キャッツ・アイ 第7章

第7章

A区署 PM9:00――――――

 岸田は喫煙室のソファに横になっていた。眼は固く閉じられている。もう6時間ほど眠り続けていた。
 岡崎と面談して署に帰ってくると、捜査ニ課長の山本が血相を変えて駆け寄ってきた。

 そして、衝撃の事実が二人にもたらされた。
 数日前に失踪した美希の親友の少女、谷咲 明美が昨日、失踪したというのだ。
 二人は再びT区へ向かった。

 明美の母親に話を聞くと、明美の失踪した状況は美希のそれと全く一致していた。外部から誘拐された痕跡もなし。考えられるのは、明美本人が開け放たれた窓からパジャマのまま外へ飛び出したということだけだ。

 実は、この事件には催眠が絡んでいるんです。何者かがお嬢さんを操っておびき寄せたのです。などと言えるはずもなく、岸田は美希の時と同じく、何も手がかりが無いから娘の安否さえも何とも言えないということを遠回しに告げ、帰って来たのだった。

 誰かがドアを開ける音で、岸田は眼を覚ました。山口だった。
「あ、起こしてしまいましたか」山口は申し訳なさそうに言った。手にはインスタントコーヒーの粉の入った瓶とスティックシュガーを持っていた。そういえば、この部屋のコーヒーは切らしていた。

「む……いかん、こんなに寝てしまった」
 眉間を揉みながら岸田が言った。少し寝たら、調べ物を再開するつもりだったのだ。
「疲れてるんですよ。今日はもう、家で休んだらどうですか?」
 コーヒーを二つのカップに淹れながら、山口が言った。

「そうはいかん。こんなことになっちまったのに、手を休めちゃダメだ」
 山口が渡したコーヒーに映る、疲れ果てた自分の顔を睨む。
「岡崎が言ってた論文だ。それにヒントがある」
 確かめるようにそう呟いた。

 今回の件が催眠がらみなら、催眠で人を思い通りに操る方法について書かれたというその論文を書いた人物こそ重要人物なのは間違いが無かった。岡崎はそれが他人の書いたもののように言っていたが、実は岡崎自身が張本人という可能性も十分にあった。

 思い込みだけで動くのは刑事として危険だが、精神医療界から追放された邪悪な催眠ドクターというイメージを、岸田は作らずにはいられなかった。

「あの」
 ふいに山口が口を開いたので、岸田は考察を中断した。いや、もともと頭は働いていなかった。

「なんだ」
 自分の想像以上にしわがれた声で岸田は聞いた。
「もしその論文をアラうのなら、僕にやらせてもらえませんか?」
 岸田は今日何度目か、耳を疑った。

「はぐれ刑事になるのかよ?身体の動かないオヤジとはやってられないか」
 岸田はふう、とため息をついてソファにもたれかかった。

「いえ、岸田さんとはコンビです。ただ、二人一組でなく、二人で一人になるんです」
 岸田は驚いて山口を見た。今度は自分の耳でなく、山口の頭を疑った。こいつも疲れて血迷ったか?
 しかし、山口は真剣な目をしていた。

「岸田さんが調べたいと思ったことを、僕が動いて調べます。僕が岸田さんの足になります」

 バー「マーメイド」 PM9:00――――――
 ドアを開けると、カラン、と乾いたベルの音がする。その音を聞きつけて、一人のウェートレスと思われる女性が小走りでやってきた。

「いらっしゃいませ。『マーメイド』にようこそ」
 いかにもお嬢様育ちのような落ち着いた容姿と声。全く下手に細工のされていない綺麗な長い黒髪を、可愛らしく少し後ろで纏めた女性は、20代前半、否、見方によってはまだ10代ともとれる。この店のコンセプトである「人魚」をイメージしたであろう淡いブルーの、キャミソールワンピースの制服は、彼女によく似合っている。

「会員番号をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
 ウェートレスは恐らくマニュアルどおりであろう接客の台詞を、愛想良く言った。
 このバーは完全会員制で、いわゆるイチゲンの客は排除されている。それなりに高い登録料を払ったそれぞれの客に、1から一つずつ会員番号を与えられ、番号を持つ者だけがこの奥の、登録料に見合うだけのことはあるであろう、最高の空間で酒を楽しむことが出来る。

 もちろん男も番号を持っていた。男が答えた番号は――――――
「『0』だ」
 そのありえない数字を聞いた瞬間、ウェートレスはピクン、と反応した。その数字は男が特別な客であることを示す数字であり、同時に、彼女達に無意識のうちに刻み込まれたもう一つの「役目」を開放するキーワードでもあった。

 ウェートレスは背の高い男を見つめたまま、その眼の瞳孔は弛緩し、ぼんやりと光を失う。さっきとは別人のような、表情も感情もない顔と声で、彼女は言い始めた。
「かしこまりました。こちらへどうぞ。ご主人様のところへご案内致します」

 言い終えると、ウェートレスはゆっくりと歩き出し、一般の会員が通される通路とは別の通路に、男を先導した。

 1から始まり、各人に一つずつ与えられる会員番号のほかに、ある限られた複数の人間にのみ与えられる会員番号「0」が、この店には存在する。このとおり、0番はこの店の全てのウェートレス達にかけられた催眠を発動させるキーワードであり、0番を告げることで彼女らを催眠で管理する「ご主人様」なる者に会うことが出来る。

 薄暗い通路の奥に、一際大きな、豪華で、それでいて派手でない扉が現れた。虚ろな瞳のウェートレスはその扉についた、ブレスレットほどの金のリングを扉に打ち付けた。
 ゴンゴン、と重い音が響く。
「入りなさい」
 上品な、どこか怪しい女の声が部屋の中から帰ってくる。男にはなじみ深い声であった。

 ギイ、と音を立てて、ウェートレスは扉を開く。人が十分に通れるほどまで開くと、振り向いて男をどうぞ、と促した。
 部屋の中はかなりの広さで、あらゆる酒をそろえたカウンター、フカフカに保たれたソファの座席、グランドピアノを備えたステージと、落ち着いた雰囲気のバーがすっぽりと納まっていた。カウンターの向こうには、整った化粧を施し、妖艶なドレスに身を包んだ女性が立っていた。

「ご主人様、VIPのお客様をお連れ致しました」
 ウェートレスは一礼すると、女性に報告した。
「予約を受けているわ。ありがとう。今日はあなたも着替えて準備しなさい」
「はい。ご主人様」
 女性に言われると、ウェートレスはステージの奥へと消えた。

「座って」
 ステージの方を見たままの男を、女性が促す。男は我に返ると、女性の正面の座席に座った。

「久しぶりだな」男は女性に言う。
「ホント。何年ぶりかしら。せっかくVIPの番号をあげたのに、一度も顔を見せやしないんだもの」
 女は男をブスっと睨む。男はフフと笑って女が差し出したウイスキーのグラスを受け取った。
「そう言うな。今は忙しい時期なんだ」

「まだ猫ちゃんを増やしてるの?」
 女は驚きと呆れを混合したような表情で言った。
「ああ。先日50匹目を確保したところだ」
 50……と女はため息交じりに繰り返した。
「そんなにドロボウ猫を増やして何を盗むってのよ」

「別に全員を盗みに入れるつもりはないさ」
「じゃああんたのお楽しみの相手ってわけ?」
「それもあるが……」
 男が少しもったいぶった言い方になると、女は「まさか」と身を乗り出した。
「やっと『あの御方』に献上する気になったの?」

 しかし男は「フフフ」と笑むばかりだ。
「フフフって何よ。あのね、言っといてあげるけど、献上品の提出どころか、ここ最近あんたが『定例会』にさえ顔を出さなくなってから、『賢者様方』は相当おかんむりなのよ。まぁ『あの御方』が何も言わないからまだ安全だけど、そのうち本当に追放されるわよ」

 まくし立てる女をよそに、突如始まった音楽と同時に青くライトアップされたステージに、先程のウェートレスと、数人の女性が現れた。
 みな煌びやかな飾りで頭を彩り、手には新体操で使うような可憐なリボンをヒラヒラと舞わせ、何よりも驚くのは、その衣装だ。さっきまで着ていた青いワンピースと同様だが、完全に中が透け、一糸まとわぬ細い裸体を見事に露わにしている。

「ほう……」
 普段、あまたの女体をもてあそぶ男でさえ、この光景には眼を奪われた。
「うちの名物の人魚達の踊りよ。ただし、VIPにはこの特別な衣装のサービスがあるの」
 さっきまでの尖った声とは打って変わって、女は自分の作り上げた作品を愛でるようにうっとりと言った。

「『人魚』という催眠が功を奏しているようだな。実に優雅な踊りだ。猫ではこうはいかない」
 ライトアップで海底を思わせる雰囲気になったステージ上で、華麗に踊る女性達から眼を離さずに、男は言った。

「皆自分が『人魚』だと思ってるのよ。ここまで支配するの、大変だったのよ。時間がかかる上に、私は定期的に『あの御方』に献上してるからまだ少ないけど、なかなか自慢の子達よ」
 それを聞いて、男は再び女に向き合った。
「実は今、面白い実験をしていてな」

「実験?」
 突然の男の発表に、女は訝しげに答えた。
「ああ。まだ試作段階だが、ほぼ完成に近付いている。いくつか成功例もある」
 男は独特の冷たい笑みを浮かべながらスーツのポケットから何かを取り出してカウンターに置いた。眼鏡のような形の、2つの円形のプラスチックの、筒状の黒いケースだ。

「興味深いわね。何なの?」女もすっかりステージから眼を離した。
 男はケースをパカリと開いた。それぞれの中には透明の液体が揺れており、中にはオレンジ色のような、茶色のような何かが見える。男はピンセットでそれを液体の中から取り出した。
「これは……コンタクトレンズ、かしら?」
 女はそれを見て言った。それは間違いなくオレンジ色のコンタクトレンズであったが、レンズの中には何やら模様のようなものが入っている。暗闇でも妖しく光る切れ長の楕円。それはまるで……

「猫の目(キャッツ・アイ)という代物だ」
 男がそれをバーのわずかな光に照らして言った。
「レンズには特殊な加工が施してあって、周りの光を感知して特殊な蛍光を発する。近年、その光の研究が進み、この光は視神経を刺激すると、強さにもよるが、脳やを神経を麻痺、睡眠状態にすることが分かった。そのため、『表』では眼球手術の際の麻酔などに応用されているが……」

「『裏』のあなたはそれを催眠に応用した訳ね」
 女が先に言ったので、男はフンと、鼻を鳴らした。
「更に、温度を感知して形を変化させる『形状記憶合金』も仕込んである。人間の体温で収縮するように記憶している。すると、人間の目にはめ込むと、眼球をつぶさない程度に圧迫し、脳を介さない神経、反射神経をも停止させる」
 男がそこまで言うと、女は感心の声を挙げた。

「つまり、それを装着された人間は脳も麻痺し、全ての神経も止まり、何も感じないお人形さんになってしまう挙句、簡単に催眠状態に堕ちてしまうのね。すごい!こんなものを作ってたの?」

「まだ完成というわけではないが、最近のデータでは申し分ない結果を出している」
 男はミキを思い出して言った。ミキは拉致の段階でこのキャッツ・アイを装着され、洗脳無しに暗示だけで一時的な猫化に成功した。さらにその後の奴隷猫への洗脳も過去類を見ない速さで完了し、その後、キャッツ・アイの放つ特殊な光線により、ミキの単独での明美の拉致も成功した。

「まだデータは取りきれていないが、恐らく完成と言っても良いくらいだ。これは俺からの餞別だ。使ってみるか」
 男の差し出したそれを女はしげしげと見つめた。
「なるほど。私が使ってまた別のデータを集めたら、『あの御方』に差し出そうってわけ?」
 女が皮肉っぽく言うと、男はフフフと笑った。

「そういうことだ。これで、俺のクビもつながるな」
 そして男は、上手くいっていれば今頃は明美にもキャッツ・アイが装着されているだろうということを思い出した。

 某所 教育部屋 PM9:30――――――
「さあ、仕上げよ。眼を動かしてはダメよ」
「はい……ティーチャー」
 ティーチャーの手で、もはや生気の微塵もないドロンとした眼を皿のように見開かれているのは、明美の隣で教育を受けていた60号と呼ばれていた少女だった。既に教育部屋には、この少女と明美だけになり、この少女も今まさにこの陰惨な教育を終えようとしていた。

 先程、この少女の記憶削除率、自我抑制率がともに85%を越えようとしていた。
 本来、95%が教育終了のノルマなのだが、ミキが仲間入りした後の52~61号の少女には、別の手法で催眠洗脳が施されることになった。

 それが今少女の眼球を包もうとしている催眠支配増幅器、「キャッツ・アイ」だ。
 奴隷猫への教育が85%までで留められ、残りの15%をこのキャッツ・アイでカバーできれば、催眠支配の効率は格段に増す。人間の記憶と自我が完全に失われる瞬間が最も手強い。意識の中からその人間の存在を全て取り除くというのはそれほど困難なのだ。

 ミキをはじめとする数人の猫達によって洗脳が完了した状態でのキャッツ・アイの効果は証明された。次に、洗脳段階でのキャッツ・アイの効果で明美達を完璧な奴隷猫と化したなら、この奇跡の道具は男やバーの女が続けてきた「人間支配」が、容易に行われる時代が到来する。追放された闇の催眠術が、ひっそりと世間を包み始めるのだ。

「コレをはめた後、痛くても眼を閉じちゃダメよ。私の眼を見続けなさい」
「は…い…ティーチャー…あ…あぁ…」
 少女の性器からは愛液がプシューと流れている。もはやこの少女は、命令されるだけで感じるほどに、教育の虜となっているのだ。

 明美は隣の異常な光景に気付くこともなく、相変わらず「しつけ猫」に誓いの言葉を投げかけている。ノルマを超えるまではひたすらこの状態が続く。とはいえ、明美にももうほとんど自我や理性はなく、ただ解き放たれた性欲のままに、絶頂を求めて調教されているのだ。

 そして、少女の瞳に魔の眼が装着された。
 少女はティーチャーの指示通り、瞬きひつつせずティーチャーを見つめ続けた。みるみる彼女の様子が変化して行く。

「あ…あが…あぁ…!!」
 苦しそうな声を上げ、ガチガチと歯をかみ合わせる。ピクピクと身体を痙攣させ、それでもその眼はティーチャーを捉えていた。
 妖しい蛍光を放つ瞳の中で、光沢のある糸状のものがニュルニュルと形を変化させる。それはどんどん圧縮していき、やがて小さな切れ長の楕円になった。

 少女の動きはピタリと止まると、身体がガクリと力を失い少女はダランと項垂れた。
 シャーーーーという音と共に、少女は下半身を、床を黄金色に濡らした。彼女は大量に放尿していた。体中の筋肉が弛緩し、漏らしたのだ。

 ティーチャーは鉄板から彼女を開放すると、よろめく彼女を支えた。
「奴隷猫マナミ、立ちなさい」
 ティーチャーが命じると、ぐったりしていた少女がピクッと反応した。

「あう…マナミ……わ…たし…?」
 呆けたような声を出す少女。
「そうよ。あなたは奴隷猫のマナミ。従いなさい」

 次の瞬間、マナミは猫に憑依されたようなその眼をカッと開き、直立した。
「はい。ティーチャー。私は奴隷猫のマナミです」
 抑揚のない声で、しかしはっきりと言うマナミ。教育によって刷り込まれた暗示が発動したのだ。キャッツ・アイによって支配されたマナミは、暗示の通り、自分を奴隷猫と自覚したのだ。

「ご主人様がお帰りになったら、『仲間入り』をはじめます。それまで他の『仲間入り待ち』の猫達と同様、少し働いてもらいます。いいわね」
「はい。わかりました。ティーチャー」マナミはしつけの通り、「猫の礼」で忠実に応えた。
「まずは規則通り、ここを綺麗にしなさい。『猫の掃除』よ。次の子が気持ち良く『しつけ』されるようにね」

「はい、かしこまりました。ティーチャー」
 マナミは早速「猫の掃除」に取りかかった。マナミは床に這いつくばると、床に散らばった自分の愛液と尿を綺麗に舐め始めた。

「そうそう。ピカピカになるまで舐めなさい」
「はひ…ひーちゃー」
 夢中で床に舌を這わせながら応えるマナミ。無論、自我を失った今では、味を自覚することなど出来ないが、マナミは幸せそうに掃除を続けた。服従こそが、今の彼女にとってはこの上ない快楽なのだ。

 そんな全裸少女の異常な光景など歯牙にもかけず、明美は自分の「しつけ」を受け続けていた。「しつけ猫」を見つめ、奴隷猫の服従の言葉を唱え続け、その下半身からはタラタラと愛液が止めどなく溢れる。もはや明美も、本能のままに興奮と快楽に溺れ、その感情を止めることは不可能、いや、止めるという行為すら、明美にはあり得なくなっていた。
 迸る絶頂に耐えることなど、今の明美にはあり得ないのだ。

「私はご主人様に、永遠の忠誠を誓いま……ふあああああああああああああ!!!」
 上ってきた絶頂を、明美はスムーズに解放した。渇く兆しの無い、滝のような愛液がぷしゅううう、と弧を描いて飛散する。これまでで最速の絶頂到達であった。

「ストップ」
「あああああ!!……ああ…あ…ハァ…ハァ…」
 「しつけ猫」の抑制にも、従順にコントロールされる。明美は再びぐったりと、人形のようになった。

 最高傑作のその様子を見て、ティーチャーはねっとりと微笑する。
「ンフフ……もうすぐあなたも完全な、可愛い猫になるのよ……」
 何も見えていないように、虚空を見つめる明美に、ティーチャーは呟いた。

 数時間前まで、可憐な少女たちの喘ぎ声に満ちていたこの教育部屋に流れるしばしの沈黙。マナミの舌と身体が床を這う、ズチャ…ピチャ…という音と、時折マナミが出す「んふぅ…」という妙な声以外は何も聞こえない冷たい空間に、やがて、「しつけ猫」の最後の測定を告げる声が響いた。

「測定します。61号、記憶削除率……」

< 続 >

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