■第6話 さよならマリちゃん
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それからというもの萬次郎は、花火大会が終わった次の日のヤンキーのように、目的を失った虚ろな目をして、ただただボンヤリと暮らしていた。
「マンチロウサン、コレ、イツモノ、イツモノ」
寮の隣の部屋に住んでいる、今だドコの国の者かも知らないアジア人青年が、いつものように読み終えたエロ本を萬次郎の部屋に届けてくれた。
「・・・あぁ・・・どうも・・・ありがとう・・・」
いつもなら、サンキュー!サンキュー!と大喜びで、そのエキゾチックな精子臭の漂うエロ本を貰っていた萬次郎だったが、今はもうセンズリすらする気も失せていた。
かれこれ1ケ月あまり寮の部屋に引き蘢っている萬次郎は、最近では廊下の奥の共同便所に行くのも億劫になり、窓からダラダラと小便をしている。いや、小便ならまだしも、ウンコまでするもんだから、下の階に住んでいるナニジンかわからない金髪の男が「うんこが空から降って来た!」とノストラダムスの大予言の如く怒鳴り込んで来たが、萬次郎はそこで初めてこの青年が栃木人だということを知った。
工場長には、精神的な病を抱えているんです・・・と訴え、長期の休みを貰っていた。当然、その分の給料は出ない。
遂に所持金が25円となった所で、突然、異常な空腹を覚えた萬次郎は、隣のナニジンかわからないアジア人が工場に出ている隙にソッとヤツの部屋に忍び込み、昭和の雰囲気が漂う古ぼけた冷蔵庫の中を漁るが、しかしそこには何やらワケがわからない調味料ばかりしかなく、まぁ、それでもいいやと、仕方なくそのケチャップのような正体不明の赤い調味料をゴクリと喉に流し込むと、いきなり体の中でボッ!と火が付き、目ん玉を飛び出した萬次郎はゴジラのような雄叫びをあげながら、慌てて窓の外にウゲェ!と吐き出せば、その下には運悪くも徹夜明けの金髪栃木青年が洗濯物を干しており、彼の金髪は瞬く間に真っ赤に染まったのだった。
「今度と言う今度は許さねっからなっ」と、語尾上がりのスタッカートな栃木なまりで、ブツブツと呟きながら階段を上がって来る、正体不明の赤い調味料だらけの栃木青年。
さすがにマズいと思った萬次郎は、彼が部屋の前に来たと同時に、靴を持ったまま窓から飛び降り、一目散に逃げ出したのであった。
全速力でひたすら走ったら更に腹が減って来た。あまりの空腹にクラクラと目眩を感じ、そのまま歩道にペシャリと尻餅を付くと、そこはいつしか新宿アルタ前だった。
(糞っ・・・腹減って死にそうだよ・・・)
そのままガードレールに寄り添いながらクタっと倒れ込むと、歩道を歩くギャル達の細い脚が目の前にニョッキっと現れ、一瞬にして忘れかけていた性欲が甦った。
「うわっ!覗いてるよこいつ!」
ツイッギーを意識した超ミニスカートのギャルが、寝そべっている萬次郎から飛び退いた。
しかし、ちゃっかり萬次郎は、そのツイッギーギャルの股間にピッタリと張り付く真っ赤なパンティーを拝んでいた。
「てめぇこの野郎・・・」
ホストなのかオカマなのかわからないような若者が、トドのように寝転がっている萬次郎を蹴飛ばした。
歩道を通り過ぎて行く人々は、スカートの裾を押さえる余裕はあっても、空腹で倒れる萬次郎を心配する余裕は欠片もなかった。
そんな中、突然、「大丈夫ですか!」という声が、空腹過ぎて朦朧となっている萬次郎の耳に飛び込んで来た。
「・・・あぁん?・・・」と朦朧としながら、萬次郎がゆっくりと目を開けると、萬次郎の目の前に、キュッと食い込んでは縦皺を作る、真っ白なパンティーが輝いていた。
「うわっ」と慌てて顔を上げる萬次郎。すると、そこにしゃがんでいたその女が、萬次郎の顔を見るなり「あっ!」と叫んだ。
萬次郎の顔を見るなり、その大きな目を更に大きく広げて驚いていたのは、紛れもなく宮崎マリ、そう、萬次郎が車で跳ねられ検査入院していた時に、病室で手帳の暗号を言い放って犯しまくった、例の妖精のような看護婦だった。
マリは、そこに倒れていたのが、自分の元患者だったと知ると、「愛染さん!大丈夫ですか!」と、細く白い腕で萬次郎の大きな体を素早く支えてはそう叫んだ。
「あぁぁ・・・僕の名前、覚えてくれてたんですね・・・」
萬次郎は、この奇跡のような偶然の出会いに、激しく心臓をバクバクさせながらも今まさに息を引き取らんとする老人の如く臭い演技をした。
「どうしたんですか?また車に轢かれたの?」
マリはそう言いながら、萬次郎の太い手首を掴んでは脈を測り始めた。
「いえ・・・ちょっと目眩がして・・・」
萬次郎はそう言いながら、わざとらしくマリの細い太ももにダランと体を沈めた。
マリのミニスカートの柔らかい素材が萬次郎の頬に触れる。ほんのりとクレゾールの香りを漂わせながらも、妖精マリの体はバニラクリームのような甘い香りに包まれていた。
「今、救急車呼びますからね・・」
脈を測っていたマリの手が肩にぶら下げていたバッグの中を漁り始めた。マリがバッグから携帯を取り出した瞬間、萬次郎は、「いえ、大丈夫ですから、救急車は結構です・・・」と、携帯を握るマリのその細い手を優しく握った。
「でも、血を吐いてるじゃないですか・・・」
マリは、萬次郎の口元からTシャツの胸部にベッチョリとシミ付いている、ナニジンかわからないアジア青年の部屋の冷蔵庫にあった赤い調味料を血と勘違いしているらしく、再び携帯で119番を押そうとした。
「いえ、ちょっと休めば、本当に大丈夫ですから・・・」
萬次郎がそれをあえて調味料だと言わないままゆっくりと起き上がると、マリは「本当に?・・・」と言いながら心配そうに萬次郎の顔を覗き込んで来た。
「ええ・・・大丈夫なんですが・・・ただ・・・」
目の前のパンチラにチラチラとこっそり目をやりながら萬次郎は呟いた。
「なに?どうしたの?」
「・・・なんか喰わせて貰えないでしょうか?・・・・」
恥ずかしそうにそう言う萬次郎の顔を「えっ?」と見つめたマリは、しばらくすると、妖精が持つ黄金色の輝きをパッと弾かせながら、「クスッ」と優しく笑ったのだった。
瞬く間に牛丼を2杯平らげた萬次郎は、カウンターにアゴ肘を付きながら「凄くお腹が空いてたんですね・・・」と目を丸めて見ているマリを横目に、小さな声で店員に3杯目のおかわりをした。
合計牛丼4杯とみそ汁2杯を平らげた萬次郎は、お金は必ずお返ししますから、とマリに頭を下げながらも、牛の鳴き声のような長いゲップをしては、再びマリをケラケラと笑わせた。
「ところで、新宿に何をしに来たんですか?」
牛丼屋を出るなり、萬次郎はマリに聞いた。
「別に用事はないんだけど・・・今まで新宿に来た事なかったから、ちょっとブラっと・・・」
マリは、思春期の少女のように照れながら、舌っ足らずな声でそう笑った。
「えっ、国はどこですか?」
萬次郎がすかさず聞くと、マリは「クニ?」と、また目を丸くしてケラケラと笑い、少しハニカミながら「秋田です」と爽やかに答えた。
「えっ!えっ!マジですか!僕も東北です!青森の八甲田山の麓の人口2千人しかいない小さな村です!いやぁ、奇遇だなぁ!これは、アレですよ、きっと何かの縁ですよ、縁!これは絶対に縁ですよ!」
東京には東北人は捨てる程いる。しかも、秋田と青森は隣の県ではあるものの、しかし遠い。だからそれほど奇遇ではない。
しかし、元々、天使のような優しい性格をしているマリは、そうやって大喜びしている萬次郎に合わせるかのように、自分も嬉しそうにしながら「縁ですね」と、優しく微笑んでくれた。
「じゃあ、僕、今日はお供しますよ。いえいえいいんです、メシを食わせてもらった恩ですよ、新宿は何かと物騒な街ですからね、僕がちゃんとお供しますから、はははは、気分で安心して楽しんで下さい、はい」
そう調子に乗る萬次郎に、マリは「でも・・・」と引き攣った笑顔を見せながら呟く。
マリにしたらすこぶる迷惑であろう。桃太郎の猿やキジでもあるまいし、今時、メシを食わせてもらったからお供するなんて恥ずかしすぎる。それに、萬次郎は一ヶ月近く風呂も入ってなく、しかもTシャツの首元には何やら香辛料の強い赤い汁がベタベタと付いており、身体中から動物園の熊のような悪臭をプンプンと漂わせているのである。しかも、今になってマリが気付いた事だが、萬次郎の履いている靴は、右が革靴で左はスニーカーなのだ。こんな滑稽なお供は例え萬次郎の両親だって嫌がるだろう。
しかし、マリという気の優しい女は、そう張り切っている萬次郎にNOとは言えなかったのだった。
「この辺はね、歌舞伎町と言いまして世界一の歓楽街なんですよ。ほら、あそこの角のビルに『オゲレツ仮面』って書いてあるでしょ、あそこのマユコちゃんってコがね、ついこの間AVデビューしたんですよ、まぁ、僕は、彼女がわざわざAVデビューするのもきっとお店の宣伝なんじゃないのかと睨んでますがね・・・」
何をトチ狂っているのか、萬次郎はマリに歌舞伎町の風俗ばかりを自慢げに紹介している。
それでもマリは「へぇ・・・」とか「詳しいんですね」などと、興味を示しているフリをしてくれたが、しかしマリは、内心、一刻も早くこのヘンテコリンな街から出たくて堪らなかった。
そうやって歌舞伎町をブラブラと歩いていると、萬次郎は、さっきから誰かに尾行されているような気がしてならず、何度も何度も後を振り向いていた。生まれて初めてのデートを邪魔するヤツは、相手が誰であろうと許さない!と、これを勝手にデートだと決めつける萬次郎はしばらく歩くと「はっ」と振り向き、またしばらく歩いては「誰だ!」などと叫びながら後を振り向くが、しかし、そこに怪しい影は見当たらず、一番怪しいのは萬次郎本人だった。
「さっきから何やってるんですか?・・・」
隣に歩いていたマリが、クリクリの大きな目で心配そうに萬次郎の顔を覗き込んだ。
「いや、なんでもないです・・・」
萬次郎はそそくさと前を向いた。
実際、マリのその大きな瞳に見つめられると、萬次郎は何も言葉が出なくなった。とにかくマリは可愛く、歌舞伎町を一緒に歩いていても、道ゆく男達は必ずと言っていい程マリに振り向くくらいだ。その度に萬次郎は嬉しくなった。マリと一緒に歩いているという事も自慢だったが、しかし、萬次郎は既にマリの全てを知っているのである。そう、萬次郎は、マリのアソコの色も形も匂いも具合も全て知っているのである。それが萬次郎にとって何よりも優越感を与えてくれる事だったのだ。
(僕はキミに中出しした事があるんだよ・・・)
歩きながら、マリの横顔をソッと見つめ、そして心の中でそう呟く萬次郎は、さっきからずっと勃起したままだった。
「あっ・・・あれは神社ですか?」
裏通りに差し掛かると、マリは前方にある赤い建物を指差して聞いた。
「あれは花園神社です。行ってみますか?」
萬次郎がそう聞くと、マリは「はい」と嬉しそうに頷いた。
花園神社の裏口から入り、玉砂利をジャリジャリと踏みしめながら進むと、真っ赤な大きな神社が姿を現した。
「神社とかが好きなんですか?」
なにげなく萬次郎がそう聞くと、マリは「えぇ・・・まぁ・・・」と曖昧な返事をしながらも、なにやらキョロキョロし始めた。
「ん?・・・どうしました?」
萬次郎がマリに聞くと、マリはそこで足を止め、「あのぅ・・・お手洗いは・・・」と恥ずかしそうに聞いたのだった。
なんだ小便がしたかったのかよ・・・と、おもわず微笑む萬次郎は、「ここは男用のトイレしかないから、あそこの役所に頼むと障害者用のトイレを貸してくれますよ」と、そう言いながら、神社の奥にある大きな建物を指差した。
さすが萬次郎は以前にトイレ盗撮をしていただけあって、そこらへんはよく知っていた。
玉砂利を踏みしめながら神社の奥へと進んで行くマリの細い背中を見つめながら、萬次郎は古ぼけたベンチに座った。
(あの小さなオマンコから、チロチロチロっなんて小便を垂らすのかなぁ・・・あぁ、飲みてぇなぁ・・・)
そんな事を思いながら、ボンヤリしていると、いきなり萬次郎の背後でジャリッ・・・という玉砂利の音が響いた。辺りには誰もいなかったはずなのに・・・と、恐る恐る後ろを振り向くと、そこには、スポンジケーキのような顔をした男が、凄い形相で萬次郎を睨みながら立っていた。
そのホラーマスクのような顔に「うあっ!」と一瞬驚いた瞬間、そいつが誰であるかをとたんに思い出した。
そう、まさしくそいつは、あの時カラスに襲われたカッパハゲだった。
カッパハゲは相変わらず頭のテッペンをツルツルにさせていたが、しかし、顔中、いやよく見るとハゲた頭にもボツボツと穴が開いており、それはまさしくスポンジケーキのようだった。
「覚えてるか・・・」と低く呟きながら、カッパハゲは恨めしそうに萬次郎の背後にピタリと立った。
萬次郎は、「生きてたのか!」と叫び出しそうになるのをゴクリと堪え、「当然だ・・・」と、れいのハードボイルドを演じた。
「おまえがあの時・・・」と、カッパハゲが恨み節を唱えようとしたのを、「まぁ待てよ」とすかさず制止した萬次郎は、神社の奥から玉砂利をジャリジャリと音立てながら歩いて来るマリをアゴでクイッと示した。
「あんたもあの娘が目当てなんだろ・・・」
萬次郎がそう言いながらカッパハゲを見つめて怪しくニヤリと笑うと、恨み節の出鼻を挫かれたカッパハゲは、歩いて来るマリをゆっくりと見上げ、ニヤッと不敵な笑みを浮かべては「まぁな」と答えた。
「あいつは稀に見る上玉だぜ・・・俺はあいつを看護婦の寮からずっと尾行してきたんだがよ・・・なかなかチャンスがなくてな・・・そう思ってたらいきなりおまえが現れ、そしてこんな好都合な場所に・・・ひひひひひ」
カッパハゲがカラスのくちばしで抉られた頬をニヤッと歪ませながら黒い手帳を取り出すと、ヘビのような舌で唇をペロペロと舐めながら手帳を手の平でパンパンと叩いた。
黒い手帳は再びカッパハゲの手に戻っていた。
萬次郎は焦った。今やマリに恋をしている萬次郎は、カッパハゲにマリをヤらせたくなかった。しかし、カッパハゲは黒い手帳を持っている。例え、この場を逃げ仰せたとしても、ヤツが手帳を持っている以上、マリはいつかはこのスポンジカッパハゲにヤられてしまう。
(どうしよう・・・こんなオバケ野郎にマリが・・・)
ゆっくりと近付いて来るマリを見つめながら萬次郎は焦った。玉砂利を踏みしめながらやって来たマリは、萬次郎と目が合うと意味ありげにニコッと笑った。すかさず萬次郎もニヤッとマリに笑いかけるが、しかし、どうもマリの歩き方が変だ。それに、たとえ小便にしても、ちょっと早すぎる・・・
そんなマリの苦しそうな歩き方を見ながら、萬次郎は(そうか・・・)と気付き、そしてある名案がジワジワと萬次郎の頭に浮かんで来たのだった。
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萬次郎は、遠くにいるマリを見つめながら、背後のカッパハゲに「俺が・・・」と呟きながらベンチを立ち上がった。そして、ゆっくりと後ろに振り返ると、「あのコをイイ場所に誘導してやる」と自信満々でそう言った。
「い、いい場所って、どこだよ・・・・」
そう尋ねるカッパハゲの目が泳いだ。
「ふん。どうせあんたは何の計画もないままただ尾行してただけなんだろ?このままだと、あのコ、電車に乗って看護婦寮に帰っちまうぜ。寮に入られたら、たとえ黒い手帳を持ってても、手も足も出ねぇ・・・」
萬次郎がそう言うと、カッパハゲは「だ、だから、い、いい場所ってのはどこだよ!」と、興奮気味に、穴だらけの顔を萬次郎に近づけて来た。
「あそこだ・・・ほら、あの雑木林の奥に旧公衆便所が見えるだろ・・・あの古い公衆便所に、俺があのコを誘導してやるよ。・・・あの便所は今、使用禁止だ。だから誰にも邪魔されずにゆっくりと楽しめる・・・どうだ?」
萬次郎はそう言いながら、お稲荷さんの祠の裏にある、ボロボロに朽ち果てた小さな木造の便所小屋をソッと指差した。
「しかし・・・」と、カッパハゲは疑うように萬次郎の顔を見た。
「心配するな。俺はあんたが終わった後でゆっくり楽しませて貰うから、あんたの邪魔はしないよ」
萬次郎が笑顔でそう言うと、カッパハゲの穴だらけの顔から疑いの表情がスーッと消えた。
「悪りぃなぁ、せっかくあんたがあのコをここまで誘導したってのに、俺が先に頂いちまってよ・・・」
カッパハゲは嬉しそうに笑いながら、ハゲた頭をカサカサと掻いた。相変わらずのバカだ。
「気にすんな。この間のお詫びだ。じゃあ、俺はさっそくあのコを旧便所に誘導するから、俺が合図するまでここで待ってな・・・」
「わ、わかった。よろしく頼むぜ兄弟」
カッパハゲは、舌で唇をペロペロと舐めながら嬉しそうにそう言った。
こんな男に『兄弟』と呼ばれる筋合いはないが、しかし、同じ黒い手帳を持った者同士と考えれば、まぁ、穴兄弟には違いない。萬次郎はそんな事を考えながら、マリに向かってゆっくりと歩き出し、つくづくこのカッパハゲがバカで本当に良かったとほっと胸を撫で下ろしたのだった。
「あの役場、鍵が掛かってて、誰もいませんでした・・・」
近付いて来る萬次郎に、マリは少女が忘れ物をした時のような困った表情でそう言った。
「あぁ、もうこの時間だと、役所のヤツラ帰っちゃったかも知れないですね・・・」
そう答えながら萬次郎が近付くと、マリは、気持ち下半身をモジモジとさせながら、ほんの少しだけ背筋をブルブルっと震わせた。
「じゃあ、あそこの古い公衆便所、使いましょうか」
萬次郎はお稲荷さんの祠の裏にある、雑木林に囲まれた不気味な小屋を指差した。
マリは、そんなボロ小屋を見て一瞬キュッと眉をしかめた。
「い、いぇ、私、近くのデパートで・・・」
動揺を隠し切れずに慌ててそう答えるマリに、萬次郎は「早く行きましょう。大丈夫ですよ、誰も来ないように僕が見張っててあげますから」と強引にマリの手を引っ張ったのだった。
古い便所小屋の入口に立てかけられていた『使用禁止』の札をガサッ!と乱暴に引き千切った萬次郎は、その便所から漂って来る糞尿の香りを素直に懐かしいと感じた。
その便所は、萬次郎がトイレ盗撮マニア時代にいつも通っていたトイレだった。古い建物のせいか、個室の壁の下がかなり開いており、軽くひょいっと覗くだけで中が丸見えになるという、ノゾキマニアにとったら古き良き時代の産物だ。
「僕、少し離れた所から誰も来ないように見張ってますので心配しないで下さい」
萬次郎はそう告げると、トイレの入口でモジモジしているマリを残してさっさと引き上げてしまった。
素早くお稲荷さんの角を曲がると、穴だらけの醜い顔が「どうだった・・・」と待ち受けていた。
「大丈夫だ。ウマくいった」
萬次郎がウインクすると、カッパハゲは嬉しそうにズボンのベルトをカチカチと外し始めた。
そんなカッパハゲに「そう焦るなよ」と笑いかける萬次郎は、「とりあえず、暗号掛ける前に、彼女のチョロチョロを、ちょいと拝見しねぇか?」とカッパハゲに提案すると、カッパハゲは下品な笑みを浮かべながら「いいねぇ~」と笑った。
2人は、お稲荷さんの祠の影からソッと覗きながら、マリがボロ小屋便所に入ったのを確認すると、足音を忍ばせながら便所に向かって歩き始めた。
便所小屋の前に行くと、便所の中から、バタン・・・という、個室の木戸を閉める音が響いた。
(よし・・・)と萬次郎はカッパハゲに合図をすると、2人は息を殺しながら便所小屋の中へと入って行った。
そんな便所小屋の中は、以前、萬次郎が忍び込んでいた時と何一つ変わっていなかった。数年前、あるドジなノゾキマニアがこのトイレで盗撮した写真をインターネットの画像掲示板に載せたのが大騒ぎとなり、マニア達から聖地と言われたこの『花園ノゾキ小屋』は惜しくも閉鎖された。それからというもの、この小屋は変態達の情報交換の場として使われ、露出愛好者や妻貸しマニア達から重宝されている小屋だった。
狭い便所小屋の中には、小さな洗面所が2つと、男子用便器が3つ。そして、卑猥な落書きだらけの個室が2つ並び、なぜだか洗面所の壁には、『男はつらいよ』の古い映画ポスターが張られ、その洗面所の前には、まるで西洋の鉄兜のような形をした大きな木炭ストーブが捨てられたように放置されていた。そんな物置と化した便所小屋の天井には、球の切れた裸電球がいくつもぶら下がり、そして、もう何年も取り替えられていないと思われる『ハエ取り紙』が、ビッシリと蝿がくっ付く真っ黒な姿を風にブラブラと靡かせながら不気味に揺れていた。
その便所小屋の中に2つある個室は、奥の個室の木戸だけが閉まっていた。今頃マリはあの薄汚い奥の個室で、恐る恐るパンティーを下ろしている頃だろう。
もうひとつの個室の木戸を、音ひとつ立てずにソッと開けた。さすがはノゾキ歴の長い萬次郎だ、その腕前はまだまだ衰えていない。
狭い個室の奥へカッパハゲを入れ、その後に萬次郎が入り、そして再び音を立てずに木戸を閉めた。
2人は、興奮で溢れて来る荒い息を必死に押し殺し、個室の壁の下に開いている15センチほどの隙間を静かに覗き込んだ。
隣の個室のマリの細い足首が見えた。和式便器を跨いだまま立ちすくんでいるマリは、何を躊躇っているのかなかなかパンティーを下ろして便器にしゃがもうとはしなかった。
萬次郎がチラッと横目でカッパハゲを見ると、カッパハゲはドス黒く汚れたコンクリート床に頬を押し付け、実に卑猥な表情でニヤニヤと笑いながら覗いている。今からこの激カワ看護婦を好き放題にヤリまくれると考えると嬉しくて堪らないのだろう、カッパハゲはいつもの癖で唇をペロペロと舐めるが、しかし床に頬を押し付けているため、その舌は唇と同時にコンクリート床もザラザラと舐めていた。
(便所コオロギみてぇな野郎だ・・・)
萬次郎は、自身も変態ではあるが、カッパハゲのような知性を感じられない下品な変態は大嫌いだった。
しばらくすると、ついに我慢できなくなったのか、マリはカサカサっと乾いた音を響かせながらスカートをたくし上げた。足下の隙間から覗いている萬次郎達にはそのシーンは見えないが、しかし、その音は2人を激しく興奮させる起爆剤となった。
立ったままスルスルスルっと膝までパンティーが下げられた。真っ白に輝くマリのパンティーは、看護婦に相応しい清潔な雰囲気を漂わせていた。
パンティーが膝で止まると、いよいよマリの下半身が降りて来た。スッと便器を跨いでしゃがんだ股間はちょうどいい具合に開き、あたかも隣の個室の変態達に見て下さいと言っているような、そんな変態チックな姿勢だった。
栗毛色の薄い陰毛が、真っ白な肌に乱雑に生え揃い、その猥雑感を一層引き立てていた。陰毛の奥で隠れるようにしては、ひっそりとプクッと膨れているクリトリスが見えた。その下にある膣は、グロテスクな姿を晒しながらも、しかし、白桃のように薄ピンクに輝いていた。
シュッ!と最初のひと吹きが発射された。小便が噴き出される瞬間、白桃のような膣がヒクッと痙攣し、同時に※印の肛門がこんもりと膨れ上がった。
一呼吸置いた後、シャーッ・・・・と一気に噴き出されたマリの聖水。その雫は、膣の回りに生えていたフワフワの陰毛を濡らし、そして薄ピンクの『蟻の門渡り』を肛門へ伝いながらもその手前でポタポタと便器に垂れ落ちた。
「今からあの中にぶち込んでやるからな・・・・」
そう呟くカッパハゲの小さな呟きは、便器に降り注ぐマリの小便の音で掻き消されていた。
ヒクッ・・・ヒクッ・・・と白桃のワレメが痙攣し始めると、小便はチロチロっと威力を弱め、そしていきなりピタッと止まった。
いよいよだ。
マリがバッグの中からポケットティッシュを取り出し、それでポンポンポンと膣を優しく拭いていると、カッパハゲがガバッ!と萬次郎を見上げ、「行くぞ」と黒い手帳を取り出した。
湿ったティッシュをポイッと便器の穴の中に落とし、パンティーをスルスルスルっとあげながらマリが立ち上がった瞬間、萬次郎はカッパハゲに「今だ、暗号を言え」と囁いた。
カッパハゲが「えっ?ここでか?」と慌てながらも、急いで手帳を開いた。そしてカッパハゲは手帳にズラリと並ぶヤリマンデーターに指を走らせ、マリの暗号を探し出し出すと、個室の壁の隙間に口を近づけながら「さらばベジタリアンの男よ!」と大きな声で叫んだのだった。
一呼吸置いて、隣の個室からガタン!という音が聞こえた。恐らく、催眠術がかかったマリがフラッと壁に体をぶつけたのだろう。
「かかった!」
カッパハゲが嬉しそうに叫んだ。
その瞬間、萬次郎はカッパハゲの手から黒い手帳をスッと抜き取り、それを汲取便器の穴の中へサッと落とした。
「あわわわわわっ!」
慌てたカッパハゲは、深い穴の中へ落ちて行った黒い手帳を掴もうと、ガバッ!と体を伏せながら汲取便器の暗い穴の中に手を押し込む。
今だ!と、ばかりに萬次郎は個室を飛び出した。そしてカッパハゲを個室に残したまま慌てて木戸を閉め、急いで洗面所の前に置いてあった西洋の鉄兜のような大きな木炭ストーブを、ズリリリリリリっ!とデブの馬鹿力で引きずると、それを個室の木戸の前に置き、カッパハゲを個室の中に閉じ込めてしまった。
「あーっ!」と叫びながら、カッパハゲが中から木戸をガンガンガン!と叩きまくる。そして「あーっ!そーいう事?そーいう事ね?また独り占めする気ね?へぇーおまえってそんなに卑怯なヤツだったの?」などと、まるで学校のトイレに閉じ込められたイジメられっ子の少年が、閉じ込めたイジメっ子を必死に諭すかのようにそう叫びながら、激しく木戸に体当たりし始めた。
萬次郎は、便所小屋にガンガンと響くその音に、まるでジェイソンに追いかけられていた金髪白人ソバカス少女のように怯えながら、急いで隣の個室の木戸を開けた。
個室の中では、壁に凭れたマリがボンヤリと天井を見つめていた。
「おい!逃げるぞ!」と萬次郎はマリの手をおもいきり引っ張った。マリは夢遊病者が連行されるかのようにフラフラしながら個室から引っぱり出され、そのまま萬次郎に手を引かれるまま便所小屋を飛び出したのだった。
玉砂利を蹴りながらマリの細い腕をしっかりと掴む萬次郎は、なにか無性に可笑しくなって来た。カラスの襲撃を受けたばかりのカッパハゲが、今度は立ち入り禁止の廃墟便所に閉じ込められる。あいつにとって黒い手帳は酷い災難だ、と思うと、声を出して笑わずにはいられなかった。
爆笑しながらふと後のマリに振り向くと、催眠術がかかったマリは、そんな萬次郎を見つめたまま、釣られるようにクスクスと笑い出したのだった。
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花園神社から新宿ゴールデン街へと飛び込んだ。この辺は迷路のように細い路地が入り組んでいるが、萬次郎にとったら馴れたテリトリーだった。
いくつものビルの隙間をねずみのように走り抜けた。バラックのゴールデン街を裏からすり抜け、四季の道へと出ると、そのまま巨大な雑居ビルの隙間に潜り込んだ。
デブの萬次郎は既にヘトヘトだった。バケツの水を頭からぶっ掛けられたかのような汗は、トランクスさえもベタベタに濡らし、それが太ももに張り付いてはまったくもって走りにくかった。
雑居ビルの隙間でハァハァハァ・・・と肩で大きく息を切らせていると、そんな萬次郎の汗でベトベトになったTシャツの背中をマリが優しく擦ってくれた。
ゆっくりとマリに振り向いた萬次郎が「大丈夫?」と聞くと、マリは妖精のようにフワフワとした笑顔を見せながら「うん・・・」と小さく頷いた。
(メチャメチャ可愛い・・・・今、このコは黒い手帳の魔術にかけられているんだ・・・って事は、今ならこのコと思う存分ヤる事ができる・・・・)
萬次郎はハァハァと息急きながら、マリのブラウスの胸の膨らみにソッと手をあててみた。一瞬、マリの体がビクッと揺れ、マリは静かにキュと目を綴じたが、しかしすぐにゆっくりとその大きな瞳を開くと、萬次郎をジッと見つめたまま「ふうっ」と声を出して優しく微笑んだ。
(ヤリたい!どんなことがあってもヤリたい!)
激しくそう思った萬次郎だったが、しかし、こんな場所では今にもカッパハゲに見つかってしまいそうで落ち着かない。かといって、のんびりしている暇はない。マリと過ごす甘い時間は、たったの2時間しかないのだ。
「ねぇ・・・ここはどこ?・・・」
焦っている萬次郎に、マリがそう囁きながら首を傾げた。
その仕草があまりにも可愛くて、おもわず萬次郎はマリのそのプルンプルンの唇に吸い付いた。
新宿の雑居ビルの隙間で濃厚なディープキッス。激しく絡み合う舌と舌がペチペチと独特な音を薄暗いビルの隙間に響かせていた。
マリの小さな口の中からゆっくりと舌を抜き取ると、口を半開きにしたままのマリは「ふーっ・・・」と熱い息を吐いた。すかさずマリのスカートの中に手を入れパンティーの中を弄った。催眠術が効いているらしく、マリのソコはカッ!と熱く火照り、そしてドロドロの汁がパンティーの中に大量に溢れていた。
もう我慢の限界だった。
萬次郎はマリのボンヤリとした顔を覗き込むと、「お金、いくら持ってる?」と尋ねた。萬次郎は近くのラブホにしけこもうという魂胆なのだ。
「・・・いくら?・・・」
マリは言葉の意味が読み取れないのか、そう言いながら首を傾げた。
「財布。そのバッグの中に財布があるでしょ?その中を見せて?」
萬次郎はそう尋ねながらも、時間を惜しむかのようにマリのブラウスの中に手を入れては固くなった乳首を転がしていた。
マリは弄られる乳首に、時折「やん・・・」と可愛い声を出しながらも、バッグの中から財布を取り出しそれを萬次郎に渡した。
財布の中には2万6千円入っていた。これだけあれば近所のラブホなら十分だ。
萬次郎は財布の中から2万円を抜き取ると、6千円になった財布をバッグの中へ戻していると、ふいにマリが呟いた。
「マリ・・・どうしてここにいるの?・・・」
小動物のように首を傾げながら、大きな瞳で萬次郎を見つめた。
「キミは僕と結婚したんだ。だから一緒にいるんじゃないか」
萬次郎がそうデタラメを言うと、マリは「結婚?・・・」と、不思議そうな目で萬次郎の顔を覗き込んだ。
(なんという可愛い女なんだ・・・・)
萬次郎はそんなマリの大きな瞳を見つめながら、『結婚』と言う言葉に少女のように反応したその純粋な瞳に胸がグッと締め付けられた。
(いったい、どんな男がマリの名前を黒い手帳に書き込んだかは知らないが、しかし、これほどまでに可愛いマリを見ていると、書き込んだ男の気持ちが痛い程わかるよ・・・。マリは、その男に催眠術をかけられ、どんな事をされたのだろう?いや、その男だけではなく、今まで黒い手帳を手に入れた男達にどんな目に遭わされて来たのだろう・・・)
萬次郎はマリの瞳を見つめながらそう想像すると、自分も黒い手帳を悪用して散々マリに変態行為をしたそのうちの1人でありながらも、しかし、今までになく無償に切なくなってきた。
「結婚・・・・」ともう一度呟くマリに、萬次郎は「ごめんよ・・・」と言いながら、マリの細い体をギュッと抱きしめた。
そして、何度も何度も「結婚」と呟いているマリに、「そうだ、僕達は今ここで結婚したんだ。だからもう、この糞ッたれな東京を出て、東北へ帰ろう」と言うと、ガバッとマリの体を離し、もう一度マリの顔を覗き込んだ。
「帰る?・・・病院に帰るの?・・・」
「いいや違う。キミはこの東京にいたら、いつまでもいつまでも黒い手帳の男達に酷い目に遭わされるんだ。だから、今すぐ僕と一緒にこの東京から出て、秋田に帰ろう」
「秋田!」
マリの顔が一瞬パッと明るくなった。
「そうだ、秋田だ!ナマハゲの故郷の秋田だ!今から2人で秋田に行くんだ!」
「うん!」
マリは子供のように嬉しそうにはしゃぎ、そして萬次郎の汗だくの体に「秋田!帰る!結婚!」と叫びながら抱きついて来た。
するといきなり、2人が隠れていた雑居ビルの前の路地から、グチョッ・・・グチョッ・・という、なにやら妖怪が歩くような、なんとも不気味な足音が近付いて来るのが聞こえた。
萬次郎がビルの壁からソッと外を覗くと、そこには全身糞まみれのカッパハゲが、靴の中からグチョグチョと糞尿の音を立てながらこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
(恐らく、閉じ込められた個室の隅にあった、あの、汲み取り便所の底へと続いている穴の蓋を開けてはそこから地下に潜って糞尿の中から黒い手帳を探し出し、汲取口から這い出して来たのだろう・・・・)
そんな糞尿だらけのカッパハゲの執念に萬次郎はゾゾゾっと背筋を凍らせた。
「くっそう・・・あの豚野郎・・・どこに行きやがったんだんだ・・・ちくしょう・・・ぶっ殺してやる・・・」
2人が隠れているビルの隙間を、そう呟きながら通り過ぎて行くカッパハゲの手には、やはり糞尿の中から探し出したであろう黒い手帳と、そしてギラリと光るサバイバルナイフが握られていた。
とたんに足が竦んだ萬次郎は慌てて息を殺した。
しかしそんな事を知らないマリは・・・・
カッパハゲがビルの隙間を通り過ぎた瞬間、「秋田に早く帰ろ!」と、叫んでしまったのだった。
「あっ!」
マリの声に慌てて振り向いたカッパハゲは、ビルの隙間で踞っていた2人を見つけるなりそう叫んだ。
「逃げろ!」
萬次郎はマリの細い手を引きながら、粗大ゴミが散乱する雑居ビルの奥へと走り出した。
「待て!この豚野郎!」
カッパハゲはグチャグチャと不気味な足音を響かせながら、サバイバルナイフを不気味に輝かせながらビルの隙間の細い路地に飛び込んで来た。
催眠術をかけられたままのマリは、もの凄い勢いで萬次郎に手を引かれながら、そのままドテッと路地に転がった。
「大丈夫か!」
萬次郎は路地にひっくり返っているマリを抱き起こすと、「背中に乗れ!」とマリに大きな背中を向けた。
「ほっ!ほっ!ほっ!ほっ!」
ゴミを掻き分けながら追いかけて来るカッパハゲは、遂にトチ狂ったのか、なぜかインデアンのような声を張り上げながらナイフを振り回していた。
「うひゃひゃひゃひゃひゃ!」
カッパハゲの気味の悪い奇声が背後に迫って来る。
マリを背中におぶった萬次郎は、狭い路地を塞いでいる粗大ゴミを、まるでブルートーザーのように押し潰しながら猛突進した。バリバリガタガタガッシャーン!と砕ける散る粗大ゴミの欠片が、上手い具合に後ろに迫ってくるカッパハゲの行く手を塞ぎ、その度にカッパハゲはその粗大ゴミをサバイバルナイフでバリバリと切り刻んだ。
そのまま猛ダッシュでビルの隙間を走って行くと、やっと出口が見えてきた。しかしその出口には、ビルのテナントのエアコンの室外機がいくつも並べられ、まるでブロックするかのように出口を塞いでいた。
しかし、巨大デブの萬次郎の勢いには、そんな室外機のバリケードもひとたまりもなかった。萬次郎の巨体が室外機に激突すると、積み重ねられていた室外機がガシャーン!と凄まじい音を立てて崩れ落ち、マリを背負った萬次郎は無事にビルの路地裏へと脱出できたのだった。
そんなビルの路地裏は、萬次郎が見た事のある風景だった。そう、なんとそこは美咲が働く『キャバクラ・アマール』があるビルの裏手で、いつか萬次郎が、エレベーターから降りて来たヤクザに小便を引っ掛けてしまい、ボコボコにヤキを入れられた場所だった。
マリを背負ったままの萬次郎は、そのまま裏路地を突き進み、アマールのビルの中へと突入した。
そんなビルの中へ入ったとたん、なにやらビルの中に男の叫び声が谺していた。
ビルのエレベーター裏にある煙草の自販機の角を曲がった萬次郎がエレベーターの前に出ると、そこには、以前、四季の道で萬次郎から美咲の暗号を盗み出した例のホームレスが、店に出勤してきた美咲の前に立ち塞がっては、美咲に向かって大声で必死に叫んでいた。
そう、そのホームレスのおやじは、萬次郎が美咲の暗号が変更した事も知らず、「練馬・あ!・・・練馬・あ!」と、古い暗号を必死に叫んでいたのだ。
エレベーターの前にいたホームレスと美咲は、もの凄い勢いでドドドドっ!・・・っと向かって来る萬次郎達に慌てて振り向いた。そして、そんな萬次郎の後ろから、顔が穴だらけで糞尿まみれのハゲ親父が、「ほっ!ほっ!ほっ!ほっ!」っと奇妙に叫びながらナイフを振り回して向かって来るのを見た美咲は、「ぎゃぁぁぁぁぁぁ!」とビル中に響き渡るほどの大声で絶叫したのだった。
萬次郎はエレベーターの角を曲がる瞬間、そこに突っ立っていたホームレスのおっさんに素早く叫んだ。
「おい!おっさん!その暗号はもう効かないよ!後ろのあいつが黒い手帳を持ってる!そこに、この女の新しい暗号が書いてあるぜ!」
ホームレスのおっさんは、そんな萬次郎の言葉に「えっ?!」と、向かって来るカッパハゲに振り返った。
そして、素早く萬次郎へ振り返ると、走り去って行く萬次郎の背中に向かって「暗号を変える事なんてできるのかよ!」と叫んだ。
「できる!だから、あいつの持っている手帳を奪って、すぐにあんたの女房の暗号を書き換えるんだ!」
ビルから飛び出した萬次郎がそう叫んだ瞬間、真っ赤な顔をしたホームレスは、今まさに自分の前を走り過ぎようとしているカッパハゲの前方に、通路に積んであったビールケースをガシャガシャガシャン!とひっくり返した。
寸前で行く手を遮られたカッパハゲは、瓶が砕け散るビールケースに足を取られてフワッと空中に舞い上がると、なぜか「うはヒャ!」と嬉しそうに笑いながら飛んだ。ハゲ頭を輝かせながら飛んで来るカッパハゲはまるで北朝鮮のミサイルのようだった。凄い勢いでビルのコンクリートの壁に脳天をガシ!と激しく激突させたカッパハゲは、そのままその場にドテ!と落ちた。
見事にカッパハゲの脳天はパッカリと2つに割れていた。白目をむいたカッパハゲの割れた頭からトクトクと溢れ出した血が、ビルの床にみるみると広がって行った。
「わ、悪いけど、黒い手帳をちょっとだけ貸してもらうよ!」
ホームレスがそう叫びながら、ぐったりと横たわるカッパハゲのポケットを慌てて漁り始めた。
そんなグロテスクな光景を、傍で見ていた美咲が再び強烈な金切り声を上げて叫び出した。
一瞬にしてビルの周りにはザワザワと人が集まって来た。ヤクザ、ホスト、キャバ嬢、ポン引き、密入国者、シャブ中、酒屋の親父、花屋の娘、ストリッパー、白タクの親父、変態小説家・・・・。そんな魑魅魍魎とした歌舞伎町の住人達が、頭がパックリと割れたカッパハゲを遠回りに見つめながら、写メを撮ったり笑ったり、「おい、誰か救急車呼んでやれや」などと呑気に笑って見ていた。
すると、ひっくり返ったカッパハゲの足下で呆然と立ちすくんでいた美咲が、その人混みの中の萬次郎を見つけるなり、いきなりワナワナと体を震わせ始めた。
「デブ!豚!この疫病神!あんたが私の回りをウロチョロし始めてからロクな事がないんだよ!2度と私の前に姿を見せるな!変態野郎の臭男!死ね!ワキガ!チンチクリン!」
狂ったように美咲がそう叫ぶと、周りにいたギャラリー達が萬次郎を見ながら一斉にゲラゲラと笑い始めた。
「お、おい!暗号、消えネェじゃねぇか!こ、これじゃあ母ちゃんの暗号書き換えれねぇよ!」
慌てたホームレスが萬次郎にそう叫ぶと同時に、グワン!っとビルのエレベーターが開き、アマールの従業員達が血相抱えて飛び出して来た。その中には、以前、萬次郎に「今度ウチの店の回りをウロウロしてたらぶっ殺すぞ!」と凄みながら殴り掛かって来た元暴走族の店員も混じっている。
萬次郎はマズいと思いながら、黒い手帳を破ろうとしているホームレスに向かって「破ろうとしても無駄だ!消そうとしても無理だ!書き足すんだ!暗号の横に別の文字を書き足すんだ!」と急いで教えると、すぐさまクルリと背を向け、背後に群がる人集りに向かって「すみません!開けて下さい!」と叫びながらその場から逃げようとした。
すると「待てよブタ野郎!」という美咲の声が背後で響いた。萬次郎が慌てて振り向くと、美咲が萬次郎を指差しながら元暴走族の店員に「殺して!」と叫んでいる。
「あわわわわわわ!」
慌てて逃げ出そうとする萬次郎に元暴走族が足下に転がっていたビールケースを振りかざしながら「おらぁぁぁぁぁ!」と向かって来た。
このまま背を向けて逃げれば、あのビールケースが背中のマリちゃんに当たってしまう!・・・・と、そう思った萬次郎は、慌てて背中のマリを庇いながら元暴走族に振り向いた。そして元暴走族の後ろで仁王立ちになりながら「貧乏な豚男なんかみんな殺しちまえ!」と叫んでいる美咲に向かって、萬次郎が「練馬・あ・3252347080!脱げ!服を全部脱いでそこで股開け!」と大声で叫んだ。
「あん?何いってんだコノ野郎!股開けだぁ?上等じゃねぇか、テメェこそ、その醜い豚足を真っ二つに引き裂いてやるよ!」
そう怒鳴る元暴走族は、ギャラリーが多い事もあってかいつもよりもテンションが高く、なにやら悪役プロレスラーの登場シーンのように、右手のビールケースを道路にバシバシと叩き付けながら萬次郎に向かって来た。
そんな元暴走族が「俺を誰だと思ってんだ豚野郎!今はこんなナリしてっけどよぉ、俺ぁ昔、北千住で」と啖呵を切り始めた瞬間、いきなり周りにいたギャラリー達が「おぉぉぉぉ!」という歓声を上げた。
元暴走族は自分のその歯切れのいい啖呵にギャラリー達が感動しているとでも思ったのか、ギャラリー達のその「おぉぉぉぉぉ!」を聞くなり更に高揚した。そして裏声になりながらも「俺ぁ、北千住のよぉ、最悪巨悪十三代目総長」と歌舞伎役者のように叫びながら萬次郎の胸ぐらを掴んで来たため、萬次郎は元暴走族に「あれ・・・」っと、元暴走族の後をソッと指差した。
「あぁん?」と肩を揺らしながら後ろを振り向く元暴走族。
そこには、道路に座って大きく股を開く全裸の美咲の姿があった。
「わあっ!」
元暴走族が飛び上がった。
美咲は真っ白な裸体をキラキラと光らせながら、股の中心にある真っ黒な物体をパックリと開き、そして頬を真っ赤に染めながらもモジモジと複雑な表情をしていた。
「ちょちょちょちょっと美咲さん!」
元暴走族が慌てて美咲に駆け寄った。その隙に、萬次郎はソッと人混みの中に紛れ込んだ。
「み、見るな!美咲さんはウチのナンバーワンなんだ!見るなら金払え!あっ!こら!写メ撮るな!」
そんな元暴走族の慌てた声と、ギャラリー達の一斉にドッと湧く笑い声を背景に、マリを背負った萬次郎は人混みの中を無我夢中で切り抜け、必死で歌舞伎町の表通りに飛び出したのだった。
そんな歌舞伎町は、いつものように派手なネオンをチカチカと輝かせていた。この街は、何が起きようと、どんなに悲惨な事件が起きようと、いや、たとえ原子爆弾が落とされようと大地震が来ようとゴジラが現れようと、いつもと変わらずネオンをチカチカと輝かせている、そんな街だ。
そんな街を催眠術にかかったマリを背負いながら、萬次郎はひたすら駆け抜けた。
いくつものビルの角を曲がり、いくつもの大きな通りをすり抜けた。
そして大きな通りの横断歩道で、赤信号で足を止めた瞬間、背中のマリが萬次郎の耳元にポツリと呟いた。
「・・・どこ行くの?」
催眠術にかかったマリのその声は、妙に甘ったるくて優しかった。
「秋田だよ。このまま秋田まで突っ走るんだ。な、秋田に帰ろう」
萬次郎は背中のマリに向かってそう微笑み、通りの向こうのビルに掲げてある時計をチラッと見た。
マリの催眠術が切れるまであと1時間ほどしかなかった。
とにかく、このまま走ろう。マリが正常になるまでこのまま走り続け、そしてマリが目を覚ましたら・・・その時はその時だ。なんとかなるだろう。
そう思いながら横断歩道に立つ萬次郎は、最後にマリちゃんと一発ヤリたかった・・・と背負うマリの小さな尻を両手でいやらしく揉みながらそう思う。
そんな萬次郎を後で見ていた茶髪のホスト集団が「ケケケケケ」と奇妙な笑い声をあげて笑った。
萬次郎は、そんな後のホスト達をチラッと見ながら(キミ達のように女にモテる人達には、僕の今の気持ちはわからないだろうなぁ・・・)っとふと思い、一時間後にはまた1人になってしまうのかと、一時間後のマリとの別れをふいに想像しながら急に切なくなった。
しかし、そんな歌舞伎町の横断歩道に立っているのは、決して女にモテそうなホスト達ばかりではなかった。萬次郎の目に、暗くて、豚みたいで、素人童貞で、絶対に包茎だろうと思うような、ポツンと1人ぽっちの自分に良く似た醜男達が、人混みの中にウヨウヨと潜んでいるのが見えた。
(同じ男なのに・・・人生って不公平だよな・・・)
そう考えながらも、萬次郎は、改めて黒い手帳の事をふと思った。
そう、あの黒い手帳は、きっとモテない醜男達を哀れんだ神様が、モテない醜男達の為だけに内緒でソッと授けてくれた尊い手帳なんだよな・・・でも、もう僕は手帳を使い切った。だから僕はもうこれ以上黒い手帳に関わっちゃダメなんだ。そう、これからはキミ達が楽しむ番なんだ・・・・・・
萬次郎は横断歩道の人混みの中に潜む醜男達を一人一人見つめながら彼らにそう話し掛けると、これ以上、僕が黒い手帳を引っ掻き回したら罰が当たる・・・・と、金輪際、黒い手帳の事は忘れようと心に決めたのだった。
萬次郎がそう思った瞬間、横断歩道の向こう側に立っていた人々が一斉に空を見上げながら、いきなり「うわっ!」と叫んだ。
慌てて萬次郎が、人々が見上げている後の空に振り向くと、空には放射能が溢れたかのような強烈な白い光りが、まるで天に昇る白龍のように歌舞伎町の空を一直線に光らせていた。
その閃光は、丁度、キャバクラ・アマールがあるビルの頭上だった。
横断歩道の信号がパッと青色に変わった。
信号が変わっても、足を止めたまま呆然と空を見上げている人々の中で、萬次郎だけが全速力で走り出した。
最後にもう一度だけ、せめてキスだけでいいからマリとキスをしたいと後ろ髪を引かれたが、しかしそれを振り切った萬次郎は「ちくしょう!」と呟きながら人混みの中へ消えて行った。
萬次郎が新宿の雑踏の中へと消えて行くと、閃光を発するキャバクラ・アマールのビルの上空に、数千羽というカラスの群れが一斉に飛び立ち、それまで白く輝いていた歌舞伎町の空を一瞬にして黒く覆ってしまったのだった。
< 完 >