県庁特別高等課 第三話

第3話 妹藍香

 ――たとえ法律や組織が変わっても、僕たちがなすべきことは変わりません。僕たちは安寧秩序のために尽くすのみです。
(ある公安課長の就任挨拶より)

1 兄の恋、妹の憧れ

「ね、兄様。私たちって夫婦に見えるかしら?」

 早起きして作った弁当を手渡しながら、藍香は兄を見つめる。

「子供の癖に馬鹿言ってないで、お前も早く学校に行けよ」

 口では叱りつけながらも、兄の手は藍香の髪の毛をくしゃくしゃと撫でた。藍香はとても背が高かったから、頭を撫でて様になるのは、もっと背が高い兄くらいのものだ。
 特別に背が高かったことで、以前はずいぶんいじめられた。だから、母譲りの背丈を憎いと思ったこともあった。でも、兄が復員してきた今では、兄と背丈が釣り合う数少ない特別な存在になれたような気がして、嬉しいような、くすぐったいような気がしている。
 木津川藍香は兄の滋樹と二人暮らしだ。海の見える新しい社宅が二人の住まいだ。新しい社宅と言っても、もともとは軍の宿舎で、戦争末期の空襲で半焼したまま放置されていた建物だ。兄の勤め先の大嶋製鉄が払下げを受けて、改修した。ほとんど新築に近い改修ではあったが、乏しい資源を活用して建てられたものだから、古びた集合住宅にしか見えなかった。今では若い社員とその家族が寝起きしている。入居者には妻子持ちが多く、社宅はいつも賑やかだった。バラックを建てて住む人の多い時代だから、就職して間もない兄と、その妹の住まいとしては、かなり恵まれていた。
 父母は今、東京にいる。父が国立大学の教授に招かれたのだ。軍部と深い繋がりがあった教授たちは、次々に職を追われた。彼らの代わりに大学へ返り咲いたのは、かつて弾圧されていた左派や自由主義者たちだった。父もその一人だ。教授の座を得た父は、まるで何かの復讐であるかのように統制経済を厳しく批判し、徹底的な経済の自由化を主張していた。そのためか、左派の牙城になりつつあるアカデミズムの世界では孤立気味のようだ。
 父の教授就任が決まった時、復員した兄は、早くも大嶋製鉄の事務員として採用されていた。だから家族は離れ離れになった。
 藍香も父母に従って東京に転校するはずだった。けれど、父に無理を言って大嶋市に残った。兄の側を離れたくなかったのだ。父は、滋樹と一緒なら安心だと言ってくれた。藍香が大嶋市に残ると聞いた時、いつも静かな母はほっとしたように笑っていた。
 若かったころの母は、明るく、強気な人だったと兄から聞いたことがある。藍香には、そんな記憶がない。物心がついたころから見ている母は、いつも静かで、何かに怯えているようだった。父に対しても藍香たち兄妹に対しても、どこか遠慮しているような、そんな母だった。
 兄が弁当を小脇に抱えて、藍香の髪の毛から手を離す。

「子供じゃないもの……それに、こんな美人妻なら、兄様も満更ではないでしょう?」

 母譲りの美貌に、とびきりの笑顔を浮かべてみせる。けれど兄は一瞥もくれず、踵を返した。

「はいはい。じゃ、行ってくる」

 手をひらひらさせながら、兄は社宅からほど近い工場に向かう。その後ろ姿が見えなくなるまで、藍香は笑顔で手を振り続けた。

 ――新婚夫婦って、こういう感じじゃないかしら?

 などと考えながら。

「藍香ちゃんって、本当に滋樹さんのお嫁さんみたいね」

 共同炊事場に顔を出した牧村潔子が言った。潔子は、母の数少ない友人だ。

「やっぱり! 潔子おばさまにもそう見えますよね!」

「だって、どんどんお料理の腕が上達するんだもの。まるで新婚のお嫁さんみたいじゃない」

 潔子が上品に笑い、つられて藍香もえへへと笑った。潔子は、藍香が炊事を苦手としていたことを知っている。父母と暮らしていたころは、炊事はもっぱら母任せだった。その藍香が、母から譲ってもらった古びた割烹着を微風になびかせて、テキパキと肉や野菜をさばくようになっていた。
 潔子は母より少し年下ではあるらしいが、それでも藍香とは母娘ほども年齢が離れている。
 意識して潔子おばさまと呼ぶようにしているが、どちらかというとお姉さまと呼ぶのが相応しいような気がする。小さな身体に、みずみずしい白い肌、西洋人の少女のような顔立ち。これほどおばさまという言葉が似合わない女性も珍しい。
 それを羨ましいと思うには、藍香はまだ若すぎた。少女のようにくりくりとした双眸を見返して、

 ――潔子おばさまは、まるで妖精ね。

 と、いつもの感想を抱くだけだった。
 少女のような女性ではあるが、なかなかに逞しい。牧村糺が公職を追放されてしまってからは、潔子が一人で家計を支えているらしい。詳しく聞いてはいないが、古い友人の紹介で就職したということだ。夫の糺は、仕事がない割にはいつも忙しそうに県内外を飛び回っている。二人の子供は聞き分けがよく、しっかりしていたから、その点では安心らしい。すでに長男は新制中学に入学している。
 藍香は、すっかり使い慣れた包丁で大根を小さく切り分けながら言った。

「兄様も、藍香が作る食事は美味い、見違えるようだって褒めてくれました。今夜はお肉もあるから、もっと喜んでくれますわ、きっと」

 この日は学校が半ドンであったから、潔子と二人、闇で米や鶏肉を買い入れて来た。夕飯は、いつもより豪華なものに仕上がりそうだった。
 都市ガスの供給は再開していた。使用量の制限は厳しいが、それでもガスがあるのとないのとでは大違いだ。夕飯の煮炊きは、戦争末期や終戦直後に比べれば嘘のように便利になった。
 だが、藍香が物心がついたころには、もう都市ガスは相当普及していたし、食事の品数も多かった。よく覚えていないが、配給も始まっていなかったはずだ。母に連れられて出かけた百貨店には、まだきらびやかな衣服がたくさん売られていて、美味しい洋食をお腹いっぱい食べさせてくれるレストランも付設されていた。
 しかし今、兄妹が身に着けている衣服は、戦時中から着ていた国民服や、父母がずいぶん前に使っていた洋服のお下がりばかりだ。終戦直後の未曾有の食糧難の時に、高級で新しい衣服は食料と交換してしまったから、今身につけている衣服は質が悪く、煤けた服ばかりだ。新しい衣服を購入できる機会も、まだ少なかった。
 兄が大嶋製鉄に務めているおかげで、よそ様に比べれば不自由のない暮らしをしている。母の親友である潔子も、時折顔を出しては、何くれとなく世話を焼いてくれていた。だが戦前に比べれば、惨めな生活であることに変わりはなかった。
 けれど、藍香は今の生活が気に入っている。人生の中で今が一番幸せだと思っている。大好きな兄と二人だけで暮らすことができているのだ。毎朝弁当を作って、兄を送り出す。洗濯や夕飯の支度を済ませて兄を迎える。兄は藍香の豊かな黒髪を軽く撫でて、

 ――ただいま。

 と言う。兄と一緒にいることが楽しくて、嬉しくて、藍香はにこにこしながら他愛のない話を兄に聞かせる。その日の出来事や時事問題について兄が話すのを、一言も聞き逃すまいと耳を傾けることもあった。兄のことは何でも知っておきたかった。
 そんな何でもない日常が、藍香にはキラキラと輝いて見えた。まるで憧れの兄の妻になったようだったからだ。

 幸せだと思ってはいるが、兄との生活に不安というか、不満がないわけではない。不満の火種は、潔子と兄だ。
 外が薄暗くなりかけたのを見て、潔子は言った。

「そろそろお暇しようかしら」

「ただいま」

 藍香、帰ったぞと言う玄関の兄の声が、潔子の言葉と重なった。

「おかえりなさい、兄様!」

 弾かれたように立ち上がって、藍香は兄を出迎えた。滋樹はいつものように藍香の黒髪を撫でかけて、しかし手を引いた。兄の目が、立ちかける潔子の小さな身体を捉えたのだ。

「潔子さん! 来ておられたのですか!」

 兄の口調が丁寧なものに変り、声のトーンも高くなった。
 復員してから、兄は潔子のことを、

 ――潔子さん。

 と呼ぶようになった。以前は藍香と同じように、潔子おばさまと呼んでいたのだ。兄は、潔子を女性として見ているような、そんな気がした。
 藍香は、兄が潔子を呼ぶたびに、胸が締め付けられるような、少し悔しいような気がする。その感情の意味を、藍香はまだはっきりに認識できていない。ただ、頻繁に訪ねてきてくれる潔子を、少しばかり疎ましいと思うようになったことだけは確かだ。

「ゆっくりして行ってください」

「あら残念。今帰るところなの。そろそろ主人が帰ってくるし、私もお夕飯を作らないと」

 では、と兄は身を乗り出す。

「ご自宅までお送りします。若い女性を一人で歩かせるわけにはいきません」

 意を決して告白するような兄の言葉に、藍香はむっとする。けれど潔子は特に意に介してはいないようだ。

「若い女性なんて、お世辞でもうれしいわ……そうね、送っていただこうかしら」

 兄の表情は目に見えて明るくなり、それがまた藍香を苛立たせる。
 昔は私があなたたちを送ってあげていたのに、時が経つのって早いのねと、潔子が感慨深げに言っていた。

「藍香、行ってくるよ」

「え、ええ……」

 兄が潔子の先に立ち、戸を開けて潔子を待つ。

 ――私には、そんな風にしてくれたことなんてないくせに。

 戸の向うに消えていった男女を思って、藍香は歯噛みした。

2 針と首輪と金属回収

 一物を突きこむたびに、女の乳首からぶら下がる木製の洗濯バサミが、ぶらぶらと揺れた。
 牧村糺は飽きることなく潔子の喉を犯している。女の頭を掴み、なるべく喉の奥深くを犯せるように、股間に密着させる。潔子はえづきもせず、うっとりとした表情だ。道具のように扱われることに、彼女は悦びを感じていた。
 隣室で、二人の息子が眠っている。子供たちを起さないように、糺はいつも静かに、しかし激しく妻を責め苛んだ。
 結婚してから、もう十五年以上が過ぎている。糺よりもずいぶん年下ではあるが、潔子はとうに三十を過ぎている。だが、白い肌には若い女のような張りがある。二人の子供を産み育てたというのに、乳房の形も整った椀型だ。
 牧村夫妻は東京から大嶋県に戻って来ていた。より正確に言えば、戻らされた。戦時中、軍部に睨まれて左遷されたのである。
 糺は順調に出世街道を駆け上っていた。彼の出世と並行するように、経済や言論の統制は強化されていった。企画院が新設され、内務省や大蔵省でも職員の増員が行われた。内務省警保局の糺も、馬車馬のように働いた。
 糺は、大嶋県にいた頃に蒔いた種が、この国に根を張りつつあることに、密かに満足していた。だが、やがて疑問が湧いてきた。

 ――統制経済は、『赤』の発想ではないか。

 彼の最大の懸念はそれだった。軍部と戦局に振り回される国家予算や経済計画を目の当たりにした。財界人を痛めつける内務官僚や大蔵官僚の噂も嫌と言うほど耳にした。企業は利潤追求をやめて、生産を目的にすべきだという主張も散々聞かされた。そして警察は、統制経済に協力することを強く求められた。

 ――何かが違う。政府は何かを忘れている。これではいけない。

 何が違うのかはっきり認識できないまま、糺はもがき苦しんだ。だが、治安の担当者の彼にできることは少なかった。
 企画院の『赤』が検挙されたころ、もう糺は東京を離れていた。大嶋県の経済部長に迎えられたのである。統制や配給事務で多忙を極める経済部である。一見するとやりがいのある、悪くない転出先だった。だが、この転出によって糺は警保局との縁が切れ、本省での出世コースから外されてしまった。このころになると、各省庁には軍部の関係者がほとんど常駐するようになっていた。だから、統制経済への不信感を見え隠れさせる糺は、たちまち目をつけられてしまったのである。
 本省への復帰は絶望的だと思われた。糺は咲良川の西側の郊外に家を構え、県庁へは自転車で通った。不幸中の幸いというべきか、大戦末期、大嶋市は大空襲で焼け野原になったが、郊外の家は、機銃掃射による軽微な被害を受けただけで、ほとんど無傷だった。むしろ憲兵からの嫌がらせの方が、牧村夫妻を悩ませたくらいだ。
 戦局は悪化し、資源不足は深刻化した。資源不足を補うために、金属類回収令が出され、その適用範囲は徐々に広げられていった。大戦末期には、鍋などの日用品や結婚指輪までも、供出の対象になった。
 家中の金属品を供出した日、台所にうずくまったモンペ姿の潔子が、声も立てずに肩を震わせていた。子供たちは学童疎開で家を離れていて、糺と潔子は二人きりだった。糺は黙って妻の肩を抱いた。ごわごわした布の感触が、いっそう惨めさを感じさせる。軍需優先の計画経済のために、衣類の生産はほとんど停止していた。だから、妻が身につけている衣類は粗末なもので、すっかり煤けてしまっていた。
 潔子は鼻をすすりながら話した。

「針も、首輪も、供出してしまいました。結婚してから初めて買っていただいた、大切な贈り物だったのに……」

 結婚指輪が持ち去られたことに涙しているのかと思っていたが、違った。
 そういえば、妻は首輪だけを身に着けた裸体で責められるのを喜んだ。自分から針を持ち出して、陰核や乳首にお仕置きしてほしいと、せがむこともあった。
 糺はすっかり忘れていたが、針や首輪は、二人が本当に夫婦らしい夫婦になったころ、妻を苛むために持ち帰ったものだった。高価なものではない。大嶋駅前の商店街で、適当に選んだものだ。潔子はそんなものを、何よりも大切な宝物だと思っていたのだった。
 胸を締め付けられるような気がした。こんな時どうすればいいのかわからない糺は、妻の小さな身体を抱き上げ、寝室に運んだ。
 その夜の二人の情交は、どこか湿っぽい雰囲気の中で始まった。糺は、木製の洗濯バサミを、妻の乳首に宛がった。日用品の何もかもが、丈夫さも美的感覚も捨てた代用品に変ってしまっている。洗濯バサミもすぐにひび割れてしまいそうな代物だった。

「旦那様に虐めていただけるのが嬉しいのです。道具は何だって構いません」

 妻は笑ってくれたが、唇は悲しみに震えていた。代用品で苛まれれば苛まれるほど、針と首輪を失った悲しみがこみあげてきているのだ。だからこそ、妻は懸命に夫の責めに酔おうとしている。そんな健気さが愛おしく、糺は妻の華奢な首を絞めながら、肛門を犯してやった。

「……もっと虐めてください。今だけは、全部、忘れたいのです」

 気を失うほど何度も達しても、妻は夫を求め続けた。針や首輪が使えない分、糺は自らの手足と洗濯バサミを駆使して、丹念に妻の肉体を苛んだ。

「痛っ、痛いの、気持ちいいっ、ですっ……!」

 窓の隙間から青白い光が忍び入りはじめたころ、妻は気絶するように眠りに落ちた。それ以来、潔子はもう、糺の責め以外では何があっても泣かなくなった。辛い時、悲しい時、彼女はいつも寂しげに笑うだけだった。
 離ればなれになる前の、子供たちの発育も悪かった。二人の息子の大きな、くりくりとした目は、いつもどこかに疲れを宿していた。華奢な体格、伸びない身長は、母親譲りではない。栄養不足が原因だった。息子たちは疎開先から、食事をお腹いっぱいに食べて元気に暮らしている、友達もたくさんできた、自分たちは幸せだと手紙を書き送ってくる。その手紙をむさぼるように読んで、本当はお腹を空かせて泣いているのですと、妻は呟いた。
 大嶋県に戻ってから、自分と、政府や軍部の多数派との違いがどこにあるのかが、はっきり認識できるようになった。
 かつて特別高等課長であったころ、自分が、そして彼の部下の「国士」たちが目指していた理想郷は、こんな貧しい世界であったのか。

 ――否、断じて否だ。

 我らもまた、国民を権力の側から善導しようとしていた。だが、国民の欲望を否定したりはしなかった。特高課長だったころの糺は、鈴木たちを使い、人々の欲望を引き出すことによって、安寧秩序を守ろうとした。糺たちは、人々の欲望を自分たちが正しいと思う方向に善導しただけだ。だが、政府や軍部は違った。国民に滅私奉公を求めていた。節約と貯蓄と労働ばかりを強いていた。そこには欲望も、欲望の充足による悦びもなかった。

 ――警察官は陛下と国民の警察官だ。ならば、政府や軍部も同じだろうに。

 終戦を迎え、まだ大嶋市でくすぶっている今ならばわかる。せっかく『赤』を地下活動や監獄へ追いやったというのに、肝心の政府や軍部が形を変えた『赤』に変貌してしまったのである。それを、かつての糺は漠然と、「違う」と感じたのだ。
 降伏後間もなく、牧村は県庁からも追放された。特高パージだった。だが、二度目の大嶋県での経験は、無駄ではない。治安関係以外の実務経験を積み、人脈も広げた。

 ――この国はまだ、俺を必要としている。

 自治体警察が成立して、警察の力は過度に分散してしまった。これを再び一つに結集しなければならない。内務省も復活させなければならぬ。
 すべては国家の安寧秩序のため。牧村は来るべき追放解除に向けて、早くも策動を始めていた。
 妻の喉の奥で、糺の一物は勢いよく精を放った。木製の洗濯バサミから与えられる苦痛のためか、妻はうっとりとした表情で男の精を最後まで啜った。だが、本音では溺れ足りないのだろう。下品な音を立てて精液を飲み干し、いつもの惨めな笑みを浮かべた妻の表情は、はっきり物足りないと言っていた。

 ――すぐに金属製の針や首輪も手に入るようになるさ。もっと良い責め道具だってきっと……この国は以前よりも豊かになれる。いや、豊かにならなければならぬ。

 復興と、苦悶と屈辱に歪む妻の惨めな姿とを夢見て、牧村糺は戦い続ける。

3 墓前の二人

 墓前に花を供え、咲子は娘とともに手を合わせた。夫の三度目の命日だった。娘は八歳になる。
 夫と結婚したのは、もう十年以上も前のことだ。父母や親戚からは猛反対を受けた。夫は父よりも年上だったから、無理もなかった。だが、心から愛し合う二人の熱意を、誰も止めることはできなかった。父母も最後には折れて、結婚を認めてくれた。
 夫との生活は幸福そのものだった。結婚して間もなく警察を引退した後も、夫は健康だった。夜の営みでも年齢を感じさせなかった。精悍な姿と強い意志を持つ夫は、どんな男よりも、咲子を夢中にさせてくれた。
 その夫が亡くなったのは、大空襲の夜だ。空襲警報を聞いて、疎開先から一時帰宅していた近隣の子供たちを、防空壕へ誘導していた。そのために逃げ遅れたのだった。咲子は学童疎開に付き添って郡部の寺院に寝泊まりしていたから、夫の死を伝え聞いたのは、しばらく時間が経ってからのことだった。
 水桶を持って立ち上がったところへ、一升瓶を持った男が現れた。

「……鈴木、さん?」

 亡夫と組んで仕事をしていた小男だった。牧村特高課長と同じくらいの年齢だったから、夫が現役だった当時は、特高の中では最も若かった。そういえば、取調室で最初に強烈な恋心に襲われたとき、近くにいたのはこの男だ。その鈴木も、今では白髪交じりの中年男である。

「咲子さん、変わりませんね。相変わらず美しい」

「お、お世辞は結構です。もうすっかりおばさんです」

 男性の前に出ると、いつもこうだ。胸が高鳴り、声が上ずってしまう。その様子を窺って、鈴木は嬉しそうに笑った。

「世辞ではありません。まるで乙女のような初々しさを残しておられる」

「お寺の本堂にも詣でておいで」

 咲子は慌てて、娘に賽銭を渡してやる。男に恋い焦がれる様を、娘にはあまり見られたくはなかった。はいと元気よく返事をして、娘は本堂の方へ駆けていった。
 鈴木は娘の後ろ姿を見て、首をかしげた。

「お嬢さん、ですか?」

「ええ、夫の忘れ形見です。血のつながりはないのですけれど……」

 一呼吸置いて、咲子は続けた。

「大空襲の夜、夫が救った子なのです。ご両親は亡くなって、引き取ってくれる親戚もなくて、それで私が養うことにしました。最近、やっと『お母様』と呼んでくれるようになったんですよ」

 張り合いが出てきたというのだろうか。夫が死んで、戦争も終わって気抜けしていた時、側にこの娘が寄り添っていた。

「鈴木さん、課長になられたのですね? 新聞で拝見しました。大出世ではございませんか」

「ええ、まあ。新憲法が出て、内務省も廃止されましたから」

 課長以上の要職は、内務省から出向した官僚たちが占めていた。それが今では、民主化や地方分権の嵐の中で、たたき上げの公務員たちが俄かに権力の座に就き始めていた。鈴木もその末席にあった。

「主人が生きていたら、一緒に喜んでくれたのでしょうけれど」

 墓石に目をやる。鈴木は一升瓶を供え、手を合わせた。

「鈴木さんは、まだおひとりでいらっしゃるのですか?」

 顔を上げた小男の横顔に、咲子は問いかけた。問うてどうするのかと、咲子は思う。けれど、いつかの取調室で感じたのと同じ思いが、問いかけさせずにはおかなかったのだ。

「ええ。好いた女性が人妻だったり、他の男に嫁いでしまったりして、機会を失ってしまいました」

 咲子は、安心したような、少し可哀想なような、複雑な気持ちになる。自惚れかもしれないが、他の男に嫁いだ女性とは自分ではないかとも思った。

「……きっと、良い女性との出会いもありますわ」

 胸の高鳴りや子宮の疼きを堪えて、咲子は当たり障りのない相槌を打った。もし亡夫と結婚していなかったならば、娘がいなかったならば、この男の胸に飛び込んでいたかもしれない。だが、強烈な恋心や性欲と戦い続けてきた長い歳月と、家族への愛情は、彼女に強い自制心を身につけさせていた。
 恋心を抑え込む咲子を見て、鈴木は目を細めた。

「咲子さんは強い人だ。ますます魅力的になった……そろそろお暇します。お嬢さんも戻って来るようですよ」

 娘が駆け戻ってきた、すれ違った鈴木にぺこりと頭を下げた。

「お母様、あのおじさま、どなた?」

「お母様とお父様を出会わせてくれた方よ」

 そう言って、鈴木の背中を目で追いかける。また甘酸っぱい想いがこみ上げてきた。男性と会うと、いつもこうだ。咲子は想念を払うように頭を軽く左右に振り、娘の頭を撫でた。

「なあんだ。お母様の恋人ではないのね?」

「こら、ませたこと言わないの」

 叱っても、娘はえへへと笑うだけだ。ふぅと軽く溜息をついて、咲子は言った。

「さ、帰りましょうか」

 鈴木の後ろ姿は、もう街路の向うに消えてしまっていた。

4 労使協調

 薄暗い廊下を、木津川滋樹は歩いている。社長室へ続く長い廊下だ。資源不足とインフレーションは続いていたから、電灯は使われていない。窓の明かりだけが頼りだ。
 滋樹は復員してすぐに大嶋製鉄に事務員として就職した。このときばかりは、帝大卒の学歴に感謝した。繰り上げ卒業の紛い物だと忌み嫌っていた学歴だ。それでも自立のための就職には役立ってくれた。
 大学院に進んで学者を目指す道もあった。事実、父はそれをすすめてくれた。終戦後、父は大学に職を得て、政府や自治体の相談役としても引く手あまたであったから、息子を養っていくだけの余裕はあった。だが滋樹は、自由主義者の父の態度に不満を抱いている。目の前で労働者や農民が貧困に喘いでいるのだ。神の見えざる手などに頼っているときではないと思っていた。
 やはりというべきだろうか。学歴と、採用してくれた大嶋製鉄への彼の感謝の気持ちは、すぐに失望に変わった。労働者の待遇は悪い。低賃金で長時間、危険な労働を強いられていた。
 滋樹は結成されたばかりの労働組合に加わり、たちまち指導部に席を得た。組合はストライキの計画に没頭していた。まだ女学生の妹も、暇を見つけては組合の活動を手伝ってくれている。年の離れた妹だが、滋樹の思想に共感してくれていた。
 今日、滋樹はたった一人で社長に会い、最後の交渉に臨む。決裂すれば、無期限ストに突入する手はずだ。
 大嶋製鉄では、戦争協力の嫌疑があった経営陣がパージされた。新たに経営陣の座を占めたのは、技術者や管理職出身の若手たちだ。滋樹はその経営陣の中でも、新社長に期待している。
 社長は戦前、極左の活動家であり、逮捕歴もあるという噂だった。大嶋製鉄での事務職経験も長い。経営陣の中でももっとも労働者に近い考えの持ち主ではないかと思われた。話してわからない人物ではないはすだった。
 社長室の扉をノックした。

「入れ」

 暖房も入っていないのに、社長室は熱気に満ちていた。あっと声を上げそうになるのを、かろうじてこらえた。
 社長の椅子の上で、全裸の女の背中が波打っていた。陶器のように白く艶やかな肌の、小柄な女だ。時折漏らす湿っぽい嬌声は、男の官能を刺激せずにはおかないような、妙な艶めかしさを感じさせた。おぞましいことに、男の一物は女の肛門を出入りしていた。

「ま、そこにかけたまえ」

 女の背中に隠れて顔は見えなかったが、中年男の指が古びたソファーを指していた。戦前から使われているものらしく、劣化をごまかすように布製のカバーが掛けられている。繊維製品や皮革製品の生産が回復していない時期だから、ソファーの修理もままならないのだろう。

「その売女をすぐに下がらせてください。社長の肩には大嶋製鉄の労働者の生活がかかっている。売女の体重まで支えている余裕はないはずです」

 ようやく落ち着きを取り戻した滋樹が、女の背中に向かって諭す。社長の顔が見えないのがもどかしい。完全に舐められているのだと実感した。

「顔も見ずに売女などと言うものではないよ。きれいな女性だ。身体も、心も。初恋を思い出すよ」

 言いながら、社長は腰を動かすのを止めて、女に身体を離すように促した。
 女は社長からふらふらとしながら離れた。振り向いた女の虚ろな顔を見て、木津川は目を剥いた。

 ――き、潔子さん……っ!

 唇をぱくぱくと動かしたが、言葉にはなっていない。社長に尻の穴を捧げていたのは牧村潔子だった。母の親友であり、幼い頃から世話を焼いてくれていた女性。永遠に叶わぬ初恋の相手だ。
 子供を二人も産み、三十を過ぎているというのに、その乳房の形は美しい碗型だ。薄い桃色の乳首は上を向いていた。
 何時間も抱かれていたのだろうか。女の白い腹や、黒い髪の毛には、すでに白い液体がこびりついていた。
 夫の牧村糺のことを語る時、潔子は照れたように笑う。もう十五年以上も連れ添っているというのに、初々しささえ感じさせる女の顔を見て、滋樹は夫の牧村を羨んでいた。
 そんな潔子が他の男に抱かれていた。それも、排泄のための穴を使って。

「そう、初恋。最初に抱いたのは彼女の部屋だった。次は特高の取調室。それきりだったな。幼馴染みの咲子という女だった。元気にしているだろうか。あんた、消息を知ってるか? 鈴木さん」

 社長の目線が滋樹の背後に注がれている。はっとして振り向こうとしたが、遅かった。羽交い絞めにされた。何度か殴られ、抵抗らしい抵抗もできないまま、ソファーに縛り付けられた。両腕、両脚を開かされた格好だ。

「柳川社長、もうお調べになっているのでは?」

 滋樹を縛った男が、柳川晴雄社長に言った。

「ああ、探したよ。まだ大嶋で教師をしているんだな。遠目に見たが、相変わらず綺麗な女だったよ……あの女に吐かされなければ、俺は転向していなかった。今の地位もなかっただろうな。だからあんたにも咲子にも感謝している。が、今更あんな汚れきった年増女を抱こうとは思わんな。あの後も当分、あんたらの慰み者になっていたのだろう。その点、この潔子という女は悪くない。夫に一途だ、前の穴は」

 それに、鈴木さんのおかげで当分女には苦労しそうにないからなと付け加えて、潔子の形の良い乳房を無遠慮に揉んだ。そこにも乾いた精液が貼りついていた。その通りだと言うように、鈴木も笑っている。

「潔子さんに何をする!」

 ようやく我に返った滋樹が叫ぶ。柳川社長は呆れたように眉をハの字に歪めた。

「何を? 仕事をしていただいているに決まっている」

「仕事……だと!?」

「公安課嘱託の牧村潔子。僕の部下だよ……もっとも普段の彼女は、自分が公安課員だということを忘れているがね」

 鈴木という男が言った。

「こ、公安課? 忘れている?」

 鈴木が何を言っているのか、理解できなかった。

「潔子君、相手にしてあげなさい」

「……はい」

 潔子が抑揚のない声で答え、夢遊病者のように滋樹の前にやって来た。跪き、滋樹のズボンを下ろした。

「滋樹さんの、大きい……」

 潔子の瞳は虚ろなままだったが、滋樹の姿を認識してはいるようだ。小さな手のひらが、すでに固くなっていた物を優しく包み込んだ。
 憧れの女性に指摘されて、滋樹は俯いた。潔子の裸体に興奮してしまったのだ。自らも潔子を汚してしまったような、罪悪感があった。

「潔子さん、こんなことはいけません……!」

「恥ずかしがらないの。小さかったころは、よく一緒にお風呂に入っていたじゃない。それとも、こんなおばさんが相手では不足かしら?」

「そんな……潔子さんは、素敵な方、です」

 つい答えてしまってから、滋樹は深く後悔した。これでは密やかな恋心を明かしたようなものではないか。決して口にはすまいと思っていた気持ちを、どうやら操られているらしい人妻に容易く明かしてしまった。
 潔子の唇が、むき出しの肉棒を飲み込んだ。柔らかく、しっとりとした感触。他人に触れられたことがないそこを、人妻の舌は器用に舐め回した。

「止してください、止すんだ、潔子さん……」

 滋樹の制止は、憧れの女性から与えられる甘い刺激の前には無力だ。声はだんだんと小さくなり、ついには潔子が立てる下品な水音と、男の荒い息が響くだけになった。
 女の舌の動きに翻弄されているうちに、滋樹は手拭いで目隠しをされた。

「ゆっくり楽しみなさい。その方が快感に集中できるだろう」

 鈴木にそう言われても、もう答えることもできなかった。
 滋樹が再び声を出したのは、精を噴き出す直前になってからだ。

「潔子さん、離れてくれ……!」

 滋樹の身体に何が起きているのか察したのだろう。潔子は制止を無視して、青年の物を喉の奥へと迎え入れた。それが止めとなって、滋樹の肉棒は決壊した。
 潔子は、青年の物が噴き出す濃厚な液体を、喉を鳴らして飲み続けた。一滴も残すまいと、女はなかなか唇を離さない。
 滋樹は、年上の女が与え続ける刺激に、思わず天を仰いだ。あまりの快感に、意識が飛びかけていた。

 ――とても美味しかったわ。また御馳走してね。

 意識が混濁する中、潔子の満足げな声だけが微かに聞こえた。

 微かな物音を聞きながら、茫然と射精の余韻に浸っていると、再び一物を掴まれた。空を彷徨う意識が戻ってきた。

「膣に入れてやりなさい」

 鈴木の声が響く。一物がしっとりと濡れた柔らかいものに触れた。滋樹の胸に期待が膨らんでいく。

 ――潔子さんの、中に……!?

 一度決壊してしまって、もう滋樹は性欲を抑えることができなくなっている。普通ならば、射精をすればいくらか落ち着くはずだ。しかし、憧れの女性の喉に放ち、その後も刺激され続けたことで、むしろ滋樹の欲望は強くなっていた。
 滋樹の一物は、ゆっくりと温かい肉裂に包まれていった。

 ――狭い!

 と滋樹は思った。子供を二人も出産してもなお、女の部分とはこんなにも狭いものなのか。滋樹に密着した肉体は、時折躊躇いながら、ゆっくりと一物を奥に迎えた。濡れているとはいえ、とても狭い膣だ。無理に男を受け入れれば裂けてしまいそうなほどに。躊躇うのも無理はないと思った。
 目隠しで何も見えないのがもどかしかった。手足を動かせないのがもどかしかった。潔子の美しい顔を見たい。手を触れたい。
 前後する腰の動きに合わせて、弾力のある肉の塊が身体に触れてきた。乳房だ。この塊に直接手を触れることができたなら。無駄とはわかっているが、滋樹は何度も両手を動かした。手を動かすたびに、古びたソファーが揺れた。
 滋樹の物に馴染んだのだろうか。女の腰は円を描くように激しく回り、一物を刺激してきた。女の動きに合わせて、滋樹も動いた。

「う……んっ!」

 鼻にかかった湿っぽい女の呻きが聞こえ始めた。いつもと雰囲気の違う、女のくぐもった声に、滋樹はもう有頂天だ。

 ――俺が、あの潔子さんを感じさせている!

 嬉しくなって、滋樹は腰を振り続けた。今更恥ずかしがっているのだろうか。激しい責めにも、女は淑やかさを崩さず、小さな呻きを漏らすだけだ。だが、時折一物をきゅっと締め付ける膣が、何よりも女の快感を物語っているはずだと滋樹は思った。
 余りの快感と興奮に、今にも二度目の射精をしてしまいそうだった。

「目隠しはもう、必要ないだろう」

 急に目の前が明るくなった。薄暗いはずの社長室なのに、とてもまぶしく感じられた。最初にはっきり見えたのは、薄く開かれた女の唇だ。

「潔子さん!」

 滋樹は腰の動きを止めずに、その唇にむしゃぶりついた。柔らかい感触だ。思えば女と口づけをするのもこれが初めてだ。そして、初めて女の中に精を放った。
 目を瞑り、滋樹は女の膣と唇をじっくりと味わった。永遠のように長くもあり、一瞬のようにも感じられる射精の後、滋樹はゆっくりと瞼を開いた。

「……とても、気持ちよかった。潔子さん」

 眩しさにぼやけていた視界が、次第にはっきりしてきた。柳川社長と鈴木という男が、こちらを見て声も立てずに笑っていた。だが、今はそんな男たちどころではない。滋樹は視線を愛しい女性に移した。

「私も。初めてなのに、とても気持ち良かったです、兄様」

 でも、潔子おばさんと間違えるなんてひどいわと、女は軽く滋樹の太腿をつねって、首に白い腕を回してきた。戦時下に育った少女とは思えない大きな乳房が、滋樹の胸板に押し付けられた。
 少女は思い出したように腕を離し、今度は滋樹の肩を掴んで、問いかけてきた。

「ね、兄様。私たちって夫婦に見えるかしら?」

 妹の藍香は、滋樹の目をまっすぐ見つめて、にっこりと笑った。衝撃のあまり、滋樹の意識は再び遠のいた。

 長い放心の後、滋樹は意識を取り戻した。一物はもう、藍香に包まれてはいなかった。精液が貼りついて乾いているのが見えた。ずいぶん時間が経ったらしかったが、まだ、身体は自由にしてもらえないようだ。
 社長椅子に座った藍香の乳房を揉みながら、鈴木が何やら耳元でささやいているのが見えた。

 ――あなたは毎日、大嶋製鉄に顔を出して、手当り次第労働者と肉体関係を持つ。それはとても気持ちが良いことで、あなたは夢中になる。特に組合の幹部と柳川社長の身体があなたの好物だ。それと、兄に見られながら他の男に抱かれるのがたまらなく心地よい。けれど兄と二人きりになった時だけ、あなたは正気に戻る。兄にほのかな憧れを抱いていた、清いままのあなたに。

 だが、微かに聞こえるその声を、滋樹は聞き流した。

「……俺の藍香に触れるな!」

 鈴木の囁きなどどうでもいい。藍香のまだ硬さを残した大きな乳房は、丸い臀部は、すらりと伸びた長い脚は、改めて見るととても魅力的だった。大柄な少女の前後の穴からは、真新しい白濁液が流れ出ていた。だが、彼女が初めてを捧げたのは、彼女が選んだのは、ほかならぬ滋樹だ。

 ――藍香は、俺だけのものだ!

 滋樹のかすれた叫び声を聞き、新たな意志が芽生えた顔を見て、鈴木はニコリと笑った。

 この日以来しばらくの間、大嶋製鉄の社内では、藍香の嬌声が響かぬ日がなかった。
 そして木津川兄妹の部屋では……。

「お帰りなさいませ、兄様……」

 藍香が滋樹を出迎えた。どことなく母を彷彿とさせる、美しいが陰気な顔だった。

「今、お食事をご用意しますね」

 曖昧に笑って共同炊事場に行こうとする妹の腕を、滋樹はつかんだ。

「ひっ……!」

 滋樹は黙ったまま妹を部屋まで引きずり、畳の上に投げ出した。

「……兄様、いや。もういやっ」

 以前では考えられないような、怯えた声だ。こんな汚れきった身体でも貞操を守ろうとしているのか、藍香は自らの胸を両腕で抱いた。連日の荒淫のためか、両胸は一回り大きくなって、腕から溢れてしまっていた。
 滋樹は煤けた衣服を剥ぎとった。豊満な少女の身体に手を這わせる。淫売顔負けの生活をしているというのに、相変わらず白く滑らかな肌だ。
 滋樹は女の両腿を強引に開かせ、自分の身体を割り込ませた。前戯も何もしないまま、女の部分を刺し貫く。いつも滋樹を楽しませてくれる卑猥な穴だ。
 妹の唇から苦悶の声が漏れた。女の部分はまだほとんど濡れていない。

「痛い、痛いわ、兄様。やめて……」

「工場では今日も気持ちよさそうによがっていたじゃないか。今日は何人咥えこんだんだ?」

「あれは違うわ! 本当の私じゃない! だから、兄様、こんなことはもうやめて! やめてよ……」

 藍香が、あの鈴木という男によって洗脳され、あんなことをしているのは知っている。滋樹と二人になると正気に戻ることにも気付いている。だが、潔子と藍香の変わり様を見せつけられると、誰にも彼女たちを救い出すことはできないだろうと思わざるを得ない。それに、一度目覚めた邪な欲求は、哀れな藍香に寄り添い、助け出そうとすることを許さなかった。せめて正気に戻った時の藍香を、自分だけのものにしてしまおうと滋樹は思った。
 まだ反抗的な妹の頬を軽く打った。

「きゃっ……!」

 怯えた目で見上げてくる妹に、残酷な指示を出す。

「いつものように言え」

「いや……です。兄様、目を覚ましてください……」

 もう一度打った。今度は少し力を込めた。

「言え」

「……愛して、います、兄様……気持ちいい、です」

 妹を犯す時には、いつも言わせている言葉だ。

「笑えよ。笑って言えよ」

 言われて、藍香は無理やり口角を上げた。

「……気持ちいいです。愛しています。兄様を愛しています……愛しています」

 藍香は兄に突き上げられながら、壊れたように繰り返した。目は虚ろで、口許だけが機械のように動いていた。
 こうやって少しずつ、滋樹のものであることを自覚させるつもりだ。そしていつかは、本当に自分だけの性の捌け口にしてしまおうと思った。

 ――次に潔子さんが訪ねてきたら、今度は三人で愉しもう。

 と、滋樹は思う。だが、潔子が兄妹の前に姿を現すことはなくなっていた。彼女が木津川兄妹に密着する必要はもうなくなっていたからだ。だが、性欲の虜になった滋樹は、そのことに気付かなかった。
 大嶋製鉄でのストライキ計画は、間もなく頓挫する。音頭をとっていた木津川滋樹は、社長との交渉の直後から突然手を引いた。社長に買収されたのだという噂が、まことしやかに囁かれた。他の組合幹部たちは、藍香の肉体に夢中で、ストライキどころではなくなる。幹部たちの醜態に組合員たちは愛想を尽かし、個別に活動を開始する。その結果、組合は内紛と分裂を繰り返し、急速に力を失っていくのである。大嶋製鉄は、戦後の激しい労働攻勢を悠々と乗り切る。そして、柳川晴雄社長の長期政権の下で、設備投資と組織の合理化に邁進することになる。高度経済成長を牽引する大嶋製鉄の輝かしい歴史の始まりであった。

「愛しています、愛しています、兄様っ!」

 相変わらず妹の瞳に意志の光はなかったが、その空疎な愛の言葉は微かな力を帯びていた。心は拒否しても、肉体は兄の責めに快感を見出しているのだ。

「気持ちいいよ、藍香。もう出てしまいそうだ」

「私も、気持ちいいです、兄様。ああっ! 愛しています! いって、いってしまいます!」

 激しく痙攣した妹の膣が、一物を心地よく締めつけてきた。

「今日も中に出すぞ! 藍香、藍香っ!」

 滋樹は藍香の子宮口に一物を摺りつけながら、精を放った。妹が呪われた子を宿すことを願いながら。

「……はあっ、はあっ、気持ちいいです、愛しています、兄様」

 律儀に愛の言葉を囁き続ける少女の目に、涙が浮かんだ。それは性の悦びの涙であったのか、憧れを裏切られた悲しみの涙であったのか。滋樹はそんなことを意に介することなく、飽きもせず藍香の豊満な肉体を貪った。

 特高は消滅したと人々は思っていた。しかし、警察組織の中で、特高の生き残りたちは隠然たる勢力を持ち続けた。安寧秩序のための彼らの策動は、まだ終わってはいなかった。

< 完 >

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