第3話 妹交換日記 1日目
あの調理実習の日から1週間が経った。
あれから、空は特に変わったことをする気配はない。
だからといって、全く油断できないんだけど。
それに、毎朝の恒例行事はそのままだし。
「お、来たな、ふたりとも」
「あっ、おはよっ、陸!空!」
「空ちゃん、陸くん、おはよ」
朝、教室に入ると亜希たちがあいさつしながら寄ってくる。
その後は、もちろん3人からのキスだ。
僕の唇に、亜希、明日菜、羽実の唇が次々と触れる柔らかい感触。
それにはもうすっかり慣れたし、驚くこともないんだけど。
ただ、あの調理実習の次の日から、羽実にキスをされると妙にドキドキしたりする。
「ちゅ……ん……」
「ちゅ……どうしたの?陸くん?」
「え?あ、なんでもないよ、羽実」
顔が熱くなって、どぎまぎしてると、不思議そうに羽実が首を傾げてくる。
それは、羽実にとっては普通に朝のあいさつをしただけなんだろうけど、僕にとってはそうじゃない。
そんなドキドキを慌ててごまかす僕の挙動は、自分で考えても怪しいと思う。
しかも、この数日で変わったことがもうひとつ。
「おはよう!陸くん!……ちゅっ!」
「元気?陸くん……ちゅ」
「わたしもっ!……ちゅ!」
「陸くん!あたしにもっ!……ちゅっ」
山瀬さん、田口さん、浅野さん、平山さんがたて続けにキスしてくる。
……そう。
毎朝交わされる不毛な会話の結果、僕とおはようの挨拶をしたいという子は、羽実たちを含めて7人になっていた。
そのせいで、僕はますます男子からの冷やかしと羨望の対象になってるんだけど。
それは、それだけの子から好意を持たれてるってことなんだろうけど、素直に喜べるものでもない。
「おはよう、空、ちゅっ!…………ん?あれ、そういえば変よね?」
「なにが?」
「空が陸にキスしてるの、見たことないんだけど」
空とキスを済ませた平山さんが、いきなりそんなことを言い出した。
て、そんなこと言われても、するわけないよ。
なにが悲しくて、朝から兄妹同士でキスしなくちゃいけないんだか。
「あー、そう言えばそうよね」
「こんなに仲いいのにねー」
「たしかに変だわ」
僕と空を取り囲んでいるみんなが、平山さんの意見に一斉に頷く。
ていうか、こっちにしてみれば、朝から挨拶代わりにキスしてる方が変なんだけど。
「なに言ってんのよ、みんな。なにも変なことないじゃないの!」
みんなでがやがや言ってるところに、いきなり明日菜が進み出てきて胸を張った。
て、なに?
どうしたの、明日菜?
「陸と空は兄妹なんだから、キスは家で済ませてきてるに決まってるじゃない!」
そう、したり顔で明日菜は言い放つ。
でも、その意見は大きく間違ってるからね、明日菜。
て……ん?
なんか、空がじっとこっちを見てるんだけど。
それも、やけに真面目な顔で。
なんだろう?
どうかしたのかな?
なんか言いたいことでもあるのかな?
「……する?」
「しないよっ!」
ていうか、しなを作るんじゃない!
頬に指を当てて、妙に可愛い子ぶってるのがやたらとむかつく。
そうだよ。
空はこういうやつじゃないか。
周りに調子を合わせて、チャンスがあればすぐそれにかぶせて僕の日常を引っかき回してくる。
なにかあったのかと心配した僕が馬鹿だった……。
「ええっ!もしかしてっ、家でもしてないの!?」
いや、明日菜……。
別に、そんなに驚くことじゃないから。
「ねっ、ねっ、ホントはしてるんでしょ?」
「うん、まあ……」
しつこく訊いてくる明日菜に、適当に頷く。
なんかもう、家でしてることにしといた方が面倒がなくていい気がする。
はぁ……疲れる……。
なんで朝っぱらからこんなにぐったりしなきゃいけないんだろう?
それもこれも、全部空のせいなんだけど。
* * *
――放課後。
なんか、朝から精神的に疲れる思いをしたせいか、今日の授業はいつもより気怠かった気がする。
まあでも、とにかく朝のドタバタ以外は空が面倒な騒ぎを起こすことなく、無事に一日が終わった。
……て?あれ?
空がいない?
帰ろうとして、教室の中に空の姿がないのに気づいて、きょろきょろと辺りを見回す。
でも、どこにもいない。
……どこに行ったんだろ?
「どうしたの?帰らないの、陸?」
僕が空を探してると、鞄を提げた亜希が声を掛けてきた。
なんか、これから帰るって感じだけど、今日は水泳部の練習ないのかな?
「うん……空のやつ見なかった?…………へ?」
空がどこに行ったのか知らないかと思って訊いたら、いきなり亜希が僕の額に手を当ててきた。
「うーん、熱はないみたいだけど……」
「へ?……なにが?」
「だって、あたしはここにいるじゃないの」
亜希が、不思議そうに首を傾げる。
でも、なんで首を傾げてるのか全然わからない。
「……亜希?」
「亜希?亜希ならきっと水泳部の練習だと思うけど」
「……はい?」
亜希が、わけのわからないことを言い始める。
なんか、さっきから亜希と僕との会話が噛み合ってない気がするんだけど。
亜希の様子がおかしいことに戸惑ってると、明日菜と羽実が駆け寄ってきた。
「ふたりとも~、早く帰ろうよ~!」
「ねえ、どうかしたの、空ちゃん?」
「うん……さっきから陸の様子が変なんだよね」
空ちゃん!?
今、羽実は亜希に向かって空ちゃんって呼んでなかった?
「陸くんの様子が変って?」
「空を見なかったかって、あたしに訊いてくるんだよね」
「へ?どうしたの、陸?」
「陸くん?もしかして熱でもあるの?」
明日菜と羽実が、きょとんとした顔でほぼ同時に僕の額に手を伸ばしてきた。
「いやっ、別に熱なんかないから!」
「そうよね。別に、おでこも熱くないし……」
「でも、空ちゃんはここにいるのにね」
「でしょ?」
……これは?
もしかして……。
空のやつーーーっ!!
三者三様で首を傾げている亜希、明日菜、羽実の3人の姿を見ているうちに、やっと空のせいだと気がついた。
どうやら今、この場では亜希が空になっているらしいってことに。
間違いない。
きっと、催眠術で亜希は自分が空だって思わされてるんだ。
それに、明日菜と羽実も。
で、催眠術をかけた本人は雲隠れしたに決まってる。
「もうっ、空のやつったらなんてことするんだよ!」
「はい?あたしがなんかした?」
「いやっ、そうじゃなくて本物の空がっ」
「本物って、あたし以外に誰がいるのよ?」
「ねえ、陸、本当に大丈夫?」
「もしかして、頭でも打ったの?陸くん?」
ちょっと怒ってる様子の亜希と、本気で心配そうな顔をしてる明日菜と羽実。
「ねえ、保健室行く?」
「いやっ、なんでもないよ!大丈夫だから!」
……だめだ。
このままだと、僕がおかしいと思われちゃうよ。
「ホントに大丈夫なの?」
「うん、本当になんでもないよ。もう大丈夫だから」
「そう?ならいいんだけど……」
「空ー、陸なんともないってー」
「もう、人騒がせなんだから。さ、帰るよ、陸」
「わかったよ……」
3人はなんとかごまかしたものの、亜希が自分を空だと思い込んでいる状況はなにも変わってない。
亜希たちに腕を引かれながら、空がいないかと辺りをきょろきょろ見回す。
あいつのことだから、絶対に物陰に隠れてこの状況を見てると思うんだけど、見える範囲にはその姿はない。
「なにしてるのー、陸?早く行くよ」
「う、うん……」
いつものことだけど、何のつもりで空がこんなことをしてるのか全然わからない。
それに、この後どうするつもりなのか先が見えなくて、釈然としないまま亜希たちの後についていく。
そして……。
「じゃあ、またね!」
「うん……」
「また明日!」
「またね、明日菜ちゃん」
「空ちゃん、陸くん、また明日」
「うん、また明日」
「じゃあね、羽実」
明日菜と、そして羽実とも別れて僕と亜希だけになった。
ふたりきりになってみると、ますますこの状況に戸惑いを覚えてしまう。
本当に、空はなにを考えてるんだろう?
そもそも、空は今どこにいるんだ?
そうだ!携帯!
僕はスマホを取り出して空にコールする。
……………………。
だめだ、出ない。
なにやってるんだよ?
わざと出ないのか?
それとも、まさか亜希の代わりに水泳部の練習に行ってるとか?
いや、そんなわけはないか。
どこか離れたところから僕たちのことを見てるとか、そういった感じもないし。
……もしかして、先に家に帰ってるとか?
それはあり得るかもしれないな。
だって、このまま僕が亜希と一緒に帰ったら母さんが変に思うに決まってる。
だから、先に家に帰って、僕たちが帰ってきてから驚かそうとしてるとかね。
いつもみたいに、僕を困らせるだけ困らせてから亜希にかけた暗示を解くつもりなんだな……。
「ちょっと、なにボーッとしてるの、陸?」
気がつくと、少し先で亜希が立ち止まってこっちを見ていた。
考えながら歩いていたら、亜希からだいぶ遅れてしまってたんだ。
「えっ、あ、なんでもないよ」
「ほら、早く行くわよ」
「……うん」
少しペースを速めて亜希に追いつくと、ふたり並んで歩く。
やっぱり、亜希と一緒に家に帰るのは、なんか変な感じがする。
「ただいまー」
家に帰ると、空が待ちかまえてると思ったのに、予想は外れてその姿はなかった。
その代わりに、リビングから母さんの声がした。
「ただいま、お母さん」
「あ、お帰りなさい、陸、空」
「へっ……?」
母さん……?
ごく当たり前という感じで、母さんが僕たちを出迎える。
そして、亜希の方を見て、空って呼んだ。
「あら?どうしたの、陸?」
思わず素っ頓狂な声を上げた僕を見て、母さんが不思議そうな表情を浮かべた。
母さんも?
そんな……まさか……。
僕は、信じられない思いで黙ったまま亜希を指さす。
「空がどうかしたの?」
首を傾げながら、母さんがそう返してくる。
……間違いない。
母さんまで催眠術にかかってる。
空のやつ……いつの間に?
母さんまで亜希のことを空だと思ってる状況に、頭がくらくらしてくる。
「ねえ、空?陸の様子がなんか変なんだけど、あなたなにか知ってる?」
「そうなのよ。あたしもわからないんだけど、さっきから、ちょっと陸の様子がおかしいの」
「そう?……熱でもあるのかしら?」
「いや、熱なんてないから。なんでもないよ」
どうしてみんな熱があると思うんだよ。
どう見ても、おかしいのはみんなの方じゃないか。
ていうか、なに普通に親子の会話してるんだよ、ふたりとも。
ホントに、なんてことしてくれるんだよ、空……。
この間の調理実習に続くわけのわからない状況に、僕は軽い目眩を覚えていた。
そして、その後、いくら待っても空は帰ってこなかった。
* * *
「もしかして……?」
ふと思いついて、晩ご飯の前に亜希の家に電話を掛けてみる。
「……はい、水田です」
何回か呼び出し音が鳴ってから、亜希の母さんが電話に出た。
「あっ、こんばんは、陸です。日向陸です」
「あら、陸くん?久しぶりねぇ。たまには空ちゃんとうちに遊びに来なさいよ」
「え?……あの、そっちに今、空が行ってるんじゃないかと思って電話したんですけど?」
「空ちゃんが?来てないわよ」
あれ?てっきり、空のやつはそっちに行ってると思ってたんだけどな……。
「空ちゃんがどうかしたの?なんなら、亜希を呼んでくるけど」
「……はい?」
ええっと……。
亜希は今うちにいるんですけど?
あっ!そうかっ!
亜希は今、自分が空のつもりでうちにいるってことは、空は亜希になってるってことだな!
知らない間に母さんにも催眠術をかけてたくらいだから、亜希の家族にも催眠術をかけるなんてことはやりかねないぞ。
……なんかもう、ややこしくて頭が痛くなってきそうだ。
それにしても怖ろしいやつ。
どんだけとんでもないんだよ、あいつの催眠術は!?
「どうしたの、陸くん?」
「あっ、なんでもないです。とりあえず、亜希に代わってもらっていいですか?」
「じゃあ、ちょっと待っててね。呼んでくるから」
そう言って、電話口から保留音のメロディーが流れ始める。
だけど、待ち時間は思った以上に長かった。
”エリーゼのために”かな?
とにかく、もう10周は超えてると思うんだけど。
「あ、もしもし、陸くん?」
だいぶ待ってから電話に出たのは、亜希の母さんだった。
「はい?」
「ごめんね、陸くん。なんかね、亜希ったら手が離せないとか言って電話に出ようとしないのよ」
……このまましらばっくれるつもりだな。
「すみません。空のことで緊急の用事があるんで、どうしても代わってくれって言ってくれませんか?」
「わかったわ。もう少し待っててね」
もう一度、”エリーゼのために”が流れて待つことしばし。
「なによー、もう」
ようやく、電話口に出てきたのは、間違えようのない空の声だった。
「おまえ、なにしてるんだよ、そんなところで!?」
「なにって……なにが?」
「亜希にあんなことして!いや、亜希だけじゃなくて、羽実たちや、うちの母さんや亜希の母さんにも……いったいなんのつもりだよ!?」
「なに言ってるの?あたしは亜希だからね」
語気を強めて問い詰めても、空からの返事はふてぶてしいまでに白々しかった。
「だからおまえこそなに言ってるんだよ!おまえ、空だろうが!」
「なんのことかしら~?」
「おまえなぁっ!」
「とにかく、文句はまた今度聞くから~。今夜は、あたしはこっちで楽しくやるんで、陸も楽しみなよ~」
「あっ、おいっ!空!」
ブツッという音がして、電話を切られてしまった。
「くそっ!本当にどういうつもりなんだよ!?」
「……なにやってんの、陸?母さんが、もうすぐご飯できるって」
「うっ……」
沈黙した電話に向かって思わず悪態をついていると、すぐ後ろから亜希の声が聞こえた。
なんなんだよ~、この状況は?
くらくらしそうだよ……。
「どしたの、陸?」
「……いや、なんでもない」
そうだよ。
亜希はなにも悪くないじゃないか。
悪いのは全部空なんだから。
それでも、完全に空のつもりでいる亜希を見ていると、目眩を通り越して頭が痛くなりそうだ。
しかも、間の悪いことにちょうどその時父さんが帰ってきたりした。
「ただいま」
「あ、お帰りなさい、お父さん!」
「うん、ただいま、空」
父さんまでーーーーっ!?
亜希を見て、父さんは普通に空って呼んでる。
なんかもう、わけがわからなくて、僕はその場にしゃがみ込んでしまった。
「どうしたんだ、陸は?」
「んー、あたしもよくわからないけど、なんかさっきから様子が変なのよね」
何事もないみたいに、暢気に話をしてる父さんと亜希。
いや……僕の様子が変なんじゃなくて、みんなの様子がおかしいんだけど。
「どうした?なんかあったのか、陸?」
「……いや、なんでもないよ。お帰りなさい」
「お父さん!母さんがもうすぐご飯だって」
「うん、じゃあ、上着を脱いでくるかな」
そう言って、父さんは奥の部屋へと向かう。
「陸も早く来てよね」
「……うん」
しゃがみ込んだままの僕にそう言うと、亜希もダイニングルームの方に入っていった。
そして、少しの間頭を抱えていた僕も、しかたなく重い腰を上げる。
「うん、今日もおいしそう。いただきます!」
亜希が、弾んだ声を上げてパチンと手を合わせた。
今日も……て、いつもいるみたいに言うなよな。
本当になんなんだよ、これは……。
いつもと変わらないはずの、家族団欒の風景。
だけど、食卓を囲んでいるのは父さんと母さんと僕と、そして亜希……。
どういう状況だよ、これは!?
責任者出てこい!って叫びたいけど、その責任者は現在亜希の家に逃亡中ときている。
ていうか、晩ご飯の途中でいきなり「責任者出てこい!」って叫んだら、頭がおかしくなったと思われるに決まってるよ。
下手に会話に参加するとまた頭痛がしそうだから、とりあえず、僕は黙々とご飯を食べることにする。
そうしてると……。
「……あら?今日はご飯の減りが早いわねぇ?」
ジャーの中を見て、母さんが首を傾げる。
それはそうだろうなぁ……。
さっきから亜希がもりもり食べてるもん。
昔から、亜希は男の僕よりも食べる量が多い。
それなのに、体型はすらっとしてるんだから、さすが水泳部のエースだと思う。
それにしても、当の亜希はもぞもぞとなにか気にする素振りを見せてるんだけど……。
「どうかしたの、空?さっきからごそごそして?」
「うん、なんかね、シャツが窮屈な感じなのよね。ひょっとしてあたし、体が大きくなったのかな?」
母さんに訊かれて、亜希は首を傾げながらそんなことを言っている。
ちなみに、学校から帰ってきてから亜希は制服からTシャツに着替えていた。
たしかあれは空がよく部屋着で着てるシャツだけど。
体が大きくなったって、そりゃそうだよ。
そもそも亜希の方が空よりも身長があるし、ずっと運動してる分筋肉もついてるだろうし。
Tシャツだから多少は伸びると思うけど、空の服は亜希には小さすぎると思うよ。
「そうだな。そのシャツ、少し小さいんじゃないか?」
「あら、本当ね。……じゃあ、こんど新しい服を買ってあげないとね」
「ホント?やった!」
いや、ガッツポーズなんかしてるけど、それで本当に得するのは空だから。
「それにしても、今日は陸の元気がないな」
「そうよね、さっきから全然しゃべらないし」
「なんかあったのか?陸?」
「え?いや、別に……なんでもないよ」
ずっと黙ったままご飯を食べていたら、会話の矛先がこっちに向いてきた。
ていうか、この状況で僕にどんな会話をしろと?
「陸にも服買ってあげるからへそを曲げたらだめよ」
「いや、別にへそを曲げてるわけじゃないし」
僕が黙ってる理由は別にあるわけで、そんなことで機嫌を悪くしてるわけじゃない。
言いたいことは山ほどあるけど、本当のことを言っても、今のままじゃ誰も信じてくれないし。
状況としては、あの調理実習の時と同じ。
いや、あの時と違って空がいない分、本当にどうしようもない。
ああ……疲れる……。
なんで自分の家にいるのに、こんなに気疲れしなきゃいけないんだろ。
本当に、どういうつもりなんだよ、空は?
なにが「陸も楽しみなよ~」だ!?
こんなの、楽しめるわけないじゃないか!
* * *
そんなわけで、晩ご飯を食べ終えるとさっさとお風呂に入って自分の部屋にこもる。
とりあえず、今夜と明日の朝さえしのげばいいんだ。
明日には空も学校に来るだろうし、問題解決はそれからにしよう。
とりあえず、気を紛らすためにマンガでも読むことにした。
ベッドに上がって、背中を壁に凭れさせて両膝を立てて座り、脇にマンガを数巻積み上げる。
意外とそういうことには昔からうるさい空にいつも行儀が悪いって言われてるけど、このポジションでマンガを読むのが僕の一番のお気に入りだった。
「陸、ちょっといい?」
「ん?なに?……て、えええええっ!?」
不意に、ドアをノックする音がしたかと思うと、亜希が入ってきた。
ていうか、お風呂に入ってきたのかパジャマに着替えてるのはいいんだけど、ボタンを全然留めてなくて、前が全開じゃないか!
「ちょっと亜希……じゃなかった。おまえ、なんて格好してるんだよ!?」
「うーん、それがね、パジャマも少し小さくなってるみたいで、ボタンを留めるときついのよね」
「いや、だからって!」
ビックリしている僕をよそに、当の本人は特に気にしてる様子はない。
ていうか、はだけたパジャマの下、心なしかブラがきつそうに見えるんだけど。
「とにかく、それっ……!」
「ん?ああ、これー?なんかね、胸も大きくなっちゃったみたいなのよねー。とりあえずひととおり着けてみたけどどれもきつきつで、なんとか入るかなって感じなのがこれしかなかったのよ」
僕の方が、亜希の胸元を指さしてあうあうと狼狽えてるのに、見られてる本人は全く動じる様子もない。
そうか……ひととおり着けてみたんだ。
いや、当然って言えば当然だけど、亜希と空じゃ胸の大きさが全然違うからきついに決まってるじゃないか。
むしろ、よく入るのがあったなと思うくらいだよ。
巨乳の明日菜だったら絶対に無理だよな……。
いやいやっ!そうじゃなくて!
「いちおう僕だって男なんだから、目の前でそんな格好するなよな!」
「兄妹なんだからいいじゃないの、これくらい。別に裸じゃないんだし」
「よくないよ!」
ていうか、そもそも兄妹じゃないし。
て……ん?
じゃあ、兄妹じゃないからいいの?
いやいやいや!
兄妹だろうがなかろうがよくないって!
……ああもう、ホントにわけわかんないよ。
「なになに?妹のブラ見て興奮してるの、陸?」
「べ、別に興奮してなんかないって」
それはちょっと強がりだけど。
でも、この間の調理実習の時にはもっとすごい格好してるの見てたからね。
「ふふっ、だめだよ、強がってるの丸わかりだから!陸ってそういう時、耳が真っ赤になるからすぐわかるの!」
そう言って、亜希はくすくすと笑う。
空の、余裕たっぷりに鼻で笑うような感じじゃなくて、いかにも楽しそうな感じの笑い方だ。
涼しげに細めた目も、空とは全然違ってる。
「もう、陸ったらかわいいとこがあるんだから!」
「いや、女にかわいいって言われても嬉しくないって!」
「そう?」
僕がムキになると、また楽しそうに亜希が笑う。
でも、こんな亜希の表情ってなんか新鮮だな。
サバサバとした性格で、どこか鷹揚なところがあって、そう、どっちかというと姉御肌っていうところのある亜希が、すっかり僕の妹のつもりでいる。
いや、本人は空のつもりなんだろうけど、亜希と空じゃもともとの性格が違いすぎるんだよな。
でも、ごくごく自然に妹っぽい雰囲気を漂わせている亜希を見るのは、なんか不思議な感じだ。
「あー、でも安心した」
「安心したって、なにが?」
「陸ったら、学校終わってからなんか様子がおかしかったし、あたしともあまり口きいてくれなかったから心配してたのよね」
そう言いながら、亜希はベッドに上がり込んで僕の隣に座る。
空みたいに、そんな姿勢じゃ行儀が悪いとか言ったりはしない。
それに、膝を立てて背中を丸めてる僕とは違って、胡座をかくようにして背筋を真っ直ぐ伸ばしてるのがいかにも体育会の亜希らしい。
まあ、今の亜希は空になってるはずだからそういう意識はないんだろうけど、それでも身についた習慣は変わらないんだろうな。
「だから、なんかあったのかなって。もしかしたら、あたしがなにか悪いことしたのかな?って気になってたからちょっと様子を見に来たんだけど、やっと普通にしゃべってくれて安心したの」
「そうだったんだ。……ごめん」
「いいのよ、別に謝らなくったって」
そう言うけど、実際、亜希はなにも悪いことはしてないし、なにかやったのは全部空のやつだし。
この状況で、空として亜希に接しろだなんて僕には無理だから、どうしていいかわからなくてあまりしゃべらなかっただけだし。
でも、今の亜希は空になってるんだから、僕が口をきかないことで心配させてしまったんなら素直に悪いと思う。
まあ、空が相手だったら、少々心配させようがそんなことで謝ったりなんかしてやらないけど。
そもそも、本当の空だったらこんな程度で心配したりはしないだろうし。
だけど、亜希になら素直に謝らなくちゃと思ってしまう。
と、亜希が積んであるマンガに手を伸ばした。
「これ、面白い?」
「……うん」
「あたし、このマンガ読んだことないんだよね」
そう言って1冊手に取ると、ページをめくり始める。
少しして、クスッと小さく笑うと、1枚、また1枚とページをめくっていく。
僕も、さっきまで読んでいたページに視線を落とすけど、もう、マンガを読むことにはあまり集中できない。
なんなんだろう?
夜、お風呂から上がった後で、こうやってベッドの上で亜希とふたりっきりでマンガを読んでるなんて……。
こんな状況、想像したこともなかった。
でも、当たり前だけど嫌じゃない。
ただ、ちょっと心臓がドキドキしてるだけなんだ。
「……えっ?」
そのまま、亜希と話すでもなく、かといってマンガに集中できるわけでもなく30分くらいすぎた頃、何かがコトンと僕の肩に当たった。
「……亜希?」
見ると、亜希は僕の肩に頭を乗っけてすやすやと寝息を立てていた。
て、まだ夜の10時前だよ、亜希?
明日菜が、亜希は昔から夜寝るのが早いって言ってたけど本当だったんだな。
水泳部の練習もきつそうだし、こうやって練習してない日でも決まった時間に眠くなるのかもしれない。
きっと、自分が空だと思っていても、日頃の生活習慣は変わらないんだ。
それにしても、細かいことにはこだわらない大雑把なところがありながら、アスリートらしい機敏で繊細な一面も持ち合わせている、良くも悪くも体育会系らしい亜希の、こんな無防備な姿を見るのは初めてかもしれない。
ずっと水泳ばかりしてたせいで茶色く色の抜けた髪から、ぷん、とシャンプーの香りが漂ってくる。
僕に寄りかかって眠りこけてる亜希の表情は穏やかで、どこか幸せそうだった。
普段はそんなことはあまり感じないのに、かわいいなって思ってしまう。
小さい頃からいつも遊んでいて、よく知ってるつもりなのに、女の子ってまだまだ知らない表情を持ってるんだな……。
そう思うと、なんか変な気持ちになる。
それもそうだよね……。
こうやってじっくり見てみると、亜希って結構美人だし、なにより、パジャマの前をはだけて胸元が丸見えの状態で僕に寄りかかって眠ってるんだもん。
無意識のうちに、僕はそっと腕を伸ばして亜希の肩を抱きかかえていた。
こっちに体を預けている亜希は、全然目を覚ます気配がない。
すぐ目の前、吐息がかかるほどの距離にある、亜希の寝顔。
その、細い顎のラインと長い睫毛。
下に目を遣ると、はだけたパジャマの下で、窮屈そうにブラに包まれた胸が寝息に合わせて軽く上下している。
本当に不用心だよな……。
夜中に男と女がふたりっきり、しかもこんな格好で同じ部屋にいるなんて危険極まりないじゃないか。
それは、亜希は今僕の妹のつもりなんだから警戒心なんてかけらもないんだろうけど、僕はそうじゃない。
もし、僕がケダモノみたいな男だったら、このまま押し倒してるかもしれないじゃないか。
いや、ケダモノみたいな男じゃなくても……。
さっきから、心臓がトクントクンと高鳴るのを止めることができない。
女の子のこんな無防備な姿は、男に変な気を起こさせるものなのかもしれない。
やっぱり、僕も男なんだな。
男友達が女の子の話をしているときに、ぐっとくるとかムラムラくるとか言ってたのがいまいちピンとこなかったけど、今ならわかる気がする。
……ちょっとくらいならいいかな?
亜希の肩を抱いていた手を下ろして、そっとその胸に当ててみる。
へえぇ……女の子のおっぱいって、こんなに柔らかいんだ……。
ブラの上からでも、そのむにっとした感触が伝わってくる。
この間の調理実習の時にあんなにみんなの胸を見てたけど、実際に触ってみるとだいぶイメージが違ってるんだな。
ふにふにと柔らかいのに、けっこう弾力もある。
こんなの、初めての感触だった。
もっと触っていたいと思ってしまう。
あたたかくて、ふにふにとした感触が、手の中でたぷたぷと揺れていた。
少し手に力を入れると、ムニュッと柔らかく押し返してくる。
うん、なんか、すごく心地いい感触だ。
「ん……んん……」
「わっ?」
そうやっておっぱいを掴んでいたら亜希が小さく呻いて体をよじって、思わず手を離した。
だけど、起きたわけじゃないみたいだった。
ホッと胸を撫で下ろす僕。
……って、なにやってるんだよっ、僕は!?
この雰囲気に飲まれちゃったけど、こんなことしたらだめじゃないか!
「ちょっと、起きなよ。こんなところで寝ちゃだめだろ」
「……んん。……あたし、寝ちゃってた?」
亜希の肩をゆさゆさと揺すぶると、やっと目を開く。
「もう、ちゃんと自分の部屋で寝ないとだめだよ」
「うん、ごめんごめん」
まだ眠そうに目を擦りながら亜希は立ち上がる。
相変わらず、パジャマははだけたままで。
「そんな格好で寝ると風邪引いちゃうよ」
「大丈夫大丈夫、もうそんな季節じゃないから。じゃ、おやすみ、陸」
「おやすみ」
おやすみの挨拶をして亜希が出ていった後も、僕はしばらくドアの方を見てぼんやりとしたままだった。
その夜は、ベッドに入った後もまだ亜希の胸の感触が手のひらに残っているような気がして、なかなか寝つけなかった。
* * *
――翌朝。
「うわっ!?」
顔を洗おうと洗面所に入ったら、亜希が歯を磨いていた。
「あ、おはよー、りふ」
「お、おはよう……」
歯ブラシを咥えながらもごもごと話す亜希と挨拶を交わすと、ふたり並んで歯を磨く。
こうやってると、本当に変な感じだ。
鏡に映っている僕たちの姿は、どこから見ても僕と亜希で、絶対に双子には見えないはずなのに。
今の亜希には、自分の姿が本物の空に見えているのかな?
それに、亜希のその格好。
結局そのまま寝てしまったのか、パジャマのボタンは全部外れたままだった。
でも、昨日は一日中パニックになっていたから驚いたけど、落ち着いてみたらこんなのはたいしたことないじゃないか。
なにしろ、この間はブラとパンティーだけだったわけだし。
それは、朝起きて亜希が家にいるっていうのはたしかに不思議な感じがするけど、小さい頃からよく知ってる相手だし慣れるとどうってことはない。
「はい、タオル」
「あ、ありがと」
口をゆすいで顔を洗うと、先に顔を洗っていた亜希からタオルを手渡される。
「あ!陸!」
顔を拭いて洗面所を出ようとした僕を、亜希が呼び止めた。
「なに?……ん!?」
振り向いた僕の目の前に、亜希の顔が近づいてきて、ちゅっ、てキスをした。
「んんんっ?……へ?なに?なに?」
「なにって、おはようのキスじゃないの」
目を白黒させている僕を見て、くすって笑うと、亜希は先に出ていく。
……空のやつだな。
きっと、昨日の朝の学校でのやりとりを聞いて、家でおはようのキスをするなんて暗示を仕込んだに決まってる。
学校でのキスは心の準備ができてるからもう大丈夫だけど、今のは不意を突かれたから思わずドキッてしちゃったじゃないか。
まだ、亜希の唇の柔らかい感触が残ってる感じがする。
無意識のうちに唇をさすりながら、僕はひとり洗面所に突っ立ていた。
< 続く >