1.5
「おっはよー!!」
「うん、おはよう」
彼女はいつも結構早い時間から学校にいる。
自分が特段早く登校しているというわけでもないが、彼女が自分よりも後に登校してくるという図はあまり想像できない。
何かいいことでもあったのだろうか、今日はやけにテンションが高いようだ。
自分の席について肩から鞄を下ろすよりも先に、彼女は僕の目の前にノートを突きつけてきた。
「ほらほら見て見て。なんと、この私が、ちゃんと数学の宿題をやってきたのだぁ!」
「やったじゃん」
「やったけどやってないよ! 反応薄いよ!」
「いやだって、それが普通だし」
「うぐぐ……せ、正論を……」
彼女は数学が不得意だ。
丸暗記系なんかはわりかし得意なのだが、どうにも数学は『私の美学に反する』らしい。
「うぅ……、この私が自力で数学の宿題をやってきたというのに……」
「はいはい、お疲れ様でした。今後もその調子で頑張るように」
「いいもーんだ! たいきくんなんか、たいきくんなんか、…………」
「うん」
「な、なんかひどい目にあっちゃえばいいんだよこんちくしょー!!」
そんなこんなで、朝のホームルームが始まっ――
…………、…………。
どこからかチャイムの音が聞こえる。
気がつけば僕は、いつの間にかピンク色の壁に囲まれたせまい空間にいた。
いわゆるトイレの個室と呼ばれる場所である。
「……あ、れ?」
そう、ピンク色の壁なのだ。
どう考えても、ここは女子トイレだった。
「うそ……、なんで……」
記憶を辿ろうにも、完全にぽっかりと抜けている。
授業中の記憶すら薄ぼんやりとしていて、よく思い出せない。
まったくもって、わけがわからなかった。
「でさー、例のアイツの彼氏の写真見せてもらったんだけどさー」
「うっそ、どうだったん? 超気になる!」
「いやなんていうか、マジでふっつー。期待して損した」
「まぁそりゃそうだよねー」
そうこうする間に女子が入ってきた。
声を聞くに、どうやら上級生のようだ。
「あー、飯食ったあとの授業とかだるー」
「あんたいっつも寝てるじゃん」
「しゃあないっしょ、ジジイの現国聞いてて寝ないほうがおかしいわ」
「まあねー」
用を足すこともなく、手洗い場の前でたむろっているようだ。
これが話によく聞くやつなのかと感心しているのもつかの間のことだった。
「じゃぁ、先教室戻ってて、私してくから」
「あいよー」
足音が近づいてくる。
静かにしてればバレないはずだが、すでに心臓が破裂しそうだ。
「……うんしょ、っと」
入ってきたのは隣の個室。
よりにもよって、自分が入っていたのは三つある内の真ん中の個室だった。
スマホの画面を指で叩く音が聞こえてくる。
すぐに用を足すわけではないようだ。
ちょっとでも声を出したら即バレるこの状況で、ふいに自分の股間に意識がいく。
(嘘でしょ……)
ここに来てまさかの、強烈な尿意だった。
(も、もれそ……。なんで、こんな時に……。うぅ……)
ズボンを履いたまま便器に腰を下ろしている今の状況で用を足すには、ベルトを外してズボンを脱ぐ必要がある。
そんなことしたら、絶対にバレる。
だというのに、我慢なんてできないくらい膀胱が悲鳴をあげていた。
(無理無理無理無理無理っ、漏れる、漏れるぅ!!)
しんと静まり返ったトイレの中は、軽く一呼吸ついただけでも異様なまでに音が反響する。
そんな中ついに辛抱たまらず、ベルトもはずさないまま強引に下着ごと膝まで降ろして、膀胱の関を開放した。
(……あ、……あぁ…………)
まさかの女子トイレで、しかも隣に上級生の女子がいるというのに、……して、しまった。
荒い息をなんとか押し殺して隣の様子を窺う。
急な激しい物音に反応はしたようだが、またスマホの画面を叩く音が聞こえてきて、ひとまず胸をなでおろした。
「…………あ、そろそろ時間じゃん」
そう言われてみれば今は何時なのだろうと、ふと我に返った。
えらく時間が過ぎるのが遅く感じるが、さすがに五分以上は既に経ったはずである。おそらくは昼休みなのだろうと見当をつけた。
そろそろ時間ということは、もうすぐ昼休みが終わるのか。終わるのなら早く終わって欲しい。
授業が始まりさえすれば、こんな地獄のような状況から開放される。
そんなことを考えている時だった。
「……ん、…………ふぅ…………」
吐息とともに、隣の個室からチョロチョロと水の流れる音が聞こえてきた。
わかってはいたはずのことなのに、自分のことで頭がいっぱいになっていたところに不意をつかれたからなのか。
ただただ、すごい衝撃だった。
全身を走ったその衝撃に少し遅れて、一気に熱が体中を覆った。
用を足した時のまま手で下に向けて抑えつけているソレが、ギンギンにそそり立っていた。
隣の個室からはそのままジャァアアアと激しい水音がして、先輩はトイレからそそくさと出て行った。
それを確認するやいなや盛大に深呼吸をした。何度も吸っては吐いてを繰り返した。
しかし、呼吸を繰り返すほど、息は荒くなっていった。
「はぁ、っはぁ、……はぁ、はぁ……っはぁ……」
全身の熱は引くどころかどんどん増していき、頭が回らなくなっていく。
冷静になろうと今の状況を振り返えれば、興奮に油を注ぐだけだった。
あのささやかな水音が、漏れた吐息が、耳に焼き付いて離れなかった。
『……ふふっ』
ふと、耳元を生温かい空気が撫でたような気がし――
…………、…………。
どこからか、チャイムが聞こえる。
気がつけば僕は、いつの間にかピンク色の壁に囲まれたせまい空間にいた。
いわゆるトイレの個室と呼ばれる場所である。
「……あ、れ?」
そう、ピンク色の壁なのだ。
どう考えても、ここは女子トイレだった。
そして、あろうことか、右手が生臭いぬめりでベタベタだった。
< つづく >