幸せのつきあたり 第2話

第2話 改竄

 その日は、ずっと涙が止まらなかった。
 あの、高校2年生の知佳が先輩に向けていた笑顔を思い出すと、胸が切なくなって気が狂いそうになる。

 どうして私は男じゃないんだろう?
 自分が男だったら、知佳に催眠術を使って私のことを好きにさせることがもう少し簡単にできたかもしれない。
 いや、そもそも催眠術なんか使わなくても、知佳のことを好きだって堂々と告白することができるのに。
 だけど、いくら催眠術でも万能じゃない。
 女の子同士で恋愛感情を持たせるのは、催眠術を使ってもそう簡単にはできないように思えた。

 私は、知佳のことをこんなに好きなのに……。
 知佳に振り向いてもらいたいのに。

 あの子と、恋人同士になりたい。
 でも、どうすればいいの……。

 あの日から、私はずっとそのことを考えていた。

 そのまま、3週間ほど悶々としながら私は考え続けた。
 知佳のことを考えるだけで苦しくて、本当におかしくなりそうだった。

 そして、最終的に浮かんだアイデア。
 知佳を、男の子を好きになれない子にしたらいいんだって。
 たとえ、どんなことをしてでも。

* * *

 私がそれを実行に移した日は、知佳がまた私の部屋に遊びに来た日だった。

 いつものように、ふたりでご飯を食べて、後片付けを済ませておしゃべりをする。

「”自分の中の鍵を開けて、知佳”」
「ん……」

 会話が途切れた時に合い言葉を言うと、知佳の瞳がぼんやりとして、ベッドにくたっと凭れかかる。

「いい?これから私が12から1までカウントダウンします。その数のひとつごとに、知佳の時間は1ヶ月戻っていって、1まで数えたら知佳の時間は1年戻るの。わかった?」
「……うん」
「じゃあ、始めるよ。……12、11、10、9、8、7、6、5、4、3、2、1。ほら、知佳の時間は1年戻ったよ」
「……うん」

 私は、この前と同じように1年ずつ知佳の時間を退行させていく。
 まず、大学1年の時へと。そして、高校3年生、続けて高校2年生、この間と同じ頃まで。
 
 今日は、前回よりもさらに少しだけ時間を戻して、2年生に上がる前の春休み、まだ、知佳が滝井先輩とつきあい始めてそれほど時間が経っていない頃まで戻す。

「知佳は今、サッカー部の滝井先輩とつきあっているよね?」
「……うん」
「でも、まだ滝井先輩の家に遊びに行ったことはないよね?」
「……うん」

 私の質問に、知佳はコクリコクリと頭を振って答える。
 前回の時に、まだ知佳はその先輩の家に遊びに行ったことはなかったから、その返事が返ってくるのはわかっていた。
 いちおう、確認のために訊いただけ。

「じゃあ、今日、知佳は滝井先輩の家に遊びに来てるんだよ。せっかくの春休みだし、先輩が誘ってくれたから」
「……あたしは……先輩の家に遊びに来てる……先輩が……誘ってくれたから……」
「そう。今、知佳の先輩の部屋でふたりっきりだよ。ほら、こっちを見て」
「……ん」

 知佳の虚ろな視線が、ゆっくりと私の方を見る。

「ほら、知佳の目の前に滝井先輩がいるよ」
「……あたしの目の前に……滝井先輩がいる」
「そう。繰り返して」
「……あたしの目の前に……滝井先輩がいる」
「もっと」
「……あたしの目の前に……滝井先輩がいる。……あたしの目の前に……滝井先輩がいる。……あたしの目の前に……滝井先輩がいる……」

 ぼんやりと私の顔を見つめながら、何度も知佳は繰り返す。

「今、知佳の前にいるのは滝井先輩がいるよね?」
「……うん。……滝井先輩がいる」
「そうだね。今、知佳は滝井先輩の家の、先輩の部屋でふたりっきりになったところだよ」
「……うん」
「じゃあ……”自分の中の鍵を掛けて、知佳”」
「ん……。あっ、えっ、あっ、せっ、先輩……」

 合い言葉を言うと、ぱちっと一度瞬きした知佳が急にもぞもぞし始めた。
 それに、やたらと耳の後ろに手を当てている。

 その癖は、私もよく知っていた。
 知佳は、緊張した時に耳の後ろに手を当てる癖があった。

 この間の時の、やたらとはしゃいでいた姿とは、だいぶ感じが違う。

「なに緊張してるんだよ、知佳?」

 怪しまれないように、男の子っぽい話し方で知佳に話しかける。
 前回と違って心の準備はできてるし、なにより、今回はそのためにこの状況にしたんだから、前よりもずっとスムーズに話せてると思う。

「えっ!あ、いや、あのっ、なんか、滝井先輩の家に来るの初めてだから、あがっちゃって……」

 そう言いながら、赤い顔をしてまたもじもじする知佳。
 この前の時は、オサム先輩、て呼んでいたのに、今回は滝井先輩って呼んでいる。
 それが、前回よりも少しだけ多く知佳の時間を戻した分の差だった。
 今の、緊張している態度といい、つきあい始めたとはいえ、ふたりの距離はまだそこまで縮まっていない。
 そして、それが私の狙い……。

「ていうか、なにあがることがあるんだよ?」
「いや、だって、男の子の家に遊びに来るのも初めてだし……」
「別に、何も気にしなくていいぞ。今日はうちは誰もいないし、おまえとふたりっきりだから」
「ふふふ、ふたりっきり!?」

 飛び上がりそうなくらいにビックリした、知佳の顔が真っ赤になる。

 知佳のその反応が面白くて思わず笑いそうになるけど、そうはしていられない。
 私は、滝井先輩のことをほとんど知らない。だから、ボロが出ないうちに早く終わらせないと。

「だから、知佳……」
「えええっ!?滝井先輩!?」

 肩に手を伸ばして知佳をぐっと抱き寄せると、今回は、私の方からその唇を奪った。

「んんっ!?んっ、ふぇんふぁい!?んぐっ!?」

 驚いて目を白黒させている知佳を抱きしめてキスしたまま、床に押し倒す。
 そして、ブラウスの上からその胸を鷲掴みにした。

「んぐぐぐぐっ!……ああっ、ダメっ、ダメだよっ、先輩っ!いやああっ!」
「なにがダメなんだよ。男の家に呼ばれて、素直に来てる時点でおまえもそのつもりなんだろ?」
「やだっ、違う!あたそはそんなつもりじゃ!」
「それに、俺たちもうつきあってるんだから、これくらいしたっていいだろ?」
「いやああっ!だめっ、やめてっ、先輩!」

 できる限り荒々しい感じで知佳の胸を揉みながら、心の中でゴメンね、て言う。

 本当にごめんね、知佳。
 もう、私、どうかしちゃってる。
 本当はこんなことしたくないけど、でも、どうしようもないの。
 自分勝手だと思うけど、こうしないといけないの。

 その時の私は、本当にどうかしていた。
 知佳のことだけをずっと考え続けて、他のことは考えられなくなっていた。

「なに言ってるんだよ、いいじゃないか」
「やだっ、やだようっ!」

 私は、知佳のブラウスを捲りあげて、ブラを上にずらす。
 そして、露わになったぷっくりと形のいい、可愛らしい胸をぎゅっと乱暴に掴む。

「ホント、いい胸してるよな、おまえは」
「いやっ、やめてっ、先輩!」
「なんだよ、暴れるなよな」

 体を捻って逃げようとする知佳の上にのしかかって、無理矢理体を押さえつける。
 知佳にしてみれば、男の先輩に襲われてるんだから本当に必死になっていた。
 私より少し体格が小さいとはいっても女の子同士だから、暴れる知佳を押さえ込むのは大変だった。

「痛いっ!痛いようっ!」
「おまえが暴れるからだろ」

 もう、わざと乱暴な振りをするとかいう問題じゃなかった。
 知佳が痛がっても、私も必死にならないと押さえ込んでいられない。

 ごめんね……。

 胸の中で謝っても、私は乱暴な言葉遣いは崩さない。

「さてと……おまえのここは、どんなになってんだ?」
「いやあっ!ダメッ、そこはだめえええっ!」

 片手を伸ばして、スカートの中に潜り込ませる。
 アソコのあたりを触ると、ビクッと体を震わせて知佳が恐怖に引きつった声を上げた。

「いやああっ、いやあああぁ!」

 ショーツをずらして、直に指でなぞる。
 時々、自分でアソコをいじって慰めるときの、滑りのある湿った感触とは全然違う。

 それも当然よね。
 こんなに怯えていて、濡れているわけがないもの。

「いやっ!やめてっ、やめてええええええっ!」
「な、いいだろ、知佳?」
「いやっ!」

 完全にパニックになって暴れる知佳を、体をいっぱいに使って押さえ込む。

 ごめん……本当にごめんね……。

 心の中で詫びると、私は目をぎゅっと瞑って、全く濡れてもいない知佳のアソコに指を2本突き入れた。

「いやあああああああああああっ!」
「”自分の中の鍵を開けて、知佳”っ!!」
「あぁっ……」

 悲鳴を上げる知佳の耳に口を寄せて、私も半ば叫ぶように合い言葉を口にする。
 次の瞬間、知佳の悲鳴が途切れて、もがいていた体から力が抜けた。

「知佳……」

 ぐったりと横たわっている知佳の頬にそっと手を当てる。
 その顔は、涙に濡れてぐしょぐしょになっていた。
 虚ろに開いたままの目には、まだいっぱいに涙が浮かんでいる。

「こんなことしてごめんね……」

 知佳には届かないお詫びの言葉を、小さく呟く。

 どれだけ謝っても、許してもらえることじゃない。
 だって、これから私がしようとしていることは……。

「あなたは今、なにをされていたの、知佳?」
「あたし……滝井先輩の部屋に行って……そして、そして……無理矢理先輩に……」

 ぼそぼそと話し始めた知佳の唇は、まだ小さく震えていた。

「そうよ。知佳は、滝井先輩に襲われて、無理矢理犯されてしまったの」
「そんな……信じていたのに……こんなことが……」

 知佳の目から、また涙がこぼれ落ちる。

「そうよね。知佳は滝井先輩のことが好きだったし、先輩のことを信じていたのにね」
「うん……。ひどい……ひどいよ、こんなの……」
「でも、わかったでしょ、男の人なんか信用できないって」
「男の人は……信用できない……。うん……」
「そうよ。男の人なんか信用できないわ。結局は女の子の体が目当てで、少し気を許すと力ずくで襲ってくる。好きな先輩でもそうだったんだもの。男の人は本当に怖いの」
「うん……男の人……怖い……」

 ぼんやりとした表情で、私の言った言葉を繰り返す知佳。
 その目から、どんどん涙が溢れてくる。

 ……私、最低の女だ。
 知佳の大切な思い出を滅茶苦茶にして、それを利用しようとしている。

 でも、そうまでしてでも知佳の気持ちを私に向かせたい。
 その思いが、どうしようもないほどに膨らんでいた。

「そう。絶対に忘れたらだめ。男の人は信用できないし。すごく怖いの。こっちが少しでも気を許したり、好きになったりしたら、すぐに狼みたいに襲ってくるんだから」
「うん……男の人は信用できないし……すごく怖い……」
「そうよ。だから、男の人には絶対に気を許したらだめ。好きになってもだめ」
「男の人に……絶対に、気を許したらだめ……好きになってもだめ……」

 苦い罪悪感を感じながら、私は知佳に男性への不信感と恐怖心を植え付けていく。
 知佳は、それをブツブツと繰り返す。

「それじゃあ、これから知佳の中の時間をすすめるよ。私がひとつ数えると、知佳の中の時間は1ヶ月進んでいくの。わかった?」
「うん……」

 そして、私は知佳の中の時間を今へと戻していく。
 最初は数ヶ月だけ進めて、また尋ねる。

「ねえ、今、知佳に好きな男の人はいるの?」
「いない……。男の人は怖いもん……男の人なんか……信用できないもん……」
「そうだよね。男の人は怖くて、好きになんかなれないよね」
「うん……」
「じゃあ、もう少し知佳の時間を先に進めるよ」
「うん……」

 男性への恐怖と嫌悪を刷り込むように、少しずつ時間を進めては確認していく。

 そして、今の知佳まで戻すと……。

「知佳、好きな男の人はいる?」
「いない……!男の人なんか……大嫌い!」

 私の質問に、虚ろな瞳のまま、知佳は唇を震わせて激しい拒絶反応を示す。

「うん、そうだよね。男の人は好きになれないよね。……じゃあ、女の子はどう?」
「……女の……子?」
「そう。今、知佳に仲のいい友達はいるの?」
「サッちゃん……橘、沙月ちゃん……」

 知佳の口から、私の名前が出てくる。
 それは、予想はしてたことだけど、やっぱり胸が高鳴ってしまう。

「知佳は、サッちゃんのことは好き?」
「うん……好き……」
「じゃあ、サッちゃんと恋人同士になれたら素敵と思わない?」
「サッちゃんと……恋人同士に……?」
「そうよ。知佳は男の人が好きになれないでしょ。だけど、女の子なら好きになれるんじゃない?」
「女の子なら……好きに……?」
「そう。知佳は女の子のことしか好きになれないじゃないかな?だって、男の人は嫌いなんだから」
「あたしは……女の子のことしか好きになれない……」
「そう。きっとそうだよ。知佳は、女の人しか好きになれないのよ」
「そう……かもしれない……」
「でね、知佳はサッちゃんのことが好きなんでしょ?」
「うん……」
「だったら、サッちゃんと恋人同士になれたらいいと思わない?」
「あたしが……サッちゃんと…………でも……」

 一瞬、知佳が嬉しそうに口元を緩めた。
 だけど、すぐに表情を歪める。

「でも、どうしたの?」
「私たち……女の子同士だから……そんなのって、普通じゃないから……。サッちゃんに好きだって言ったら……あたしとつきあってって言ったら……サッちゃんに嫌われちゃうかもしれない……」

 ……ああ、その気持ち、わかるよ、知佳。
 私がそうだったんだもの。

 知佳に恋愛感情をもっていた私は、だけど、それを知佳に伝えたら嫌われてしまうんじゃないかと思ってずっと言えずにいた。
 それは、今の知佳と同じ。
 だから、私はこんなひどいことまでして……。

「ねえ、知佳。ちょっとサッちゃんにキスしてみるのはどう?」
「サッちゃんに……キス?」
「うん。女の子同士でもキスくらいだったら、サッちゃんも気にしないんじゃないかな?」

 私がそんなことを言い出したのは、何かきっかけが欲しいと思ったから。
 知佳のためだけじゃなくて、私としても。
 好きだと言ったら嫌われるんじゃないかと心配する知佳の気持ちは、私にはよくわかる。
 だから、もう少しだけ、好きだって言ってもいいんじゃないかと思えるくらいに知佳と私の距離を縮めたい。

 それに私だって……。
 これだけひどいことをして、いきなり私から告白する気にはとてもなれなかった。
 それは、こんなことを知佳にしておいて、自分勝手なのはわかってる。
 でも、今日の私、絶対におかしい。
 なんか、黒くてドロドロしたものが胸の奥で渦巻いている。
 こんな気持ちのままで、あんなことをした後で告白するのは気が引けた。

「ね?ちょっとした挨拶だよ。知佳は、サッちゃんと別れるときに、さよならのキスをするの」
「さよならの……キス……」
「そうだよ。そうしたら、知佳はサッちゃんのことをもっと好きになって、次にサッちゃんと会うのが待ち遠しくなるの」
「サッちゃんのことを……もっと好きになって……サッちゃんと会うのが……待ち遠しくなる……」
「ね?素敵でしょ、さよならのキス?」
「うん……」
「決まりだね。じゃあ、体を起こして、知佳」
「うん……」

 私に押し倒されたままの体勢で仰向けになっていた知佳が、ゆっくりと体を起こす。
 涙で濡れたその顔を優しく拭い、乱れた服をきれいに直してあげる。

「それじゃあ、合い言葉が聞こえたらすっきりした気持ちで目を覚ますよ。今日、知佳はいつものようにサッちゃんと晩ご飯を食べて、今まで楽しくおしゃべりをしていたの」
「うん……」
「で、忘れたらいけないのは、帰るときにサッちゃんにさよならのキスをすること」
「うん……」
「じゃあ……”自分の中の鍵を掛けて、知佳”」

 合い言葉を言うと、知佳がパチパチと目をしばたたかせて私の方を見る。

「……ん?あれれ?……サッちゃん、あたし?」
「どうしたの、知佳?ぼさっとしちゃって?」
「あたし、さっきまでなんの話をしてたっけ?」
「なにって、知佳が春物のワンピースの可愛いの見つけたとか、新しいケーキ屋見つけたとか言って、今度の休みに買い物行こうよ、とか言ってたんじゃないの」
「あ、そうか!へへへっ!」
「もう、知佳ったら寝惚けてんの?どうせまた深夜までマンガ見てたんでしょ?」
「ごめんごめん!」
「もう~、今日はさっさと寝なさいよ」
「わかってるよ~!……て、もうこんな時間じゃない!じゃ、そろそろ帰るね!」
「うん、じゃあ、そこまで送っていくね」
「うん!」

 いつものように、部屋の外まで知佳を見送りに出る。

「じゃあね、また明日、知佳」
「うん……。あのね、サッちゃん……」

 いつもと違うのは、知佳が、もじもじとしていること。

「どうしたの、知佳?」
「うん……。サッちゃん、これはね、あたしからのさよならのあいさつ。……ちゅ」

 顔を赤くして、少し恥ずかしそうに顔を近づけてきて、知佳が私の唇にそっとキスをした。

「ん……知佳?」
「てへへへっ!じゃあ、また明日ね、サッちゃん!」

 すぐに唇を離して、照れたように笑うと、知佳は自分のマンションの方に小走りで走っていく。
 知佳の唇か当たっていた場所をそっと触ると、まだキスの感触が残っているような錯覚を覚える。
 その余韻に浸りながら、知佳の後ろ姿が見えなくなるまでずっと私は見送っていた。

* * *

 そして、次の日。

「あっ、おはよう!サッちゃん!」

 学校に行くと、私の姿を見るなり知佳が駆け寄ってきた。

「もうっ!サッちゃんったら来るのが遅いよ!」
「えー?そんなことないと思うけど」
「いーやっ!絶対遅いよ!授業の前にサッちゃんとお茶しようと思ってたのに!」
「いや……そんなのしたことないでしょ。だいたい、知佳の方が寝ぼすけで、いつも授業ぎりぎりに来るじゃないの」
「だって!なんとなく、授業の前にサッちゃんとおしゃべりしたい気分だったんだもん!」

 知佳の明るい表情に、ホッとしている自分がいた。

 本当は、かなり気になっていた。
 私に催眠術をかけられたことに気づいてない様子だったけど、あんなことをしてしまって、知佳になにか悪い影響を与えてるんじゃないかって。
 でも、いつものように、いや、いつも以上にはしゃいでいる知佳には、特に変わったところはない。

 それに、あのさよならのキスの暗示も効いているみたい。

 知佳は、私と話をするのが楽しくてしかたがないといった様子だ。
 まあ、普段から明るい子だけど、今日はさらにテンションが高い。
 きっと、昨日の暗示の効果が出ているのに違いなかった。

「さ、授業行くわよ、知佳」
「あっ!待ってよ、サッちゃん!」

 私が、できるだけ何気ない様子を装って歩き始めると、知佳も慌ててついてくる。

 ただ、知佳がいつも大きく違うところがひとつだけあった。

「ねえ、サッちゃん、ちょっとお願いがあるんだけど……」

 もうすぐ授業開始のベルが鳴るっていう時に、知佳が私の袖を引っ張ってきた。
 なんだかその表情が固い。

「どうしたの?知佳?」
「うん……席を替わって欲しいんだけど……」
「……え?いいけど?」
「ありがとう、サッちゃん」

 よくわからないけど、窓際の席に座っていた私は知佳と席を入れ替わる。

 あっ……。

 さっきまで知佳が座っていた席に着いてみてはじめてわかった。

 今、知佳が座っているのと反対側、今、私が座っている右側に男の子が座っていた。
 体育会の部活でもやってるのか、がっしりした大柄な体格。
 見知った顔じゃない。
 この授業は大教室での講義で、他の学部や学年の学生も受けてるから知ってる人ばかりとは限らない。

 だけど……。

 これって、昨日のあれのせいだよね?

 席を自分と替わっても、知佳は不安そうに男子の方をちらちらと見ている。
 明らかに、怖がっているような表情で。

 今まで、知佳がそんな表情を見せたことはなかった。
 もともとが天真爛漫で、誰とでも気さくに話をする子だし、そんなことを気にするタイプでもない。
 それはきっと、昨夜自分が知佳に植え付けた、男の人への恐怖と不信感のせいだ。

 ……知佳。

 そう。
 昨日、あんなことをしてしまったのはたしかにそれが目的だったんだけど。
 でも、私の陰に隠れるように体を寄せて縮こまっている知佳の姿を見ていると、なんだか複雑な思いがする。

 その日、私は注意して知佳の様子を見ていた。

 先生や、同じゼミの顔見知りの男子には、まだ普通に返事をしているように見える。
 ただ、いつもより肩に力が入ってるようにも見えるので、知佳の本心はわからない。
 違いが顕著なのは、知らない相手、特に体育会系の体格のいい男子と至近距離ですれ違った時だった。
 明らかに怯えた表情を浮かべて、こっちに体を寄せてきた。
 私の腕を掴んだ知佳の手に、ぎゅっと力がこもっていた。

 知佳に頼られていると思うと、少し嬉しくもあったし、でも、自分勝手な想いから彼女をそんな風にしてしまったのは私自身だと思うと少し胸が痛んだ。

 そして、帰り際。

「それじゃ、あたしはバイトがあるから!」
「うん、じゃあ、また明日、知佳」
「うん!…………ちゅっ」

 周囲を見回して、他に人がいないのを確かめると、知佳は体を近づけてそっとキスしてきた。

「じゃあ、また明日!サッちゃん!」

 短いキスをしてから、手を振って知佳は駅の方に駆けていった。

* * *

「おはよ、サッちゃん!」

 次の朝も、飛びつきそうな勢いで知佳が駆け寄ってくる。
 そして、そのまま私の腕を掴む。

「ちょっと!どうしたのよ、朝っぱらから?」
「うん、なんかね、ちょっとこうしていたい気分なの!」

 私の腕に自分の腕を絡ませて体を寄せ、無邪気な笑みを浮かべる知佳。

 ……そう。
 あのさよならのキスは、魔法のキス。
 あれをすればするほど、知佳は私と会うのが待ち遠しくなって、私のことを好きになる。
 もちろん、大学生だから毎日会うわけじゃないけど、学校に行けば必ず知佳と会うし、週に1度はどちらかの部屋に遊びに行く。
 そのたびに、別れ際に知佳は私にキスをして、どんどん私のことを好きになっていく。

 だから時々、知佳とおしゃべりをしていると会話が途切れることがあるようになった。

 気がつくと、知佳が黙ったままぼうっと私の方を見てたりする。
 どうしたの?って訊くと、顔を真っ赤にして「な、なんでもないよっ!」って慌てて答える。
 それに、何か言いかけてやめるような素振りを見せることも。

 ……そろそろ、告白しても受け入れてもらえるかな?
 そう思うけど、いざとなるとやっぱり臆病になってしまう。
 これだけは、絶対に失敗したくない。
 だから、知佳がもう少し私のことを好きになってから。
 いや、それよりも、知佳の方から告白してくるのを待った方がいいのかな……。

 そんなことを考えていたある日……。

 その日は、私が知佳の部屋に遊びに行っていた。

「ねえ、サッちゃんって好きな人とかいるの?」

 いつものように何気ないおしゃべりをしていたときに、知佳がそう訊いてきた。
 顔には出さないけど、胸の内で私は、ついにその時が来た!と期待してしまう。

「え?いないけど、なんで?」
「あ、いや、サッちゃんってきれいだし、男の人に告白されたりとかするんだろうなって。もしかしたら、つきあってる人とかいるのかなって思って」
「なによ、それ?そう言う知佳は好きな男の人とかいるの?」

 もちろん、自分が知佳にやってしまったことを考えると、どういう答えが返ってくるのかわかってるつもりだった。
 ただ、その時は話の流れで、ごく軽い気持ちでそう訊いただけだったのに。

「男の人なんか大嫌いよ!」
「えっ!?」
「男の人なんか嫌い!信じてたのに、こっちがちょっとでも気を許すとすぐにひどいことをしてくるんだから!男なんか信用できない!」
「知佳……」

 吐き捨てるようにそう言った知佳の、あまりに激しい口調に私は言葉を失ってしまった。
 だけど、すぐにはっとした顔になって、慌てて私に向かって手を合わせてくる。

「あっ!ごめんね、サッちゃん。あたし……」
「ううん。私の方こそ変なこと訊いちゃってごめんね」
「いや、サッちゃんは悪くないから!悪いのはあたしなんだから、ねっ」

 気まずそうに知佳が謝ってくるけど、それは違う。
 だって、本当に悪いのは私なんだから……。

 さっきの知佳の激しい口調。
 その、心底不愉快そうに顰めた顔も、知佳のそんな表情は今まで見たことがなかった。

 無邪気で純真だった知佳の心に、こんな陰を作ってしまったのは私。
 知佳の気持ちを私に向けさせるようにするために、男の人を好きにならないようにして、知佳の思い出も心も歪めてしまった。

「ごめんね、知佳……」

 私が知佳にした、本当のことを言うわけにはいかない。
 だけど、謝らずにはいられない。

「だから、なんでサッちゃんが謝るの?悪いのはあたしなのに……」

 もちろん、私が謝った本当の理由は知佳には伝わらない。

 ばつが悪そうにしている知佳を見ていると、ズキンと胸が痛む。

 私……自分から告白するのが怖くて、知佳の方から告白してくるのを待とうなんて虫が良すぎるよね……。
 あれだけひどいことをしたんだから、せめてそれだけは私の方から切り出さないと。

 そうだよね……だから、今、ここで言おう。

 そう覚悟を決めると、真剣な顔で知佳を見つめる。

「あのね、知佳……」
「なに?サッちゃん?」
「さっき、私、好きな人はいないって言ったでしょ?」
「うん」
「本当はね、好きな人はいるの」
「えっ!?」

 私の言葉に、少しショックを受けた表情を浮かべる知佳。
 だけど、続けて私が言ったことには、もっと驚いたみたいだった。

「実はね、私が好きなのは知佳なのよ」
「へ……?えっ、ええーっ!?」
「あのね……私、ずっと男の人を好きになれなくて、女の子しか好きになれなくてね……。それでね、知佳のことをかわいいなって、知佳みたいな子と恋人同士になれたらいいなって、ずっとそう思ってたの」
「なんだぁ、サッちゃんもそうだったんだぁ……」

 驚いて目を丸くしていた知佳が、拍子抜けしたようにペタンと突っ伏した。
 そのまま、頭を抱え込んで知佳はブツブツ言っている。

「ああもう、あたしったらなにしてたんだろう……バカみたいじゃないのぉ……」
「ちょっと、知佳?」
「あのね、サッちゃん。あたしもね、男の人なんか大嫌いで、好きになれなかったんだけど……」

 ……うん、知ってる。
 だって、知佳をそんな風にしたのは私なんだから。

 やっと顔を上げてこっちをじっと見つめてくる知佳の眼差しを、私も真っ直ぐに受け止める。

「それでね、サッちゃんとは仲のいい友達のつもりだったんだけど。だけど、もしかしたらあたし、サッちゃんのことが好きなんじゃないかって……。でも、言えなかった。サッちゃんのことを好きだって言ったら、嫌われちゃうんじゃないかって」
「うん、わかるよ、その気持ち。だって、私たち女の子同士だもんね。なかなか言えないよね。私も、知佳に嫌われるのが怖くてずっと言えなかったの」
「そうだったんだ……」
「ごめんね、知佳。私の方から言ってあげればよかったのにね」
「ううん。サッちゃんは悪くないよ」

 今日3度目のごめんねを言うと、知佳はふるふると頭を振って応える。

「ありがとう、知佳。じゃあ、今から言わせてもらってもいい?」
「待って、サッちゃん!」

 改めて告白しようとした私を、知佳が慌てて止めた。

「えっ?どうしたの、知佳?」
「うん……。あのね、サッちゃんもあたしのことが好きで、あたしもサッちゃんのことが好きなんだから、そのね……ふたりで同時に言ったらどうかなって……へへへ……」

 訝しんでいる私に、照れ笑いを浮かべながら知佳がそう言った。
 ふたりで同時にっていうその提案がいかにも知佳らしくて、思わず頬が緩んでしまう。

「うん、いいわよ、知佳」
「ありがとう、サッちゃん。じゃあ、せーの、で言おうよ」
「いいよ」
「じゃあ、いくよ。……せーのっ!」

「ずっと知佳のことが好きだったの。だから、私とつきあってくれるかな、知佳?」
「あたしはサッちゃんのことが大好き。だから、あたしとつきあってちょうだい、サッちゃん」

 知佳の合図で、ふたりで同時に告白する。
 そして、互いに見つめ合って頷いた。

「いいよ、知佳。ふふふっ」
「うんっ、サッちゃん!てへへっ」

 照れ隠しに、お互いに笑い合う。

 でも、知佳は本当に嬉しそうな顔をしていた。
 間違いなくその笑顔は私に、私だけに向けられた笑顔だ。

 これで……これで知佳と恋人同士になれたんだ……。

 私の胸にも、喜びがこみ上げてくる。
 生まれて初めて恋が叶った。
 好きになった子とつきあうことができる喜びが。

「ねえ……キスしようよ、知佳」
「うん……」

 腕を伸ばして抱き寄せると、知佳は素直に頷く。
 そして、ゆっくりと顔を近づけて唇と唇が触れる。

「ん……」
「んふ……」

 これまでの、さよならのキスみたいなすぐに終わってしまうキスじゃなくて、お互いの唇の感触をじっくりと確かめ合うキス。
 私の唇に当たる、柔らかい感触。
 鼻からもれてくる知佳の吐息が、私の肌をくすぐる。

 こうやって、抱き合って唇を重ねているだけでぽかぽかと胸が温かくなってきて、幸せな気持ちでいっぱいになってくる。

「ん……。知佳……」
「んっ……。てへっ、サッちゃん……」

 やっと唇を離すと、照れくさくて黙ったまま見つめ合う。
 恥ずかしいのか、知佳の顔は真っ赤になっていた。
 私も、火照ったように顔が熱くなっているのを感じていた。

 ちょっとの間、そうやって見つめ合った後で、知佳がはにかみながら口を開いた。

「改めて、これからもよろしくね、サッちゃん」
「うん、私も、知佳」

 そう答えると、今の私の気持ちをいっぱいに込めて、知佳をぎゅっと抱きしめる。
 その時の私は、知佳への想いを遂げることができて本当に幸せな気持ちでいっぱいになっていたのだった。

< 続く >

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