あに、いもうと あに、いもうと……

 東京から離れた、ある田舎町にふたりの兄妹が住んでいた。兄は犬坂宗太(いぬさか そうた)、妹は犬坂玲子(いぬさか れいこ)という名だった。犬坂の家は裕福ではなかったし、代々、里の人間からも疎まれていた家だった。
 ふたりとも、自分たちが里の者から白い目で見られていたのは薄々気付いていた。それでも、ふたりで寄り添うように慎ましやかに暮らしていた。

 だが、自分たちが里から疎まれている理由を、兄妹が初めて知ったのは宗太が18歳、玲子が14歳の時のことだった。

 その年、父親の宗助(そうすけ)が病気で倒れた。その病の床で、父がふたりに向かって告げた犬坂家の運命は、にわかには信じがたいものだった。

「わしはもう長くはない」

 床に就いたまま、枕元に座る宗太と玲子に語りかける父。

「そんな。父さん……」
「いいか、ふたりともよく聞いてくれ。死ぬ前に言っておかなくてはならないことがある」
「いやよ、お父さん。そんなことっ」
「いいや、これだけは言っておかなければならん。この家の人間の定め、特に玲子、お前の運命に関わる話なのだからな」
「私の運命?それって、いったいなんなのことなの?」

 死に臨んだ父のただならぬ様子に、緊張した面持ちで玲子が聞き返す。

「うむ、本当はその時が来るまで黙っておこうと思っていたのだが、こうなっては話さない訳にはいくまい。いいか、落ち着いて聞くのだ、玲子。このままだと、お前は二十歳になるまでに死ぬことになる。それが、犬坂の女の運命なのだ」
「ええっ!?」
「どうしてそんなことになったのかはわしも知らん。だが、犬坂の女は二十歳を越えて生きることはできん。ただ、はるか昔にそういう呪いをかけられたということだけは伝わっておる」
「まさか、私が二十歳までに、死ぬなんて?」
「は、はは。そんな、父さん、今どき呪いだなんて、迷信に決まってますよ」

 そう言って笑い飛ばそうとする宗太。しかし、真剣な父の眼差しに気圧されたのか、額には汗が浮き、その声は少しかすれていた。

「迷信か。確かに、今までそれを確かめた者はいない」
「ほら、やっぱりそうだ」
「しかし、それには訳がある。この呪いから逃れる方法が、たったひとつだけあるのだ。だから、実際に死ぬ運命になった娘はこれまでいかったということなのだ」
「呪いから逃れる方法?父さん、それはいったい?」
「二十歳になるまでに誰かの奴隷になること。そうすることで犬坂の女は命を繋ぐことができる」
「誰かの奴隷になるって?」

 父の答えに、宗太は思わず素っ頓狂な声をあげた。

「うむ。もちろん、何者かに仕える奴隷になる契約や約束をするだけのものではない。それには、しかるべき儀式を行わなければならん。そうすることで、文字通り身も心も主人の者になってしまうのだよ」
「身も心もって、どういうことなの?」
「玲子。今のお前の気持ちや考えなどに関係なく、主人の命じたことには喜んで従う。そのような奴隷になってしまうのだ」
「そんな、馬鹿なっ!」
「そうだっ、それもきっと迷信に決まってる!」
「いや、それだけは馬鹿なことでも迷信でもない」

 動揺を隠せない兄妹に、宗助は静かに言い放つ。

「お前たちも上杉さんのことは知っているな?」
「ええ」
「年始の挨拶で何度か会ったことは。確か、上杉さんはかつての犬坂の家の主筋に当たる家で、その縁でこれまで何かと援助をしてくれたと……」

 答えながらも、どこか歯切れの悪い宗太。
 確かに、見知ってはいたが、宗太は今の上杉の主人の平蔵(へいぞう)のことが好きではなかった。脂ぎった肌に、貪欲そうにぎらついた目も、いつも威張り散らして、自分たちのことを見下しているその態度も。
 玲子も同じ気持ちなのか、その表情は芳しくない。

「主筋か。確かにその通りだな。かつて犬坂の家は上杉の家の小作だったのだしな。だが、わしが言おうとしているのはそんなことではない。これまで、犬坂の女のほとんどが、上杉の家の奴隷になった、ということなのだ。実は、わしには姉、お前たちにとって伯母に当たる人がおった」
「そんな話、初めて聞きました」
「当然のことだ。姉は、17の歳に上杉の家の奴隷となった。お前たちが生まれるずっと前のことだ。奴隷となった犬坂の女は、犬坂の家との関係は裁ち切られたも同然。いなかった者として扱われる。ただ、わしは何度か上杉の家で姉に会ったことがある。だが、昔は弟思いの優しかった姉が……」

 そこまで言うと、宗助は目を閉じて嘆息し、何度も首を横に振る。

「だから、儀式を行うと、身も心も奴隷になってしまうのは迷信ではない。わしは身をもってそれを思い知らされておる。だから、それが事実と言うことは、儀式を行わなければ犬坂の女は二十歳までに死ぬというのも事実なのだ。この犬坂の家が、里から白い目で見られているのも同じ理由だ。なにしろこの家は、昔から奴隷となるべき運命にある呪われた家なのだからな」
「そんな……」

 いきなり明かされた犬坂の家の秘密、それも、まるで夢物語のような話に、ふたりは言葉を失う。

「だが、考えてみれば、玲子にとってはその方が幸せなのかもしれん。上杉の家は金持ちだから、あの家の奴隷になった方が玲子は良い暮らしができる」
「そんなっ、私の気持ちはどうなるのっ?」
「言っただろう。一旦儀式を行ってしまえば、喜んで主人の命令に従うようになると。奴隷として主人に仕えることが幸福に思えるようになるのだ」
「そ、そんなことって……」
「それに、玲子が上杉の奴隷になれば、また上杉から援助してもらえることになる」
「しかしっ!そんな、玲子を売り飛ばすようなことをしてっ」
「それは違うぞ、宗太。玲子を売るのではない。このままでは玲子はあと6年以内に死んでしまう。それから救うことができるのは玲子を奴隷にすることしかないのだ。お前もそんなことがわからない歳ではないだろうに」
「で、でもっ」
「そうやって、これまで犬坂の者は、娘の死をただ待つことよりも、上杉の家に奴隷として入れて、その命を長らえさせることを選んできたのだ」
「しかし、誰も確かめたことがないのなら、上杉の奴隷にならなくても玲子は死なないかもしれないじゃないか」
「それは、儀式を経て奴隷となった身内の姿を見たことがない人間の言い種だな。あれを見せつけられると、呪いは本当だとしか思えない」

 父は、静かに、だがきっぱりと言い切った。

「あ、ああ」

 玲子は、絶句したまま、何度も横に首を振っている。

「父さんは、どうしてもそうしなければいけないって言うのか?」
「もし、玲子の命を救いたいと思うんだったらな。それと、もうひとつ。その、奴隷となる儀式は、犬坂の家で犬坂の人間の手によって行わなければならないのだ。お前には辛い話だとは思うが、宗太、わしが死んだらそれはお前の役目だ」
「僕がっ?そんなこと、できるわけがないだろう!」

 声を荒げて、父の言葉を拒絶する宗太。自分の妹を、自分の手で他人の奴隷にしなければならないと言われたのだから、それも当然のことだったといえよう。

「取り乱すな。これも、そうせねばならん決まりなのだから黙って聞くんだ。仏壇の奥に、古い壺がひとつある。そんなに大きな物ではないが、中に、赤い液体が入っておる。それが儀式に必要なものだ。おそらく、玲子が17か18になる年に、上杉の者が玲子を奴隷とするためにやって来るだろう。おそらくは、今の当主の平蔵さんか、息子の貴夫(たかお)くんのはずだ。そうしたら、お前は、筆を使って、玲子の右の掌と上杉さんの左の掌に壺の中の液体で十円玉ほどの円を描く。そして、その手の円を互いに合わせて、もし相手が平蔵さんなら、玲子が、”わたくし、犬坂玲子は、上杉平蔵様に全てを捧げて奴隷となり、その言葉に従うことを誓います”と言うのだ」
「やだっ!私、そんなことっ!」
「玲子も落ち着け。お前が生き延びる方法はそれしかないのだぞ。いいか、玲子の言葉に、平蔵さんが”認める”と答え、今度は平蔵さんが、、”われ、上杉平蔵は、汝、犬坂玲子を奴隷とする。汝、われの言葉にすべからく従うべし”というから、玲子が”誓います”と答える。それで儀式は完了し、玲子、お前は上杉の奴隷となる」
「うううっ」

 玲子の口から、呻くような声が漏れる。俯いたままのその顔から、数粒の涙がこぼれ落ちていた。

「泣くな玲子。今まで黙っていたことはすまないとは思うが、せめて、その時が来るまではそのような運命に煩わされずに生きていて欲しかったのだ。それに、こう言うのは親として無責任かもしれんが、一度奴隷になってしまえば、嫌だとか辛いという感情はなくなるだろう。奴隷として生きることが喜びとなるのだから」
「父さんっ!よくもそんなことを言えるなっ!」
「わしとて辛くない訳がないだろうが!だが、そうしてでも玲子には生きていて欲しい。親として言えるのはそれだけだ。だから、宗太。全てはお前に託す」
「馬鹿っ、野郎」

 唇を噛んで、短く吐き捨てる宗太。その、膝に突いた手が小さく震えていた。

「すまん、ふたりとも」

 宗助は、力のない声でふたりに謝る。それで、ようやく心の重しがとれたのか、静かに目を閉じた。

 宗助が亡くなったのは、それから数日後のことであった。

* * *

 父の死後、仏壇の奥を探ると、その言葉の通りに、古びた壺がひとつ出てきた。
 蓋を開けて中を覗いてみると、確かに、なにやらどろりとした液体が入っている様子であった。

「これが、私を奴隷にしてしまうの?」

 少し怯えたように壺の中を見ている玲子。

 ふたりは、未だ半信半疑であった。いや、信じたくなかったというのが正直なところであったろう。
 もとより、もしそれが本当だとしたら、その現実はあまりにも過酷すぎて、まだ若い兄妹にはとても直視することができなかったのだ。

 だが、目の前にあるその壺は、どれほどの歳月を越えてきたものか、どこかこの世のものではないような異様な存在感があった。
 それが、父の遺言めいた話が事実であると、心の隅で告げているようで、その壺を眺めていると、父の言い残した話に奇妙な現実感がわき上がってくる。だいいち、死ぬ間際の人間がそんな作り話をするとも思えなかった。
 重苦しい沈黙の中で、ふたりはその壺を見つめていた。

 そして、宗太は、黙ったまま再び壺を仏壇の奥に戻す。

 それからしばらくの間、兄妹の間で犬坂の家の呪いの話がなされることはなかった。
 その時までまだ時間はある。
 そう思って、ふたりともなるべく父の話のことは考えないようにしていた。

 そして、兄妹ふたりだけの生活が始まる。
 ふたりが幼い頃に母親も亡くなっていたので、この世にただふたりきり、頼る者もなく、宗太が働いて生活を支えなければならなかった。

 だが、そうやって、兄妹が現実から目を背けている間にも容赦なく時間は過ぎていく。
 そして、玲子の17歳の誕生日が近づいてようやく、ふたりは自分たちの運命と向き合わざるを得ないと考えるようになっていった。

 父の話が本当かどうかはわからない。だが、もし本当だとすると、遠からず上杉の人間が玲子を奴隷にするためにやってくる筈だった。
 宗太は、妹を上杉の奴隷になどしたくはなかった。玲子も、上杉の奴隷にはなりたくなかった。
 しかし、そうしなければ、玲子の命は長くてもあと3年あまり。
 どうすればこの運命から逃れられるのか、いくら考えても結論は出てはこなかった。

 ある日、宗太が家に帰ると、暗い部屋の中に、玲子がぽつねんと座り込んでいた。
 宗太は、黙ったまま部屋の灯りを点ける。

「あ、おかえり、お兄ちゃん」

 顔を上げて自分の方に振り向いた玲子は、泣きそうな顔をしていた。よく見ると、その手にはあの壺が抱えられている。

「やっぱり、このままだともうすぐ死んじゃうのかな、私」
「玲子……」
「ああ、でも、その前に上杉のおじさんが来て、私を奴隷にしちゃうんだよね」

 そう言って寂しげに微笑む玲子。そのまま、俯いて黙り込む。
 妹の姿に、宗太が声をかけあぐねていると、玲子の肩が小刻みに震え始める。

 そして。

「いやっ!」

 玲子の叫ぶ声が辺りの空気を切り裂いた。

「私っ、あの人の奴隷になるのは嫌っ!あの人に仕えて、その言うことを聞いて、それで嬉しいなんて、そんな風になるのなんて絶対に嫌っ!それくらいなら、私、死んだ方がましよ!」

「玲子!」

 震える声で、玲子はそうまくし立てる。兄の顔を見上げるその口許はきつく結ばれ、目は涙目になっていた。
 宗太が駆け寄って、玲子を抱きしめる。

「どうしてっ?どうしてそんなことになるの?いったい何なの、犬坂の呪いって?私、とてもそんなこと信じられないっ、信じたくないっ!でも、でもっ!」

「……」

 何も言えず、ただ、妹を抱きしめるだけの宗太。
 少し力を入れると、壊れてしまいそうなその細い肩。妹の体が、ぶるぶると震えているのが宗太にも伝わってきた。
 しばしの間、そのまま抱いていると、少し落ち着いてきたのか、玲子の震えが収まってきた。

「お兄ちゃんが私の主人になるんだったらいいのに……」

 小さく呟くように、妹の口からこぼれ出た言葉。

「え?」
「そうよ、お兄ちゃんが私の主人になってくれるんだったら、私、喜んで奴隷になるわ」
「な、何を言ってるんだ、玲子?」
「だって、お父さんは言ってたわ。犬坂の女は誰かの奴隷にならなければいけないって。誰かってことは、お兄ちゃんでもいいのよね?」
「あ、ああ、たぶん。しかし、お前を僕の奴隷にするなんて」
「じゃあ、お兄ちゃんは私が上杉さんの奴隷になればいいと思ってるの!?」
「そんな筈ある訳ないだろうが!」
「お願い。私、お兄ちゃんの奴隷だったら、どんな酷いことされても、たとえ自分が自分でなくなっても構わない。でも、あの人の奴隷なって、あの人のために生きて、そんなことすら悲しいとも苦しいとも思わないようになるなんて、そんなの耐えられない。そうなるくらいなら、今すぐに死んでやるわっ!」

 必死にすがるような目で宗太に訴える玲子。その顔は蒼ざめて、唇は震え、思い詰めた表情だった。

「ね、お願い、お兄ちゃん。私を、お兄ちゃんの奴隷にして」

 きっと、ここで、否、と言ったら、妹は自ら命を絶ってしまう。それ程までに、玲子の様子は悲壮感を漂わせていた。
 それが、宗太に決断をさせる。

「わかったよ、玲子」
「あ、ありがとう、お兄ちゃん」

 張り詰めていたものが切れたのか、玲子の両目から大粒の涙がこぼれ落ちる。

 考えてみれば、玲子を上杉へとやらせないためには、それしか選択肢はなかった。
 里から疎外されているふたりには、他に玲子の主人となるような人間はいない。それに、里の中では誰が玲子の主人になっても、上杉の家と大きな違いはないだろう。
 結局、宗太が主人になる他に、玲子を救う手だてはなかったのだ。

 宗太は、黙ったまま、玲子の手から壺を取りあげる。

 そして、やはり仏壇から一本の筆を出すと、壺の蓋を開け、中に挿し込んだ。
 筆の先に付いた液体は、赤黒いような、褐色のような不気味な色をしてヌラヌラと光っている。

 沈黙の支配する中、宗太は玲子の右手を取り、その掌に円をひとつ描く。そして、自分の左の掌にも同じような円をもうひとつ。
 掌に描かれた円はすぐに乾き、その赤黒い色と相俟って、さながら瘡蓋のように思えた。

 再び壺に蓋をし、筆を置くと、宗太は玲子の方を向いて頷く。
 すると、玲子も黙ったまま頷き返す。
 そして、ふたりは差し向かいに座ると、互いの掌の円を合わせた。

 一度、大きく深呼吸をして、ふたりは、父が言い残した儀式の言葉を口にする。

「わたくし、犬坂玲子は、犬坂宗太様に全てを捧げて奴隷となり、その言葉に従うことを誓います」
「認める」
「われ、犬坂宗太は、汝、犬坂玲子を奴隷とする。汝、われの言葉にすべからく従うべし」
「誓います」

 その瞬間、ふたりは掌に灼けつくような痛みを感じて思わず悲鳴を上げていた。

「くううううっ!」
「やあああっ!なっ、何!?」

 ドクドクと、早鐘を打つように動悸がしている。だが、気付くと、激しく脈打っているのは、掌の赤い円だとふたりは気付いた。

「な、何が起こったの?」
「わからない。でも、これで儀式は終わったみたいだな」

 ドクンドクンと脈打っている、自分の掌の印と、互いの顔を交互に見合っているふたり。
 こんな不思議な体験をしては、さすがにふたりとも儀式は本物だと信じざるを得ない。

「私、本当にお兄ちゃんの奴隷になってしまったの?」
「そういうことに、なるんだろうな」
「でも、何も変わったことは感じないよ。私は、私のままだと思う」

 そう言って、首を傾げている玲子。
 もちろん、宗太にも何がどう変わったのかはわかる訳がなかった。
 ただ、何か普通ではないことがふたりの間に起きた。それだけは確かなことのように思えたのだった。

「トクン、トクンっていってる。なんだか不思議な感じ」

 そう言って、自分の掌の印を見つめている玲子。
 玲子の言うように、宗太にも、儀式の前と比べて、特に何かが変わったようには思えなかった。

 ただ、その後、いくら手を洗っても掌の赤い円は消えることはなかった。
 それと、もうひとつだけ、儀式の後で変わったことがあった。

「おーい、今帰ったぞ」
「あ、お帰りなさい、お兄ちゃん。今ご飯の支度ができるからね」
「ほーう、ずいぶんと用意がいいな」
「だって、ほら、お兄ちゃんが帰ってくるの、これが知らせてくれるから!」

 満面の笑みを浮かべて、玲子が掌を向ける。
 ふたりの距離が近づくと、掌の印が力強く脈打ち始める。まるで、互いに引き合うように。
 だから、玲子には兄が帰ってくるのがすぐにわかったのだ。それが、儀式の前と後で大きく違うことだった。

* * *

 ふたりが儀式を行ってからしばらくは、何事もなく過ぎていった。

 そして、それは玲子が17歳になって、少し経ってから起きた。

 ある日、兄妹が家にいる頃合いを見計らったように、上杉平蔵が息子の貴夫を連れて犬坂の家にやってきた。

「おう、これは玲子ちゃん。しばらく見ない間にずいぶんと綺麗になったのう」

 挨拶もせずに、玲子の顔を眺めながら何度も頷く平蔵。

「うんうん、これなら貴夫に宛ってもよさそうじゃの」

 平蔵は、下品な笑みを浮かべて玲子を見つめたまま、宗太の方は見向きもしない。その背後で、貴夫がにやけた顔で突っ立っていた。

「あの、上杉さん、今日はいったいどのようなご用でしょうか?」
「何を言っとるんじゃ。父親から話は聞いておらんのか?今日はお前の妹をもらい受けに来たんじゃが」

 素知らぬ振りでそう聞いて、はじめて平蔵は宗太の方を向く。だが、その顔は依然としてにやけたままだ。

「何のことでしょうか?」

 宗太のその態度に、平蔵は憮然とした表情を浮かべる。

「本当に聞いておらんのか?犬坂の女には、人の奴隷にならなければ生きていくことはできん。そして、犬坂の女を奴隷として引き受けるのは上杉の家なのじゃ」
「ああ、そのことでしたか。なら、お引き取り下さい。その必要はありません」
「なんじゃと?お前っ、自分の妹の命がどうなってもいいのかっ!?」

 色をなす平蔵に対して、宗太はあくまでも落ち着き払っていた。
 そして、ちらっと玲子の方を見ると、宗太は左の掌を、玲子は右の掌を平蔵に向ける。

「そのことなら、もう間に合っていますから」

 左手を平蔵に向けたまま、静かに言う宗太。
 ポカンと口を開けたまま、自分に向けられたふたりの掌を穴があくほどに見つめていた平蔵が、いきなり玲子の手を取る。

「きゃあっ!」

 悲鳴を上げる玲子に構わず、流しまで引っ張っていくと、平蔵はその掌の印を洗い流そうとする。
 しかし、いくら擦っても印は消えることはなかった。

「おわかり頂けましたか、上杉さん?」
「いいやっ!きっと、すぐには落ちない塗料か何かでごまかそうとしているのであろうが!」

 激しい剣幕でそう言って、宗太を睨み付けていた平蔵が、何か思いついたようににやつく。

「そうじゃ。なら、今ここで玲子に命令してみるがいい!」
「命令、ですか?」

 それまで冷静に振る舞っていた宗太が怪訝な表情を浮かべたのを見て、平蔵が勝ち誇ったような笑みを浮かべる。

「なんじゃ、そんなことも知らんのか。その掌の印が本物なら、お前が命令すれば玲子はその通りにするはずじゃ」
「命令の、通りに?」
「ああ、そうじゃ。だから、わしの目の前で、口づけをするように玲子に命令してみよ」

 どうせ、ふたりの掌の印は偽物であろうと言わんばかりに、したり顔で平蔵は言う。
 宗太が玲子の顔を窺うと、戸惑いながらも頷き、宗太の方に歩み寄ってきた。

「待て待て。わしは、命令しろ、と言うたんじゃ」
「命令、ですか?」
「そうじゃ。もしそれが本物ならば、命令されるとそれがどんな命令であろうと玲子は逆らうことはできん」

 まさか、本当にそんなことが?

 平蔵が疑っているように、掌の印が塗料などではないことは宗太自身が一番よくわかっていた。なにしろ、父の言った通りに儀式を行ったのだ。これが本物なのは間違いない。
 なら、本当に平蔵の言うようなことになってしまうのだろうか。

 もう一度、宗太は玲子の顔を見る。不安げな表情ながら、だが、玲子ははっきりと頷いた。

 それで、宗太も心を決めた。

「玲子、命令だ。僕に口づけをするんだ」

 そう命令すると、玲子の表情が一変した。

 さっきまで、少し怯えたような様子だったというのに、その目尻は下がり、艶やかな笑みすら浮かべている。

「かしこまりました、宗太様。」

 嬉しげに返事をすると、玲子は宗太の首に腕を絡ませ、唇に吸いついてきた。

「んっ、んむ」

 唇をこじ開けるようにして舌を絡め、情熱的に口を吸う玲子。
 濃厚な口づけの後、「ぷはぁ」と息をつき、潤んだ眼差しを宗太に向けている。

「これでいかがですか、宗太様?」

 腕を絡め、宗太を見つめたまま、伺いをたてるように首を傾げる玲子は、まるで、宗太を誘うように体をくねらせていた。その、妖しく濡れた唇から、物憂げな吐息が漏れかかってくる。

 そんな妹の変貌振りに、表情にこそ出さないが宗太は内心動揺していた。
 妹が、自分のことを、宗太様、と呼び、悩ましげな表情で自分を見つめている。
 それが、あの儀式の本当の役割。これが、奴隷にするということ。宗太は、ここに至ってはじめて事の重大さを思い知らされていた。

 だが、平蔵の声がさらに追い討ちをかける。

「まだじゃ。そのくらいなら演技でもできるかもしれん。今度は玲子に奉仕させてみるんじゃ」
「奉仕?」

 その言葉の意味するところがわからず、宗太は首を傾げる。

「そうじゃ。もし玲子が本当にお前の奴隷になっておるのなら、そう言うだけでわかるはずだからの。さあ、早くやってみせんか」

 宗太は、何か嫌な予感がしたが、平蔵に急かされて意味もわからないまま、やむなくその命令を口にする。

「玲子、僕に奉仕してくれ」
「かしこまりました」

 にっこりと微笑んでお辞儀をすると、玲子は自分の服に手をかけ、ひとつずつ服を脱いでいく。
 身につけていたものを全て脱ぎ去り、生まれたままの姿になった玲子は、宗太の前に立つとそのシャツのボタンを外し始める。そして、それをはだけさせると、その体に抱きついてきた。
 そうして、小さいが形の整った胸を、嬉々として押しつけながら宗太を見上げる玲子の目は潤んで光り、頬は上気して赤く染まっている。

「ん、あはぁ、宗太様」

 切なげな吐息を漏らしながら上体を揺すって、ひとしきり胸を押し当てていたかと思うと、今度は嬉しげに微笑みながら宗太の肌に舌を這わせはじめた。
 そのまま、上目遣いに宗太の顔を見上げながら胸から腹へと舐め降ろしていく玲子。
 そして、膝立ちになって宗太のズボンに手をかけようとした時。

「うおおおおおっ!」

 家の中に響く獣の吼えるような声。その声の主は平蔵であった。

「おのれええっ!」
「きゃああっ!」

 平蔵は、玲子の体を宗太から引き剥がすと、思い切り宗太を殴り飛ばした。

「貴様!貴様ぁっ!」

 大声で叫びながら、平蔵は倒れた宗太を殴り、蹴り、踏みつける。

「やめてっ!やめて下さい!きゃあっ!」

 止めに入ろうとした玲子を、突き飛ばし、なおも宗太を蹴り続ける平蔵。

「おのれ!よくもわしをコケにしおって!このっ、このっ!」

 完全に逆上している平蔵は、うずくまったままの宗太に、何度も何度も蹴りを入れ、踏みつけ続けた。

 しばらくして、ようやく倦んだのか平蔵は宗太を蹴るのを止めるが、なおも怒りは収まらぬ様子であった。

「もう知らん!犬坂の家には今後一切援助などしてやらんからな!」

 忌々しそうに、平蔵はそう吐き捨てると、さらに言葉を続ける。

「そんなにまでして自分の妹を奴隷にしたかったのか!この恥知らずが!」

 自分たちこそ、玲子を奴隷にしようとしてここに来ていたというのに、そんなことは棚に上げて宗太を罵る平蔵。

「この忌々しい奴めがっ!わしは今後犬坂との縁を一切断つ!それに、お前は妹を奴隷にして満足だろうが、本当に奴隷にする術は上杉の家にしか伝わっておらん。もちろん教えてやるつもりなどないがの!後になって後悔するがよいわ!くそっ、帰るぞっ、貴夫!」

 うずくまったまま立ち上がれない宗太に、見当違いな捨て台詞を叩きつけて上杉親子は去っていった。

 本当に奴隷にする術。そういうことか。

 上杉父子の去った後、痛みをこらえながら宗太は父の言葉を思い出す。
 父が何度か上杉の家で見た姉の様子がそれまでと変わっていたというのは、きっとその術のせいなのだろう。この犬坂の呪いについては、上杉の家にだけ伝わっている秘密もあるということか。だからこそ、上杉の家は犬坂の主だったのに違いない。

 しかし、平蔵の捨て台詞は見当違いも甚だしい。 

 自分は、妹を奴隷にしたかったのではない。上杉の奴隷にしたくなかったからやむを得ずそうしたのだ。
 だから、本当に奴隷にする方法を知ったとしても、もとより妹にそんなことをするつもりはない。

「くうっ!」

 ようやく起きあがろうとした宗太は、全身の痛みに思わず呻き声を上げた。

「大丈夫ですか、宗太様!」

 玲子が駆け寄ってきて助け起こす。その姿は、全裸のままだ。

「ああ、大丈夫だ。それより玲子、もう服を着てもいいぞ」
「え?」

 なぜ、そんなことを言われるのかわからないという様子で首を傾げる玲子。
 その表情は、兄に対する妹のそれではなく、主人に対する奴隷のものであった。

「これは命令だ。服を着ろ、玲子」
「はい」

 命令されると、玲子は素直に服を着ていく。

 
「ひどい。ここ、こんなに血が出ていますわ。痛みますか、宗太様?」

 服を着た後、包帯を巻きながら宗太の様子を窺う玲子。
 気遣わしげな様子を見せているが、あくまでも敬語で話し、主人の世話をする奴隷として振る舞っている。
 そんな妹の姿が、宗太を打ちのめしていく。
 平蔵に殴られ、蹴られていたときよりも、今、自分の目の前にある妹の姿を見る方が辛かった。

「どうしたのですか宗太様?やはり傷が痛むのですか?」

 思わず涙を流した宗太を気遣う玲子。

 だが、痛むのは傷ではない、心だ。

「いや、本当に大丈夫だ」

 手で玲子を制する宗太。その時のことだった。

「あ、あれ、私?」

 また、玲子の表情が変わった。先程まで、心配そうな表情をしながらも大人びた色気を漂わせていたのが、年相応の、そう、いつもの妹の雰囲気に戻る。

「玲子?」
「お兄ちゃん」

 いつも通り、玲子が宗太のことを「お兄ちゃん」と呼んだ。

「そうか、私……」

 そう言ったきり、玲子は黙り込んだ。
 そして、痛々しい表情で、宗太に巻かれた包帯にそっと触れる。

「玲子。お前、ひょっとして今あったことを覚えているのか?」

 宗太の問いに、黙ったまま頷く玲子。
 その顔から、床に、涙がこぼれ落ちた。

「ごめんね、お兄ちゃん。私のせいでこんな事になって」
「いいよ、そんなこと。もういいんだ」
「あっ、ここ、もう血が滲んで来てる」
「気にするなよ。とにかく、もうこれで上杉との縁は切れたんだ。そう考えたらこのくらい何でもない」

 そう言うと、宗太は妹の涙をぬぐってやる。 

「うん。ありがとう、お兄ちゃん」

 玲子は、涙をこぼしながら微笑む。
 それを見て、宗太も安心する。なにより、自分の妹が、いつも通りの妹が戻ってきたのだから。

「でも、本当にお父さんの言う通りだったよ」
「何が?」
「お兄ちゃんの奴隷でいる間、とても幸せな気持ちで、お兄ちゃんの言うことを聞いて、その、ほ、奉仕、するのがすごく嬉しくて」
「そうか」

 宗太には、そう答えるのが精一杯だった。

 表情を曇らせた兄を見て、玲子もそれきり黙り込む。
 そうして、ふたりは長い間、黙りこくったまま座り込んでいた。

* * *

 上杉との一件の後も、ふたりの生活は以前とそれ程変わることはなかった。
 平蔵はあんな事を言っていたが、もともと上杉の家がたいして援助してくれていたわけではない。少なくとも、宗太の記憶にある限り、父が死んでから上杉が犬坂の家を援助してくれたことなど無かったのだから。
 依然として家は貧しかったが、この田舎町の近くにもようやく経済成長の波がやってきていたこともあって、兄妹ふたりが生活できるだけの収入を得る仕事には困らなかった。
 ふたりの兄妹は、相変わらず、寄り添うように慎ましやかに暮らしていた。

 ただひとつ変わったことは、玲子が宗太の奴隷になったことを、お互いにはっきりと意識するようになったということ。

 犬坂の家の呪いは本当だった。家に伝わってきた儀式が、玲子を宗太の奴隷にしたことも間違いはなかった。
 だが、宗太には妹を自分の奴隷にするつもりなどなかった。
 自分が儀式を行ったのは、ただただ、妹が上杉の奴隷になるのを防ぐため。そして、死の運命から妹を救うためだ。
 だから、その運命から救うことができたら、妹を奴隷として縛りつけることはしたくなかった。
 主人としてではなく、兄として見守り、妹には自由に生きて幸せを掴んで欲しいと思っていた。

 もう、二度と妹に対して『命令』はしない。

 宗太がそんな風に考えていたのも無理のない話であった。

 だが、儀式を行ったことが、結局は妹の運命を縛りつけてしまったことを宗太は思い知ることになる。

 上杉とのやりとりがあってから1年近く過ぎたある日。

 夜中に、おかしな気配を感じて目が覚めた宗太は、自分の布団の中に玲子が潜り込んできていることに気が付いた。

「どうしたんだ、玲子?」
「なにか変なの、私。このところずっと、掌の印がドクンドクンって疼いて、それと一緒に、胸もきゅうってなっちゃうの。そうしたら、もうお兄ちゃんのことしか考えられなくなって、胸が苦しくなってくるの」

 暗くてその表情はよくわからないが、時々言葉を途切らせて、切なそうに喘いでいるのはわかる。
 確かに、宗太の掌の印もドクドクと力強く脈打っていた。それに、宗太も、妹の言うように、最近、ふたりで一緒にいると印の脈動が痛いくらいに強くなっているのは感じていた。
 宗太が、手を伸ばして妹に触れると、その体がビクンと震えた。
 だが、すぐに玲子の方からきつく抱きしめてくる。

「お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃんっ」
「どうしたっ、玲子?」
「苦しいよう、こんなの、もう我慢できないよっ。こうしてると、お兄ちゃんの事で頭がいっぱいになって、息をするのも苦しいのっ!」
「おいっ、玲子っ、しっかりするんだ!」
「だめっ、もう自分でもどうにもできないの!お願い、抱いてっ!私を抱いてっ、お兄ちゃん!」

 互いの顔もよく見えない暗闇の中でも、その切羽詰まった口調は伝わってきた。すぐ間近に、はぁはぁと喘ぐ玲子の熱い吐息を感じる。

「玲子っ、僕たちは兄妹なんだよ。そんなこと、してはいけないんだ!」
「わかってるっ!こんなことしちゃいけないんだって、そんなの私もわかってるよっ!でも、どうにもならないのっ。だって、私はお兄ちゃんの奴隷なんだからっ!」
「れ、玲子……」
「お願い、お兄ちゃん、私に命令して。そうしたら私は、お兄ちゃんの妹じゃなくて奴隷になれるから」
「そんなことっ」
「ねぇ、お願い。でないと私、壊れちゃいそうなの」

 そう懇願する、息苦しそうな妹の声。

「お兄ちゃん、私に命令して、お兄ちゃんに、奉仕しろって。お願い、だから」

 途切れ途切れの妹の言葉。宗太に抱きついている玲子は、悪寒に冒されているように体を震わせていた。
 
 もう、他にどうしようもないのか?

 あの儀式をした以上、そして、互いの掌にこの印がある以上、それは避けられないことなのかもしれない。
 それに、今の妹を鎮めるには、それしか方法は無いように思えた。
 宗太は、観念したように目を瞑る。そして、一度大きく息を吐くと、少し震える声で妹にその言葉を告げる。

「命令だ、玲子。僕に奉仕するんだ」

 すると、自分にしがみつくように抱きついていた妹の震えがピタッと止まった。

「かしこまりました、宗太様」

 耳元で囁いた妹の声は、今さっきまでとは違う、艶っぽい響きがあった。
 それまで抱きついていた玲子の体が一旦離れ、暗い中で動く気配を感じた。そして、布団がはだけられたかと思うと、ズボンがずり降ろされる。

「それでは、奉仕させていただきます、宗太様」

 その声と共に、宗太の股間の物に柔らかいものが当たる。それが動き出して、はじめて玲子の手に肉棒が握られているのがわかった。
 これも、呪いのせいなのだろうか、これまでそのようなことをした経験は無い筈なのに、玲子の手の感触は柔らかくて心地よく、肉棒を扱く動きも正確に快感を与えてくる。
 妹にそんなことをさせている罪悪感を感じながらも、体は与えられる快感に正直に反応してしまった。肉棒に血が集まるような感覚と、掌の印がドクンドクンと脈打つ響きと重なっていく。
 すると、今度は肉棒が暖かく湿ったものに包まれた。

「んむ、んふう」

 暗闇の中、肌に吹きかかる熱いものが、肉棒にしゃぶりついた玲子から漏れる吐息だと理解するには少し時間が必要だった。
 最初、いきなり膣に入れたのかと錯覚したほどに、玲子の口内は熱く、ねっとりと肉棒にまとわりついてきていた。

 固く尖らせた舌先で刺激されて、ようやく宗太は自分の肉棒にまとわりついているものが妹の舌だとわかった。

「ん、んふ、じゅぷ、ちゅ、むふ、ちゅるる」

 湿った音を立てながら、玲子は時に舌を大きく広げて肉棒を包み込み、また時には舌先を尖らせる。

「くうっ、ううっ」

 間断なく与え続けられる快感に、宗太も思わず呻き声を漏らす。
 その、的確に男に悦楽をもたらす動き。それこそが、妹が奴隷となってしまった証だというのに。それを心地よく感じてしまうことが無性に哀しかった。

 だが、玲子は、宗太に哀しみに浸る時間を与えない。

「ん、ちゅぽ、じゅぽっ、ちゅぱっ」
「んっ、くあああっ」

 まるで、本当に交わっているような音を立てて、玲子の口が大きく動き、その唇が膣口のように肉棒を締め付ける。
 一気に強められた快感に宗太の体は敏感だった。肉棒は破裂しそうな程に脈打ち、妹の口の中でビクビクと震えだす。

 そして、肉棒に添えられていた手が離れ、持ち替えるように反対側から握られた、その瞬間。

「ぐああああああっ!」

 頭が真っ白になるほどの衝撃が駆け抜け、弾けるように肉棒から熱いものが迸る。

「んんっ、ふあああああっ!」

 闇の中に響く、蕩けたような妹の声。
 それでも、握られたままの肉棒は、脳天まで突き抜けるような刺激に震え、なかなか射精が止まらない。

「ああっ、宗太様!熱いですうううぅ!」

 肉棒と掌の印がドクドクと脈打ち、頭の奥がじん、と痺れている。玲子の叫ぶ声が、まるで遠くで聞こえるようだ。
 射精の後の気怠さと軽い疲労感が相俟って、体を弛緩させている宗太。もう、何か考えるのも煩わしく思える。

「くううっ!」

 だが、再び肉棒が強く握られ、目眩がしそうな程の刺激に宗太は呻く。
 ただ握られているだけなのに、信じられないくらいの快感に襲われる。

 そして、両側から腰を挟まれる感触。

「待てっ、玲子!」

 玲子が何をしようとしているのか、それで理解した宗太は反射的に声をあげてそれを止めようとする
 肉棒を掴んでいた手が、ピクッと反応して、訝しげな声が聞こえた。

「どうなされたのですか、宗太様?」
「そ、それ以上はだめだっ」
「なぜでございます?」
「だめだよ、兄妹でこんなことをしてはっ」
「何を仰るのですか?私は宗太様の奴隷なのですよ。私の体は宗太様のものでございますのに」

 暗くて表情はわからないが、普段の妹とは明らかに違う声の響き。
 そして、肉棒を握った手が動き始めた。

「くううっ!れ、玲子!」
「ああ、宗太様。だから、私の体を使ってどうか気持ちよくなって下さい。そして、どうか、私めにお恵みを下さいませ」

 はあぁ、と悩ましげな吐息を漏らしながら、艶めかしい声で宗太に請う玲子。その手は、ゆっくりと肉棒を扱き続けている。

「うあああっ、玲子!」
「宗太様のここ、もうこんなに固くなっておりますわ」

 宗太の頭の中は、ドクンドクンと脈打つ音と快感に占められ、何も考えることが出来ない。
 そこに、畳み掛けるように玲子の言葉が染み込んでくる。

「どうかお願いします、宗太様」
「ああっ!」

 それが、玲子に対する返事だったのか、快感に対する喘ぎ声だったのかすらも、もうわからなくなっていた。

「ありがとうございます、宗太様」

 だが、玲子はそれを自分への許可と受け取ったのか、主人への礼を述べる。
 そして、宗太の腰を挟んでいる膝が少し動いたかと思うと、肉棒の先が、暖かくて柔らかい感触ものに包まれていく。
 ずぶずぶと、少し抵抗のある感覚と共に、その感触が肉棒全体を覆っていく。

「「くうっ!ああああああっ!」」

 ふたりが、ほぼ同時に叫ぶような声をあげた。

「くあああっ!」
「あ、あああっ、気持ちっ、いいですっ、宗太様!」

 それも、呪いの作用なのか、初めての経験であるはずなのに、うっとりとした声をあげる玲子。、
 生まれて初めて、男の物を体の中に受け入れて、快感に悶えている玲子。それこそがまさに彼女が身も心も宗太の奴隷になってしまったことを証明している。
 それなのに、もう宗太にはそんなことを考える心の余裕はなかった。暗闇の中で、妹の姿が見えないことも宗太の理性を鈍らせていた。
 手による刺激で、頭の心まで快感に痺れさせられていたところに、さらなる快感が加わり、ただただ、玲子の為すがままに任せることしかできなかった。

「ああっ、宗太様っ!んんっ、はあぁ!」

 宗太の上で、玲子の体が動き始めた。
 そして、肉棒を締め付けたまま、体全体を使って扱きあげていく。

「ん、素晴らしいです、宗太様」

 甘く蕩けた声で喘ぎながら、ゆっくりと体を動かしていく玲子。
 暖かく滑った感触が肉棒を包み込み、じんわりと、だが確実に快感を高めていく。
 その、とろとろに熟れた感触。それが、自分の妹のものとはとても信じられない。

「んんっ。もっと、もっと気持ちよくなって下さいませ」

 宗太の腰の上で、玲子が腰を前後に大きく揺らし始めた。
 ふたりの吐息と喘ぎ声に、グチャ、という湿った音が混じる。

「あんっ!宗太様の、私の奥まで当たってっ、んんんっ!」

 玲子の動きが次第に早くなっていく。その体が肉棒を奥深く飲み込む度、宗太は目の前に閃光が走るように思えた。そのまま、目も眩む程の快感に飲み込まれていく感覚。
 宗太の腹に添えられていた妹の手が、何か探るように動き、無意識のうちに、宗太はその手をつかむ。

「あっ!あああああっ!」
「くううううううっ!」

 ふたりが、指を絡めて掌を合わせると、感電したかのような強い刺激が全身を駆けめぐる。
 それは、あの儀式の時に感じたものに似ていたが、より純粋に、快感だけを集めたもののように思えた。
 その刺激に、宗太の腰が思わず跳ね上がると、玲子が堪りかねたように叫ぶ。

「ふああああああっ!そっ、宗太様!」

 手を握り合ったまま、互いの腰をぶつけるように動かす兄妹。
 ドクン、ドクンと、掌の印が脈動し、頭の中の全てが快楽に塗りつぶされていく。

「あああっ、宗太様っ、どうかっ、私めにお恵みをっ!」

 吸いつくようにして肉棒を締め付けながら、玲子が腰を打ち付けてくる。

 宗太の視界が、真っ白に弾けた。

「うあああああっ!」
「あああああああっ!宗太様のお恵みがあああぁっ!」

 ドクドクと、玲子の中に精液が注ぎ込まれていく。その体に深く咥えこまれた肉棒をさらに締め付けて、妹は兄の精液を搾り取っていく。繋いでいたふたりの手は、ぎゅっと強く握られたままだ。

「ああっ、ありがとうございます、宗太様ああぁぁ!」

 玲子の声がどんどん遠ざかっていく。
 そのまま、宗太の意識は闇の中に落ちていった。

 翌朝。

 目が覚めた宗太が体を動かそうとすると、そこに柔らかい感触があるのに気付く。
 見てみると、そこには裸のままで妹が寝ていた。
 それで、宗太は昨夜自分たちがしたことを思い出す。

「ん、んん……」

 その時、短く呻いて玲子の目が開いた。
 まだ少し寝ぼけているが、黒目がちの澄み切った瞳で兄の顔を見つめる玲子。

「ん、宗太様」

 自分を見て、妹が微笑みながら、宗太様、と呼んだ。
 一瞬、宗太は自分の顔がこわばったのを感じた。
 だが、そう言った妹の表情はいつも見慣れたもので、穏やかに微笑んでいる。

「私、本当にお兄ちゃんの奴隷になっちゃったんだね」

 それは、いつも通りの妹の口調。

「玲子……」
「私、お兄ちゃんといやらしいことしちゃった」

 そう言って、玲子は少し恥ずかしそうに頬を赤らめる。

「ごめん、玲子」
「え?何が?」
「実の兄妹なのに、あんなことしてしまって」
「でも、私、嬉しかったし、とても気持ちよかったよ」
「し、しかし」
「それに、お兄ちゃんのことを、宗太様、って呼んでいる間は、私はお兄ちゃんの奴隷で、兄妹だっていうことは忘れていられたし」
「でも、それじゃだめなんだよ、玲子」
「だめって、どうして?」
「やっぱり、兄妹でこんなことしちゃいけないんだよ。僕は、玲子を死なせたくないから、上杉の奴隷にさせたくないからあの儀式をしたんだ。お前を奴隷にしたかったわけじゃない。だから、お前には自由に生きて、好きな人を見つけて幸せになって欲しいんだ」

「そんなの、無理だよ」

 視線を兄から逸らし、低く、押し殺した声で言う玲子。

「玲子?」

 宗太が、怪訝そうに聞き返すと、玲子は、意を決したように、真っ直ぐに兄を見据える。

「だって、私はお兄ちゃんの奴隷なんだもん!私にはわかるの!私の心も体も、お兄ちゃんのものだって、この印がそう言ってるの!私にはもう、お兄ちゃん以外に好きな人なんて見つかる訳ないの!」

 宗太の目を見つめたまま、玲子は、そうやって一気にまくし立てる。

「で、でも、僕たちは」
「お兄ちゃんにはわからないの?この印は、お兄ちゃんにしか反応しない。トクン、トクンって脈打ってるの。それを感じると、お兄ちゃんのことしか考えられなくなるの!」

 そう言って、玲子は宗太に抱きついてきた。
 そして、狂おしげな視線を宗太に向けてくる。

「もう元には戻れないんだよ、お兄ちゃん。私は、他の人なんか好きになれない。お兄ちゃんじゃないと、私、おかしくなっちゃう」

 宗太の胸の中でぶるぶると震えている玲子。
 その姿は、今にも壊れそうなほどに儚く見えた。

 宗太は、この時になってはじめて、あの儀式が妹の心まで自分に縛りつけてしまったことを知った。

 そして、黙ったまま、妹を強く抱きしめる。

 今となっては、この印を消す方法があるのか、それを知る術はない。それに、そもそもこれも妹を守るためにしたことだ。こうなってしまっては、自分が妹にとって、できるだけ良い主人になることしかできないのかもしれない。
 ならば、自分は生涯、妹を守り続ける。宗太は、そう決心したのだった。

 だから、それから宗太は何度か妹に『命令』をした。

 それは、妹が壊れてしまわないようにするため。そして、兄妹で体を重ね合う罪悪感を隠すため。
 『命令』をしている間は、自分たちは兄妹ではなく、主人と奴隷でいることができる。
 それが、気休め程度には、兄妹で愛し合う禁断の行為の免罪符となっていた。

「あああっ!宗太様ぁ!」

 肉棒を体内に深々と受け入れて、宗太にしがみついてくる玲子。
 宗太に『命令』されている彼女は、妹としてではなく、心の底から奴隷として振る舞っている。
 だが、宗太の心はやはり主人にはなりきれない。

 裸になって『奉仕』している奴隷は、紛れもなく自分の妹であった。
 妹を奴隷にして、淫らに『奉仕』させている。その事実が、宗太の心を苦しめる。
 しかし、こうしないと妹の心はきっと壊れてしまうだろう。

 それだけに、自分に腕を絡めて肉棒を貪る妹の姿が、たまらないほど愛おしく、そして哀しかった。

「んんっ!宗太様!どうかっ、私めにお恵みをっ!」

 宗太が抱きしめると、玲子も体を押しつけてさらに深く肉棒を飲み込んでいく。
 そして、玲子の望み通りに精を放つ。

「ああああっ!熱いいいいいいぃ!」

 宗太にしがみついたまま、体を何度も震わせる玲子。
 絶頂したその顔は、幸福そうに蕩けている。その時の、妹の幸せそうな表情がせめてもの救いであった。
 やがて、その体から力が抜けて、ぐったりと宗太に体を預けてくる。

 そんな、禁断の交わりを、何度交わしたことだろうか。

 普段は、以前と変わらない様子で、妹として甲斐甲斐しく兄の世話をする玲子。
 だが、時々、兄への想いが高まると、夜、その布団の中に潜り込んでくるのだった。

 そして、妹は兄の奴隷となる。

 そんな生活が、何年か続いたある日。

 宗太が仕事から帰ってくると、珍しく玲子が玄関先まで出迎えに来ていた。

「お帰り、お兄ちゃん」
「ああ、ただいま。どうしたんだ、今日は?」
「あのね、お兄ちゃん……」

 口を開きかけて、言い淀む玲子。

「どうした?」

 宗太が再度訊ねると、ようやく玲子は言葉を続ける。

「あのね。私、赤ちゃんができたみたいなの」

 そう言った彼女の顔は、少し蒼ざめていた。

* * *

 やがて、月が満ちて玲子は男の子を産んだ。

 子供を産みたいというのは、玲子の強い意志だった。
 その強硬さには、宗太も折れざるを得なかった。

 ふたりで相談した結果、子供は宗太の籍に入れることにした。
 そして、母親はすぐに死んで、玲子が母親代わりに育てていることにしようと決めた。そのことは、誰にも、そう、生まれてきた息子にも知られてはならない。
 世間にはもちろん、その子にすら、本当は兄妹の間にできた禁断の子供だと言うことは憚られた。

 ふたりは、ただただ健やかに育って欲しいという願いを込めて、息子に健太(けんた)という名を付けた。
 表向きは、叔母ということになっていたが、玲子は健太に限りない愛情を注いだ。もっとも、実の息子なのだから、それも当然であったのかもしれない。

 小さい頃の健太は、その名に反してしばしば高熱を出して寝込み、両親をひどく心配させた。

 息子が病弱なのも、自分がした、許されざる行為の結果生まれてきたからだといって、自分を責める宗太を、いつも傍らで励ましたのは玲子だった。
 母となったことが、彼女を以前よりもずっと強くさせていた。

 そして、子供が産まれてから、玲子は宗太に『命令』をせがまなくなっていた。
 その代わり、たまに、宗太は妹を優しく抱きしめてやる。

「落ち着いたか、玲子?」
「うん、ありがとう。お兄ちゃんのことをいっぱいに感じてる。印も、喜んでるみたい」

 宗太の腕の中で、玲子が幸せそうに頷く。

 今のふたりには、体を交わらせなくても互いの絆を感じることができた。それだけで、幸せだった。
 それに、ふたりには、兄と妹、主人と奴隷の他に、父親と母親という、果たさねばならない役割が増えていたのだから。

 そして、月日は流れる。

 小さい頃は、しょっちゅう熱を出して宗太と玲子を心配させた健太も、ふたりの愛情をいっぱいに浴びて優しい青年に育っていた。
 そして、成人した健太が都会に出たいと言った時にも、ふたりは反対しなかった。

 このまま、この田舎町で里の者に疎まれて生きていくよりかは、その方がはるかに良いと思えたからだ。

 都会に出て就職した健太は、仕事が忙しいらしく、そうそう実家に帰ってくることはできなかった。だが、便りはこまめによこしてきていた。

 息子が都会に出て数年が経った後。

 久しぶりに、健太が実家に戻ってきた。それも、ひとりの女性を連れて。
 健太は、宗太と玲子に向かって、その女性と結婚するつもりだと告げた。
 彼女は、早くに両親を亡くしていた。だから、せめて結婚相手の親には挨拶をしておきたかったのだと、ふたりに向かって頭を下げながら彼女は言った。

 色素の薄い、褐色の髪で、線が細くか弱そうな印象だが、心の優しそうな女性だった。
 彼女は、宗太だけではなく、表向きは母親代わりということになっている玲子にも気を配り、細やかな心遣いを見せた。そのことが、宗太と玲子を安心させた。
 彼女の育った環境などどうでもよかった。どのみち、犬坂の家もこの里では疎まれ、蔑まれているのだから。
 その女性が、心優しい人で、息子のことを本当に愛している。そのことがわかれば充分だった。

 今となっては、息子が幸せになってくれること、ただそれだけがふたりの願いであった。

 だが、ささやかな幸せもそう長くは続かなかった。

 息子が、妻となる女性を家に連れて来てから、5年ほど経った頃であろうか。

 ある日突然に、乳飲み子を抱えて息子が帰ってきた。
 宗太と玲子には、昔から色の白かった息子の顔が、さらに蒼白になっているように思えた。
 妻の産後の肥立ちが悪く、女の子を産んで間もなく亡くなったのだと、息子はふたりに告げた。
 その時の息子の表情は、哀しげに口許を歪め、今にも消え入りそうな程に儚げに見えた。
 そんな息子の様子に、宗太と玲子は漠然とした不安を抱く。

 その女の子には、律子(りつこ)という名前が付けられていた。
 生まれる前から、女の子が産まれたらそうしようとふたりで決めていた名前だったらしい。

 そして、ふたりの不安は、最悪の形で的中することとなった。
 息子は、それからすぐに病に伏し、宗太と玲子の看病も虚しく、妻の後を追うようにしてこの世を去った。

 そして、後にはまだ乳離れしていない赤ん坊が残された。

 息子に先立たれたことは、その幸せが全てであったふたりをすっかり気落ちさせた。
 もうすでに老境にさしかかろうとしていたふたりは、心にぽっかりと穴が空いたようで、言いようのない虚無感に襲われる。
 しかし、後に残された幼い娘は、自分たちがいないと生きていくことはできない。

 だから、宗太と玲子は残りの人生の全てを、この孫娘を育てていくことに使おうと決めたのだった。

 だが、悪いことは、続くものである。

 今度は、宗太が病に倒れた。
 律子の世話をしながら、玲子は必死に宗太の看病をした。だが、日ごとに宗太の容態は悪化していった。

 そして、その日。

「どうやら、僕はそう長くないみたいだよ」

 そう言って、弱々しく微笑む宗太。

「しっかりして下さい、兄さん」
「いや、自分の体だから少しはわかる。もう駄目みたいだ」
「そんな。兄さんがいなくなってしまったら、私はひとりになってしまいます」

 そう言って、力なく首を振る玲子。

「まだ、律子がいる。あの子を頼むよ、玲子」
「兄さん……」

 枕元に座る妹の目から涙がこぼれ落ちた。

「泣かないでおくれ、玲子」
「でも、でもっ」

 涙を流し続ける妹の姿をじっと見つめる宗太。
 しばらくそうしていた後、宗太の方から静かに口を開いた。

「最後に、僕のわがままを聞いてくれるかな、玲子?」
「な、何ですか、兄さん?」

 涙で濡れた顔で玲子が尋ね返すと、宗太が、ゆっくりとその言葉を告げる。

「命令だ、玲子。笑ってくれ」

 それは、数十年ぶりに宗太から玲子に発せられた『命令』。
 そして、それは、宗太が玲子のためではなく、自分のために発した初めての『命令』だった。

 ふたりの間の時間が遡った。そんな気がした。

「かしこまりました、宗太様」

 まだ、涙の跡を残しながら、そう言って微笑む玲子。その顔は、少しだけ若返ったように見えた。
 それが、かつてと同じ、艶やかな笑みを宗太に向けている。

「うん、いい笑顔だよ、玲子」

 その笑顔を見て、宗太も満足そうに顔を綻ばせる。

「ありがとうございます、宗太様」

 笑みを浮かべたまま、宗太に礼を述べる玲子。
 それだけで、あたりの空気まで華やぐように感じられた。

「その笑顔で、僕を見送っておくれるかな?」
「よろしゅうございます」

 暖かい眼差しを玲子に注ぐ宗太。
 一方で玲子は、主人の命令通り、目を細めて、艶めかしく、たおやかな笑み浮かべている。

「玲子、僕からの最後の命令だ。律子を、幸せにしてやってくれ」
「かしこまりました。お任せ下さいませ」

 今の玲子は奴隷状態だが、その記憶はそれが醒めてからも残る。
 おそらく、自分が死んでしまったら、玲子も生きていく張り合いを失ってしまうだろう。
 だが、それではまだ幼い孫娘がひとり取り残されてしまう。それはやはり哀れでならない。
 それに、せめて律子を育てることを心の支えにして、玲子には少しでも長生きして欲しい。
 それがわかっている宗太は、最後に孫娘のことを玲子に託す。

「頼んだよ、玲子」

 そう言うと、宗太は手を伸ばしてその頬を撫でる。
 玲子は、嬉しそうな表情で宗太に撫でられるがままに任せている。

「じゃあ、僕はそろそろいくよ」
「いってらっしゃいませ、宗太様」

 命令の通りに、玲子は変わらぬ笑顔を主人に向け続けている。

「ありがとう、玲子。君がいてくれて……本当に…よかっ…た」

 そして、宗太は静かに目を閉じた。

 玲子は、まるでちょっと出かけてくる相手を見送るように静かに頭を下げる。
 そのまま枕元で三つ指を突き、深々と頭を下げている玲子。

 やがて、その体が小刻みに震え始めた。
 ようやく体を起こした玲子の顔からはさっきまでの笑みが消え、再び涙が溢れそうになっていた。

「お礼を、言いたかったのは、私の方です、兄さん」

 玲子は、自分の右の掌を見る。

 そこにあるはずの、長年、自分と兄とを繋ぎ止めていた証が消えていた。
 今、そこにあるのは、ただ、年輪を重ねて皺の増えた、何の変哲もない女の手。
 その、掌の上に、ポタリ、ポタリと涙の滴がこぼれ落ちる。

 玲子は、もう一度兄を見る。その顔は、穏やかな笑みを浮かべて、まるで眠っているかのようだった。
 涙を溢れさせる玲子の目に、愛おしげな光が宿る。そして、ゆっくりとその口が開いた。

「今までありがとうございます、兄さん」

 慈しむように、兄の頬を撫でる玲子。

「さようなら、私の、ご主人様。そして、最愛の、人……」

 玲子は、喉の奥から絞り出すような声で、ゆっくりと、人生の伴侶に別れを告げる。
 その頬を、止め処なく涙が流れ落ちていっていた。

* * *

 兄の死後、玲子は自分が急に老け込んだように思えた。
 そして、何もする気が起きず、ぼんやりと座り込んでいることが多くなった。
 そうしている時、思い出しているのはたいてい兄との想い出だった。

「ばぁば?」

 ふと気付くと、最近、少しずつ言葉を喋るようになった律子が、玲子の顔を見上げていた。
 玲子は、孫娘に笑顔を見せると、膝の上に乗せる。
 自分の顔を見上げて笑う律子。その髪は、かつて一度だけ会ったことがある、この子の母親と同じ、色素の薄い淡い色をしていた。そして、その、澄み切った黒い瞳は、若い頃の自分とよく似ていた。

 ともすれば、生きる気力を失いそうになる玲子を、今、支えているのは、この孫娘だった。
 この子は、自分と兄の愛の結晶である息子が残した唯一の形見。
 掌の印が消えた今となっては、律子こそが自分と兄が愛し合ったことを示す証であった。

 だが、律子も間違いなく犬坂の女である。
 だから、この子も誰かの奴隷にならなければ生きていくことができない。
 かつての自分と同じ運命が孫娘にも降りかかるのかと思うと、不憫でならなかった。
 しかし、律子を幸せにするのは、あの人の最後の命令でもある。

 いつしか、玲子の膝の上で、律子はすやすやと穏やかな寝息を立てていた。

 その、愛らしい寝顔を眺めながら玲子は思う。
 いつか、律子にも犬坂の女の運命のことを教えなければならない日が来る。
 だから、せめてこの子のことを幸せにしてくれる、優しい主人を見つけてあげよう。自分にとって、兄がそうであったように。

 自分のことを守り、愛してくれた兄の気持ちが、今の玲子には痛いほどにわかった。

「約束は必ず守ります、宗太様……」

 孫娘を抱きながら、無意識のうちに玲子はそう呟いていた。

< 完 >

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