[AI]「あれ、これ催眠じゃない?」15春野ひまり 追想 続き

※この作品は生成AI「ChatGPT4o」を利用して製作しています

 

 

 佐久間くんが、机の上に一枚の紙をそっと広げた。

 グラフ用紙。薄くて、格子の細かいやつ。

 そのままだと少し頼りないけど、真ん中にはボールペンでくっきりと、十字の線が引かれていた。

 

(……こういうの、少し前の一次関数の授業で使った気がする)

 

 線が交差した中心点だけが、やけに静かに見えた。

 

 

 

 筆箱を開け、そこから取り出したのは、小さなペンダント。

 細い鎖の先に、ダイヤみたいな形の石がついていた。

 青く透けていて、光を受けるたび、内側に淡く影を落とす。

 

(……水晶、みたい。……さすがにガラス製とか、かな)

 本物なんて見たことない。でも、きれいだった。

 だから私は、勝手に水晶と呼ぶことにした。

 

 

 

「これを持って」

 

 

 

 差し出された鎖の端を、私はおそるおそる指先でつまんだ。

 金属の部分が、ひやりと冷たかった。

 でも、すぐ体温に馴染んでくる。

 

 

 

 そのとき、隣にいた澪ちゃんが、そっと私の肘に手を添えた。

 声には出さないけど、「だいじょうぶ」と言ってくれてる気がした。

 

 

 

「力は抜いて。腕を机の上に乗せて、吊るした石が紙の真ん中にくるようにしてみて」

 

 

 

 私はうなずいて、そっと手を固定する。

 吊り下げられたペンダント――青い水晶のような石が、グラフ用紙の交点の真上に静かに垂れていた。

 

 そのすぐそばで、澪ちゃんが見守ってくれている。

 何も言わない。でも、確かにそこにいてくれる。

 

 

 

「今、何もしなくていい。ただ――このペンダントが、右へ、左へとゆっくり揺れていくところを、頭の中で想像してみて」

 

 

 

(……想像するだけでいいの?)

 そんなことに、何の意味が――と少し思いながらも、私は目の前の振り子に集中した。

 

 

 

 右へ。

 左へ。

 呼吸に合わせて、静かに、風に揺れるような動き。

 

 

 

 ……少し、揺れた気がした。

 

 

 

 気のせいかとも思ったけど、目を凝らすと、確かに、動いている。

 ゆっくり。左右に、弧を描くように。

 

 

 

「いい感じ。そのまま、もう少し強くイメージしてみて。

 ただの揺れじゃなくて、ペンダントがしっかり振れる様子を。

 くっきりと、心の中で描いて」

 

 

 

 佐久間くんの声は静かで、でも、なぜか心に深く響いた。

 

 私はもう一度、頭の中に映像を浮かべた。

 真ん中を起点にして、右へ、左へ。

 もっと大きく。もっとはっきりと。

 まるで見えない誰かが、鎖をつまんで揺らしているみたいに――

 

 

 

 ペンダントが、ゆっくりと弧を描きはじめる。

 グラフ用紙の細かな線の上を、滑るように。

 左右に。左右に。

 

 

 

「……!」

 

 

 

 思わず、息をのんだ。

 私は、動かしてない。

 でも、確かに動いていた。

 

 

 

「今、心の中で思ったとおりのことが、目の前で起きてる」

 

 佐久間くんの声が、静かに重なる。

 

 

 

「それが、“心理の力”。想像や思いが、ちゃんと現実に伝わるってことだよ」

 

 

 

(……思ったとおりのことが、起きる)

 

 

 

 それは、ずっと手に入らないと思っていた感覚だった。

 

 変わりたいと願っても、変われなかった私――

 

 

 

「じゃあ、今度は止めてみよう」

 

 佐久間くんの声が、静かに私の耳に届く。

 

「さっきと同じように、力は抜いたままでいいよ。今度は、ペンダントがぴたりと止まるところを思い描いてみて」

 

 

 

 私はそっと息を吸って、水晶を見つめた。

 さっき、自分の中でそう呼ぶことに決めた、“水晶”。

 

 左右に揺れている、それを――止まれ、止まれ、と、心のなかで念じる。

 

 最初は揺れ続けていたけれど、しばらくすると、その動きが徐々に小さくなっていった。

 

 

 

(……え、ほんとに……?)

 

 まるで、目に見えない糸が引かれたように、水晶は動きを鈍らせ、そして――止まった。

 

 空調の音が変わったわけでもないから、風のせいでもない。

 止まれと願っただけで、本当に動かなくなった。

 

 

「……止まった……!」

 

 思わず小さく声が漏れる。

 指先がじんわりと熱い。胸の奥が、ふわっと広がる。

 

 思ったとおりに、世界が反応してくれる。

 それだけのことが、信じられないほど嬉しかった。

 

 

 

 隣に立っていた澪ちゃんが、小さく息を呑んで、そっと微笑む。

 

「上手……ひまりちゃんは、催眠に掛かるのが得意なのかも」

 

 

 

 佐久間くんが、それを受けて言った。

 

「それを、被暗示性って言うんだ。

 暗示に対して、素直に反応できる人ってこと」

 

 

 

 私の反応には深く触れず、佐久間くんは穏やかに、でも間を置かずに続ける。

 

「でも、心はいつも、自分だけのものってわけじゃない」

 

 

 

 少しだけ間を置いて、さらに言葉を重ねた。

 

「春野さんは今、水晶を止めようとしてるよね」

 

 

 

 私は小さく頷いた。

 

「うん」

 

「でも――他人の動きや意識が、そこに入ってくると、どうなると思う?」

 

 

 

 佐久間くんは、静かに手を伸ばした。

 私の手には触れないように、水晶の下、紙の上すれすれを指先でなぞる。

 

 右へ、左へ。

 まるでさっきまで水晶が描いていた軌道をなぞるように、ゆっくり、でもはっきりと動かしている。

 

「僕がこうして指を動かして見せるだけで――どうしても、引っぱられてしまうことがある」

 

 

 

 目を凝らすと、止まっていたはずの水晶が――また、動き始めていた。

 

 

 

(……うそ)

 

 私は止めてる。ちゃんと止めてるはずなのに。

 動かそうとしてないのに――目の前の指の動きに、影響されてる。

 

 

 

 ほんのわずか。けれど、確かに。

 それは、私の“意志”が動かしているのではないと、はっきりわかる動きだった。

 

 

 

 佐久間くんの声が、落ち着いた調子で続く。

 

「心は、思ったとおりに動く。でも同時に――誰かの思いにも、知らず知らずのうちに、影響されてるんだよ」

 

 

 

 私は動かしていない。そう思いたいのに、視界の中で、吊るされた水晶がじわじわと動いていく。

 

 下では、佐久間くんの指が――私の手元には触れていないはずのその指が、水晶の真下をゆっくりなぞっていた。

 右へ、左へ。右へ、左へ。

 

 

 

「止めようとしてるんだよね。でも……揺れてしまう」

 

 静かな声。でも、間を与えない。容赦なく言葉が重ねられていく。

 

「止めようと思えば思うほど、意識がそこに向かって――揺れてしまう。止めたいと念じるほどに、揺れてしまう」

 

「心は、逆に動いてしまう。揺れてほしくないのに、揺れてしまう」

 

 

 

 やめて。

 やめてって思ってるのに――どうして。

 

 

 

「今度は……円を描いてしまう」

 

 佐久間くんの指が、机の上で静かに回り始めた。

 まるで、水晶の動きを先に決めるように、迷いのない動きで。

 

「くるくる、くるくる、まわっていく。目が追う。手が追う。心が引っ張られて――まわってしまう」

 

 

 

 水晶が、弧を描いて揺れ始める。

 

「止めようとしても……ほら、前後にも揺れ始めている」

 

 前後に。左右に。そして、回転しながら。

 

 ゆっくりだった揺れが、確実に複雑になっていく。

 

 

 

「いや……止めてるのに……!」

 

 声が震えた。

 指先に力が入りすぎて、握っている鎖がひりつく。

 

 

 

「でも揺れる。止めてるのに揺れてしまう。止めようとすればするほど、揺れは強くなる。広がっていく。止まらなくなる」

 

 止めたいのに。

 私が止めたいのに。

 

 なのに――

 

 

 

「ぐるぐる、回ってしまう。ほら、目で追ってる。

 見てるだけのつもりが、意識が吸い寄せられて、心が形を真似て、動きに巻き込まれて――ほら、回ってしまう」

 

 

 

 回ってる。

 

 本当に、止まらない。

 

 

 

「自分で止めようとしてるはずなのに、勝手に、外からの何かに従ってしまう。

 そういうことが、心には――起きてしまう」

 

 

 

(……やめて……止まって……)

 

「やだ……やだ……止まって……やめて……!」

 

 自分の口から漏れた声に、自分で戸惑う。

 必死で止めようとしているのに、止まらない。止まらないのが、怖い。

 

「やめて……動かないでって言ってるのに……!」

 

 青く澄んだ“水晶”が、くるくると大きく回り続ける。

 まるで私の不安を笑うように、机の上に複雑な軌跡を描いていた。

 

 

 

 そのとき――

 

 

「はい、そこまで」

 

 ふいに、佐久間くんの手が差し出されて、私の持っている鎖を、途中でそっとつかんだ。

 

 “水晶”が、わずかに跳ねて、それから――

 

 すぐには止まらなかった。

 鎖の途中を押さえられても、動きはそのまま少し続いた。

 

 でも、そこに、静かなブレーキがかかる。

 

 ゆっくり、確実に、弧が狭まっていく。

 左右の揺れが細く、浅く、滑らかになって――やがて、完全に止まった。

 

 

 

 私の呼吸も、それにつれて落ち着いていく。

 

 荒れていた胸のうちが、静かに波をひいていくように、少しずつ平らになっていく。

 

 震えていた手も、やがて力を抜かれて、机の上にそっと戻った。

 

 

 

 佐久間くんは、鎖をつまんだまま、静かに言った。

 

「どう? 心って……不思議だよね」

 

 

 

 私は、言葉を返せなかった。

 

 

 

「さっきまでは、君の“止めたい”が、ちゃんと動きを止めてた。

 でも、僕の言葉や動きに流されてしまった瞬間――逆らえなくなった」

 

 

 

 私の目の前で、止まった“水晶”がわずかに揺れて見えた気がした。

 光の加減か、それとも――

 

 

 

「このペンダントが、春野さん。今の、君の心そのもの」

 

 

 

 そう言って彼が手を放すと、鎖がふわりと揺れて、“水晶”はじっと静止したまま。

 

 私は、ただ黙って、それを見ていた。

 

 

 

 佐久間くんの声が、少しだけ優しくなる。

 

「さっき言った『暗示』というのは、外から働きかけるもの。

 周りの人の態度や言葉。ここでは、僕の声と指だった。

 人の心は、この“暗示”というやつに――とても弱いんだ」

 

 

 

 私は、“水晶”を見つめていた。

 自分の心だと言われたその揺れを、ただ見つめていた。

 

 

 

「今、振り子を動かしていたのは……春野さん、実は君の心なんだ。

 僕の手や言葉に“暗示”されて――『動く』と思ってしまったから、動いてしまう」

 

 

 

 その言葉が、胸の奥でゆっくりと反響する。

 誰かに笑われた言葉、信じてもらえなかった気持ち、変わりたくても変われなかった日々。

 

 その全部を、さっきの“水晶”が映していた気がした。

 

 

 

 そのとき――

 

 隣に立っていた澪ちゃんが、そっと私の肩に手を添えた。

 

 温かい手だった。

 何も言わずに、ただ静かに、そこにいてくれる手。

 

 

 

 私は、目の前の“水晶”を、もう一度だけ見つめた。

 今度は、ほんの少しだけ、違う気持ちで。

 

 

 

「でもね……他人の声に揺さぶられてしまうことも――あって、いいんだ」

 

 佐久間くんの声は、穏やかだけど、まっすぐだった。

 

 

 

「揺れてしまうってことは、受け取れるってこと。

 それは逆に、良い影響を受けることもできるってことだから」

 

 

 

 私は、止まったままの水晶を見つめた。

 揺れを収めたまま、机の上で静かに佇んでいる。

 

 

 

「ほら。もう一度、ちゃんと持って」

 

 

 

 佐久間くんに言われて、私はそっと手を伸ばす。

 鎖を持ち直して、水晶のついたペンダントをつまむ。

 

 青く透きとおったその石が、指先の熱にきらめいていた。

 

 

 

「見てごらん。とても綺麗だよね? これが今、君の心になった」

 

 

 

 ペンダントが、私の心――

 それが、なんだかくすぐったくて、でもすこし、誇らしかった。

 

 

 

「自分で、見つめてあげて。

 自分の心の、綺麗なところを、ちゃんと見つけるんだ」

 

 

 

 私は言われるままに、水晶をじっと見つめた。

 

 ひんやりとしていて、奥に光を閉じ込めているような、静かな青。

 それが、私の心。

 

 

 

「もし、揺れてしまうのが心地いいなら――揺れてしまえば、いいんだよ」

 

 

 

 ゆら、ゆら。

 最初は静かに。次第に、ゆったりと。

 

 

 

「吸い込まれるくらい……素敵で、うっとりと……見つめる。

 綺麗だね。ほら……ゆら、ゆら、揺れている。

 揺れてしまうのも、とても気持ちがいいね……」

 

 

 

 水晶が、小さく弧を描くように揺れ始めた。

 

 私の手は動かしていないはずなのに――

 それでも、ペンダントは、鎖にぶらさがったまま、ふわりと動いていた。

 

 

 

 呼吸が静かになる。

 思考が、ゆっくりと沈んでいく。

 

 

 

 ただ、見つめる。

 目の奥が、じんわりと温かくなる。

 

 ゆら、ゆら。

 揺れる水晶が、心地よさを刻んでいく。

 

 

 

「今は、いやじゃないね」

 

 

 

 佐久間くんの声が、そっと重なる。

 

「春野さんの意志で揺れている……

 揺れるのが、気持ちいいから、揺れているんだ」

 

 

 

 その言葉が、胸にやわらかく触れた。

 

 

 

(……うん。ほんとだ。いやじゃない)

 

 

 

 きもちいいから。

 だから、揺れてる。

 

 それだけのことが、とても自然に思えた。

 

 

 

(……気持ち、いい……)

 

 

 

 そう思った瞬間、

 意識が、深く、どこか遠くへと引き込まれていくような感覚があった。

 

 

「……まぶたが、少し重くなってくるよ」

 

 佐久間くんの声が、やわらかく耳に届く。

 

 

 

「ずっと集中して見ていたから。まぶたに、力が入ってるのがわかるよね。

 でもその力が、少しずつ、ほどけていく」

 

 

 

 言葉に導かれるように、まぶたがじわりと重くなっていく。

 さっきまで普通に見えていたはずの光が、急にぼやける。

 まぶたの裏から滲むように、視界が揺れて、にじんで――沈んでいく。

 

 

 

 うつむくように首が傾きはじめ、意識の揺れとともに、頭がかすかに左右に揺れる。

 

 そのとき――澪ちゃんの手が、私のおでこをそっと支えてくれた。

 

 

 

 なにも言わない。

 でも、そのぬくもりがとても心強くて、

 まるで、意識まで支えてもらっているような気がした。

 

 

 

「まだ、見ていたいね。でも、見えなくなっても――大丈夫。これは、君の心だから。

 君の中にあるから、目を閉じても、そこにあり続ける」

 

 

 

 私はペンダントを見つめながら、何度かまばたきをした。

 まぶたがぴくりと震える。勝手に、閉じようとする。

 

 

 

「だけど――目を閉じると、もっときれいに思えてくるよ。

 記憶の中で輝いて、揺れて、君だけの場所で、ずっと続いていく」

 

 

 

(……閉じたくない)

(もっと、見ていたい)

 

 でも、まぶたが勝手に下がる。

 抗えない、静かな重力に引き込まれるみたいに。

 

 

 

 見たい。目を開けていたい。

 でも――まぶたが、とても、重い。

 

 

 

「我慢しなくていいよ」

 

 

 

 佐久間くんの声が、まるで心の奥に直接染み込んでくるようだった。

 

 

 

「全部、心地よさに任せてしまおう。

 君の中にあるものが、正直に反応してるだけだから。

 大丈夫」

 

 

 

 私は、ペンダントが手の中で揺れているのを感じていた。

 でも、それが自分の意思なのかどうか、もう分からなかった。

 

 

 

「じゃあ――これから僕が、3から0まで数える」

 

 

 

 佐久間くんの声が、すぐそばで静かに続く。

 その声が、数える前から、すでにカウントダウンのように聞こえてくる。

 

 

 

 彼の左手が、私の右手にそっと重なる。

 水晶のついた鎖を握ったままの手を、やさしく、包み込む。

 

 

 

「0になったら、この手からも、力が抜けていく。

 君の心は、ゆっくりと落ちていく。深く、静かに。

 でも心配しないで。ちゃんと僕が、受け止めるから」

 

 

 

 私は、小さくこくんと頷いたつもりだった。

 けれど、その反応さえ、自分では確かめられない。

 

 

 

 ただ、目の奥で、さっき見た光の残像が、静かに揺れていた。

 

 

 

「3……」

 

 佐久間くんの声が、時間の輪郭をふっと消していく。

 

 

 

「2……」

 

 手の力が、指先からじんわりと抜けていく。

 肩の奥からも、深く、ほどけていく。

 

 

 

「1……」

 

 呼吸が深くなって、意識の重さが体の内側へと沈んでいく。

 心臓の音が、遠くで響いているような気がした。

 

 

 

 そして――

 

「0」

 

 

 

 佐久間くんの手が、私の手から静かに離れていく。

 

 私の手は――

 

 まだ握っていると思っていた、鎖が。

 その感触が、そっと、抜け落ちる。

 

 

 

 握っていたはずの鎖が、

 指の間から、するりと、抜けていく。

 

 ちゃら。

 

 私の――心が、落ちていく。

 

 するりと。

 すうっと。

 ゆっくりと――離れていく。

 

 すべてが――

 ふっと、やさしく、手放されて。

 

 気づいたときには、もう手には、なにもなかった。

 

 

 閉じたまぶたに、ふわりと柔らかなぬくもりが触れた。

 

 澪ちゃんの手だった。

 そっと私の目元を覆い、もう片方の手で、後ろから頭をやさしく支えてくれる。

 

 

 

 何も考えられなかった。

 考えなくてもいいのだと、身体が知っていた。

 

 

 

 澪ちゃんの手が、ゆっくりと私の頭を後ろへ導いていく。

 その動きに逆らえず、逆らう気も起きず、私は自然に倒れていった。

 

 

 

 背中が椅子の背もたれに触れる。

 そこへ預けられるように、深く、深く。

 

 

 

 ぐったりと、沈み込む。

 

 肩の力が抜けて、腕が膝の外側へすべり落ちる。

 両手はだらんと垂れたまま。

 重力が自分のものではないみたいに、何もかもが下へとほどけていく。

 

 

 

「ん……」

 

 どこからともなく、小さく声が漏れた。

 出した覚えもない。けれど、確かに、息が震えた。

 

 

 

 それは――初めて知る、恍惚。

 

 

 

 ――カコン、という音は聞こえなかった。

 

 

 

 何かを落とした感触があったはずなのに、音はなかった。

 落ちることそのものが、静かで、やさしくて、

 心地よさと一緒に、音さえ吸い込まれていった。

 

 

 

「安心して……」

 

 佐久間くんの声が、すぐそばから響いてくる。

 

「君の心は……僕が、きちんと受け止めたから」

 

 

 

(……ほんとだ)

 

 心の中で、ゆっくりと応える。

 

 

 

「もう、自分で支えなくていい。考えなくていい。

 君の心は、僕の手の中」

 

 

 

(私の心は……彼の手の中)

 

 

 

「とても心が軽い。何も考えなくていい。

 深く、やわらかく、気持ちのいい状態」

 

 

 

(……すごく……気持ちいい)

 

 

 

 思考が浮かばない。

 でも、感じている。

 そのすべてが、佐久間くんの声とともに、じんわりと広がっていく。

 

 

 

「ね、気持ちいいね」

 

 

 

 問いかけではなかった。

 ただの確認のように、静かに、淡く重ねられる声。

 

 私は、まぶたの裏でそっと笑っていたかもしれない。

 そのまま、深く――沈んでいった。

 

 

 

 

 静かな時間が流れていた。

 

 息づかいも、鼓動も――すべてがやさしく、深くなっていた。

 

 

 

「今……春野さんは……『トランス』という状態になっている」

 

 

 

 佐久間くんの声が、ゆっくりと、落ち着いていて……どこまでも静かに、入り込んでくる。

 

 

 

(……トランス……)

 

 

 

「力が抜けて……思考も、遠くなって……

 気づけば、言葉が染み込んでしまう……そんな状態になっている」

 

 

 

 私は、なにも返さなかった。

 でも、それでよかった。

 

 ただ、頭の中に、その言葉が――波のように、柔らかく響いていた。

 

 

 

「この状態では……脳の中にある想像力が、自由になっていく……

 だから……なにもしていないのに……気持ちよさを、感じることもできる」

 

 

 

(……きもちよさ……)

 

 

 

「たとえば……あたたかい布団……

 冬の朝……陽の光に包まれて……

 毛布のぬくもりにくるまっている……」

 

 

 

(……あったかい……ふとん……)

 

 

 

「甘いお菓子……

 大好きな味……とろけるチョコや……焼きたてのケーキ……

 口に入れた瞬間、身体じゅうがしあわせになる……」

 

 

 

(……あまい……おかし……)

 

 

 

「疲れた日の夜……お風呂の湯気にくるまれて……

 肩まで沈んで……ああ……って、声が漏れる……」

 

 

 

(……あったかい……おふろ……)

 

 

 

 頭の中が、言葉の響きだけになっていく。

 

 

 

 きもちいい……

 

 

 

 気づけば、全身が、佐久間くんの言葉に染まっていた。

 

 

 

「他にも、いろいろ……

 気持ちいいこと……

 幸せなこと……

 大好きなこと……

 その全てが……頭の中……身体中を……満たしていく」

 

 

 

(……だいすきなこと……きもちいいこと……)

(ひとりで……)

(えっちなこと……したとき……)

(きもちいい……すき……)

 

 

 

「ぁ……」

 

 唇のすきまから、あまく、ゆるく、声がこぼれた。

 とろけて出たその響きは、自分で聞いても、夢の中みたいだった。

 

 

 

 佐久間くんの声が、どんどん入ってくる。

 

 

 

「ほら……たくさんの気持ちよさが、大きくなる。

 ふくらんでいく。

 頭の中を満たして……溢れて……身体中を包み込む……」

 

 

 

「とろける……うっとりする……

 幸せで……君の一番、好きな感覚……」

 

 

 

「あ……ん……」

 

 甘く、ぬるく、ほどけるような声が喉の奥から漏れた。

 びくり、と全身が小さく揺れて、息がふるえる。

 

 

 

 その瞬間――額を支えていた澪ちゃんの手に、少しだけ力が入るのがわかった。

 

 そして、すぐ耳元で――

 

 

 

「ひ、ひまりちゃん……!?」

 

 

 

 その声は、確かに聞こえた。

 でも、遠かった。

 

 音として届いたのに、頭まで届いてこない。

 現実の言葉じゃないみたいに、ふわふわしていた。

 

 

 

(……あ……)

 

(イく……)

 

 

 

 あたたかさが、やわらかく、身体中に満ちていく。

 まるで全身を、やさしく包み込まれるように――

 

 

 

 私はそのまま、幸福の絶頂に、震えながら沈んでいった。

 

 

 佐久間くんの声が、ゆっくりと――けれど、まっすぐに入ってくる。

 

 

 

「気持ちいいね……

 とても幸せ……

 この中に……もっと落ちたい……

 だから落ちる……深く、落ちていく」

 

 

 

 その言葉だけで、胸の奥がふわっと揺れる。

 

 

 

「ほら……3」

 

 

 

「ふぁ……あ……」

 

 口が勝手に開いて、甘い息が漏れる。

 胸の奥が熱く、あたたかく――

 そこから何かが広がっていく。

 

 

 

「2」

 

 

 

「は……ぁ……」

 

 まぶたの裏がきらきらして、

 息がやわらかく、声に混じる。

 どこか、奥のほうがじんとする。

 

 

 

「1」

 

 

 

「ん……ほ♡……」

 

 喉がふるえる。

 声が勝手にこぼれる。

 甘く、愛おしくて、どうしようもないくらい幸せだった。

 

 

 

「0」

 

 

 

「……っほ……♡……ぉ……♡……」

 

 ずん、と落ちた。

 重く、深く、身体の芯まで沈み込んで――

 

 なにも、残らなかった。

 考えなくていい。

 感じるだけ。

 幸せだけが、そこにあった。

 

 

 

 そんな私に、佐久間くんの声が届く。

 

 

 

「次に……僕が名前を呼ぶまで……

 一番気持ちいいところで……

 ゆらゆら……揺れ続けることができる」

 

 

 

(……ゆれてる……)

 

(きもちいい……)

 

(しあわせ……♡)

 

 

 

 そのまま、私は――

 深く、やさしく、気持ちよさに包まれながら。

 ゆっくりと、揺れ続けていた。

 

 

 ゆら、ゆら。

 

 気持ちいい海のなかを、ふわふわと漂っている。

 

 揺れて、沈んで、浮かんで、また沈んで――

 

 どこまでも、あたたかくて。

 どこまでも、やさしかった。

 

 

 

 遠くのほうで、誰かの声がした。

 

 

 

「……ふう。澪、ありがと。……良いアシストだったね」

 

 

 

(……さくまくん……?)

 

 名前を呼ばれたわけじゃない。

 でも、声のかたちだけは、すぐにわかる。

 

 

 

「……うん……で、でもこれ……どうするのよ……

 ひまりちゃん……絶対エッチな……その……」

 

 

 

(……わたし……の……はなし?)

 

 ぼんやりと浮かんだ疑問も、すぐに溶けていく。

 考えようとした瞬間、胸の奥がふわりとあたたかくなる。

 

 

 

(きもち……いい……)

(……あ……なにも、かんがえられない……)

 

 

 

「いやあ、まさか……こうなるとはね……

 でも、いいことだよ……春野さんは、気持ちいいことを知ってるってことでしょ」

 

 

 

(……いいこと……?)

 

 ふわり、と何かが胸の中に落ちてくる。

 

 

 

「ば、バカ……!」

 

 

 

(……バカ……)

 

 誰に言ってるのかも、もうよくわからない。

 

 でも――

 

 

 

(いいこと……だったら……)

 

 

 

 ぽつぽつと、いろんなことが思い浮かぶ。

 思い浮かんでは、すぐに溶けて、消えて、また浮かぶ。

 

 

 

(みんな……ひまりは、スケベな子って……)

(エッチなからだ、だって……)

(わるいことって……バカにして……)

(でも……えっちなことって、気持ちよかった……)

(……気持ちいいのに)

 

 

 

 ネットの画面が、頭の奥にぼんやりと映る。

 

 嫌なことがあったときは、そればっかり見てた。

 

 誰とも話したくなくて、

 泣いて、うつむいて――

 スマホの画面にすがるみたいに、指だけ動かしてた。

 

 

 

 私に、ちょっと似たからだの人が、

 たくさん褒められてた。

 

 

 

 「天使」とか――

 「女神」とか――

 

 

 

 くり返し、そう呼ばれていた。

 

 画面の中では、エッチな服を着て、

 笑って、褒められて、

 幸せそうにしていた。

 

 

 

 いいことだったら――

 

 

 

(……わたしも……)

(女神に……なれるのかな……)

 

 

 

 そんなことを、ふわりと、思った。

 

 思ったとたん、胸の奥がふるえて――

 からだの奥が、また、きゅんと熱くなった。

 

 

 

(いいこと……だったら……)

(うれしい……♡)

 

 

 

「ふぁ……あぁ……♡」

 

 また、甘い声が喉の奥から漏れた。

 何も考えていないのに、気持ちだけがあふれて、勝手に音になる。

 

 

 

(……また……イって……)

(……すき……♡)

 

 

 

 胸の奥で、とろけたような感覚が広がっていく。

 

 やわらかくて、あたたかくて、

 自分の輪郭が、海に溶けていくようだった。

 

 

 

 深い、深い心地よさ――

 トランス、っていうんだっけ――の中で――

 

 私は、静かに、幸せの波に揺られていた。

 

 

2件のコメント

  1. 振り子が正しく使われてる!
    いや、振り子が正しく使われてる作品は他にもあるんでぅけれど、AI出力による画像とか適当なやつとか見ると圧倒的に自分が持って相手に揺らして見せるという古典的で間違ったイメージが多いのでw

    1. ChatGPT君は優秀なので、「振り子を使った観念運動による被暗示性テストを行います」と指示するとだいたい正しい用法で書いてくれます。
      指示が正しければあとは手直しでイケるんですが、正しい指示が出せる人は自分で書けるというのは、それはそう。

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