僕の彼女は催眠術をかけたときしか素直になってくれない 第1話

第1話

はじめての催眠術

「ふーん……なるほどなぁ……」

 ページをめくりながら、僕は感心しっぱなしだった。
 それは、『1日でマスターできる催眠術~今日からキミも達人だ!~』っていうタイトルの本だった。
 昨日の夜、テレビでアイドルたちに催眠術をかけまくるっていう番組をやってたんだけど、それを観て催眠術ってすげえって思って、学校の帰りに寄った本屋で目についたその本をついつい買ってしまったというわけだ。

「へえぇ……こんな方法もあるのか。こんなに簡単そうな方法で? マジかよ……」

 その本にはいろんな催眠術のかけ方や実際にかけたときのこととかが書いてあったけど、どれもけっこう簡単そうなやり方に見える。
 こんなので自由に催眠中をかけることができるようになったらすごいよな、ホント。

 そう思いながら本を読むのに夢中になっていたら……。

「ケーンータ! ゲームしようよっ!」
「……うわっ!?」

 勢いよく部屋に飛び込んできたのは、隣の家に住んでる桜井優帆(さくらい ゆほ)。
 僕、石橋健太(いしばし けんた)とは幼稚園の時からずっと一緒。しかも、小、中、高と奇跡的にクラスも同じという幼馴染みだ。
 今、こうやって勝手に部屋に入ってきたのでわかるように、お互いの家は出入り自由。優帆のおじさんおばさんとうちの父さん母さんも仲がいいし、僕らが生まれる前からの家族ぐるみのつき合いがあった。
 そんなわけだから僕と優帆はいつも一緒にいるのが当たり前の、兄妹みたいな……いや、姉弟みたい? 同い年だからどっちでもいいしどっちでもないんだけど、とにかく小さな頃からそんな関係だった。
 まあ、超元気印で活発な優帆にいっつも僕が振り回されてるような感じだけど。

「おまえな、ノックくらいして入れよ!」
「なに言ってんの? 今までそんなコトしたことないじゃない」
「いや、そうだけどさ」
「どしたの、ケンタ? ……なになに? なに隠してるの?」
「あっ、優帆っ、こら!」

 とっさに隠した本を目ざとく見つけた優帆が興味津々で寄ってくると、さっと本を取りあげた。

「なになに……『1日でマスターできる催眠術』って……催眠術?」
「……いや、昨日テレビでやってるの観てさ」
「あーっ、あたしも観た観た! すごかったよね、あれ! なに? ケンタもあれできるの!?」
「無茶言うなよ。さっきこの本買ってきたばっかなんだから」
「でもでもっ、1日でマスターできるって書いてあるじゃん! ちょっとあたしにかけてみてよ!」
「はい? なに言ってんの、おまえ?」
「だからぁ、あたしに催眠術かけてみてよ!」
「かけるもなにも、まだ本読んでただけで練習もしてないんだぞ」
「じゃあ好都合じゃん! あたしで練習してみてよ! ねっ、ねっ?」

 よほど催眠術に惹かれたのか、大きな目をやたらとキラキラさせて優帆が迫ってくる。

 いちおう優帆の名誉のために言っておくけど、優帆の学校での成績は僕よりもずっといい。
 学年トップとまではいかなくても、いつも上位には入ってる。
 まあ、成績がいいのとやんちゃな性格は関係ないんだろうけど。
 
「おまえな、催眠術をかけられて変なことされたらどうしようとか思わないのかよ?」
「変なことって?」
「いや、優帆が困るようなこととか、その……いやらしいこととかさ」
「へ? ケンタがそんなことするわけないじゃん」

 と、けろっとした顔で言ってくる。
 ……って、少しは警戒しろよな。

 ていうか、優帆からしたら僕はそんな”安全な男”に見られてるんだろうか?
 それはそれで情けない気がするけど。

「優帆……おまえなぁ……」
「とにかく、あたしがいいって言ってるんだからいいじゃん。ちょっと催眠術かけてみてってば!」
「ああもうわかったよ!」
「やった!」

 そんなわけで、完全に勢いに押される形で優帆に催眠術をかけることになったんだけど……。

「ほらほら、早く!」
「ちょ、ちょっと待ってよ」

 優帆に急かされながら本のページをめくる。
 さっきパラパラと読んだだけだし、それだけでやってみろって言われてもなぁ。

 ……ええっと、たしか催眠術を成功させるには、かける側とかけられる側の間に信頼関係を作っておかないといけないんだっけ?
 ラポールとか言うみたいだけど。

「なにしてるのよ、ケンタ! 早く催眠術をかけてよぉ!?」

 当の本人がこんなにかけてもらう気満々だし、それはもう充分だよね?
 で、ふたりの間に信頼関係ができてたら……。
 さっき本で読んだことを思い出しながら、優帆に次の指示を出す。

「ちょっと静かにして、優帆。僕の方を向いて真っ直ぐ座って、深呼吸して」
「え? うん、わかった。すぅー、はぁー……すぅー、はぁー……」

 僕に言われたとおりに優帆がこっちに向き直って、深呼吸をはじめた。

 これは、いったん優帆を落ち着かせるため。
 だって、優帆ったら無茶苦茶テンション高いんだもん。
 本に書いてあったけど、催眠術にかかってる精神状態ってものすごく集中してるみたいなものなんだって。
 だから気が散りやすかったり、やたらハイになって集中できないと催眠術にもかかりにくいみたい。
 ちょうど今の優帆みたいだよね。
 それで、優帆が集中しやすいように深呼吸させたんだ。

 で、いよいよなんだけど。

「じゃあ、始めるよ」

 そう言うと、僕は優帆の右手を取って水平に持ち上げる。

「僕と一緒に10から0まで数えながら、ゆっくりと腕を降ろして。10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、0……」
「10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、0……」

 10からカウントダウンをしながら、添えた手を動かして優帆の腕をゆっくりと降ろさせる。
 ちょうど0で下まで降ろすと、また水平に持ち上げさせた。

「もう一度、10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、0……」
「10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、0……」
「こうして腕をゆっくりと降ろしていくと気持ちも落ち着いていくよ。ほら、10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、0……」
「10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、0……」
「そうそう。こうしてると、優帆の気持ちはどんどん深いところに降りていくよ。10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、0……」
「うん……。10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、0……」

 ふたりでカウントダウンしながら、優帆の腕を上げてはゆっくりと降ろしていく。
 いつの間にか、優帆も真剣な顔になって上げ下げする腕を見つめていた。
 すっごく集中してるみたいに。

 それを、何回繰り返しただろう。

「もう一回。10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、0……」
「10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、0……」

 あれ?
 僕が力を入れなくても、優帆の腕が勝手に降りていってる?
 それも、正確に同じペースで。

「それじゃあもう一回。10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、0……」
「10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、0……」

 やっぱりそうだ!
 僕がなにもしなくても優帆の腕がゆっくりと降りていってる!
 それに、じっと自分の腕を見つめてる優帆の真剣な表情。
 なんか、いつもの優帆とは雰囲気が違ってる気がする。

 こんな感じでいいのかな?

 なにしろ初めてのことだからうまくいってるのかどうかはよくわからないけど、うまくいってるような気はする。

「もういいよ、優帆。それじゃ、次はこの指をよーく見て」

 そう言うと、僕は右手の人差し指と中指を優帆に向かって突き出す。

「いいかい、よく見て。じっと見つめるんだよ」
「……うん」

 小さく頷いて、優帆がじっと指先を見つめる。
 さっきまでと同じ真剣な表情のままだけど、なんだか反応が鈍い気がする。

 そんな優帆の目に向かって、すっと指を近づける。

「……っ!」
「ほら、もう優帆は目を開けることができないよ」

 反射的に閉じられた優帆のまぶたに軽く、本当に触れるか触れないかくらいの感じで指を当てる。

「……え? ホントだ、目が開かないよ……」

 目を閉じたまま、優帆が驚いたような声を上げる。
 もちろん、僕がそっとまぶたに触れた状態なんだから優帆だって簡単に目を開くことができないに決まってる。

 だけど、これはそういう問題じゃないんだって本に書いてあった。
 今さっきまでやってたことで、本当はもう軽い催眠状態になってるんだって。
 で、それを自覚させるっていうか、自分は催眠術にかかってるんだって思わせることでもっと深い催眠術をかけることができるようになるらしんだけど。

「優帆はもう催眠術にかかってて、僕の言ったとおりにしか動けないんだ。だから目を開けることができないんだよ」
「……そうなんだ」

 やっぱり、優帆の反応が少し鈍い気がする。
 ただ、それ以上の手応えがあるかっていうとよくわかんないけど。
 でも、とにかくやるしかないよな。

「いいかい? 今の優帆は僕が言ったとおりになってしまうんだ。それじゃあ今度は、50から0まで数えていくよ。そうしたら、優帆はどんどん気分が楽になってくるよ」
「……うん」
「じゃあ数えるよ。50、49、48、47、46、45、44、43、42、41、ほーら、すごく楽な気分になる。40、39、38、37、36、35、34、33、32、31、どんどん気持ちよくなっていって、体から力が抜けていくよ。30、29、28、27、26、25、24、23、22、21、ほら、気持ちがいいよね? 力が抜けて、なんだかふわふわして、なにも考えられなくなるよ。20、19、18、17、16、15、14、13、12、11、優帆はもうなにも考えられない。ただ僕の声しか聞こえない。10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、0、ほら、もう僕の声しか聞こえない。優帆は僕の声だけ聞いて、僕が言ったとおりにしてたらいいんだ」

 カウントダウンしながら、10数えるごとに深く催眠術にかける言葉を囁いていく。
 それに合わせて、優帆の肩からみるみる力が抜けていくのが僕にもわかった。
 本にはこれで完全に催眠状態になるって書いてあったけど……。

「目を開けて、優帆」
「……うん」

 僕の声に反応して、優帆が目を開く。
 その様子は、明らかにいつもの優帆とは違ってた。
 いつもは元気いっぱいで笑ったり怒ったりの感情表現が大きいのに、今は全然表情がない。
 開いた目もどこを見てるのかわからないし、なんだかどんよりしている。

「右手を上げて」
「……うん」
「じゃあ、右手を下げて、今度は左手を上げて」
「……うん」

 僕の言ったとおりに、優帆は無表情のまま手を上げ下げする。

 ていうことは、催眠術をかけるのに成功したの!?

「ふえぇ……本当にかかっちゃったんだ……」

 虚ろな表情で座っている優帆を見て、思わずそう呟いていた。
 僕って、ひょっとして催眠術の才能があるのかも。
 そう思わずにはいられない。

 ……って、でも、今の優帆ってなにもわかってないよね?
 催眠術がうまくいったことをどうやったら優帆にもわかってもらえるんだろう?

 たしか、昨日のテレビだと催眠術をかけられた人が、よく知っている人の名前を忘れたり、特定の数字やアルファベットがわからなくなるっていうのをやってたよな。
 じゃあ、とりあえずそれでいってみるとするか。

「いいかい、優帆。優帆は、3と7の数のことがわからなくなるよ。数字の3と7が思い出せないだけじゃなくて、3ていう数と7っていう数そのものがわからなくなるんだ」
「……うん」

 僕の言葉に、優帆がコクリと頷く。
 テレビでやってたのはひとつの数だけだったけど、2ついっぺんにできたらすごいよな。
 ……あと、そうだ!

「優帆は、チョコレートって言葉が思い出せなくなる。ものを見てもチョコレートって名前が出てこないし、名前を聞いてもすぐに忘れてしまうよ。いいね?」
「……うん」

 また、僕の言葉に優帆が頷く。
 チョコは優帆の大好物だから、その名前が出てこなかったら催眠術は完全に成功したってことだよね?

「それじゃあ、僕が手を叩いたら優帆は目が覚めるよ。ただ、3と7がわからないのと、チョコレートって言葉を忘れてしまってるのはそのままだよ、いいね?」
「……うん」
「じゃあ、目を覚まして、優帆」

 そう言って、手をパチンと叩く。
 すると、優帆はハッとした顔でキョロキョロ周りを見てから、僕の方を見て首を傾げる。

「あれ? ケンタ、あたし……」
「優帆のお望み通り、催眠術をかけてあげたよ」
「ええっ、そうなの!? ……でも、なにも変わったことなさそうなんだけど?」

 と、優帆がもう一度自分の姿や周りを見回して首を傾げた。

「そう思う? だったら、ちょっと1から10まで数えてみてよ」
「え? いいけど? 1、2、4、5、6、8、9、10……これがどうかしたの?」
「ちょっと待ってよ。本当にそれでいいと思ってるの?」
「ええっ? だって、1、2、4、5、6、8、9、10……ほら、なにもおかしくないじゃん」
「えっと……ちょっとここに書いてみて」
「いいけど……」

 僕がノートを広げると、優帆はそこに124568910って数字を書き込んでいく。

「……本当におかしいって思ってないの?」
「うん」
「じゃあ、ちょっとこれ見てよ」

 僕は、スマホのタッチパネルを優帆の前に突きつける。
 これなら、0から9までの数字があるからさすがにわかるよね。

「ここの数字を全部読んでみてよ」
「いいわよ。1、2、4、5、6、8、9、0……だよね?」
「……ふざけてないよね?」
「なにわけわかんないこと言ってんのよ! ふざけてるわけないじゃない!」

 と、優帆は少々いらだち気味だ。
 だけど、タッチパネルにはっきりと3と7があるのに飛ばして数えるなんて、とてもじゃないけど信じられない。

「じゃあさ、今度は指を使って1から10まで数えてみてよ」
「なんなのよ、ケンタったら……1、2、4、5、6、8、9、10」

 当然だけど、3と7を飛ばして数えた優帆の指は2本余っていた。

「……どうして指が余ってんの?」
「あ、あれっ!? なんで? 1、2、4、5、6、8、9、10……あれっ!? 合わない!? 1、2、4、5、6、8、9、10……やだっ、どうして!?」

 優帆は何度も何度も指を折って数えるけど、何度やっても指が余ってしまう。
 それでパニックになってる優帆が、ちょっと可哀想になってきた。

「あのさ、優帆。3と7は?」
「えっ? えっ? なに? さんとななってなんなの!?」
「ホントにわからないの?」
「全然わからないわよ! いったいあたしどうなっちゃったの!?」
「ちょっと落ち着こうよ。つまり、僕が催眠術で1から10までの数のうち2つをわからなくさせたんだよ。ほら、昨日のテレビでも同じことやってただろ?」
「嘘!? そうなの?」
「そうだよ。だって、そうしないと僕が催眠術をかけたってことが優帆にわからないじゃんか」
「じゃあ、ホントにあたし催眠術にかかっちゃったんだ?」
「そういうこと」
「じゃあ、ケンタがわからなくさせた数って」
「だから、3と7だって」
「だからなんなのよ、さんとななって!?」
「いや、だから……」

 ああもう、催眠術にかかった状態じゃラチがあかないよ。

「ああもうなんか気持ち悪いよぉ~! どうして数が2つ出てこないのよ!」
「落ち着けってば。それはちゃんとまた元通りにするから。それよりも、これ食べる?」

 と、こんどは机の引き出しからチョコを取り出した。

「あ、食べる食べる!」
「じゃあ、これが何か言ってくれたらあげるよ」
「えっと、あれよ、あれ! あたしの大好きなやつ!」

 うん、それはわかってるよ。

「だからこれは何なのさ?」
「だからあれだって! ちょっとど忘れしただけだから! あれじゃないの、あたしの好きなやつだってば!」
「それは知ってるってば」

 ていうかそれ2度目だし。

「どうしてそんなに好きなものの名前が出てこないんだよ」
「ううー、それはぁ……もうっ、ケンタったら意地悪しないでよ!」
「別に意地悪してるわけじゃないけどさ」
「ごめん、思い出せない! だから、教えて!」

 と、思い出すのを諦めた優帆が手を合わせて拝み込んでくる。

「仕方がないなぁ……チョコレートだろ」
「そうっ、それっ! その……あれ? なんだったっけ?」

 僕が正解を言うと勢いよく身を乗り出してきたのに、急に訝しげに首を傾げる。
 ていうかマジ?

「もう一度訊くけど、ふざけてる?」
「ふざけてないってば! あたしは大真面目よ!」

 いや、でも本当に信じられない。
 目の前で言ったことをすぐに忘れてしまうなんて。

「お願い、ケンタ! もう一度言って!」
「だからチョコレートだって」
「そう、それそれ! その……あれっ? あれっ!?」
「ホントかよ……」

 すげえ……本当に催眠術にかかってるんだ。
 まあ、僕がそういう風になるようにって催眠術をかけたんだけど、目の前でオタオタしている優帆を見てはじめて成功したんだって実感が湧いてきた。

「ねえっ、いったいどうなってるの!?」
「だから落ち着けってば。それも僕が催眠術でそうさせたんだから」
「これも催眠術で!? どうしてそんな意地悪ばっかすんのよ!?」
「意地悪って、催眠術にかかったことが優帆にもわかるようにこうしてるんじゃんか。昨日テレビで同じようなことやってるの見てただろ」
「うん。だけど、なんかさっきからモヤモヤすることばっかですっきりしないよ」
「ごめんごめん。じゃあ、元に戻すからこっちを向いて座って」
「うん」

 優帆を真っ直ぐ座らせると、さっきと同じ手順で優帆を催眠状態にしていく。

「じゃあ数えるよ、50、49、48、47、46……5、4、3、2、1、0、ほら、もう優帆は僕が言ったとおりになるよ。……目を開けて、優帆」
「……うん」

 優帆のまぶたにそっと触れていた指を離して声をかける。
 開いた優帆の瞳はさっきと同じようにぼんやりと焦点が合ってなくて、顔からも表情が消えていた。

 本当に、こうやって虚ろな表情で座って身動きしないでいると、いつもの優帆とは全然雰囲気が違う。
 そんな姿を見てると胸がざわついてくる。

 ……いけないいけない、ちゃんと催眠術を解かないと。

「次に目が覚めたら、優帆は3ていう数と7ていう数のことがわかるようになってる。それに、チョコレートの名前もちゃんと思い出すよ。いい?」
「……うん」
「それじゃあ僕が手を叩いたら優帆は目を覚ますよ」

 そう言って、パチンと手を叩く。

「ん……ケンタ?」
「優帆にかけた催眠術は元に戻したから。ほら、これは?」
「チョコレート。……うそぉ……さっきは全然思い出せなかったのに」

 僕が投げたチョコレートのパッケージを見て、優帆は不思議そうに呟く。

「それは、思い出せないし、聞いてもすぐ忘れるっていう風に催眠術をかけてたからだよ。……って、なにしてるの?」

 すると、いきなり優帆が指を折りはじめた。

「1、2、3、4、5、6、7、8、9、10……よかったぁ、ちゃんと合ってる!」
「うん、それも戻しといたからね。ほら、このノート見てみなよ」

 と、さっき優帆がメモしたノートを差し出す。

「1、2、4、5、6、8、9、10……ああ、そっかぁ、3と7……さんとなな……ああ、そういうことね。ふっしぎー、どうしてさっきは出てこなかったんだろ?」
「さっきのことは覚えてるんだよね、優帆?」
「うん。本当に3と7だけすっぽり頭の中から抜けちゃって、なにがなくなっちゃってるのかもわからなかったのよねー。……すごいなぁ、催眠術って」

 さっき自分が書いた数字の列を眺めながら、優帆は感心したみたいに何度も頷いていた。

 そっか、催眠術が解けても、かかっていたときのことは覚えてるんだよね。
 そういうのを忘れさせることもできるとかってさっき本にも書いてあったような気がするけど、もう一度ちゃんと読み返さないといけないな。

「ねっ、ケンタ! もっと催眠術をかけてよ!」
「はぁっ!?」

 いきなり優帆がそうせがんできて、思わず間の抜けた返事をしてしまう。

「だから、あたしにもっと催眠術をかけてって言ってるの!」
「なに言ってんだよ? さっきはあんなにパニックになってたし、モヤモヤしてすっきりしないって言ってたじゃないか」
「それは、催眠術にかかってるときはわけがわからなくて焦っちゃったけど、ちゃんと解いてもらったら不思議な感じがしてなんか楽しいかなーって」
「おまえなぁ」
「それに、ちゃんと元に戻るんだったら危ないことはなさそうだし、催眠術ってもっといろんなことができるんじゃないの?」
「いろんなことってなんだよ?」
「それはケンタが考えてよ!」
「いや、優帆、おまえね……」
「いいからもっと催眠術かけてみてよぉ!」

 僕の腕をつかんでせがんでくる優帆にこっちが根負けしてしまう。
 こういう時のこいつって絶対に退かないからな、もう。

「ああもう、わかったから! もう一度本を見て調べるからちょっと待ってよ!」
「やったぁ!」

 大はしゃぎしている優帆の期待に満ちた視線を感じながら本のページをめくる。

 これが、僕たちふたりの初めての催眠術体験だったんだ。

< 続く >

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