[AI]「あれ、これ催眠じゃない?」20ひまりと美琴

 カラオケボックスの入り口は、いつも通り安っぽい電飾でキラキラ瞬いてる。

 

 でも、そんな見慣れた光も、今日はちょっとだけ見え方が違った。

 

(――なんでうち、今このメンバーといるんだろうね?)

 

 入ったのは「カラオケ軒」。

 学校から二駅、ちょっと電車に乗った先の店舗。

 繁華街からは外れてるから、いつ来てもそこそこ空いてるし、値段も安い。

 制服でも普通に入れるし、補導される心配もないから、うちがよく使ってるとこ。

 

 いつも通り、気楽な場所。

 ――ただ、今日のメンツは、ちょっとだけ特別だった。

 

 春野さん。あの“男子人気・全振りアイドル系女子”。

 普段ぜんっぜんつるまないタイプだし、うちはギャル仲間とつるむことが多いから、正直、喋るの初めてレベル。

 

 けど、どっかでずっと、気になってた。

 同性なのに、つい目で追っちゃうような、仕草とか。あと……胸とか。いや、マジでアレは反則でしょ。

 

 ――で、その春野さんと、うちと、佐久間くん。

 

 

 

(地味男子一人を、両側からカリスマ女子が挟む……)

 

 思わず吹き出しそうになった。

 

「ねえ、あたしらの間に佐久間くんいるの、なんかシュールじゃない?」

 

 笑いながら言うと、春野さんがこくんと頷いた。

 

「うん、たしかに。そーま、両手に花だよ~。もっとありがたがってもいいんじゃない?」

 

「マジでな。他の男子に刺されるんじゃん?」

 

 あたしはもちろん、春野さんもたぶん自覚してる。

 うちら、学年女子の“ツートップ”ってやつなんよ。

 

 別にそれを鼻にかけるほどアホじゃないけど、でも、わかってはいる。

 

 そんな二人に挟まれて、しれっと歩いてるのが佐久間くんって――わりと面白い構図。

 だってこいつ、モブだもん。

 

 少なくとも先週までは、モブだったんだよ。

 

「……勘弁してよ。二人とも、僕とはそういうんじゃないだろ」

 

 軽く肩をすくめながらそう言った佐久間に、私はちょっとだけ首をかしげてみせた。

 

「はぁ~? マ?」

 

「まじだよ~。そーまとはお友達でーす」

 

 ひらひら手を振ってそう言いながら、春野さんがぴとっと佐久間くんの右腕にくっつく。

 

 柔らかそうな胸が、余裕で当たってる。というか、押し付けてる。

 いや、絶対押し付けてる。

 

 ――は?

 

 そんな友達いるかよ。この子催眠でも掛かってんじゃない?

 

 だって、さっきからこの距離感、この視線。で、この空気。

 これでデキてないって、嘘じゃん。

 

 ……確かに前なら、こんな超一軍女子の春野さんが、この売れ残り野菜みたいな佐久間蒼真とくっついてるなんて、まー考えもしなかったけど――

 

 うち、もう知っちゃったのよ。そいつのすごいとこ。

 気持ちいいこと。やばいくらいの、あの感覚。

 

 だから春野さんを見たとき……この子が彼女なんだな、きっといっぱいされたんだろうな……って思ったじゃん。

 

(そっか。じゃあ……うちにも、チャンスあるってこと?)

 

 ちょっと思ったけど、もちろん口には出さない。

 自分でも、どうしたいのか分かんないし。

 

 ……でも。

 

 あたしも、左腕にそっと身体を寄せる。

 

 当てるほど乳はない。クソ。

 わざとらしくない程度に、肩を当てて、手首あたりに指を滑らせてみた。

 

 佐久間くんは少しだけ目線を落としたけど、何も言わなかった。

 

(……よし)

 

 第一ラウンドは引き分けでいいよね。

 

 

 

「……君たち、歩きにくいんだけど」

 

(まあ、なんでこのメンバーでこんなところに来てるかって言うと)

 

 最初はチカと“ポンチャ”寄って、変態催眠マンに抹茶きなこラテおごらせる予定だったんだよね。

 

 でも蓮くんと合流した瞬間、チカがそわそわし出して。

 

「ごめん、みこちん……わたし、今日カレと帰るでもいい……?」とか言い出して。

 

 ま、気持ちはわかる。

 

 催眠でカレの欲望、ぜんぶ体感しちゃったわけだし?

 しかも、あのあとも気持ちよくされて――今頃、絶対うずうずしてるに決まってる。うちと同じでしょ。

 

 ……ヤらせてあげるんだろうなあ。カレくん、幸せすぎ~。

 

 てわけで、チカ&中西は帰宅。

 澪ちゃん、と呼ばれてた子は「私は……いいかな」ってテンションで離脱。

 知らんけどあの子、なんか暗いよね。

 

 じゃあどうするかってときに、私が言ったの。

 

「ポンチャは今度でいっか。カラオケ行かん? 春野さんとも話してみたかったし!」って。

 

 したら春野さん、なんかちょっと考えてたけど。

 まあすぐ頷いて「いいよ~」って。

 

 考えてたぽいのは、あれか。うちお邪魔虫した?

 まあね、それは仕方ないじゃんさそこは。

 

 

 

 

 

「じゃ、こっちこっち。うち、ここのルーム指定してるから」

 

 カラオケのドアを開ける。

 春野さんがくすっと笑って言う。

 

「赤城さんって、こういうの慣れてそうだよね。案内お願いしちゃお」

 

「もちろん♡ 春野さんこそ、女子とつるまないイメージだけど?」

 

「まあね。でも赤城さんのこと、気になってたし」

 

 ――うん、それ。

 うちも、そう。

 

 声には出さず、代わりにアイシャドウの奥から、にっと笑ってみせた。

 

 ……つもりだったけど、そういえばさっきめちゃくちゃ泣いたし、チカにドロドロにされたから、化粧とかひどいことになってる気がする。

 

 しくった。

 

 

 

 

 

 

 

 左右の腕に、それぞれ体温を感じる。

 

 右にはひまり。左には美琴。

 二人が当たり前みたいな顔で、俺にぴったり寄り添っている。

 

 名実ともに、学年女子のツートップ。

 どちらも、目立つ存在だ。

 

(……冷静に考えると、すごい光景だな)

 

 ひまりは……今や、男子人気の頂点にいる。

 最近じゃ、女神扱いだとか、ファンクラブがあるとか、くだらない噂まで流れてる。

 

 それにしては、俺には異様なほどべったり寄ってくる。

 最初は、他の男子は大丈夫なのかと思ったけど――見ていると、納得した。

 

 ひまりは、俺以外の男子にも、距離が近い。

 誰に対しても自然に笑って、さりげなくスキンシップを取る。

 そして、そいつらが見ている前では、俺へのアピールを控えている。

 

(ひまりが言うには、『営業努力』なのだそうだ)

 

 実際、効果は抜群だった。

 男子たちは、競争心を煽られたように、ひまりを追いかける。

 

 一方の美琴は、女子グループのリーダー格。

 面倒見がよく、気さくで、けれど睨みをきかせることもできる。

 だから、面倒なトラブルも起こさないし、周囲から人望が絶えない。

 

 どちらも魅力的な人物で、そして抜群に可愛い。

 うちの学年ではこれ以上はないという二人だ。

 

(そして俺は、その二人の両方に催眠をかけている)

 

 蕩けた顔も、イくときの声も、指先がどんな風に震えるかも――全部、知ってる。

 

 外側から見れば、ただのクラスメイト。

 でも、内側は違う。

 彼女たちの一番素直なところを引き出せるのは、今のところたぶん、俺だけ。

 

(……確かに、これは面白いことだ)

 

 ひまりが右腕にぎゅっと抱きついて、小さく笑う。

 

「そーま、両手に花だね~。ありがたく思いなさいよ?」

 

 美琴も左腕に寄りかかって、にっと笑った。

 

「ま、感謝しなよ。うちと春野さんの間に挟まれるなんて、そうないんだから」

 

 そう言いながら、さりげなく手首あたりに指を絡めてくる。

 

 二人とも、堂々としすぎていて逆にこっちが戸惑うくらいだ。

 

 そのまま、美琴が先にドアを引いて指定ルームに入る。

 俺とひまりも続いた。

 

 

 

 

 

 

 テーブルとソファだけの、よくある狭いボックス。

 ひまりは俺の隣を当然のようにキープし、美琴もその反対側に腰を下ろす。

 

「で、何か歌うのか?」

 リモコンを手に取りながら、美琴に訊いた。

 

「んー? 別に。歌う気ってよりさ、今日ぶっちゃけトークショーのつもりで来たから?」

 

 美琴がわざとらしく肩をすくめて笑う。

 横でひまりも「だよね」と頷いた。

 

「ここなら人目もないしね。話したいこと、いろいろあるし~」

 

「それなー。なんか、春野さんとしゃべってみたかったし。佐久間くんにもね」

 

 俺は軽く頷いて、リモコンをテーブルに戻した。

 

「……なるほど。まあ、そういうのもありか」

 

 素直に言葉を返しながらも、内心では違うことを考えていた。

 

(さてはこいつら、催眠かけて欲しいだけだな)

 

 二人の視線が、まるで期待でじっとりしている。

 気のせいじゃない。むしろ、あからさまだった。

 

 美琴は、さっきまで催眠にかかって、何度もイかされていた。

 自分の手でも、千夏の手でも。

 あれだけ激しく快感に飲まれた後だ、体はきっとまだ火照っているだろう。

 

 顔を上げたときの、かすかに潤んだ瞳。

 無意識に指先をいじる仕草。

 喉を鳴らすのを堪えるみたいに、小さく浅い呼吸。

 

 満足していないわけじゃないはずだ。

 けれど、余韻は、完全には引いていなかった。

 

 一方、ひまりは。

 

 普段の学校では見せない顔をしている。

 周囲に他のギャルたちの目がないせいか、あるいは美琴という別のカリスマが隣にいるせいか――

 

 いつも以上に、俺との距離が近かった。

 

 右隣から、じり……と、ほとんど聞こえない音で身体を寄せてくる。

 頬が、肩に触れそうな距離。

 手が、何かを求めるみたいに、そっと太ももへ近づきかけては、ぎりぎりで踏みとどまる。

 

 覗き込んでくる視線は、まるで獲物を定めた捕食者みたいだ。

 目が、ぎらついている。

 

(……こいつ、溜まってるな)

 

 今日、ひまりには催眠はかけていない。

 ただ、そろそろ溜まってきてるだろうな、とは思っていた。

 

 実際、ひまりの性欲は強い。

 気を抜けば、押し倒されるくらいのことはありえる。

 

 そんな目をしていた。

 

(他の女に催眠してたって、知ってるからな。次は自分の番だと思ってるんだろ)

 

 確信にも近い感覚だった。

 

 あの、甘えた笑顔。

 今にも擦り寄ってきそうな呼吸。

 身体中から、「次は私だよね?」と訴えている。

 

 まったく、手がかかる。

 

「……ちょっと、ドリンク取ってくる」

 

 そう言って立ち上がると、

 ひまりがすぐに、明るい声で引き止めてきた。

 

「じゃあ、そーま。私、アイスティーお願い~」

 

 予想通りだった。

 俺は苦笑しながら、軽く手をひらひらさせる。

 

「はいはい」

 

 それから、視線を美琴に向ける。

 

「美琴は?」

 

「うちもいい? カルピスソーダで!」

 

 にっと笑って、美琴が指を立てる。

 

「……了解」

 

 俺は二人に背を向け、ドリンクコーナーへ向かって歩き出した。

 

 そのまま、ポケットに入れていたスマホをするりと取り出す。

 

 ホーム画面の片隅。

 誰も気に留めない場所に、小さく置かれたアイコンがある。

 

 黒地に、稚拙なピンク色の瞳のマーク。

 

「催眠アプリ」

 

 無料の、くだらないジョークアプリだ。

 起動すれば、ピンク色の瞳と、ぐるぐる回る渦が表示され、

 「催眠中」という紫色の文字が、うねうね動くだけ。

 

 エロ漫画みたいな、誰でもすぐに人形になってしまう催眠アプリなんてものは、現実にはない。

 催眠は魔法じゃない。

 

 これは本当に、オタクの内輪ウケ狙いの小道具。

 使いものになどならない――普通なら。

 

 ――別に、こんなものを使う必要はない。

 

 でも、ちょっと面白いじゃないか。

 

(ほら、それこそ――エロ漫画みたいで)

 

 軽い気持ちで、俺はアイコンに指を乗せた。

 

 音もなく、アプリが立ち上がる。

 

 滲むピンクの瞳。

 ぐるぐると回る渦。

 紫色の、「催眠中」の文字。

 

 画面を一瞥してから、俺はドリンクマシンへと向かった。

 

 

 

 

 

 ドリンクを手に、部屋の前に立った瞬間。

 

 中から、ひまりと美琴の声が聞こえてきた。

 

 楽しそうに笑いながら、談笑している。

 声の調子だけでも、二人の間に流れる空気がわかった。

 

 さっきまでは、俺を挟んでいた。

 それが今は――もう違う。

 

 ドアの隙間から覗くと、ひまりと美琴がソファにぴったり並んで座り、身を寄せ合うようにして話していた。

 互いに、互いの方へ身体を傾けて、距離を詰めて。

 

(……すっかり仲良くなったもんだ)

 

 それだけ、互いに興味があるということだろう。

 

 聞こえてくる内容も、想像していた通りだった。

 

「ねえねえ、春野さんって、さ……佐久間くんに、どんな催眠されたことある?」

 

 美琴が、やや遠慮がちに切り出す。

 

 ひまりが、すぐには答えず、少し笑ってごまかす。

 

「えー? ……まぁ、いろいろ?」

 

「やっぱ、いろいろなんだ~」

 

 美琴の声は、明るく。

 けれど、その裏に滲む好奇心は隠せていない。

 

(美琴も、気になってるんだな)

 

 美琴は美琴で、ひまりが俺とどういう関係なのか、どこまでされているのかを知りたがっている。

 

 もちろん、ひまりも同じだ。

 

 ちらちらと美琴を窺いながら、

 どこまで探りを入れていいのか、迷っているのが丸わかりだった。

 

(まあ、当然か)

 

 今日は千夏に催眠をかける流れだった。

 その付き添いとして美琴が来ていたことも、ひまりには察しがついているだろう。

 

 まあ実際には千夏だけでなく、美琴にもガッツリ催眠したわけだけど……。

 

 ふっと小さく笑いそうになった。

 

 二人とも、なまじ催眠を経験しているだけに、下手にはぐらかしても意味がない。

 ただ、核心にはなかなか踏み込めない。

 その距離感が、やけに可笑しい。

 

 俺は何事もなかったように、ドアを開けた。

 

 カチャ、と軽い音がして、二人の会話がぴたりと止まる。

 

「お待たせ」

 

 ドリンクを持って入ると、ひまりと美琴が同時に顔を上げた。

 

 ふたりとも、どこか気まずそうに、けれど期待も隠しきれない表情をしていた。

 

 俺はその様子に何も触れず、テーブルにドリンクを並べる。

 

「アイスティー。カルピスソーダ。それと……俺のコーラ」

 

 最後に自分のカップを置き、軽く指でトントンと叩く。

 

 炭酸の泡が、ぱちぱちと静かに弾けた。

 

「ありがと~♡」

 

「サンキュ!」

 

 ひまりと美琴がそれぞれカップを受け取りながら、

 互いに目配せして、またちょっと笑いあった。

 

 俺はソファの空いたスペースに腰を下ろし、軽く足を組む。

 

「で、何の話してたんだ?」

 

 何気ないふうに尋ねる。

 

 二人は一瞬だけ目を見合わせて――

 

「んー、ないしょ♡」

 

 ひまりが、ふわっと笑いながら肩をすくめた。

 

「うちも、ひみつ!」

 

 美琴も調子を合わせる。

 

(……そうか)

 

 そう思いながら、俺はストローを口にくわえた。

 

 甘ったるい炭酸が舌に弾ける。

 

(……なるほどな)

 

 こいつら、もう完全に盛り上がってる。

 

 話題に出すのは恥ずかしい。

 でも、興味は抑えきれない。

 

 エロ催眠。

 互いに、互いの経験を知りたくて仕方がない。

 だけど、あと一歩が踏み出せない。

 

(そういうことか)

 

 今日の催眠が、自然に決まった。

 

 俺はコーラのカップをテーブルに置き、スマホを取り出す。

 

 画面には、例のぐるぐる回る渦と、ピンク色の瞳、そして「催眠中」の文字。

 

 俺は、唐突に声をかけた。

 

「ひまり。見て」

 

 そう言って、スマホの画面をひまりの目の前に翳す。

 

 談笑の最中だったひまりが、不意を突かれて目を瞬かせた。

 

「え? ぁ――」

 

 ひまりの台詞が途中で切れる。

 口を半開きにしたまま、ひまりはスマホの画面に吸い寄せられた。

 

 ピンクの瞳。

 ぐるぐる回る渦。

 うねる文字。

 

 それらを、まるで呑み込まれるように、ひまりは見つめたまま動かない。

 

 隣で、美琴が何か言いかけた気配があった。

 俺は手を軽く上げて、それを制した。

 

 美琴はハッとした顔で口を閉じる。

 それから、怖いものを見るように、顔をそむけた。

 

 必死で、スマホの画面を見ないようにしているのが、手に取るようにわかった。

 

 俺は改めて、目の前のひまりに意識を向ける。

 

「瞳の中の渦に、意識が吸い込まれていく」

 

 声に出すたびに、ひまりのまぶたが、少しずつ重くなる。

 

「君の目にも、渦が入り込んで……ぐるぐる、ぐるぐる、何も考えられない」

 

 ひまりの体が、ソファに沈むように傾く。

 でも、顔だけは、スマホの画面をまっすぐに見続けていた。

 

「頭の中は一瞬で、気持ちいい催眠状態」

 

 小さな吐息が、ひまりの唇から漏れる。

 

「このアプリの魔力には、どんな人間も、逆らうことはできない」

 

 目が、もう完全に焦点を失っている。

 

「アプリに自我を奪われた人間は、忠実な人形になる」

 

 俺はスマホを持つ手を少し傾けながら、ひまりの瞳の奥をじっと観察した。

 

(……魔法のアプリ、ね)

 

 内心で、苦笑する。

 

 もちろんこれは、魔法のアプリなんかじゃない。

 催眠はもともと魔法じゃない。

 

 言葉と間合いと、期待感。

 それだけだ。

 

 こんなおもちゃでも、正しく使えば、ちゃんと催眠は掛かる。

 

 ましてや、最初から「掛かる」と思ってる相手なら――なおさらだ。

 

 スマホをゆっくり下ろしながら、ひまりに言う。

 

「分かったら、はい、と返事をしろ」

 

 一瞬の間。

 

 そして、ひまりの唇が、わずかに動いた。

 

「……はい」

 

 か細く、けれど確かに聞こえた返事。

 

 ひまりはスマホを見つめたまま、次の言葉を待つ人形となった。

 

 

 

 

 

 

 

 思わず、顔を背けた。

 

 ちらっとだけ見えたスマホの画面。

 

 ピンク色の目。

 ぐるぐる回る渦。

 紫の文字――たぶん「催眠中」? それが、うねうね動いて――

 

(……なんか、見たことある)

 

 思い出した。

 

 前に、男子がこっそり持ってきてた雑誌。

 『快楽園』とかいう、いかにもなエロ本。

 

 うちらギャル仲間で「うっわキモ!」って没収して、

 みんなで爆笑しながら回し読みしたやつ。

 

 ミユが「これマジで草~!」って爆笑してた、あのページ。

 女の子が、アプリの画面を見せるだけで言いなりになるっていう、しょうもない漫画。

 

(あれ、マジであるわけないって思ってたけど……)

 

 そんなもんで催眠にかかるわけないじゃん。

 バカすぎる。アホの極み。

 

 ――でも。

 

 チラ見しただけで、ぞわっときた。

 背筋、なんか、勝手にざわざわする。

 

 直観的に、嫌な予感がした。

 

(……うちも、見続けたらヤバいんじゃね?)

 

 そんなこと考えて、慌てて目を逸らした。

 

 でも、耳はちゃんと聞こえてた。

 

「瞳の中の渦に、意識が吸い込まれていく」

 

 佐久間くんの、やけに優しい声。

 

「自分の目にも、渦が入り込んで……ぐるぐる、ぐるぐる、何も考えられない」

 

 隣の春野さんの呼吸が、だんだん浅くなっていくのが、肌でわかる。

 

「頭の中は、一瞬で、気持ちいい催眠状態」

 

 ふわふわに浮かんでいくみたいな空気。

 

「このアプリの魔力には、どんな人間も、逆らうことはできない」

 

 ありえない。

 ないって、そんなの。

 

 ――ない、はずだった。

 

「アプリに自我を奪われた人間は、忠実な人形になる」

 

 そこで、少しだけ、間があった。

 

 そして、佐久間くんの指示。

 

 ――いや、命令。

 

「分かったら、はい、と返事をしろ」

 

 数秒の、静かな沈黙。

 

 次の瞬間――

 

「……はい」

 

 春野さんの、かすれた返事が落ちた。

 

 おそるおそる、視線を戻す。

 

 そこにいたのは、さっきまでの春野さんじゃなかった。

 

 顔が、ぽかんと抜けてる。

 目は開いてるけど、どこも見てない。

 

 口元、力抜けて、ふにゃってだらしない。

 

(や、ヤバ……)

 

 わかる。

 

 見ただけでわかる。

 

 あれ、マジで、ぐるっぐるにされてる。

 

 エロいとか、そういうんじゃない。

 それすら越えて、頭ん中、ぐちゃぐちゃに蕩けてる。

 

 自分じゃどうにもできないくらい、全部、溶かされてる。

 あたしは、知ってる。あれを。

 

(マジかよ……)

 

 胸がドクンドクン暴れて、手のひら、しっとり汗ばんでる。

 

 でも、目を逸らせなかった。

 

「では人形。眠りなさい」

 

 佐久間くんが、静かに命じた。

 

「はい……」

 

 春野さんが、また力なく答える。

 

 かくん、と首が落ちて、

 ソファに沈みながら、すうっと瞼を閉じた。

 

(ヤバいって……ヤバいって……)

 

 心の中で繰り返しながら、うちは、動けなかった。

 

 本当に。

 

 こんなの、あるわけないのに。

 

 でも、目の前で、起きた。

 

 間違いなく、現実だった。

 

 そして。

 

「――さすが、本物は良く効くね」

 

 佐久間くんが、ふっと微笑んだ。

 

 うちを、まっすぐに見ながら。

 

 胸が、どくん、と跳ねた。

 

(バカじゃん。こんな……こんな、あるわけないし)

 

 そう思いたかった。

 

 だから、言葉に出した。

 

「本物なわけ、ないっしょ」

 

 ちょっとだけ、声が上ずったのが、自分でもわかった。

 

 佐久間くんは、軽く目を細めた。

 

「じゃあ、美琴は。このアプリのこと、信じてないんだ?」

 

 問うように、でも、どこか試すみたいに。

 

 うちは、うっと詰まった。

 

 だって――目の前で春野さんが、ああなってる。

 

 あれ、演技とかじゃない。

 本気で、落とされてる。

 

 でも。

 

 負けたくなかった。

 

「……ありえねーし」

 

 そう言い切った。

 

 無理やり。

 必死で、気持ち押し殺して。

 

 佐久間くんは、そんなうちを見て、ふっと笑った。

 

 スマホをくるっと手の中で回して、画面を下に伏せる。

 

 そして、言った。

 

「このアプリの画面を見せられると、どんな女の子も、僕の声だけに従う忠実で、幸せなお人形さんになってしまうんだよ」

 

 その言葉が、

 ぞわっと、背中を撫でた。

 

 いや、違う。

 撫でたなんて、可愛いもんじゃない。

 

 爪で、そろりと引っかかれるみたいな。

 

(……ヤバ)

 

 伏せたスマホ。

 その向こうにいる春野さん。

 

 スマホ。春野さん。スマホ。春野さん。

 

 視線が、勝手に行ったり来たりする。

 

 想像してしまう。

 

 うちが、さっきの春野さんみたいに、

 ふにゃふにゃになって、だらしなくソファに沈んで、

 言われたこと、なんでも「はい……」って答えてるとこ。

 

 簡単に。

 あっさり。

 まるで、最初からそうなる運命だったみたいに。

 

 ありえる。

 わかる、もう知ってる。

 うちは、そんな風になれる。

 

(……やば、やばい、マジでヤバい)

 

 胸がきゅうっと締めつけられる。

 

 逃げたかった。

 でも、逃げられなかった。

 

 佐久間くんが、静かに問いかけた。

 

「美琴は、そんな風にはならないと思ってる?」

 

 挑発的に。

 まるで、最初からわかってるみたいに。

 

 うちは、ぎゅっと唇を噛んだ。

 

 喉が、からっからだった。

 

 それでも――

 

「……ならねーし」

 

 声を絞り出した。

 

 けど、内心では。

 

(なる。絶対、なる)

 

(こんなの、ならないわけない)

 

 わかってた。

 自分が、どうしようもなく弱くなってるの。

 

 わかりすぎるくらい、わかってた。

 

 そんなうちに、佐久間くんが、ゆっくりとスマホを翳した。

 

「じゃあ、美琴。見て」

 

 目の前に、ピンクの渦が広がった。

 

 ぐるぐる、ぐるぐる。

 

 「催眠中」の文字が、うねうね踊る。

 

 その瞬間。

 

(――ほら、やっぱり)

 

 うちが覚えていられたのは、そこまでだった。

 

 

2件のコメント

  1. 催眠アプリだー!

    まあ、ジョークアプリなのでぅがw
    既にズブズブにかけたことのある相手に施術者がそういうものだと思わせて見せればまあ催眠アプリプレイとかは行けるんでしょうね。
    なかなかおもしろい導入でぅ。美琴ちゃんは隣でひまりちゃんが落とされてるのを見てるのもポイントでぅね。

    この後どう来るのか。
    続き読も

    1. 催眠アプリ催眠おもろいんですよねー。
      ジョークアプリとしての催眠アプリはいくつか実在するので、催眠する人は使ってみても面白いですよ。

      「隣で落ちてる人を見ていると落ちやすい」に気づいてくださるとはさすがです。
      説得力が違うんですよね~

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