第5話 妹交換日記 3日目
「あっ、おはよー!」
「おはよう、陸くん!」
「陸くーん!」
「おはよう!……ちゅっ!」
「……ちゅっ!」
「私も……ちゅっ!」
朝、教室に入るとまたもや女の子に囲まれてキスの集中砲火が待っていた。
「おはよ、陸くん!……ちゅっ!」
「んんっ!ふう……おはよう、みんな……」
やっとキスのシャワーもおさまって周囲を見回すと、昨日と同じで空たちの姿は見えない。
「まったく、最近の陸はすげえよな」
「本当だよな。少しくらい分けて欲しいぜ」
男子たちの冷やかしは耳を右から左へと流れていって、全く頭に残らない。
さっきから、自分の心臓の音がやたら大きく聞こえる。
昨日みたいな、戸惑いや焦りは全然なかった。
だけど、心臓が妙にドキドキして、頭に血が上ったような感じがする。
空のやつ……。
最初は何が何だかわからないうちに亜希と入れ替わって、次は僕が勢いで押し切られるのを見越して明日菜と、そして、最後は僕の気持ちを見透かして羽実と入れ替わるつもりなんだな……。
これが、孔明の罠とかいうやつなんだろうか?
自分がなにを期待してるのか、それがわかっているだけに、まんまと空の策にはまってしまったみたいでなんか悔しい。
「……あっ」
空たちが教室に入ってきたのを見て、僕は思わず声を上げてしまった。
「あ、おはよう、陸!……ちゅっ!」
まず、明日菜が駆け寄ってきてキスしてきた。
……て、さっき、家でやったんだけどなぁ。
まあでも、それはつまり明日菜は明日菜に戻ってるってことなのかな。
明日菜との本日2度目のキスの後、今度は亜希が近づいてくる。
「おはよ、陸……ちゅっ」
涼しげな眼差しをした亜希が、おはようの挨拶の後にそっとキスをした。
……て、ん?
そうなると……次は?
「おはよう、陸”くん”」
わざとらしく、「くん」の部分を強調しながら、空の顔がこっちに近づいてくる。
て、ええっ!?それって!?
「ちょっ……!?」
「ちゅっ!」
「……ん゛む゛!?」
ちょっと待て!という間もなく、半ば強引に空に唇を奪われてしまった。
そういえば、昨日はドタバタしてるうちに先生が来てみんなとのキスはうやむやになってたから……。
て、そんなに僕とキスしたいのかよ、おい!
「あのなぁっ!」
思わず、空に抗議する僕。
すると……。
「羽実がどうかしたの、陸?」
「……へ?」
空のすぐ隣で、羽実が首を傾げていた。
「おはようのキスをするのはいつものことじゃない。それに、亜希と明日菜はいいのに、どうして羽実とはそんなに嫌そうにしてるの?」
「あ、いやっ……」
いや、おまえが羽実だとか、羽実が空って呼んでるのは羽実じゃなくて本当は空だとか、そんなのはもうどうでもいい。
だって、そうなるのは予想がついてたんだから。
えっと、そうじゃなくて……。
「……陸?」
羽実が、僕の名前を呼んで首を傾げる。
それだけのことなのに、耳の先まで熱くなって来るのを感じた。
いつもは、僕のことを”陸くん”って呼んでる羽実が、”陸”って呼び捨てにしてる。
いや、それは自分が空だって思ってたら当たり前のことなんだろうけど。
でも、なんでだろう?
他のみんなに陸って呼び捨てにされても何ともないのに、羽実に陸って呼ばれると、心臓がバクバクしてくる。
「ねぇ、どうかしたの、陸?」
「いやっ、あのっ……なんでもないって!」
もう一度、羽実がそう訊ねてくる。
別に慌てる必要なんかないのに、なぜかオタオタしてしまう僕。
と、その時……。
「ふふーん、やっぱりなにか変だよ~。どうかしたの~、陸くん?」
僕と羽実の間に割り込むようにして、空がこっちを覗き込んでくる。
ていうか、なんかつま先が痛いんだけど……。
「……足、退けてくれないかな?」
「あらあら~?ごめんね~」
そう言うと、空は大げさな身振りで僕のつま先を踏んでいた足を退ける。
て、そのしゃべり方も仕草もいちいちわざとらしいったらありゃしない。
「ねえ?陸もだけど、今日の羽実もなんか変じゃない?」
「うん、そうよね。なんかあったのかしら?」
僕たちの脇で、明日菜と亜希がそんなことを言い合っていた。
僕もっていうのがちょっと気にくわないけど、でも、たしかに変だよな、あれは。
空と明日菜って、性格的には近いものがあるから昨日はそんなに違和感がなかったけど、空と羽実じゃもとの性格が違いすぎる。
羽実が空になってるのは、それはもちろん変な感じがするけど、こっちとしては予想もしてたことだし、この状況ももう3日目だし、別に驚きはしない。
むしろ、空が羽実のふりをしてる、このすっごい違和感。
「ねぇねぇ、なんかあったの、羽実?」
「え?なにが?」
「なんか、いつもと雰囲気違う感じがするし。もしかして、いいことでもあったの?」
いや、明日菜……。
違うだろ、それ。
いいことがあったとか、そういうレベルの話じゃないから。
おまえが羽実だと思ってるのは空だから。全くの別人だから。
「そうかしら?でも、別になにもないわよ~。ほほほほほ」
……だから、すごい無理があるって、それ。
まったく、みんなに催眠術を使って羽実と入れ替わるんなら、もう少し羽実らしく振る舞う努力をしろよな。
こんなに違和感があるのに、どうしてみんな空を羽実だと思って疑わないんだろう?
そんなにあいつの催眠術って凄いの?
「でも、本当に今日の羽実はなんか浮かれてる感じがするよ。ね?陸もそう思うでしょ?」
ね?って言われても……。
自分のことを空だと思っている羽実が、羽実のふりをしてる(いや、ふりすらしてないけど)空のことで同意を求めてくる。
相変わらずややこしい状況なのは、昨日とちっとも変わりはしない。
だいいち、僕にどう答えろって言うの、羽実?
あれを羽実だと思うから変な感じがするわけで、空だと思えばそのまんまだろ?
「なによ~、陸くんも私のこと変だって思ってるの~?」
と、不満そうな表情を隠そうともしない空。
……て、なにが不満なんだよ。
その姿、その話し方で、呼び方だけ”陸くん”に変えても変に決まってるじゃないか。
だいいち、そんなに唇を尖らせて、羽実はそんなあからさまな不満顔なんかすることないから。
だからって、どうせ僕がなにを言ったところで、みんなに変に思われるのは僕の方なんだろうな。
でも、せめて忠告くらいはしておいてやるか。
「変だと思われたくなかったら、せめて少しはそれっぽくしろよ」
「へえぇ……ご忠告どうもありがとう、陸くん」
だから、そのしゃべり方をどうにかしろよな。
うん……そうだよ……。
性格は無茶苦茶だけど、空は、見た目は決して悪くない。
双子の僕がこんなことを言うのもなんだけど、もし、空が羽実みたいな性格だったら、いや、せめて黙ってさえくれていればかなり可愛らしい女の子だと思う。
いや、そもそも、無茶苦茶なのは僕に対してだけで、他のみんなにはそういうわけでもないし、その気になれば彼氏のひとりくらいすぐにできそうだ。
それなのに、なんで今までそういう話がなかったんだろう?
もちろん、双子とはいってもいつも一緒にいるわけじゃないし、空のプライベートまで全部知ってるわけじゃないけど、そういう浮いた話のひとつも聞いたことはない。
「なに、今のは?羽実となんかあったの、陸?」
亜希が、不思議そうに首を傾げる。
さっき僕が言った言葉の意味は、僕と空にしかわからないからそれも当然だろうけど。
「いや、ちょっとね?」
「なになに?なんか意味ありっぽい感じだったけど?」
今度は、興味津々といった感じで明日菜が割り込んでくる。
「いや、本当にたいしたことじゃないから」
「だけど、なんか今のふたり、ちょっと雰囲気悪かったよ。陸と羽実のことだからまさかとは思うけど、ケンカでもしてるの?」
と、本気で心配そうな表情で羽実が口を開く。
「そんなっ、ケッ、ケンカなんかしてないから!」
「そう?だったらいいんだけど、さっきから陸も少し変だよ」
「そっ、そんなことないって!僕はいつも通りだから!ははっ、ははははっ!」
……だめだ。
いつも通りに接したらいいだけのことなのに、どうしてもそれができない。
羽実に”陸”って呼び捨てにされると、顔がかぁっと熱くなってくる。
どうしても、羽実のことを意識せずにはいられない。
「そうそう!空の言うとおりだよ、なんか、今日は陸も変だよね!」
「うん、さっきから顔を真っ赤にしてるし、あたしも変だと思うな」
「だから、そんなことないってば!」
明日菜と亜希からも投げかけられる疑念の言葉を、ムキになって打ち消そうとする僕。
……て、なんで僕がそんなことしなきゃならないんだよ?
「本当。陸ったら耳まで真っ赤だよ。熱でもあるの?」
「……ひゃっ?」
いきなり目の前に羽実の顔が近づいてきたから、我ながら情けない声をあげて僕は一歩後ずさっていた。
「……陸?」
「えっ、いやっ……熱なんかないし、本当になんでもないから!」
慌ててごまかしながら、僕は心臓がバクバク鳴るのを抑えることができないでいた。
と、その時、チャイムが鳴って先生が教室に入ってきた。
「ほらほら、ホームルームを始めるぞ。みんな席に着いて」
それを合図に、思い思いに過ごしていたみんなが、いつものように席に着く。
すると、自分の席に戻ろうとした僕に空が体を寄せてきて、小声で囁いた。
「陸くんこそ、変に思われたくなかったらもう少しちゃんと振る舞ったら」
「へ?……痛てっ」
そう言って僕の足をぎゅっと踏んづけると、そのまま空は羽実の席の方に歩いて行った。
* * *
で、授業の間、僕はなんとか心を落ち着かせようとする。
でも、授業中にちらちらっと羽実の方を見ると、やっぱりドキドキしてしまう。
昨日の明日菜と空と同じように、空の席に羽実が、羽実の席に空が座っているのに、誰もなにも言わない。
まるで、何事もないかのように淡々と進んでいく授業。
「じゃあ、日向……空、この問題を解いてみなさい」
「はい」
数学の時間、空が指名されると羽実が立ち上がって、黒板に書かれた数式を解いていく。
中学の頃は短くしていた髪を、最近になって羽実は伸ばしはじめた。
今では、少し伸びてきた髪を二つに分けて、リボンで留めていることが多い。
そのリボンも、控えめで目立たない大きさなのが羽実らしいと思う。
髪が短いときも可愛かったけど、やっぱり今の方が好きかな……。
丸みのある童顔の羽実には、ああやってリボンみたいなアクセサリーをつけた方が可愛らしくていいと思う。
……今日は、羽実と一緒にいられるんだよな。
昨日の明日菜や一昨日の亜希みたいに。
羽実の後ろ姿を見ながらそんなことを考えて、また胸が高鳴ってくる。
でも、だからってなにがあるわけでもないし、何かするわけにもいかない。
だいいち、羽実は自分のことを空だと思ってるわけだし、そんな羽実を相手になにをどうしろっていうんだよ?
どう考えても、空がこんなことをする意味が全くわからない。
僕がこんな状況を純粋に楽しんだり、それを利用して何かしようって性格じゃないのはわかってるくせに。
まるで、この状況を空自身が楽しむためにやってるようにしか見えないんだけど。
実際、僕はこの状況を楽しむどころじゃなかった。
「陸、お昼にしようよ」
昼休み、羽実が僕の席までやってきた。
僕の机の上にポンと置かれた、水色のチェック柄のランチトート。
これって、空のだよな?
たしか、今朝、明日菜が鞄に入れるのを見たはずだけど。
……ああ。
朝のうちに鞄ごと取り替えさせたんだな。
きっと、明日菜を元に戻して、空と羽実が入れ替わった時に。
でないと、明日菜と僕の弁当の中身が全く同じってことになるもんなぁ。
「……陸?ちょっと、どうしたの、陸?」
「……え?あっ、いやっ、なんでもないよ!うん、お昼だよね!」
ぼんやりと考え事をしてたら、こっちを覗き込んだ羽実の顔が目の前でアップになって、思わず大きな声を上げた。
またもや、心臓が飛び出そうなくらいにバクバク鳴って、顔がものすごく熱くなってくる。
「本当にどうしたの、陸?」
「いっ、いやっ、なんでもないから!」
怪訝そうな顔をしている羽実をごまかそうとする声が、自然にうわずってしまう僕。
どう見ても怪しいよな、僕……。
よく考えたら、いつも羽実に接しているような態度すら取れない僕に、うちに帰ってからどうこうするなんてことができるわけないじゃないか。
「どしたの、陸。大きな声出してー?」
「なんかあったの、空?」
「うん、私もわからないんだけど、なんか陸の様子が変なんだよね」
いつの間にか、明日菜と亜希も来て僕を囲んでいた。
それとは別に、ねっとりとした視線を感じるんだけど……。
視線の方を見ると、妙にムスッとした表情で空がこっちを睨みつけていた。
なんなんだよう?
僕がなにか悪いことでもしたっていうのか?
「ねっ、今日はいい天気だし、外でお弁当食べようよ!」
「お、いいわね、それ」
「私も賛成。ね、陸もいいよね?」
「えっ、あっ、うん、いいよ、僕もそれでっ」
ダメだ……。
羽実と話すと、どうしても声がうわずってしまう。
そして。
「羽実もいいよね?」
「うん」
と、言葉少なに頷く空。
なんか、朝とは態度が全然違うんだけど?
「じゃ、早く行こ!いい場所とられちゃうよ!」
そんな空の様子を気にする様子もなく、教室を出て行く明日菜にみんなついていく。
で、昼休みの間も空はあまりしゃべらなかった。
朝のことで機嫌を悪くしたのか、あまりしゃべると墓穴を掘ることがわかったのか……。
まあ、羽実はもともとみんなでおしゃべりしてるときには聞き役のことが多いから、ああやって相づちだけ打ってる方がかえってみんなには怪しまれないだろうな。
それに、その方が余計な波風が立たなくて僕も助かるし。
そして、放課後。
……ん、メールだ?
メール着信のランプが点いてるのに気づいてスマホを取り出す。
またもや、メールは空からだった。
そして、そこに書いてあったのはたった3文字、”ヘタレ”だった。
……て、やかましいよ!!
思わず空の方を睨みつけると、澄まし顔でぷいっとそっぽを向きやがった。
その態度がまた憎たらしいったらありゃしない。
まったく、頼みもしないのに勝手にこんなことしておいて、言うに事欠いてヘタレってどういうことだよ!?
だいたい、羽実が空になってるこの状況でなにをしたらヘタレじゃないってんだよ?
「ねぇ、陸?帰らないの?」
「えっ、あっ、うんっ、帰るっ、帰るよ!」
気づくと、鞄を手にした羽実が目の前に立っていた。
僕も、慌てて教科書と筆記用具を鞄にしまって立ち上がる。
「どうしたの?今日の陸って、なんかビクビクしてるみたいだけど」
「そ、そうかな?全然そんなことないけど。はは、ははは……」
うん、ビクビクというか、ドキドキって感じなんだけどね。
「どしたの、空、陸?早く帰ろうよ!」
帰り支度を済ませた明日菜も、僕たちの方に来る。
「じゃ、あたしは練習行くね」
「うん、また明日、亜希」
「またねー、亜希!……じゃあ、私たちも帰ろっか。羽実、帰るよー!」
「うん」
部活に行く亜希に手を振った明日菜が声をかけると、またひと言だけ返事をして空も立ち上がった。
そして、帰り道。
「じゃ、また明日ー!」
「うん、また明日」
「バイバイ、明日菜」
「またね、明日菜ちゃん」
いつもの角で明日菜に手を振る。
どうでもいいけど、明日菜に”ちゃん”付けしてる空が、これまたぎこちない。
そのまま、羽実と並んで歩く僕の後から、黙ってついてくる空。
なんか、背中に異様なオーラを感じるのは僕だけだろうか?
振り向くと、ムスッとしてこっちを睨んでいる空と目が合った。
「な、なんだよ……?」
「なんでもないわよ」
僕の言葉に、ぶっきらぼうな返事が空から返ってくる。
そんな僕らの様子を見て、首を傾げる羽実。
「もう、陸も羽実も今朝からなんか変だよ、どうしたの?」
「ううん、なんでもないよ、空ちゃん」
「本当に?陸が羽実になんか変なことしたんだったら私に言ってよね」
「うん!」
なんで僕が変なことしなきゃいけないんだよ!?
しかも、相手は空だぞ!?
……て、今のこの状況でそんなことを言っても虚しいだけだけど。
「朝も言ったけど、羽実とケンカしたらダメだよ、陸」
「だから!本当にケンカなんかしてないって!」
そう言っても、まだ不安そうに眉を顰めてる羽実。
そもそも、あれが空だからこんなことになってるわけで、ふたりが入れ替わってさえいなかったら羽実、おまえとケンカするわけないじゃないか。
「そう?だったらいいんだけど。でも、朝から羽実ったらなんか変だったし、さっきからあまりしゃべらないし。……あっ、そうだ!今度の日曜日にうちで遊ぼうよ、亜希も明日菜も呼んで!そうしたら少しは羽実も元気が出るかな?」
急に、羽実がパッと笑顔を浮かべて提案する。
いや、うちでって……。
今の羽実がそう言うってことは、それ、僕のうちだよね?
でも、次の日曜には空と羽実は元に戻ってるはずだから。
まあ、日曜まで羽実がこのままでいるんだったら、それはそれで悪くないかもとは思うけど……。
「ねっ!そうしようよ、羽実!」
「うん。いいね、それ」
「じゃあ、決まりだね!後で、亜希と明日菜にも連絡しておくね」
「うん。……じゃあ、バイバイ、空ちゃん、陸くん」
「バイバイ、羽実!」
「また明日な」
手を振って羽実の家の方に歩いて行く空に向かって、軽く手を上げる。
そして、羽実と並んで歩き始めて少ししてから、携帯が震えた。
「……ん?」
スマホを取り出して見ると、空からだった。
……ていうか、おい!
「どうしたの、陸?」
「いや、気のせいだったみたい。着信があったと思ったんだけど……」
さりげなくごまかして、スマホをポケットにしまう。
空からのメールには短く、”頑張ってね、ヘタレ”と書いてあった。
* * *
で、僕にどう頑張れと?
家に帰ると、昨日までと同じように母さんは羽実を空として迎えた。
そして、真面目な羽実と一緒に宿題をしている僕。
とてもじゃないけど、昨日の明日菜のような展開にはなりそうにない。
「どうしたの、陸?」
「え?あっ、な、なんでもないよ!」
羽実の方をじっと見ていると目が合って、慌てて宿題に集中するふりをする。
まだ、羽実に呼び捨てにされると心臓がドキドキと高鳴ってくるのは変わらない。
ていうか、そもそも自分のことを僕の双子の妹だと思っている羽実になにをどうしろっていうんだよ?
そのまま、なにもできずに時間は過ぎていく。
空からのメールにあった、”ヘタレ”って言葉がちらちらと頭をよぎるけど、だからってなにができるわけでもない。
「じゃあ、私は母さんのお手伝いしてくるね」
「うん」
夕方、ノートを閉じて羽実は下に降りていく。
晩ご飯の準備を手伝おうっていうのが、いかにも羽実らしいと思う。
まあでも、よく考えたら空も家事の手伝いは結構してる方だし。
むしろ、料理が好きなくせに昨日は僕と遊びまくってた明日菜がどうかと思うんだけど。
結局、何事もないまま……。
「はあぁ……。もう、空のやつったら僕になにをさせたいんだよ?」
夜、お風呂に浸かりながらぼやいている僕。
羽実と一緒にいられると思ったときにはドキドキしたけど、よく考えたら、一緒にいる以外になにもできないじゃないか。
明日菜みたいに、向こうの方からあんなことをしてくるんならともかく、羽実はそんなタイプじゃないし。
だからって、僕の方からなにかできるわけがないし。
そもそも、今の羽実は空のつもりなんだから、僕がなにかするわけにはいかないし、したからって、僕と羽実との関係が変わるわけじゃないだろうし。
……ん?なにか物音がしたけど?
脱衣場に誰かいるみたい。
母さんかな?
脱衣場に人の気配を感じたけど、母さんが畳んだタオルを片付けに来たんだろう。
と、その程度に考えてたら、お風呂場のドアがバンと開いた。
「うわっ!?」
服を脱いで真っ裸になった羽実が、ふんふんと鼻歌交じりに中に入ってきて、僕は大きな声を上げて目を丸くする。
白くて眩しいくらいの肌に、リボンを解いた、肩の下くらいまである髪が映えて、思わずボーッとするくらいに可愛らしく見えた。
ていうか、全部丸見えだって!
前隠してっ、前っ!
僕の目の前で、白くて柔らかそうなおっぱいがぷるるんと揺れていた。
「きゃあっ!?」
「ばばばっ、バカッ!僕が入ってんだよ!」
一瞬、状況を理解できないでポカンとしていた羽実も、すぐに小さく悲鳴を上げると両腕で胸を隠しながら出ていった。
「ごごご、ゴメンね、陸!」
ドアの向こうから、羽実の謝る声が聞こえてくる。
「バカッ!なにやってんだよ、おまえ!?」
「だって、中に入ってるって思ってなかったから」
「いやいや!そこの棚に僕が脱いだ服が置いてあるからわかるだろ?」
「あ、ホントだ。……何で気付かなかったんだろ?なんか、いつもと勝手が違う感じがしちゃって……」
それは勝手が違うだろうなぁ……。
だって、ここは僕と空の家で、羽実の家じゃないんだもん。
「あのなぁ……ちゃんと中に人がいるかどうか確かめろよな」
「うん、ごめん。はぁ、ビックリしたぁ……」
「それはこっちが言いたいよ、もう……」
お風呂場のドアの磨りガラス越しに、羽実と話をする。
いや、それは別にいいんだけど、ドアに寄りかかっている羽実の背中のシルエット。
それって、裸のままだよね?
曇った磨りガラスでも、こっちに素肌が押しつけられているのがわかる。
でも、このままだと……。
「ホントにゴメンね、陸」
「うん、それはもういいんだけど。……僕、そろそろ上がろうと思うんだけどさ」
「うん?」
「いや、羽実……じゃない、空にそこにいられると上がるに上がれないんだけど……」
「……え?あっ、ご、ゴメンね!」
僕の言葉に、ドアの向こうの様子がガサガサと慌ただしくなる。
……羽実って、こういうところもあったんだ。
僕のよく知ってる羽実は、真面目でおとなしくて優しくて、おっとりしてるけど几帳面な性格の子なんだけど、こんな、おっちょこちょいな一面もあったなんて、普段は見せないから知らなかった。
そういうのも、こうやって一緒に過ごしてみないと気付かないものなのかもしれない。
でも、そういうところを知ってもイメージダウンとかそんなんじゃなくて、むしろ可愛らしいとか思ってしまう。
「それじゃあ、私、外に出てるからね」
「うん」
羽実の声がして、脱衣場のドアが閉まる音を確かめてから僕はお風呂から上がる。
「あ、さっきはゴメンね、陸」
「う、うん、それはいいんだけど……そこで待ってたの?」
「うん」
体を拭いて、パジャマを着て外に出ると、そこで羽実が待っていた。
ていうか、白いバスタオルを体に巻いただけのその格好に、思わずドキッとしてしまう。
それって、空もお風呂上がりによくやってるけど、女の子って、よく男のいる場所でそんな格好ができるよなって思う。
胸は隠れてるけど、肩は丸見えだし、太もももほとんど見えるし、男から見たらその姿がけっこういやらしく見えるのがわかってるのかな?
「……どうしたの、陸?」
思わず見とれていると、羽実がきょとんとした顔で首を傾げてきた。
「えっ?あ、いやっ、お風呂、空いたから」
「うん」
内心ドキドキの僕の言葉に頷くと、羽実は僕と入れ替わりに脱衣場に入っていった。
「ふうぅー……」
自分の部屋に戻ると、ベッドの上に体を投げ出して大きく息を吐いた。
目を閉じると、さっきの羽実の裸が浮かんでくる。
お風呂場の、オレンジ色の照明に照らされた、白くて柔らかそうな肌。
ぷっくりと膨らんだ、形のいいおっぱいも丸見えだった。
いや、それだけじゃない。
おへそも、下半身も全部見えてた。
ツルッとした、その股間も……。
「~~~っ!」
思い出しただけで、顔がカーッて熱くなってくる。
その時、ドアをコンコンとノックする音がした。
「陸、いい?」
ドアが開いて、パジャマを着て髪にタオルを巻いた湯上がり姿の羽実が姿を見せた。
ほのかに頬が赤くなって、軽く湯気なんか上がってるのがなんていうか、色っぽい感じがするんだけど。
「ななな、なに?」
さっきまで羽実の裸を思い出していたものだから、またもや声がうわずってしまう僕。
「さっきは本当にゴメンね。陸が先にお風呂に入ってるのに全然気付かなくて」
「い、いや、そんなの全然いいから」
ていうか、いつまで気にしてるの?
まあ、そういうところが羽実らしいんだけど。
さっきのは僕もおいしい思いをしたし……て、いやいやいや!
「陸?」
改めてさっきの羽実の姿を思い出して頭をぶるんぶるんと振ってる僕を、羽実は不思議そうに見つめている。
「いやっ、なんでもないから!」
「そう?ならいいんだけど……」
「うん、本当になんでもないし、さっきのも全然気にしてないから」
「よかった。じゃあ、私、髪を乾かしてくるね」
「うん」
やっと笑顔を見せると、羽実は僕の部屋から出て行く。
これは……なんていうか……。
昨日は明日菜に振り回されっぱなしだったけど、今日は今日で、羽実が家にいるってだけで全然落ち着けない。
羽実の出ていった後も、なんだかふわふわと浮ついた気持ちの抜けない僕だった。
* * *
――夜遅く。
「ん?雨か?」
そろそろ寝ようと思った頃、窓の外からザーッていう音が聞こえてきた。
けっこう大きな音がしてるから、かなり強めに降ってるのがわかる。
朝までに止んでくれたらいいんだけどな……。
そんなことを考えながら電気を消した瞬間、窓の外が光ると、ドーンって大きな音がした。
「うわ、今のはだいぶ近いぞ……」
さっきの雷、光ってから音が聞こえるまでの間隔がほとんどなかった。
そして、5分くらいして、またピカッと光ってドーンと大きな音が響く。
……ん?今?
2回目の雷が落ちて少ししてから、ドアをノックする音がしたような気がした。
でも、ザァザァと雨の音もやかましいし、気のせいかもしれないな……。
――トントン!
その時、また音がした。
これは、間違いない。ノックの音だ。
「……え?どうしたの?」
起き上がってドアを開けると、そこには枕を抱えた羽実が、怯えた様子で立っていた。
「……雷」
「え?」
「陸も知ってるでしょ。私が雷嫌いなの」
「へ……?そんなの……あっ!」
そんなの知らないよって言いかけて、小さい頃、雷が鳴るたびにいつも羽実が泣いてたのを思い出した。
だけど、あれはまだ僕らが子供だった頃の話だし。
それは、羽実とはずっと幼馴染みで友達だけど、一緒に暮らしてるわけじゃないから高校生になった今でも雷が怖いなんて思ってなかった。
と、その時、また雷が落ちた。
「きゃっ!」
小さく悲鳴を上げて、ぎゅっと枕を抱いて体を縮こませる羽実。
本当に、雷が怖くてしかたがないみたいだ。
「大丈夫だよ、ほら」
固く目を瞑って震えている羽実の腕を掴むと、僕は部屋の中に招き入れる。
「ゴメンね、陸。眠ってたのに」
「いや、ちょうど電気消したところで、まだ寝る前だったから」
ベッドの上で、羽実と並んで座っている僕。
さっきから、窓の外がピカッて光るたびに羽実の体がビクンッて震える。
「灯り、点けようか?」
「ううん、大丈夫。ありがとうね、陸」
部屋を明るくした方が稲光が気にならないだろうと思うんだけど、それは頑なに拒む羽実。
「きゃぁっ!」
また、ドーンと大きな音がして、羽実が悲鳴を上げる。
「本当に大丈夫?」
「うん、陸がいてくれるから」
えええっ!?ぼ、僕がいてくれるから!?
い、いや、それは、今の羽実は僕を双子の兄として頼りにしてるんだろうってのはわかってるよ。
それはわかってるけど、わかってても胸がドキドキしてくるじゃないか。
その時、また雷鳴が轟く。
「……きゃ!」
「本当に灯り点けなくても大丈夫?」
「……うん。だって、こんな泣き顔、陸に見られたくないもん」
なんだよ、そんなこと気にしてたのか。
そんなの、気にしなくていいのに……。
暗い部屋の中で、枕をぎゅっと抱いている羽実。
そんな羽実が、たまらなく愛おしく思えてしまう。
「ほら、こうしたらどう?」
薄手の夏布団でも、頭からかぶっていれば多少は気が紛れるかも思って、羽実に布団をかぶせて抱き寄せる。
「うん……ありがとう」
こっちに預けるように寄り添ってくる羽実の体は、小さく震えていた。
「大丈夫だよ。さっきから、光ってから音がするまでの間隔が少しずつ長くなってるし、音も小さくなっていってるから、ちょっとずつ遠ざかってるよ」
「うん……ひっ!」
またピカッて光って、羽実の体がビクッて震える。
「大丈夫だよ。僕がついてるから」
そんな羽実を安心させるように、抱いた腕に力を込める。
羽実を守ってあげないと……いや、守ってあげたい、ずっと……。
僕の腕の中で体を震わせている羽実の姿に、そんな思いがこみ上げてくる。
さっきまで地響きのようにドーンと鳴っていた雷がゴロゴロと、ゆっくりとだけど確実に遠ざかっていくのを感じる。
だけど、まだ稲光が光るたびに羽実は小さな悲鳴を上げて体をこわばらせる。
そんな羽実を、僕はずっと抱き続けていた。
「ん……朝か……わっ!?」
朝、目を覚ました僕のすぐ目の前に、羽実の寝顔があった。
そうか、あのまま寝てしまったんだ……。
すぐに、昨日の晩のことを思い出した。
あれだけ雷が鳴って、激しく雨が降ってたのが嘘のように、窓から明るい光が差し込んでいた。
あのまま雷がおさまるのを待ってるうちに、僕も羽実も眠ってしまったらしい。
抱き合うような格好で寝ている僕の腕の中の、温かい羽実の体の感触。
睫毛の長い羽実の寝顔を見ていると、そのまま、ぎゅっと抱きしめたくなる。
ほ、本物の羽実だよね……。
僕の方に抱きつくようにして眠っている羽実の姿に、思わず見とれてしまう。
目尻に涙の跡があるのは、泣き声こそ上げてなかったけど、やっぱり雷が怖くて泣いてたんだろう。
でも、今は明るい朝の光の下、その表情はどこか幸せそうで、笑っているようにも見える。
羽実と一緒に寝てたなんて、なんか、あまりに現実離れしててまだ夢の中にいるみたいな感じがするけど間違いない。本物の羽実だ。
すやすやと寝息を立てるたびに、僕の腕の中で羽実の胸がゆっくりと上下する。
その、柔らかな感触は間違いなく現実のものだった。
「ん……」
穏やかな表情で眠っている、丸みのある羽実の顔を見つめていると、ゆっくりとその目が開いた。
「うん……え、陸?どうして?……あっ、そうか……」
僕を見てびっくりした表情を浮かべたけど、すぐに昨日のことを思い出した様子の羽実。
「おはよう。雨、上がったみたいだよ」
「うん、ありがとう、陸」
そう言うと、羽実は少し恥ずかしそうな笑みを浮かべる。
だけど、すぐにハッとしたように大きな声を上げた。
「あっ、そうだ!」
「なに?どうしたの?」
「おはよう、陸。ちゅっ!んむっ……」
目尻を緩めて柔らかな笑みを浮かべ、腕を絡めるようにそっと僕の頭を抱きかかえると、羽実はそのまま僕にキスしてきた。
羽実の唇の柔らかい感触と、鼻から洩れる吐息が僕の肌をくすぐる。
なにより、いつものキスよりも少し長い気がする。
て、うわわわわっ!なに、このシチュエーションはっ?
朝、起き抜けにベッドの中でキスするなんて、そんなことが現実にあっていいんだろうか?
まるで、ドラマかマンガの中のような展開に思わずボーッとしてると、羽実はクスッと笑って起き上がった。
「じゃあ、着替えてくるね」
まだ夢の中にいるような気分の僕にそう言うと、羽実は自分の部屋に戻っていったのだった。
* * *
そんな、夢のような朝を迎えた後、羽実とふたりで学校に行く。
で……。
「空……だよな?」
ここ何日かお約束になっているキスの嵐の後、教室に入ってきた空に声をかける。
「なに言ってるの、陸?当たり前じゃないの。熱でもあるのかしら?」
そう、しれっとした顔で言う空。
ていうか、誰のせいでそんなことを訊かなくちゃいけない羽目になってると思ってるんだよ!?
そんな僕らのやりとりに、亜希が入ってくる。
「どうしたの、空?陸がどうかしたの?」
「なんか、陸の様子が変なのよー。あたしに、空だよな?って訊いてくるのよね」
「だから……!」
「ええーっ!?どうしたの、陸!?」
空の答えのあまりのしらじらしさに抗議しようとするより早く、明日菜がいつものように大げさに驚きの声を上げる。
「大丈夫、陸くん?」
「いやっ、大丈夫だから」
と、これは本気で心配してる様子の羽実。
どうやら、みんな元通りみたいだ。
羽実も、今朝のことは全然覚えてないみたいだし。
いや、覚えていたら、それはそれで困るんだけど、だけど、なぜが少し寂しく思ってしまう自分がいた。
「なんか、陸ってば最近挙動不審だよ?なんかあったの?」
「だから、何もないってば!」
なおもしつこく尋ねてくる明日菜をやり過ごす。
実際、自分が挙動不審だっていう自覚はあるし、その理由もわかってる。
でも、それを言ったところで信じてはもらえないだろうし、そもそも全ての元凶の目の前では説明すらさせてもらえないだろうし。
そんなことを考えなら睨みつけると、空は悪戯っぽい笑みを浮かべてペロッて舌を出しやがった。
と、その時、不意に亜希に肩を掴まれた。
「それよりもさ、今朝はまだでしょ、陸」
「へ?なにが?」
「おはよう、陸……ちゅ」
と、亜希がキスしてくる。
ああ……。
まだって、それか……。
さっきのやりとりに気をとられてたけど、亜希たちとのおはようのキスがまだだった。
「じゃ、私もっ!……ちゅっ!」
亜希に続いて、明日菜もキスしてくる。
「陸くん、おはよう……ちゅ」
そして、羽実。
おまえとは今朝、キスしたんだけどな……。
朝、ベッドの中でのキスを思い出して、またもや顔が熱くなってくる。
「……陸くん?」
「どうしたの、陸?顔が真っ赤だけど」
「やっぱり変だよね、陸ったら」
「な、なんでもないよ!」
羽実たち3人が、僕を見て首を傾げている。
本人は覚えてないだろうけど、この3日間でいろんなことがあったし。
よく知ってる相手でも、女の子には一緒に過ごさないとわからない側面もあって、3人に対する印象が大きく変わった部分もある。
……特に、羽実とは。
僕自身はその間のことを覚えているだけに、やっぱりどぎまぎしてしまう。
「ねーねー、陸、あたしとはー?」
「だから、やらないよ!」
「えー、なんでよー!?ぶーぶー!」
口をキスの形にして近寄ってくる空を手で押しのけると、わざとらしく不満たらたらな顔をする。
自分の双子の妹ながら、やっぱりこいつはなに考えてるんだかよくわからない。
――放課後。
「で、結局なんのためにあんなことをしたんだよ?」
帰り道、明日菜と羽実と別れてふたりっきりになったところで改めて空に問いただす。
「なんでって……楽しかったでしょ?」
「そんなわけないだろ!」
いや、本当は、けっこう楽しんでた自分がいた。
特に、羽実の時は。
でも、それを認めたら負けな気がする。
そんな僕の胸の内を見透かしたように、空は意地の悪い笑みを浮かべた。
「そう~?まんざらでもなかったって顔に見えるけど?」
「うっ……」
なまじ当たっているだけに、言い返せない自分が悔しい。
「どうしたの、陸?」
「なっ、なんでもないよっ!と、とにかくだな、3人だけじゃなくてみんなにもあんなことして!」
「でも、そうしないと変に思われちゃうじゃないの~」
「クラスのみんなだけじゃなくて、先生や、亜希たちのおじさんおばさんや……そうだ!父さん母さんにも!あれって、何をやったんだよ!?」
「へ?なにが~?」
「最初は亜希、次の日は明日菜、その次の日は羽実と一緒に帰っても、父さんも母さんも空だって思ってたじゃないか!いつの間にそんなことをしたんだよ!?」
「あ~、あれはね~、母さんには陸と一緒に帰ってくる女の子をあたしだと思うように、父さんは帰ってきたときに家の中にいる女の子をあたしだと思うように暗示をかけてたのよ~」
「なっ……!?」
こともなげにそんなことを言う空に、僕は唖然としてしまう。
ていうか、そんな仕組みだったのか。
でも、それって……。
「も、もし僕が亜希たちと一緒に帰らなかったらどうするつもりだったんだよ!?」
「それはないわよ~。だって、あの状況で陸が亜希や明日菜だけ先に家に帰すわけないじゃない。帰ったときのことが気になって絶対に一緒に帰るって思ってたもん」
「う……」
くそ、完全に僕の行動パターンが読まれてたってことか。
「それにしてもだなっ!」
「もう~、陸も堅いこと言ってないでさ~、せっかくみんなと一晩過ごせるチャンスなんだから、思いっきり楽しんじゃえばよかったのよ~」
「そんなこと言ってもなぁ!亜希も明日菜も羽実も自分のことを空だって思ってるのに、何をどう楽しめって言うんだよ!?」
「でも、陸は違うでしょ」
「……へ?」
不意に、空の口調がそれまでの軽口から真面目な感じに変わった。
「亜希たちは自分のことをあたしだって思ってても、陸はちゃんと亜希、明日菜、羽実だって意識してたでしょ?」
「だ、だからなんなんだって言うんだよ?」
「3人と一晩ずつ過ごしてみて、いろいろと感じたことがあるんじゃないの?」
「そ、それはだな……」
「それに、自分のことをあたしだって思ってるからこそ、みんな普段は見せない顔を陸に見せたりしなかった?」
「う……それは……」
「ね?誰のこと一番意識した?」
「いや……だから……」
わかっているくせに、意地悪く訊いてくる空。
でも、わかっていても答えるのをためらってしまう。
「ふふん♪」
僕が口ごもっていると、あの、勝ち誇ったような笑みを浮かべてから、空は踵を返して家の方へと歩き出した。
* * *
その日の晩。
「陸ー、マンガ借りてもいいー?」
僕がお風呂に入ろうとすると、部屋の前でばったりと空と鉢合わせした。
「いいけど」
「ありがと。はぁー、やっぱり、久々の我が家は落ち着くわね~」
……だったら、あんなことするなよな!
胸の内でそう毒づきながら、空と入れ替わりに下に降りていく。
だけど……。
「ん?」
お風呂から上がって自分の部屋に戻ると、もう空はいなかった。
そのまま、何気なく本棚に目を遣ると、そこには隙間なく本が並んでいた。
ただ、本棚に置いてあるペン立てや時計の位置は少しずれていたけど。
空のやつ、結局なにも借りていかなかったのか?
まあ、でも気まぐれなあいつのことだからな……。
その時は、そんな風に思って棚のマンガが一冊もなくなっていないことを大して気に留めなかった。
――翌朝。
「ねーねー!陸、ちょっとこれ見てよー!」
久しぶりに一緒に学校に向かっている最中、空がやたらと嬉しそうにスマホを見せてきた。
「なんだよ?」
「ほらっ、これこれ!」
空が差し出してきたスマホの画面には、がっしりした体格の、茶髪の男の人が空と並んで映っていた。
「あれ?これって……」
「そう!亜希のお兄さん」
そうだ。
亜希には、今大学生のお兄さんがいたんだった。
僕も、小さい頃に何度か遊んでもらったことがある。
亜希と同じく水泳をやっていて、今も大学で水泳の選手をやってるらしい。
しばらく会ってないけど、前よりも体つきが大きくなってる気がする。
「亜希のお兄さんってかっこいいわよね~!いかにもスポーツマンって感じでステキだわ~!」
……なに言ってるんだか。
わざわざ自分を亜希だと思わせて人の家に上がり込んで、なにやってきてるんだよ?
でも、ああ、そうか。
あの時、亜希がごく自然に妹として振る舞ってたのは、実際にお兄さんがいるからだったんだ……。
僕は、亜希がうちに来た時のことを思い出していた。
あの時は亜希のお兄さんのことはすっかり忘れてたけど、亜希も、自分の家ではあんな感じでちゃんと妹してるんだろうな。
と、僕が妙にしみじみしてると、空がまたぐいっと腕を引っ張った。
「でねっ!ほらほら、今度はこれ!?」
「なんだよ今度は?」
「明日菜のおじさんとおばさん、本っ当に若いよねー!」
空のスマホに映ってるのは、明日菜のお父さんとお母さん。
何度も会ったことがあるけど、たしかにいつ見ても若い。
おばさんなんか、明日菜のお姉さんっても通るかもしれない。
「ほらっ、こっちは羽実の妹の知美(ともみ)ちゃん。羽実に似てかわいいよね、知美ちゃんも」
と、催眠術で娘になりすまして泊まりに行った先の写真を次々と見せる空。
「て、なんなんだよ。別にこんなの見せなくてもいいだろ」
「そう?でも、陸もみんなと楽しそうにやってたから、あたしも楽しくやってたのを見てもらおうと思って」
「べっ、別に、楽しそうになんかしてないってば!」
「え~?でも、そうは見えなかったけど?」
「ていうか、何を見たっていうんだよ!?」
「亜希の胸を触ってたでしょ?」
「ぶっ……!?」
なななっ、なんでおまえがそれを知ってるんだよ!?
「それに、明日菜に抱きつかれてじゃれ合ってたでしょ?」
「ちょっ!?」
「それに、羽実とは一緒に寝ちゃって~」
「なっ、なんでそれをっ!?」
どうしてそんなことまで知ってんだよ?
まさか、みんなに催眠術をかけて聞き出したとか?
いや、他はともかく、亜希の時は向こうが眠ってたから催眠術でも聞き出せないはずだし。
「なんでって、隠しカメラよ」
「はぁ!?」
「陸の部屋に、隠しカメラを仕掛けておいたの」
「ど、どこに!?」
「本棚の上。いやー、アングル変えることができないからどうしようと思ったんだけど、ベッドの上に合わせててよかったわ~」
そうかっ、それで昨日!
あの時に仕掛けておいたカメラを回収したんだな!
「ていうか、そもそもなんでおまえが隠しカメラなんか持ってるんだよ!?」
「父さんに買ってもらったの」
「父さんに!?そんなっ、どうやって!?……あっ!」
そうか!催眠術だ!
父さんに催眠術を使って買ってもらったに決まってる!
「そーよ、父さんに催眠術をかけてね、おねだりしたの」
「おまえっ、なにやってるんだよ!?そんなことに催眠術使ったらダメだろ!それも、父さんに!」
「なに言ってんのよ?あたしだって慈善事業でやってるんじゃないんだからね!陸がみんなとどんなことして過ごすのか、そんな面白いこと見させてもらうに決まってるじゃないの!いや~、最近の隠しカメラって性能いいのね~。小さいのに映像もはっきりしてたし、長時間録画もできるんだから~」
「なに言ってるんだよ、おまえ!?」
「ごめんね~。でも、あたしもやった甲斐があったわ~。陸のことヘタレだって思ってたからどうなるかと思ってたけど、まさか、羽実と一緒に寝るとは思ってなかったわ~。夜の間は映像も真っ暗で何が何だかわからなかったけど、朝になったら陸と羽実が一緒に寝てたからビックリしちゃった」
「あっ、あれは……」
「いや、ホント、あたしも安心したのよ。陸もけっこうやるんだーって。でも、あれってどうやったの?マイクついてないから、なに話してたのかは全然わからないのよね」
どーいうことだよ、それ!?
……ていうかっ!
「そっ、そんなの話せるか!」
「え~!?教えてよ~、陸~」
そう言うと、空は僕の腕を引っ張ってくる。
「ね~、教えてよ~!」
「いやだね!」
「どうしてあたしにはそんなに邪険にするのよ~?みんなとはあんなに仲よさそうに兄妹やってたのに~!」
「自分の胸に聞いてみろ!」
「ええ~!?」
ああ……また騒がしい日々が戻ってきてしまった……。
こんなんなら、ずっと羽実と入れ替わっててくれないかな……。
空にしがみつかれながら、僕はけっこう本気でそんなことを考えていたのだった。
< 続く >