黄金の日々 第2部 第22話

第2部 エピローグ 審判の時

「あっ! シトリー様!」
「シトリー様! ご無事でしたか!?」
「よかった、戻って来られたのね……」

 シトリーが目を開くと、メリッサとフィオナが造り上げた森の中の、本陣としている幕屋のなかにいた。
 その姿を認めた、ピュラ、シンシア、アナトといった主立った者たちが駆け寄ってくる。

「話は後だ。直ちに全軍でアフラの町に攻め込むぞ!」

 説明もろくにせずに、シトリーは全軍に攻撃命令を下す。

 当然のことながら、イストリア軍もバリアーが消えたことには気づいているはずだ。
 だが、今頃はまだ混乱の最中で、防御態勢も整っていないに違いない。

 そのために賭したクラウディアの命を無駄にしないためにも、この好機を逃すわけにはいかなかった。

* * *

 頼みにしていたバリアーを失い、わけもわからないうちに攻撃されて、王都アフラはあっけなく陥落した。
 もちろん町を守っていた天使たちも奮戦したのだが、聖なる石のバリアーが消滅したことに戸惑いを隠せず、魔界軍を押しとどめることができなかった。

 それ以来、戦況は魔界軍の有利へと傾いていく。

 聖なる石が力を失ったということは、イストリア国内の町や城を守っていた全てのバリアーが消え失せたということである。
 そのため、足止めされていた南方面の魔界軍も雪崩れ込んできて、イストリアは瞬く間に悪魔たちによって蹂躙されてしまった。
 天界軍も総力をあげて魔界軍と戦っていたが、空中での戦いならともかく、地上に蠢く悪魔の数は、短期間で駆逐するにはあまりにも多かった。
 強大な悪魔や魔物は神の槍が消し去っていくが、これも1日に撃てる数に限りがある以上、遅々としてはかどらないように思えた。

 そのことは、人間たちの目には天界が悪魔相手に苦戦しているように映った。

 実際には、天界軍は決して悪魔たちに押されていたわけではないものの、その数の多さに辟易していたのもまた事実である。
 それに、現実問題として天界から与えられた護りのバリアーが消え失せ、地上を荒らし回る悪魔たちを天界軍が容易に撃退できないでいるのを目の当たりにした人間の心が折れるまで、そう時間はかからなかった。

 やがて、天界は頼りにならないという絶望から、あるいは、己が生きていくために魔界側につく人間が現れると、それは連鎖反応を起こして広がっていった。

 かつて、神に最も愛されていた国であるイストリアにおいてさえ、天界よりも魔界を選ぶ人間が現れたことは、天使たちに少なからぬ衝撃を与えた。
 本来なら、自分たちが守るべき対象である人間が、悪魔と共に自分たちに向かってくることに天使たちは動揺を隠せなかった。

 それでも、ごく少数ではあるが、いまだに天界を信じる人間たちを守って、天使たちは戦い続けた。

 しかし、それも虚しく地上が魔界の手に落ちるのも時間の問題かと思われた、ある日のこと……。

「うわっ!?」
「なにっ!? なんなの!?」

 突然、凄まじい地響きが鳴り、空中で天使と戦っていたシトリーとアナトにもそれとわかるほどに空気が震えた。
 見れば、地上に展開していた軍勢の者たちが、立っていられないかのようにあるいはへたり込み、あるいはその場に倒れ込んでいた。

「これはっ!?」
「大地が……揺れているの?」

 アナトの言葉どおり、それは普通の地震ではなかった。
 衝撃波が空中に伝わるほどに大地全体が大きく揺れて、そこかしこに地割れができていく。

 しかも、それだけではなく……。

「ああっ!」

 地割れから噴き出した大量の水が瞬く間に地表を覆い、シトリーの軍勢を押し流していく。

「なんなの……これは?」
「くっ! あいつだっ! こんなことができるのはあいつしかいない!」

 あまりのことに言葉を失うアナトの隣で、シトリーは唇を噛んで天空を睨みつけた。

 大地を覆うほどの大洪水を起こすなどという芸当ができるのは、彼の知る限り天界にいる神以外いなかった。

「シトリー様! 天界の奴らが総攻撃をかけてきましたぜ!」
「どうやら、空中で難を逃れた者たちをここで一気に殲滅するつもりのようです!」
「サラさんたちが対応していますけど、このままでは……!」

 シトリーたちのもとへ、マハ、エルフリーデ、フレデガンドの3名が駆けつけてくる。
 周囲を見回すと、サラたちが各所で天界軍と斬り合っていた。

「おまえたちは無事なのか!?」
「はい。ですが、このままでは全滅は免れそうにありません」
「エルのいうとおりです。ですから、ここは私たちが食い止めますから、シトリー様はどうかお逃げください!」

 そう言うと、エルフリーデとフレデガンドが、襲ってきた天使に斬りかかる。

「し、しかし……」
「行くわよ、シトリー!」

 その場を離れるのを躊躇うシトリーの腕を、アナトが掴んだ。

「だがっ……!」
「この戦争は私たちの負けよ! あなただってそのくらいわかるでしょ!? 言ったはずよ、あなたが死んだら全ては終わりなの。あなたを生かすための皆の想いを無駄にしないで!」
「アナト様! シトリー様のことはお任せしまさぁ! 一刻も早く安全なところまで!」
「わかってるわ!」
「あっ! おいっ!」

 マハの声に力強く応えると、アナトはシトリーの腕を引いて全速力で飛び始めたのだった。

* * *

 天使の攻撃から逃れてふたりが飛んでいく先は、どこも一面水に覆われた世界だった。
 それも、さっきよりも水かさが増しているように思える。

 為す術もなく水に呑まれた悪魔や人間たちがそこここに浮いているのは、地獄の光景にしか見えない。

「……これだから神の奴は恐ろしいんだ。奴は口では愛を唱えているけど、誰にでも愛を注ぐほど甘い奴なんかじゃない。自分の意にそぐわない者は、全て消し去ることだって厭わない。それが奴の本当の恐ろしさなんだ。上層部の連中はそこまで理解して、本気で天界に勝つつもりで喧嘩を売ってたのか!?」
「そうね、あなたの言うとおりだわ。だけど、不平を言うのは無事に生き延びた後にしましょう」

 吐き捨てるようなシトリーの言葉に、アナトも同意する。
 それほどまでに、魔界の完敗だった。
 神の発動させた非常手段を前にして、彼らは何もできなかったのだから。

「……っ!? シトリーッ! 離れてっ!」
「なっ……!?」

 不意に、アナトがシトリーを突き飛ばした。

 シトリーの脳裏に、エミリアが自分を庇ったときの光景が甦る。
 しかし、今回は神の槍がアナトを貫いたのではなかった。
 その代わりに、アナトを中心とした、さっきまでシトリーもいた空間が赤く光る八面体の結界に包まれていた。

「くぅっ……こんなものっ!」

 結界の中に取り残されたアナトが槍を構え、その先端から魔力の塊を放つ。

「きゃああああああっ!」

 しかし、かつてモイーシアの都で神聖魔法のバリアーを破壊したこともあるアナトの魔力弾は、赤く透き通ったその結界を破ることができなかった。
 それどころか、結界内で破裂した魔力弾の衝撃波に巻き込まれたアナトの悲鳴が響く。

「アナトッ!」
「来ないでっ、シトリーッ!」

 アナトの鋭い声が、結界に駆け寄ろうとしたシトリーを制止した。

 見ると、正八面体の6つの頂点の位置にそれぞれひとりずつ天使が配置されて呪文を唱えている。

 かつて天界にいたシトリーは、それが何か知っていた。
 それは、特に魔法に長けた天使が6人がかりで対象を半永久的に封印する強力な封印術だ。
 どんな強力な悪魔でも、いったん封印されてしまったら己の力で逃れることは不可能だろう。
 おそらく、天界においては神の槍に次いで恐ろしい術ともいえる。

 だからこそ、今ここでアナトを助けないと……。

「来るなって言っても、今ここで助けないと!」
「なに言ってるのよ! 私はあなたを助けるためにこうしたんじゃないの!」

 爆風が落ち着いて、ようやく見えるようになったアナトは、傷だらけの痛々しい姿をしていた。
 それにもかかわらず、その顔は笑っていた。

「……シトリー、あなたのその顔を見たら、これがかなりマズいものだということはわかるわ。だからこそ、あなたを庇った意味があるんじゃないの。私が犠牲になることで、あなたが助かるっていう意味が」
「しかしっ」
「言ったはずよ、自分が生き延びるためなら下僕の命を使い捨てにする覚悟を持ちなさいって。それに、私たちはただ捨て駒になるんじゃないわ。すべてはあなたのために、その想いから自分の命を賭けるのよ。私たちの想いを無駄にしないで、シトリー。だから、あなたは逃げて」

 このような状況だというのに、アナトは穏やかな笑みを浮かべている。
 その口調は静かだが、反論を拒む確固たる決意が込められていた。

「さあ、早く。他の天使たちが来る前に逃げてちょうだい」
「くっ……わかった……!」

 唇を噛んでそれだけ絞り出すと、アナトに背を向けてシトリーは全速力で飛び去った。

「そう、それでいいわ。だからどうかお願い、絶対に生き延びて……私の、大切なご主人様……」

 小さくなっていくシトリーの後ろ姿を愛おしそうに見つめながら、アナトはそう祈るように呟いたのだった。

* * *

 それから程なくして、背後で轟音が響くのが聞こえた。

 振り向くと、さっきアナトがいた辺りに、おそらく5000mはあろうかという巨大な山塊が現れていた。

「……くっ!」

 アナトを封印する術が完成したことを悟って、シトリーは無念の表情を浮かべる。
 天界の力の前に何もできず、下僕を犠牲にして生き延びることしかできなかった己の無力が情けなかった。

 飛び続けるシトリーの眼下にはいっぱいの水で満たされた光景が広がり、おそらく、その方向に魔界への門が開いているのだろう、悪魔たちの群れが我先にそこに向かって飛んでいくのが見える。
 その、規律もなにもなく、ただ自分が助かるために算を乱して逃げていく悪魔たちの姿を見ているうちに、ふつふつと怒りがこみ上げてきた。

 ……上層部の馬鹿どもがっ!
 こんな奴らばかりかき集めて、それで天界と本気で戦争ができると思っていたのか!?
 だいいち、神に対抗する手段すら持ち合わせていなかったじゃないか!

 僕なら……僕なら絶対にこんなことはしない……。
 奴と……神と対等以上に渡り合える力を手に入れ、僕のためなら喜んで死地に赴く戦力を整える。
 そうでないと、天界を潰すことなんかできはしないだろうが!

 歯噛みしながら、シトリーは天界と戦うために何が必要か考えていた。
 そもそも、この戦争が始まるときは単なる暇つぶしのつもりだったのに、誰よりも本気になっている自分に、その時はじめて気づいたのだった。

 ただ、その時のシトリーは怒りのあまり自分を見失い、集中力を欠いていた。
 飛行するスピードが落ち、隙だらけであることに自分でも気づかないほどに。

「やっと見つけたわよ! シトリーッ!」

 その声に我に返ったシトリーの視界に入ったのは、銀色の髪をしたサラの妹が、大剣を構えて猛スピードでこちらに向かってくる姿だった。
 この数ヶ月の間の苛酷な経験と復讐の念が、彼女の動きから硬さやぎこちなさを取り払っていた。
 怒りに燃える目でこちらを見据え、真っ直ぐに突っ込んでくる。

 くそっ……避けきれないか!?

 あまりにも無防備すぎた不意を突かれて、スピードの乗ったその突撃を避けられそうになかった。

「貴様ぁああああっ! 隊長のっ、副隊長のっ、みんなの仇ぃいいいっ!」

 怒号を飛ばして斬りかかる、その剣に貫かれるかと思ったその時、ふたりの間に銀色の風が割り込んだ。

「なっ……!?」
「おまえ……?」

 シトリーの目の前で、銀色の髪が舞い上がる。
 その体を、純白の甲冑ごと貫いて大剣の切っ先がこちらに突き出ていた。

「サラ……」
「ねっ、姉さまっ!?」

 シトリーとアーヤが、ほぼ同時に驚きの声をあげる。

「あ、アーヤ……」

 シトリーを庇うように立ちはだかったサラが、妹の名を呼ぶ。
 その背中の、アーヤの剣に貫かれたところを中心に真っ赤な染みがどんどん広がっていく。

「姉さま、もしかして……」

 アーヤが、泣き笑いのような表情を浮かべる。
 しかし、サラの表情はシトリーの位置からは窺い知ることはできない。

 今、サラがなんのつもりで、どのような顔をして妹の名を呼んだのか、それもわからない。

 しかし、次の瞬間……。

「ふふふっ!」
「姉さま? ……きゃぁあああああっ!?」

 サラが、手にしていた剣を横薙ぎに払った。
 その攻撃を、アーヤは飛び退いて躱そうとするが、避けきれずに脇腹を切り裂かれる。

「そんなっ、姉さま……!?」 

 一瞬、サラの洗脳が解けたとでも思ったのだろうか。
 痛みに顔を歪め、アーヤは信じられないとでもいうようにサラを見つめていた。

「シトリー様は……この身に代えても守る……たとえあなたでも……容赦はしないわ……」

 口を開くのも苦しそうに、サラが途切れ途切れに妹に告げる。

 それもそのはずだろう。
 アーヤの大剣に貫かれた傷からは鮮血が溢れるように滴り落ち、生きているのが不思議なほどの深手なのだから。

 その、真紅に染まった背中から、シトリーは視線を逸らせないでいた。

 そうか…………こいつも、自分の命を賭けて僕を守ろうというんだな。
 ならば、役目を全うした下僕には、労いの言葉のひとつもかけてやらねばなるまい。

「よくやった、サラ」

 その言葉に、サラはシトリーの方に振り向き、嬉しそうに目を細める。

 それで力が尽きたのか、サラの体がぐらりと揺れて、真っ逆さまに墜落していく。

「ねっ、姉さま!」

 アーヤの呼ぶ声が響くが、加速度を付けてサラは落下し、波紋を立てて水中へとその体が消えた。

「くっ……姉さま……」

 歯を食いしばるアーヤの目から、涙がこぼれ落ちる。

 それに対して、シトリーの方は自分でも思っている以上に落ち着いていた。
 サラが現れたことはその命を救ったばかりでなく、冷静さをも取り戻させたのだった。

「サラの妹……たしか、アーヤとか言ったな?」
「……貴様っ!」

 シトリーの言葉に、ようやく我に返ったようにアーヤが睨みつけてくる。

「サラの代わりに、今度はおまえを僕の下僕にしてやるとするか」
「誰がっ! 決して貴様の下僕になどなるものかっ!」
「ふふん、威勢だけはいいみたいだな。しかし、その体で何ができる? そうやって体勢を維持するので精一杯なんじゃないのか?」
「くっ……!」

 アーヤが悔しそうに唇を噛んだことが、シトリーの言葉が間違っていないことを証明していた。
 さっきサラに斬りつけられた脇腹の傷はかなりの深手で、滴り落ちる血の量を見ても彼女がまともに戦える状態にないのは明らかだった。

「とはいえ、暴れられても厄介だからな。とりあえずは、おとなしくなってもらうとするか……」

 そういうと、シトリーはアーヤに向かって手を差し出し、触手を伸ばす。

 だが、次の瞬間その鼻先を光の矢が掠めた。

「……っ! くそっ、援軍か!」

 矢の飛んできた方向を見ると、数人の天使がこちらに飛んでくるのが見えた。

「さすがに、あの人数は僕ひとりじゃどうにもならないな……」

 今の自分では、その天使たちの相手にはならないと、瞬時に判断を下す。

「まあいいか。……おい、サラの妹! 今度会ったときには、間違いなくおまえを僕の下僕にしてやるからな。その時までおとなしく待ってることだ」

 そう捨て台詞を残すと、シトリーは身を翻して魔界への門が開いている方向へと去っていく。

 その時シトリーは、その機会が訪れるまで思いもよらぬ長い時間を待つことになるとは思ってもいなかったのだった。

< そして、物語は『プロジェクトD』シリーズへ…… >

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