戻れない、あの夏へ 第2話

第2話 幸せの影に

~4~

 翌日。

「おはようございます!」
「おはよう、結依ちゃん」
「おはようございます、先輩!」

 昼前に”チャイム”に入ってきた結依を、マスターと美穂が迎える。

「あ、そうか、今日は美穂ちゃんが早番だったのね」
「はいっ、そうです!」
「昨日は遅番だったのにえらいね、美穂ちゃんは」
「いえ、もう慣れましたから」

 平日のモーニング・タイムはかき入れ時のため、喫茶店は朝が早い。
 だから、早番だとかなり早い時間に起きて出勤しないといけない。
 それが嫌で辞めてしまったバイトが何人かいたことを結依は知っていた。
 たしか、昨日は遅番だったから、今朝起きるのは辛かっただろうに、美穂はいつもと同じ明るく人懐っこい笑顔を見せている。

「じゃあ、着替えてきますね」

 マスターに一声かけると、結依は控え室に入った。

「お待たせしました!」

 制服に着替えてから、結依は改めて挨拶するとカウンターの中に入る。

「さてと、結依ちゃんも来たことだし、休憩に行かせてもらおうかな」

 そう言うと、マスターは結依と入れ替わりでカウンターから出て、サロンを外す。

「どうぞ、行ってきてください、マスター」
「ゆっくりしてきてくださいね」
「うん、じゃあ、留守番頼むよ、結依ちゃん」
「はい!任せてください」

 マスターは、結依に店を任せると、昼休みを取りに行く。
 この時間、店内に客はなく、後に残ったのは、結依と美穂の女の子ふたりだけ。

「美穂ちゃんは休憩もらったの?」
「はい!モーニングのお客さんが一段落ついて、後片付けが終わってから休憩いただきました」
「そうなんだ。朝番って、早い時間に休憩行くから、その後が長いのよね」
「そうですよね~」

 結依が美穂とそんな会話をしていると、ドアについている鈴が鳴る音がした。

「いらっしゃいませ!あっ、津雲さん!」

 入って来た客の姿を見て、結依の声が弾む。

「こんにちは、ユイちゃん」

 結依に挨拶を返しながら、津雲はいつもの指定席に座る。

「いらっしゃいませ、津雲さん!」
「おや、今日はミホちゃんもいるのか。ということは、今日はマスターは?」
「今、お昼休みに行ってます。あ、それと、津雲さん、昨日はありがとうございました!」
「昨日……て?」
「いやだ、津雲さんったら。津雲さんの占いのおかげで本当に助かりました」
「お、ということは……」
「はい!ばっちり当たりです!」
「……先輩も津雲さんも何の話をしてるんですか?」

 結依と津雲の会話についてこれない美穂が首を傾げながら訊ねてくる。

「ああ、そう言えばあの時、美穂ちゃんはいなかったわよね。あのね、昨日美穂ちゃんが来る前にね……」

 結依が、美穂に昨日のことを説明する。

「へええ、津雲さんの占いが当たったんですか」
「で、何を占ってもらったんですか?」
「ええっと、いや、それはねっ……」

 結依が、顔を真っ赤にして口ごもる。

「ああっ、わかった!先輩がこの間どうしようか悩んでるって言ってたあれですね!」
「わっ、わっ!美穂ちゃんったら!」

 まだ、プレゼントが決まらなくて悩んでいた時に、男の子がもらって喜ぶものを美穂にも訊いていたから、結依の悩みの内容を彼女は知っていた。
 それをばらされると思って、結依が慌てて美穂の言葉を遮る。

「え?なになに?実は僕もユイちゃんの悩みがなんだったのか知らないんだ。教えてよ」
「ええっ、津雲さん、それも聞かないで占いを当てたんですか!?」

 津雲の言葉に美穂が目を丸くする。

「まあね。昨日のはユイちゃんの悩みを解決するヒントがだけだったからね」
「いや、それでもすごいですよ」
「でも、ちゃんとやればもっといろいろなことがわかるし、もっと正確な占いもできるんだよ」
「ちゃんとやるって、どんなのですか」
「いや、単に時間をかけるってだけで、要領は昨日と一緒だよ」
「へえー。先輩!ちょっとやってみてもらいませんか?」

 そう言って、妙に感心したようにはしゃぐ美穂。

「でも、今はお仕事中だし……」
「大丈夫ですよ!他にお客さんもいませんし、ちょっとだけなら!」
「そ、そうかしら」
「ね、いいですよね!津雲さん!」
「ああ。僕はかまわないよ」
「決まりですね、先輩!」
「まあ、少しだけならいいかしら」

 たしかに、昨日はあれだけで私の悩みを解決してくれたんですもの。ちゃんとやったらどんなことまでわかるのかしら。

 強引に誘われて、結依も美穂の言葉に同意する。
 なにより、昨日の占いが当たったことで、結依も津雲の占いには興味が湧いていた。

「じゃあ、まず先輩から見てもらってください!」
「え?私は昨日も占ってもらってるから、美穂ちゃんが先に……」
「私は後でいいですから、どうぞ先輩が先に占ってもらってください」

 美穂は、そう言って結依の背中を押してカウンターの外に出す。

「ちょ、ちょっと、美穂ちゃん?」
「いえ、私は本当に後でいいですから!」
「そ、そう?」
「じゃあ、こっちのテーブルに座ってくれるかな、ユイちゃん」
「は、はい」

 結依を奥のテーブル席に座らせると、津雲はその向かいに座る。

「いいかい、じゃあ、始めるよ」

 そう言うと、津雲は昨日と同じように結依の目の前に手のひらを突き出した。

「さあ、僕の手を見つめて」
「はい」

 言われるままに、結依は津雲の手のひらをじっと見つめる。

「そうそう。それと、もうちょっと肩の力を抜いてくれるかな?」
「は、はい……」
「そう、そんな感じ。もっとリラックスして、でも、僕の手から目を離しちゃだめだよ。どうだい、なんだか気分が楽になったように思わないかい?」
「そうですね。なんだかすごくリラックスできてる感じがします」
「うん。じゃあ、もっと楽にして。そうそう、ふわーっとした感じで」
「……はい」

 本当に楽な気持ち……なんだか眠たくなっちゃうわ……。

 津雲の手を見つめたまま、結依の表情が眠たそうになってきた。
 瞼が重たそうにふるふると震えている。

「眠ったらだめだよ、ユイちゃん。目を開けて、僕の目を見たままで、意識だけを楽にしていくんだ。ほら、どんどん楽になっていく」
「……はい」

 結依の返事する声から、抑揚が無くなっていく。
 津雲の目を見つめているものの、焦点が合わないように瞳孔が小さく震え始めた。

「さあ、どんどん気持ちが楽になっていく。僕の声が聞こえるだろう。ほーら、僕の声を聞いていると、どんどん気持ちよくなっていく」
「……はい」

 ……津雲さんの声が……心の中に……染み込んでくるみたい。
 ……でも、なんでだろう……この声を聞いてると……とても気持ちいい。

 結依の口許が、笑っているかのように緩む。
 一方で、その瞳からはどんどん光が失われていっているように見えた。

「僕の声を聞いていると、すごく気持ちよくなって。もっと僕の声を聞きたくなる」
「……はい」

 ……聞きたい……もっと津雲さんの声を聞いていたい。

「もう、きみには僕の声しか聞こえない。さあ、僕がこの手を閉じると、きみの意識も閉じて、僕の声だけがきみの全てになる。他のことは聞こえないし感じない。僕の言葉に答えて、僕の言葉の通りにするのが気持ちよくてしかたがなくなる。いいかな?」
「……はい」

 ……津雲さんの声しか聞こえない……もっと、もっとこの声を聞いていたい……そう、この声だけが私の全て……。

「じゃあ、行くよ」

 津雲が、結依の前に広げた手のひらをゆっくりと握る。

 そして、結依の目の前は真っ暗になった。

「ふう」

 突き出した手を引っ込めると、ひとつ息を吐いて津雲は美穂と笑みを交わす。

 結依は椅子に座ったまま身じろぎもしない。
 その目は開いているものの、何も見えていないかのようだ。
 さっきまで、焦点が合わないように小さく揺れていた瞳孔の震えは治まっているものの、光が完全に失われて霞んでいる。

「僕の声が聞こえるかい?」
「……はい」

 津雲が話しかけると、力のない返事が返ってくる。
 だが、津雲の声を聞いた瞬間、うっすらと笑みを浮かべた。

「きみの名前は?」
「……椙森……結依です」
「きみの仕事は?」
「……喫茶店の……店員です」

 津雲は、すでに知っている事を大事なことのように聞いていく。
 だが、結依はそんなことなど関係ないかのように、虚ろな瞳に、口許に笑みを浮かべたまま質問に答えていく。

 そして、津雲はさらに質問を続けていく。
 好きな色や食べ物といった他愛のないものから、結依の住所といったものまで。
 もちろん、結依がどのあたりに住んでいるのか、そして、彼氏がいて、その誕生日が近づいていて、そのプレゼントに悩んでいたということも、全て美穂から聞いて津雲は知っていた。そのために美穂をここで働かせているのだから。
 だからこそ、昨日、占いに見せかけて結依を自分の店に行かせるように誘導したのだから。
 そして、今、占いをされていると思い込んで、催眠術に堕ちてしまった結依が目の前にいる。

 そして。

「きみには恋人がいるね?」
「……はい」
「名前は?」
「……山下……宏平です」

 普段なら恥ずかしがって答えないような質問にも結依は素直に答えていく。
 うっとりとした笑みを浮かべて、津雲の質問に答えるのが心地よくてしかたがないといった表情だ。

 津雲はさらに、宏平の勤め先や住所など、美穂でも得ることができなかったことを訊いていく。

 そして、宏平に関する情報をひととおり訊くと、またもや質問を変えていく。

「僕のことをどう思う?」
「……津雲さんは……大人の雰囲気があって、話し上手で……素敵な人だと思います」
「じゃあ、嫌いではないんだね?」
「……はい」

 結依の返事に、津雲は満足そうに頷く。

「よし、いい子だ。じゃあ、ご褒美をあげよう」
「……ご褒美?」
「ああ。きみは、僕と一緒にいて会話をしていると、すごく幸せな気持ちになれる」
「……はい」
「どうだい?こうやって話をしていると、幸せだろう」
「……はい。すごく、幸せ……です」

 そう答えて、また結依の口許が緩む。

「それだけじゃない、僕の体に触れると、それがどこでもすごく気持ちよく感じて、もっと幸せな気持ちになれる」
「……津雲さんに触れると。……はい」
「例えばこんな感じだよ」
「……あっ」

 津雲が手を伸ばして結依の頬に触れると、虚ろなままその瞳が揺れる。

「気持ちいいかい?」
「……はい。……とっても気持ち……いいです」

 頬を撫でられて、結依はふにゃりとした笑みを浮かべる。

「うん。本当にいい子だね。僕の体のどこが触れても、きみはそうやって気持ちよく感じるんだよ」
「……どこでも?」
「そうだよ。たとえばこんな風にね」

 津雲は立ち上がると、結依のすぐ目の前に立つ。

 いつの間にか、美穂がカウンターから出て入り口の近くに立つと、入ってくる者がいないか見張っていた。

 大丈夫だという美穂の合図を確認してから、津雲がズボンのファスナーを下ろすと、そこからすでに少し大きくなった肉棒を掴み出す。

「これがなんだかわかるかい?」
「……津雲さんの……おちんちんです」
「彼のと比べてどうかな?」
「……わかりません」
「どうして?」
「……私……宏ちゃんと……セックスしたことないし。……男の人のおちんちんを……こんなに近くで見るの……初めてです」

 その返答に、津雲はにやりと笑みを浮かべる。

「そうかい。まあいい。でも、僕のこんなところでも、触れるときみはとても気持ちよく感じるよ」
「……んっ、あっ、ああっ」

 津雲が肉棒を結依の頬に当てると、その体がピクンと震えた。

「どう?気持ちいいかい?」
「……んんっ……はい……気持ちいいです」

 肉棒で頬を撫でられながら、結依がトロンとした表情で笑っている。
 だが、顔は笑っているのに、瞳は虚ろなままで、理性を感じさせない笑みだ。
 童顔の結依の、そのふっくらとした頬がほんのりと赤く染まっている。

「それに、その匂いもきみを気持ちよくさせるよ。ほら、嗅いでごらん、気持ちよくなれるから」
「……はい」

 結依は、肉棒に鼻を近づけて、くんくんとその匂いを嗅ぐ。
 そして、また、ふにゃりと蕩けた笑みを浮かべる。

「どうだい?気持ちいいだろう?」
「……はい」
「その匂いをきみは大好きになる。その匂いを嗅いでいると、とても気持ちよくなって、しゃぶりつきたくなるよ」
「……ん……ふんふん……ああ……」

 肉棒の匂いを嗅ぎながら、結依が切なそうに呻く。

「さあ、いいんだよ、自分のやりたいようにすれば」
「……はい……あむ……んふ、ちゅば」

 結依は、肉棒を、はむ、と咥えると、舌を絡めてくる。

「……んふ、んむ、ちゅぼ、んむ」
「それに、その味だ。その味を感じていると、きみはとても気持ちよくなって、そして、すごくいやらしい気分になってくる」
「……ん、ふぁい……はむ、れろ、ちゅぱ」

 表情を蕩けさせて、熱心に肉棒をしゃぶり始める結依。
 肉棒を咥えながら、体をもぞもぞとさせ始めた。

「ちゅぼ、んむ、ん、あふ。……あ」

 しゃぶるのに夢中になっているときに肉棒を離されて、結依が残念そうな表情を浮かべる。
 そして、虚ろな瞳で津雲の方を見上げた。

「どうしたんだい?まだしゃぶっていたいのかい?」
「……はい。津雲さんのおちんちん……おいしくて……ずっとしゃぶっていたくて……」
「そうかい。残念だけど、続きはまた今度だな」
「……また……今度」
「この続きがしたいかい?」
「……はい」

 物欲しそうに口を半開きにして、霞のかかったような力のない瞳で津雲を見上げて結依がこくりと頷く。

「だったら、この匂いと味を覚えておくんだ。この匂いを嗅いだら、きみはとってもいやらしい気持ちになって、この味を感じると、気持ちよくなってもっといやらしくなれるから」
「……はい」
「うん。じゃあ、約束事を決めておこう」
「……約束事?」
「きみは今、とってもいい気持ちだろう?」
「……はい」
「その、気持ちのいい状態にいつでもなれるようにしてあげるよ」
「……?」
「僕に、”人形になれ、ユイちゃん”と言われたら、いつでもきみは、今の、僕の声しか聞こえない気持ちのいい状態になれる」
「……津雲さんに言われると……はい」
「そして、僕が、”目を覚ませ、ユイちゃん”って言ったら目を覚ましていつも通りの結依ちゃんに戻るよ」
「……はい」
「うん、いい子だ」

 津雲は、そう言って結依の頭を撫でた。
 それだけで、結依は気持ちよさそうに表情を緩める。

 それを確認すると、津雲は肉棒をしまい込み、身支度を整える。
 そして、美穂に手渡されたおしぼりで、涎にまみれた結依の顔を拭ってやる。

「じゃあ、とりあえず今のことは記憶の奥にしまっておこうか」
「……はい」

「それじゃあ、”目を覚ませ、ユイちゃん”」
「……え?あ、あれ?……私?」

 我に返った結依が、戸惑ったように周りを見回す。

「もう、占いの途中に眠ったらだめじゃないか」
「え?あっ、ご、ごめんなさい」
「でも、今の占いでいろんなことがわかったよ」
「ええっ!?そうなんですか?」
「うん。そうか、ユイちゃんの悩みって彼氏へのプレゼントのことだったんだね」
「えええっ!そ、そんなことまでわかるんですか!?」
「うん。なるほど、誕生日が6日後なんだね、彼」
「えええっ!そんなことまで!?」
「それだけじゃないよ。そうだね、ユイちゃんの彼氏の名前は……」
「わわわっ!つっ、津雲さんっ!」

 顔を真っ赤にして、結依が立ち上がる。

「ははは、言わないよ。……あ、お客さんみたいだよ、ユイちゃん」
「え?あ、いらっしゃいませ!」

 ドアの鈴が鳴る音がして、客がひとり入ってきた。
 結依は、客に挨拶をすると、急いでカウンターの中に入る。

 結依に気づかれないように、津雲と美穂が含み笑いを交わす。
 そして、津雲はカウンターのいつもの席に座る。

「あー、そういえば僕も注文まだだったね。いつものをひとつ」
「はいっ!」

 結依が、手際よくコーヒーを淹れる準備を始める。
 それを手伝うために、美穂もカウンターの中に入っていった。

~5~

 その日の晩。

「お疲れさま、宏ちゃん」

 携帯に耳を当て、結依は宏平にお帰りのコールをかけていた。

「今日も残業だったのね」
「ああ」
「宏ちゃん、最近、残業多くない?」
「うん。このところ、ちょっと忙しくて」
「大丈夫?宏ちゃん?」
「ああ。俺の誕生日の時にはちゃんと定時で終われるようにするから」
「もうっ!そういうことじゃなくて!」

 ……宏ちゃん、すぐに無理するから、体を壊さないか心配なのよ。

「ははは。本当に大丈夫だから。……ありがとうな、結依」
「うん……」
「じゃ、おやすみ」
「うん、おやすみ、宏ちゃん」

 通話を切ると、結依は携帯をそっと胸に抱く。

 誕生日の時は、スタミナがつくものを作ってあげないと……。

 このところ、宏平は残業が多くて週末くらいしか会うことができない。
 なかなか会えない寂しさはあるけれど、結依は、それを不満に思うことはなかった。
 むしろ、宏平の体のことを心配に思う気持ちの方が強かった。

 そして、宏平の誕生日の前日。

 その日、いつものように、”チャイム”のカウンターでコーヒーを飲んでいる津雲。
 相変わらず、仕事のことを気にする素振りもなく結依やマスターとおしゃべりを続けていた。

「さてと、じゃあ、そろそろ帰るとするかな」

 夕方になって、ようやく津雲が腰を上げる。

「いつもありがとうございます。あ、そうだ。明日は私お休みなので……」
「休み?ああ、そうか、そうだったね。明日は彼氏の……」
「やだっ、もうっ、津雲さんったら」
「はははっ、冗談だよ。じゃあ、またね」

 津雲が手を振って外に出ようとした時、ドアの鈴が鳴ってひとりの女性が入ってきた。
 仕事帰りのOL風の格好で背が高く、ナチュラルショートの髪が、ほっそりとした肩から首筋によく合っていて、ボーイッシュな雰囲気を漂わせている。

「……きゃっ」
「おっと、ごめんなさい。……どうぞお先に」
「あ、すみません」

 津雲が脇に退いて通り道を空けると、その女性は軽く頭を下げてその前を通り過ぎる。
 それと入れ違いに、津雲はもう一度小さく手を振って店を出ていった。

「こんにちは、マスター」
「おや、久しぶりだね、飛鳥ちゃん」
「今日はもう仕事終わったの、飛鳥?」
「うん。あたしは今日早番だったからね」
「飛鳥は早く帰れていいわね。このところ、宏ちゃん残業が多くてなかなか会えないのよね」
「なに言ってんのよ。その分朝早く出勤してるんだからね、あたしは」

 飛鳥、と呼ばれた女性はカウンター席に座ると、マスターと結依と親しげに会話を始める。
 彼女、朝日奈飛鳥(あさひな あすか)は、大学時代の結依のサークル仲間で、学生時代には結依と一緒に”チャイム”でバイトをしていた。
 バイト時代、中性的な魅力のある彼女は一部の女性客に異常な人気がり、おっとりとして可愛らしい雰囲気の結依と並ぶこの店の2枚看板だったのだ。

「それよりもさ!明日は宏平の誕生日でしょ?デートの予定は?」

 身を乗り出して、からかうように飛鳥が聞いてくる。
 彼女は、結依と宏平の関係はよく知っていた。というよりか、大学時代に宏平を結依に紹介したのは飛鳥なのだ。

「もう、飛鳥こそなに言ってるのよ。明日は宏ちゃん仕事があるじゃないの」
「あ、そうか!いけない、あたし明日休みだから勘違いしちゃった」
「たいていの人は平日はお仕事よ。まったく、デパートに勤めてると普通の人と感覚が違ってくるのね」
「そうなのよー。休みが合わなくて、友達ともなかなか遊びにも行けないし、いい男と会う機会もないしさ」
「そういうところは大変よね、土日がお仕事っていうのも」
「まあ、あたしのことはさておいて、本当にデートもなにもしないの?」
「え、いや、明日の晩は宏ちゃんの部屋で一緒にご飯食べるんだけど」
「ええっ?それだけ?」
「宏ちゃんがね、私の手料理が食べたいんだって」
「まっ、ラブラブねっ!なに惚気ちゃってんのよ、この子は」
「なによー、飛鳥が言わせたんでしょ。それに、私の誕生日の時はちゃんとデートして、晩ご飯も宏ちゃんがごちそうしてくれるって」
「そっか、結依の誕生日は来月だもんね。そうかそうか、ふふふっ」
「飛鳥ったらなにニヤニヤしてるのよ?」
「いや、結依と宏平は着実に愛を育んでいるのね、って」
「もうっ、バカッ!」

 顔を真っ赤にして、結依が飛鳥の額をぺしっ、とはたく。

「はははっ、結依ったら真っ赤になっちゃって。あ~あ、あたしもカレシ欲しいなぁ~」
「なに言ってるんだい。飛鳥ちゃんならいくらでもいい男見つかるだろう?」
「だめだめ、マスター。仕事が忙しくてそんな暇ないのよ~。それに、ちょっといいかなって人がいても、普通のサラリーマンとデパート勤めじゃ休みが全然合わないのよね~」
「ふーん、そんなもんかねぇ。大変だね、飛鳥ちゃんも。はい、コーヒー」

 マスターにカップを差し出されて飛鳥が頭を下げる。

「ありがとうございます、マスター。でも、そう言ってくれるのはマスターだけよね」
「で、今日はなんか用があってきたの、飛鳥?」
「まあね、あたしは明日休みだし、たまには結依とご飯でも食べようかな~って」
「まあ、男が見つからないからって女の子を誘うなんて。でもだめよ、私には宏ちゃんがいるんだから」
「なに言ってんのよ?」
「冗談よ、冗談」
「いや、その冗談全然面白くないんだけど……。ね、だめ、今夜?」
「私はいいわよ。でも、仕事が終わるまで待っててね」
「いくらでも待つわよー。ついでに後片付けも手伝っちゃうから。ね、いいでしょ、マスター」
「んー、じゃあ、そうしてもらおうかな」
「よし、決まりね!じゃあ、エプロン借りますね!」

 そう言って立ち上がると、飛鳥は控え室の方に入っていく。
 勝手をよく知る昔の仕事場だけあってそこは慣れたものだ。

 そして、翌日。
 結依の部屋。

「ちょっと、その格好で行くの、結依?」

 身支度を整えていた結依に、飛鳥が口を挟んでくる。

 昨日、晩ご飯の後に結依の部屋に来た飛鳥は、帰るのが面倒になったと言ってそのまま泊まってしまったのだった。
 で、結局夕方近くまで結依の部屋でごろごろしていたのだ。

「え?なんで?」

 自分の身なりになにか具合の悪いところでもあるのかと首を傾げる結依。
 その格好は、青いチェックのチュニックにグレーのレギンスパンツで、別にこれといっておかしなところはない。

「まあ、その格好も可愛らしいんだけどね。でも、絶対スカートにするべきよ!宏平はパンツよりもスカートの方が好みなんだから」
「え?え?そうだったっけ?」
「もうっ、5年もつき合ってるのにそんなことも知らないの?」
「だって、宏ちゃんそういうこと言わないから」
「まあ、服装についてあれが好きだこれが嫌いだって口に出していうタイプじゃないわよね、あいつは。ほら、これこれ、このチェックのキュロットスカートなんかいいじゃない。ブラウスは、そうね、このリボンの付いたのなんかで」
「もう~、お節介だよ、飛鳥ちゃん」
「ほらほら、文句言わないの。そうだ、髪もリボンで留めようよ。色は、この赤いので、あたしが結んであげるね!」

 ぶつぶつ言っている結依を無理矢理着替えさせ、飛鳥はその髪にリボンを結んでいく。

 小学生の頃から幼なじみだったから、飛鳥は宏平の好みは大体知っていた。
 それだけではない、結依には言っていないことだが、高校生の頃、飛鳥と宏平はつき合っていた時期があったのだ。

 幼なじみの宏平に好意を持っていたのはいつの頃からだろうか。
 高校1年の冬に、つき合おう、と言い出したのは飛鳥の方からだった。
 そして、やっぱり別れましょう、と言ったのも飛鳥だった。

「勝手だよ、飛鳥は……」
「……うん」

 夏休みも終わりが近づいた頃、近所の土手に並んで腰掛けている飛鳥と宏平。
 たった今、飛鳥が別れを切り出したところだった。

 小さい頃から遊んでいて、互いの性格はよく知っていたはずなのに。
 友達としてはうまくいっていても、恋人同士としてはうまくいかなかった。
 飛鳥には、宏平の生真面目なところも、ともすれば息苦しく感じるし、優しい性格も時に優柔不断に思えることがあった。
 宏平の方も、表情には出さないものの、奔放で男勝りな飛鳥に振り回されている感があった。

 だから、決定的にだめになってしまう前に別れた方がいいと飛鳥は思ったのだ。

「ねえ、宏平」
「なんだよ?」
「これからも、友達ではいてよね」
「……本当に勝手だよ、おまえは」
「……うん。ごめんね、宏平」

 傾いた夕日が、辺りを真っ赤に染め上げる中、飛鳥は、泣きそうな顔で頷くことしかできなかった。

「飛鳥……。なにボーっとしてるの、飛鳥?」
「え?あ、ごめんごめん」
「もう~!ほら、どう?」

 結依が唇を尖らせながら飛鳥の前でポーズをとる。

 飛鳥の見立てた、リボンの付いた白いブラウスに、茶色がベースになったタータンチェックのキュロットスカート。
 ふんわりとウェーブのかかった、一瞬茶髪にも見える淡い色の結依の髪とよく似合っている。
 少し丸みのある童顔に、ちょっと大きめの赤いリボン。

「……うん、これは今年で25才の女には見えないわね。どう見ても女子高生だわ」
「もうっ!飛鳥がこれ選んだんだからね!」
「うんうん、でも、こんな可愛らしい感じの格好、宏平は絶対に好きだから。ていうか、なんでそんなに若く見えるのよ。ちょっとむかつくわね~」
「もうっ、飛鳥ったら!もう出るわよっ」
「はいはい、っと。……ん?それ、もしかして宏平へのプレゼント?」

 部屋を出た結依が、見慣れない紙袋を提げているのに飛鳥は気づいた。

「うん」
「ね、ね、なに買ったの?」
「ネクタイとシャツだよ」
「……なにそれ?結婚して5年くらいたった夫婦みたい」
「ちっ、違うわよっ!スーツに合わせる見たのじゃなくて、ファッション系のもっとおしゃれなのだもん!」
「ほほーう、彼氏に万年筆プレゼントしてた結依にしてはすごい進歩じゃないの~」
「やだもう、からかわないでよっ」
「ははは、ごめんごめん。でも、ホントにどんなの選んだの?ここで開けて見れないのが残念だわ」
「今度、宏ちゃんに着てるとこ見せてもらえば?」
「おや、それはあんたたちのデートにあたしもついて行っていいってこと?」
「誰もそんなこと言ってないでしょ!」

 結依が、飛鳥をパタパタとはたく。

「冗談よっ、冗談だって」
「もう~!……じゃあ、宏ちゃんの家、こっちだから」
「うん。じゃ、補導されないでね、結依」
「飛鳥のバカッ!」
「はははっ!じゃ、またね!」
「うん、またね!」

 交差点で右に曲がり、宏平の部屋に向かう結依に手を振る飛鳥。

 飛鳥のわがままを聞いて、宏平はずっと友達でいてくれた。
 そんな宏平の優しさを、飛鳥は心の底でありがたく思っていた。

 そんな宏平に、大学のサークルで知り合った結依を紹介したのは飛鳥だった。
 自分とはうまくいかなかったけど、宏平の生真面目な性格は、おっとりとしていて、優しくて根が真面目な結依となら合うと思ったからだ。
 そんな飛鳥の予感は当たって、ふたりはいいカップルになった。端から見ていても微笑ましいほどに。
 普段はふたりのことをからかっていても、ふたりがうまくいっていることが飛鳥には嬉しかった。

 宏平に別れを告げたあの日のことを、飛鳥は忘れることはできない。
 今でも、夕焼け空を見るとあの日のことを思い出して胸が締めつけられそうになる。

 今になって考えると、あの頃の自分も、そして宏平も子供だったと思う。
 でも、自由奔放な性格の自分と、真面目な性格の宏平では、あのままつき合っていても、どのみちそう長く続くことはなかっただろうと思う。

 だからこそ、結依と宏平には幸せになって欲しい。

 飛鳥は、そんな祈るような思いで、遠ざかる結依の後ろ姿を見送っていた。

* * *

 夜、宏平の部屋。

 腕によりをかけて作った晩ご飯を宏平とふたりで食べ終えた後、キッチンで後片づけをしている結依。
 宏平は、向こうでテレビを見ながら洗い物が終わるのを待っている。

「お待たせ、宏ちゃん」
「ん、サンキュな、洗い物までさせて」
「いいのよ、そんなこと」
「それと、ごちそうさま。うまかったよ」
「うん。……ねえ、宏ちゃん」
「ん?なに?」
「その……どうかな、今日の服?」

 やだ……私ったら、なに自分から訊いてるのよ……。

 そう言って、結依は恥ずかしそうに頬を赤らめた。

「え?……あ、そ、そうだな、か、可愛いよ」

 宏平の方も顔を赤くして、そうひとことだけ言う。

「あっ、ありがとう」

 いっそう顔を真っ赤にして、結依が下を向く。

 そのまま、赤い顔をして黙っているふたり。

 きっと、この場に飛鳥がいたら冷やかしのひとつも入れていただろう。

 よかった。宏ちゃんに可愛い、言ってもらっちゃった。これも、飛鳥のおかげね。

 嬉しさと恥ずかしさで、結依の頭はのぼせたようにポーッとしていた。
 よく考えたら、服装のことで宏平が結依のことを褒めなかったことはないというのに。

 

「あっ、そうだっ!」

 我に返った結依が、隅に置いていた紙袋を思い出したように取り上げる。

 会ってすぐではなくて、食事の後に渡そうと、最初から決めていた。

「はい、誕生日おめでとう、宏ちゃん」
「あ、ありがとう」

 紙袋を受け取ると、宏平はまずネクタイの方から包装を解く。

 ……どうかな?宏ちゃん、気に入ってくれるかな?

 いつものことだけど、相手がプレゼントの包装を解くときはドキドキしてくる。
 初めて買った物を贈る今回はなおさらだ。

「お、ネクタイか……」
「うん」
「こんな派手なネクタイ、いつするんだろう?仕事にはとてもじゃないけどしていけないよな……」

 ネクタイを手に、宏平は首を捻っている。
 宏平がそういう反応をすることは予想できていたが、やっぱりじれったい。

「もうっ、宏ちゃんったら。それは仕事用じゃないわよ」
「っていうと?」
「ファッションネクタイっていうのよ。フォーマルなところでするんじゃなくて、普段着でするおしゃれ用なの」
「普段着……て言っても」
「だから、こっちも開けて」
「う、うん」

 要領を得ないながらも、宏平はシャツの方の包みも開ける。

「へえ、このシャツ……」
「ね、この濃いめの青だと、ネクタイのレモン色がアクセントになってよく合うでしょ」

 その説明は、この間、結依が”ラ・プッペ”の店員に聞いた話そのものだ。

「そ、そうかもな……」
「ね、ちょっと着てみてよ」
「お、おう」

 結依に勧められるまま、プレゼントのシャツを身につけていく宏平。

「ええとね、こう、第1ボタンは外して、そして、ネクタイをしてみて……あ、そんなにぴっちりと締めなくて、ちょっと緩めるような感じで……そうそう、それでね、時々着てるあのジャケットを羽織ってみて」
「うん……」

 少し戸惑い気味の宏平に、結依が着付けさせていく。
 もっとも、結依の言っていることも、そのまま”ラ・プッペ”の店員から聞いた話の受け売りなのだが。

 プレゼントのシャツとネクタイは、結依もびっくりするくらい宏平に似合っていた。

 うわ……宏ちゃん、カッコいい……。

 いつもの、真面目さと人の良さが滲み出ているような雰囲気ではなくて、ちょっとクールな感じで、こんな宏平は見たことがない。

「ほら、カッコいいよ、宏ちゃん!こっち来て鏡見てみてよ!」

 結依が手を引いて、鏡の前に立たせる。

「へええ……こんな感じになるんだ。なんか、こういう格好したことないからピンとこないな……」
「すごく似合ってるよ、宏ちゃん!雰囲気が全然違って見えるよ!」
「そ、そうかな?」
「うん!いつもの優しそうな宏ちゃんもいいけど、こっちもカッコよくていいよ!」
「そ、そうか。……ありがとうな、結依」

 宏平がそっと結依の体を抱く。
 まるで、触ると壊れそうなものでも抱くように、優しく。

「……うん」

 宏平の胸に顔を埋めて、結依が頷く。

「なあ、結依」
「なに?……あ、んん」

 自分より背の高い宏平の顔を見上げると、結依の唇にそっと宏平がキスしてきた。

 いつも、それが精一杯。
 宏平と結依は、キスまでしかしたことがなかった。
 真面目な性格のふたりには、まだそこまでしかできない。

 しかし、それでも結依は幸せな思いでいっぱいだった。

 ……その時までは。

< 続く >

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