マインドクラック 第一幕

『第一幕 1303号室』

 鈍い音をさせてエレベーターが下がっていく。
 目の前には女のうなじ。
 女は減算される階数表示を何度も何度も見ている。
 ほとんど面識のない男と二人きりの状況から早く逃げたいのだと挙動が告げている。
 表示を見るために首を動かすたび、脱色も染色もしていない黒いポニーテールが揺れる。
 浅く陽に灼けた肢体を清潔感のある学生服が包んでいる。

 10階、9階、8階……。
 1階まで1分とかからない。

 さあ、壊してやろう。
 心を、尊厳を、生きてきた全てを犯し尽くしてやる

■10月21日■

 『……この度は弊社求人にご応募いただき……』
 『……貴意に添いかねる結果となりましたことを……』

 くしゃくしゃと不採用通知を丸めて中庭へ落とす。
「腹減った」
 小さな紙くずが13階から1階まで落ちるのをぼうっと眺めながら呟く。
 後ろには自分の家――1301号室があるが、入る気がしない。
 入ったって空の冷蔵庫があるだけ。食料もなければ食費もない。
 
「あっ、ゴミ落ちてきたぁ!」
「ほんとだあ」
 風に乗って階下からガキの声が聞こえてきた。
「おかーさんゴミ! わるいひとがすてたんだわ」
「わるいひとだあ」
「そうね。でも二人とも、あんまり大きな声出しちゃだめよ」
 母親と二人の娘。
 おおかた302号室の幸せ家族だろう。

 ふん……、わるいひと?
「うっせ」
 ここは俺のマンションだぞ、いいじゃねーかゴミくらい。
 ま、正確にゃ親父のマンションだが、親父亡き今俺のものと言って差し支えない。
 といっても忌々しい親父の指示で、俺の懐には一銭も入ってこないのだが。
「はあ」
 手すりから離れてドアにもたれかかる。
 ガキどもは目がいいから見つかるかもしれない。めんどいからそれは厭だ。
 ガキの声は甲高くていらいらする。

 ドアの開く音がした。
 二つ左隣の1303号室から派手な外見の女が出てきた。
 浅黒く灼けた肌、茶色く染めた髪、スタイルのいいカラダ。
 タンクトップの上に薄いジャケットを羽織り、下はデニムのホットパンツを履いている。
 足ヶ谷琴美(あしがやことみ)はその目に俺を認めた瞬間、眉間に皺を寄せた。
「…………」
 何も見なかった風を装って足ヶ谷琴美は足早にエレベーターへ消えていった。
 あいつは度々部屋にバカとバカとバカを集めて、大騒ぎする。
 前に一度うるさいと管理人を通して苦情を言ってやったことがある。
 13階には俺と足ヶ谷琴美しかいないので当然苦情を申し立てたのが誰かはバレバレ。
 以来、俺のことを嫌っている(らしい)。
 俺は足ヶ谷の去っていった方へ向けてサムズダウンをした。
 こっちだっててめーが嫌いだよ、バカ女。

 ぐうぅ。
 盛大な腹の音に危機感を覚えてきた。
 もう丸一日水以外のものを口にしていない。
 仕方ねえ、誰かにたかりにいくか。
 

「いってきまーす!」
「いってきまあす」
 無駄に元気な声をあげてマンションの外へ走り出ていく姉妹。
 手を振って見送る柔らかなシルエットの女。
 女は二人の姿が消えると振り替えり、あっと声をあげた。
「こんにちは、柊(ひいらぎ)さん」
 ち、まだいたのか。
 302号室の幸せ家族、その若奥さま、東雲佳耶子(しののめかやこ)。
 おざなりに会釈して通り過ぎようとする。
「あのう」
 ……ああくそ、やっぱりだめか。
「よかったらお夕食でもどうですか、うちで」
 ふざけんな、と怒鳴りたいが、この人妻は本気だ。
 どこで聞いたのやら、『一人暮らし』、『1年半前に両親を事故で亡くした』という情報から『両親を亡くして哀しみのあまりグレそうになっている可哀想な青年』と勝手な解釈をして、度々こうして声をかけてくる。
「いえ……」
 その解釈通りの青年なら『厭がりつつも心の奥底では温かみに触れて云々』なドラマが繰り広げられるのだろう。
「用事あるんで」
 素っ気なく言って返事も聞かずにその場を離れる。
 幸せのお裾分けは結構だ。

 出てくるんじゃなかった、と後悔する。
「あっつ……」
 夕方とはいえ真夏の屋外は人界の焦熱地獄だ。
 貴重な水分が毛穴からするすると出て行く。
 喉が渇く。けどお金はない。
 
『ぷはーっ、シュカッときたー!』

 華やいだ声が降ってきた。街頭テレビからだ。
 アップで映る稚気の残る顔立ち。最近よくみる顔だ。
 桃花愛名(ももはなあいな)。
 童顔のくせにそこいらのグラビアアイドル顔負けのスタイルをもってるとかで、そのアンバランスさに定評があるとかなんとか。
 カメラが下がり全身が映る。
 なるほど、確かにいいカラダしてる。
 アイドルは手にした炭酸飲料をもう一度飲んで、
『これはまさしくきゃぴーん☆、だねっ』
 わけわからん単語を吐いてウインクを視聴者に投げていた。

「お、柊じゃん。捜してたんだよ」
 肩を叩かれた。
 無精髭を生やした小汚い顔は俺がまさしくたかりに行こうとしていた相手だ。
 友人じゃない。
 俺に金が腐るほどあった頃に付き合ってやっていた暇つぶしマシーンだ。
「金くれ」
 野郎は笑った。
「おっまえ、またかよ。しゃーねえな、いいぜ」
 当たり前だ。前に奢ってやった分は返してもらう。
「ただよお今日は手持ちが少ねんだ。今から知り合いに会うつもりでよ、
 お前も誘おうと思ってたんだ。金はそいつから借りろよ。あ、もちオレがかけあってやっから」

「ぐっ……!」

 鳩尾にめり込んだ強烈な痛みに膝を折る。
 ぐいと髪を引っ張られ、襲撃者と真正面から見つめ合うことになった。

「元気そうだなァ、柊ィ?」

 にやついた口元から鋭く尖った八重歯がのぞく。
 顔立ちは整っているのに、パープルカラーの星形で目を縁取っているせいで台無しだ。
 星形の中央に位置する瞳には暴虐の色が宿っている。
 俺を案内した野郎はにやにやと笑っている。
 くそ……、春日千聖(かすがちさと)と組んでやがったのか。

「げほっ。よお春日、何の用――がッ!」

 頭突き。
 鼻からすっと熱いものが滑り落ちていく不快感と鼻梁の痛みに顔をしかめる。
 数センチの距離に春日の憤怒滲む顔が近づく。

「苗字で呼ぶんじゃねーっつったろ、あ? 千聖サマだよ。殺すぞ」

 突き飛ばされる。
 シュン――とスライドナイフを閃かせ春日が凄む。

「金だよ。いつ返してくれるのかなってさァ?」

 金?
 俺は喉の奥で笑った。

「自分で稼げよ。お前のカラダならいくらでも――げっ」

 五分ともたず、俺の意識は飛んだ。

「ってぇ……」

 マンションに戻ってきた俺は上昇するエレベーターの中で座り込んだ。
 腕も脚も腹も顔も痛くって、口の中はどこを舐めても厭な味しかしない。
 満身創痍もいいところだ。

 女だてらにボクサー志望だった春日は、強い。
 そしてヤツは自分をネタにされることを最も嫌う。
 特に下ネタは厳禁だ。でも自分が言うのはオッケーだというのだからふざけている。
 ああいうヤツを屈服させたらさぞ気分がいいだろうな、と誰もが思いつつ手を出せないでいる。

 妄想の中で春日を組み敷きながら、ふらふらとエレベーターを出る。
 空は暗く、遠くから車の走る音がするだけで、マンション内は静まりかえっている。
 部屋の前に立ち鍵を差し込んで……あれ、合わない。

「あん?」

 反射的に表札を見た。
 『666号室』。
 くそ、押し間違えたのか?
 やってらんねー。ただでさえ疲れてるってのに。
 舌打ちを一つ、踵を返してふと気付く。

 なんだ、666号室って。
 このマンションにそんな部屋なかった、よな?

 ざわっと鳥肌が立った。
 いやいや落ち着けよ俺、と軽く頭を振る。
 この部屋のヤツが勝手に表札を変えたんだ。
 えっと、じゃあここは元々何号室なんだ?
 ……いやいや、そもそも6階って借りられてたっけか?
「知るか」
 そんなことよりもさっさと帰ろう。

 ――扉の開く音がした。

 振り返る。ドアは開ききっている。人はいない。誰も出てこない。

「な、んなんだよ」

 呟きながら俺はその部屋へと近づいていく。
 灯火に引き寄せられる蛾のように。

 闇。
 廊下の奥には闇が凝っている。
 靴のままで框を上がる。背後のドアは勝手に閉じた。
 鍵の閉まる音がしたのは気のせいだ。
 進む。夢の中を歩いているようなぼんやりとした感じを覚えながら俺は進む。
 廊下の突き当たりは部屋だった。
 突然、頭上から眩しいほどの白光が降り注ぐ。

「ようこそ、救いの世界へ」

■10月22日■

 唇を舌で湿らせ、1303号室のインターホンを押す。
「…………」
 反応がない、もう一度だ。
 ドアの向こうに人の気配がした。
 インターホンがぶつっとノイズを鳴らして繋がる。
「はぁい」
 不機嫌そうな声。
「警察です。ちょっとお話を聞かせていただけますか」
「えっ、なに。けーさつ?」
「いえ、少し確認させていただきたいことがありまして。開けていただけますかね」
 部屋の中がどたばたと騒がしくなる。
 3分ほど経って、扉は開いた。
 急いで化粧を整えた感じの営業スマイルが現れる。
「はい、なんでしょう……か?」
 見る見るうちに曇っていく作り笑顔。
 そりゃそうだろう、目の前にいるのはどう見ても警官なんかじゃあないのだから。
 1303号室の住人、足ヶ谷琴美はドアを勢いよく閉じようとした。

 遅いんだよ。

 俺は『手』を伸ばす。
 ――動くな、足ヶ谷琴美。

 閉じかけていた扉がぴたりと止まる。
 半開きの扉の隙間に足ヶ谷琴美の驚愕があった。

「な、に」

 ナニコレ、と表情が語る。
 動揺に目と口が震えている。
 ああわからないだろ、わかるはずがないよなあ。

 ようこそ救いの世界へ。
 666号室の住人は年齢不詳の声で俺を出迎えた。
 背がやたらと高く、室内だというのに真っ白いコートを羽織っている。
 外国人にも見えるし、日本人にも見える。ハーフかもしれない。
 判るのは、男でも嫉妬するほどに整った容姿だってことだ。
 だがそんなことよりも気になるのは、目だ。
 なんというか、昏い。
 夜の闇を凝縮させたような、底深い絶望の瞳。
 それが俺を見つめている。

「誰だよ」

 なんとか絞り出した声は掠れていた。
 室内は奇妙に冷えているのに、幾筋もの汗が背中を伝う。
 男はただ一つだけ設えられた、簡素なパイプ椅子に腰掛けている。
 他には何もない部屋だった。壁も床も天井もすべて黒い壁紙や絨毯で覆われている。
 窓さえもない。

「ミハル。私のことはそう呼んでくれ」
 男――ミハルは二十代にも三十代にも見える不思議な顔をほころばせて名乗った。
「君に気付かせてあげたくてね」
 とっとと部屋を出るべきだ。アタマはそう言ってるのにカラダが従わない。
「人は誰しも他者を操る術をもつ。ただ気付いていないだけだ。
 けれど教えてはならない、気付かせてはならない。
 気付いた者には処罰を与えねばならない。
 ……だけど私は教えてみたいんだよ、それを。
 そう、『悪魔の手』を」

 俺は連続して『手』を伸ばす。
 ――声を出すな。
 ――部屋に戻れ。
 足ヶ谷琴美は俺の念ずるがままに動いた。

 俺は縁もゆかりもない1303号室へ侵入する。
 鍵を閉め、土足のまま廊下へと上がる。
 女の生活臭が漂う部屋の中、足ヶ谷琴美が突っ立っていた。
 『動くな』と命じられた彼女には恐怖と困惑の表情を浮かべる以外、何もできない。
 ぞくぞくした。
 唇を舌でひと舐めし、俺は彼女の前に立つ。

 彼女の顔を両手で包む。
 ゆっくりとラインに沿って下げていく。
 首筋。
 肩。
 胸。薄い夏着から伝わる感触に自然と息が荒くなる。
 恐怖にとんがった乳頭。きゅっと捻ってやる。
「…………」
 ここまでしても足ヶ谷は声を出せない。
 顔だけが恐怖に強張っている。
「くっ」
 俺は足ヶ谷から手を離す。
「はははははははははははっ!」
 狂ったように笑う。踊るようによろける。
「すげえ。マジだよこれ。くははははっ」
 俺は足ヶ谷に近づいて、乾いた唇に荒々しく吸い付いた。

「『手』をイメージすればいいのさ。その手で相手の脳を掴むイメージをね」
 ミハルは朗々と語る。
「操るには相手の『本名』が必要だ。姓と名だ。けれど必要なのはそれだけ。
 それだけで相手は君の掌中に落ちる」
 ミハルは朗々と語る。
「禁則はただ一つ」
 ミハルは口の前に人差し指を立てる。
「『悪魔の手』を用いて殺人を行ってはいけない。
 万一、その律を破ったなら666日後に処罰が下される――」

 足ヶ谷の唇から離れる。
 そして耳元で囁きかける。

「殺しゃしねーよ」

 足ヶ谷琴美の顔にあるのは恐怖と戸惑い。

「そのカオ、飽きたろ? もっと愉しいカオをさせてやるよ」

 いま彼女を侵している命令は二つ、
 『動くな』『声を出すな』。
 『部屋へ戻れ』は既に達成されたので効果が切れている。

 彼女の頭を掴む『手』を離すイメージを浮かべる。
 これで彼女の制御は解けたはずだ。

「たっ、だれか――」

 俺が『手』を伸ばす方が速いんだよ。

 ――お前は俺のセックス奴隷だ。
 ――俺に触れられることがお前の快楽のすべてだ。

 ぱくぱくと足ヶ谷の口が開閉を繰り返す。
 やがてその口から熱を含んだ吐息が漏れ始めた。
「あ、あ……ハア、ハア、ハア」
 足ヶ谷琴美は自分から俺にすり寄ってきてズボンのジッパーを唇で挟んで降ろしていく。
 我慢出来ない様子で陰茎を引っ張り出し、それがすべきことであるかのように誠実に、熱心に、手でしごき始める。

「しゃぶれ」
「はい……」

 亀頭を口に含んでねぶり始めた琴美の顔にはもう恐怖も困惑もない。
 あるのは淫蕩と奉仕の悦びだけだ。

「もっとだ」

 ヘアゴムでアップにまとめた髪を乱暴に引っ張る。

「はぁぶ、んは、ちゅ……んふ」

 琴美の舌が俺をまさぐる。
 淫猥な水音が室内に響く。
 あまり巧くない。
 焦れた俺は琴美の頭を掴んで奥までねじ込んだ。

「んぐっ!?」

 前後に激しく腰を動かす。
 擦れる温かい粘膜の感触。下品な水音、苦しげな嗚咽。
 口中を侵す征服感、そして、他人を侵す支配感……ッ!

「ぐっ! んっんっんっ! んぅっ! んぐ、んんん――ッ、ぐっ、んぐっ」

 大量の精液が吐き出されていくのが解る。
 琴美の口からペニスを抜いて、彼女を乱暴に押し倒す。

「ああ……」

 歓喜の声が琴美からこぼれる。
 衣服を剥ぎ取り濡れた下着を引き千切り、前戯もなしにペニスをねじ込む。

「あああああッ」

 濡れそぼった膣はペニスをなんなく飲み込んだ。
 笑いを滲ませて琴美を罵る。
「あひいいっ! はいぃっ! あたし、あたしヘンタイですぅっ! きもちいいっきもちいいっ!」

 侵す。罵る。

「はいっ、ドレイです、好きなだけ犯してっ、好きなだけ使ってくだひゃいいいっ!」

 犯す。犯す。犯す。犯す。

「ひ、ひぃっ、ああん、あっあっあっあっ、ああッ、いく、いくいくいくいくいく!」

 膣がきゅうぅ、と締まる。
 ペニスを奥の奥までねじ込み、白濁した衝動を注ぎ込んだ。

「ハアッ、ハアッ、ああああぁ……」

 ペニスを抜き取った後の膣から精液がじわりと溢れてくる。

「かけてやるよ、そら」

 手で陰茎をしごき、腹に、胸に、顔に白濁を浴びせかける。
 濃い小麦色の肌に降りかかった精子がてらてらと淫猥な光を反射していた。

 汚れたペニスを拭った琴美の下着を放り投げる。
 まだ、笑いが止まらない。
 春日に殴られた痛みはとっくに消えていた。
 あるのは興奮、歓喜、そして全能感。

「復讐だ」

 興奮が言葉となって溢れ出す。

「侵してやる! まずはこのマンションの連中! それから街のどいつも! こいつも!」

 この力で犯し尽くしてやる――。

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