前編
生駒課長補佐はここ数ヶ月、悩みを抱えていた。
職場に馴染めない。新しい環境に適応出来ない。
それは社会人にとって決して珍しい悩みではない。むしろ、よくある悩みと言える。
しかしだからといって、生駒課長補佐の悩みが、大したものでないとは言えない。
生駒課長補佐にとっては、非常に大きな悩みだった。
もちろん、生駒課長補佐だってこれまで、全く悩みのない人生を送ってきた訳ではない。
46年の人生の中で、色々な壁にぶつかり、乗り越えてきたつもりだ。
だから生駒課長補佐も、出来るだけ前向きに考えようとする。
上能陸運の集配所が閉鎖になって、仕事を失った大先輩もいた。
多くの同僚が地方の事務所や、上能グループの関連会社に異動となった。
彼らと彼らの家族のことを考えると、首都圏に残っていられる生駒さんは、とても幸運に思える。
集配所最後の夜、みんなで呑んだお別れ会の時も、彼は同僚たちから羨ましがられ、応援された。
上能グループの中では今一番の成長株、「カミノー・トレーディング・エージェンシー」への異動が決まっていたからだ。
港に近いお洒落な新都心に本社を構える「KTA」総務部への異動を、みんなが自分のことのように喜んでくれた。
それなのに、生駒さんにとってこの新天地は、3ヶ月たっても全く馴染めない、別世界のように感じられる。
かつての同僚たちの期待を考えると、余計に今の自分が情けなく思える。
生駒さんの悩みは深い。
「課長補、申し訳ないですが、横浜の曽根さんに、再発行した伝票の提出の件、催促しておいて頂けます? 曽根さん、いっつも期日を守らないんですよ。」
課のOL、市橋さんがそっけなく生駒さんにお願いする。
今日も、みんなが面倒くさがる案件だけが、生駒さんに回ってくるようだ。
それでも生駒さんは嫌な顔せず、丁寧に対処する。
仕事が回ってくるだけ、今日はありがたい。
「はいはい、横浜支社の曽根さんですね。ちゃんと電話しますよ。」
「あの、課長補、曽根さんっていっつも外回りだし、お客さんといる時は携帯にも出てくれないし、履歴が残ってても、返答してくれないんで、アシスタントの人にもCCを入れて、メールで送っておいてください。忙しいみたいですからね、曽根さん。」
(忙しいみたいですからね、貴方と違って・・・、なんてな。)
心の中で、ぼやきが入る。すっかり卑屈になっている自分に、生駒さんは自分で苦笑してしまう。
「メールか・・、そうねえ・・・。実はね、市橋君。その、何度も悪いんだけど、社内のアドレスの見方、教えてくれないかい?」
ドンッ!
市橋さんは手に持っていた黄色い付箋を、乱暴に生駒さんの机に叩きつけた。
「もうっ、イントラネットでここを開いてくださいっ! アドレス帳のってますから、ちゃんとダウンロードして、Cドライブにでも保存しといてもらえますか? お願いします!」
(おっとっと・・・。市橋さんはもともと美人なんだから、もっと柔らかい話し方をしたら、今よりずっとモテるだろうに・・・。こんなこと言ったら、セクハラかな?)
生駒さんは曖昧にうなずくと、付箋を受け取って、メールの作成作業に入った。
人さし指で、恐る恐るキーボードを叩いていくので、中々進まない。
隣の席の市橋さんは、それを見るだけでイライラが募るようで、目を閉じてため息をつくと、首を大きく左右に振った。
生駒さんだって、必死で努力をしている。
しかし残念ながら、環境が違いすぎるのだ。
生駒さんがこれまでいた集配所には、かつてパソコンが一つしかなかった。
在庫管理、伝票管理、品質情報、クレーム管理、受注、発想連絡。
これまでの仕事を、生駒さんは全て電卓と手書きの文書でこなしてきた。
字だって真面目な人柄を表して、とても綺麗だ。
しかしこの「カミノー・トレーディング・エージェンシー」は、新興の海外ブランド輸入業者。
イタリアやフランス、時にはオーストリアやベルギーから、まだ日本では馴染みの薄いブランドを青田刈りして、衣類や靴、バッグや食器を輸入する会社。
システム化の進展度や社風の若さ、日々の仕事のスピードが全く上能陸運とは違うのだ。
そう。集配所にウィンドウズ95が一台だけ、あとは集配システムに直結されたパソコンと、宛名を印刷する一太郎が置いてあるだけだった生駒さんの以前の職場とは、全てが違っているのだ。
同僚たちにしたってそうだ。
純朴な女子社員が4人、あとは男所帯だった集配所とは、うって変わってここでは職場の7割が、流行に敏感で、都会的な女性社員たち。
中には外国語に堪能なOLも少なくない。
ダンボールの梱包効率計算が得意な生駒さんは、あまりここでは尊敬されないようだ。
「えぇーっと、エイチティーティーピー。あれ? これは確か、入力しなくても良いんだったかな?・・・カミノーね、ケー、エー、エム、アイ・・・」
ボソボソ聞こえる生駒さんの独り言にイライラして、また市橋さんは首を左右に振っている。
それを一々気にかけていては進まないので、生駒さんはメールの文面に集中する。
「・・・曽根課長殿、本社・総務部の生駒と申します。先日当部より、依頼いたしました、再発行した伝票の件でございますが、既に期限を過ぎております。速やかに提出をお願いいたします。当部でエビデンスを集約致しまして、社内監査に備えますので、よろしくご協力願います。・・・うーんと、こんなもんかな?」
。。。
「課長補。横浜の曽根さんに、伝票の件、プッシュして頂けました? さっき曽根さんのアシスタントの宮内ちゃんから、伝票の締め切りいつですかって電話があったんですけど。」
ウェーブの髪を指でいじりながら、工藤さんが生駒さんの席にやってくる。
工藤さんは市橋さんよりも若くて、まだ入社3年目。
仕事よりもアフターファイブの生活をエンジョイすることを信条としている、今時の女の子だ。
「あぁ。さっき送りましたよ。メール。アドレス帳をダウンロードして、それを見ながら打ったんで、間違いないはずですよ。」
「おっかしーなー。宮内ちゃん、曽根さんのメーラー見ることが出来るから、チェックしたんだけど、何の連絡も入ってなかったって言ってましたよ。もしかして、課長補、また失敗したんじゃないですかー?」
若者独特のイントネーションで、工藤さんが喋る。
資料作成に没頭していた市橋さんが大きなため息をつくと、立ち上がって、生駒さんのパソコンを見に来てくれた。
「課長補、送信履歴を見せてください。・・・、やり方わからなかったら、私がやります。・・・、いえ、マウスは要らないです。キーボードだけで操作するのに慣れてますから。えっと・・・、え?課長補、このアドレス、なんです? うちのドメインじゃないんですけど・・・、このソネ・ヒサヨシさん、同姓同名の別人じゃないですか?」
「えー、課長補、またやっちゃったんじゃないですかー? これって、別会社の別人に、メール送っちゃったんですかー?」
工藤さんが大げさに間延びした声で騒ぎ立てる。
市橋さんは冷ややかな視線を生駒さんに投げかける。
生駒さんは、困ってしまって頭をかいた。
「いやー、ちゃんと会社のアドレス帳を開いて、そこを見ながら打ったんですよ。ほら、市橋さんが場所を教えてくれた、アドレス帳。カミノー、ハイホン、ダイレクトリー・・・ほら、ちゃんとあってる。」
「ハイフン?・・・課長補、あの、私が書いたの、アンダーバーです。全然違いますよ。」
市橋さんが、シレッとした顔で、黄色い付箋を取り上げる。
「アンダーバー・・・、そんな違いが、あるんですか?・・・よくわからなかった。」
「お疲れ様―っす!総務の人―。例の修正入った伝票、持ってきたよー。」
野太い声が、オフィスの出入り口から聞こえて、生駒さんへの尋問は一旦、中断した。
みんなが振り返ると、よく日焼けしてガッチリとした体格の男性、横浜支社・営業3部の曽根さんが来ていた。
「え・・・、曽根課長。あの、伝票を届けに、わざわざ総務部まで来られたんですか? 珍しいですね。」
市橋さんが茶色い封筒を受け取る。
確かにいつも忙しそうにしている曽根さんは、書類の送付関係は全て部下に任せっきりのことが多い。
そうした書類のサインすら、後回しにしておくことが多いのだ。
「おう、わざわざ総務部どころじゃないよ。商談キャンセルして、このためにわざわざ東京本社まで来たんだぜ。ったく、俺も律儀だね。なんだか急に、期限すぎちゃったんじゃないかって気がしてきて、いてもたってもいられなくなって、このためだけに横浜から飛んできちゃった。大した用でもないのになぁ・・・。ったくよー。商談キャンセルの埋め合わせに、今夜は朝まで接待じゃねえかな? お、こうしちゃいられない。じゃあなっ!」
体当たりの営業活動が売りの曽根課長は、女性が多い社内では珍しい、豪胆な体育会系の日本男児で、意外と女性社員の中での人気も高いようだ。
大きな足音を立てて総務部を後にした曽根さんの後姿を見ながら、市橋さん、工藤さん、生駒さんの3人は、ポカンとその場に立ち尽くしていた。
「あの曽根さんが、書類の提出期限を思い出して、直接手渡しで提出?・・・今夜、雪が降るわね。」
「あたし、バケツが降ると思いますー。」
。。。
生駒さんは、同僚たちと違って、それ程仕事が忙しくない。
その上、真面目な性格だから、疑問が一つでもあると、真剣に考え続ける。
(メールは、アドレスが違っていたので、曽根課長には届いていなかった・・・。でも、曽根さんは、急に提出日を思い出して、速やかに提出してくれた。メールって、本当に届いていなかったのだろうか? そもそも、さっき開いたアドレス帳は、上能グループのアドレス帳だと思って、きちんと全部保存したのに、あれは一体、なんだったんだろう?)
生駒さんはわからないことがあると、とことん考え抜くたちだから、さっき保存したアドレス帳と、市橋さんに再度教えてもらった、正しいアドレス帳とを、印刷して見比べてみる。
(確かにこの、耳みたいなマーク・・・。アットマークと言ったかな? アットマークの後ろにくる文字が、違っている。最初に保存したアドレス帳の方が、ずいぶん長いアドレスになってるなぁ。しかし、ちゃんと横浜支社の、営業3部に、曽根久芳さんがいる。アシスタントの宮内さんも・・・。偶然他の会社のアドレス帳をダウンロードしてしまったにしては、あまりにも一致する部分が多すぎるよなぁ・・・。)
印刷すると20ページにもなった、疑惑の「偽アドレス帳」をめくっていくと、東京本社・総務部のページには、生駒さんと市橋さん、工藤さんと同姓同名のアドレスも見つかった。
(あれまぁ。僕らと同姓同名の人もいる・・・? これはちょっと、偶然の一致にしては、変だよな。)
生駒さんは試しに、確認のメールを打ってみることにした。
『確認のメールです。市橋様、突然申し訳ございません、一点確認したいことがございまして、メールを送らせて頂きます。私、カミノー・トレーディング・エージェンシー株式会社、総務の生駒と申します。現在、このメールアドレスは使われているのでしょうか? 私どもが現在使用しておりますアドレス帳と、貴社のアドレス帳が酷似しており、間違えて打ってしまう可能性があると思いましたので、確認させていただきました。もしこのメールがまだ使われており、貴方様が読まれましたら、一言で結構ですので、お返事頂けませんでしょうか?
生駒洋介
(株)カミノー・トレーディング・エージェンシー
総務部 課長補佐』
送受信のボタンを生駒さんが押した瞬間、隣の市橋さんが突然立ち上がった。
左の生駒さんの方を向くと、気をつけの姿勢になって右手を高々と上げて、「はいっ。受け取りました!」と大きな声を出した。
「わっ、イッチー先輩、急に大きな声出さないで下さいよー。びっくりするじゃないですかー。」
工藤さんが甘えた声を出す。
生駒さんも心配して声をかけた。
「市橋さん、どうなさったんですか?」
当の市橋さんは、キョトンとした様子で、周りをキョロキョロと見回した。
まるで、市橋さんの方が、自分の行動に驚いているような雰囲気だ。
「え・・、いえ、何でもないです。・・・その、急に、頭の中で、キンコーンって、ベルが鳴ったような音がして、大きな字が広がったような気がしたんです。」
「えー、字ですかー?なんて書いてあったんですかー?」
「それがね・・・、その、笑わないでね。『You Got Mail』って・・。」
「そ、それって完全に、仕事のしすぎだと思いますっ!」
「KTA」の総務部では、おかしな出来事の多い日だった。
ただみんな忙しいので、あまり気にすることなく、仕事に戻る。
しかし生駒さんだけは、何か凄く深刻な顔をしてオフィスを後にしたのだった。
。。。
翌朝の「KTA」総務部は、女性社員たちの驚きの声や笑い声とともに業務が始まった。
みんな、驚くほど、服装がかぶってしまったのだ。
清潔感のある白いカッターシャツに、タイトスカート。
ここまでは、仕事の場所である以上、何もおかしいことはない。
しかし、全員の足元が、赤いハイヒールで揃っていたのは、驚きとしか言いようがなかった。
まるでみんなで統一された制服を着ているような状況に、先輩格の市橋さんも、苦笑するしかなかった。
工藤さんは、あまり自分の好みではない、パリッとした服を着てきてしまったことを
悔やんでいるように、口元をすぼめ、眉をひそめてPCに向かっている。
なんと、ヒールの高い靴は足に合わないからと、一足も持っていなかった女性社員などは、昨夜急に思い立って、深夜も営業している靴屋を探し回って、わざわざ赤いハイヒールを買ってきたらしい。
不思議な偶然の一致に、首をかしげる同僚たちの中で、一人、生駒さんだけが、確信に満ちた顔をして汗をかいていた。
(やっぱり間違いない。これは不思議な力を持ったアドレスだ。このアドレスにお願いのメールを打てば、みんなそのお願いを聞いてくれる。どんな原理になっているのか、全くわからないが、これは・・・、凄いことだぞ。)
実は生駒さんは昨日、初めてネットカフェというものに行ってみた。
恐る恐る自分自身のアドレスに、害のないメールを何度か送って、そこで効果を確かめたのだ。
最終確認のつもりで、職場の人たちに一括してメールを送ってみた。
その効果を今朝、自分の目でハッキリと確認してしまった。
(どんなパソコンから打っても、ここのアドレス帳にメールアドレスが載っている人たちは、そのアドレスに送られた指示を必ず実行する。自分でもなんでそれを実行するのかはわからないが、特にそのことを怪しんだりすることはない。他にも、使い方によって、色々なことが出来そうだ。これは・・・、もしかして、本当に、上能グループのアドレス帳ではなくて、神の・・、神様のアドレス帳なのかもしれない。)
生駒さんは、とっさに大事なことに気がついて、昨日の昼に開いたアドレス帳のサイトに再度入ろうとした。
しかし、そのサイトは昨日とは違う画面となっていた。
「閲覧権者の方は、IDとパスワードを入力ください」
無愛想な文面が、真ん中の灰色の長方形に表示されていた。
昨日のアクセス履歴が問題となって、何か変更が加えられたのかもしれない。
生駒さんは、それ以上考えるのを諦めた。
もともと、パソコンはとても苦手なのだ。IDもパスワードも持っていないのだから、昨日ダウンロードした、会社の人たち以外のアドレスをダウンロードするのは、もう不可能なのだろう。
それでも、グループ会社全員のアドレスは保存して持っている。
これで十分、不思議な力は確認できるのではないだろうか。
。。。
「うーん・・・、暑い・・。なんか、エアコン、効いてないんじゃない?」
生駒さんの隣で作業をしている、市橋さんが不快そうな声を出す。
シャツの袖ボタンを外して腕まくりをすると、首もとのボタンをもう一つ外した。
(せっかく今日は生駒課長補が独り言も言わずに、静かにしてくれてるっていうのに、これじゃ、今日も仕事に集中出来ないじゃない。)
ストレートの黒髪に手をやりながら、市橋さんは画面に集中しようとする。
もう一つ胸元のボタンを外すと、下着がすっかり見えてしまうのだが、我慢できなくなって、ボタンに手をやる。
プラスチックのボタンを摘んでシャツをまた少し開放すると、白い、刺繍入りのブラジャーがあらわになった。
暑さにたまりかねた市橋さんが、手を扇いでシャツの中に風を送る。
気づかないうちに、生駒さんにはベストショットを提供してしまった。
(もうっ!こんなに暑いんだから、ブラなんてつけていられないわ。近くにいる男の人は、枯れちゃってる生駒課長補だけなんだから、いいわよね・・・)
市橋さんは、普段だったら思いもつかない行動をとり始めている自分に気がつかない。
机に突っ伏して、モゾモゾと動くと、開いた胸元から、スルスルと
高級そうなブラジャーを抜き取った。誰にも気づかれていないことを確認しながら、そっと机の引き出しにブラジャーをしまう。
彼女はなぜか、真横で凝視している生駒さんの視線には気がついていないようだ。
暑がっている市橋さんよりも、はるかに汗ダクになって彼女を見つめている生駒さん。
今にも発作でもおこしそうなぐらい、荒い呼吸で同僚の行動を見守っていた。
(はぁっ、ブラをとったら、ちょっとは楽になったわ。なんか涼しくなった気もするし・・・。ふぅっ。)
生駒さんがキーボードに何か打ち込むと、安心した表情の市橋さんが、両手を挙げて、大きく伸びをする。
生駒さんの激しい呼吸がピタッと止まった。
市橋さんの白いカッターシャツの胸元に、はっきりとポッチが二つ。
柔らかい生地に浮き出てしまっている。
大きく開いた胸元のV字からは、丸い隆起の横半分がしっかりと顔を出している。
真面目で優秀な市橋さんの、思いがけないセクシーショットに、生駒課長補佐は、すっかり度肝を抜かれてしまった。
しばらく口を開けたまま止まっていた生駒さん。
ゆっくりと再びキーボードを叩き始めると、市橋さんの頭の中には、またおかしな考えが浮かんできてしまった。
(なんだか、下着を取っちゃった方が、仕事がはかどるかも。どうせなら・・、パンツも脱いじゃって、もうちょっとスカートも捲り上げちゃったらどうかな? 生駒課長補だったら、別に見られたって、どうってことないし。)
。。。
三枝さんは、入社一年目の新人さん。
多少緊張しすぎるところがあるが、頑張り屋の性格で、先輩たちに可愛がられている妹分だ。
書庫の整理案を作って報告するために、生駒課長補佐との打ち合わせにやってきた。
普通は上司への報告には先輩がついてきてくれるはずなのだが、「生駒課長補だったら、どうってことないから、三枝一人で行っといでよ。別に飛ばしたっていいんだけど、まだ新人だから、一応の報告ってことでね」と先輩に言われて、仕方なくやってきた。
みんなが馬鹿にしている課長補佐とはいえ、新入社員の三枝さんにはとても偉い人に見える。
実はさっき資料の準備の時に、頭の中で何かの音がしたような気がするのだが、それも緊張のせいだろうか。
「あ、あの。本日はお時間を頂きまして、こちらの、書庫の整理案を持ってきましたので、ご覧頂きたいと思います。一応、山岸先輩にはご覧頂いておりますが、ご確認願います。」
総務部の会議室、405号室には、しょぼくれた感じの生駒課長補佐と、張り切って、上ずった声を出す三枝さんの二人きり。
大きな目がクルクルと動く三枝さんの可愛らしい童顔が、初々しい印象をより強めている。
生駒さんは優しい目で頷くと、書類に一通り目を通していく。
こんな健気な新人さんに悪戯をしてしまって大人気ないという罪悪感と、こういう可愛らしい子こそ、ちょっとだけイジメてしまいたいという不届きな考えが、生駒さんの頭の中で入り混じる。
「うん・・・、よくまとまっていると思いますよ。まだ一年目の社員さんとしては、上出来だと思います。ただ・・・、その、一つ質問があるんですが、いいですか?」
「は、はい。どこか、変なところがございますか?」
三枝さんが慌てる。山岸先輩にも確認してもらったし、ちゃんとした整理案だったはずなのに、どこかおかしな説明があっただろうか?
「この・・・、一階の整理案と、二階の図の間に挟まれているコピー。これは、何ですか?」
深緑のペーパークリップを外して生駒さんが抜き出した一枚の紙。
A3の紙面に大きく、カラーコピーで女性の上半身が写されていた。
「はい?・・・それは、私の、オッパイです。先ほど、資料のコピーを取る時に、参考資料の一部に・・・って・・・。あ、あの・・・そっか、やっぱり変ですか?」
回答がどんどんシドロモドロになっていく。
なぜか今になって急に、三枝さんが自分のやったことのおかしさに気づき始めたのだ。
(わ、私。なんでお仕事中に、OA室で服はだけたりなんかして、コピー機であんなこと・・。ど、どうしよー!)
真っ赤になって弁明を続ける三枝さんの頭の中に、当たり前のような顔をしてコピー機に、上半身裸になって胸を押しつけている自分の姿がまざまざと甦ってくる。
強くて黄色い光が自分の体を通り過ぎる時の熱が、まだ肌に生々しく残っている。
あまりの恥かしさに、この会議室の椅子の上で、このまま小さくなっていって消え去ってしまいたいような思いだ。
「書庫の整理案に、三枝さんのオッパイのコピーですかぁ。うーん、どう参考にしていいのかなあ。ちなみに、小ぶりでとても可愛らしいオッパイですが、これは縮小コピーなんですか?」
「・・・いえ、等倍です。あの、参考にならないようでしたら、破棄させて頂きますので、お返し頂け・・。」
「いや、ちょっと待ってくださいね。そうか、この大きさそのものなんですね。失礼しました。ただ、乳首の色はとても綺麗ですね。これはとてもいいと思いますよ。」
生駒さんが赤ペンで、乳首を囲うように二つ、丸を書き込む。
三枝さんはまるで、自分の体に直接ペンを入れられているようで、ゾッとする。
「はい。まあ、いいでしょう。書庫の整理案もちゃんと出来てるし、乳首も綺麗な色だし。うん。色々と参考になりました。」
生駒さんが言い終わらないうちに、三枝さんは課長補佐の手から資料を奪い取ってしまった。
「あ、ありがとうございました。申し訳ございませんが、極秘資料ですので、会議後は、回収とさせて頂きます。それでは、失礼いたしますぅ!」
バタバタと会議室から飛び出そうとする三枝さん。
生駒さんが慌てて最後に一言声をかける。
「あ、三枝さん。」
「はい?」
「繰り返しになりますが、オッパイは可愛らしい大きさでしたが、乳首は綺麗な色でしたよ。よく参考になりました。」
「あ、ありがとうございましたっ!」
真っ赤になった三枝さんが会議室から飛び出して、一直線にシュレッダーまで走っていく。
ベソをかきながら資料を処分していた三枝さんだったが、打ち合わせ後に生駒さんが自分の席に戻ってPCを叩く頃には、なぜか恥かしい出来事のことは、きれいサッパリ忘れてしまったのだった。
。。。
東京本社4Fにある営業2部では、いつもと少し違う不穏な空気の中で、昼休みが明けた。
もともと若手でトップの女性課長を先頭に、とても活気のある職場なのだが、今の雰囲気はその活気とは違う、妙なザワつきかたである。
明らかに変なことが起きているのだが、触れていいのか、いけないのかわからない。
若手はみんなそんな空気を醸し出している。
「課長・・・あの、その服・・」
「質問しないで!」
ランチから帰ってきた中條諒子課長が、いつもよりもさらに厳しい口調で突き放す。
でもその口調からは、いつもの燃え立つようなオーラが感じられない。
ランチ後の課長がなぜか、キャラクターに全く似つかわしくない、フリフリのメイド服に身を包んでいるからだ。
冗談の一つも通じない、仕事の鬼。
美人だが、触ると怪我をするような苛烈なフェミニスト・・・、2部の話題の常に中心にいる中條課長だが、今日の午後の服装は、これまでのイメージからあまりにもかけ離れていた。
強張った表情で席に着く課長。険しい目で周囲を見回すと、部下たちは一斉にうつむいて目をそらした。
それでもまたすぐに、四方八方から視線がどうしても集まってくる。
自分が身にまとっている、服がそれだけ普通じゃないのだから、仕方がない。
袖の部分が白いフリルになっている、黒のワンピース、スクエアネックから見える鎖骨。白いエプロン、レースのカチューシャ。
胸元についた大きなダークレッドのリボン。
どれをとっても、2部の中條諒子に合っているポイントがない。
なんで急に昼食後に、貸衣装屋に駆け込んで、こんな格好になってくる必要があったのだろう?
さっきはあれほど重要に思えたのに、今となっては理由も思い出せない。
「か、課長。お得意先回ってきますね。」
恐る恐る、若手の木内君が声をかけると、机に突っ伏していた課長が弾かれたように立ち上がる。
「いってらっしゃいませ、旦那様!」
木内君の目が点になる。
中條課長のとびきりのスマイルで見送られるなんて、初めての経験だ。
しかもこの台詞。ギャグのつもり?木内君は驚きを通りこして、ただただ呆然としている。
口をパックリ開けて、課長を怪訝に見る部下たちの前で、中條課長は両手で口を押さえて、赤面するしかなかった。
「もう・・いや。なんでこんなこと・・・。」
ガックリと椅子に崩れ落ちた課長は、脱力したように、あるいは自分を罰するように頭を机に打ちつけた。
ゴンっという音を立てたまま、顔も上げない中條課長。
さすがに心配になって、アシスタントの栗山さんが声をかける。
「課長、お疲れですか?コーヒーか何か、お持ちしますか?」
「コーヒー?わたくしがお持ち致しますっ!少々お待ち下さいねっ!」
またさっきのスマイルを浮かべて、課長が立ち上がる。
部下たちの制止も振り払って、給湯室へと駆けていく。
ワンピースのスカート部分は大きくて短いフレアーになっていて、課長が跳ねるたびに、短いパニエとショーツが後ろからあらわになってしまうが、課長は構わず、アニメのヒロインのような「女の子走り」でコーヒーの準備に向かう。
(そうだ・・・。先に総務部の旦那様にコーヒーをお出ししなきゃ失礼だわ。こないだはあんなことがあったし、お許しを得てこないといけない。)
中條課長の頭にはふいに、つい先日OA設備の切り替えについて議論になって、ケチョンケチョンに論破してやった、総務部の生駒課長補の顔が甦る。
あの時は仕事の出来ない会社のお荷物だと思って言いたいことをいってしまったが、今こうしてメイド服に身を包んでみると、なぜか急に申し訳ない気持ちで一杯だ。
コーヒーを持って謝りに行こう。許してもらえるんだったら、なんでもしよう。
みるみるうちに、自分の性格まで変質していくことに、中條課長は気がつかない。
足取りは軽やかに、スキップするようになっていく。
なんだかこうしたメイドさんのようなお仕事の方が、自分の天職のように感じられてきた。
ご機嫌の様子で、ハミングをしながらコップを洗う中條課長。
お尻をプリプリと振りながらコーヒーの準備をして、コップがお湯の温度に馴染むのを待つ。
その場で自分の体をクルクルと回転してみる。
フレアスカートが腰の上まで巻き上がって、可愛らしいメイド姿の自分をすっかり満喫してしまう。
(待ってて下さいね、旦那様。諒子は駄目な子だけど、ほんの少しでも旦那様のお役に立てるように、今日は一日、おそばでお仕え致しますわっ!)
< 後編につづく >