本編
昔、とある山里に、犬坂長者と上杉長者という、ふたりの大金持ちが住んでおった。犬坂長者も上杉長者も、広大な田畑を持ち、多くの使用人を抱えて、「西の犬坂、東の上杉」と呼ばれて、それはそれは羽振りが良かった。
特に、犬坂の現在の当主、宗兵衛(そうべえ)は三人の息子とふたりの娘に恵まれていた。ことに、初(はつ)と志乃(しの)の娘ふたりは、肌は透き通る程に白く、濡れた様に光る見事な黒髪を持ち、村の外にまで評判が響き渡るほどの美貌の持ち主で、宗兵衛の自慢の種であった。
実は、この、犬坂の家の繁栄には秘密があった。
犬坂長者がこれ程に栄えているのは、犬坂の家が持っている山の中にある泉のおかげであった。その泉の水は、どんな干魃の時でも滾々と湧き続けて犬坂長者の田畑を潤していた。その泉のおかげもあって犬坂の田は毎年のように豊作続きであったのだ。
「うむ、これは……」
ある日、宗兵衛は泉のほとりに立って考え込んでいた。その数日前から、泉と田を結ぶ水路を流れる水量が減っている様な気がした宗兵衛が来てみると、泉から流れ出る水が目に見えて少なくなっていたのだ。
このようなことは、かつて無かったことじゃ。
今まで、どんな日照りの時でも涸れたことのない泉の水が明らかに減っている。今、犬坂の家の繁栄があるのも、全てはこの泉があったおかげであった。もし仮に、この泉が涸れるようなことがあれば、それは犬坂の家の存亡に関わる問題だ。
しかし、泉の水が涸れるなど、これまでに無かったことなので、どうしたらよいのか宗兵衛にもわからなかった。
「これは、いかがしたらよいものか?」
このまま放っておくわけにもいかず、さりとて、泉を元に戻す手だての見当もつかないままに、宗兵衛は腕を組んで立ちつくしていた。
「あの、父上、よろしいですか?」
その時、宗兵衛に従って泉の様子を見に来ていた長男が口を開いた。
「うむ、なんじゃ?」
「はい、父上。近頃、里の者の信仰を集めている全嶽(ぜんがく)という修験者がおります。なんでも、諸国を巡り歩き、たいそう霊験のある者であるとか。当家の使用人にも、重い病を治してもらったという者がおります。それだけではなく、枯れた木を蘇らせたとか、道を塞いだ倒木をいとも簡単に動かしたとかいう話もあります。ここは、かの者を召してみてはいかがでしょうか?」
「ふむ、廻国の修験者か……」
「駄目でもともと。このまま何もしないでいるよりかは、神仏にでもすがる他はないかと」
「うむ、そうじゃの」
たしかに、宗兵衛には、どうしたら泉を蘇らせることが出来るのか皆目わからない。息子の言う通り、とにもかくにもその修験者を呼ぶ方が、このまま手をこまねいているよりかはましの様にも思えた。
「わかった、それではその全嶽という修験者の所に早速使いの者をよこすのじゃ」
宗兵衛は息子の言葉に同意すると、屋敷への道を降り始めたのだった。
* * *
その、全嶽という修験者がいったいどこの者であるのかは誰も知らなかった。大峰山や出羽三山など、名だたる霊山で修行を積み、鬼神を操る術を究めたという触れ込みで、全嶽が里のはずれにある庵に住み着いたのは半年ほど前のことであった。
最初、里の者は半信半疑であった。だが、全嶽が、田を鋤いている最中に倒れた牛を治療したり、街道の上に倒れてきた大木を人とは思えぬ怪力で押しのけたりしているうちに、次第に全嶽の所に頼み事をする村人が増えていったのだった。
そして、全嶽に頼めば間違いなく問題が解決するという評判が立つのにそう時間はかからなかった。全嶽にかかれば、どんな重病人もすぐに良くなり、失せ物もたちまち見つかった。ただ、全嶽の要求する謝礼が少し高いのではないかという者もいたが、それでも全嶽に頼み事をする者は後を絶たなかった。
犬坂の使いの者が全嶽の所を訪れたのはそんな時であった。
犬坂の屋敷。
「ふむ、拙者に頼みたいというのは何事かな?誰か病人でも居るのかの?」
屋敷の中に招き入れられた全嶽は、宗兵衛の元に通されるとふんぞり返るようにして座り、宗兵衛に訊ねる。
「いえ、病人ではなくて、実は……」
全嶽の傲岸不遜な態度を不快に思わないではなかったが、そんなことは表情には出さずに、宗兵衛は泉の水が涸れ始めていることを説明する。
「なるほどの。泉の水がのう。」
全嶽は頬をさすりながら大きく頷き、顔を覆う針金の様な剛毛が、ジャリ、と音を立てる。
「いかがでしょう、やっていただけますでしょうか?」
宗兵衛も、はたして全嶽が泉を蘇らすことが出来るかどうかは半信半疑であったが、全嶽の機嫌を損ねては元も子もないので、へりくだって頭を下げる。
「うむ、泉の水が涸れるということは、水脈が動いたということじゃ。水脈とは、水神すなわち龍の通り道。龍を呼び寄せれば泉を蘇らせることなど容易いこと」
「では?」
「よろしい、拙者に任せておけばよろしい。泉を元に戻して進ぜようぞ」
そう言うと、全嶽は胸を反らせる。その偉そうな態度を内心忌々しく思いながらも、宗兵衛はただただ頭を下げるのみであった。
翌日。
泉のほとりにある大きな岩の上で護摩を焚き、時々奇声を上げながら、全嶽は呪を唱えている。その場に立ち会っているのは、宗兵衛と三人の息子のみ。
四人が、固唾を呑んで見守る中、全嶽の、数珠を振りつつ呪を唱える声が次第に大きくなっていく。
やにわに、全嶽が、横に置いていた錫杖を手に立ち上がったかと思うと、泉の中に飛び降りる。
そして、全嶽は、すっかり量が減ってくるぶし程までしか水がない泉の真ん中に立つ。
「キエエエエエエエッ!」
全嶽が、一際鋭い気合いとともに錫杖を振り上げたかと思うと、泉の中に突き立てる。
「ふんっ!」
もう一度、気合いを放って全嶽が錫杖を引き抜くと、そこからゴボゴボと音を立てて水が噴き出してくるのが宗兵衛たちにもわかった。
「おおっ!」
どんどんと泉の水が増していくのを見て、宗兵衛と息子たちは泉から上がってきた全嶽に駆け寄る。
「ありがとうございます全嶽様!ささ、どうぞこちらへ。屋敷の方で濡れたお召し物を取り替えますゆえ。ああ、いやいや、護摩壇の片付けはこちらでいたしまする」
そう言って、宗兵衛は全嶽の手を取って屋敷の方へ連れていく。次男と三男が、長男の指示で岩の上の護摩壇を片付けていた。
その晩、犬坂の屋敷では全嶽のために酒宴が開かれていた。
「まこと、全嶽様の験力の見事さ、ただただ感嘆するばかりでございます」
酒宴の席で、宗兵衛は全嶽への称賛を惜しまなかった。現金なもので、昨日対面したときに全嶽の不遜さを不快に思ったことなどおくびにも出さない。
「ガッハッハ、いやいや、あれしきのこと拙者には訳のないことでござるよ」
そう言って、全嶽は豪快に笑う。すでにかなり酒も入っており、ただでさえ尊大な態度に荒々しいまでのがさつさも加わり、宴席に加わった者の中にはあからさまに眉を顰める者もいた。しかし、全嶽はそんな事は一向に構う様子もない。
いちおう、修験者も神仏に仕える身ではある筈なのだが、そんなことは全く意に介していない様に全嶽は酒をあおり続ける。
「しかし宗兵衛殿、実はまだ泉は完全に元に戻ったと言えんのじゃ」
「と、申しますと?」
突然、そんなことを言い出した全嶽に宗兵衛は怪訝な表情を見せる。
「うむ、うまく水脈を掴まえることは出来たがの。まだ定まってはおらん。龍神というのはなかなかに気まぐれなものでの、捉えることが出来ても居着かせることが出来たかどうかはしばらく様子を見なければわからんのじゃ」
「左様でございますか」
「うむ、まあ、その時はその時で、別な水脈を掴まえれば良いだけの話だがの。ガッハッハ!」
そう言って笑いとばすと、全嶽はまた盃を傾ける。
「まあ、その様なことでしたら、全嶽様さえよろしければ、どうぞこの屋敷にゆるりと逗留してくださいませ」
「左様でござるか。それではそうさせていただくと致そう」
全嶽は、宗兵衛の言葉に遠慮もなく応じると、グイッ、と盃をあおった。
その頃、犬坂の屋敷の廊下。
「ふう、まったく、なんて忙しさなんでしょう」
廊下から庭を眺めて一息ついているのは、宗兵衛の長女の初だった。
今日は、なにやら大事な酒宴とやらで、使用人はもちろん初をはじめとする女手は皆かり出され、初はようやく廊下に出て休憩をとれたところだった。
(あの、全嶽とかいう行者。今日、お父様と屋敷に戻ってから下にも置かないもてなし様だけど、いったい何があったのかしら?)
犬坂の泉のことは代々秘密とされ、たとえ家の者でも、男子にしか知らされないことになっていた。だから、初は泉のことは知らないし、当然、全嶽が涸れかけていた泉を蘇らせたことなど知る由もない。
(それにしても、あの全嶽という人、威張りくさって、なんだかがさつそうな人……)
この家で、大切に育てられてきた初には、全嶽の粗野な物言いが気に入らなかった。それに、人の屋敷の中で偉そうにしてしている傲慢さも鼻持ちならなかった。
(どうしてお父様はあのような者を屋敷の中に招いて、その上、酒宴なんて開くのかしら?)
初が、庭を眺めながらそんなことをぼんやりと考えていた時。
「それでは、しばし厠へ行ってまいりまするぞ」
酒宴をしている広間の方から、破鐘のような声が聞こえたかと思うと、ドスドスという足音が初の方に近づいてきた。
初が慌てて振り向くと、目の前に、あの全嶽とかいう修験者が立っていた。
全嶽のことを快く思わない初だが、幼い頃から行儀作法は躾けられているので、そんなことは表情にも出さず黙って全嶽に頭を下げる。
しかし、一向に全嶽が動く気配を感じないのを不審に思った初が顔を上げると、初のことを凝視している全嶽と目が合った。
初の目の前に、針金のような髭に覆われた全嶽の顔があった。だいぶ酒が入っているのだろう、やはり太く濃い眉の下の、仁王か達磨のようにギョロっとした眼は血走り、鼻息も荒く初を見つめている全嶽。
「あ、あの、どうかなさいましたか?」
少し怯えながら、初がようやく口を開く。
しかし、全嶽はそれに答えることなく、ニタッ、と笑うと、またドスドスと足音を立てて厠の方に歩いていった。
(怖い、なんなの、あの人)
全嶽の姿が見えなくなると、初は思わずその場にしゃがみ込む。自分の心臓が、どきどきと早鐘のように鳴っているのを初は感じていた。
「お姉様、どうなさったのですか?」
不意にかけられた声に、柱に手をついてしゃがみ込んでいた初は我に返る。振り返ると、妹の志乃が心配そうに初の方を窺っていた。
「あ、いえ、何でもないのよ、志乃」
初は、立ち上がると、安心させるように志乃の頭を撫でる。
「でも、お姉様、今の様子はただごとでは……」
初を見上げる志乃の大きな瞳が、不安げに揺れていた。
「本当に何でもないのよ、志乃。少し疲れただけだから」
そう言うと、初は志乃に笑顔を見せる。普段はおっとりしているが、家族思いで、こういう時には細やかな気遣いを見せる妹が初は愛おしかった。
「それなら、少し部屋で休んだ方が」
「ううん、大丈夫。忙しいのももう少しだから、頑張りましょう」
初は、志乃の肩に手をかけると、並んで水屋の方に入っていく。
(それにしても、いやだ。あの全嶽とかいう人、なんて薄気味悪いのかしら)
妹には笑顔を見せていたが、漠然とした不安が初を包み込んでいたのだった。
* * *
そんな初の不安にも関わらず、全嶽は犬坂の屋敷に逗留し続けた。
そして、初の不安が明確な恐怖に変わるのに、そう時間はかからなかった。
誰かに見られているような視線を初が感じて、辺りを見回すと、全嶽と目が合うこともしばしばであった。早朝、朝の支度を手伝っているときに視線を感じた時には、水屋の戸の向こう、だいぶ離れた場所から初を見ている全嶽の姿を見つけて、思わず盆を落としそうになったこともあった。
また、気晴らしに庭を歩いている時には、裏手の山から降りてきて勝手口に入ってきた全嶽と鉢合わせして、あの時と同じ、ニタリとした笑みを浮かべる全嶽から駆けるようにして逃げたこともあった。
そのうち、初は部屋に籠もって、必要なとき以外はなるべく外に出ようとはしなくなった。
「お姉様、原因は、あの全嶽とかいう行者ですね?」
そんな姉を心配して、なにかと初の身の回りの世話をしていた志乃がある日、そう切り出した。
「志乃?」
初を恐怖に陥れている、まさにその理由を言い当てられて、初はハッとして妹の顔を見つめる。
「やっぱり……。家の者が何人か、お姉様の方をじっと見ているあの行者の姿を見かけたという話を聞いたので」
そう言って、顔を伏せる志乃。志乃もあの男に恐怖を感じているのか、伏せた睫毛が小さく震えている。
少しの間そうやって顔を伏せていた志乃が、思い詰めた表情で口を開く。
「お姉様、私がお父様に掛け合ってあの行者を追い出してもらいます。だから、だから」
そう言って初を見上げている志乃の目は、涙を一杯に溜めて今にも溢れそうだった。
「大丈夫、大丈夫よ、志乃」
初は、そう言うと志乃を抱きしめる。
「でも、お姉様」
「きっと、あの男はもうすぐ出て行くわ。そう、きっと」
妹を抱きしめながら、言い聞かせるように初は呟く。それは、まるで自分に言い聞かせているようでもあった。
しかし、その時にはもう事態は動き始めていたのだった。
初と志乃が会話を交わしていた同じ頃。
「宗兵衛殿。もう大丈夫でござるぞ」
全嶽が、宗兵衛の部屋にやって来ると、そう言い放った。
「大丈夫、と言いますと?」
「うむ、泉の下の水脈も固まった様じゃ。もう龍神が他に行く心配もあるまい」
そう言いながら、全嶽は宗兵衛の前にどっかと腰を下ろす。
「では、もう泉のことは心配しなくてもよいと?」
「そうじゃ」
「おお、ありがとうございます、全嶽様。なんとお礼を申して良いのか」
宗兵衛は全嶽の手を取ると、頭を下げる。
「うむ、そのことじゃがの、宗兵衛殿」
珍しく、全嶽が声をひそめる。
「はい?」
「宗兵衛殿には娘御がふたり居ろう。この度の謝礼として、その、上の娘を拙者の嫁にくれんかの」
「なっ!お初を!?」
全嶽がいきなりとんでもないことを言いだしたので、宗兵衛は目を丸くしてそう言ったきり言葉が続かない。
「うむ、そのお初じゃ」
しかし、全嶽はそんな宗兵衛など意に介する様子もない。
「い、いや、しかし、それは……」
さすがに返事をしかねて言い淀む宗兵衛に、ずい、と顔を寄せて全嶽は話を続ける。
「聞けば、あの泉はこの家の存亡に関わるほどのものと言うではないか。ならば、娘のひとりを差し出すくらい安いものであろう」
まるで、人の娘を物の様に言う全嶽の態度に、さすがに宗兵衛も気分を害する。
「お初は、儂の娘は、その様にやり取りするものではござらん」
「まあまあ、そう言うでない、宗兵衛殿。拙者にお初をくれれば、今以上にこの家を栄えさせてやろうぞ」
全嶽は、ジャララ、と数珠を鳴らして宗兵衛に迫る。
「しかし……」
「よし、わかった」
なおも色好い返事を返さない宗兵衛の様子を見ていた全嶽が、業を煮やした様に立ち上がる。
「ぜ、全嶽様?」
「そなたが娘をくれぬと言うのなら、泉に行って龍神を追い払ってくるまでじゃ」
「おっ、お待ち下され、全嶽様!」
そのまま部屋を出ていこうとした全嶽に、宗兵衛がすがりつく。
「それでは、娘を拙者にくれるのか、宗兵衛殿?」
「う……」
それでも、即答しかねていた宗兵衛にひとつの思案が浮かんだ。
「どうじゃ、宗兵衛殿?」
勝ち誇ったように宗兵衛を見下ろす全嶽を見上げ、宗兵衛はようやく口を開く。
「よいでしょう。だだし、今ひとつ条件がございます、全嶽様」
「ふむ、なんじゃな?」
「犬坂の土地の外れに、岩ばかりの荒れ地がございます。あそこを、十日のうちに田圃にすることが出来ましたら、お初は全嶽殿に差し上げましょう」
宗兵衛がそう言うと、全嶽はしばし沈思する。
「わかった。そんなのはお安いご用じゃよ」
やがて、全嶽が満面の笑みを浮かべてそう言ったのだった。
* * *
犬坂の土地の外れに、広大な荒れ地があった。ゴツゴツとした岩ばかりの上に、砂地で地味も悪く、どんな作物も穫れない不毛の土地であった。
犬坂の人間も、この土地を拓こうと試みたことがなかったわけではないが、掘る程に岩が出てきてどうにもならず、そのままに放っておかれた土地であった。
この土地を田圃にするなど、一年、いや、たとえ五年かかっても無理であろうと宗兵衛には思えた。ましてや、十日のうちにこの荒れ地を田圃にするなど、いかに全嶽が験力のある術者であるといっても不可能であるはずだった。
宗兵衛がその条件を全嶽に示した翌朝のこと。
「宗兵衛殿、出てこられよ!」
全嶽の大音声に呼ばわる声に、宗兵衛は屋敷の外に出た。
「おお、宗兵衛殿」
「こんな、朝早くにいったい何でござるか、全嶽様」
「まあ、ついてこられよ」
そう言うと、全嶽は件の荒れ地の方へと歩いていく。
全嶽の後を追う宗兵衛には、一晩ではさすがに何もできまいと、高を括る思いがあったのは否めなかった。
「なんとっ、これは!?」
目の前の光景を見て、宗兵衛は唖然として立ちつくすだけだった。
広大な荒れ地が広がっているはずのそこは、見事なまでの美田になっていたのだ。
「どうじゃ、宗兵衛殿?」
得意気に宗兵衛の方を見る全嶽。
この、手のつけようのない荒れ地をたった一晩で田圃にしてしまうとはとても人間に出来ることではない……。
この全嶽という男、修験道を究め、鬼神を操る術を身につけたというが、よもやこの男自身が鬼神ではあるまいか?
儂は、とんでもないものを家の中に招き入れてしまったのではないか?
この時、初めて全嶽に対する恐怖が宗兵衛の心に芽生えたのだった。
「では、約束通り、お初を拙者にくれるのじゃな」
満面の笑みを浮かべて宗兵衛を見る全嶽。
どうすれば、どうすればよいのじゃ?このままでは。そうじゃ!いっそこのまま……。
「ん、どうしたのじゃ、宗兵衛殿?」
「わかりました。お初は全嶽様に差し上げましょう」
そう答えた宗兵衛の顔は蒼ざめ、唇は微かに震えていた。
同日、お初の部屋。
「嫌です!なぜ私があの男の嫁になど!?」
宗兵衛から、全嶽の嫁になるよう告げられ、初は取り乱して叫ぶ。
「されば、これは芝居じゃ」
初を宥めるように宗兵衛は言う。
「し、芝居?」
初は、宗兵衛の意図を読みかねて聞き返す。
「そうじゃ、今断れば、あの男は何をするかわからぬ。そこで、お前と祝言を挙げるということにして、油断したところを打ち殺すのじゃ」
「そ、そんなことが?」
父の思いがけない言葉に、初は目を見開く。
「祝言に用意する酒には痺れ薬を混ぜておく。あの大酒飲みの男のことじゃ、それだけしておけば間違いはあるまいて。だから、お初、お前はあの男の嫁になって祝言を挙げる振りだけしておればよい」
「お、お父様」
「のう、お初。大丈夫じゃ、儂を信じておれば良い」
「……わかりました」
父にそう言われて、初はひとこと頷く。
翌日。
「おお!そうか、お初殿がうんと言うてくれたか!」
初を、全嶽の嫁にすると宗兵衛が告げると、全嶽は満面に喜色を浮かべる。
「うんうん、そうか、お初殿が拙者の嫁になると言うてくれたか!」
普段の威張りくさった髭面が嘘のように相好を崩し、悦びを表すのを隠そうともしない。
宗兵衛は、全嶽の悦びように辟易しながらも、この分だと計画は上手くいきそうだと内心ほくそ笑む。
「ついては全嶽様。吉日を選んで祝言の日取りを決めようと思っております。いえ、祝言の支度は全てこちらで整えますので」
「うむうむ、それではよろしく頼むぞ、宗兵衛殿」
内心を見透かされるのを怖れてか、宗兵衛が全嶽と目を合わせようとしないことに、浮かれている全嶽は全く気付いていない風であった。
* * *
そして、全嶽と初の祝言の日がやってきた。
「どうじゃ、準備は出来たかの、全嶽殿、いや、もう婿殿と言うべきかの」
出来るだけ柔らかな表情を装い、すっかり舅の様に振る舞いながら全嶽の部屋に入る宗兵衛。その後ろには、花嫁衣装を着た初が従っている。
「うむ、支度は万端じゃ、宗兵衛殿」
そう言った全嶽の格好は、いつもの修験の衣装とさして変わった風には見えない。
「すまんな宗兵衛殿。これが我が修験の流派の正装なのでな」
悪びれた様子もなく、全嶽は言う。宗兵衛としても、この際、全嶽の格好などどうでもよかった。
「それでは婿殿、早速祝言を」
「待たれよ、宗兵衛殿。祝言の前に、拙者とお初殿と、ふたりきりにしていただきたい」
「なんと、それは?」
「我が流派には、夫婦の契りを結ぶ特殊な儀式があっての。それは夫婦となる者ふたりだけでせねばならんのじゃ。だから、祝言の前にそれだけは済ませておきたくての」
「うむ……」
見れば、初が不安げに宗兵衛の方を見ていた。
「大丈夫じゃ。家の者全員でこの部屋を囲んでおく、何かあったら大声を出せばよい」
全嶽に悟られぬよう、声をひそめて初に囁くと、初は唇を震わせながらも小さく頷く。
「わかり申した。それでは広間で待っておりますゆえ」
「うむ、それ程時間はとらせぬでな」
全嶽と初を部屋に残して襖を閉めると、宗兵衛は三人の息子をはじめ、家の男衆に声をかけて全嶽の部屋を取り囲む。
一方、部屋に残された全嶽と初はというと。
「さて、お初殿」
「は、はい。な、なんでしょうか?」
「うむ、さように緊張するでない。なに、我が流派に伝わるちょっとしたまじないをするだけじゃて。さ、もっと近くに寄られい」
「は、はい」
そう言われ、仕方なく初は全嶽の方に近寄る。
「ではお初殿。そこに座ってこちらに右手を出してくれぬかの」
「こ、こうでしょうか?」
初が、言われるままに右手を出すと、全嶽は、手に持った壺のような物に筆を入れると、初の手のひらに濃い朱のようなもので円を描いた。
それは、朱というよりかはどす黒さが混じったような赤。初は、右の手のひらに描かれた円を、まじまじと見つめる。
「これでよしと」
その間に、おのれの左の手のひらに同じ様な円を描くと、全嶽は筆を置いて初の方に向き直る。
「それではお初殿。そなたの右手と拙者の左手を合わせて、そなたがまず、”わたくし、犬坂初は、全嶽様に全てを捧げて奴隷となり、その言葉に従うことを誓います”と言うのじゃ」
「なっ!そんなこと!」
「まあまあ落ち着きなされ。これは流派に伝わるただの儀式じゃて」
全嶽が、狼狽える初を宥めるように話を続ける。
「我が流派には夫婦の契りについて、妻は夫の奴隷と見なすという独特の観念があっての。これはそれを表しただけのただの口上じゃ。今ではそんな風に妻を奴隷と考えている者など実際に居りはせぬ」
「で、でも」
「それに、その様な契りを交わしたからといって、それが現実になる筈もなかろうが。まあ、不愉快ではあろうが、我が流派のしきたりじゃと思うて、頼む、お初殿」
初は、内心混乱していた。この男の言うことを額面通り受け取ることは出来ない。それに、この男には底知れぬ不気味さがある。だが、ここで自分が取り乱しては、この後の計画が台無しになってしまう。だから、ここはこの男の言うことに素直に従うのが得策かも知れない、と、そう初は思い直す。
もし、この場に宗兵衛が立ち会っていれば、そんなことは直ちに止めさせていたであろう。しかし、初は全嶽が泉の水を蘇らせたことも知らなかったし、全嶽が荒れ地を一夜で美田に変えてしまったことも知らない。
だから、怪しい男だとは思いつつも、ただの不気味な悪僧と思っていた程度で、その験力の程は知らなかった。それも、初がとりあえずは全嶽の言うままに行動しようと思った理由のひとつではあった。
「わかりました」
「うむ、よろしい。では、もう一度言うぞ。そなたが、”わたくし、犬坂初は、全嶽様に全てを捧げて奴隷となり、その言葉に従うことを誓います”と言う。それに対して、拙者が”認める”と応える。次に、拙者が”われ、全嶽は、汝、犬坂初を奴隷とする。汝、われの言葉にすべからく従うべし”と言う。それにそなたが”誓います”と応える。それで終わりじゃ。なに、さほど仰々しいことではないであろう。なにしろ、ただの儀式じゃてな。では、お初殿、手の印を合わせるのじゃ」
「はい」
ここは、この男の言うことに従おうと観念して。初は全嶽と手を合わせる。
「では、口上を言いなされ」
「わたくし、犬坂初は、全嶽様に全てを捧げて奴隷となり、その言葉に従うことを誓います」
「認める」
「われ、全嶽は、汝、犬坂初を奴隷とする。汝、われの言葉にすべからく従うべし」
「誓います」
そう言った瞬間、初は自分の右手に灼けるような痛みが走るのを感じて思わず大声を上げた。
「きゃあああああああ!」
すると、部屋の四方の襖が開けられたかと思うと、宗兵衛を先頭にして、手に手に棒や鍬をもった男が飛び込んできた。
「どうした!何事じゃ!お初!」
「これはこれは宗兵衛殿、祝言の準備をしておったのではないのかの?」
男どもに囲まれながらも、全嶽は悠然として宗兵衛に声をかける。
「あああ!お父様!」
初が恐怖に顔を引きつらせて宗兵衛の元に這い寄る。
「お姉様!大丈夫ですか!?」
志乃も駆け寄ってきて、初の手を握る。
「いったい何があったのじゃ、お初?」
「あ、あああ、あ……」
お初は怯えた目で全嶽の方を見遣り、父と妹の手を握り返すことしかできない。
「さてさて宗兵衛殿、これはいったいどうした事かの?」
なおも余裕の表情で周囲を見回す全嶽。
「ええい、かくなる上は仕方がない。皆の者、かかれ!その男を打ち殺すのじゃ!」
宗兵衛の号令で、男どもが一斉に全嶽に飛びかかろうとした瞬間。
「キエエエエエエエッ!」
全嶽が、数珠を振り上げて気合いを発したかと思うと。男どもは全員腰が抜けたかの様にその場にへたり込む。
「ふむ、人の恋路を邪魔した上に打ち殺そうとするとは、まことにもって残念じゃな、宗兵衛殿」
「おのれが勝手にお初に恋慕しておいて、恋路とはなんたる言い種!」
「いやいや、お初はもう拙者のものじゃて。さあ、お初、命令じゃ、拙者のもとに来い」
父と妹に取りすがって震えていた初は、全嶽の言葉が聞こえた瞬間、右手に書かれた印が、ドクン、と脈打ったような気がした。
そして、その後の事は、何がどうなったのか、初にはよくわからなくなった。
「かしこまりました、全嶽様」
そう、抑揚のない声で返事をすると、初はスッと立ち上がる。
「お、お初?」
「お姉様?」
怪訝そうな表情で宗兵衛と志乃が見上げる中、笑みすら浮かべて初はフラフラと全嶽の方に歩いていく。
「お姉様!そっちに行ったら駄目ぇ!」
妹の声が聞こえないのか、初はそのまま全嶽のもとに歩み寄り、その胸にしなだれかかる。
「うむ、うい奴じゃ、お初よ」
「ありがとうございます、全嶽様」
切れ長の目尻を下げる様にして全嶽に微笑みかけると、初は、おのれの口を全嶽に寄せ、時折チロチロと赤い舌を蛇のように伸ばしながら全嶽の唇を吸う。
「お、お初……」
「お姉様……」
目の前の光景が信じられないかの様に言葉を失う宗兵衛と志乃。
しばし、初と接吻を交わしていた全嶽が宗兵衛を見据えて口を開く。
「さてと、宗兵衛殿、拙者を騙して殺そうとした罪、償ってもらうぞ」
そう言って、全嶽はなにやら呪を唱えると、再び気合いを放って数珠を振りかざす。
「きゃああああ!」
「ぐああああ!」
「うわあ!」
「くはああ!」
すると、志乃と、それに宗兵衛の三人の息子が苦悶の表情を浮かべる。
「なっ!全嶽!いったい何をしたのじゃ!」
「犬坂の家はこれから廃れる。だが、滅ぼしはせぬ。これからこの家は人に使われ、辱めを受ける家になるのじゃ。特に、そこの娘も含めて、犬坂の家に生まれる女は、誰かの奴隷にならなければ二十歳を過ぎて生きることは叶わぬ!」
「な、奴隷、じゃと!?」
「そうじゃ、このお初のようにな」
そう言うと、全嶽は口許を歪めて笑う。
「では、そろそろ退散すると致そうか。行くぞ、お初」
「はい、全嶽様」
全嶽の言葉に笑顔で応じる初。
「ま、待てっ!」
だが、宗兵衛の言葉には答えることなく、全嶽は、腰を抜かして動けない家の者たちを後目に、初を連れて犬坂の屋敷を去っていったのだった。
* * *
犬坂の家で初が連れ去られる事件があってから数日経ったある日。
犬坂家と並び賞される村の長者、上杉家を訪れた者があった。
「ふむ、儂に面会したい修験者というのはそなたかの。おや?そこに居るのは犬坂のお初殿ではないか?」
上杉の当主、佐太夫(さだゆう)は、面会に来たという修験者に寄り添うようにして、見知った顔があることに気付いた。
「はい、お久しぶりでございます、上杉の旦那様」
そう挨拶すると、初は莞爾として微笑む。
佐太夫は、その初の美しさに思わずドキリとした。
確かに、初は以前から美しかった。しかし、それは良家の子女としての清楚な美しさで、育ちの良い少女の持つ独特の雰囲気の域を出ない、未熟な女の美しさに過ぎなかった。しかし、今、自分の目の前にあるのは、妖艶な、成熟した女のそれであった。
「そ、それで用件というのは何じゃな?」
「うむ、貴殿に進呈したい物があっての」
「進呈?それはいったい何じゃ?」
「犬坂家の財産全て」
「な、なんじゃと!?」
修験者の発した意外な言葉に佐太夫は瞠目する。
「うむ、犬坂の財産、田畑、それに、あの家にはもうひとり娘がおろう。このお初の妹じゃ。それら全てを貴殿に進呈しよう」
佐太夫は、己の耳を疑った。いや、それよりも信じ難かったのは、自分の生家を、そして妹を人にやるという話をしているというのに、眉ひとつ顰めることなく、笑みすら浮かべて修験者にしなだれかかっている初の姿であった。
「犬坂の、財産、田畑、そして、娘を……」
「そうじゃ、儂の言う通りにすれば、犬坂の財産も全て手に入るし、あの家の娘をおのれの奴隷に出来る。このお初のようにな」
そう言って、修験者は初に口を寄せる。すると、初の方から舌を伸ばし、チュパ、と淫靡な音を立てて修験者の口を吸い始める。
そして、修験者の手が初の着物の胸元に伸びたかと思うと、その真っ白な胸を露わにして揉みしだく。
「あっ、うふんっ」
修験者の口を吸っていた初が堪えかねたように甘い声を漏らす。
「ああん、全嶽様ぁ。あふうんっ」
初は、佐太夫の見ている前で修験者の為すがままに体を委ね、甘ったるく喘ぎ続けている。
「どうじゃ。犬坂の財産を手に入れ、あの妹娘をこのお初の様に淫らな奴隷にする方法を教えてやろうというのじゃ」
修験者は、初への愛撫を続けながら佐太夫を見つめ、ニヤリと笑う。
「……わかった、屋敷へ上がるが良い」
そう言って、修験者を屋敷へ招じ入れる佐太夫の瞳は、陰鬱な欲望を映しているかの様に昏く沈んでいた。
< つづく >