ過剰なほど自信家の洋三は、妻の心配を一笑に付した。
念のため、地下室には正副二系統の発電機が有り、また、万が一の連絡手段として、今時は珍しいハム無線装置も備え付けられている。ボタン一つで二十四時間体制で待機している管理会社に連絡が行くようになっているので安心だ、と。
機械に弱い聖美としては、扱い方の分からない発電機や無線など、何の安心材料にもならないのだが、雅人は二、三回説明を聞いただけで使い方をマスターしたようで、聖美は『イザという時』には、このいつも冷静な息子に頼ろうと内心で決めていた。
「ああ、ここの空気はやっぱり美味しいわねー、マー君!」
長時間のドライブに強ばった体をほぐすように大きく伸びをしながら、聖美は嬉しそうに雅人にニッコリと微笑む。
広々とした間取りの別荘は二階建てで、美しい湖を一望に出来る絶好の場所に建てられている。
買物の不便さなど、幾つかの不満点はあるが、ロケーションとして最高な事は間違い無い。
「そうだね、ママ」
いつものように静かに微笑みながら雅人は答える。
(ふふ。久しぶりに、うーんとのんびり出来そうだわ)
「ほら、さっさと車から荷物を運ぶんだ。時間を無駄にするな!」
「はいはい」
(あらあら、のんびりしにきたんじゃなかったの、パパ?)
洋三の言葉に内心苦笑しつつも聖美は素直に従う。
せっかちでワンマンで、何でも自分の思い通りに進むと思っている所が困り者だが、夫の洋三は基本的に決して悪人ではない。
一回り以上歳が離れた自分との『できちゃった結婚』も、周囲からの強い反対を押し切ってのものだったが、『生まれてくる子供のため、きちんと責任を取る』という責任感と誠実さに嘘はなかった。
(私は……幸せ、よね?)
裕福で何の不自由も無い生活、素直で優しく賢い息子、仕事が生きがいの夫――全てが順風満帆の日々。
だが、自らにそんな問いかけをする事自体、気付かぬうちに『満ち足りない気持ち』を抱えている証拠だと、聖美は気付いていない。
(そういえば、最近、マー君とゆっくりお話しする時間が無かったなぁ……)
*学生ともなると、部活動や試験勉強などで『親の預り知らぬ時間』が次第に増えていく。手がかからなくなった――と言えば聞こえはいいが、内心、聖美は一抹の寂しさを覚えていた。
(昔は『ママ! ママ!』って、私の事、いつも追いかけてくれたのに)
湖を見つめる雅人の横顔をソッと盗み見る。
サラサラした柔らかな髪を風になびかせる少年は、母親の目から見ても美しかった。
サッカー部で鍛えている体はスリムだが、見る者に躍動感を感じさせる。
深く青い湖を見つめる謎めいた美少年――もし、自分が同い年の少女だとしたら、たまらず恋に落ちてしまうだろう。
(ねぇ、マー君――いつまでこうして、私達と一緒にいてくれるの?)
ほのかに胸が痛む。
「何!? 採決は明日だと?! 動議は不採択だったんじゃないのか? え? ……曾根の奴が!? クソッ!」
到着して荷物を整理する間もなくかかってきた電話に答える洋三の顔がみるみる不機嫌になっていく。
「わかった。……ああ、何度も繰り返すな。すぐ向かう」
ガチャン! と荒々しく音を立て受話器を置いた洋三が、苦虫を噛み潰したような表情で聖美に謝る。
「すまん――そういう訳でワシは戻るが、お前達はゆっくりしていきなさい。ああ、それとママ、ハイヤーを呼んでくれないか。さすがに最終日までには戻れると思うが、車のキーは一応渡しておく」
「……はいはい」
仕事の都合で休暇の予定が急に変わるのは、もう馴れっこになっているので、聖美は諦めの表情で鍵を受け取る。
「雅人、ママを頼んだぞ」
「……ん」
肩をすくめ、言葉少なに雅人が答える。
反抗的――とまではいかないが、洋三に対してはあまり素直に従う様子は見せない。
自分に対しては昔から聞き分けの良い手のかからない子供だったが、父親相手には、常にどこか醒めた視線を返す。
(――『ソリが合わない』ってこういうのを言うのね、きっと)
いつか、二人が本格的にぶつかる日がくるのではないかと、内心ハラハラする聖美だが、どちらを応援するかと言えば最初から決まっていた。
(マー君の方が、よっぽどオトナだもんね。……ふふ)
「じゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい。気をつけてね、パパ」
迎えの車に乗る洋三を門のところで見送った聖美は、なんだか自分がウキウキとした気分なのに気付いた。
まだまだ日差しは明るく、湖を渡る風が優しく頬を撫でる。
木洩れ日の中を歩く聖美の頬にイタズラな少女のような微笑みが浮かぶ。
(……そっか。これから何日間か、マー君と二人っきりなのね)
「パパには悪いけど、今晩はうーんとご馳走作っちゃおうかしら――ふふふ」
玄関のドアを開けた聖美は、リビングのソファーに座って文庫本を読んでいる雅人に呼びかけた。
「ねぇ、マー君! 一緒に――」
……。
…………。
………………。
(――ハッ!)
「あ……あれ?」
明るい日差しの差し込む、広々とした寝室で聖美は目を覚ました。
特注品のキングサイズのベッドが、ふかふかと全身を柔らかく受け止めている。
(え? 私――いつの間に寝ちゃったの?)
「えーと……」
壁にかかっているデジタル時計で時刻と日付を確認する。
「八時って、コレ、朝……よね?」
昨日の昼に到着してから、確かに約一日が経過しているようだ。
(あれあれあれぇ? 私、昨日の晩、ワインでも開けたのかしら?)
聖美はアルコールにかなり弱い方で飲むとすぐ眠くなってしまう。
ちゃんとパジャマに着替えてベッドにもぐり込んでいるところを見ると、さほど酒癖悪く暴れた訳でもなさそうだが、昨日の昼から夜にかけての記憶が全く無い。
(……うーん。なんか、損した気分)
「えーと、確か、パパを見送った後……マー君を呼んで一緒に――アレ? 私、一緒に何するつもりで声かけたんだっけ? お散歩……かしら?」
今ひとつ釈然としないまま首を捻っていると、ドアを叩く音が聞こえた。
コン、コン。
「ママ、おはよ」
器用にトレイを片手で支えながら、雅人がドアを開けて入って来る。
朝シャンでもしたのか、ふわりとシャンプーの匂いを漂わせる息子は、すでにデニムのジーンズにワイシャツというラフな格好に着替え、その上からエプロンを羽織っていた。
「はい、モーニングセット」
そう言って聖美に手渡したトレイには、オレンジジュースにトーストにスクランブルエッグにカリカリのベーコン、と爽やかな朝にぴったりのメニューが載っていた。
「わ、スゴーい! これ、マー君が作ってくれたのっ!?」
「うん」
はにかむような笑顔が浮かぶ。
(うっわー。我が子ながら……末恐ろしいほどのサービスぶり。こんな事されたら、どんな娘でも一発でホレちゃうわね。むーーーー)
急に難しい顔になった聖美を見て、雅人が慌てて尋ねる。
「……え? ママ、なんか気に入らない? ひょっとしてオレンジジュースじゃなくて、コーヒーかミルクの方が良かった?」
「え? あ! ううん、違う違う! どれもすごく美味しそう……だけど――」
「だけど?」
(うーん。『マー君たら、一体どこの女の子にこんな事してあげるのかしら!』……なんてイヤミ言えないなぁ)
「と、とりあえずいただきまーす! ……あ! 美味しい~!」
「ほんと? ……よかった」
ホッとした顔を見せる雅人に、なんだか胸がキュンとなる。
(マー君、その表情。反則ぅ)
普段は理性的でクールな息子が、ふとしたはずみで垣間見せるあどけない顔。
ベタベタに甘い親バカだと分かってはいても、愛しさにたまらなくなる。
(そんな顔はねぇ、女の子達には見せちゃダメよ。まだまだ当分、ママだけの独占なんだから)
「……ふふ。シアワセ~」
聖美はニコニコしながらトーストを頬ばる。
「えと……ねぇ、ママ」
「なぁに、マー君?」
ささやかな幸せに微笑む美母に向かって、少年は少し緊張した表情で『爆弾』を落とす。
「ママに……僕の、『恋人』を紹介したいんだけど」
ぶっ!
聖美は危うく口に含んだオレンジジュースを吐き出しそうになる。
「なっ! ななな! なあああ!?」
(こ、コイビト!? マー君、今、『コイビト』って?!)
「ハイ、これ」
驚きのあまり、二の句が継げずにいる聖美に、雅人はポンと白いケースを手渡す。
白地に手書きのサインペンで『僕の恋人』とタイトルが書かれたDVDである。
「見てね」
そう言うと、驚きに固まったままの聖美を寝室に一人残し、スルリとドアの向こうに消えた。
「嘘……でしょ?」
手の中にある白いケースを呆然と見つめる。
(DVD――この中に? 『僕の恋人』!?)
白いケースにムクムクと嫌悪感が湧いて来る。
「み、見ればいいのよね。……ええ、見なきゃ。そうよ、ちゃんと見極めなきゃ。私、マー君のママなんだから――」
ぶつぶつ呟きながら、DVDをケースから出し、ベッドサイドに設置されたプレイヤーにセットする。
寝室は洋三の趣味が全面的に取り入れられ、最新の機器がセットされたAVルームになっていた。正面の壁に置かれた五十インチの液晶ディスプレイや、部屋の四隅にセットされたサラウンドスピーカーもベッドから集中管理出来る。
「えーと、これで赤いボタンを押せばスタート……と」
機械に弱い聖美のために、プレイヤーには操作の順番が記されたシールが貼られている。もちろん雅人のお手製である。
ブゥン。
微かなうなりと共に液晶ディスプレイに灯が入る。
キュルキュルキュル……フィーン。
プレイヤーがDVDを読込み、再生を開始する。
「うー、見たいような見たくないような……」
緊張の面持ちで画面を見つめる聖美の前で、今、『醒めない悪夢』が幕を開ける。
■■■■
「あ、あの――マ、マー君……」
震える声を必死に抑えながら、聖美はなんとか平静を保とうとする。
(落ち着いて――落ち着くのよ。そう、深呼吸して……)
「ね、可愛いでしょ? 僕の『彼女』。僕達、すごく愛し合ってるんだ」
「なっ!? あ……愛し合ってっ?!」
爽やかな笑顔でサラリと『愛』という言葉を口にする息子に、上辺だけの平静さはたちまち吹き飛ばされる。
「あ……あのっ! あのね、マー君!」
「ん? なぁに、ママ?」
「あんまり、その……こういう、えと……品の無い――『イタズラ』は、よくないと思うの」
「は?」
「たしか、えと……あ、『アイコラ』って言うんでしょ、こういうの? す、すごく手が込んでるけど――ちょっと、その、悪趣味過ぎるかな……って」
雅人の視線から目をそらし、オドオドと自分でもあまり信じていない空疎な言葉を精一杯連ねる。そうでもしていないと叫びだしてしまいそうだった。
「……ふぅん」
唇の端を歪めて、面白げな表情で、雅人は震えおののく美母をじっと見つめる。
「そう。ママはこれを『イタズラ』だと思ったんだ。へぇ……」
「い、イタズラでしょ!? そうでしょ!? だって……だって、こんな――」
「ふふ。ホントはママだって、ちゃんと分かってるんじゃない? これは『アイコラ』でも『CG』でもないよ。ママに僕と『彼女』の事を認めて欲しくてわざわざ撮ったんだ」
「私が……マー君と『彼女』の事を――認める?」
(一体……どういう事なのかしら? 『イタズラ』じゃないとすると――さっきのアレはパッと見た目には『私』にしか見えなかったけど、やっぱり誰か『他の人』なの? でもでも、そしたらマー君は、わざわざ『私にそっくりな女の人』を捜してきて、それで――あっ!)
「……ま、『ママ』って言ってたわ。アレは何?」
「ん? ……ああ」
何かを思い付いた表情で、雅人はニヤリと笑う。
「彼女、そう呼ばれると喜ぶんだよ。――そうそう、僕と同じ歳の息子がいてね」
「えっ?! む、息子? ……それじゃ、『不倫』じゃないっ!?」
思わず大声で叫ぶ。
「……え?」
「そうでしょ!? 『子供がいる』なら、普通は『結婚してる』って事でしょ!?」
「ああ――そうか」
雅人は自分の額にピシャリと手の平を打ちつける。
「うーん。単に選択肢で言えば『シングルマザー』って可能性もあるけど……そうだねぇ、確かにこの場合は――『不倫』だねぇ。いやあ、こいつは全然気付かなかったよ。しまったなぁ」
クックッと面白げに笑い始める。
(……狂ってるわ)
悪びれもせず、肩を震わせる息子の屈託の無い笑顔にゾッとする。
まだ*学二年生の我が子が『不倫』をしている――しかも、相手の女性は『自分の息子』と同じ歳の少年と肌を重ねている、というのだ。
昨日まで平穏そのものだった聖美の世界は、今や、薄っぺらな皮膜を剥ぎ取られ、腐臭を放つ泥濘の中にズブズブと沈み始めようとしていた。
「僕の彼女ね、“キヨミ”って言うんだ」
「!!」
(私の名前っ!?)
バクバクと心臓が早鐘のように脈打つ。
「そう、ママと同じ名前。奇遇だね。“キヨミ”はね、早く僕の赤ちゃんが産みたいんだって。ここ一ヶ月半くらい、ヒマを見つけちゃ二人で一所懸命セックスしてるんだけど、“キヨミ”の奴、なかなか妊娠してくれないんだ」
「赤ちゃ……セッ……に、妊娠っ!?」
「うん。簡単だと思ってたんだけど、案外難しいもんだね。孕ませるのって」
「孕ませ……る」
あまりにあけすけな言葉の羅列に、聖美はまたショックで固まる。
「DVDで見ての通り、“キヨミ”はすっごい美人でスタイルも抜群なんだよ。オッパイなんかプリンプリンで、アソコの感度もすごくいいんだ。僕がオ○ンチンを突っ込んであげると、ヌルヌルなのにキュッて締めつけてきて――」
「や、やめてっ! そんな話、聞きたくないわっ! 『認める』? 何を認めろっていうの? だいたい、その……き、“キヨミ”って人は一体どこの誰なのよっ!?」
思い余って、ついに叫ぶ。聖美はヒステリーの一歩手前まで追い詰められていた。
「ああ、それはねぇ。さっきのDVDを最後まで見れば自然と分かるよ」
雅人はにこやかに微笑む。
「……え?」
「飛ばしたりしないで、最初から最後までキチンと見てね。じゃ、また後で」
微笑みを崩さず、軽く手を振ると雅人は部屋から出て行った。
「え? え? ちょ、ちょっと、マー君!」
(最後まで……?)
「あ、『アレ』を……見るの? 見なきゃいけないの? 最初から――最後、まで?」
クラクラとめまいがする。
(えーと、えーと……頭を整理しないと――)
とりあえず部屋の中をうろうろと歩き廻りながら、聖美は必死で考えを巡らす。
「どうしよう? うー、どうしよう! パパに相談――ううん! ダメダメダメッ!」
(マー君が年上の女の人と不倫してて、その人はマー君の赤ちゃんを産みたがってて、二人でエッチしてるところをマー君たらビデオに撮って私に見せたのどうしよう――なんて言えるハズないじゃない! まして……)
そう。DVDの中で雅人と放埒な恥態を繰り広げているのは、聖美が見ても自分にそっくり――というより、『姫宮聖美・本人』にしか見えない女性である。おまけに彼女は雅人から『ママ』と呼ばれている。
「絶対――“アレ”は『私』だって思われちゃうわ……」
洋三の反応は考えるだに恐ろしい。
(でも――待って!? そもそも私が“あんな事”してないのは、自分で一番良く分かってるし、あのビデオがマー君の言う通り、『合成』じゃあないとしたら……そう! 例えば“アレ”は『私そっくりに整形した人』とかって事よね!?)
聖美は必死で頭を巡らし、微かな可能性に懸命にすがりつこうとする。
「うーー、でもでも、その場合、マー君てば、『わざわざ私そっくりに整形した人』を『恋人』にして、おまけにその人の事を『ママ』って呼んでるのよね。それで……その人と……うーーーー!」
頭を抱えてうなる。
(……ねぇ、マー君、どうして? どうしてなの?)
「あんなに嬉しそうに……キスしたり、な……舐め合ったり。マー君は『ママそっくりの女の人』とそんな事して、『気持ち悪い』とか思わないの? イヤじゃないの? それとも……それとも、やっぱりあのビデオの通り――」
おぞましい行為、けがらわしい行為、ケダモノのような行為――だが、懸命に否定しようとすればするほど、胸の奥に淡く甘い痛みが走る。
「したい――の?」
口にした瞬間、何かがキュンと体の奥深くで締めつけられたのが分かった。
「あ、あんなこと……したいの? あんな、エッチな事を――」
何度かためらったあと、左右に目をやり、誰もいない事を確認して小さく呟く。
「……『私』、と?」
自分の発した言葉に怯えながらも、甘美な余韻が背筋をゾクゾクと伝うのを感じる。
思わず、体を強く抱きしめ、内奥から伝わる震えを抑え付けようとする。
「あぁ……マー君――」
(私、キミの――ママなんだよ? それって――すごく、イケナイ事……なんだよ?)
まるで、『突然、思いを告げられた少女』のように、下唇を噛み、瞳をうるませ、ほんのり紅く染まった頬に手を当てて呟く。
「……困るよぉ」
(こんな事、一体誰に相談すればいいの? ……実家? ……友達?)
洋三との『出来ちゃった結婚』にまつわるごたごたで、家柄と体面を重んじる父母から聖美は絶縁されていた。初孫である雅人の顔さえ許しがたい不名誉の印と映るようで、結婚以来一度も連絡が来た事は無い。
高校や短大時代の友人とは、新婚の頃こそ交流があったものの、育児に忙しくなってからは全く疎遠になってしまった。雅人の小学校時代も、聖美はクラスメートの父母の中でずば抜けて美しく若く、おまけに裕福とあって、妬まれいじめられる事が多く、誰とも親密な関係を築けないまま今日まで来てしまっていた。
「そっか。私って――一人、なのね……」
ついに、聖美は普段は無意識に目をそらしている『残酷な真実』に気付いてしまう。
元々、洋三は自分の意見が全てであり、妻の悩みなど聞いてくれる人間ではない。
振り返ってみれば、悲しい事や辛い出来事、怒りや喜び、それらを全て優しい笑顔で受け止めてくれていたのは、ただ雅人一人だけだったのである。
「そう……なのね。今までマー君がそばに居てくれたから……いつも一緒にいてくれたから、気付かなかったのね、私。なのに……なのに……」
(ひどい)
何の構えもなく、不意にぽつり、と言葉が浮かぶ。
それは聖美の真実の心の叫びだった。
「ひどい……わ」
(私、『あの女』にマー君を取られちゃった……の? もう、マー君の心は離れてしまったの?)
己に問いかけるように胸に置かれた手が、ギュッと固く握り締められる。
「ううん、違う! 絶対違うわ! まだよ! まだ、『取られかけてる』だけだわ! あの……イヤらしい女が……マー君に、下品な事教えて……」
(――許せない!)
青白く燃える憤怒の炎が聖美の瞳に宿る。
「ちょっと私に似てるからって――ウチの子をカラダで誘惑したのね?」
(あの、イヤラシイ体で……マー君をそそのかして、おまけに――)
「よりによって……あ、『赤ちゃんを産みたい!』ですってっ?! あの子はまだ*学生なのよ! なんて……なんて恥知らずなのっ!」
全ての元凶である『あの女』に対して、聖美の怒りは激しく燃え上がる。
だが、なぜこんなにも激昂するのか――怒りの裏に潜む心に、まだ聖美自身は気付いていない。
「いいこと! マー君は絶対、アナタの事なんか好きじゃないわ! ただ、だまされてるだけよ! そうに決まってる! どんなに似てても、アナタなんてただの『偽物』じゃない! マー君はホントは……ホントは――」
ふと、そこでトーンが落ちる。
口元に手を当て、迷いと憂いを含んだ表情になる。
(ねぇ、マー君。ホントに、そう……なの? だって……だって、私、そんなの全然気付かなかったよ)
思い返すと雅人は小学校まではベタベタと自分によく甘える子供だった。
それが、*学に上がったあたりから、急に距離を置くようになってしまった。
もちろん相変わらず母子の仲はいいのだが、一定以上は自分に近付こうとしない壁のようなものを感じ、聖美はそこはかとない悲しさを覚えていた。
(マー君、ヤセ我慢してたの? ホントは私に触れたくて触れたくてたまらないのに、わざと平気なフリして、目をそらして……ずっとずっとずっと我慢して――)
「そんなの――私、ちっとも……」
(――ああっ!)
まるで天啓を受けたかのように、目を見開き宙を見つめる。
(だから……なの!? だから――絶望して、つい……)
「そうなの? ううん、そうなんでしょ! マー君、優しいから、きっと『あの女』に強く押し切られて……それで“あんな関係”が始まって……キチンと断れないうちに、どんどん深みにハマったんだわ。そうだわ。きっとそうよ! だいたい、マー君が急にこんな事言い出すなんて絶対おかしいもの!」
(きっと、これはあの子なりのSOSなのよ! 『こんな関係は認めて欲しくない』、『あんな女とは手を切りたい』……そう思ってるからこそ、わざわざ私にこんな、“イヤラシイモノ”を見せるんだわっ!)
怯えと迷いに揺らめく心は、たやすく偽りの希望にすがりつく。
矛盾と穴だらけの筋書きが、聖美の心の中ではいつしか『正論』として根付こうとしていた。
「そうよ……マー君たら、ヒドいわ。『ホントの気持ち』に気付いて欲しくて、わざとこんなモノを見せたのね? “キヨミ”ですって? なにが“奇遇だね”よ!」
(マー君、本当は……『私』の事を、あんな風に――)
じんわりと胸の奥が温かくなり、頬が自然と緩む。
「い……イケナイ子。ママをこんなにビックリさせて――」
(後でちゃんと叱らなくちゃいけないわ。そうよ。まだ*学生なのに『あんな女』と、あんな『イケナイ』事して、私の気を惹こうとするなんて)
すっかり心のゆとりを取り戻した聖美は悠然と微笑んでみせる。
これは一風変わった『ラブレター』なのだ。雅人の自分への『想い』――禁じられた熱情が『代理の女』の身を通して伝えられようとしている……そう考えると、さっきまであれほど激しく感じていた嫌悪感が嘘のように消え去る。
「『最後まで見れば自然と分かる』――つまり、“推理しろ”って事よね? わかったわ、マー君! ママ、頑張るね。絶対、あの『イヤラシイ女』の正体を突き止めて、マー君を救い出してみせるわ!」
決意も新たに、聖美はTV画面に向かう。
< 続く >