黄金の日々 第2部 第17話

第2部 第17話 殺戮の天使

 ――数日後。

「姉さまの囚われている場所がわかったというのは本当ですかっ、隊長!?」

 どこで聞きつけたのか、アーヤが息せき切って駆け込んできたとき、幕屋の中ではアブディエルとイェキエルがなにやら話し合っている最中だった。

「ちっ、もうおまえの耳にまで入っちまったのか……」

 アーヤの姿を見たイェキエルが、顔を顰めて舌打ちをする。
 一方、アブディエルは腕を組んだまま黙って頷いていた。

「それでっ、姉さまは今どこにっ!?」
「まあ落ち着け、アーヤ」
「でも、副隊長っ!」

 気がはやってしかたがないという様子のアーヤをイェキエルが宥めようとするが、完全に頭に血が上ったアーヤは引き下がらない。
 しかたなく、小さく肩を竦めてイェキエルが話し始める。

「……4日前の戦闘で捕らえた敵のひとりが口走った話でな、あの城塞の奥深くで捕らえた天使を拷問にかけているというんだ。サラが捕まったあの戦闘からこの方ずっと小競り合いばかりで、こちらから向こうに捕まった者はいない。だから、もしその話が本当ならその天使というのはサラだってことになる」
「間違いないです、それはきっと姉さまよっ! そんな、拷問だなんて、早く、早く姉さまを助け出さないとっ……」

 サラが拷問を受けているという話に、アーヤの顔面がみるみる蒼白になっていく。

「もちろん俺たちだってサラを助けたいさ。でもな、敵の籠もってる城に潜入するのは危険が大きすぎる」
「私にっ、私に行かせてくださいっ!」
「ああもう、おまえはきっとそう言うだろうからと思って口止めさせてたっていうのに……」
「当たり前です! 姉さまが囚われて拷問を受けているっていうのに、ここでじっとしているなんて私にはできません!」
「もちろん、俺たちだってじっとしているつもりはないに決まってるだろうが。サラを救出するとなると、ただでさえ危険な潜入任務だ。それを、中の様子もわからずに潜り込むのは自殺行為だぞ。だから、できるだけ情報を集めてからでないと行動には移せない」
「でも、情報といっても……」
「だから落ち着いて話を聞け。悪魔どもが籠もっているあの城塞は、この国のものだ。だから、各地で蜂起しているこの国の民、それも、軍人にあの城塞のことを知っている者がいるかもしれないと思ってな。蜂起を支援しているエリアナに使者を送って、その返事がさっき届いたところだ」
「……それで!?」
「まあ、完璧とはいわないが、十分に使えそうな図面は手に入った。どうやら、あの城塞の地下には天然の洞窟を利用した通路が張り巡らされているみたいで、見た目よりかはずっと複雑な作りになっているらしい。それで、図面によると、牢獄として使われていた場所が4ヶ所ある。そして、その1ヶ所が、こちらが捕らえた敵が吐いた場所と一致した。それが、今の時点でわかっていることの全てだ」
「だったら、そこに行けば姉さまがいるんですね!?」

 姉を救うことしか頭にないアーヤには、イェキエルの話が希望の光に思えた。
 しかし、イェキエルとアブディエルの表情は硬いままだ。

「アーヤ、おまえには酷な話になるがな、これは、罠ということも考えられないか?」
「罠? それは……どういうことですか?」
「これまでも戦闘で捕らえた者がいたが、サラの情報は何も入ってこなかった。それが、どうして今になって突然そんな話が飛び込んできたんだ?」
「それは、姉さまのことは悪魔どもの間でも極秘事項だったのではないですか?」
「今回捕らえた敵は、そんな重要な情報を知ってるような立場にはなさそうなただの下級悪魔だった」
「しかし、時間が経てば情報が漏れるということもあるかもしれません」
「まあ、そうこともあるかもしれんが……。いいかアーヤ、サラを助けたいというおまえの気持ちはわかる。だから、この情報に縋りたいおまえの気持ちもわかっているつもりだ。しかし、だからこそ罠の可能性も考えなければならないだろう。隊長も言っていることだが、敵の狙いは俺たちを分断して各個撃破することだ。サラを救出するために手勢を割けば向こうの思う壺だろう。なにしろ相手は悪魔だ。サラを餌にしてこちらをおびき出すくらいの罠は仕掛けてもおかしくない」
「だったら、どうすればいいんですか? 今、この時だって姉さまは……」

 イェキエルの話を聞いているアーヤの目から、大粒の涙が流れ落ちる。
 自分でもどうしていいかわからなくてやり場のない焦燥感ばかりが募り、感情をコントロールできない。

 その時、それまでアーヤとイェキエルの会話を黙って聞いていたアブディエルが口を開いた。

「俺が行く」
「ええっ!?」
「……隊長が?」
「そうだ。俺がサラを助けに行く」

 短いが、力強いアブディエルの言葉に、ふたりとも意表を突かれた様子だった。
 しかし、すぐにイェキエルが難色を示す。

「隊長が自ら救出部隊を率いるとなると、こっちの守りはどうなるんですか? それこそ、敵の思惑通りじゃないですか?」
「だから、他の者は連れていかない。俺ひとりで忍び込む」
「ひとりで? ……あっ!?」
「そんなの危険です! 私も連れて行ってください。私の手でサラ姉さまを助けたいんですっ…………え? 副隊長?」

 サラの救出に加わることを直訴するアーヤの肩を、イェキエルが掴む。
 そして、それ以上言うなとでもいうように左右に首を振る。

「この任務は危険すぎておまえは連れていくわけにはいかない。それが俺と隊長の判断だ。だから、もうこれ以上俺たちを困らせないでくれ、アーヤ」
「しかし、副隊長」
「いいからおまえは黙っていろ。…………隊長、俺はあなたの実力はわかっているつもりです。それに、あなたの能力のことも。それでも、やはり隊長がひとりで乗り込むことには賛成できません。だいいち、これがもし罠だったらどうするんですか?」
「だからひとりで行くんだ。もし罠だった場合、俺ひとりの方が逃げ切れる可能性が高い」
「でも、もし逃げ切れなかったら?」
「その時は、犠牲が俺ひとりで済む。そのための単独潜入だ」
「そんなっ……そんな作戦は俺は認めませんよ!」
「しかし、もしも罠でなかった場合、やはり俺がひとりで行った方が確実にサラを救出できる。仮に罠だった場合でも、最悪の事態が起きたとして犠牲は俺ひとりでいい。部隊全体のことを考えた場合、それがいちばんリスクが少ないだろう」
「お言葉ですが、部隊全体のことを考えた場合、隊長にもしものことがあったらそれが最大のリスクです。自分を卑下するわけではないですが、隊長に代わる人材などいないですから」
「もしもの時は、おまえが部隊をまとめていったんニップルに退け。そして、シャルティエルの部隊と合流して立て直しを図るんだ」
「しかしっ!」
「もう言うな、イェキエル。サラは俺の大切な部下だ。だから、俺がこの手で助ける」
「隊長…………」

 イェキエルには、もうそれ以上食い下がることはできなかった。
 それほどまでに、アブディエルの言葉と表情には固い決意が滲み出ていた。

 緊張感を孕んだふたりのやりとりが途切れて、それまで割り込めずにいたアーヤが口を開こうとすると、アブディエルがそっとその頭に手を乗せた。

「心配するな、アーヤ。サラは必ず俺が助ける。だからおまえは安心してここで待っていろ」
「……隊長」
「それに、おまえたちにもやることはある。俺が潜入している間、陽動をしてもらうぞ。なるべく派手に動いて敵を誘い出し、俺の動きから目を逸らせろ。たとえ罠だったとしても、おまえたちの働き次第で敵に隙もできるだろう。俺の力になりたいんだったら、しっかりと敵を引きつけておくんだ。その指揮はイェキエル、おまえに任せる」
「わかりました……」

 形容しがたい不安は胸にわだかまったままだったが、もう、イェキエルにはそう答えることしかできなかった。

* * *

 ――2日後。

 アブディエルは、ラドミール城塞から少し離れた渓谷にいた。
 城塞のある岩山から連なる山岳地帯の外れにあるこの渓谷に流れ込む支流のひとつは城塞の地下洞窟から流れ込んでおり、地下水流が地上に出てくる地点にある洞窟から城塞内に潜り込めることが、彼らが手に入れた図面には書いてあった。
 それは、万が一の際に城塞から脱出するための抜け道となっていたが、それ故にその存在はごく一部の者しか知らないはずだった。
 もともと自分たちの城ではなく、成り行きで逃げ込んだだけの魔界の軍勢がこの抜け道のことを知ってはいまいと考えて、アブディエルはここを侵入路に選んだのだ。

 物陰に隠れて目的の洞窟の様子を探るが、何者も出入りする気配はない。

「そろそろ陽動作戦の始まる頃だな……」

 そう呟くと、アブディエルは慎重に洞窟へと入っていく。

 洞窟の内部は真っ暗で足許も滑りやすく、本当に単なる天然の洞窟だった。
 とても、あの城塞内部につながっているとは思えない。
 それに、くらい中を右に曲がり、左に折れ、勾配を上り下りしていると今自分がどこにいるのか、感覚が全くわからなくなる。
 たまに灯りを点して図面を見ても、この洞窟のことはごく簡単に書いてあるだけで役に立たない。

 それでも、ずっと進み続けているうちに足許の様子が変わっていることに気づく。
 それまでは湿った岩が剥き出しになった不安定な足場だったものが、踏みしめられた土に変わり、上り下りが減ってほぼ平らになった。
 それは、明らかに人の手によって掘られた坑道であることを示している。
 どうやら現在は使われていない坑道のようだが、おそらく自分が城塞の端に到達したらしいことはわかった。

 そして、いくつか角を曲がったところで、前方にぼんやりと光が見えた。
 松明か魔法かはわからないが、間違いなく人工的な灯りだ。
 そこからが城塞内通路の使用区域であることを悟って、アブディエルはいっそう慎重に歩みを進める。
 少しの物音も聞き逃さないよう全神経を研ぎ澄まし、物音を立てないようにゆっくりと、密やかに。

 そこから再び角を曲がると、少し先で通路が交差していた。

 そのとき、微かに物音が聞こえた。
 おそらく、鎧の擦れる金属音と、何者かが近づいてくる足音。

 すると、次の瞬間アブディエルの姿がすっと消え失せた。

 それから少し時間が経って、武装したオークがその通路を右から左へと横切っていった。
 ガシャンと甲冑の鳴る音と、くぐもった足音が次第に遠ざかっていく。

 その音が聞こえなくなってから、アブディエルが再び姿を現した。

 これが、彼の能力。
 といっても、単に姿を見えなくさせるという類の能力ではない。
 彼の能力は一種の亜空間を作り出して、その中に自由に出入りすることができるというものだった。
 その亜空間に出入りできるのはアブディエル自身と彼が触れているものだけで、元いた場所からはその空間を感知することはできないし認識もできない、もちろん元の空間からはそこにいる相手に触れたり攻撃を加えたりすることもできない。
 つまり、いったんそこに入ってしまえば、その者は存在していないのも同様になるのだ。
 一方で亜空間の内側からは、外に向かって物理的な干渉を加えることはできないものの、元いた空間の様子は見えるし音を聞くこともできる。
 いわば、元いた空間に存在していながら、外部からの一切の干渉を受け付けない避難場所のような空間を作り出すことができるのだった。
 避難場所と言うと聞こえは悪いが、アブディエルは瞬間的にその亜空間に入ることができるため、こうやってそこに逃れて相手をやり過ごすだけではなく、戦闘中に用いればそこに姿を隠して相手を惑わすことができるし、相手の虚を突いて亜空間から出て攻撃をするという使い方も可能だった。

 この能力を使うと、こちらが先に気づけば亜空間に身を隠してやり過ごすことができる。
 今回の作戦の目的は、サラの救出である。
 自分が潜入したことを敵に気づかれると、目的達成はほぼ不可能となる。
 だから、少なくともサラを救出するまでは敵に見つからないことが最優先事項だ。
 当然、下手に戦うと自分の存在が気づかれる可能性が高くなる。
 アブディエルのこの能力は、敵に見つからずに潜入する任務にはうってつけのものだった。

 ただし、この能力も万能ではない。
 その空間の広さには限界があり、せいぜい人ふたり分程度のスペースしか作れなかった。
 彼がひとりで潜入することを決めたのも、それが最大の難点となったからである。

 もし城塞内で敵に遭遇しそうになった場合、もしくは、今回のことが罠で敵に見つかった場合、彼ひとりならこの空間に逃れてしまえばもう敵は手出しできなくなる。
 そして、これが罠でなく、首尾良くサラを救出できた場合も同様で、救出後に万が一敵に見つかっても、ふたりだけならこの空間に入って逃れることができる。
 ただ、他にひとりでも増えたら、もうそういった使い方はできない。
 彼なりに、ひとりで潜入する危険も考慮しつつ、それが彼の能力を最大に活かせるからこそ単独での潜入が最も成功率が高いと判断したのだ。

 足を忍ばせて交差点に近寄ると、そっと角の向こうを窺う。
 今さっきオークがやってきた右側の通路、その先にサラが囚われている可能性のある牢獄のひとつがある。
 ただし、それは捕らえた悪魔が言った場所ではない。
 しかし、アブディエルは迷うことなくその角を右に曲がる。

 彼の方針はすでに決まっていた。
 もしこれが罠でなければ、悪魔が吐いた場所にサラはいるだろう。
 しかし、万が一罠だったらそこにサラは居らず、敵が伏せている可能背が高い。
 その場合、サラの身柄は他の牢獄に繋がれているのだろう。
 もし、情報を掴まされた場所に最初に行ってそれが罠だった場合、もうサラを助け出すことはできなくなる。
 ならば、罠であることを考慮に入れて、まずは他の牢獄から当たってみることにしたのだ。
 それは、4ヶ所ある候補地全てを回らねばならないために危険も多いが、サラを救出できる確率はもっとも高い。

 途中、何度か敵をやり過ごして辿り着いた牢獄にサラの姿はなかった。
 そして、次の牢獄にも。

 このやり方だと時間もかかるため、外で陽動に当たっているイェキエルたちの負担も大きくなることはアブディエルもわかっていた。
 ともすれば気ばかりが急きそうになるが、このような任務に焦りは禁物であることをアブディエルはよくわかっていた。
 だから、外の仲間たちが必ず持ちこたえてくれると信じて、集中を切らすことなく慎重に通路を進んでいく。
 外の陽動の効果なのか、それとも地下深くの場所にあるここまでは人員を配置していないのか、それほど多くの敵はいない。

 そして、3ヶ所の牢獄が空振りに終わり、残るはあとひとつ。
 おそらく、そこにサラが囚われている最後の牢獄。

 図面通りなら、牢獄の手前の詰め所のようなスペースに近づいたアブディエルの足が止まった。
 その詰め所に、何者か、それも複数の者がいる気配がする。

 その場でどうするか考えていたとき、詰め所の方から声が聞こえてきて、咄嗟にアブディエルは亜空間の中に入る。

「じゃあ、俺はちょっと上の様子を見てくらぁ」

 ほぼ間をおかずに、詰め所から人間の男がひとり出てきた。
 鎧を身に着けていることから判断して、おそらくは魔界に降ったというヘルウェティアの騎士なのであろう。
 男は当然アブディエルのことに気づくはずもなく、目の前を通り過ぎていく。

 一瞬、このままやり過ごそうとも考える。
 しかし、どのみちここに及んでは戦闘は不可避と考えて、剣を抜くと亜空間から抜け出す。
 そして、背後から一刀のもとに斬り捨てた。

「……ぐはぁっ!」

 くぐもった悲鳴をあげて騎士が倒れる。
 同時に、アブディエルは再び亜空間に身を隠した。

「おい、どうした? …………おいっ!?」

 悲鳴を聞きつけて、詰め所に残っていた騎士が姿を現す。
 その数は3人。

「おいっ、どうしたんだ!? しっかりしろ!」

 ひとりが駆け寄って倒れている騎士を助け起こそうとする。
 残りのふたりは剣を抜いて、辺りを警戒しながら近寄ってくる。

 そのひとりが、隠れているアブディエルの目の前に来たとき……。

「……なっ!?ぐわぁああっ!」

 姿を現したアブディエルに切り伏せられて、悲鳴が響く。
 続けて、膝をついて仲間を抱きかかえていたもうひとりに剣を振り下ろす。

「ぎゃああああっ!」
「貴様っ!」

 残っていたひとりが間髪を入れずに斬りかかってきた瞬間、亜空間に逃れる。

「……なにっ!?……ぐっ……貴……様っ……!」

 対象を失った剣が空を切って、相手が大きくバランスを崩す。
 そこに再び姿を現したアブディエルが剣を突き立てた。

 瞬く間に4人の騎士を倒し、アブディエルは息を潜めて周囲の気配を窺う。
 だが、新手がやってきそうな様子はない。

 それを確かめて、4人の死体を探ると、ひとりが牢獄のものと覚しき鍵束を持っていた。
 それを手に、詰め所側の通路の突き当たりにある牢獄に向かう。

「サラ……」

 牢獄の中に入ったアブディエルが目にしたのは、両手両足を鎖で繋がれた部下の姿だった。

「おいサラッ、大丈夫か?」
「……た……い……ちょう?」

 名前を呼ばれて、サラがゆっくりと顔を上げる。
 おそらく、拷問の痕なのだろう。
 その顔にはいくつかの痣が黒く浮かび、肌当てのところどころが破れて血が滲んでいた。

「助けに来たぞ、しっかりしろ!」

 サラに駆け寄って、鍵束を使って鎖から解放した。
 そのまま崩れ落ちそうになるのを、肩を貸して支えてやる。

「大丈夫か?」
「だ……大丈夫です……」
「ほら、水だ」
「ありがとうございます……」

 革袋の水筒を差し出して水を飲ませると、ようやく足許が少ししっかりしてきた。

「とにかく、おまえが無事で良かった…………ん? あれは?」

 牢獄の片隅に、大剣が無造作に立てかけられているのを見つけたアブディエルがそれを手にすると、サラに向かって差し出す。

「ほら、おまえの剣だ」
「ありがとうございます、隊長……」

 剣を受け取ると、サラはそれを杖の代わりにしてなんとか立っているという様子だった。

「どうだ、歩けそうか?」
「はい……たぶん大丈夫です。この程度のダメージならなんともないですから」
「そうか。でも無理はするなよ。少し休むか? 脱出する方が状況は厳しくなるからな、体力を回復させた方がいいぞ」
「いえ、本当に大丈夫です。私は必ずここを出て、みんなのところに戻ります」

 己の剣を杖代わりにして、よろめきながらもサラは歩き始める。
 足取りは覚束ないが、しっかりと頭を上げて前を向くその姿は、支えはいらないと言っているかのようだった。
 それを見て、アブディエルは安堵の笑みを浮かべる。
 こういう時のサラは、自分の言ったことは必ずやりとげる意志の強さを持っていることを、彼は知っていた。

「よし、じゃあ俺が先に行くから、おまえは後からついてこい」
「わかりました」

 サラを背後に庇うようにして、アブディエルは外の気配を窺いながら牢獄を出ようとした、その時……。

「……これはっ!? …………がはっ!」

 強烈な殺気を感じて、サラを連れて亜空間に逃げ込もうとしたアブディエルの体を、灼けるような痛みが貫いた。

「……なっ!? ……これ……は?」

 自分の胸元から突き出ている、血塗れの剣の先端部。
 これは紛れもなく、サラの剣のはずだ。

「サ……ラ……?」

 振り向くと、こちらに剣を突き立てているサラと目が合った。
 自分を見つめるその瞳は、何の感情も映していない冷酷な光を湛えている。

「サラ……。どう……し……て……?」
「てっきり何人か引き連れてくるかと思っていたのに、まさかひとりで乗り込んでくるとは思ってもいませんでしたわ、隊長」

 忌々しそうな口ぶりでそう言ったサラの言葉は、アブディエルの問いかけへの答えにはなっていなかった。

「せっかくの初手柄のはずなのに、隊長ひとりだなんて。それに、この人たちも無駄になってしまったではないですか」
「……なん……だと?」

 おそらく、魔法で身を隠していたのだろう。
 ふたりを取り囲むように、黒い長衣に身を包んだ魔導士が姿を現した。

「サラ……。おま……え……本当……に……サラなのか……?」
「ええ、そうですよ。紛れもなく私はかつてあなたの部下だったサラです。ただし、今ではシトリー様の忠実なる下僕ですけど」

 シトリーという名を出した瞬間、サラがうっとりと、淫靡にすら見える表情を浮かべる。
 それは、アブディエルがこれまで見たことのない表情だった。

「なっ……!? おまえ……」
「まあいいわ。手柄は、これから外に出て立てさせてもらうことにしましょう。あなたにもさっき言ったとおり、みんなのところに戻って、殺すことで。でも、とりあえず隊長、あなたにはシトリー様のためにここで消えてもらいますわ」

 そう言うと、サラの目尻と口元が吊り上がり、天使とは思えぬほどに冷酷で邪悪な笑みを浮かべる。
 そして、それがアブディエルが最後に見た光景となったのだった。

* * *

 その少し後、城塞の外では……。

「くそっ、隊長とサラはまだなのかっ!?」

 イェキエルの指揮の下、天使たちと魔界軍との必死の攻防が繰り広げられていた。

 できるだけ派手に動いて敵を誘い出せというのがアブディエルの指示だったのだが、まさか相手がほぼ全軍を出してくるとはイェキエルも思っていなかった。
 おそらく、サラが捕まったときと同じくらい、1500を超える人数を繰り出してきている。
 そのうえ、あの時は見るからにぎこちない飛び方の者ばかりだったというのに、ひとりひとりの素早さといい、連携の取れた動きといい、明らかに空中戦に慣れてきていた。
 以前対峙した際には数で劣っていてもスピードで上回るこちらが圧倒できたというのに、今ではこちらも必死で応戦しないと敵に押し込まれそうだ。
 いや、実際にこちらが押されかけていた。
 こちらのスピードと技術で数の差を埋めきれないほどに、敵は力をつけていた。

「くそっ、むざむざ敵に訓練する時間を与えてしまったというわけか……」

 敵が城塞に籠もったままなのなら出てこられないように包囲を解かず、周囲から魔界の占領地を崩していこうという方針が裏目に出たことを悟ってイェキエルは唇を噛む。
 その間に、相手は手に入れた新たな飛行戦力を鍛えていたのだ。
 おそらく、小競り合いばかり仕掛けてきていたのも、場数を踏ませて空中での実戦経験を積ませるため。

「副隊長……」
「心配するな、アーヤ。隊長たちが戻ってくるまでなんとしても持ちこたえさせてみせるさ」

 傍らで剣を振るっていたアーヤが、不安な表情を浮かべるのを元気づけるように明るい表情を作る。
 同時に、その言葉はまるで自分自身に言い聞かせているようでもあった。

 その時、不意に、右手の方角から悲鳴が上がった。

「…………むっ!?」
「……あれは?」

 そちらの方向で魔界の軍勢と戦っている味方の集団から、傷ついた天使たちが次々と地上へ落下していく。
 明らかに、味方が悲鳴と戸惑いの声を上げて大混乱に陥っている。

「何があったというんだ?」
「副隊長! ……あれを!」

 アーヤが指差した先。
 こちらに向かって飛んでくるひとりの天使の姿があった。

「……サラ姉さま!」

 妹と同じ輝くような銀色の髪をしたその天使は、紛れもなくサラだった。

 姉の姿を認めたアーヤが歓声を上げる。
 しかし、イェキエルは喩えようのない違和感を感じていた。
 それに、全身の毛がサワサワと逆立つような、妙な胸騒ぎを覚える。

「姉さまっ、無事だったんですねっ!」
「待てっ、アーヤ!」
「……副隊長!?」

 姉に向かって飛んでいこうとしたアーヤの腕を掴んで引き留める。

 そんなふたりに向かってサラは、一直線に近づいてきた。

 そして……。

「ぐぅっ……!」
「きゃあああっ!?」

 サラが手にした大剣を横薙ぎに払う。

 その一撃は、咄嗟にアーヤを庇ったイェキエルの左肩を切り裂いていた。

「……副隊長! そんな、姉さま……どうして……?」

 状況が理解できずに茫然としているアーヤを背後に庇い、左の袖を血の色に染めながらもイェキエルはサラに向かって剣を構える。

 よく見れば、その姿は明らかに異様だった。
 その、純白の甲冑のあちこちが鮮血で赤く染まり、手にした剣からも血が滴り落ちている。
 それだけなら、脱出の際の戦闘で浴びた返り血だということも考えられる。
 しかし、ふたりと対峙しているサラは口の端を歪め、見る者に嫌悪感を催させるようなおよそ天使らしくない笑みを浮かべていた。

 それだけでなく……。

「サラ、隊長はどうした?」

 イェキエルが感じていた違和感の源はそこだった。
 アブディエルがサラを連れて戻ってくる、もしくは救出に失敗してアブディエルだけが戻ってくることは想定していた。
 しかし、サラがひとりで戻ってくるということは、彼女を助け出しはしたものの脱出中に敵に見つかり、サラを逃がすためにアブディエルがひとり中に残ったということなのか。
 だが、近寄ってくるサラの姿を見てイェキエルが想像したのは、そのシナリオではなかった。
 彼がこれまで見たこともない酷薄な笑みをサラが浮かべていたこと、そして、抜き身の刃物のような殺気を放っていたことが、それとは違うもうひとつのシナリオを告げていた。

「アブディエルなら、私が殺したわ」

 サラの口から告げられたのは、想定しうる最悪の結果だった。

「そんな……どうして姉さまが隊長をっ……!?」
「そんなの決まってるわ。あの男が邪魔だったからよ。……ほら、あれを見てみなさい。さっき、戻ってきたと見せかけて斬りつけて、混乱から立ち直る前に手練ればかりを数人切り捨ててきたから、あの方面はもう持ちこたえられないわ」

 そう言ってサラが顎で示したのは、自分が飛んできた方向だった。
 その地点の戦線は完全に破綻し、綻びが全体に及ぼうとしていた。

「指揮官を失い、前線は崩壊寸前、そして副隊長はその傷でどこまで持ちこたえられるかしら? いっそ降伏したらどうですか、副隊長?」
「サラッ、おまえは……」
「姉さま……どうしてこんなことを……?」

 剣を構えてイェキエルと対峙しながら、サラがちらっとアーヤに視線を向ける。

「どうしてって、全てはシトリー様のためよ」
「なに……それは、誰なの……?」
「シトリー様はシトリー様よ。私が仕えるべき、真の主」

 その名を言ったときの、上気したように頬を染めて目尻を緩めたサラの表情は、天使なら嫌悪感を催すほどに淫猥さ満ちていた。

「なにを……言ってるの……?」
「今はわからなくても、シトリー様にお仕えすればその素晴らしさがあなたにもきっとわかるわ、アーヤ」
「姉さま……」

 あの高潔で正義感に溢れ、そして優しかった姉が今、目の前で蕩けた笑みを浮かべて天使にあるまじきことを言っている。
 自分が今見ていることが、信じられない思いだった。

「サラッ、おまえっ!」
「くぅっ!」

 その時、イェキエルが鋭い踏み込みと共にサラに斬りかかった。
 それを、咄嗟に剣で受け止めるサラの体が、数歩押される。
 手傷を負っていてもイェキエルの技量は確かである。
 サラがいくら強敵とはいえ、不意さえつかれなければそう簡単にはやられない自負はあった。

「アーヤッ、おまえはここから逃げろ!」

 動揺のあまり思考が半ば停止していたアーヤの意識を、その声が呼び覚ます。

「副隊長……?」
「ここは俺が食い止める。おまえは、残った仲間と一緒にエリアナのところに向かえ。そして、エリアナの部隊と合流してニップルのシャルティエル隊に助けを求めるんだ」
「しかしっ、それでは!?」
「あれを見ろ。このままでは全滅だぞ! 戦力の残っているうちに撤退するんだ!」

 そう言うと、イェキエルは負傷している左腕を上にかざし、呪文を唱えて光弾を放つ。
 それは、撤退の合図だった。

「アーヤ、これは命令だ。おまえはこの場から逃げろ」
「しかしっ、それでは副隊長が!」
「俺のことは構うなっ! いいからさっさと行けっ!」
「でもっ…………やあっ! ……副隊長! 副隊長ぉおおおおっ!」

 イェキエルの意を汲んだ部隊のメンバーがふたり、両脇からアーヤを抱えてその場から飛び去っていった。
 アーヤはイェキエルを呼びながらもがいているが、ふたりがかりでは為す術もなく連れられていく。

「行かせないわよ! ……くっ!」
「おまえの相手は俺だ、サラ」

 アーヤを追おうとしたサラの前に、イェキエルが立ちはだかる。

「まったく、アーヤのやつ、最後までわがまま言いやがって。……さてと、どこまで時間稼ぎをできるか、腕の見せ所だな」

 サラに向かって剣を構えながら、イェキエルが吹っ切れたような笑みを見せる。
 そんな彼の周りに、数十名の天使が逃げずに集まってきた。

「おまえたち?」
「まあ、副隊長ひとりじゃたいした時間も稼げないでしょうから、俺たちも手伝いますよ」
「……何をやってるんだ? さっさと逃げろ!」
「逃げた連中が確実に安全なところまで落ち延びる時間を稼ぐ必要があるでしょう。そんなの、副隊長だけだと無理に決まってるじゃないですか」
「しかし……」
「でも、ここで俺たちが踏ん張れば、それだけたくさんの仲間が助かるんです」
「そうですわ。そのために私たちはここに残ったんですから」
「おまえら……。ふん、仕方のないやつらだな……」

 呆れ顔で剣を構え直すイェキエルを中心に、守り重視の密集陣形を取る。
 そこに、サラを先頭に魔界の軍勢が殺到してくる。

 その場に残った者たちのうちの数人の姿を、後にアーヤは再び目にすることになる。
 彼女にとって、最悪の形で。

* * *

 その夜、ラドミール城塞では……。

「あっ……うううっ……うああっ……」

 3人がかりで押さえつけられた女天使の体に、シトリーの触手が潜り込んでいく。
 すでに触手の先は女天使の魂に絡みつき、その輝きを昏く澱んだ色に変えようとしていた。

 見開いた女天使の瞳が小刻みに震え、瞳孔が収縮する。
 開いた口からは断続的に呻き声が洩れる。

 そして、その呻き声が止んだとき、女天使の表情が一変した。

 目の前に立つ悪魔の姿を見上げると、嬉しそうに表情を緩める。
 押さえつけられていた体を解放されると、立ち上がって悪魔に抱きつく。

 それまで女天使を押さえつけていた3人の背中にも、彼女と同じ純白の翼が生えていた。
 その3人とも、なにひとつ身に着けていない姿で、目の前の男に熱っぽい視線を送っていた。
 そのうちのひとりが、女天使の耳許で囁く。

「さあ、ヘレナ、シトリー様に服従の誓いを立てるのよ」
「ええ。……シトリー様、どうか私をシトリー様のものしてくださいませ。シトリー様のための、いやらしく忠実な下僕として仕えさせてくださいませ。……ちゅむっ」

 シトリーに向かって隷属の宣誓をすると、ヘレナと呼ばれた女天使はその唇に口づけをした。

「んっ、ちゅっ……はぁああ……シトリー様、私の体はシトリー様のものです。どうぞシトリー様の好きなようにしてくださいませ……」

 唇を離して悩ましげなため息を吐くと、ヘレナは身に着けているものを脱いでいく。
 彼女を取り囲む3人の女天使も、それを楽しそうに見守っていた。

 シトリーの思っていた通り、新たに捕らえた天使たちにサラと同じ能力を持った者はいなかった。
 サラに比べたらあっけないほどにその精神に触手を侵入させることができる。
 それでもさすがに天使だけあって、1本や2本触手を入れられても抗う精神力はあったが、それでもほとんどの天使が、魂に5本も触手を絡みつかされたらいとも簡単にシトリーのものになった。

「ダメよっ、ヘレナ! そんなことしたらダメ! それに、ダチュラもヨアンナもシーラもっ、お願い、正気に戻って……!」

 裸になって、改めてシトリーに抱かれるヘレナを呼ぶ声が広間に響く。

 その声の主は、もうひとりの女天使。
 しかし、彼女の体もサラによってがっしりと押さえつけられていた。

「ほら、おとなしくしてなさい、ユディス。次はあなたの順番なのよ」
「離してっ! サラッ……あなたも目を覚ましない! こんなっ、悪魔に手を貸して……いあああああっ!」

 腕の関節を極められて、ユディスと呼ばれた女天使が悲鳴をあげる。

「おとなしくしてなさいって言ったでしょ。でないと、シトリー様のものにしてもらう前に痛い目に遭うことになるわよ」
「いやっ、こんなこともうやめてっ、サラ!」
「だめよ。シトリー様のものになるまでおとなしく待ってなさい。……ほら、あれを見て。ヘレナももうすっかりシトリー様の下僕ね」

 楽しそうに目を細めてサラが見つめる先では、ヘレナがあられもない格好で仰向けになりだらしなく足を開いていた。

「ああっ、素晴らしいですしとりー様! もっと、もっと奥の方をその逞しいものでかき混ぜてください! んんっ、そこっ、そこがいいですぅっ!」

 ぬらぬらと赤黒く光る悪魔の肉棒が、ばっくりと開いたヘレナの秘所を出入りするたびに、ズチャ、クチュッと湿った音が響く。
 おとがいを上げて首を反らせたヘレナは口元を緩め、蕩けた笑みを浮かべながら歓喜の声をあげ続けていた。

 ふたりの女天使がヘレナの体に覆い被さって、興奮で赤く染まったその肌に舌を這わせ、乳首を指先で摘まんでいる。
 もうひとりは、ヘレナを犯す悪魔に背後から抱きつき、自分の胸のふくらみを押しつけながら首筋を舐め回していた。

「やあっ……ダチュラったら、胸をそんなに強く揉んだらっ、感じちゃうぅううっ!」
「ああ……そんな……。だめよヘレナ……ダチュラもヨアンナもシーナも、もうそんなことしないで……」

 淫らに乱れる仲間たちの姿を茫然と見つめるユディスの目から、涙がこぼれ落ちる。

 もちろん、完全に堕ちた女天使たちは彼女の涙に気づくはずもなく、いやらしく体を絡め合ったままだ。
 絹のように白く滑らかな肌に、濃淡はあれどいかにも天使らしい金色の髪を振り乱した4人の美人は、淫靡な舞を踊るように悪魔に身を預け、欲望のままに体を重ね合っていた。
 官能的な喘ぎ声が、絶えず響き続ける。

 そして、たった今悪魔の下僕になったばかりのヘレナの快感が頂点に達しようとしていた。

「はうっ、ああっ! シトリー様っ、シトリーさまぁあああっ!」
「……くっ、出すぞっ!」
「はいいぃ! シトリー様のものになった証を私の中に注いでくださいませ! あっ、ぃあああああああっ!」

 ヘレナの体が、きゅっと弓なりに反り返る。
 精液を出し切ったシトリーが肉棒を引き抜いた後も、ヘレナは体を小刻みに震わせて絶頂から降りてこられないでいた。

「少し休憩なさいますか、シトリー様?」

 立ち上がったシトリーに、ユディスの体を押さえつけたままでサラが尋ねてくる。

「いや、このまま続けよう。なにしろ、まだまだ相手をしなければいけないからな」
「そうですね。シトリー様のご命令どおり男たちは全員始末しましたけど、牢から溢れそうなほどの女が捕らえてありますし」
「牢から溢れるほどの女天使か。それはそれで壮観だけど、見張りに必要な人員も馬鹿にならないな」
「ですが、逃げた者たちのことを考えると、あまりゆっくりはしていられないかと」
「そのことだが、奴らの逃げ先に心当たりはあるのか?」
「はい。アブディエルは、この国の人間の支援のためにエリアナという部下を遣わしました。おそらく、逃げた者たちはそちらと合流するつもりでしょう。そして、その後で他の天界軍に助けを求めるつもりだと思います」
「なるほど、たしかにのんびりしている余裕はないようだな。捕らえてある奴らは後回しにして、その分隊は先に始末しておいた方がいいな」
「……では、今日はこのくらいで止めておきますか?」
「いや、こちらも戦力が欲しい。今日はもう少し続けるぞ」
「そうですか。……良かったわね、ユディス。あなたは今日のうちにシトリー様の下僕にしていただけるみたいよ」
「いや……やめて。…………いやぁああああああっ!」

 無理矢理立ち上がらせられたユディスの体を、身動き取れないように先に堕ちた4人の女天使たちが両脇から抱え込んだ。
 その正面に立ったシトリーの手から触手が伸び、恐怖におののくユディスの体に、1本、また1本と潜り込んでいく。

 天使たちを闇に堕とす宴は、まだ始まったばかりだった。

< 続く >

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