黄金の日々 第2部 第2話 前編

第2部 第2話 前編 世界樹の森

 ヘルウェティア、西の国境付近、世界樹の森。

 それが世界樹の森であることは、遠目にここを眺めた時に見えた巨木の偉容からすぐにわかった。森の中央に聳えるその樹は他のどの樹木よりも高く、森の上部を突き抜けてそそり立つ幹の太さだけでも数百mはあるだろうか。その頂上部は雲の彼方に消えてどこまで高さがあるのか窺い知ることはできない。
 まさに、天にも届きそうな高さだった。

「なるほど……これが動く森ね……」

 その、鬱蒼とした森の入り口に立つ、地面に着くほどの長いエメラルドグリーンの髪を垂らして裾の長いローブを纏った女性。

 メリッサだった。

 彼女の立つその前には、厳密には森の入り口など存在していなかった。
 そこにあるのは、侵入者を拒むかのように密集した繁みと、道を遮る腕のように太い枝をいっぱいに広げた木立。いや、実際にメリッサが森の方に一歩踏み出すと、その行く手を阻むように繁みが集まり、木々が枝を降ろしてくる。さらに前に進み出ると、木々はさらに密に固まって前方を完全に塞いでしまった。

 その様は、まさに生きている森だった。

 これこそが、エルフたちの得意とする植物の結界。
 彼らの生活する森の木々を操って、森へ入って来ようとする者を阻む壁と成す。

 メリッサのような精霊系の悪魔とエルフたち妖精族は、もともと、太古の精霊から分かれた起源を同じくする種族である。だから、この結界のことはメリッサも聞いたことがあった。
 この、植物の障壁は正面から正攻法で押し破るには少々やっかいな代物だった。たとえ木々を薙ぎ払って無理に押し入ろうとしても、次々と新たな木が集まってくるだろう。そうして時間を費やしているうちに、おそらくは森の中にいるエルフたちに気づかれてしまうことになる。

 行く手を阻む木の壁に近寄ると、メリッサは手を前に伸ばして目を閉じた。

「やっぱり……」

 結界の木々に宿る精霊は、完全に他の術者の支配下にあってメリッサの力を受け付けようとはしなかった。
 おそらく、エルフの中でも相当に腕の立つ術士が数人、いや、数十人がかりで構築したのだろう。
 魔界の植物すら思いのままにできるメリッサといえども、さすがにその精霊を支配できなくては操ることはできない。

 ピーピピーピーピピーッ!

 不意に聞こえてきた鳥の鳴き声にメリッサが見上げると、コガラのつがいが森の中に入っていくのが見えた。

「…………」

 メリッサはコガラの消えた方向をじっと見つめて、しばしの間考え込んでいた。
 やがて、なにか思いついたように呪文を唱えて召喚した蔓草を空へと伸ばすと、それを察知したかのようにより背の高い木が枝を伸ばしていく。
 まるで、森を覆って忍び込む者を拒絶する、ドームを形作るかのように。

「なるほどね……」

 木々に阻まれて中に入っていけない蔓を見上げて、メリッサは小さく呟く。
 おそらく、この結界が侵入を拒むのは、人間とそれに準じる種族、もしくは妖魔や悪魔などの常ならざる存在や魔力を帯びたものに限られているのだろう。
 エルフは自然と親しく暮らしている種族だ。鳥や虫、獣など、本来森にいるべき生物は自由に出入りできる仕組みになっているのに違いない。

「……どうしたものかしら?」

 メリッサは、思案しながら周囲を見渡していた。

 仮にも、彼女も上級悪魔である。全力を尽くせば、エルフの術による支配を解いて自分ひとりが通り抜けることができるくらいの隙間を結界に空けることはできるだろう。
 しかし、それには相当の時間がかかることが予想された。その間に、中のエルフたちに気づかれてしまうリスクは避けられない。肌に伝わってくるこの結界の強度からも、この森のエルフにひとりで対処するのは分が悪い。だいいち、森に侵入する段階でそんなに時間をかけているだけの余裕はない。

「……あれは?」

 森の外周に沿って歩いていたメリッサの視界に、世界樹の森に隣接する林が飛び込んできた。
 その林と森の縁とは、それほど距離は離れていない。
 鬱蒼として薄暗い世界樹の森とは対照的に、木立のまばらなその林は太陽の光が降り注いで明るい印象だった。

 近づいていくと、それは白樺の林であることがわかった。

 ひょろりと細い幹から枝を伸ばし、白い樹皮が日の光を反射して光っている木立の中、世界樹の森寄りの位置に、ひときわ背の高い白樺が一本立っていた。
 おそらく、40mは超えているだろうか。周囲の白樺よりも10m以上高い。
 これほど見事な白樺は今まで見たことがないくらいだった。

「これは……使えるかもしれないわね」

 そう呟きながら、メリッサは白樺の巨木に近づいていく。

 白樺の木は背が高いわりに幹が細いのでひょろひょろと頼りない印象を与えるが、その材質は非常に堅い。
 だが、彼女が目を付けたのはそこではなかった。

 メリッサは、白樺の幹に手を当てると目を閉じる。

(やはり……)

 距離は近いとはいえ、世界樹の森の外にあるこの林の木にはエルフの力は及んでいなかった。

 メリッサは、幹に当てた手から力を流し込んで白樺の木の精霊の意識を捉える、
 そして、自分の意識を同調させて体を木と同化させると、幹の中に潜り込んでいった。

 幹の中に潜り込んだメリッサは、そのまま下へ下へと潜り込んでいく。
 それが、彼女の狙いだった。

 白樺の木は、その細長い幹を支えて高く伸びるために深く、そして広く根を張る性質がある。
 その根の広がりは、森や林に生える他のどの木も及ばない。
 普通の白樺でもそうなのだから、これほどに大きなものとなると……。

 メリッサがそう睨んだとおり、その白樺は根を地中深くに張っていた。
 その中を下へと潜っていくと、世界樹の森の方向へと伸びる一本の太い根へと進んでいく。

(……思った通りだわ)

 長く伸びた根の中を進みながら、メリッサはひとりほくそ笑んでいた。
 おそらく、もう世界樹の森の中に入っているであろう距離まで来ているはずなのに何の抵抗もない。

 それは、メリッサの読み通りだった。

 木々の枝や幹を動かすという、その結界の性質を考えると、想定されている侵入者は地上か空中から来る者だ。この森のエルフたちが結界を張った理由は、おそらく人間たちに邪魔されずに生活を送りたいとか、そういうものなのだろう。だから、この結界も外部との接触を完全に断つものではなく、自然の生物には開かれたものになっている。当然、それには森の中へと伸びてくる木の根も含まれている。まさか、その中を通って地中から森へと侵入してくる者がいるなどとは考えていなかったに違いない。
 もっとも、この国の人々がエルフたちに敬意を払い、彼らをいたずらに刺激しないよう森への接触を極力避けてきたゆえに、そこまで強力な結界を張る必要性がなかったというのが大きな理由だろうが、ヘルウェティアがなまじ平和な国であったために、この方面から魔物が侵入してくることは想像できなかったのも彼女が忍び込むことに成功した要因だろう。 

(これは……いけそうね)

 白樺の根の中を進んでいたメリッサは、すぐ近くに別な木の根の気配を感じた。
 その方向に意識を集中すると木の精霊を感じることができたので、その木が結界を作っている木ではないことがわかる。
 メリッサは、さっき白樺に対してやったのと同じようにその木の精霊に意識を同調させると、そっちの根に乗り移った。

 そうやって、根伝いに次々と木を乗り換えながら森の中心部へと進んでいく。

(……ッ!!これはっ!?)

 森の中心部へと近づくメリッサは、前方に異様な気配があるのを感じた。

 注意深く、そちらの方向に意識を集中してみる。
 その気配は動く様子はなく、その場所にじっと止まっているようだ。
 その感じは、悪魔や妖魔のものとは違う。ましてや、エルフのものでもない。強いていえば、木の精霊の気配によく似ていた。
 ただ、距離はまだだいぶ離れているだろうと思われるのに、自我を持った強大な意識がこちらにまでビリビリと伝わってくる。

(……もしかして、これは世界樹の意識?)

 彼女は、この森に来るまで世界樹の姿を見たことはないし、その意識にも触れたこともなかった。
 だから確信は持てないのだが、直感的に今感じているこの気配が世界樹のものではないかと思ったのだ。

 メリッサは、さらに用心深く己の気配を消して、その強大な気配の方へと近づいていく。
 その気配がしてくるのは森のほぼ中央、あの巨木のある方角だ。
 そのことが、メリッサの予感を確信に変えた。

(……でも、他の世界樹は全て消されてしまったというのに、どうしてこの森の世界樹だけ残されたのかしら?)

 森の木々の根を伝って近づくメリッサの脳裏に、ふとそんな思いがよぎった。

 かつて、天界と人間界を分かつため地上に数本あった世界樹が、神によって消されたのはメリッサの生まれるよりもずっと前のことだ。その頃は、人間界の上に存在する天界をその数本の世界樹で支えていたと伝えられている。
 だが、今、唯一神を称してる神が天界を掌握し、他の神々を魔界へと追いやってから天界を作り替え、それよりも遙か高く天上に浮かぶようにさせた。
 人間界に残された世界樹が神の雷によって焼き払われたのは、それから程なくしてからのことだと云う。それはもちろん、世界樹の存在する役目が終わったということもあるが、世界樹を伝って人間や悪魔が天界の近くまで来ることを神が怖れたせいだとも云われている。

(でも、だったらなぜここの樹だけが?)

 伝えられている神話だけでは、この森の世界樹が残されている理由が説明できない。

(……くぅっ!?)

 強い衝撃を感じてメリッサはその場に立ちすくむ。
 彼女が潜り込んでいる木の根のすぐ近くを、ジャイアントの体躯ほどもあろうかという太い根がかすめていた。
 そこからひしひしと伝わってくる、強烈なオーラ。
 近くにいるだけで、命の気配に満ち溢れた力強い脈動を感じる。

(これが……世界樹……)

 それが世界樹の根だということはすぐにわかった。
 それ以外に、これほどの太い根を持つ植物が人間界に存在しているとは考えられなかった。

(なんて太くて……そして、なんて深くまで根を張っているの……)

 気配だけで、その根が深く潜っていることを感じる。
 さながら、暗闇の中を光の筋が伸びていくかのように。
 だが、その先がどこまで潜っているのか、メリッサにも感知できなかった。
 それはまるで、魔界にまで届こうかというほどに深く伸びていっていた。

 間近で感じるその気配は、並の樹木の精霊のそれを遙かに凌駕している。
 
(でも、やるしかないわね……)

 しばしの間瞠目していたメリッサは、大きく息を吐くと目の前の巨大な根へと近づいた。

(くっ!さすがにこれは!)

 世界樹の根に触れた瞬間に、その中を流れる、力強く濃密な意識を感じる。
 その力強さたるや、さすがに意識を同調させるとか、そういうレベルのものではない。

(……それでもっ!)

 メリッサは相手の意識に飲み込まれないように自我を集中させると、無理にでも世界樹の中に押し入っていく。

(くうううぅっ!)

 世界樹の根の中は、強烈な思念の奔流とでもいうべきものだった。
 己の中に入ってきた異物に気づいたのか、思念の奔流がメリッサに向かって殺到してきた。

(誰ダ、オマエハ?)

 自分の周囲を吹き荒れる思念から、こちらの意識に直接響いてくる重々しい声。

(くっ……これが、世界樹の精霊の、意志!)

 メリッサを押し出さんばかりに、押し寄せてくる圧倒的なまでの思念。
 それは、紛れもなく世界樹の精霊の意識だった。
 その力強さは、とても樹木の精霊のものとは思えなかった。
 並の悪魔の魂なら、あっという間にこの激流に飲み込まれて掻き消されてしまっていたことだろう。

(我ノ中ニ入ッテ来ル……何者ダ、オマエハ?)

(くうううっ!)

 世界樹の思念に流されまいと、メリッサはさらに意識を集中して踏みとどまる。

(何人モ我ノ眠リヲ妨ゲルナ)

 侵入者を排除しようと、思念の流れが勢いを増す。
 少しでも気を緩めると、体も精神も千々に引きちぎられてしまいそうだ。

(マダ抗ウカ……消エロ、小サキ者ヨ)

 吹き荒れる思念から、嵩に懸かった世界樹の言葉が流れ込んでくる。

(ふ……私もなめられたものね)

 歯を食いしばって世界樹の思念を感じているうちに、普段は冷静なメリッサの中に、ふつふつと怒りがこみ上げてきた。

 たしかに、世界樹の意識は天地開闢の直後から生きてきた霊樹に相応しい力を備えている。
 年齢だけでいえばメリッサよりも遙かに上である世界樹の、その圧倒的な力はそこいらの妖魔や悪魔の及ぶものではない。

 だが、いかに太古の時代から生きている霊樹とはいえ、所詮は樹木の精霊である。
 それが上級悪魔である自分を、塵でも払うかのように扱っていることが腹立たしかった。
 そのことが、平素は奥深くにしまっていて決して表に出すことはない、メリッサの悪魔らしい凶暴さを目覚めさせてしまった。

(私が小さき者かどうか……身をもって知りなさい!)

 世界樹の思念の奔流の中で小さな人型を形作ったメリッサの両目が、真紅に輝いた。
 そして、力の全てを解放して己の意識を一気に爆発させる。
 すると、その姿が光に包まれ、逆巻く思念の渦を弾き返していく。
 強靱な精神と精神のぶつかり合いに、青白い火花が散った。

(オオッ!?オオオオオオォ……!?)

 自らの思念を弾き返された世界樹の精霊が、驚愕の声を上げた。
 メリッサは、爆発的に自己の意識を広げていき、反対に世界樹の思念の奔流を飲み込み始める。
 押し寄せてくる世界樹の思念を吸収し、その流れをむしろ押し戻すようにメリッサの精神体が膨らみ、じわりじわりと範囲を広げていく。

(私を小者と侮ったことをあの世で後悔するのね)

(オオオオオォ……ナンダ?ナンダ、オマエハ……?)

(これから消え去るあなたに名乗っても無駄でしょうけど……私の名前はメリッサ。思い知った?これが上級悪魔の力よ)

 光り輝く精神体の中に、メリッサの顔が浮かび上がる。
 その眼は爛々と光り、口の端を耳許まで吊り上げて嗤うと、輝く人型が一気に弾けた。
 そのまま、加速度的にスピードを増しながら世界樹の意識を貪り食う。

(ナニ?ナンダト?オォ、ウオオオオォ……)

 世界樹の意識を飲み喰らいながら、メリッサは自分の意識を根から幹、そして枝へと広げていく。

(ゥオオ……オオオオォ……)

 世界樹の声が、次第に弱々しくなっていく。
 反対に、メリッサは己の中に力が漲っていくのを感じていた。

(ヤメロ……ヤメロ……。我ハ……封印ヲ守ラネバナラヌノダ……ダカラ、ヤメロ……)

 世界樹の意識を吸収していくメリッサの中に、不意にそんな思念が流れ込んできた。
 同時に、遙か地底の暗闇で棺のような箱に木の根が巻き付いている映像も。

 その異様な光景に、怒りに燃えていたメリッサの意識が冷静さを取り戻す。

(……これは、まさか……魔界?封印って、いったい何の!?)

(我ハ……我ハ神ニ誓ッタノダ……ダカラ、封印ヲ守ラネバ……アア、我ハモウ……アアアアアァ……)

(ちょっと!?封印ってなんなのよ!?あなたはあれを守るために、他の世界樹が消されても地上に残されていたというの!?)

(アアァ……アアアアアアァ……)

 もう、メリッサが呼びかけても、世界樹からは弱々しい反応しか返ってこなかった。
 再生不可能なまでに魂の大半をメリッサに食われ、おそらくはこのまま放っておいても、ただ衰えて消えてゆくのみだろう。

(……仕方がないわね。いいわ、楽にしてあげる)

 小さく嘆息すると、メリッサは最後に残った世界樹の思念を飲み込む。
 そして、もう世界樹の声が聞こえることはなかった。

* * *

(……ふう。終わったわね)

 世界樹の精霊を完全に喰らい尽くしたリッサは、ようやく一息ついていた。
 さっきは一時の激情に駆られて力を爆発させたが、もうすっかり落ち着きを取り戻していた。
 己の魔力の気配を消して、慎重に枝葉の隅々にまで意識を伸ばして世界樹を乗っ取っていく。

 かつては天界を支えていただけあって、その頂点は雲よりも遙かに高く聳えていた。
 さすがに、今では天界はそこから見えないほどの高みに行ってしまったが、それでも遙か眼下に山並みが見える。
 北の方角、雲の上に顔を覗かせているのはヘルウェティアの北に聳える山脈だろうか。
 南側には、それよりも少し低い山々が見える。

 そして、世界樹の根は深く広く張り巡らされていた。
 その中に、真っ直ぐに地中深く潜っていく根が1本あった。
 その根は、遙か闇の深淵に潜り込んでいくようで、その先を窺い知ることができない。

(もしかして……これが?)

 さっき、消えゆく世界樹の意識から流れ込んできた映像が脳裏に浮かんだ。
 遙か深く、魔界にまで届くかと思われるその根の先に、あの棺があるのかもしれない。
 そして、そこに封印されているのは……。

 いったい、その先に何が封印されているのか気になったが、直感的に、そこにあるのが自分は触れてはならないもののように思われて、それ以上潜るのは躊躇われた。

 と、その時……。

「どうかなさったのですか、世界樹様?」

 不意に、こちらに呼びかける声がして、メリッサはそちらに意識を集中させる。

 巨大の世界樹の幹、その、地上近くの部分は中空になって大きな洞ができており、そこに佇むひとりの女の姿があった。
 淡く明るいアッシュブロンドの長い髪を腰の辺りで束ねて、額の部分に紫の宝石をあしらった、シンプルで華奢なサークレットを身に着けたその髪の下からは、エルフの証である細長く先の尖った耳が飛び出ている。
 ミントグリーンの瞳を気遣わしげに曇らせて、洞の天井を見上げているその容姿は若々しく見えるが、若さを保ったまま数百年の時を生きるエルフのことだ。見た目だけで歳を判断するわけにはいかない。
 それに、彼女の周囲に漂う、穢れを知らぬ透明感に満ち溢れたオーラは、聖職者や天使の持つそれの清純さとはまた異なり、命の躍動感を感じさせる純粋さを持っている。
 メリッサの知る限り、それは自然の精霊の持つオーラに似ていた。 

「先ほど、世界樹様の気の流れにひどい乱れを感じましたが?それに、瞬間的にですが、強い邪なる気も……。何事かあったのですか?」

 面に憂色を浮かべて、そのエルフはこちらに語りかけてくる。

(なるほど、彼女が世界樹の巫女というわけね……)

 それが、クラウディアたちの話にあった世界樹の言葉を聞くことのできる、この森のエルフの指導者であろうことは容易に想像できた。
 その身に纏うオーラの大きさと、先ほどの世界樹の精霊とメリッサの争いを感じとっていることからも、その能力が高いことは窺える。
 だが、その言葉を聞く限り、メリッサが世界樹を乗っ取ってしまったことはまだ気付かれてはいない様子だった。

(さて、どうしたものかしら?)

 メリッサは数秒のうちに考えを巡らせる。

 幸い、さっき自分は世界樹の精霊の声を聞いているし、それを模するのは容易いことだった。
 それを使ってうまくこのエルフを誤魔化したいのだが、問題はどう誤魔化すかだ。
 下手にしらを切ったりすると却って怪しまれる。それに、今の段階で余り長く会話をするとこちらがボロを出してしまうかもしれない。

 いずれにしても、ここでだんまりを決め込むのは得策とは思えなかった。

 そう腹を括ると、メリッサはエルフに向かって語りかけた。
 世界樹の口調を模して、思念を飛ばす形で。

(ウム……今、我ノ中ニ侵入シヨウトシタ妖魔ヲ撃退シタトコロダ)

「なんですって!?そんな……いったいどこからこの森の中へ?」

(地中ダ。妖魔ハ地中カラコノ森ニ侵入シテキタノダ)

「地中ですか!?それはたしかに……この森の地中深くまでは結界は巡らせてはいませんが。しかし、この森に接する国は平和で、今までそのようなことなどなかったというのに……」

(ウム、森ノ外デ何カガ起コッテイルヨウダナ)

「それは、いったい?」

(ソレハ我ニモワカラヌ。ダガ、我ヲ狙ッテ来タ以上、何者カガコノ森ヲ狙ッテイルコトハ間違イナイ)

「……そうですね。では、早急に境界の警戒を強化させます。地中へも結界を張ることにしましょう」

(ウム)

「では、私は結界を張る指揮を執りたいと思いますので……」

 そう言って深々と頭を下げると、慌ただしげにエルフは出て行く。
 その表情からは、ひどくショックを受けている様子が窺えた。

 エルフが出て行くと、メリッサはホッと胸を撫で下ろす。
 とりあえずは、向こうの注意を自分から外部の警戒の方へと逸らすことができた。

 さっき彼女に話したことは、犯人が自分であることを除いてはほぼ事実を話した。
 警戒に当たったエルフたちが調べても、侵入の痕跡が残らないようにはしたつもりだ。
 仮に侵入の跡に気付かれたとしても、その妖魔はすでに撃退されていることになっている。
 後はあのエルフの巫女が真実に気付くかどうかだが、しばらくの間、彼女は地中に張る結界の指揮に忙殺されることだろう。
 この森を囲んで、地中に結界を張り巡らすのだから、その術式の完成には数日はかかるはずだ。

 動くならその間にだが、エルフたちが警戒レベルを上げているこの森にどうやって……。

 しばしの間沈思した後で、メリッサは世界樹の中を上へと登っていく。
 そして、森の遙か上空、雲の上に張り出した枝から上体を出して呪文を唱える。

 すると、中空に浮かぶ大きな綿毛が現れた。
 その綿毛の先の種子にシトリーへのメッセージを埋め込むと、森の西側、ヘルウェティアの方角に向けてふっと息を吹きかけた。
 それを受けて、綿毛はすーっと流れるように飛び始める。
 ヘルウェティアの都、フローレンスへと向けて、真っ直ぐに。

* * *

 ヘルウェティアの都、フローレンス。

「メリッサからの報告が届いたって?」
「はい~、たった今、これが王宮の中に~」

 そう言うと、ニーナが手にしていた綿毛をシトリーに差し出した。
 大人の顔ほどもあるその綿毛の先には、拳くらいの大きさの種子が付いていた。
 そこに付いている印は、メリッサが術を使ってメッセージを中に込めた証だ。

 静かに目を閉じて意識を集中すると、シトリーは種子に触れた。
 すると、その印が淡い光を放ち、メリッサのメッセージが頭の中に伝わってきた。

「なるほど……」

 メリッサからの提案を受け取って大きく頷くと、シトリーは目を開いて種子から手を離す。

「シトリー様~、メリッサはなんて言ってましたか~?」
「ああ、うまく世界樹の森に忍び込むことに成功したそうだ」
「よかった~、で、シトリー様はどうなさるんですか~?」
「ああ。そこでだ……エミリア、ちょっといいか?」
「えっ、なにっ?あたし?」
「またひと仕事してくれ。僕をエルフの姿にしてくれないか。今度は男のままでいい」
「へ?」
「とりあえず、髪と目の色を変えて、シンプルな感じで」
「わかった、やってみるね」

 エミリアは、シトリーに近寄るとその体にそっと触れて目を閉じる
 すると、シトリーの体が淡い光に包まれた。
 そして、その黒髪がみるみる色褪せ、耳の先は細く尖っていく。
 もともと細身のその体も、さらに心持ち細くなっていくように見えた。

「できたよ、シトリー」

 数十秒後にエミリアがそう言ったとき、そこに立っていたのは亜麻色の髪に淡い緑の瞳をしたエルフだった。
 エミリアの声に、髪の間から突き出た長く尖った耳の先がピクッと動いていた。

「よし、この姿で世界樹の森に乗り込むぞ」
「乗り込むって、うまくいくの?」
「まあ、メリッサの仕込み次第ってとこだな。……でも、その前にアナトのところに報告に行くとするか」

 そう言うと、シトリーは立ち上がってアナトのいる謁見の間へと向かった。

* * *

 謁見の間。

「あら、シトリーじゃない。どうしたの、その格好?」

 エルフの姿のシトリーを見ても、アナトは別段驚いた様子はなかった。

「これから世界樹の森に潜り込むんですよ。この姿でね」
「ふーん、なるほどね」

 シトリーの説明を聞くアナトの表情はどこか楽しげで、口許にうっすらと笑みを浮かべている。

「で、森のエルフたちをどの程度まで抑えるかなんですけどね。まあ、上の連中だけ抑えて森を破壊するのが一番手っ取り早いし、かかる時間も短いんでしょうけど……。でも、あなたはそういうのは好きじゃないでしょう」
「あら?そういうのが好きじゃないのはむしろキミの方でしょ、シトリー」

 涼しげな眼差しをシトリーに向けて、クスクスと笑うアナト。
 シトリーも、やれやれといった顔でポリポリと頭を掻く。

「まあ、そうなんですけどね」
「それに、私の方針は前にも言ったはずよ。統制のとれた戦力がなるべく多く欲しいって。もし、キミが役に立つと思ったら、エルフたちを取り込むのは構わないわよ。どうやるのか、どの程度まで取り込むのかはキミに任せるわ。そういうのはキミの専門だしね。まあ、キミは女にしか興味ないでしょうけど」
「どうせ僕は男には興味ありませんよ、あなたとは違って」
「あら?私は男も好きだけど女の子も好きよ。可愛らしい女の子は特にね」
「言っててください。……でも、それだと少し時間がかかるかもしれませんよ」
「ああ、それなら多少は大丈夫よ。北と南の2方面の軍勢がね、だいぶ遅れてるみたいなのよ。あっちの軍団はうちと違って指揮統制が全然とれてないから寄り道ばっかりしてるみたい。私たちの最終的な目的は天界と戦うことで、人間を襲うことじゃないっていうのにね。ホント、困ったものだわ」

 はぁ、と、肩をすくめて、アナトは何度も頭を横に振る。

「そういうわけで、時間のことは気にしないでいいわよ。でも、私が退屈しない程度にね」

 そう言って笑ったアナトの瞳に、悪戯っぽい光が宿っていた。

「いや、あなたは司令官なんですから、いつでも軍を動かせるようにしておいてくださいよ。だいいち、やることは沢山あるでしょうが。この国だって、都は手の内ですけど他は隅々まで抑えているわけじゃないし」
「だって、この国のことはキミの部下に任せた方がいいでしょ。それに、この方面にはもう抵抗しようなんて国は残ってないし、キミが世界樹の森を陥落させないと動きようがないのよね」
「はぁ……わかりましたよ。あなたが退屈を持て余して変なことをしないように、せいぜい速やかに世界樹の森を抑えてきますから」
「わかればいいのよ。じゃあ、頑張ってね」

 わざと大きなため息をついて、形だけの礼をすると、シトリーはアナトの前を退出する。
 さっきの彼女の悪戯っぽい笑み。
 付き合いが長いだけに、彼女の性格はある程度わかっている。
 退屈を持て余すと、どんな退屈しのぎを考え出すかわからない人だ。

 ……とにかく、なるべく手早く片付けるにこしたことはないな。

 謁見の間を出ると、シトリーは下僕たちを一堂に集めた。

「……というわけで、これから僕は世界樹の森に潜入する。それでだ、マハ」
「はいっ!」

 シトリーに名を呼ばれて、マハが直立不動で返事を返す。
 さすがに、マハの扱いにもだいぶ慣れてきたシトリーは手短かに指示を出していく。

「おまえの軍団から手勢を連れていく。そうだな、オーガーの10体もいれば充分かな」
「はっ!かしこまりました!」

 最敬礼してマハが出て行くと、首を傾げながらクラウディアが訊ねてきた。

「あの……オーガーなどを連れて行ったら、向こうに警戒されるのではないのですか?」
「ああ、警戒させてやるのさ。オーガーに注意が向く分、僕への警戒心が薄れるからな。で、エルフリーデ……だと僕の体が保たないな。じゃあ、フレデガンド」
「なんでしょうか?」
「骨が折れない程度に僕をぶん殴ってくれ」
「はい?」
「ちょっ、ちょっと、シトリー!?」

 シトリーの言葉に、その場にいた全員がポカンとなる。

「だから、派手に痣ができるくらいに殴ってくれないか」
「そんなことっ、できません!」
「いいからやれ。これは命令だ」
「うっ……わかりました」

 躊躇っていたフレデガンドは、改めてきつく言われるとシトリーの前に進み出て拳を固める。

「それでは、失礼します!」
「……ぐふっ」

 フレデガンドに顔面を殴られて、シトリーの細い体が大きく仰け反った。

「くうっ……歯を食いしばってなかったら間違いなく舌を噛みきってたところだな」

 体勢を戻したシトリーの頬は腫れ、唇が切れて血が流れていた。

「もっ、申し訳ありません」
「いや、いいんだ。このくらいきつくやってくれないと困るしな。そうだな、あとは腹、背中、腕、足を7、8発くらいやってくれ」
「そんなっ!」
「いいからやるんだ」
「……はい」

 シトリーに命令されて、フレデガンドは観念したように再び拳を固めた。
 その腕が唸ると、ズンッ、と鈍い音が響き、シトリーの体に拳が食い込む。そのたびに、その口から小さな呻き声が洩れた。
 そして、8発目。強烈な一撃がふとももを襲い、シトリーががくりと膝をついた。

「大丈夫ですかっ、シトリー様!?」
「ああ……大丈夫だ。……くぅっ!」

 歯を食いしばり、顔を顰めて立ち上がろうとしたシトリーを、慌ててフレデガンドが支える。
 その場にいた他の面々も、心配そうにシトリーの周りに集まってきた。

 だが、それで終わりではなかった。

 シトリーは、フレデガンドの剣を引き抜くと、自分の腕にその刃を当てた。

「きゃあっ、おじさま!?」
「シトリー様!?」

 シトリーがそっと剣を引くと、皮膚が裂けて赤い血が滴り落ちる。
 それを見て、周囲を囲んだ全員が悲鳴を上げた。

「つうっ!……大丈夫だ。表面を軽く切っただけだから、出血の割にはそれほど痛くはないさ。あんまり深く切ると今後に支障が出るからな」
「でもっ、なんでこんなことするのよ!?」
「ふん、これでどっから見ても妖魔に襲われて逃げてきた、ただのエルフに見えるだろうが。……くっ!」

 怪訝そうに訊ねてきたエミリアにそう説明しながら、シトリーはさらに3カ所ほど切り傷を作っていく。

「ふう……こんなものでいいかな。じゃあ、マハの準備ができ次第出発するぞ。……クラウディア、ピュラ、リディア」
「はい」
「おまえたちは僕たちを魔法で世界樹の森の近くまで運んでくれ。後は、エミリアも来い。やってもらうことがある」
「え?あたし?」
「ああ。向こうに着いたら、小鳥に姿を変えてこの綿毛を世界樹に引っかけて欲しい。それがメリッサへの合図になってるんだ」
「うん。わかった」
「メリッサからの伝言で、あまり低く飛ぶとエルフの結界に引っかかる怖れがあるから、なるべく高く、しかも魔力の気配を消して飛んできてくれとのことだ」
「うう……メリッサったら、また難しいことを。でも、やるしかないわね。いいわよ」
「で、用が済んだらとっとと戻れよ。まごついてエルフに見つかるようなヘマなんかするんじゃないぞ」
「もうっ、わかってるわよ」

 傷の痛みに顔を歪めながら、シトリーは次々と指示を出していく。

 いよいよ、シトリー自身が世界樹の森へ乗り込む時が来ようとしていた。
 後は、連れて行くオーガーの準備が整うのを待つだけだ。

 ただ、戻ってきたマハが傷だらけのシトリーを見て、「誰がやったんだ!?」と怒り狂い、それを鎮めるのにひと騒動あったのはまた別な話である。

* * *

 世界樹の森。

「いったい、森の外で何が起きているというのでしょうか?」

 10日間に及んだ、森の周囲の地中に結界を張る作業を終えると、久しぶりに戻ってきたエルフの巫女、フィオナは世界樹の洞の中でそう伺いをたてていた。
 すると、聞き慣れた、重々しい声が頭の中に響いてきた。

(ウム、予兆ガアッタ)
「予兆、ですか?」
(ウム。間モナク、コノ森ニ同胞ガ来ル)
「同胞?それは何者ですか?」
(ソコマデハワカラヌ。タダ、ソノ者ガ重要ナ知ラセヲ持ッテ来ルダロウ)

 頭の中に響く世界樹の声は、いつものそれと変わらないように思える。
 しかし、フィオナは嫌な予感に肌が粟立つのを感じていた。
 うまく説明できないが、何か悪いことが起きようとしているような気がしていた。
 森の外で何が起こっているのか、詳細がわからないことも不安を煽る。

 そのまま、フィオナは世界樹の中で瞑想を始めた。
 それから、世界樹の声は聞こえない。
 彼女は、ただただ祈るような思いで瞑想を続けていた。

「フィオナ様、よろしいですか?」

 夕方近くになって、弟子のひとりが洞の中に入ってきた。

「どうしたの?」
「先ほど、西側の境界を警備していた者が傷ついたエルフを保護したのですが……」
「なんですって?」
「ひどい傷を負っているので、とりあえず結界の近くで応急手当をしているそうですが、同じエルフとはいえ、外から来た者を森の中に入れてよいものかどうか、フィオナ様に判断していただきたいとのことです」

 弟子の報告を聞いたフィオナの脳裏に、さっきの世界樹の言葉がすぐに浮かんだ。

「いいわ、すぐに連れてきなさい。その者のことについては、先ほど世界樹様から啓示がありました」
「そうだったのですか」
「ええ。ともかく、怪我をしているのならちゃんとした治療が必要でしょう。ニナのところに運んでちょうだい。すぐに私もそっちに行くわ」
「わかりました」

 一度頭を下げて、急いで出て行く弟子の背中を見送ると、フィオナは洞の天井を見上げる。

「世界樹様が仰っていたのはこのことだったのですね」

 誰に言うとでもなく、フィオナはそう呟く。

 そして、フィオナが世界樹の洞から出て行った後……。

 誰もいなくなった洞の中に、低く押し殺した笑い声が響き続けていたことに気付いた者はいなかった。

* * *

 森の中央部、エルフの集落に運ばれてきたその若いエルフは、たしかにひどい怪我をしていた。
 体のあちこちに赤黒い痣ができ、数ヶ所に刃物で切られたような裂傷があって服に血が滲んでいる。

 寝台に寝かされたエルフにフィオナが歩み寄ると、彼を運んできたエルフたちが場所を空ける。
 フィオナの傍らでは、弟子のひとりで主に医療を担当しているニナが、怪我の程度の確認をしていた。

「大丈夫?気を確かに持つのよ」

 苦痛に顔を歪めて呻いていたエルフが、フィオナの声に微かに反応した。
 その目が弱々しく開いて、彼女の姿を捉える。

「ねえ、どうしたというの?いったい、誰がこんな?」

 フィオナを見上げてヒクヒクと小刻みに震えていたその唇が、わずかに動き始める。

「あ……くま……悪魔が……襲ってきて……」

 大きく喘ぐたびにひゅうっと息が抜けて聞き取りにくいが、確かに彼はそう言った。

「悪魔ですって!?」
「気を……つけて……。悪魔が……世界……を…………」

 か細い声でそれだけ言ったかと思うと、その若いエルフはぐったりとなって目を閉じた。

「大丈夫。気を失っただけです」

 はっとして息を飲んだフィオナに、脈を取りながらニナが告げる。
 実際、よく見るとその胸は僅かに上下していた。

「切り傷の方はたいしたことはないのですが、打撲傷の方はかなりひどいですね。骨は折れてはいないようですけど、内臓にダメージを負ってなければいいんですが……」

 あちこちに付けられた痣をひとつひとつチェックしながら、ニナが診断を下していく。

「そう。傷の深さをもう少し詳しく調べて、ニナは手当を続けてちょうだい」
「わかりました」

 ニナにそう指示を出すと、フィオナは彼を運んできた者たちの方に振り返った。

「で、いったいなにがあったというの?現場の状況はどうだったの?」
「はい、それが、実際に何があったのかは私たちも見てはいないのですが。ただ、結界に反応があったので駆けつけてみると、森の外にその者が倒れておりまして。それと、少し離れた場所を、何か探すように数体のオーガーがうろついておりました」
「そんな!?彼が来たのは西側の境界だったはずよね?」
「はい、そのとおりです」
「この森の西側をオーガーが?そんなはずが……」

 報告を聞いたフィオナは、にわかにはその事実を信じられなかった。

 この森の西隣の国は、魔法王国と呼ばれるヘルウェティアだ。
 定期的な交流こそなかったものの、代々のヘルウェティア王はこの森のエルフたちに理解を示し、森の外を騒がせるようなことはなかった。
 そんな彼らをこの森のエルフも信頼し、互いを尊重し合って来た。
 ましてや、その強大な魔法の力をもって、小国ながら長きにわたって平和を維持してきたヘルウェティアの国内を、オーガーがうろつくなどということはこの数百年来なかったことだ。

 ……いったい、森の外でなにがあったというの?

 先日の、世界樹への妖魔の侵入未遂といい、今回のこの件といい、森の外で容易ならざる事態が起きているのは明白だった。

「私は、もう一度世界樹様にお伺いをたててきます。あなた方は森の警戒に戻って、何かあったらすぐに報告するように」
「はい」
「ニナは彼の治療をお願いね。容態に異変があったらすぐに伝えてちょうだい」
「わかりました」

 指示を出し終えると、フィオナは世界樹の方へと戻っていく。
 昼に世界樹の啓示を受けてから感じていた不安は、いやが上にも増していく一方だった。

* * *

 その日の深夜。

「くっ!くううううっ!」

 負傷者の容態に何があってもすぐに対応できるようにと、寝台の脇で仮眠を取っていたニナは、突然の呻き声で目が覚めた。

「どうしたの、傷が痛むの?」

 見れば、あの後、ニナの治療が終わってもずっと気を失ったままだったエルフが、寝台の上で苦しそうに悶えていた。

「大丈夫?」

 慌てて立ち上がると、容態を確認する。

 と、その目がゆっくりと開いて、ニナの方を見た。

「気がついたの?……えっ?」

 一瞬、相手の目が金色に光ったようにニナには思えた。
 いや、それだけではない。
 その、淡い色の髪がみるみるうちに黒くなり、エルフの象徴である長く尖った耳も縮んでいく。
 それは、決して錯覚ではなかった。
 夜目の利くエルフにとって、周囲が多少暗いからといってそんなことを見間違うはずがない。

「そんな……。あなたは、いったい?……ひぃっ!」

 やはり間違いない。
 相手のその双眸が、金色に輝いた。
 その視線に貫かれたように思った瞬間、ニナの体の自由が利かなくなった。

「なに……なんなの……?あなた……わたし……に……なに……を……」

 舌の先まで固まって、うまく言葉が出てこない。
 もちろん、その瞳から目を逸らすこともできなかった。
 暗闇の中で、金色の瞳だけがやけにはっきりと見える。
 その目を見詰めていると、頭の奥がじんじんと痺れてくるように感じられた。
 そして、その痺れが、じわりじわりと全身を冒していく。

「あぅ……うああ……あ、あぁ……」

 相手の目を凝視したままでニナの呻く声が次第に途絶えがちになっていく。
 もう、思考が完全に麻痺して何も考えられない。
 まるで、全てが闇に包まれていくようだった。

 不意に、目の前の男が右手を挙げて人差し指をニナの額に当てた。

「ひぃぁあああっ!」

 熱いものが、そこから自分の頭の中に注ぎ込まれたような感覚に、ニナは目を見開いて短く悲鳴を上げる。
 だが、彼女が意識を保っていられたのはそこまでだった。
 頭の中で何かが弾けたと思った次の瞬間、ニナの精神は完全に闇に閉ざされたのだった。

* * *

「世界樹様……いったい、森の外で何が起きているというのでしょうか?」

 深夜、森の皆はすでに寝静まっている時間だというのに、フィオナはまだ世界樹の中で瞑想を続け、問いかけていた。
 胸の中でわだかまる不安は大きくなる一方で、とてもではないが眠りにつく気になどなれなかった。
 自分は、世界樹の巫女としてこの森のエルフを導き、守らなければならない。
 その責任感が、彼女を突き動かしていた。

 と、再び世界樹の声が頭の中に響いた。

(ウム、ワカッタゾ。コノ、森ノ外デ蠢ク、尋常デナイ数ノ妖魔ノ気配。コレハ、魔界ガ攻メテ来タノニ間違イナイ)
「ええっ!魔界がっ!?」
(ウム。オソラクハ、魔界ト天界トノ大戦ガ再ビ始マルノデアロウ)
「そんな……」

 世界樹の言葉に、さすがにフィオナも動揺を隠せなかった。
 だが同時に、これで、この数日の間にこの森に起きた異変に説明がつくとも思ったのだった。

 魔界と天界との大戦……。
 前回、それが起きたのは300年ほど前のことだ。
 その時にこの森を統率していたのは、フィオナの師でもある先代の世界樹の巫女だった。
 その頃は、フィオナはまだ巫女としては駆け出しの半人前であったが、あの大戦の時のことは今でもよく覚えている。
 この森のエルフには、世界樹を守るという絶対的な使命があるため、なるべく戦乱に巻き込まれないようにするというのが基本方針であった。
 もちろん、それは完全な中立を意味するものではない。
 そもそも、エルフたちが魔界に与するはずもないし、この森に伝わる古い言い伝えでは、世界樹を守る役割は、太古の時代にこの森のエルフが神と交わした約束であるということになっていた。
 だから、潜在的には世界樹の森のエルフは天界側の立場であった。
 それ故に、この森も魔界の軍勢に狙われることになり、エルフたちも降りかかる火の粉を払うために戦わざるを得なかった。
 そんなエルフたちに力を貸してくれたのが、当時のヘルウェティアの王だった。
 先の大戦では、ヘルウェティアは天界の陣営に属する人間たちの先頭に立ち、その魔法の力を遺憾なく発揮していた。
 なにより、当時からヘルウェティアの王はこの森のエルフに敬意を払い、彼らの事情を理解して森の中深くに立ち入ることはなかった。
 だからこそ、エルフたちもヘルウェティアの助力を有り難く受け容れ、協力して攻めてくる妖魔どもを撃退したのだった。

 そのことを身をもって知っているフィオナだからこそ、ヘルウェティアの国土をオーガーがうろつくなどという状況はとうてい信じ難いものだったのだ。
 たとえ、再び魔界と天界との大戦が起きて、魔界の軍勢がこの地上を蹂躙したとしても、ヘルウェティアは容易には屈しない。
 それだけの実力と誇りを持った国であると信じていたのに……。

「……これはっ!?」

 世界樹の言葉を受けて物思いに耽っていたフィオナは、邪悪な力を感じたような気がした。
 ほんの僅かな時間だが、背筋に冷たいものが走るような禍々しい魔力が弾けた。
 それも、すぐ近くで。

 いったいこれは……?

 フィオナは、神経を研ぎ澄ませて周囲の気配を探るが、もう、その魔力は感じることができなかった。
 だが、それが却って胸騒ぎを覚えさせる。
 さっき感じた魔力も、よほど手慣れた者が慎重に力をコントロールしているような感じだった。
 おそらく、彼女がこうやって目を覚ましていたからこそ気づいたのであって、眠っていたら感づいたかどうかわからない。

 姿の見えぬ敵が近くに潜んでいるのを感じて、緊張に脂汗が浮かぶ。

 その時のことだった。

「フィオナ様……少し……よろしいですか……」

 不意に聞こえた声に、フィオナは身構える。
 だが、その声は彼女にとって聞き慣れたものだった。
 そして、その声の持ち主は洞の入り口に立っていた。

「ニナ?どうしたの、こんな時間に?」

 普段であれば、フィオナ自身も床に着いている時間だ。
 こんな深い時間に自分に用があるなどということは……。
 いや、ニナにはあの傷ついたエルフの看護に当たらせていた。

 いったいなにが?いや……もしかして?

 直感的に危険を感じ、自然と鼓動が早くなる。
 このところ続く変異、あの傷ついたエルフ、深夜のニナの訪問、そしてさっきの邪な気配。
 もし、それらが関連しているとしたら……。

「……少し……フィオナ様に……お話ししたいことが……」

 ニナが、こちらに向かって進み出てくる。
 その話し方は抑揚がなく一本調子で、声には生気が感じられなかった。
 いや、生気が感じられないのは、その表情も同じだった。

「待って!こっちに来ないで、ニナ。…………ええ?」

 違和感を感じてニナを制止しようとしたフィオナは、彼女のすぐ後に続いて入ってきた者がいることに気がついた。

 フィオナが呼び出していた光の精霊の、淡い燐光に照らされた洞の中に浮かび上がったその容姿。
 ほっそりとして、ニナよりも背が高い男は、明らかにエルフではない。
 だが、その整った顔立ちはあの傷ついたエルフに似ていた。
 それに、頬の、あのエルフと同じ場所に殴られたような痣ができていた。
 なにより目を引くのは、その黒髪に金色の瞳。
 そして、どこか酷薄な印象を与える薄笑いを浮かべてこちらを見ていた。

「ニナ、その男はいったい何者なの?」

 フィオナの問いに、ニナは答えなかった。
 ただ、ぼんやりと突っ立ってフィオナの方を見ているだけ。
 その顔には、何の表情も浮かべておらず、その瞳も昏く澱んでいた。

 そして、彼女の代わりにその男の口が開いた。

「はじめまして、世界樹の巫女。僕の名はシトリー。何者かというと、平たく言えば悪魔ですよ」

 そう言って、その男は口の端を吊り上げる。
 態度は柔らかいが、ひどく嫌な感じのする笑顔を作り上げた。

「そんなっ……悪魔、ですって!?」

 男の返答を聞いて、愕然と目を見開くフィオナ。
 彼女の第六感が、この男は危険だと、頭がガンガンするほどに警鐘を鳴らしていた。

「まさか、こんなに簡単にこの森に潜り込めるとは思ってもいませんでしたよ」

 悪魔が、クックック……と楽しそうに笑う。

「そんな……どうして?」
(ムウ……マサカ、我等ヲ欺ク者ガイヨウトハ……)

 半ば茫然としているフィオナの頭の中に、口惜しそうな世界樹の声が響く。

 そうだ。
 フィオナは、世界樹の啓示を受けたからこそ、この男を森の中へ入れる許可を出したのだ。
 まさか、世界樹の精霊を欺くことができる者がいるとは、とてもではないが彼女には信じられなかった。

「さてと、世界樹の巫女と対面することもできましたし、さっそく取りかからせてもらいましょうか」
「取りかかる?何に?」
「この森の制圧ですよ」

 まだ少なからず動揺しているフィオナに、平然として悪魔が告げた。
 だが、相手のことを完全に見下したようなその態度が、却って彼女に冷静さを取り戻させた。

「……くっ!そんなこと、させるわけにはいかないわ!」
「いや、やらせてもらいますよ。どのみち、僕の標的はあなただ。あなたさえ堕とせば、この森は堕ちたも同然だと聞きましたから」
「黙れっ、悪魔!おまえごとき、私の手でっ!」

 そう叫んだフィオナの掌の先に、風の精霊が集まっていく。
 そして、それが薄い三日月状になった。

 それは一見、青白く光る刃のように見える。
 だが、その刃は目に見えないほど高速で動く風の精霊で形作られていた。
 それゆえ、その周囲は一種の真空状態となり、触れたものを瞬時に断ち切る。
 特に、防具を身に着けていない生身の体には、通常の刃よりも遙かに効果的であった。

 相手は悪魔とはいえ、見た目には特に硬い肌を持っているタイプには見えない。
 ならば、その肉体は普通の妖魔や生物と同じ。しかも、相手は丸腰だ。
 この一撃を受ければ、ただでは済まないだろう。
 後は、これをあの悪魔に向かって放ちさえすれば……。

 だが……。

「ニナっ!」

 それまで、ぼんやりと突っ立ていたニナがふらふらと悪魔の方に身を寄せた。
 そして、まるで悪魔を背後に庇うようにフィオナと向き合う位置に立つ。

 フィオナの方を見ているのに、その目には彼女の姿は映っていないようだった。
 その表情も虚ろなままで、何の感情も浮かべていない。

「さて、この状態であなたに僕が討てますかね?」

 ニナの肩越しに、悪魔が余裕の笑みを浮かべる。
 この位置からでは、あの悪魔を倒そうとするとニナも巻き込んでしまう。

「……くっ!」

 風の刃を放とうとしたままの姿勢で、フィオナは唇を噛む。

「さあ、どうぞ攻撃したらどうですか?この森を堕とされたくなかったら、彼女を犠牲にして僕を倒すのが正解だと思いますよ」

 フィオナの内心を見透かしたように、涼しい顔で悪魔はそう言い放った。

 この森の指導者としては、禍根を断つためにはニナを犠牲にしてでもこの悪魔を討たなければならない。
 そんなことは、言われなくてもフィオナ自身わかっていた。
 しかし、どうしても風の刃を放つことができない。

 人と接する時の、飄々としてとらえどころのない態度から、エルフは醒めた性格で情が薄いと思われがちだが、実際はそうではない。
 人間とエルフでは生きる時間が違いすぎて、その間に仲間意識が芽生えにくいだけだ。
 実際には、自然の精霊と心を通わせることのできるエルフが、情が薄いはずがなかった。
 むしろ、同族に対する仲間意識は、人間のそれよりも深いほどだ。
 ましてや、かわいがってきた自分の弟子を犠牲にすることなど……。

 悪魔の手に堕ち、人形のように虚ろな視線を自分に向けているニナの姿を見ていると、こみ上げてくる怒りと悲しみ、そして悔しさに胸を掻きむしりたくなる。

「くぅっ!……卑怯者が!」

 フィオナには、悪魔を睨みつけながら、絞り出すようにそう吐き捨てることしかできなかった。

「おや、攻撃してこないのですか?これが最後のチャンスかもれないというのに。じゃあ、今度は僕の番ですね」

 相変わらずの涼しい顔で、嘲るようにそう言った悪魔の金色の瞳が、強く光ったように見えた。
 次の瞬間、フィオナの作っていた風の刃が霧散した。
 頭の中を何か得体の知れないものが貫いたように思えて、精神の集中が乱されたのだ。

「……なっ!?」
「ほら、あなたはもう僕の瞳から視線を逸らすことができない」
「うっ……」

 悪魔の言うとおりに、その瞳から視線を逸らせることができない。

「そんなっ?」

 薄笑いを浮かべている悪魔を見詰めたまま、フィオナは戸惑いの声を上げる。
 自分自身の意志とは関係なしに、その双眼を凝視してしまう。
 まるで、その金色の瞳がこちらに迫ってくるかのようにはっきりと見える。
 こやって相手の目を見詰めていると、頭の奥がじーんと熱くなってきて思考をかき乱され、とてもではないが精霊を操るだけの集中力を維持できない。

 しかも、それだけではなかった。

 金縛りにでもなったみたいに、体を動かすことができない。
 それが、あの悪魔の金色の瞳のせいなのは間違いなかった。
 おそらくは、あの瞳を使って幻術のようなものを掛けているのだろう。

「くっ……こんな、幻術などっ!」
「ほーう……さすがは世界樹の巫女だけあってたいした精神力ですね。僕の力を受けて意識を保っていられるなんて」

 せめてもの抵抗と、力を込めて睨みつけても悪魔は余裕の笑みを浮かべたままだ。

「まあ、そうまで言うならこれが幻術かどうか試してみますか?」
「なんですって!?」
「さあ、こっちへ来るんだ」

 そう言った悪魔の瞳が、また強く光った。
 すると、さっきまで体を動かすことができなかったというのに、右足がじりっ、じりっと悪魔の方に踏み出していく。
 もちろん、フィオナにはそのつもりはなかった。

「そんなっ……まさか!?」

 自分の意志とは無関係に、一歩、また一歩と足が悪魔の方に向かって勝手に動く。
 その間も、悪魔の瞳から視線を外すことができない。

「ククク……ほらほら、早くこっちに来るんだ」
「こんなっ、どうして!?足が……勝手に!」

 フィオナが必死に抗おうとしても、体が少しずつ悪魔の方に近づいていく。
 そんな彼女の姿を、悪魔は楽しそうににやつきながら眺めていた。
 そして、その悪魔の前では、ニナが生気のない目をこちらに向けて立っている。

 悪魔のすぐ目の前まで来たところで、ようやくフィオナの足が止まった。
 そこに降りかかってくる、勝ち誇った悪魔の言葉。

「どうですか?あなたの体はもう僕の言いなりだってことがわかりましたかね?」
「くううっ……おまえみたいな悪魔の言いなりになるわけにはっ!」

 相手を睨みつけながら、フィオナの手がゆっくりと上がっていく。
 そして、歯を食いしばり、なんとか気力を振り絞って風の精霊を呼び集めようとする。
 悪魔の視線に射竦められて、奥の方にじんじんと痺れすら感じる頭では、精霊を呼び出すために意識を集中するだけで尋常でない疲労感を感じる。

 だが、精霊が集まりきる前に……。

「おや、まだ動けるんですか!?素晴らしい、本当に見事な精神力をお持ちだ」

 言葉とは裏腹に、悪魔には慌てている素振りはない。
 むしろ、大仰に驚いて見せているのが却ってわざとらしい。

「でも、せっかく僕のところまで来ていただいたんですから。……さあ、おまえはそっちにどいてろ」
「……はい」

 悪魔が声を掛けると、ニナが抑揚のない声で返事をして数歩脇に退いた。
 そして、フィオナと向き合って立つ悪魔の腕がすうっと上がり、その指がフィオナの額に触れた。

「うあっ!?くうううううううううっ!?」

 悪魔の指先から、自分の頭の中に何かが流れ込んできた。
 その、言いようのない違和感に、フィオナは思わず悲鳴を上げていた。
 熱く、そして邪念に満ちたものが自分の中に注ぎ込まれてくる。
 自分の中にどす黒い異物が入って来る、身の毛もよだつ感覚。

「さあ、僕のものになるんです」
「あがああああああっ!」

 悪魔の瞳がさらに強く輝き、自分の中に注ぎ込まれる流れが強くなっていく。
 自分の中を暴れ回る、悪意の濁流が身を灼いていく。

「ほら、全てを受け容れるんだ」
「くううぅ……だま、れ……。わたし、は……おまえなんかの……ものには、ならない!」

 しかし、それでもフィオナの精神は屈しなかった。
 自分の中に流し込まれる悪魔の力に翻弄され、ひくひくと体を震わせながら歯を食いしばって抵抗する。
 彼女のその目は、まだ意志の光を失ってはいなかった。

「へえぇ、直接流し込まれる僕の力に耐えるとはね……」

 それには、さすがに悪魔も少なからず驚いた様子だった。

「しかし、エルフというのは興味深い種族ですね。それほどの精神力があれば、人間ならば僕の力を弾き返すものなんですが、弾くことなくその身に受け容れて、なおかつそれに耐えるとは」
「私は世界樹の巫女……侮ってもらっては困るわ。精霊を操るエルフの力は……全ての精霊を受け容れることから始まるのよ……。しかし……自分の中に受け容れた精霊の意志に、自分の精神が流されてしまっては……反対に自分が精霊に支配されてしまう。だから……優れたエルフの術者は、自分の中に受け容れた精霊に……自分の精神が流されないようにする修練を積むのよ。だから……これしきのことで、私の心を支配することなどできないわ」
「なるほど、ふーむ……」

 フィオナの言葉に、悪魔はしばし考え込んでいる様子だった。

 それに、最初は驚いたがフィオナ自身、少しずつ落ち着きを取り戻していた。
 たしかに悪魔の力は強大だが、このくらいなら耐えられる。
 この程度では、自分を屈服させることはできないと、そう確信できた。

「じゃあ、こうしようか」

 なにやら考えていた悪魔が、不意に口を開いた。

「僕の力で心を支配することができないんだったら、体を支配してしまえばいいんだよ」
「なんですって?」

 簡単にそう言った悪魔の言葉に、不安がよぎる。
 少し怯えた表情を浮かべたフィオナに向かって、悪魔はさらに言葉を続ける。

「このまま僕の力を注ぎ込んでいても、あなたの心を屈服させることはできなさそうですからね。でも、体の方はすでにかなりの部分が僕の支配下にあるみたいだし、さいわい、あなたは僕の力を跳ね返したり遮断したりはできないみたいだから、だったら、まず体の方を完全にいただくとしましょうか」
「そんな…………あうっ!?いぁああああっ!?」

 自分の中に注ぎ込まれる、悪魔の力の流れ方が少し変わったような気がした。
 さっきまでの、頭の中を掻き回す感じではなく、自分の体の隅々まで拡がっていくみたいに。
 さっきまで、集中すればかろうじて動かせていた両手から力が抜けてだらりと下がる。
 手足の先からチリチリと痺れてきて、感覚が曖昧になっていく。

「ううっ!んぐぅううううううううう!」

 悪魔の瞳が輝き、体中が注ぎ込まれる力で満たされていく違和感。

 もう、どれだけ足掻いても指先ひとつ動かせない。
 自分の体なのに、自分の言うことを聞いてくれない。
 まるで、自分の体そのものが異物になってしまったようにすら感じる。

「これで、あなたの体は僕のものです」
「がっ……!はあっ、はあっ……」

 ようやく、悪魔が額から指を離した。
 その瞬間に、両足から力が抜けてフィオナはがくりとその場に膝をついた。

「はぁ、はぁっ……く……体が、動かない……」

 片手を床について、肩で大きく息をしているフィオナ。
 何か、強い力に押さえつけられているかのように、体を動かすことができない。

「それは当然ですね。今さっき、あなたは身動きできないと僕が念じましたから」
「なん……ですって?」
「言ったでしょう、あなたの体は完全に僕のものになったって。だから、もうあなたの体は僕の思いのままなんですよ。別に声に出して命令しなくても、僕が心の中で思うだけであなたはその通りに行動してしまうんです」
「そんなっ……バカなことが!」
「じゃあ、もう一度やってみましょうか」
「なにを……ええっ?これはっ!?」

 少しふらつきながら、フィオナは立ち上がった。
 もちろん、彼女自身がそうしようとしたわけではない。
 彼女の意志とは無関係に体が勝手に動いて、着ている巫女の長衣の腰紐を解いていく。

 そして、薄手の長衣が音も立てずに床に落ち、フィオナは生まれたままの姿を晒していた。

 触れたら折れてしまいそうなほどにほっそりとした、華奢な体。透き通るように白く、色素の薄い肌。
 まるで、思春期前の少女のような控えめな胸のふくらみも、いかにもエルフらしい。
 しなやかさを感じさせる、細い手足も、滑らかな肌の肌理も、年若い乙女にしか見えない。
 それでいて、大人の女の雰囲気を漂わせているのは、数百年の時を、若さを保ったままで生きるエルフならではというところだろうか。

 その、女として最も大切な場所を覆う、髪と同じく淡い色の繁みを隠そうともせずにフィオナは真っ直ぐ立っていた。
 いや、隠したくてもできなかったのだ。
 彼女自身は両手で恥ずかしい場所を隠したかった。いや、それ以前に服を脱ぐつもりなどなかったのに……。
 体が言うことを聞いてくれない。
 彼女にできることといえば、その細長く尖った耳を羞じらいに小さく震わせるくらいだった。

「ほらね。僕が言ったとおりでしょう?」
「こんなことをして……私をどうするつもりなのよ?」
「女性を裸にさせて、やることなんて決まってるじゃないですか?……そうですね、神や精霊の言葉を聞く巫女というのは、穢れを知らない乙女でないと務まらないそうですね。なら、今から僕があなたを穢してあげましょう」

 柔らかな口調で、悪魔は非情な宣告を行う。

「くっ……卑劣なっ!」
「それは、褒め言葉と受け止めておきますよ。でも、僕は卑劣かもしれませんけど乱暴なことは嫌いですからね。ちゃんと優しくしてあげますよ。……こうやってね」
「……はぅっ!?」

 不意に、フィオナの体を異様な感覚が襲った。

 お腹の奥の方がジンジンしてきて、熱でもあるように背筋がゾクゾクと震えるような、不思議な感覚。
 かといって、悪寒とは違って不快な感じはしない。
 いや、不快とか、そういうものかどうかすら判断がつかない未知の感覚だった。

「い……や……。なに?なんなの、これは?」
「ふーん、巫女っていうのは本当にそういう経験がないんですね。その感覚がわからないなんて。いいですか、それは、快感ですよ」
「快感?何を言ってるの?こんなのが、心地いいはずなんかないわ」
「それは、あなたがまだ快感に慣れていないだけですよ。そもそも、心地いいかどうかなんて、頭で考えるよりも体で感じるものじゃないですか。……ほら」
「あうっ!いやぁあああああっ!」

 その未知の感覚が、さらに強くなった。

 背中から頭まで、ビリビリと痺れるような刺激が突き抜けていく。
 さっきまでと違って、今度はその感覚の中心がはっきりとわかった。
 下腹部が、ヒクヒクと痙攣している。
 そこにあるのは、女としての大切なもの。
 そればかりは、人間であろうがエルフであろうが同じ。
 そこを中心に、全身がどんどん熱くなっていく。

「こんなっ!これがっ、ああっ、んくぅうううううっ!」
「どうですか、気持ちよくなってきたでしょう?」
「きっ、気持ちよくなんか!あうっ、あふううっ!」
「強情ですね。それとも、本当にわからないんですか?でも、頭ではわかっていなくても、体の方はわかっているみたいですよ」
「んふぅううっ!ふぁっ?えええっ?」
「だってほら、あなたのそこ、もうそんなに湿って、ヌラヌラと光って見えますよ」

 その視線の見詰める先、そこにあるフィオナの股間の繁みは、悪魔の言うとおり内側から溢れてきた蜜に濡れて、光っているように見えた。
 それどころか、ももを伝う蜜が夜気に触れて、冷たく感じるほどに溢れてきている。

「やっ、なんで、こんなっ!?」

 幼い頃から巫女になるための修行に真面目に取り組んできたフィオナには、たしかにそういう経験はない。
 しかし、知識としてはそれがどういうことなのかは知っていた。
 知ってはいても、今、自分の体に起きていることが信じられない。
 悪魔がそう念じただけで、自分の体が感じてしまっているなんて……。

「まったく……穢れを知らないっていうのも困ったものですね。じゃあ、こうしたらさすがにわかるでしょう」
「やっ、来るな!何をするつもりっ……あっ、いやぁぁああああっ!」

 悪魔の指がフィオナの股間に伸びてきて、その裂け目に潜り込んできて、フィオナの悲鳴が洞の中に響く。
 中に入り込んできて引っかけるように指先を曲げた瞬間に、あの、ゾクゾク痺れる感じが背中から脳天まで駆け抜けていく。
 自分の中に入ってきた指が動くたびに、ぐちゅ、と湿った音がはっきりと聞こえて、そこが濡れているのを思い知らされる。

「大きな声を出したらだめですよ。外に声が漏れるじゃないですか」
「んぐぐっ、ぐっ、ひぅぅううっ……」

 悪魔に言われた途端に、くぐもった呻き声しか出なくなった。

「ほら、こうしてると僕に愛撫されて感じてるのが実感できるでしょう?」
「んぐぅっ、んんっ、んぐぅうううううっ!」

 悪魔の指が裂け目の内側を擦ると、ビリビリする刺激が駆け巡る。
 さっき、この感覚を直に流し込まれた時よりも、この方が敏感な部分を触られることとその感覚の因果関係がはっきりして、よりいやらしく感じられる。
 でも、それだけにおぞましい。

 呻き声とともに、フィオナの体がビクビクッと何度も震えていた。
 その、大きく開いた目には、涙がいっぱいに溜まっている。

「ほら、どうですか?」
「んぐぐぐっ、ううっ、んふぅぅううう!?」

 敏感な部分を悪魔に弄ばれながら、フィオナは自分の体がどんどん熱くなってくるのを感じていた。
 それが、この感覚のせいなのは間違いなかった。
 この、体をビリッと貫く未知の刺激が快感なのかどうか、彼女自身まだわからない。
 だが、こうされていると頭の奥の方が、じん、と痺れてくるようで、不思議と体が熱くなってくる。

「あうっ、んぐうっ、んっ、んんんっ、んむふううううっ!」

 悪魔に秘裂をいじられて、自分の口から漏れる喘ぎ声。
 その、甘く悩ましげな響きは、自分の体が感じていることを如実に示していた。
 それに、間断なく与え続けられる刺激。
 全身を痺れさせるその感覚に膝がガクガクと震え、頭がぼんやりとしてくる。
 一方で、自分の心とは関係なしに悪魔の力で感じさせられていると思うと、吐き気を催しそうになる。

 それなのに……。

「ふ、こんなにクリトリスを勃たせて、よっぽど感じてるんですね。じゃあ、この辺で一度イッておきましょうか」
「はぅっ!?んぐぁああああああああああああっ!」

 悪魔の指の当たる、コリッという感触。
 それと同時に、ありったけの痛みと熱さと痺れをかき混ぜた刺激が脳天まで突き抜けた。
 まるで、頭を思いきり殴られたように目の前で火花が散る。
 目を見開いて絶頂の呻き声を絞り出す、その喉がヒクヒクと震えている。

 そのまま、フィオナは足の力が抜けてその場にへたり込んでしまった。

「なかなかいいイキっぷりでしたね」
「あぁ?んふぁあ?」

 頭上から、悪魔の声が降ってくる。
 しかし、頭の中でガンガンと鐘が鳴っているみたいで、何を言っているのかよく聞き取れない。
 全身に力が入らなくて重く感じるし、意識がふわりとして頭が働かない。

「でも、まだ終わりじゃありませんよ」
「え?ふぇええ?」

 いきなり両足を抱え上げられて、仰のけにひっくり返ったような姿勢にさせられた。
 驚いて頭を上げたフィオナの、泳いでいた視線の焦点がゆっくりと合っていく。
 その視線の先には、下半身を露わにした悪魔の屹立した肉棒があった。

「……やっ、なにっ!?」

 ようやく我に返ったフィオナが、怯えた表情を浮かべる。
 同族であるエルフの男のものすら見たことのない彼女の目には、悪魔の股間にそそり立つ、赤黒く滑ったそれはあまりにも醜悪でグロテスクに映った。

「だから言ったでしょう、あなたを穢してあげるって。これから僕がたっぷりと穢してあげますよ。もう巫女ではいられないくらいにね」
「そんな……いやぁっ!」

 短く悲鳴を上げて、フィオナは身を捩ろうとする。
 だが、やはり体は思うままに動いてくれなかった。
 そのまま、為す術もなく悪魔が抱えた両足を大きく広げさせられる。
 そうしてから悪魔がこちらに、ぐい、と体を寄せてきて、フィオナの顔が引き攣った。
 その表情には、自分の体が悪魔のなすがままに陵辱されようとしていることへの怯えの色がありありと浮かんでいた。

「やめて……!」
「大丈夫ですよ、こんなに濡れてるんですから」
「いや……ぁぁあ……ああっ!」

 股間の、敏感な裂け目に堅くて熱いものが当たる感触に、フィオナは息を飲む。
 それを入れられてしまったら絶対にいけないのに、体は自分の言うことを聞いてくれない。
 ただ、恐怖に目を見開き、尖った耳の先まで小さく震わせることしかできない。

 そして、その堅いものが、裂け目をゆっくりと押し入ってきた。

「ひぃぃいいいっ!体がっ、裂けるううう!」

 それは、決して誇張ではなかった。
 大きなものが肉襞を掻き分けて入って来る、メリメリという音が聞こえるかのようだ。
 それに、本当に股間から体が裂けているのではないかと思えるほどの激痛が走る。
 痛みと共に、あり得ない大きさのものがお腹の中に入り込んでくる異物感に、苦しさすら覚える。
 さっき見た醜悪な肉棒よりも遙かに大きい棍棒か何かを入れられているのではないかと思うほどの圧迫感だった。

「ほら、奥まで入りましたよ」
「いやっ!はっ、あくぅっ!痛いいいいっ!あふっ、やめてっ、やめてぇええええっ!」

 大きくて堅いものが奥まで入ってきて、ドクドクと脈打っている。
 まるで、喉元まで届いてるのかと思うほどにいっぱいになっているように感じられた。
 激しい痛みと息苦しさで、まともに呼吸ができない。

「くっ、やっぱりエルフは体が細いだけあって中もきついですね」
「やめてっ、動かないでっ!痛いっ、いたいいいいっ!」

 中に入っている肉棒が動き出して、フィオナは激痛に悲鳴を上げていた。
 堅い異物が自分の膣を出たり入ったりしている、異様な感覚が何度も何度も襲ってくる。
 そのたびに、ズキッ、ズキズキッと、傷口を無理矢理押し広げるのに似た痛みが走る。

「つうううっ!痛いっ!やめてええええっ!」
「なんだ、そんなに痛いのか?歳は経ていてもやっぱり、処女は処女なんだな。まあ、これだけ狭かったら痛いのも当然かな?」

 悪魔の口調が急に変わった。
 さっきまでの、言葉遣いは丁寧だがこちらのことを嘲るような慇懃無礼な態度から、あからさまに乱暴な話し方に。
 それに、彼女が痛がっているのを楽しんでいるような、嗜虐的な笑みを浮かべてこちらを見下ろしている。
 さっきまでの気味の悪い薄ら笑いよりも、さらに冷たく悪魔的な笑みだった。

「でも、あまり痛がらせても悪いしな」
「ええっ?……くううっ!はうっ、くはぁああああっ!」

 不意に、嘘のように痛みが消えた。
 そして、痛みを感じなくなると膣の内側を堅くて大きなものが擦っていくのをはっきりと感じる。

「いやっ……あうっ!気持ちっ、悪いいいいいっ!」

 フィオナにとって、その感覚は不快としか言いようがなかった。
 自分の中に入ってきているそれは自分の体にはあまりに大きく、その異物感に吐き気を催しそうになる。
 奥まで突き入れられる衝撃がそれを助長する。
 ズンと突かれるたびに息が詰まり、不快感がこみ上げてくる。

 が、しかし……。

「はうっ、あふっ、あっ、あぐっ!いああああっ!?……んふぅうっ!?やっ、なにっ!?んはぁああああああっ!」

 ぐっと力強く突き入れられた瞬間に背筋をゾクゾクした刺激が走って、フィオナの体が、きゅうっ、と反り返った。
 それは、さっき悪魔に絶頂させられた時に感じたのと同じ感覚だった。
 それだけではなく、体全体がやけに熱くなっているように思える。
 自分の中に入っている堅いものが、やたら熱く感じる。
 それが膣壁を擦るたびに、摩擦熱でも発しているかのように体が燃え上がっていく。

「んふうううっ!はううっ、やぁっ、なにっ!?熱いっ、熱いのっ!はうぅううううっ!」

 熱くて太い肉棒で擦られ、奥を突かれるたびに痺れるような刺激が駆け抜けて、仰け反ったままの体がビクビクと震える。

「ようやく解れてきたみたいだな」
「解れて……?んっ!んふううううううっ!」
「ああ、僕に犯されて感じるようになってきたってことさ」
「そんなっ!これはおまえが私の体を操ってそうさせてるからよ!はんっ、ああああっ!」
「違うな。今、僕がしてるのはおまえの痛みを消すことだけだからね。だから、おまえが今感じているのはおまえ自身の感覚だよ」
「うそ……そんなの嘘よ……」

 事もなげに答えた悪魔の言葉に、フィオナは愕然とする。
 今のこの感覚は、さっきみたいに悪魔が力を使って快感を感じさせているのだと思ったのに。

 そんな……この悪魔のせいじゃないとしたら……私は、自分で……?

「本当のことさ。おまえは僕に犯されて快感を感じているんだよ。こうやってね」
「あぅっ!くはぁあああああああっ!」

 悪魔が思いきり腰を打ちつけてきた瞬間、お腹の奥にゴツッと堅いものが当たる感触に息が詰まった。
 ビリビリと全身が痺れるほどの刺激に、意識が飛びそうになる。

「くっ、いい締め付けじゃないか」
「はうっ、ぁっ、くああっ、あぅっ、はぁっ、んふぅううううっ!」

 膣の中を擦る肉棒の動きが一気に速くなって、短く呻きながらフィオナの体は痙攣を繰り返す。
 全身を覆う熱は限界を超えて、のぼせたように頭がぼんやりとしてくる。
 突っ込まれているそれが自由奔放にお腹の中を掻き回してるというのに、もう、異物感も不快感もほとんど感じなかった。
 感じるのは、身を焦がすほどの熱と、痺れるような感覚だけ。
 意識がぐにゃりとして、全身を冒す痺れに身を任せてていく。
 ゾクゾクと背骨が震えるほどのその刺激に、体の痙攣が止まらない。

「ふ、そんなにきつく締めつけられると、もう出てしまいそうじゃないか」
「あぅ……はぅっ、んあ?ふえぇ……?」

 悪魔が何か言ったので、フィオナは僅かに反応する。
 だが、熱にうなされたようにぼうっとして、頭がうまく働かない。

 そして、彼女がそれを理解するよりも早くそれはやってきた。

「ふぁあああああああああああっ!熱い!あづいぃいいいいいい!」

 お腹の中に、何かが弾けるように噴き出してきた。
 膣の中で、肉棒がビクビク震えているのを感じた。
 体が勝手に反り返って、そのまま痙攣を繰り返す。
 そのたびに、火照った体よりもさらに熱いものがいっぱいに流し込まれて、固まった体がビクビクビクッと何度も跳ねた。
 膣が焼けるのではないかと思うほどの衝撃に、目の前が赤く染まった気がした。

「あうっ、うぁぁぁあああああっ!んんっ、んっ、ふぁっ、あああああぁ…………あんっ!」

 お腹の中に挿し込まれていた肉棒を引き抜かれて、弓なりに反らせていた体が、糸が切れたように崩れ落ちる。

「ん……んん……はあぁ、んふぅう……」

 そのまま、ぐったりとして大きく息をしているフィオナ。
 まだ、下腹部の辺りがヒクヒクと震え、だらしなく足を開いてさらけ出された秘裂から、血液混じりの白濁液がドロリとこぼれ落ちていた。

 ああ……私……。
 私……穢されてしまった。
 こんな悪魔なんかに……。

 ようやく意識がはっきりしてきて、フィオナはそのことを痛感する。
 まだ、じんと痺れている下腹部に再びぶり返してきた痛みが、自分の体が穢されてしまったことをはっきりと示していた。

 体を穢されてしまったら、私……もう巫女ではいられないわ……。

 自分が巫女ではいられない体にされてしまったことを悟ったフィオナの目から、涙が溢れてくる。

「く……ううっ……うくっ、ううう……」
「どうかな?僕に屈服する気になったかな?」

 陵辱され、声を殺して涙を流しているフィオナに向かって、悪魔の声が降りかかってきた。
 見上げると、悪魔があの、冷たい笑みを浮かべてこちらを見ていた。

 屈服する?私が、この悪魔に?
 嫌……それは嫌……。
 それに、私がこの悪魔に屈してしまったら……。

 完全に勝った気でいる悪魔の姿を見上げるフィオナの中に、この森のエルフの指導者としての責任感が甦ってきた。

 そうよ、私には悲しんでいる暇なんかないじゃない。
 たとえ巫女でいられなくなっても、私にはこの森の指導者として皆を導き、守らなければならない。
 私がこの悪魔に屈してしまったら、それで全ては終わり。
 それに、私の心はまだ折れてない。まだ、この悪魔には負けていないわ……。

 たとえ自分はこの悪魔に勝てなくても、この森には腕の立つ術者は、自分の弟子たちも含めてかなりの数がいる。
 中でも、自分の後継者として、次期の世界樹の巫女の候補に挙げられる数人の弟子はフィオナに迫るほどの実力を持っていた。
 ひとりひとりでは勝てなくても、皆でかかればきっとこの悪魔を倒すことができる。
 そう……夜が明けて、皆がこの異変に気付けば……。

「……言ったはずよ、私はおまえのような悪魔には決して屈しないと」
「へえぇ、こんな状況でまだそんな強情が言えるなんてね」
「いいえ、私は屈しない。もうすぐ夜が明ける。そうしたら森の皆が異変に気付くわ。いくらおまえに力があっても、この森の全員を相手にはできないでしょう」
「そうだな。じゃあ、そうならないように、おまえを屈服させるとするかな。じっくりと時間をかけてね」
「なにを言ってるの?夜明けは近いって言ったはずよ。時間切れでおまえの負けだわ」
「だから、その時間を作るんですよ」
「そんな?どうやって……うあっ、いあああああああっ!」

 悪魔の指が近づいてきて、額に触れた。
 またもや邪念に満ちた力が流れ込んできてフィオナは悲鳴を上げる。

「うぁあああああああああっ!」

 体中に悪魔の力が浸透していく違和感に、呻き声を上げて体を震わせる。
 そして、またもや体の自由を奪われていく。
 いや、今度は体だけでなく、舌すらも動かなくなっていく。

「んぐうううううううううっ!」
「それじゃあ、僕の言うとおりにしてもらうことにするよ」

 そう言うと、フィオナに力を流し込みながら、悪魔の金色の瞳が強く輝いた。

* * *

「みんな……よく聞いてください。昨夜、世界樹様の啓示が出ました。森の外で、再び魔界と天界の大戦が起きようとしています」

 翌朝、森の全員を集めてフィオナが話し始めると、どよめきと共に動揺が広がった。
 この森には、前回の大戦を知る者が、まだかなりの数残っていた。
 彼ら、先の大戦の厳しさと悲惨さを知る者たちは、一様に険しい表情になった。
 そうでない者も、フィオナの強ばった表情に事態の深刻さを感じていた。
 いままで、彼女のそんな表情は誰も見たことはなかったからだ。
 だから、全員が固唾を呑んでフィオナの次の言葉を待っていた。

 だが、彼女の表情が強ばっていたのは、事態が深刻だからではなかった。
 いや、ある意味非常事態に陥っていたのだが、それは他の者が思っている事態とは違っていた。

「ですから、森の警戒を強化し、来たるべき大戦に備える必要があります。まず、森の男は全員で境界の警戒に当たってください。警戒ポイントの数を増やして、すぐに連携がとれる態勢をとるのです。少しの異変も見逃さないように」

 フィオナの言葉に、男たちは真剣な表情で頷く。

 だが、彼女はそんなことは言いたくなかった。
 すでに異変は起きているというのに。
 これは、男たちをここから遠ざけて、その間に時間をかけて森を堕としていくための悪魔の策略だとわかっているのに。
 舌が言うことを聞いてくれない。
 自分の思いとは裏腹に、あの悪魔が言ったとおりの言葉が口から出てしまう。
 顔も、筋肉が固まったように強ばったままだ。
 本当はこの場で大声を上げたいのに、それすらもできない。

「女たちは、戦に備えて充分な量の薬草と矢の用意を。巫女たちは、矢に精霊の力を付与する作業に当たるのです」

 今度は、女たちが一斉に頷いた。

「世界樹様によると、昨日運ばれてきた青年が外の状況を詳しく知っているとのことなので、今、世界樹様の中でニナが手当を行っています。彼の意識が戻り次第、その言葉を私が世界樹様に伝えて、どうすれば良いか世界樹様のご判断を仰ごうと思います」

 本当は、あのエルフこそが悪魔の化けたものだ。
 それさえ伝えることができたら、全員であの悪魔を倒すことができるのに。
 しかし、それを言うことができない。
 体は完全にあの悪魔に絡め取られて、自分の思い通りにならなかった。

「これから私も、今後の対策を練るために世界樹様の中で瞑想に入ります。世界樹様のご指示があれば私から伝えますので、それまでは誰も入ってこないように。食事は、入り口の外に置いていてくれたらニナに取りに行かせますから」

 真剣な顔で話を聞いている皆を見て、事態が悪魔の思い通りに進んでいることをフィオナは感じていた。
 だが、自分にはどうすることもできない。

 話を続けながら、フィオナは世界樹の中から薄ら笑いを浮かべてこちらを伺っている、あの金色の瞳の視線を感じていたのだった。

< 続く >

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