かくれんぼ

「りゅーたクン、みぃつけた!」
 頭上から降ってくるように、聞き慣れた、透明感のある声が聞こえた。植え込みの陰にしゃがんでいた龍太が見上げると、律子の顔が龍太の方を覗きこんでいた。
「みぃつかった」
 龍太がそう答えると、破顔一笑、律子の表情が弾ける。龍太の位置からは逆光線になって、ただでさえ色素の薄い律子の髪が一層淡さを増して見えた。
「じゃ、こんどはりゅーたクンがオニだよ!」
 立ち上がってズボンに付いた枯葉を払っている龍太にそう一声かけて、律子は向こうに駆けていく。
「いーち、にーい、さーん……」
 龍太はもう一度しゃがみ込むと、顔を覆ってゆっくりと百まで数えていく。

 ふたりだけのかくれんぼ。かくれんぼだけでなく、鬼ごっこも影踏みもふたりだけ。それが、彼ら、小林龍太(こばやし りゅうた)と犬坂律子(いぬさか りつこ)の夏休みだった。

* * *

 龍太は夏休みが嫌いだった。特に、お盆休みが大嫌いだった。

 お盆休みになると、龍太は両親に連れられて母親の郷里に行くのが、龍太の家の、毎年の習慣だった。父親は、休みが明けると仕事のために東京に戻り、龍太は母親と一緒にもうしばらく過ごすことが多かった。しかし、母方の家には、年の離れた従兄弟しかおらず、都会育ちの龍太は田舎の子どもたちとも話が合わず、ひとりっ子の龍太は、大人たちの中で遊び相手も無しにひとりで過ごすしかなかったのだ。

 
 そんなある日、龍太は律子に出会った。

 その日、龍太は気晴らしに散歩でもしようかと、川沿いの道をひとりぶらぶらと歩いていた。
「ななじゅうし、ななじゅうご……」
 橋の下から漏れてきた声に思わず、龍太は回り込んで下を覗く。
 そこには、おそらく龍太と同い年くらいの女の子が、コンクリートの橋脚に顔を向けて数を数えていた。
(かくれんぼでもやってるのかな?)
 その姿を見て、龍太はそう思った。他の子たちは、みんなもうどこかに隠れてしまったのだろう。

「ひゃーく!もういいかいっ!」

 しかし、百数えたというのに、その女の子は他の子を探そうとしなかった。所在なげにしばらく突っ立ていたかと思うと、再び橋脚に顔を伏せて、
「いーち、にーい……」
 また、一から数を数え始めたのだった。

(いったい、なにをしているんだろう?)
 龍太は不思議に思って、土手から降りてみることにした。

「ごじゅうなな、ごじゅうはち……」
 龍太が近づいたのに気付かない女の子が数を数え終わるのを、龍太はそっと待つ。龍太に背を向けて数を数えている女の子の髪は、腰の辺りまであるほど長く、薄い茶色をしていた。田舎の子らしく日に焼けた肌の手足は、都会育ちの龍太の方が華奢に見えるほどだったが、がっしりとしたとか、そんな感じではなく、むしろしなやかさを感じさせるものだった。

「きゅうじゅきゅう、ひゃーく!……きゃ!」
 もう一度、百まで数え終えて振り向いた女の子が、龍太の姿を見て小さな悲鳴を上げた。澄んだ黒い瞳を大きく開いて龍太を見つめている。
「ご、ごめん。おどろかせちゃった?」
「う、うん」
 龍太の言葉に、女の子が小さく頷く。
「なにしてるの?」
「かくれんぼ」
「でも、さっきからみてたけど、かずをかぞえるだけで、さがしにいかないじゃんか」
「だって、ひとりでかくれんぼしてるんだもん」
 そう言った女の子の表情が曇り、顔を伏せる。
「ひとりで?」
「うん、このあたりの子は、だれもわたしとあそんでくれないから」
 自分のつま先を見るように視線を下げたまま、女の子が呟くように言う。

(そうか、この子はボクといっしょなんだ)
 俯いたままポツリポツリと話す女の子を見て、龍太はそう思った。

「だけど、わたしもかくれんぼしたいから。だから、かくれんぼのまねをしてたの」
「じゃあ、ボクとかくれんぼしようよ」
「え?」
 再び顔を上げて龍太の顔を見つめると、女の子はパチパチと瞬きをする。
「ボクも、なつやすみだけ母さんのいなかにきてるんだけど、しっている子もいないし、いつもひとりなんだ。だから、ボクといっしょにかくれんぼしよう」
「うん!」

 龍太の言葉に嬉しそうに頷くと、女の子が弾けたような笑顔を見せる。

「よしそれじゃ、まずオニをきめようか!」
「あっ!そのまえに、キミのなまえは?」
「あ、そうか!ボクは、こばやしりゅうた」
「そうか、りゅーたクンだね。わたしは、いぬさかりつこっていうの」
「りつこちゃんか」
「りっちゃんてよんで!わたし、そうよんでほしかったの」
「いいけど、どうしてりっちゃんてよんでほしいの?」
「わたし、ともだちいないから」
「あ、ご、ごめん」
「うん、いいの、りゅーたクン」
「じゃ、じゃあ、かくれんぼはじめようか、りっちゃん」
「うん!」
 りっちゃん、そう呼んだだけで、女の子の顔に笑みがこぼれる。その笑顔を見ているだけで、龍太もなんだか嬉しくなってきた。

 そして、それが、龍太と律子の、最初のふたりだけのかくれんぼだった。

* * *

 その翌日も、そのまた次の日も龍太は律子と一緒に遊んで過ごした。

 それは、龍太が律子と遊び始めて3日目の夜。

「犬坂の子と遊んでいるというのは本当か、龍太」
 晩ご飯の席で、祖父がそう切り出した。
「はい」
「いいか、あの家の子とは遊んではいかん」
「どうしてですか?」
「む、いかんと言ったらいかんのだ」
「なにか、問題でもあるんですか、お義父さん?」
 龍太と祖父との会話に、父が割って入ってきた。
「いや、問題があるというわけでもないが、村の昔からのしきたりでな」
「あらいやだ、お父さんったら、まだそんなこと言ってるの?私も子どもの頃そう言われてたけど、犬坂くんとこっそり遊んだこともあったわよ」
 母も話に入ってくる。
「な、なんじゃと」
「でも、特にどうということもなかったし、しきたりとか、そういうのって田舎の迷信だと思うわ。そうか、犬坂くんの所に龍太と同じくらいの年頃の子がいるの?」
「うん」
「こ、こら、おまえたち!」
「もう、そういうのってよくないと思うわよ、お父さん。このご時世に村のしきたりだなんて」
「そうだよな。それになんだか龍太も元気になったみたいだし、まあ、子どものことは子どもに任せてみませんか、お義父さん」
「むむ、しかし……」
 そう言ったきり、祖父は、苦虫を噛みつぶしたような顔で黙りこくってしまったのだった。

 その翌日。

「きのうね、おじいちゃんが、いぬさかの子とあそぶなっていうんだよ」
 川原で、律子と向かい合ったまましゃがみ込んで、昨晩の話をする龍太。
「ふーん、やっぱりね。ここのひとはみーんなそう。だから、わたしはいつもひとりぼっち」
 そう答えると律子は、足下の草を引き抜く。
「りっちゃん…」
「だから、りゅーたクンもね、むりしてわたしとあそばなくてもいいんだよ」

 そう言って、龍太の目を見つめる律子。その黒く澄んだ瞳は、寂しさや悲しみより、もっと深い、なにか諦めたような感情を湛えていた。その、同年代の子どものものとは思えない、大人びた眼差しを見ていると、龍太は自分の方が悲しくなってくるように思えた。

「むりなんかしてないよ。りっちゃんとあそんでるとたのしいし」
「え、りゅーたクン?」
「それに、りっちゃんがいないとボクもひとりぼっちだから。だから、これからもボクはりっちゃんとあそぶよ」
「うれしい、りゅーたクン!」
 龍太の言葉に、ようやく律子が子どもらしい満開の笑顔を見せる。そんな律子の笑顔を見ていると、龍太は胸がドキドキしてくるのを感じていた。

 しかし、自分が律子に心惹かれていることに気付くには、その時の龍太は、まだ、あまりにも子どもだった。

 その日から、龍太と律子は、人目につかない、里の裏山を主な遊び場にした。

 かくれんぼや鬼ごっこだけではなく、裏山を流れる小川で川遊びもした。

 律子は、街で育った龍太の知らないことをいろいろと教えてくれた。
「そっちにいったらながされちゃうよ、りゅーたクン」
「そんなぁ、こんなちっちゃい川だもん、だいじょーぶだよ」
「ダメダメ、そっちはふかくなってるんだから」
「うそ?あんなにはっきりそこまでみえるのに?」
「もう、水がきれいだからそこまでみえるけど、すこしあおくなってるでしょ。ああいうところはふかくなってて、ながれがはやいの」
「へえ、そうなんだ」
「もう、とうきょうそだちって、なんにもしらないんだから」
「そんなこというなよ、ボクだってりっちゃんのしらないこといっぱいしってるんだから」
「そうね、それじゃこんどはりゅーたクンがとうきょうのことをおしえてちょうだいね」
 そう言って、律子は無邪気な笑みを浮かべる。

 
 裏山の麓にある、律子の家にも行った。

「ほう、律子が友達を連れて来るとは初めてじゃの」
 律子の家は、祖母と律子のふたり暮らしだった。
「あ、おじゃまします。ボクは、こばやしりゅうたといいます」
「ふむ、龍太くんか。あんたは、この里の子じゃないの?」
 律子の祖母が、舐め回すように龍太を見つめる。
「は、はい。なつやすみだけ、母さんのいなかにきてるんです」
「そうかえ。まあ、律子と仲良くしてやってくれの」
 口ではそう言うものの、律子の祖母の眼光は鋭く、正直なところ、龍太は律子の祖母が恐かった。
「は、はい」
「うむ、では、ゆっくりしていくがよい」

 律子の家は、あまり日が射さなくて薄暗い、古い家だった。律子の祖母は少し恐かったが、龍太は、ここだと里の人の目に触れることなく律子と話したり遊んだりすることができたのだった。

 そうして、龍太と律子が出会った最初の夏休みが終わろうとする頃。

「あーあ、りゅーたクン、とうきょうにかえっちゃうんだ。わたし、またひとりぼっちだなぁ」
 龍太が、律子にサヨナラを言いに行くと、律子は唇をとがらせ、後ろ手に手を組んで地面を蹴るような仕草を見せる。
「ごめん、らいねんまたかならずくるから、そのときまたいっぱいあそぼうね、りっちゃん」 
「うん!」  
 なだめるようにそう言うと、龍太は小指を律子に向けて差し出した。律子も笑顔で龍太の指に自分の小指を引っかけ、ふたりは指切りをする。
「じゃあ、バイバイ」
「バイバイ、またらいねん!」

 そう約束して龍太と律子は別れたのだった。

* * *

 約束通り、龍太は翌年も母の田舎に行って律子と遊んだ。そして、その翌年も。
 その次の夏が来る前に、龍太の祖父が亡くなり、田舎にいるのは祖母だけになったが、その年も、夏休みになると龍太は田舎で夏休みを過ごした。

 そうして、龍太が律子と出会ってから5年目の夏が来た。

 ふたりの遊び場である、里の裏山へと上る山道から少し入ったところ。龍太と律子がいつも待ち合わせていた一本杉の下。
 龍太を待っている律子の長い髪が風に靡いているのに、少し離れたところから龍太はもう気付いていた。

「律ちゃん見ぃつけた!」
 後ろからこっそりと近づいた龍太が、律子の顔を両手で覆う。  
「きゃ!もうっ!龍太くんったら!」
 驚いた律子が龍太の手を払いのけようとした。
「「あっ」」

 一瞬、律子の手が龍太の手を握る形になり、ふたりとも、短く叫んで顔を赤らめる。
 世間的には、ふたりともまだまだ子ども扱いされる年齢でも、この5年で、龍太も律子も、男と女として互いに意識するくらいには成長していた。

「ご、ごめんごめん。で、なに、用事って?」
「うん、なんかね、おばあちゃんが龍太くんを連れて来いって」
「律ちゃんのおばあちゃんが?」
「そうなの。私もどんな用事なのかわからないんだけどね」
 そう言うと、律子も不思議そうに首を傾げる。

「おお、よう来たの、龍太くん」
 一年ぶりに会った律子の祖母は、前よりも少し体が小さくなったような気がしたが、眼光の鋭さは以前と変わらなかった。
「どうも、お久しぶりです」
「うむ、来てもらったのは他でもない。これを頼めるのは龍太くんしかいないと思っての」
「なんでしょうか?」
「龍太くんは、犬坂の家が里から疎まれておるのを知っておるかの?」
「はい」

 それは、昔、祖父に聞いたことがある。それに、律子は友達もなく、ひとりで遊んでいた。

「それを知っていて、律子と仲良くしてくれる龍太くんだからこそ頼みたいんじゃ」
「どういうことですか?」

 龍太には、律子の祖母が何を言おうとしているのかわからなかった。

「この、犬坂の家は、奴隷の家じゃった。誰かに隷従し、仕えていかなければ後に残すことができない家じゃったのじゃ。それ故に、里の者から蔑まれ、疎まれてきた」
「奴隷の、家?」
「うむ、しかし、それも故なきことではなくての。犬坂の家の者。特に女は、主を定めてその者に隷従しなければ二十歳を越えることができぬ運命を負っておるのじゃ」

 龍太は、律子の祖母の言っていることが理解できなかった。主を持たなければ二十歳を越えられないって、そんなことが?いや、もしそれが本当だったら、律ちゃんも?

「主を定めると言うても、ただ主人決めて仕えるという話ではない。主と定めると、犬坂の女は、家に代々伝わる秘術を行い、その主におのれの全てを捧げねばならん。秘術というよりも、呪いとでもいうべき忌まわしき運命じゃが、それでも、それをせねば、犬坂の女は生きることができぬのじゃ」

 気付けば、いつしか律子も龍太の隣に座り、神妙な顔をして祖母の話を聞いている。

「そ、それで、僕にどうしろとおっしゃるんですか?」
「もうわかるのではないかの?幸いというか何というか、この犬坂の家も、もうこの婆と律子のふたりだけじゃ。犬坂の呪われた運命も、これで終わりになるかもしれん。じゃが、律子は犬坂の女じゃ。その運命に従い、主を定めねば、あと数年で死んでしまう命なのじゃ。しかし、祖母として、やはり孫の幸せを願わずにはおれん。主を定めるとしても、律子を幸せにしてくれる者に主になって欲しいのじゃ」
「それが、僕だと?」

 龍太は混乱していた。龍太ももう、律子の祖母の言葉の意味がわからない程には子どもではなかった。ただ、その内容はにわかには信じられないものだったのだ。
 呪われた家系とか、運命とか秘術とか、都会育ちの龍太にはやはり迷信としか思えなかった。そんなことが、現実にあり得るなんて考えられなかった。

「うむ、龍太くんは今まで律子に良うしてくれた。この婆も、良い男じゃと思うておる。どうじゃの、龍太くん。この婆の願いを聞き入れて、律子の主になってくれんか?」
「で、でも、そんなことが本当にあるなんて、僕には信じられません」
「そうじゃの、それも無理はあるまいて。まあ、信じられぬなら信じられぬでもよいのじゃ、犬坂の家のしきたりじゃと思うて、形だけでも受けてくれればよい」
「でも、もし本当にそんなことがあるのなら、それを僕だけで決めるのは…」
「うむ、そうじゃの。どうじゃ、律子。龍太くんが主でよいか?」
「え、あの、えーと、私はっ」
 いきなり自分に話を振られて、律子がうろたえる。
「よいか律子。龍太くんに自分の全てを捧げるということは、いわば、龍太くんのモノになってしまうという事じゃ。よく考えて決めるんじゃぞ」
「わ、私は、龍太くんに、全てを捧げても、い、いいよ……」

 律子は、顔を真っ赤にして下を向くと、小さな声でそう答えた。

「うむ、では、龍太くん、重ねて頼むが、律子の主になってくれんかの?」
「あ、は、はい。律ちゃんがそれで良いのなら」

 律子の返事を聞いて、龍太も心を決める。それに、そんなことなどあるはずがないと龍太は思っていた。こんなのは田舎の迷信の類だと。

「よし、それでは今から秘術を行う」
 龍太には、そう言った律子の祖母の目が、ギラッと光った様に思えた。
「い、今からですか?」
「秘術のやり方を知っておるのは、今ではこの婆だけじゃ。もう、そう先も長くないでな。のんびり待つわけにもいかんのじゃ」
「で、秘術って?」
「うむ、龍太くんは左の手のひらを、そして、律子は右の手のひらを出すがよい」
 そう言うと、律子の祖母は仏壇の奥から壺のような物を取り出した。
 そして、筆をその壺に差し入れると、要領を得ないままに差し出された龍太と律子の手のひらに十円玉ほどの大きさの円を描いていく。

 その円は、朱を引いたような。いや、墨やインクのような朱色ではなく。もっと赤黒い。そう、まるで乾きかけた血のような色をしていた。

「これでよい。では、次に、ふたりのその赤い円を合わせて、まず、律子がこう言うのじゃ”わたくし、犬坂律子は、小林龍太様に全てを捧げて奴隷となり、その言葉に従うことを誓います”とな」
「ど、奴隷って、そんな事、律ちゃんに誓わせるの!?」
「あくまでも文言じゃ。本当に律子を奴隷にしなくてもよい」
「で、でも」
「龍太くんが律子を奴隷にしたくなくても、この言葉を言わなければ術が完成せんのじゃ。まあ、そんな龍太くんじゃからこそ、この婆も安心できるんじゃがの」
 そう言って、律子の祖母は目を細める。龍太が初めて見る、律子の祖母の柔らかな表情だ。
「それで、律子の言葉に、龍太くんは”認める”と応えればよい。次に、龍太くんは、”われ、小林龍太は、汝、犬坂律子を奴隷とする。汝、われの言葉にすべからく従うべし”と言って、律子が”誓います”と言えば術の完成じゃ」
「はあ」
 龍太は、頭の中で律子の祖母の言葉を反復する。しかし、いきなり秘術と言われてもピンとこない。
「ではふたりとも、早速始めるんじゃ」
「あ、ああ……」
「えーと……」
 龍太と律子は、戸惑ったように互いに目を合わせる。
「何をしておるんじゃ。さっさと始めんかい」
 律子の祖母が、いつもの鋭い視線でふたりを促す。

 諦めたように、龍太と律子は差し向かいに座り、互いの手のひらの赤い印を合わせた。

 そして、律子の祖母の言ったとおりに文言を述べていく。

「わたくし、犬坂律子は、小林龍太様に全てを捧げて奴隷となり、その言葉に従うことを誓います」
「認める」
「われ、小林龍太は、汝、犬坂律子を奴隷とする。汝、われの言葉にすべからく従うべし」
「誓います」

 そう、最後の言葉を律子が言った瞬間。

「くっ!うわあああ!」
「えっ、きゃあああっ!あっ、熱いっ!」
 龍太と律子は、合わせた手のひらに灼けるような痛みを感じ、それぞれの手のひらの印が、心臓そのもののようにドクドクと脈打つのを感じた。

「い、痛たたた」
「はあっ、はあっ!いったい何なの、これ?」

 顔を顰めている龍太と律子を眺めながら、律子の祖母が静かに言い放つ。
「これで秘術の完成じゃ」
「完成って、私、龍太くんの奴隷になったって事?」
「な、何も変わりはないよな、律ちゃん」
 少し戸惑ったように、互いに顔を見合わせるふたり。
「言うたであろうが、あくまでも文言じゃと。しかし、術が完成した以上、律子を奴隷とするかどうかは龍太くんの心次第なんじゃがの」
「僕の、心次第?」
「まあ、こうなってしまっては、どうなっても、この婆にはもうどうにもできんがの。龍太くん、律子をくれぐれもよろしく頼むぞえ」
 そう言うと、律子の祖母は龍太に向かって頭を下げる。
「は、はい」

 律子の祖母の言葉に、龍太はただ頷くしかなかった。

 秘術の後、龍太と律子は裏山の小川のほとりに並んで座っていた。

 いつもなら、小川の冷たい水が両足を洗うのが心地良くて、ふたりのお気に入りの涼のとり方のはずだった。しかし、今はふたりの間を、少し重苦しい空気が覆っていた。

 トクントクントクン……。

 さっき手を合わせた時ほどではないが、ふたりの手のひらに描かれた印が、心臓のように脈打っていた。

 ドクンッ。

 そっと手を重ねて、印を合わせると、脈動が力強さを増す様な気がした。

「なんだか不思議な感じ。まるで、この印が呼び合ってるみたいだね」
 ようやく、律子が口を開いた。
「うん」
 龍太は頷くことしかできない。
「じゃあ、さっきのって、やっぱり本物の秘術なのかな?私、龍太くんの奴隷になっちゃったのかな?」

 きっとあれは本物だ。ただのしきたりや形だけの儀式なんかじゃない。
 龍太には、確信に近いものがあった。
 この印、さっき小川で手を洗った時も消えなかったし、なにか、律子と離れると鼓動のような感覚が小さくなって、近づくと力強く早くなるような気がしていた。

「本当に、これで良かったの、律ちゃん?」
「え、なにが?」
「こんな事をして。もし、あの秘術が本物だったら」
「いいんだよ。龍太くんの奴隷にならなってもいいなって思ったんだし。それに、もしこれが、本当に犬坂の女の運命で、誰かの奴隷にならなくちゃならないんだとしたら、わ、私は龍太くんの奴隷がいいなって…」
 そこまで言うと、律子は顔を赤くして下を向く。
 そのまま、ふたりは再び黙りこくる。

 トクントクン……。

 小川のせせらぎの音と蝉時雨の響く中、印が脈動するのを龍太は感じていた。

 その晩、風呂場で擦っても、龍太の左手の印は消えることはなかったのだった。

* * *

 秘術の日から3日後。

「律ちゃん」
「「見ぃつけた!」」
 龍太が、いつもの待ち合わせ場所にいる律子を見つけたと思うと、律子も龍太の方を見て大声で叫ぶ。
「ははっ、はははっ」
「ふふふふっ」
 そのまま、龍太と律子は、互いに顔を見合わせて笑い声をあげる。

「こんなんじゃ、もうかくれんぼなんかできないね、龍太くん」

 そう、律子の言うとおりだ。
 昨日龍太が思った通り、手のひらの印の脈動は、龍太が律子から離れると弱く小さくなり、近づくと力強く早く脈打つのだった。
 だから、かくれんぼで相手を探すのは簡単だ。印の脈動が示すままに行けばいいだけなのだから。

「もし、かくれんぼするんだったら、もーっと広いところでやらなくちゃね!」
 そう言って、律子はくすくすと笑う。
「まあ、もうかくれんぼする年でもないけどな」
 龍太も、律子につられるようにして笑みを浮かべる。

「ねぇ、今日は何しようか?」
「うーん、とりあえず小川まで行こうか。今日も暑いし、ちょっと涼んでからにしよう」
 龍太はそう言うと、律子の手を引いて裏山の中に入って行く。

「都会ッ子の龍太くんも、すっかりこの裏山は庭みたいになっちゃったね」
 先を行く龍太を追いかけながら律子が言う。
「まあね。でも、里のことは何にもわからないよ」
「ふふっ、毎年来てるのに?」
「だって、いっつもこっち来たらすぐ律ちゃんに連絡して、その後はずっと一緒にいるじゃんか。いつも裏山か律ちゃんの家にいるかのどっちかだよ」
「ああっ、そうかあ」
 今思い出したように声をあげて律子は笑う。

「龍太くんと遊ぶようになってもう5年かあ」
 小川への山道を歩きながら、感慨深げにそう呟く律子。
「そうだな、あの頃は律ちゃんも小さくて、ひとりでかくれんぼなんかしてたよな」
「なによー、龍太くんだって今よりずっと小さかったじゃない!」
「ははは、そうだな」
「……あの時、一緒にかくれんぼしてくれてありがとうね、龍太くん」
 普段、里の子から仲間はずれにされていても、悲しげな素振りすら見せないのに、そう言った律子の目は、どこか寂しげで、しかし柔らかい光を湛えていた。
「律ちゃん」

 そのまま、律子がどこかに行ってしまいそうな気がして、思わず龍太は手を伸ばした。

「え?」
「ほら、そこ足場が悪いから、僕の手につかまりなよ」
「うん」
 律子が、差し伸べられた手を掴む確かな感覚が龍太の手に伝わってくる。
 手のひらの印の脈動が、強くなるのを龍太は感じた。

 その時、踏み出そうとした律子の足が滑った。

「きゃ!」
「うわあっ!」
 律子に引っ張られるようにして一緒に転んだ龍太は、咄嗟に律子の体を抱きかかえて庇い、受け身を取る。

「痛たたた」
「だ、大丈夫、龍太くん!?」
「大丈夫だいじょう…ぶ」

 抱きかかえた律子の顔がすぐ目の前にあることに気付いて、龍太は言いよどむ。
 小さい頃は日に焼けていた肌も、今はだいぶ白くなり、子どもっぽかった丸顔もだいぶ細くなっていたが、色素の薄い赤みを帯びた髪は昔のままだ。その、心配そうに龍太の顔を覗き込んでいる律子の黒く澄んだ大きな瞳が揺れていた。

「ど、どうしたのっ、どこか打ったの!?」
「いや、こんなに近くで律ちゃんの顔見たの初めてだから、つい見とれちゃって」
「ば、ばかっ、もうっ、龍太くんったら!」
「律ちゃん」
 龍太は、律子を抱きかかえる腕にぎゅっと力を込める。
「あ、龍太くん…」
 律子は、ハッとした表情で龍太を見つめる。

 そのまま、どちらからともなく唇を重ねるふたり。

「キス、しちゃったね、龍太くん」
「うん」

 律子が自分の胸に手を当てる。
「なんだろう?トクントクンていってるのが、私の心臓なのか手のひらの印なのかわからなくなってきちゃった」
 そう言うと、律子は龍太の手を取って自分の胸に当てる。

 トクントクン、と龍太の手に律子の心臓の鼓動が伝わってくる。

 黙ったまま、龍太が律子の胸に手を当てていると、律子の手が再び動き、ブラウスのボタンを外していく。
「え?律ちゃん?」
 そして、律子は龍太の手をブラウスの中へと導いていく。
「ちょ、ちょっと、律ちゃん!」
「いいの、龍太くん」
 そう言った律子の頬には赤みが差し、瞳の潤みが増しているように見えた。
「んっ、はあぁ」
 龍太の右手が、律子の、まだ発達途上のささやかな胸のふくらみに触れると、律子の口から切なそうな吐息が漏れる。
「ん、もっと、もっとお願い、龍太くん」

 律子にせがまれるまま、龍太が、印のある左手で律子の胸に触れたとき。

「んんっ、んああああああっ!」
 大声とともに律子の体が跳ね上がった。

「り、律ちゃん!?」
 驚いた龍太が思わず左手を引こうとすると。
「いやあああっ!やめないでええええっ!」
 律子が、両手で龍太の左手を掴むと、自分の胸に押し当てる。
「ああああっ!しっ、印がっ、私の体は龍太くんのモノだって言ってる!わっ、私にはわかるのおおっ!」
 律子が叫ぶたびに、その体が龍太を弾き飛ばさんばかりに跳ねる。
「ふあああああっ!りゅっ、りゅうたくんっ!あああっ!りゅうたくんっ、りゅうたくんんんんんっ!」
 龍太の左手を掻き抱くようにして自分の胸に押しつけていた律子の手に、ぎゅっと力が入ったかと思うと、今度は一気に力が抜ける。

「律ちゃん?」
 心配した龍太が律子の顔を覗き込む。
「あ、ああ、りゅ、龍太くんの左手に触られたら、一気に、頭の中が、真っ白になって、なんか、ま、周りが、ぼんやりとしてきちゃって」
 はぁはぁと、大きく息をしながら途切れ途切れに言う律子。その顔は龍太の方を向いているのに、龍太が見えているのかいないのか、その視線は泳いでいる。
「でも、きっとこれ、すごく気持ちいいんだと思う。だって私、今こんなに幸せな気分なんだもん。ああ、私、本当に龍太くんのモノになっちゃったんだね」
「律ちゃん…」
「またしようね、龍太くん」
 そう言うと、律子は龍太の体を抱きしめてきたのだった。

* * *

 その日から、龍太と律子のやる遊びは変わった。
 
 人の来ない裏山の茂みで、小川の川縁で、互いの体を寄せ合い、確かめるように手で触れ合う。それはまさに、ふたりだけの秘め事だった。
 この年頃は、女の方が心の成長が早い、特に、性の目覚めに関しては。だから、常に律子の方が積極的だった。

「ああっ、すごいっ、すごいよ龍太くんっ!」
 龍太が左手で律子の肌に触れると、律子の身体が大きく跳ねる。
「ふあっ!なっ、なんか魔法にかかったみたい!龍太くんの左手に触られると、気持ちよすぎてっ、体が蕩けちゃいそうなの!」
 そう叫ぶ律子の目は、もうすでに蕩け切っている。
「ああっ、龍太くん!もっと、もっと龍太くんを感じさせて!」
 自分の手で、龍太の左手を押さえて、自分の体の隅々まで触らせて喘ぐ律子。
「んんっ、ここっ、すごすぎてっ、ああああああああっ!」
 龍太の左手を自分の股間に導いたとき、律子の体が大きく反り上がり、その、まだ男を迎え入れたことのない裂け目から、泡を吹くように液体が噴き出した。

「はぁっ、はぁっ、ねえ、龍太くん」
 また、龍太の左手で達した後、荒い息の下、律子が龍太に話しかける。
「ん?」
「龍太くんさえ良かったら、私は構わないんだよ」
「何が?」
「あの、せ、セックスとか」
「ば、バカッ!まだ早いよ!」
「どうして?」
「だって、律ちゃんの体はまだ…」
「そんなことはいいの。私の体は龍太くんのモノなんだから、龍太くんさえその気なら」
「そ、その気なんてまだっ!ね、律ちゃん、それは、もっと大人になってからしようよ!」
「うん、わかった」
 素直に返事をしながらも、律子の表情は少し寂しそうだった。

 そんなある日、律子の家。

「あれ、おばあさんは?」
「今日は、畑の方に行ってる。きっと、夕方まで帰ってこないと思う」
 そう言って、服を脱ぎ始める律子。
「だから、今日はうちでしようよ」
 まだ、ふくらみかけの胸を露わにした姿で律子は龍太の前に座る。
「うん」
 龍太は頷くと、律子の体に手を伸ばす。
「ひゃあっ!あああああっ!」
 胸だけではなく、ふとももでも、尻でも、体のどこであっても、龍太が左手で触るたびに、律子は大声で喘ぎ、体を悶えさせる。

 そして、
「んくうううううっ!りゅっ、りゅうたくんんんんっ!」
 龍太の左手を抱くようにして自分の胸に押しつけていた律子の体がブルブルと震えたかと思うと、グッタリと崩れ落ちる。

 それから数分後のこと。

「ね、ねぇ、龍太くん私に命令して」
 大きく息をしながら横になっていた律子が起き上がり、いきなりそう言った。
「め、命令って?」
 突然のことに、龍太が聞き返すと、律子は潤んだ瞳を龍太の方に向けた。
「龍太くんのことを気持ちよくするようにって、私に命令するの」
「ど、どういこと?」
「印が教えてくれてるの。龍太くんは私の主で、私は奴隷なんだから、龍太くんは私に命令しなくちゃいけないんだって」
「印が?だって、僕の印はそんなこと言ってないし」
「それは、きっと、龍太くんが主だから。昔は、主が奴隷に命令するのは当たり前のことだって、みんなそう思ってたんじゃないかな。だから、何も言われなくても、主は普通に奴隷に命令してたんだよ。きっと、昔は龍太くんみたいな主はいなかったんだと思う。それに、私は犬坂の女だし、だから印からいろんな事が伝わってくるのかもしれない」
「で、命令すると、どうなるの?」
「それは、私は龍太くんの奴隷だから、その命じたとおりにすると思うわ」
「そ、そんな、でも、どうしていきなり」
「だって、龍太くんのそこ、そんなになってるじゃない」

 律子が指さしたのは、下着からはみ出しそうなほどにふくらんでいる龍太の股間。

「いっつも私ばかりが気持ちよくしてもらってるから、龍太くんにも気持ちよくなってもらいたいの」
「で、でも」
「ねえ、お願い、龍太くん。命令して、龍太くんのことを気持ちよくするようにって」
「う、うん」

 龍太にすがりつくようにしてせがむ律子に、思わず龍太は頷く。

「うれしい!じゃあ、お願い、龍太くん」
 龍太の了解を得て、パッと律子の顔が綻ぶ。
「……わかったよ。じゃあ、命令だ、律子。僕を気持ちよくさせるんだ」

 龍太がそう命じると、律子の顔から表情が消え、目が虚ろになった。

「かしこまりました、龍太様」
 そして、律子が、深々と頭を下げる。
「り、律ちゃん?」
 突然、龍太様と呼ばれて龍太は戸惑う。

「私のことは、律子、とお呼び下さい、龍太様」
 そう言って、再び律子が顔を上げた時、そこには笑みが戻っていた。
 しかし、それはさっきまで浮かべていた無邪気な笑みとは全く違う、まるで、大人の女のような表情だった。

「それでは、何でご奉仕いたしましょうか、龍太様」
 三つ指をついてそう言う律子の口調は、いつもの快活なそれではなく、抑揚のない平坦なものになっており、透明感のある律子の声はそのままだったが、抑揚のない話し方だと、龍太にはそれがかえって異様に思えた。
 目の前にいるのは確かに律子なのに、龍太は自分の知らない大人の女性と話しているような錯覚を覚えていた。

「な、何って?」
「手でご奉仕いたしましょうか、口でいたしましょうか、それとも…」
 律子らしくない、妖しげな笑みを浮かべたまま、淡々と話す律子。
「手でっ、手でやってくれっ!」
 その先を聞きたくなくて、龍太は叫ぶようにして律子の言葉を遮る。

「かしこまりました。龍太様」
 そう、抑揚のない口調で答えると、律子は、龍太の下着をずらし、印のある右手で龍太の股間の物を掴む。

「うっ、うわああっ!」
 律子の右手が触れた瞬間、電気が走るような感覚が下半身から頭のてっぺんまで駆け抜けて、龍太は堪らずに大声を上げた。

「気持ち、よろしいですか、龍太様」
 さっきまでと見違えるようにいきり立った龍太の肉棒を握った手を、ゆっくりと律子は動かしていく。それだけで、龍太の肉棒はビクビクと震え、龍太は、頭の奥が、じん、と痺れるように感じた。

「くうううっ!り、律ちゃん!」
「律子、と呼んでいただけないのですか?」
 肉棒を握ったまま龍太を見上げると、律子は悲しそうな表情を見せた。しかし、すぐに視線を落とすと、再び肉棒を扱き始める。

「ああ、こんなに大きくなって。気持ちよろしいのですね、龍太様」
 うっとりとした表情で龍太の肉棒を眺めながら、手を動かし続ける律子。

 快感。確かにそれは快感なのだろう。
 龍太の思いとは裏腹に、律子に扱かれている肉棒はズキンズキンと疼き、龍太は痺れるような感覚に全身を襲われていた。

「もっと、気持ちよくなって下さい、龍太様」
「くああああっ!」

 龍太は泣きそうな思いだった。いや、きっと、もう泣いていたに違いない。
 こんな律子の姿は見たくなかった。律子の口から、そんな言葉は聞きたくなかった。
 しかし、律子に奉仕されるまま快感に犯されるのを、龍太自身止めることができなかった。

 そして、その時がやって来る。

「ああっ、出そうなのですねっ、龍太様!」
 いつしか、龍太の肉棒を熱心に扱いていく律子の口調が、それまでの抑揚のないものから変わっていた。熱でもあるかのように律子の顔は火照り、瞳を潤ませた、その目尻はすっかり緩んでいる。
「うあっ、ああああっ!」
「どうぞっ、どうぞお出しになって下さい!」
 律子が、龍太の肉棒に顔を近づけ、その扱く手に力がこもる。

「うあああっ、もうダメだよっ、律ちゃん!」
「ああっ、ふあああああっ!」

 龍太と律子、ふたりがほぼ同時に絶叫を上げ、龍太から迸った、白く濁った液体が、律子の顔、髪、胸を汚していく。

「ふあああっ、あっ、ありがとうございます龍太様!こんなにお恵みを頂戴して!んんんっ、ああっ、熱いですっ!」
 まだ、射精を続ける肉棒を握ったまま、律子の体がブルッ、と震えた。

「んん、龍太様ぁ、はあ、はあ……あ、あれ、私?」
 白濁液で顔を汚したまま、しばらく大きく息をしていた律子が、我に返ったような声をあげる。
「そうかぁ、今のがそうなんだぁ。龍太くんの奴隷になるって、こういうことなんだね」
 少しの間何か考えていた後、そう言って龍太を見上げた律子の表情も、その口調も、いつもの律子のものに戻っていた。

「……泣いてるの、龍太くん?」
「ごめん、律ちゃん、本当にごめん、僕はっ」

 その時、涙を流しながら謝る龍太の顔が、柔らかいものに包まれた。

「龍太くんが私の主で良かった。他の誰でもなく、龍太くんの奴隷でいられて、私、本当に幸せ。だから、もう泣かないで、龍太くん」
 龍太の頭を抱きかかえながら、律子は優しく囁く。
「律ちゃん…」
「だって、私の方から命令してって言ったんだし。それに、自分の主に、命令してって命令ができる奴隷は、きっと世界中で私ひとりだけだよ」
 抱いていた手を緩め、龍太の目を見つめてそう言うと、律子は柔らかな笑みを浮かべる。
「だから、また私に命令してちょうだいね、龍太くん」
「う、うん」
「もっと大人になったら、もっともっといろんなことしようね」
 そして、律子はもう一度龍太の頭を、ぎゅう、と抱きしめる。

 その夏、律子にせがまれるまま、龍太は3回、律子に「命令」をしたのだった。

 そして、その年も夏の終わりはやってきた。

「じゃあ、また来年だね、龍太くん」
「うん」
「あの、龍太くん」
「なに?」
「忘れないでね、私は龍太くんのモノだってこと」
「うん、忘れないよ」
「バイバイ、じゃあ、また来年会おうね」
「うん、また来年、きっと」

 いつものように、来年も会う約束をして別れたふたり。

 しかし、その約束が守られることはなかった。

 その年の暮れ、龍太の祖母が亡くなった。
 法事に出るために、龍太は両親とともに母の田舎に戻った。
 
 トクン。

 法事の間、龍太は、手のひらの印が静かに脈打つのを感じていた。
 きっと、律子も龍太が里に来ているのを感じているだろうなと龍太は思った。しかし、その時は、法事が終わるとすぐ東京に戻ることになっていたので、律子と会うことはできなかった。

 その翌年から、もう龍太の家族が母の田舎に戻ることはなかった。
 もともと、親族との関係もそれほど親密ではなかったし、祖父と祖母のいなくなった今では、龍太がひとりだけで母の田舎に行くことも難しかったのだ。

 そうして、龍太が律子と会うことなく、一年、また一年と月日は過ぎていった。

* * *

 8月末。

 龍太が最後に律子と会ってから、5回目の夏が終わろうとしていた。
 今では龍太は、あの最後の夏の出来事は夢ではなかったかと思う時がある。

 しかし。

 雑踏の中を歩きながら、龍太は左の手のひらを見る。
 そこには、決して消えることのない赤い印が、あの夏の出来事が夢ではないことを物語っていた。

(「ふーん、小林君ってこんな所に変な痣があるんだね」)

 以前、一度だけ、周囲に薦められてつき合った女の子が言っていた言葉を龍太は思い出していた。
 その子とは、些細なことでケンカをして、すぐに別れてしまったのだけど。

 律ちゃんは今頃どうしているんだろうか?

 ずっと都会で暮らしていると、あの夏のことだけでなく、母の田舎ですごしたこと自体が幻のように思えてくることがあった。
 律子と、ふたりだけでやったかくれんぼ、里の裏山での川遊び、そして、ひと夏だけの秘め事……。

 今はただ、左の手のひらにある印だけが、龍太と律子を結びつけている儚い証のように思えた。

 その時。

 トクン…。

 龍太は、手のひらの印が脈打ったような気がした。
 まさか?ひょっとして律子が?
 いや、きっと気のせいだ。こんな季節に律子のことを考えていたから、印が脈打ったような気がしたんだろう。
 龍太は、胸に浮かんだ淡い期待をうち消す。

 しかし。

 トクン。

 今度ははっきりと感じた。
 静かにだが、確かに印が脈打っている。

 律子が、近くまで来ている。
 龍太の中の期待が、確信に変わった。

 トクン、トクン。

 少しずつだが、強くなっていく脈動。
 龍太は、律子がこっちに近づいているのをはっきりと感じていた。

 トクントクントクン……。

 脈動が、次第に早く力強くなっていく。
 それが、印の脈動なのか、自分の胸が高鳴る音なのか、龍太にはもうわからなかった。

 そして。

「龍太くん、見ぃつけた」

 懐かしい、透明感のある声が聞こえた。

 龍太が振り向くと、そこに律子が立っていた。
 最後に会ったときよりも、さらに背が伸びて、少し痩せていたが、龍太にはそれが律子だとすぐにわかった。
 昔と変わらない、黒く澄み切った瞳。そして、色素の薄い、腰まである律子の長い髪が風に靡いている。

「……見ぃつかった」

 それは、ふたりだけの合言葉。
 その言葉を待っていたように、律子の顔に笑みがこぼれる。

 そのまま、夏の終わりを告げる少し冷たい風の吹く中、黙って見つめ合う龍太と律子。

 トクントクントクン……。

 ふたりの気持ちを代弁するかのように、印の脈動する音だけがはっきりと、そして力強く響いていた。

< 終わり >

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