「山下さん、どうしたんスか?でっかい溜め息なんかついちゃって。契約も何とかまとまったし、ここはイキヨーヨーと凱旋するトコじゃねスか?」
隣を歩く青年が心配そうに声を掛けてくる。
「…これから家に帰ることを考えると気が重くてね」
「え?もしかして山下さんて家じゃ家族に無視される悲しいお父さんキャラなんスか?会社じゃどんなトコへの出張もバリバリ引き受けるけど、他の人のサポートに徹しすぎてアシストばっか上手い万年平社員なのに。オレも今回は山下さんが一緒だったからスゲェ安心して仕事できましたよ!」
彼の言葉は褒めているんだか、けなしているんだかいまいちわからないな…。社会人一年目とは言えそろそろビジネスシーンに似合うきちんとした言葉遣いを覚えてもらわないと…。しかし彼の言うように平社員である私が注意するのも何だかいただけない。今度上司に相談して、もし私が教育を頼まれたら、しっかりと教えてあげることにしよう。
「別に家族との関係が冷えきっている訳ではないさ。娘は今でも『おと~さん♪』と慕ってくれるし、妻も、その、万年平社員で給料も低い僕でも若い頃と変わらず愛してくれている」
「うわ!ノロケっスか?こないだカノジョにフラれたばっかのオレに?うわ~山下さん、それはナイわー」
「い、いやそうではなくてだね。その、今回はトラブルがあったろう?まあ、そのトラブルを上手く解決できたお陰で先方がこちらの手際を褒めて下さってより良い条件で契約を結ぶことができたからそれは良いんだが、そのせいで出張が一日長引いてしまった」
「え~、別にイイじゃないスか。先方さんに気に入られてキャバ連れてってもらえたんスから。いやぁ、夢みてぇな時間でしたね♪カワイ~子ばっかりでもうウハウハって感じ!」
彼は懐から女の子の名刺を取り出しニヤニヤしている。いつの間にもらったのだろう?少々羨ましい。
「うん。あれは、とても良い店だったね…いや、そうじゃない。そうじゃなくてだね、帰りが一日遅くなることを妻に電話で伝えたんだが…どうも怒ってるみたいなんだ」
電話を切る直前聞こえた妻の『帰ってきたらとっちめてやる』という声が耳にこびりついて離れない。
「あ~、ナルホド。帰って奥さんに怒られんのがヤで溜め息ついてたんスね」
「そう!そうなんだよ!いやぁ、やっと伝わった。長い道のりだった…」
「そ~いう時はプレゼントっスよ!サプライズっスよ!気の利いたモン渡してシュラバ回避、ラブモード突入っス。山下さん、アレっしょ?仕事、仕事であんまし構ってやらない感じっしょ?スゲェわかります。オレもこないだそれでフラれたから。オレは数ヶ月構ってやんなくて破局っスけど、山下さんの奥さんなんて何年ほっとかれてんだかわかったモンじゃねっスよ。ぜって~色々溜まってますって」
「た、確かに…妻に贈り物なんて結婚してからは数える程しかしてないな。贈り物か…うん、良いかもしれないね」
「でしょ?オレも元カノとの最初のシュラバはそれで乗り越えたんスよ。はは、でも今回はそれやるのも忘れててダメになったんスけどね。やっぱ、女はちゃんと構ってやらねぇとダメっす。結婚しても年取ってもおんなじっスよ」
驚いた…。乱れた言葉遣いをするから少々心配していたが、案外しっかりした考えを持っているんだな。
「うん、そうだね。アドバイスありがとう。じゃあ私は向こうのホームだから。また会社で。お疲れさま」
「うす!そんじゃお疲れ~っス!」
そうして駅の構内で彼と別れた。
しまった…電車に乗る前に店に寄るべきだった。こんな深夜じゃどこの店も開いてない。いや、でもこんなに遅くなる予定ではなかったんだ。たまたま乗った電車が人身事故で数時間停まってしまったから…ああ、何でこんな時に限って!肩を落とし、とぼとぼと歩いていると明るい光が目に入った。
ん?あんなところに雑貨屋なんてあっただろうか?こんな深夜に営業しているなんて、おかしな店だな…いやいや、これは渡りに船じゃないか!折角開いているんだ、この店で妻への贈り物を買うとしよう。
覗き窓からきらびやかな光の漏れるドアを引き店内に入ると、そこは何というか様々な物が所狭しと陳列されていて、まるでおもちゃ箱をひっくり返したような雰囲気だった。並べられた商品も趣味がバラバラでこの店のコンセプトがよくわからない。しかし何故かこの店を素敵だと感じてしまう。とてもそうは見えないはずなのに心がここは素晴らしい店だと叫ぶ。そんな不思議な店だった。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
いつの間にか目の前にいた店員に声を掛けられる。店が不思議なら店員も不思議だ。目の前にいるのは一人なのにその口から聞こえた声は男の声と女の声が二重になって響いたかのような和音だった。おまけに容姿も男女どちらにも見え、尚且つ妖しいほどに魅力的だった。
「あ、あの、妻へ贈り物をしようかと…」
「それは素敵ですね。どんな物をお探しですか?」
「あ…そういえば何も決めてなかったな」
「女性でしたらアクセサリィなどは如何でしょうか?」
「いや、その、妻はあまり装飾品を着けないんだ。家事をするには邪魔だと。化粧もほとんどしないし…。それに何というか、古き良き日本の母、大和撫子という感じの女性で西洋のものは苦手みたいなんだ」
「素敵な奥様でいらっしゃるのですね。では櫛など如何でしょうか?髪を梳くにはもちろん、髪を纏めて留める髪飾りとしてもお使いになれます。お客様の言われるような方でしたらきっと艶やかな黒髪を大事にしていらっしゃるのではありませんか?それに櫛というものはその音から、苦労の『苦』、生死の『死』という字を連想させるとして、気軽に贈られるような品ではないのですが…男性がその『苦』と『死』を共に分かち合いたいと決めた唯一人の女性にのみ贈られることが許された品なのです。お客様が奥様へお贈りになるのに相応しいものと思われます」
「へぇ、櫛にそんな謂われがあったなんて…。うん、確かに櫛なら家事の助けにはなっても邪魔にはならないね。僕の妻も、いつも櫛で長い髪を纏めているよ」
「ではこちらの品など如何でしょう?」
店員は一切の迷いなく近くの陳列棚に手を差し入れると、すぐに薄い木製のケースを取り出し中を見せてくれた。その中にはまるで僕の妻のように慎ましやかに櫛が納まっていた。その櫛は決して派手になることなく上品に模様が彫り込まれ、とても美しいのに何処か控えめで、まるで僕の妻に贈られる為に作られたもののようだった。
「うん、良いね。これならきっと妻に良く似合う。何だか君の方が妻の趣味を熟知してるみたいだ」
「決してそんな事は…お客様の奥様に対する気持ちが、私に奥様の姿をありありと思い浮かべさせたのでございます。それにこちらの品は特殊な製法を使っておりまして、これで髪を纏めると外そうとしない限り決して外れません。奥様が家事をなさる時に解けて煩わしい思いを感じる事もなくなるでしょう」
「へぇ、それは凄いな!でも…」
「如何いたしましたか?」
「実は妻に贈り物をしたことは数える程しかなくてね。こんな素敵なものを贈るのは何だか気恥ずかしいなぁ…」
「それでしたら御一緒に日用品などお贈りになっては如何でしょう?その品に添えるようにこちらを渡せば気恥ずかしさも緩和すると思われます」
「ああ…それなら何とか。日用品か、そういえば妻は結婚したときからずっと同じ割烹着を使っているな。少しずつ色も黄ばんで、ほつれたり破れたりしてるんだけど何度も洗濯して、何度も繕って使っているんだ。買い直すことも勧めたけど、どうも妻は自分のことにお金を使いたがらないようなんだ」
「それをお客様がお贈りになればとても喜ばれると思います。そうですね、こちらなど如何でしょうか?」
またしても店員は陳列棚に手を差し入れる。無造作に突っ込んでいるように見えるのに、棚から出てきた店員の手には一切崩れた様子がない真新しい割烹着があった。そして流れるような手つきでそれを広げて見せてくれた。
「お客様の奥様にお似合いになるのはやはり純白。かといって単に白いだけではいけません。ですが目立ちすぎてもいけません。こちらの品は襟元とポケットに近くでじっくりと見なければわからないほど薄い紫色で菫の刺繍が施されております。このようなさりげなさこそお客様の奥様にぴったりではないかと」
「驚いたな、スミレは妻の名前だよ。そして妻の一番好きな花だ。…君、本当は妻の知り合いなんじゃないかい?」
「いえいえ、偶然でございますよ。きっとお客様の…」
「気持ちが伝わったって言いたいんだろう?」
「その通りでございます」
そういって店員はにっこりと笑った。どんな不可解さも投げ出してしまいたくなる魅力的な笑みだった。
「それではこちらの二品をお包みいたしましょう」
「あ、待ってくれ。まだ値段を聞いていないよ。一応それなりのお金は持っているけれど、こんなに素晴らしい品だ。きっと高いのだろう?」
「代金でしたら既に頂戴いたしました」
「え!?」
慌てて背広のポケットを探るとそこにはいつも通り自分の財布があり、中身も変わったようには見えない。あの店員のことだから、きっと気づかぬ内に抜き取られたのかと思ったのだが…。
「いえいえ、そういう意味ではございません。実はこの店、私の道楽でやっているものでしてお客様から金銭を受け取った事はないのですよ。来店されるお客様達の『大切な誰かに贈り物をしたいという気持ち』が私の心に響いた時、品をお渡しするようにしています。俗っぽく申しますと、所謂『ノロケ』を聞くのが好きなのです。変わっていますでしょう?」
「それは…また随分な道楽だね。だがこんな素敵なものをタダで受け取るわけには…」
「でしたらお客様、どうか奥様と末永くお幸せに暮らして下さい。そしてもしまたこの店に来られる機会がありましたら、素敵な奥様との馴れ初めなど聞かせていただけますか?それが私の望みであり、追加の代金でございます」
そう言ってまたにっこりと笑う店員。何だか自分がとても下らないことに拘っているような気がしてきた。
「負けたよ。本当にそういう話が好きなんだね。わかった、次に来る時は馴れ初めでも何でも聞かせてあげるさ。何なら妻と一緒に来ようか?」
「ありがとうございます。その時は他にも何かお渡ししなければならなくなるかもしれませんね。ではこちらをどうぞ」
話をしている間に包装は済んだらしい。見たことのない文字で飾られた紙袋を渡された。
「はは、こちらこそありがとう。必ずまた来るからね」
「はい、お待ちしております」
ああ、もうこんな時間か。急いで家に帰らないと余計に怒られてしまう。…それにしても良いものをもらったな。妻は…スミレは喜んでくれるだろうか?あれほど家に帰ることを考えて気が重くなっていたのが嘘のようだ。何だかまだ結婚を申し込む前、スミレと付き合っていた頃のような若々しい甘酸っぱい気分を思い出しながら家路を急いだ。
辿り着いた我が家には玄関だけ明かりが灯っていた。もしかしたら待つのを止めて寝てしまったのだろうか?そうだとしたら危険だ。それはスミレが怒っているという証拠に他ならない。そっと玄関の引き戸を開けながら呟くように言う。
「た、ただいま…」
「お帰りなさいませ」
間髪入れずに掛けられた声の方を見るとスミレが正座してこっちを見ている。
「や、やあ。まだ起きていたんだね。てっきりもう寝てしまったのかと…」
「素数さんのお帰りが待ち遠しかったので…いけませんでしたか?」
「いやいやいや!そ、そんないけないだなんてことはないよ。そ、そうだ、ミノルは?」
「ミノルちゃんは寝ましたよ。明日も早いですからね」
「そ、そう。あ、あの、家に上がっても良いかな?」
「まあ、おかしな人。ここは素数さんの家じゃありませんか、どうしてそんな遠慮をなさるの?さ、鞄をお持ちいたしますわ」
「そ、そうだね。おかしいよね、ははは。ただいま~」
もしかしたらもう怒ってないのかもしれない。靴を脱いで家へ入り居間へと向かう。
「いやぁ、帰ってきたら急にお腹が空いてきたよ。何か食べられるものあるかい?」
ちゃぶ台のそばに座り、ネクタイを緩めながらスミレに問う。
「生憎と晩ご飯はミノルちゃんが全部食べてしまって…『お茶漬け』でも良いかしら?」
その単語を聞いた瞬間、背筋が凍り付いた。我が家の一人娘、ミノルは確かによく食べる子だ。しかしだからこそ我が家には食べ物だけは潤沢にある。スミレも食料の備蓄や食事の量には常に気を配っているので家族の食事が、たとえ僕の一人分だけでも足りなくなることは有り得ない。そう、ただひとつの例外を除いて。
その例外とは…スミレが極限まで怒っている時だ!我が家において『お茶漬け』はタブーなのだ!あのミノルでさえ『お茶漬け』だけは欲しがらない!それはスミレに『お茶漬け』を出される恐怖を小さな頃から嫌と言うほど知っているからだ!こ、このままではマズいぞ…そうだ、今こそ贈り物を!僕は台所に消えようとするスミレを呼び止める。
「す、スミレ!その前にちょっと良いかな?渡したいものがあるんだ!」
ピタリと足を止め、こちらに笑顔を向けるスミレ。目、目が笑ってない…。
「まあ、素数さんが私に?珍しいですね、一体何かしら?」
戻ってきて目の前に座るスミレの後ろでオーラが揺らめく。いかん!『大和撫子七変化』だけは何としてでも食い止めなくては!紙袋から包みを取り出し祈るような気持ちでスミレに差し出す。
「開けても良いのかしら?」
「も、もちろんだよ。あ、開けてごらん」
スミレが包みを開いた時、オーラの揺らめきがピタリと止まる。た、助かったのか?
「まあ!新しい割烹着だわ。あら、菫の刺繍…。もしかして私の名前に合わせて下さったんですか?良いんですの、こんな素敵なものをいただいてしまって?」
「うん、スミレには苦労を掛けてるからね。今、着てるのは結婚してからずっと使っているだろう?大切に使うのは良いことだけど、もし良かったらこれからは僕があげたその割烹着を大切に着てほしいな」
「もう、素数さんたら…そんな事を言われたら私、どうにかなってしまいますわ」
スミレのオーラが段々と小さくなっていく。良し、もうひと押しだ!
「それだけじゃないんだよ。割烹着のポケットを見てごらん」
確かあの店員はそこに入れていたはずだ。
「え?他にもあるんですの?ポケットって…まあ、何かしらこの箱?」
「開けてごらん」
「ええ…。まあ、なんて素敵な櫛…。も、素数さん、櫛って、その…」
少女のように頬を赤らめ、俯いてしまうスミレ。やっぱりスミレは櫛の謂われを知っていたのか。さすが大和撫子、そんじょそこらの女とは訳が違う。
「僕はどうにも要領が悪くて出世も望めない。これからもスミレには苦労を掛けてしまうだろうし、忙しさにかまけて寂しい思いをさせてしまうだろう。それでも良かったら、この先もずっと…僕のそばにいてほしい」
場の流れとは言え、人生二度目のプロポーズだ。正直恥ずかしくて仕方ない。けれど何故だろう、自然に言葉にすることができた。そして僕はスミレの頭に手を伸ばし、そっとその髪を纏めている櫛を引き抜いた。スミレの艶やかで美しい黒髪がするりと解けて肩の上を滑り、胸と背中の両側に落ちていく。
「あ…」
「それ、着けてみてくれないか?」
オーラは完全に立ち消え、僕を上目遣いに見上げるスミレの目は熱く潤んでいた。頬の紅潮はまだ治まらないようだ。スミレがゆっくりと唇を開く。
「で、でしたら素数さんに挿していただきたいわ…。私が髪を纏めあげて押さえておきますから」
「わかった」
スミレの差し出した櫛を受け取る。スミレは両手で体の上を流れる髪を纏めあげると恥ずかしそうに一言呟いた。
「…お願いします」
スミレの後ろに回ると着物の襟から綺麗なうなじが覗いているのが見えた。思わず唾を飲み込む。こんなにしっかりと見たのは久しぶりだ。何だか胸が熱くなる。騒ぎ立てそうになる鼓動を抑えつけ、櫛をあてがう。
「ここ、で良いのかな?」
「ええ、そう。そこですわ…。あまり強くなさらずに優しくお願いしますね」
スミレの言葉が初夜を思い出させる。僕は我慢できなくなる前にその髪へそっと櫛を挿した。
どくん。
ん?櫛が脈を打ったような…いや、まさか。きっと自分の脈の音を聞き違えたんだろう。そう思っているとスミレの体がゆっくりと僕の方へ倒れ込んできた。
「す、スミレ?」
受け止めて顔を覗き込む。先程まで紅潮していたというのにその顔からは血の気が引いて白くなっていた。顔色が悪い訳ではないから大丈夫だろうが、熱く潤んでいた目も伏せられ長いまつげがわずかに揺れている。寝ているのか?いや、ついさっきまで話をしていたのに。それにスミレは滅多なことでは僕に寝姿を見せたりしない。一体どうしたんだ?
「スミレ、スミレ。聞こえるかい、聞こえたら目を開けて返事してくれ!」
すると伏せられていた目がパッチリと開いた。
「…はい、素数さん。聞こえております」
「スミレ?どうしたんだ?大丈夫なのかい?」
「…はい、素数さん。私は大丈夫です」
スミレの前に回り、肩を掴み正面から見たその目には意志の光がなかった。なんだ?どういうことだ?一体何が起きている?
「スミレ。体の調子はどうだい?どこか具合が悪いとかは?」
「…いいえ、素数さん。私、具合なんて悪くありませんわ。むしろとても気持ちが良いの…」
「気持ちが良い?どういうことだい?」
「…ええ、何だか宙をたゆたっているような心持ちで、そこにいる私の奥深くまで素数さんの声が優しく響いてきますの。とても気持ちが良いわ…」
これはもしかして…昔テレビで見た催眠状態というヤツだろうか?この独特の表情、問われたことに素直に言葉を返すこの反応。普段のスミレが素直でない訳ではないが、普段はどこか自分のことを話すのを恥ずかしがる節があるし、それにさっきからスミレの表情に全く変化がない。何故こうなったのかはよくわからないが…とにかくスミレは今、深い催眠状態に落ちている。それなら…。僕の喉を先程とは違う味の唾が通り抜ける。
「スミレ、ちょっと聞きたいんだけど良いかな?」
「はい、素数さん。どうぞお聞きになって」
「君は今日、僕に『お茶漬け』を出そうとしたよね?それはどうして?」
「…はい、それは素数さんを私の『大和撫子七変化』でとっちめてやろうと思っていたからですわ」
やはり、そのつもりだったのか…。
「思っていた、と言ったね?今は違うのかい?」
「…ええ、最初は怒るつもりでした。だって私、週末ずっとお帰りを待っていましたのに素数さんたら『月曜に帰る』とお電話で。お隣の太一ちゃんが泊まりに来て何とか気落ちせずに済みましたけど、本当は寂しくて…。帰ってきた素数さんを叩きのめしたあと、その、はしたないですけど、抱きついてわんわん泣いてやろうと思っていましたの。でも…」
叩きのめされるのは嫌だけど、泣いているスミレはちょっと見たかったかもしれない。
「でも…何だい?教えてくれないか?」
「…ええ、でも帰っていらした素数さんが私に新しい割烹着と、その…櫛を下さって、ずっとそばにいてほしいと言って下さって、私、嬉しくて、すごく幸せで、素数さんの妻になれて良かったと、そう思いました。そうしたら先程まで煮えたぎっていた怒りが、スッと治まりまして…、今はただ、素数さんのことが愛しくて…愛しくてなりませんの」
スミレ…。ありがとう、そう言ってくれて嬉しいよ。
「じゃあ、その…今夜の僕の晩ご飯は『お茶漬け』ではないんだね?」
「…ええ、もちろんですわ。ありあわせで申し訳ありませんけど、すぐにご用意するつもりです」
良かった…、本当に良かった。…安心したらさっきスミレのうなじを見た時の劣情が、また沸々と…。
「あの、スミレ。お願いがあるんだけど良いかな?」
「…はい、素数さん。何なりとおっしゃって下さいな」
「これから晩ご飯を用意する時に新しい割烹着を着てほしいんだけど…」
「…ええ、もちろんそのつもりですわ」
「いや、あの、新婚の頃、一度だけ無理に頼み込んでしてもらった『特別な着方』があるだろう?アレでお願いしたいんだ」
「…アレですか?アレはとても恥ずかしいですけど、素数さんがどうしてもとおっしゃるなら…。それに今夜は、素数さんから色々と素敵なものをいただきましたし、その記念に、ということでしたら私もお願いを無碍にはできませんわね」
「お願いだ!スミレのアレがどうしても見たいんだ!二度目のプロポーズをした記念の今日を境に、これからはスミレが寂しい思いをしなくて済むように頑張るから!その、景気付けだと思って!」
「…わかりましたわ。素数さんがそこまでおっしゃるのなら…ミノルちゃんも寝ていますし、『あの着方』をしても良いですわ。その代わり…」
「その代わり?」
ここに来て催眠状態のスミレの頬が初めて赤く染まった。覚醒しかけているのだろうか?あまり催眠を長くやると心に傷を残す場合もあると言うし、お願いも聞いてもらえたようだからこの後すぐ催眠を解いてあげよう。…解けるよな?
「…その、今夜はたくさん可愛がって下さい。そしてその、これからもたくさん可愛がって下さい」
「もちろん!当然じゃないか!…じゃあ、スミレ。これから僕が手を叩くからね。そうしたら君はスッキリ目が覚めるよ。夢現でしたこの会話は忘れてしまうけど、『あの着方』はきっと僕が喜ぶから自分でしてみようと思うんだ。いいね」
確かテレビではこんな具合に催眠術を解いていた気がする。
「…はい、素数さん。わかりましたわ」
「じゃあ手を叩くよ」
ぱん!
「…あら、私どうしたのかしら?」
「大丈夫かい?立ちくらみかな?急にフラッとしたからビックリしたよ。ゴメンよ、僕の帰りが遅かったからきっと待ち疲れていたんだね」
「もう大丈夫です。今すぐ晩ご飯をご用意しますからちょっと待っていて下さる?」
「ホントかい?無理しなくて良いよ」
「大丈夫ですってば。それに素数さんに頂いた割烹着も着てみたいですし…あ、そうだわ!素数さん、ちょっとあちらを向いていて下さる?」
「え?良いけど、どうしてだい?」
「その…着るところを見られるのが恥ずかしいんです」
「たかだか割烹着を一枚替えるだけじゃないか」
「もう!いいからあちらを向いてらして!」
「わ、わかった、わかったから」
壁の方を向くと後ろからシュルシュルと衣擦れの音が聞こえる。おそらく着ていた割烹着を脱いでいるのだろう。帯を緩め、畳にストンと落とす音。ああ、もうすぐだ。ファサっと着物が空気を孕む。今は脱いだ着物を畳んでいるのかな?そして真新しい割烹着に袖を通し、紐をキュッと結ぶ音が聞こえた。
「も、もう良いかい?」
「わ、私、お台所に行きますから。お台所は男子禁制ですからね!」
珍しいスミレの足音に急いで振り返ると、台所へ続く磨り硝子の戸の間をスミレのむっちりとした尻が駆け抜けていくところだった。実を言うと我が家の台所は厳格に男子禁制が守られている訳ではない。スミレの体調の悪い時や用事で留守にする時など、僕は娘のミノルと一緒に台所に立つことがある。では何故スミレはわざわざそんなことを言ったのか。長年連れ添ってきた僕にはわかる、あれは奥ゆかしいスミレの誘い文句だ。その気持ちに夫として応えなければならない。僕はスーツのジャケットを脱ぎ、緩めたネクタイを取り去ると台所に踏み込んでいった。
「スミレ、本当に平気なのかい?」
「も、素数さん!男子禁制って言ったじゃないですか!」
「いやぁ、スミレが心配で心配で…」
「もう…邪魔しちゃ駄目ですよ。怪我をしますから」
「いざという時のために、ここからスミレを見守っているよ」
「あ、あんまり見ないで下さい。この格好恥ずかしいんですもの…」
「どうして?もしかして新しく買ってきた割烹着が気に入らないのかい?」
「そ、そんなことはありません。とても気に入りましたわ」
「え?ならどうして?スミレ、教えてくれないか?」
「割烹着しか着ていないのが恥ずかしいんですっ!もう、どうして言わせるんですか?」
そう、スミレは割烹着しか着ていない。今のスミレは裸割烹着(はだかっぽ~ぎ)なのだ。後ろからだとスミレの凛とした背筋や先程少しだけ見えたむっちりと肉感に溢れる安産型の尻、キュッとしまった足首、その全てが丸見えなのだ。う~ん、新婚の頃と比べても決して劣らない素晴らしい眺めだ。
「そんなスミレが可愛くて仕方ないから」
「も、もう!またそんなことをおっしゃって…きゃっ!?」
「また倒れそうになったらこうやってすぐに支えてあげるからね。安心して良いよ」
ふたつの揺れる尻たぶに両手をそっと添える。手の平に張り付いてくるような素晴らしい感触だ。
「ぜ、全然安心できません!そんな風に触られたら…」
「どうなるんだい?」
ゆっくりと尻をまさぐりながら揉み込んでいく。
「お、お料理ができません、あぁ…」
「それだけかい?」
「ん…そんなに、聞きたいんですか?」
身を捩りながら問い返してくるスミレ。
「是非ともね」
「お、お料理の続きをして、早く素数さんの晩ご飯を拵えないといけないのに…そんなの後回しにして、素数さんに私を、お料理してほしくて、堪らなくなるんですぅ、ふぁぁぁぁ…」
「う~ん、それは困るなあ。僕もお腹が空いているんでね」
スッと両手を離す。
「あ…。非道い…どうしてそんなことなさるの?」
振り返ったスミレの目は熱く潤んでいる。
「続けてほしいのかい?でも僕の晩ご飯はどうなるのかなぁ?」
「そんな…もう、こんなになってるのに。非道いわ…」
スミレの足下に粘りけのある水滴が落ちていく。
「スミレは手際が良いからね。ちょっと我慢している間にご飯はできちゃうだろう?」
「そ、そうですけど…でも、あぁぁ…。も、素数さん」
「なんだい?」
「その、ま、まだちょっとフラフラするみたいなんです。お料理してる間、後ろから支えていただけないかしら?」
頬を染めおねだりをするスミレ。
「いいよ。何処を支えてほしい?」
「む、胸元を支えていただけると、とても助かります。そ、添えていただけるだけで大丈夫ですから」
「え?そうなの?」
腰の辺りから手を差し込み可愛らしい乳首を一度強く摘んでから言う。
「ひぃぁぁぁ!!そ、添えて頂けるだけで…摘んだり、揉んだりはしないで下さい。そんなことされたら…」
「されたら?」
指をぐっと広げ、スミレらしく控えめに膨らんだ手の平サイズの胸を掴みじっくりと揉み込みながら聞いた。
「やぁぁぁ!!がまんできなくなっちゃうのぉぉ!もとかずさぁん、おねがいぃ、スミレにぃ、ちょうだぁい!もとかずさんのぉ、かたくてぇあっついおちんちんがほしいのぉ!!」
スイッチが入ったようだ。スイッチが入ると途端に子供っぽく我が儘になるのは昔から変わらないな。まあ、普段の楚々とした佇まいとのギャップが堪らないのだけど…。
「え?ご飯を作ってくれるんじゃないの?」
「つくるからぁ、すぐにつくるからぁ、いれてぇ!してもらったらぁ、すぐおいしいのつくるからぁ、だめなのぉ、もとかずさんのでぇ、ぐちゃぐちゃかきまわしてもらわないと、もぉだめなのぉ!!」
シンクに手を付き腰をくねくね振るスミレ、本当にもう限界らしい。
「仕方ないなぁ…満足したらちゃんと作ってくれるんだね?」
スミレのドロドロになった入り口にズボンから取り出した我が家の一人息子をそっとあてがう。
「うん、つくるよぉ!だからぁ、はやくぅ、それちょうだ…んああああああああああ!!!」
正直、これ以上僕の我慢も限界なので一気に奥まで叩き込む。久しぶりの愛の営みは息子を伝って脳髄まで一直線に快感を伝えてくる。う、ぐ、なんて心地よさだ。スミレ!君は最高の嫁だ!最高の妻だ!
「スミレ!スミレ!」
あまりの快感にただ名前を呼び、腰を振りたくることしかできない。もっと伝えたいことがあるのに…誰より愛しい君に言いたいことがあるのに!だからその名前に万感の想いを込めて叫ぶ!
「スミレぇ!!スミレぇ!!」
「もとかじゅしゃぁん!!」
スミレも同じらしい。共にするのは『苦』と『死』だけじゃないんだ。快楽の『楽』も、全部、全部、スミレと!深く深く突き込んで膣から子宮の奥の奥まで子種をぶちまけると同時にまた叫ぶ。
「スミレぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」
「もとかじゅしゃぁぁぁん!!!」
君との子供ならどんな子だって構わない。ミノルよりたくさん食べる子でも僕は愛せる。今よりもっと頑張って稼いでみせる!ぶちまけた子種をスミレの中にこびりつかせるかのように出した後もぐちゅぐちゅとスミレの中で動き回った。
「ふにゃぁん…」
シンクにぐったりともたれ掛かるスミレに覆い被さるようにして耳元で囁く。
「スミレ、愛してるよ」
「わ、たしも、あい、してます。もとかず、さん…」
しばらくそのまま抱きしめていたが、やがて息子は小さく萎みゆっくりとスミレの中を追い出されていった。その感触を噛みしめながら思った。
(明日は…有給をとろう、絶対に)
翌日、有給を取った僕はスミレと昼下がりの町を歩いていた。目的地はあの店だ。
「この辺りなのですか?」
三歩後ろからゆっくりと歩いてくるスミレ。
「ああ、確かこの角を曲がった先に…あった!」
もしかしたらもう店はないのでは…などと思っていたが変わらず店はそこにあった。安心した。僕は狐狸妖怪の類に化かされた訳ではないのだ。
「まあ、ここがそうですの?」
「うん。あの店員はいるかな?」
「うふふ、なんだかドキドキしてしまいますわね。私達の馴れ初めを話すのが代金だなんて…」
「ははは、とても変わった人だからね。さあ、入ろう」
「ええ。素数さん、まさか忘れたりしていませんわよね?」
「もちろん。忘れもしないよ、あの日のことは…」
そう言いながらドアを開くと店の奥からあの笑みが僕達を迎えた。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
あの櫛について聞きたいこともあったけれど、別に良いかと思ってしまう。不思議な人の不思議な店の不思議な品。けれどそれが僕達夫婦の絆を強くしてくれた。そのことに感謝こそすれ、不満なんてひとつもない。
「やあ、追加の代金を払いに来たよ」
「ええ、とても楽しみです。そこにお掛けになって下さい。ただいまお茶をお持ちします。ああ、あなたが奥様でいらっしゃいますか。旦那様の言う通りとても素敵な方でございますね」
「まあ、お上手な方。私達の馴れ初めが聞きたいだなんて…大した話ではありませんのよ」
「ははは。しかし、どこから話したものかなぁ…」
「どこからでも。お二人の印象の強い場面を切れ切れにでも構いませんよ」
「じゃあ、あの日のことですわね」
「そうだね。じゃあ話させてもらうよ、僕達が互いに特別になったあの日のことを…」
その日、私はお二人のとても素敵な馴れ初めを聞くことができました。しかしそれを皆様にお教えする訳には参りません。道楽とは言え、これも商売。私が特別な品を渡して代わりに得たモノは私だけのモノなのです。どうかご理解下さいませ。そして、よろしければ是非皆様も私の店においで下さいませ。…私の店の場所でございますか?皆様のお一人お一人が心から誰かに贈り物をしたいと思う時、自然と辿りつけるようになっておりますよ。
それでは皆様のご来店を心からお待ちしております。
< 終わり >