中庭のある図書館 2

「佐伯さん、聞こえますね………。今、貴方は催眠状態の入口にいます。僕の声はハッキリと聞こえるけれど、他のことは全く気にならなくなっている。そして、僕の言葉が、催眠状態にある貴方の頭の中で、少しずつ力を増していきます。それに委ねてください。心配することはありません。これは人間関係と礼儀をわきまえた、知人同士の間での、ライトな実験です。面白いこと、少し不思議なことは起こっても、不快なこと、嫌なことは起こらない。………だからそのままリラックスして、深~い眠りに降りていっても大丈夫です。…………わかりますね?」

 

 佐伯さんは、頷くようにして、頭をコクリと落とすが、その頭は元の高さまで戻ってこない。沈み込むように体が椅子に委ねられた。

 

「佐伯さん、先ほど右手を挙げたのと同じように、もう一度、手を自分で挙げようとしてみてください。でも今度は右手が重くて重くて、とても挙がりません。それは全身がリラックスしきって、重力にやんわりと身を任せているからです。手は挙がらないけれど、そのことがとても気持ち良い…………。試してみてください? ……………挙がりませんね。………3センチも挙げることが出来ない」

 

 彼女の右手がピクピクと震える。少しだけ上に挙がりそうな雰囲気もあったので、「挙がらない」と強調して伝えたところ、右手は、諦めたかのように、ダランと下に垂れ下がった。

 

「貴方の瞼もそうですよ。さっき重くなって、ひとりでに閉じていきましたよね? ………私の話を聞いているうちに、どんどんと催眠状態は深まります。今では、頑張って目を開けようとしても、瞼がピッタリとくっついてしまって、開けることが出来ない。………それは決して、嫌な感じではありません。それくらい全身から力が抜けて、リラックスしているという証拠なんです。催眠状態が深まるほど、貴方の心身は弛緩して、癒されていく。仕事に戻った時の活力を得ることが出来るんです。…………目を開けようと試してみてください。………全然開きませんよね? …………それくらい貴方は、体の力が抜けきって、心地良く深い催眠状態にある。寝入りばなのような、圧倒的なリラックス状態にあるんです。ほら、瞼は1ミリも上がらない」

 

 佐伯さんの眉毛が少し上がる。その様子で、瞼を開いてみようとしていることがわかる。けれど、彼女の瞼は、健人の言葉通り、1ミリも上がりそうな様子がなかった。まるで接着剤か何かで、上瞼と下瞼が貼りつけられ、一体化してしまったかのようだ。

 

「佐伯さん、今度は貴方の右手首に、風船のヒモを括りつけますよ。真っ赤な風船。それに引っ張られて、右手がどんどん上がっていく。全く力を入れなくても、貴方の腕は軽々と、上へ上へと引っ張りあげられていく」

 

 10センチ、20センチくらいまではゆっくりと上がっていった右手が、徐々にスピードを上げて、スルスルと肩の高さから頭の高さ、そして頭上高くまで、加速的に引っ張り上げられていった。最後には、佐伯さんは、ピンと右手を真っ直ぐ伸ばしきった。両肩の高さをみると、右肩が引き上げられているせいで、左肩が下がって見えるほどだ。

 

「今度はほら、左手にももう一つの、赤い風船が括りつけられましたよ。右側と同じくらいの力でググーッと引っ張りあげられていく………」

 

 さっきよりも速く、左手も真っ直ぐ上へ向けて伸びきってしまう。佐伯さんは目を閉じたまま、バンザイのポーズで固まってしまった。健人はもう少し、踏み込んでみる。

 

「両手が風船で引っ張られたと思ったら、今度は右足の足首にも、また1つ、赤い風船のヒモが括りつけられてしまいました。足も同じように、グーッと引っ張り上げられていきますよ」

 

 肌色のストキッキングに包まれた、スレンダーな美脚。ヒールの低い靴の爪先が伸びた状態で、佐伯さんの足が膝を伸ばす角度まで上がり、更に少しずつ上へと角度を上げていく。

 

『………おいっ。健人、ちゃんと見てるか? 佐伯さん、ちょっと辛そうだぞ。』

 

 頭の中で、もう一人の健人の声が響く。太腿まで露になるほど紺色のエプロン、そしてグレイのスカートの裾が捲り上がっていく様に、釘付けになっていた健人が、視線を上げると、佐伯さんはバンザイの姿勢と右足を蹴り上げるような体勢になりながら、その顔は苦しそうな表情になっていた。眉を顰めて、顔をしかめ、左側に顔を向けて、プルプルと睫毛を震わせている。このまま暗示を無理に強いていくと、催眠状態から覚めてしまうかもしれない。そんな兆候に見えた。

 

「佐伯さん、3つの風船がシューッと萎んでいきます。貴方の手足が自由になる。ダラーンと楽にして、リラックスしましょう」

 

 両手と右足がスーッと降りていく。そして健人は、彼女の右手がブラリと下がる前に、自分のスカートの裾を撫でるようにして直したところを見逃さなかった。彼女は、トランス状態にあっても、異性の目の前でスカートが捲れあがっている自分を認識していて、そのことに抵抗を感じていたのだ。さっき思った通り、今の暗示を無理強いして右足を高々と突き上げさせていたら、佐伯弥生さんは途中で催眠状態から覚めて、健人の拒絶を拒絶していたかもしれない。そう思うと、健人のこめかみを冷たい汗が流れた。

 

『この人が普通の人よりも、催眠術に掛かって弄ばれることに警戒心を持っているっていうのは、お前が自分で出した指摘だろ………。焦って忘れるなよ。』

 

(………ゴメン、ゴメン………。余りにもうまく行っていて、ちょっと欲が出たというか、直接的になりすぎた………。急がば回れだね………。)

 

 健人は気を取り直して、彼女に向き合う。ただ、彼女の催眠状態というのが、どこまでの負荷に耐えられるのか………という点には、強い興味を持ってしまった。「恥ずかしい」という感覚を刺激するものでなければ、彼女はどこまでの不快感を催す暗示に、ついてきてくれるのだろうか…………。彼は頭の中のもう一人の自分に指摘された、「ガッツきすぎる暗示」には気をつけなければならないと反省したが、同時に、佐伯さんが瞬時に催眠から覚めなかったことを思うと、少しだけ彼女の催眠状態の強度について、僅かながら自信を深めてもいたのだ。

 

「佐伯さん………、お気づきでしょうか? ………さっき点けて頂いたエアコン、壊れているのかもしれないですね。とんでもない冷風が吹きつけてきます。18度? ………いや、16度、10度、6度。うわっ、氷点下の冷風が吹きつけてくる。部屋はもう全体が冷凍庫のようです」

 

 健人がそう言うと、佐伯さんは両腕を交差させて上体を抱え込むようにして身を縮こめる。さっきの風船から解放されて、楽にしていた両足も、ギュッとくっつけて交差させる。健人はまだ佐伯さんの様子を観察している。「感覚支配」というものがどこまで被験者に影響を与えるのか、ドキドキしながら、見守っている。佐伯さんはいつの間にか、椅子の上に体育座りをするように足を折り曲げて体に密着させていた。肩に頬を寄せるようにして傾けた横顔を見ると、耳の下から首筋にかけて、鳥肌が立っている。次第に、カチカチカチカチと、彼女の上の歯と下の歯が、震えて噛み合う音を立て始めた。このまま放っておくと、本当に佐伯さんは健康を害するほどに凍えてしまうかもしれない………。

 

「はい、そこまでです。佐伯さんは凍りつくように冷え切った部屋を出て、この図書館の………中庭に出てきました。お日様が照らしていて、とっても温かいお庭です」

 

 そこまで言って、健人は少し後悔した。この図書館には、中庭なんて存在しない。今日、この図書館にいる人の中で、誰よりもこの建物のことを知り尽くしている佐伯弥生さんが、そのことに違和感を感じないはずがなかった。

 

「………ふぅー…………」

 

 佐伯さんはしかし、やっと安心したように深い溜息をついて、縮み上がった体をやっと楽にして伸ばす。顔には僅かに笑顔が浮かんでいる。健人もホッとした。彼女は、「図書館の中庭」という、現実には存在しない場所にいる自分を、意外とアッサリ、受け入れてくれているようだ。

 

「ここは本当に居心地の良い、素晴らしい中庭です。温かくて、綺麗で、自然の美しさに満ち溢れています。…………佐伯さん、立ち上がって、目を開けて、その素晴らしさを全身で満喫してみましょうか」

 

 健人がそう言うと、美しい司書さんは、両足に力を入れて立ちあがり、瞼をゆっくりと上げ、目を見開いた。そして本当に幸せそうな笑顔を浮かべて、自分の右、左、周囲を見回す。寒さで凝り固まった体をほぐす様にして、ささやかに伸びをした。

 

(……………本当に綺麗な人だ…………。)

 

 健人は息を飲んで、時間を忘れるように、佐伯弥生さんの美貌に見入ってしまった。いつもは彼女と目が合ったら慌てて自分から目を逸らす体勢で、チラ見する程度の彼女の顔。その顔の整った造りを間近に見ていると、ついつい見とれてしまうのだ。そして彼女の視線は、いつもの聡明な鋭い光が僅かに鈍っているように見える。……夢見心地………。その表現がしっくりくるような、少しボンヤリした視線だ。そして彼女のリラックスした表情。これは勤務時の佐伯さんからはなかなか見られないものだった。それらをじっくりと観察出来る贅沢。健人はそれを今、噛みしめていた。

 

 クンクン…………。

 

 佐伯さんが、鼻を鳴らすようにして、小鼻を小さく上下させる。ハッと何かに気がついたような表情になる。

 

「どうかしましたか? …………素敵な中庭でしょう?」

 

 健人が聞くと、佐伯さんは声がする方に顔を向けて、しかし視線は健人を通り越してもう少し遠くを見据えるようにして、笑顔で答えた。

 

「ブーゲンビリアの香りがします………。私、とても好きなんです………。それに、木の匂いと土の匂い………。今朝、小雨が降ったのかもしれないです。水分を含んだ、土と草木の匂いが、濃厚にします。…………本当に………素敵なお庭………」

 

『あれ? …………いま、この人、お前の説明を追い越さなかったか? …………こんなこと、暗示に入れてないよな?』

 

 戸惑うような、脳内のもう一人の自分の声を制するように、健人が静寂を要求する。健人が創り出した世界で、佐伯さんが何か、彼が用意していないものを自分から見つけてくれた。そのことが、彼の全身に鳥肌を立てた。ゾクゾクする喜び、疼き、興奮。今、君沢健人も何か、予期していなかったものを拾い上げてしまったような気がした。

 

「では佐伯さん………、自然の香りが濃厚な、茂みの奥に足を進めて見ましょうか………。ここは貴方のための中庭です。心行くまで探検してみましょう………。ほら、まだ少し湿っている葉っぱや枝、茎を手で避けて………、茂みの奥に行くと………何がありますか?」

 

「………白い………、赤ちゃんみたいな天使の像があります。…………可愛い………。その周りに、雨のせいで水たまりが出来ています………。日光を反射して、キラキラしています。…………本当に静かで穏やかで、素敵な光景です」

 

「佐伯さん………それは本当に素敵な光景ですね………。あれっ…………、水たまりの縁に、カエルさんが出てきましたよ。…………とっても可愛いカエルです」

 

「カエル」という言葉が出た瞬間、佐伯さんは小さく声を上げて、僅かに後ろずさった。けれど健人が「可愛いカエル」と伝えると、彼女の緊張は解けたようで、興味が押さえられないような視線で、わずかに中腰になって、想像上のカエルに見入っている。

 

「よーく見ていると、佐伯さん。…………気がついた時には、貴方自身が、とっても可愛いカエルさんになっていますよ。自由で生き生きとして、楽しく生きる、野生のカエルです。何の悩みも無い。とっても幸せなカエルになるんです」

 

 健人がそう話している間に、佐伯さんはうずくまるようにして床に体を丸めて、両手を絨毯の上についた。

 

「………ケロッ………。ケロケロッ」

 

「カエルさんは元気に跳ね回ります。さっき雨も降ったし、本当に生命力に満ち溢れています。とっても爽快な気持ちです」

 

 健人がそう言うと、佐伯さんはうずくまって両手を床に付けた姿勢から、ピョコン、ピョコンと跳ね回り始めた。時々、「ケロケロッ」と軽やかに声を口の中で転がしながら、楽しそうに跳ねる。見ると、エプロンとスカートの裾はまた捲れあがり、ストッキングを通してクリーム色のショーツまで見えていた。白い内腿の間に見える、シンプルで清楚な雰囲気の下着だ。彼女がおそらく今日、他人に見せるというつもりが全くなかった、とてもとてもプライベートなインナーウェア。それを目にすることが出来たということが、健人にとっては、ヤラシイ目的以上に、催眠誘導法の何か1つ、大きな関門を突破したような達成感まで感じた。

 

「カエルさん、見てください。近くを貴方の好物の、ハエさんが飛んでいきますよ………。ちょうどお腹が空いていたところ………、ほらっ。今がチャンスです!」

 

 健人がけしかけると、顔の向きを変えずに、黒目だけをキョロキョロと、円を描くようにして見回していた佐伯さんが、口を開け、舌をピュッと伸ばす。その様子からは、慎ましくて美しい司書さんの顔は完全に消えてしまっている。そこにあるのは本当に野生のままに活発に生きる、一匹のカエルになりきっている佐伯弥生さんの姿だった。さきほど、スカートの裾からチラッと見えそうになったショーツのことが気になって、催眠状態から危うく覚めてしまいそうだった彼女。その彼女は今、しゃがみこんで膝を開いて、内腿の間からショーツが丸見えになっていることもまるで気にならない、といった様子でカエルになりきっている。ハエを食べようと懸命に舌を駆使している。佐伯弥生さん本人に暗示をかけて、運動支配だけで足を突き上げさせようとした時には、障害になった彼女の恥じらいと自意識。それが、彼女の(初めて足を踏み入れるけれど)お気に入りの中庭で、見つけた一匹のカエルになるという、暗示の迂回を経ると、こんなにもアッサリと潜り抜けられてしまう。その催眠術の効果と不思議な特性に、健人は夢中になり始めていた。

 

「カエルさんの他にも、この中庭には、色んな生き物がいますね。ほら、蝶々です。とっても綺麗。優雅に飛び回っていますよ。佐伯さんが大好きな色合いと模様の羽ではありませんか? …………どんな柄の蝶々でしょうか?」

 

 健人が問いかけると、カエルの姿勢のままで佐伯さんがウットリと見上げる。

 

「綺麗………。蛍光色の水色で、キラキラしています。黒が縁取りみたいになっていて、よけいに水色が際立つみたい………。素敵…………」

 

「見惚れているうちに………。気がつくと貴方自身がその蝶々になっています。優雅に美しく、そして軽やかに飛び回りましょう」

 

 床の絨毯の上にしゃがみこんで両手をついていた佐伯さんが、スクッと立ち上がる。しばらく、迷っているかのように周りを見回したあとで、両手を横に開くように上げて、ゆっくりと両腕を羽ばたかせ始める。爪先立ちになって、スススッと前に進んでいく。スレンダーな腕から長い指先までをしならせるようにして羽ばたいていく佐伯さんは、健人の言った通りに、優雅そのものと言える動きを見せてくれる。顔を斜め上に向けて、胸を張るように背中を少し反らして部屋の中とクルクルと飛び回るその姿は、「軽やかに飛び回る」という暗示を全身で体現してくれているのか、あるいは自分自身、少しでも上へ上へと飛んでいきたい気持ちを持って、暗示の世界を楽しんでくれているのか………。健人はそう思った時に、ふとまた、良からぬことを思いついてしまう。

 

『お前はそんな性格だったっけ? …………悪だくみだけは、次々、出てくるじゃないか………。即席催眠術師さん。調子に乗りすぎるなよ。』

 

(わかってる…………。やりすぎないようにするから…………。でも、さっきのカエルになる暗示の時は、下着が見えちゃっていても、佐伯さん、気にしてなかったみたいだよね? ………出来るだけポジティブな感じに暗示をまとめれば、今なら、受け入れてくれるかもしれないだろ…………。やりすぎないようにだけ、気をつけるから、君も一緒に彼女の反応を観察していてくれよ。ヤバそうな時はすぐに引っ込めよう。)

 

 健人はしばらくの逡巡のあとで、生唾を大きく飲み込んで、乾いた喉を潤した後で、再び口を開いた。

 

「蝶々さんは軽やかに飛び回るのが、本当に楽しい。蝶々に生まれてきた意味を全身で感じられる、最高の瞬間ですよね…………。だけど、今日は、いつもより、身が重いです。そう思うと、飛んでいて、下へ下へと落ちていきそうになる。………よく見てください。貴方は蝶々なのに、作業用のエプロンを身に着けています。その重みで、いつもみたいに自由に飛び回れない。…………飛びながらで良いです。エプロンを脱いで絨毯にソッと落としてあげましょう。体がグッと軽くなって、気持ちよく飛び回れますよ」

 

 佐伯さんの優雅な羽ばたきが、様子を変える。両腕をバタバタと上下させるが、飛ぶのが難しそうで、体が必死に上下する。彼女の胸の部分が少し、ユサユサと揺れたように見えた。眉をひそめた佐伯さんがエプロンの肩紐に手をかける。肩紐をずらすと、スルリと紺色のエプロンが落ちる。真っ白なカッターシャツと、グレイのスカートを身に着けた、佐伯さんの「司書ではない時の」身なりが現れる。改めて彼女の華奢で魅力的なプロポーションを健人は目で愛でた。

 

「グッと身軽になりました。自由に、軽やかに飛べる。とっても気持ちが良い。嬉しいですね…………。ただ、………今もまだ、蝶々さんはシャツを着ていますよね。これを脱いだら、どんなに自由に身軽になれるでしょうか…………。無理にそうする必要はないですが、もし、飛んでいる蝶々さんにとって、シャツなんて要らないと思ったら、……………これも脱いでしまいましょうか…………」

 

 健人がそう告げると、少し思案する顔になって小首を傾げた佐伯さんが、何秒かあとに、まだ爪先立ちでトコトコと部屋の中を周回しながら、両手を首の襟元に持って行って、1つ1つ、シャツのボタンを外し始めた。歩きながら、ボタンをまた1つと外していく佐伯さん。健人が固唾を飲んで見守る中、折り目正しくアイロンがけされた真っ白なシャツが、少しずつ開けていく。胸元が開くと、繊細に刺繍が施された、クリーム色のブラジャーが、健人の目に晒される。歩き回る彼女が窓と健人の間に入る時、逆行がとても美しくてセクシーなシルエットを際立たせた。みぞおちあたりボタンから上のボタンが全て外された状態だと、綺麗な丸みを帯びたバストの形が、上品なブラジャーの上からでもよくわかる。彼女が両手を上下させて羽ばたくたびに、カップの上の部分のオッパイがフルフルっと揺れる。前に進んでいくうちに風を受けて、半分以上はだけてしまっているシャツが左右に開く。ほっそりとした白い肩まで露になった。

 

『彼女………、嫌がっている様子も、催眠状態から抜け出そうと抵抗しているような様子もないな………。けど、健人。残念ながら、そろそろじゃないか?』

 

 頭の中の声に気づかされて、健人が振り返って掛け時計を見上げる。確かに、佐伯さんの休憩時間は残り10分を切ってしまっていた。このまま当初予定外の暗示にのめりこんでいては、真っ当な方の暗示の計画が全て吹き飛んでしまう。健人は溜息をついて、上半身を肩からおヘソまではだけながら飛び回っている美女に声をかけた。

 

「はい、蝶々さんの時間はそろそろおしまいです。とっても楽しかったですね。貴方は人間に戻っていきますので、エプロンを取って、シャツのもきちんと着て、身だしなみを整えましょう」

 

 健人がシャツを整えるという前にエプロンのことを言及したからだろうか? 佐伯さんは、ほとんどはだけてしまって腕に絡まっているシャツを直す前に、エプロンの落ちている場所(健人の目の前)まで歩いてきて、かがんでエプロンを拾い上げた。その瞬間、かがみこんだ彼女のブラジャーに包まれた白く綺麗な胸が、角度がついたせいで、さっきまで以上に肌の部分が見えてしまう。両胸の間の谷間もクッキリと、健人の目に焼きついた。

 

 ドギマギしながら、健人が頭の中で今の光景を反芻している間に、佐伯さんは拾い上げたエプロンを器用に片方の二の腕に掛けて、シャツのボタンをテキパキと留め直していく。シャツをきちんと着ると、いつもの清楚な雰囲気の美人に戻る。そして紺のエプロンを着直すと、いつもの奥ゆかしいけれど頼もしい、プロフェッショナルな美人司書の完成だ。

 

『逆に言うと、いつも真面目で礼儀正しい美人秘書さんの、その服の下がどうなっているか、お前は目の当たりにしたって訳だ。』

 

 頭の中の声にそう指摘されると、余計にヤラしいことをしてしまったようで、健人の頭の芯のあたりがカーッと熱くなった。その熱を悟られないように、健人は何食わぬ顔で暗示を囁く。

 

「佐伯さん、こちらの椅子に座ってください。蝶々になって、最高に素敵な中庭を飛び回った気持ちはどうでしたか? とーっても気持ち良くて、爽快で、言葉に出来ないくらい身も心も癒されましたね………。それは凄く素敵な体験でしたけれど、素敵すぎて、人間としての記憶をいくつか、飛んでいるうちに落としてしまっているかもしれません。そのままになっていては大変なので、きちんと確認しましょうね…………。佐伯さん、貴方は何歳ですか?」

 

「………26歳です」

 

「お誕生日は?」

 

「11月16日です」

 

「お仕事は?」

 

「市の図書館で、司書をしています。2年契約で、更新があれば続けていくことが出来ます」

 

「良い感じです………。でも、佐伯さん、貴方は実は、私が次にする質問の答えを持っていません。蝶々さんになっている時に、その記憶を落としてしまったようです。いいですね? ……………では、佐伯さん。貴方のファーストネームは何ですか?」

 

「……………………」

 

 佐伯さんは口を開いて何か言おうとしたけれど、言葉が出てこない。その顔は困惑で曇っていた。健人はこのタイミングで気がついた。いつの間にか彼女は、目を開けて健人と会話していても、催眠状態から覚める様子もない。彼女の催眠状態は導入時よりもずっと深く、ずっと安定してきているようだった。

 

「では、貴方が落としてきたらしい、ファーストネームの記憶、私がそれらしいものを拾ってきましたよ。多分これです。『権三郎』。これを貴方の頭の中にヒュッと入れると、もう佐伯さんのファーストネームは権三郎です。ほら、お名前は?」

 

「佐伯……………ご…………、権三郎…………です」

 

 まだ少し困惑の色を表情に残しながら、佐伯さんは少し気弱なトーンでそう答えた。

 

「佐伯さん、『名は体を表す』と言いますよね。私が合図をすると、貴方は催眠状態から覚めて、普通の意識を取り戻します。でもお名前は権三郎さんのままです。そして態度も、名前に相応しいものになっていますよ。………3……2………1。はい、おはようございます。…………お名前は?」

 

 健人が佐伯さんの両肩をポンと叩いた後で質問すると、急に目が覚めたようで周りとキョロキョロと見回した佐伯さんが、腕組みをして、両膝を開きながらドッカリと椅子に座り直す。

 

「………自分は………佐伯権三郎だ」

 

『………ブッ………。このお淑やかな美人さんが、声のトーンまで野太くして話すのが、ギャップもあって面白いな………。』

 

 健人は、頭の中のもう一人の自分の声が面白がる様子に背中を押されながらも、1つの実験の成果に安堵する。佐伯さんにはもう一度、深い催眠状態に戻ってもらうことにする。

 

「佐伯権三郎さん、眠ってくださ~い。さっきよりもさらに深い催眠状態に戻ります。そう………。さっきの図書館の中庭で再会しましょう。陽だまりの中、ベンチにゆったりと腰を下ろしている貴方がいます」

 

 健人が彼女の両肩をもう一度ポンと叩くと、佐伯弥生さんはガクリと首を傾けて、体の全体重を、椅子に預けた。

 

「佐伯さん、私が今から合図をすると、貴方のファーストネームの記憶が、権三郎から、弥生に切り替わります。こうやって、深い催眠状態の中では、記憶すらも簡単に書き換わるということを体感してください。そしてさらに、私がもう1つ合図をすると、貴方の記憶の中から、今日、催眠術に掛かっている間に起きたことで、貴方が通常の意識になって振り返った時に、嫌な思いをするような記憶は全て消え去ります。もう煙のように薄れていって、永久に無くなるんです。残っているのは、面白かった記憶、心地よかった体験の記憶だけです。良いですね?」

 

 目を閉じたままの佐伯さんがすこし億劫そうに、コクリと頷く。

 

『あぁ…………そういうことか…………。カエルにして、小バエを食べさせたこととか、脱がしかけたこととか、都合の悪いことは、全部忘れさせる。それを確認したくて、さっきの名前を変えるとか、茶番をやった訳だ………。』

 

(うんまぁ…………。僕との催眠術実験に限っては、無害だ、っていう印象が、これからしばらくの、僕にとっての生命線になるかと思って………。)

 

 健人は頭の中のもう一人の自分と対話しながらも、右手を佐伯さんの額の近くへと伸ばして、パチン、パチンと、2回鳴らした。しばらく様子を見た後で、質問をする。

 

「佐伯さん、貴方のお名前は?」

 

「……佐伯…………弥生です………」

 

「そうですね………。佐伯弥生さん、貴方は今日、催眠術に掛けられた。バッチリ掛かった訳ですが、その間、どんなことが起きましたか? そして、そのことについてどう思いましたか?」

 

「…………風船で手が引っ張られたり、素敵なお庭に行ったり、そこで蝶々になったりしました………。不思議だけど、面白かったです………」

 

 そこまで聞いて、健人はやっと緊張が解けた気がする。そして………最後に聞いておくべきことを、質問するようにする。

 

「その通り。それらはとっても面白くて楽しい、特別な体験でしたね………。さて、そんな催眠術ですが、貴方は掛かる前に、今度、私、君沢健人にも逆に掛けさせてもらいたい、と言いました。記憶の検証のためですから、正直に答えてください。貴方は、どうしてそんなリクエストをしたのか、覚えていますか? 詳しく教えてください」

 

「……………はい………。その、………君沢さんに、もし、やましい思いがあったら、自分も後から催眠術に掛けられると知って、躊躇するかもしれない………。そう思って、予防線のために、お願いしてみました………」

 

 その言葉を聞いて、健人は一度頷いた。そしてこの展開をどうにか、もっとワクワクする展開に活用出来ないかと、しばらく考えた上で、もう一度頷き、ゆっくりと喋り出した。

 

「佐伯さん。僕がもう一度、指を弾いて合図をすると、貴方のその記憶、そして考えていることも少しだけ変化しますよ。そしてそれは、貴方の催眠状態が解けて、目を覚ましたあとも、貴方にとっての真実になります。………いいですね。………貴方は、私の催眠術に掛かって、とても新鮮で面白くて、心地良い体験をしたことで、自分でも本心から、私、君沢健人に催眠術を掛けて見たくなります。貴方は、私の誘導法の中に、もうちょっと掴んだら、自分でも健人に催眠を掛け返すことが出来る、コツのようなものがあるような気がします。だから貴方は、明日の休憩時間に、もう一度私に催眠術を自分にかけるようにせがみます。その上で、後から私に、逆に催眠術を試す。それが、貴方の考える、最適なプランになるんです。さぁ、指を鳴らすと、これが貴方にとっての真実になりますよ。3、2、1。パチンッ」

 

 健人が彼女の耳元近くで指を弾くと、彼女がビクンと両肩をすくめて、背筋を伸ばした。健人がたてつづけに暗示を入れる。

 

「そして私が数字を10から逆に数えていくと、貴方はお気に入りになったこの中庭から、現実の世界に一歩ずつ、戻ってきます。スッキリとした気持ちで目を覚ます。けれど、記憶については私がさっき伝えた通りになりますよ。………10、9、……………8、…………7…………、体に力が戻ってくる。催眠状態になる前よりも、活力が満ち溢れてきますよ。…………6…………5……………4……………、とても上質な睡眠を適切な時間とった後のような、爽やかな気持ちで戻ってくる。………3………2…………1。はい、佐伯さん、催眠が解けました。目を開けてください」

 

 両目をパチリと開けた佐伯さんは、右、左、右の順序で顔を振って周囲を確認した後で、ゆっくりと両手を持ち上げ、頭の中で手のひらを上に向けながら腕を伸ばし、気持ちよさそうに伸びをした。

 

「どうでしたか?」

 

 健人が聞くと、佐伯さんは、何と答えて良いか、しばらく迷ったような間を開けたあとで、観念したように声を出した。

 

「気持ち良かった………かも…………、です。…………ぁぁ………、アッサリ掛かっちゃって、悔しいなぁ…………。私、掛かりやすすぎかも………。単純なのかしら………」

 

 佐伯さんは笑顔を作りながらも、口元を手で押さえながら複雑な思いを答えてくれる。

 

「いえ、知能が高くて、想像力豊かな人ほど、掛かりやすいらしいですよ………。まぁ、悔しい思いがありましたら、リベンジ出来るじゃないですか、今度は佐伯さんが僕に掛けてくれるんですよね………。さっそく明日の休憩時間に、とか、如何ですか? …………もし、ご迷惑でなければ………」

 

「あ…………あの、そのことなんですが…………」

 

 と話し出して、佐伯さんは途中で言葉を止める。彼女が何かに迷っている間、健人は心臓をバクバクさせながら彼女の反応を見ていた。先ほどの暗示が効果を現すかどうか、気が気でなかったのだ。

 

「はい。どうかしました?」

 

「あの………さっきは勢いで、お願いしちゃったんですが………。君沢さんが覚えた導入方法っていうのを、もう少し見聞きさせてもらわないと、自分で掛けられるような気がしなくて…………。出来れば、明日もう1回だけ、私に掛けてもらってもよろしいですか? その後で、私からも試させてもらえると、少しはうまくいきそうな気がするんですが………」

 

 少し申し訳なさそうに訪ねてくる佐伯さん。その申し出の内容を聞いて、健人はまたもや、心の中でガッツポーズをとっていた。僅か30分ほど前には、冷や汗をかきながら、薄氷を踏む思いでお願いした、「催眠術を掛けさせて欲しい」という不躾で怪しげなお願い。それを佐伯さんの休憩時間の終わりには、今度は彼女の方からお願いしてきてくれているのだ。彼は緊張しながら刷り込んだ暗示の、予想以上の効果に、その場で飛び跳ねたいくらいの興奮を覚えた。

 

 

。。。

 

 

 小部屋を出て、佐伯さんが施錠している間に、お先に図書スペースに移る中扉へと足を進めさせてもらった。一見、ドライな仕草のようにも見えるが、佐伯さんが休憩時間の直後に、異性の利用客と2人並んで歩いて、仕事に戻っていくというところを、他人に見られるのは嫌ではないか、という、健人ならではの配慮をしたつもりだ。

 

 スキップしたくなるような足を抑えつけて、健人は何食わぬ顔でいつもの読書机まで戻って行って、腰を下ろした。「作戦ノート」を開くと、赤ペンで大きく二重丸を書いた。

 

『始めからうまく行き過ぎだな…………。こういう時こそ、慎重に進めた方が良いんじゃないか? 今日、初めて催眠導入の実験をさせてもらって、もう明日また、次をやるのか? どこかに落とし穴が無いか、もうちょっと綿密な計画を立てるべきかもしれないぞ?』

 

 頭の中の声に対して、健人は2度ほど頷く。

 

(君の言いたいことはわかるよ。…………けど、これも、ある意味では、警戒を怠らず、慎重に進めるっていう考え方に沿ったスケジューリングなんだ。さっきの催眠導入から運動支配、感覚支配あたり、ドンピシャで佐伯さんにハマってたところは君も見ただろう? あのへんには大分自信が持てるようになった。………けれど、まだ効果がきちんと検証しきれていないのが、記憶の支配。忘却暗示が、どれだけの期間、効果を持つのか、試せていないんだ。だからこそ、間を開けず、明日、同じ時間にまた実験させてもらって、その時に今日の忘却暗示を繰り返し掛け直して強化する。そうすることで、彼女が不意に、今日のセッションの全容を思い出しちゃったりするリスクを最小化したいんだ。)

 

『…………お前の言いたいことはわかる………。それにしても、素人のお前の暗示に対して、お前の言う通り、さっきの彼女は百発百中に近い形で暗示通りに反応してくれたな………。うまく行き過ぎて、気持ち悪いくらいだった…………。それについて、お前はどう考えてるんだ?』

 

 頭の中のもう一人の自分の問いかけに、頭の中ですぐに回答するかわりに、健人は一度頷いた後、黒のボールペンを手に取ってノートに考えを箇条書きに書き連ね始めた。

 

<佐伯さんが抜群に被暗示性が高い理由として考えられること>

 

 1) 聞き上手であること

 

 司書として色んな人と会話をして、彼らの要望を探り、対応してきた佐伯さんはまず、人の話を聞く時の集中力や解析力が高い。催眠術のハウツー本によると、注意力が散漫な子供や、聞き取り能力が低いタイプの対象者は被験者として適性が低いと説明されていたが、佐伯さんはこの条件を難なくクリアしている。

 

 2) 想像力が豊かであること

 

 歴史小説、外国の物語やファンタジー、幻想小説まで読み親しんできた佐伯さんは、頭の中に「今、目の前に無いはずのもの」をビビッドに思い浮かべることが出来る。想像力にも色んな種類のものがあるが、読書家の佐伯さんは「言葉をキーにして」自分の想像を瞬時に膨らませることが出来る。これは催眠状態を深化させる際に、非常に有利な適性だと思う。

 

 3) 思考の柔軟性があること、語られる世界への順応性があること

 

 シュールな幻想小説や、前時代的な価値観で書かれた文芸作品にも、きちんと読み込めば、現代の現実を生きる読者が得られるものや楽しめる展開がある。どんな人でも、覚醒状態で振り返るとおかしなことが起きていても、夢の中にいる時にはそのシュールさ、非日常的な展開をおかしいとも思っていないことがあるはずだ。佐伯さんの場合、突飛な設定や、ありえないような展開も、柔軟に飲み込んで受入れる力があるから、健人の(いくらかギコチない)暗示の数々をも、素直にトランス状態で受け止めてくれたのではないだろうか。

 

 4) 没入力があること

 

 電車に乗っていて、読みだした本に集中しているがあまり、目的の駅で降りられずに何駅か乗り過ごしてしまう………。読書好きの多くが経験したことのある現象。おそらく、一般の読書好きの数倍の読書量を誇るであろう、佐伯さんにも経験があるはずだ。ある世界を想像し、その世界にいることを楽しんでいる間に、現実世界のことが全く気にならなくなる。脳内が想像世界に没入して、空腹や睡眠欲求も忘れて、(体に悪いと知りつつも)徹夜してまでその世界の次の展開の先行きに夢中になる。そうした、ほとんどトランス状態と言っても良いほど、催眠状態と親和性の高い、『読書全集中ゾーン』を何度も繰り返し楽しんできた人なら、催眠状態への誘導も、そこでの深化も、その状態の安定化も、そしてそこへの回帰も、人並外れて容易になるという可能性が、充分にありそうだ。

 

 

 色々と考えてみたが、大体、この4点に健人の仮説はまとまりつつあった。検討の材料として、「5.佐伯さんはすでに誰か他の人に、繰り返し催眠術に掛けられてきたので、掛かりやすさが上がっている」という仮説も立ててみた。しかし、彼女が以前、御厨さんの講座に巻き込まれて、デモンストレーションで使われた時のリアクションからも、彼女はこうした経験が過去にもあったとは思えなかった。もちろん、悪意があり、かつ周到な催眠術師が彼女の「掛けられたという記憶」事態を封印した、という可能性はゼロではない(現に健人がついさっき、彼女の記憶に干渉させてもらっている)。けれど、そこまで周到な催眠術師が彼女に執着しているのだとしたら、彼女のこの抜群といって良い被暗示性の高さを、そのまま放っておいたりはしていないだろう。そこまで彼女に執着し、彼女を独占しようとするような催眠術師がいたとしたら、きっと彼女に「第三者からの催眠状態への導入と思える行為に対して忌避感や拒絶感を持つ」ように強烈にガードとなる暗示をかけていたりするのではないだろうか?

 

『彼女に執着し、独占しようとする催眠術師がもし、いたとしたら…………か。誰のことだろうな?』

 

 頭の中の、もう一人の自分の声が皮肉な言い回しをする。健人は一人、赤面していた。

 

 

。。。

 

 

 次の日の昼過ぎ、パートさんが出勤してきたタイミングで、佐伯さんはまた、30分の休憩を取る。健人はその様子を確認しつつ、受付カウンターではなく、2Fの多目的スペースにある、昨日も使った小部屋のドアの前で、佐伯さんを待つことにした。

 

 2Fに上がってきて、中扉を開く佐伯さん。紺色のエプロンを身に着けているのはいつもどおりだが、その下には、薄手の白いセーターと、ベージュ色のチノパンという姿だった。彼女のパンツ姿は珍しい。健人はそこからも彼女が今日は、「また催眠術にかけられる。そして多分また、アッサリと掛かってしまう」ということを覚悟して出勤してきたのではないかと想像した。

 

「………お待たせしました」

 

 ドアの鍵を開け、佐伯さんが健人を小部屋に招き入れる。今度は彼女は部屋の中を確認せずに室内灯と併せてエアコンを作動させた。健人もスムーズに入室して、椅子の位置と角度を昨日と同じにする。佐伯さんが軽く会釈をして腰掛けると、彼女の目の前に、人差し指を「1」と示すように上を向けて近づけ、口を開いた。

 

「佐伯さん、顔を動かさないようにしながら、目だけでこの指の動きを追ってみてください。右に…………、左に……………。ゆーっくりと往復していく指を、しっかり見つめてください。他のことはあまり考えなくて良いです。指先にだけ集中してみましょう。そうすると、どんどんと、意識がこの指先に集まってくる。雑念が消えて、頭の中がスーーッキリと気持ち良くなる気がする。じーっくりと指の動きを目で追ってください」

 

 言いながら、健人は佐伯さんの黒目の動きと状態を観察している。そして瞳孔が収縮したように見えた瞬間に、両手を開き、彼女の両肩をポンと叩く。

 

「はい、眠ってー。深~い催眠状態に入る」

 

 昨日、初めての催眠導入にかけた時間の半分以下という時間で、彼女をトランス状態に誘導しようとする。佐伯さんは抵抗することなく両目の瞼を閉じると、脱力を始める。両肩を支えたままで、健人が彼女の体を、円を描くように揺すると、彼女の頭が、力なく、右へ左へグラングランと傾いた。

 

「佐伯さんはまた、昨日と同じ、図書館の中庭にいますよ。とっても素敵なお庭。館内から中庭が見える窓自体が少ないし、木が目隠しになっていたり、ブラインドシャッターが下りているので、図書館の人たちは誰も、中庭で何が起きているのか、知ることは出来ません。ここは、佐伯さんのために準備されているような場所。貴方がとってもリラックスして、心を許すことが出来る場所なんです。貴方はここにいる限り、完全に安全で自由で、悩みのない状態でいられるんです」

 

 そう伝えると、両目を閉じたままの佐伯さんが、少し口元をほころばせた。そして両手を開いて胸を反らせるようにして、深呼吸する。

 

「………そうです。木々や草、そして沢山のお花がとっても心安らぐ香りを充満させていますね。ここで呼吸しているだけで、貴方の全身が浄化されていくような最高の気持になります」

 

 佐伯さんの笑顔がまた少し、大きくなる。健人の胸の奥がキュンと鳴った。普段、生真面目そうな表情をしている美人だからこそ、たまに見せてくれる笑顔が、こちらの心を掻き立てて、ざわつかせるほど魅力的だ。

 

「………あれ、佐伯さん。昨日からあれはありましたでしょうか? ………中庭の右奥の隅の方を見てください。黒い手すりと、古そうなレンガで出来た、階段がありますよ。………地下に降りて行けそうです。…………貴方が大好きな中庭のことですから、隅から隅まで、全部知っておきたいですよね。そのままの体勢で、階段を一段一段、降りていきましょう。日が差しているから、怖くはありませんよ。一段踏み進むごとに、貴方の催眠状態はどんとん深くなって、周りのことは何も気にならなくなります。一段降りるごとに、貴方にとって、私の言葉がどんどん強くなります。貴方にとっての真実になります。だから私の言葉に導かれて、安心して一緒に中庭とこの地下へ行く階段を、探検することが出来るんです。何の不安もありません。何の違和感も、ネガティブな気持ちもありません。ほら、私の伝えるポジティブな言葉が、どんどん本当になっていくでしょう? …………ほら、もう一歩、もう一歩、どんどん歩いて、螺旋階段を降りていきましょう」

 

 いつの間にか、椅子に座ったままの佐伯さんが、両足をその場でペタペタと交互に床を踏み込んでいる。目はまだ閉じたまま。両手は少し中に浮かせて、指先で前方を探るような仕草をしている。彼女は本当に、自分が地下へと続く階段を降りていると、信じ込んでいるのだった。

 

 佐伯さんの、椅子に座ったまま立てる足音が30回を超えた頃、健人は彼女の肘を掴み、立つように誘導しながら語りかける。

 

「一番低いところまで着いたようです。目の前には重そうなドアがあります。ネームプレートが貼りつけてあって、そこには『佐伯書庫』と書いてあります。そうです。ここは貴方の深層心理、奥深くに貯蔵されている、本の数々が並ぶ、秘密の部屋なんです。…………ほら、ドアを開けますよ…………。どうですか? 佐伯さん」

 

「……………ちょっと…………黴臭いです………。……あ………でも、昔、子供の頃に読んでいた本が、沢山あるかも……………」

 

 立ちあがるように誘導された佐伯さんが目を開くと、彼女は何もない空間を興味深そうに見回して、まるでそこに並べられた本の背表紙を一冊ずつ確認するように、顔を寄せて指で空間をなぞった。

 

「そうですね………。貴方が昔から大切にしてきた本や………、貴方がこれから大切にする本、………あるいは、貴方について書かれた本もあるんですよ」

 

「……………私に………ついて? ………」

 

 佐伯さんが、眉をひそめて、首を傾げる。キョトンと不思議そうな顔をしている。

 

「そうですよ…………。ここは、佐伯書庫なんですから、貴方についての本も沢山あります。…………中でも、これ一冊で事足りる、佐伯弥生本の決定版と言えば……………これだと思いますよ。………ほら、『佐伯弥生大百科』。貴方の秘密、あるいは貴方自身も知らない貴方のことまでが全て網羅されているんです」

 

 健人が大事そうに大き目の辞書を手渡す仕草をしてみせると、佐伯さんは何もない空間に手を伸ばして、重そうに『それ』を受け取る。両目を丸くして、本の表紙、背表紙、裏表紙と、訝し気に確認していく。

 

「ページをめくって、読んでみてください。全部貴方の本当のことが書いてありますよ。ほら、家族のページ。友達のページ。…………趣味のページ。黒歴史のページ」

 

「やだ……………なんでこんなに詳しく……………。恥ずかしい………」

 

 想像上の大きな本のページをめくる佐伯さんが、恥ずかしそうに顔を赤らめる。健人の興味を掻き立てた。

 

「佐伯さんの秘密の章に行ってみてください。全部本当のことが書いてありますよ。正直に内容の読み聞かせをしてください。佐伯さんの身長、体重、スリーサイズについてはなんて書いてありますか?」

 

「……………身長……159センチ………。体重……………………52キロ………。スリーサイズは、上から、88、57、84って………書いてあります………」

 

「本当のことですよね?」

 

 健人が確認すると、佐伯さんは少し不服そうにだが、赤面したまま、頷いた。こうしたプライベートな情報を健人に説明させられていることについてはまだ納得いっていないようだが、戸惑いつつも、健人の誘導に従ってくれている。

 

「その次のページには、初体験の年齢と相手、そしてその時の感想が書かれていますよね? 何て書いてあるか、教えてください」

 

「………………こんなことまで……………。あの…………。18歳の時に、…………大学の先輩とです………。とにかく恥ずかしくて………、アソコも、火傷したみたいに痛くて熱かったっていう…………熱かったっていう思い………ばっかりです………」

 

「佐伯さん自身が自分の体について、女性としての体について、好きなところと、コンプレックスに思っていることが、次のページに書かれていますよね? …………なんて書いてありますか? 説明してください」

 

「……………鼻は割と高くて、…………女友達にも、そんな顔になりたいって言われたことが、何度かあって………。顔色の良い時は、………それなりに、満足しています………。手足も、人並みかちょっとそれ以上に、長いかな? って思います。…………でも、筋肉がなくて、お尻とか垂れやすいし、…………食べすぎると、お腹がポコッと出ちゃいます………。運動していないから…………。恥ずかしい…………」

 

「他にも何か、書いてありますか?」

 

「……………胸が…………」

 

 佐伯さんは身をすくめるように縮こまりながら、しばらくの沈黙の後で答えた。健人にとっては凄く意外な答えだった。大きさも形も、申し分無さそうに思える。白い薄手のセーター越しに、思わず彼女の胸の周辺を凝視してしまった。

 

「…………左胸の、乳首の下に、シミがある…………。こんなことまで………、やだ……………。誰が書いたの?」

 

 佐伯さんが少しベソをかくような表情になって、不満を漏らした。けれど、健人はもっと詳しく聞きたくて仕方が無い。

 

「どれくらいの大きさでどんな形のシミか、書いてありますよね? …………本の中身について、出来るだけ丁寧に教えて欲しいんですが。………書いてあること、全部」

 

「……………左の乳首の下に、ミカンの房みたいな形の、1円玉を半分にしたくらいのサイズの、シミがあります………。本当は胸の形は割と良いと思っているのですが、この、シミのせいで、男性に見られるような状況から逃げちゃったことが何回かあります。…………初体験の先輩に、ちょっとからかわれて、余計、コンプレックスになりました」

 

「佐伯さん…………。次のページは、図解です。…………何も隠さない、裸の貴方が全身イラストとして載っています。そして、今、貴方自身がそのページの中のイラストであることを思い出しました。佐伯さんは本の一部です。とても貴重な本の一部になったんです。ただのイラストですから、何も感じません。ただ描いた人の筆の軌跡が貴方です。私が指を弾くと、貴方はそのイラストの通りの姿になる。何も感じず、何も考えずに、ただただ、本のページと一体化します。ほら」

 

 佐伯さんの顔が一瞬、驚いた顔で、健人の真意を確認するかのように健人のいる方を見る。ただ、視線の焦点は完全には合っていない。そして

 

 パチンッ

 

 健人が指を弾くと、佐伯弥生さんの目から光が失われたように見えた。想像上の分厚い本を開いて持っているような仕草をしていた両手が一度、ダランと体の横に垂れる。その後で、ゆっくりと、あまり意思を感じさせないような弱々しい動きで、佐伯さんの両手がエプロンに、そして次に白いセーターの袖にかかった。衣擦れの音。薄手の白いセーターの裏と表とが、下から徐々にひっくり返っていく。佐伯さんの透き通るような肌。縦に長細いおヘソ。そしてみぞおちの上、水色のブラジャーのカップ下部が見えてきた。佐伯さんがセーターをさらに引っ張り上げると、彼女のあごがセーターの首から見え、その後で顔が、頭が、生地の首部分から抜け出る。右腕、左腕も抜き取ると、彼女は上半身が水色のブラジャーに守られただけの姿になった。

 

 生唾を飲み込む健人の目の前で、佐伯さんはかがみこむと、さらにベージュのロングパンツのベルトにも手をかける。カチャカチャとバックルを外し、フロントボタンを外すと、ズルズルと、抵抗するようにまとわりつくロングパンツから、腰を左右に振りながら足を抜いていく。ブラと揃いの、シンプルなデザインになっている水色のショーツが見える。健人は今日もまた、ずっと気になっていた美人秘書、佐伯弥生さんの下着を見てしまったのだった。

 

 少し不安そうに、左右にチラチラッと目をやった後で、佐伯さんが僅かに溜息をつくように息を吐くと、両腕を背中へと回す。プチっと音がする。ストラップが肩からずらされると、僅かな抵抗を見せた後で、ブラジャーのカップが裏返る。佐伯さんのオッパイの全容が健人の前に晒された。それはこれまでに彼が見た、どんな乳房よりも、形の良さと大きさのバランスが取れている、美しいオッパイだった。白くて、肌のきめが細かそうで、触れると柔らかそうで………。健人が夢想してきた佐伯弥生さんのオッパイを、3割増しで超えてきた、魅力的な女性の象徴だった。淡いピンク色の乳輪と小ぶりの乳首。左の乳輪の斜め下に、確かに蜜柑の房のように半円形に見えるシミがある。彼女にとってはこれがコンプレックスで、これまでに何人かの素敵な男性と関係性を深めることへのハードルになっていたそうだ。けれど、健人にとっては、絵に描いたような完璧な、ある意味で人工的にすら見えてしまうオッパイに、とても人間らしいアクセントをつけて、彼女だけの個性と結びつく、魅力的なシミのように思えた。

 

 いくぶんかモジモジしながら、佐伯さんが外したブラジャーを椅子の上、エプロンとセーター、そしてロングパンツの上に重ねるように置く。そして彼女は困ったようにもう一息、溜息をつくと、両手を水色のショーツの縁、伸縮性の高い素材に伸ばして、指先を内側からひっかけた。彼女のスラリと長い美脚を撫でるようにして、ショーツが降りていく。その脚を上げる時、彼女の美しい左右の脚一つになる辺りには、淡いアンダーヘアと、その向こう側に僅かに肌の色が濃くなっている、小豆色の割れ目のようなものがチラリと見えた。ショーツから両足を抜き取った彼女が、その淡く柔らかい布を、対になっているブラジャーの上に置くと、ついに佐伯さんが、生まれたままの、完全に無防備な姿になった。

 

 遠いところを見ているような夢み心地の目で、その場に立ち尽くす、佐伯弥生さんの裸。白くて華奢で、そして女性的な曲線に満ちた、美しい裸を、健人は食い入るように凝視して、無言でいた。子供時代を除いて、健人がこんなに間近で、実物の女性の裸を見るのは、初めてのことだった。いや、子供時代を含めても、こんなに明るいところでジックリと、真正面から魅力的な女性の全裸姿を見つめていられるというのは、完全に初めてのことだった。その時間を、1秒ごとに、惜しむように? みしめるようにして、健人は我を忘れて佐伯さんの裸を観察した。最初は彼女と同じように、呆然と立ち尽くすようにして、目だけで凝視。やがて足を使って彼女の周りを歩き回り、顔を近づけたり、遠ざかって全体のプロポーションを目で愛でたりと、あらゆる角度、距離、見方でその美しい起伏や儚げな色合いを堪能した。

 

「………あ……………貴方は………。コホン、貴方は、ほんの一部の挿絵です。読者がページに触れても、何も感じることはありません」

 

 久しぶりに声を出した時、喉が渇きすぎていて、声がかすれてしまっていたことに気がついた健人が、咳払いをして唾を飲み、喉を潤した上で暗示を強化する。そして彼女の様子を注意深く確認しつつ、おそるおそる手を伸ばした。自分の手が目に見えて震えていることに気がついて、それを佐伯さんに悟られないように手に力を入れた。その不器用な指先が、10センチ、5センチと、佐伯さんのオッパイへ近づいていく。

 

 ふにゅ………。

 

 手で触れた彼女のオッパイは、温かく、あまりにも柔らかくて、触れた瞬間に指が吸いこまれたのかと、健人が思うほどだった。人差し指1本で押していては、このタプタプに柔らかい肉に逃げられてしまう。健人は残りの4本の指も使って、包みこむように右手で佐伯さんの左のオッパイを掴む。すぐに左手も、もう片方のオッパイを同じように掴んだ。ゆっくりと、指先だけではなく指の根本、手のひらも含めて感触を楽しむように、佐伯弥生さんのオッパイを揉んだ。このシットリとした柔らかさと優しい弾力。健人は不意に、小学校の家庭科の授業で、パンを作る時、焼く前のパンをボールの中で捏ねていた時のことを思い出した。ゆっくりと佐伯さんの両腕が、体の横から上がってくる。本能的に自分の胸を守ろうとしているような動きだ。

 

「本の一部。イラストの佐伯弥生さんは、両手を頭の上で組んで、足は肩幅。背筋をピンと伸ばして、胸を張っていますよ。本を裏切ってはいけません。同じ姿勢になって」

 

 今、健人が『本を裏切ってはいけません』と囁いた瞬間、佐伯さんがビクッと肩をすくめたような気がした。その暗示が刷り込まれた後の彼女は、予想よりも従順に、健人の言った通りのポーズを取った。目は遠くのものを探しているかのように焦点が定まっていないが、表情からは、さっきまであった僅かな困惑の色も消えて、完全に無表情になっている。その状態を5秒だけ注意深く観察した後、健人はまた佐伯さんのオッパイを揉むことに全神経を集中させた。

 

 時間を忘れて佐伯さんの胸の弾力を楽しむ。これだけ柔らかいのに、きちんと重力に逆らって元の形と向きに回復していくのが不思議だった。そしてこの肌質。肌の表面は繊細でスベスベしているが、指で押しこむと、そのシットリとした湿度感も伝わってくる。彼女の右胸の、小ぶりな乳首を指の腹で撫でる。左胸の方は、敢えて乳首ではなく、乳首の左下にある半円型のシミを指で遊ぶようにして撫でた。健人にとってはこれが、佐伯さんの佐伯さんらしさに触れることに繋がるような気がしたのだ。

 

 無表情の佐伯さんの呼吸が、さっきよりも荒くなったような気がする。その表情を見上げたあとで、またオッパイを見直すと、彼女の右胸の乳首がいつの間にか、プクッと起き上がっていた。サイズが一回り大きくなって、斜め上を向くように立ちあがっている。健人の執拗な指での愛撫に、反応を見せたのだ。健人は、立ちあがっていない方の左の胸の乳首に顔を寄せると、唇で挟み込む。口に含んで舌をつけ舐めると、僅かな汗の味の奥に、微かに甘くてミルキーな風味が感じられたような気がした。

 

 これまで3年間。彼女のことが気になって、この宮津市東図書館に通い続けてきたが、ほとんど彼女に触れたことがなかった。何度か、本の貸し出しや返却時に、健人の指と彼女の指先が触れたことがあった程度だ。そんな僅かな肌と肌の触れあいでさえ、それがあった日は一日中、その感触を自分のなかで反芻して体を熱くしていた。昨日、彼女の肩に触れる時にすら、心臓が高鳴った。それが今、こうして佐伯弥生さんを全裸にして、とても美しいオッパイを、好きなように触り、撫で、揉んで捏ねて舐めることが出来ている。まるで健人の方が、夢か妄想でも見ているような、不思議な気持ちになった。

 

 しばらくすると、片手で胸を触りながらもう片方の手を彼女のお尻に伸ばす。やがて、両手でお尻を撫でることに熱中し始める。彼女が「筋肉がついていないから、垂れ気味で恥ずかしい」と言っていたヒップは、健人にとっては極上の肉づきとしか思えなかった。彼女の言う通り、キュッと引き締まっているようなタイプのお尻ではないが、その柔らかさは優しくて包容力があるもののように思えた。彼女は勤務時間の半分以上、椅子に座って仕事をしている。そして家でも、読書を趣味としているはずだ。その間ずっと、佐伯弥生さんの体と椅子の間で、このお尻がムギュッと間に挟まれながら、支えている。そんな包容力が、お尻の弾力から感じさせられる。オッパイよりも2段階くらい強めに揉んでも、分厚い手応えを返してくるお尻。その肌質はやはり素晴らしくて、健人の手のひらにペタッと吸いついてくるような感触だった。

 

『………お楽しみ中のところ悪いが、時計もちゃんと見ろよ。…………機械みたいに時間に正確に働いてる彼女が、休憩時間が過ぎても全然帰ってこなかったら、あのパートのオバサン、佐伯さんを探しに来るかもしれないぞ。』

 

 頭の中で、もう一人の自分の声が聞こえると、健人は40度近くまで体感で上がっていた自分の体温が、頭の芯から、冷水を浴びたかのようにサーッと冷めていく感触を持った。振り返って掛け時計を見る。確かに、彼女が取った休み時間は、あと5分で終わってしまうという時間になっていた。彼女を催眠状態に誘導し、深化させて、色んな暗示を経由して服を脱がせてから、もう10分以上経ってしまったということになる。健人の体感ではまだ3分くらいだと思っていた。それほど、彼女の裸に心を奪われていたということだ。

 

(確かに………。佐伯さんに催眠を掛けられるっていうのが名目の時間だったのに………。もう、後処理の暗示を刷り込んでいたら、ほとんど時間が無くなっちゃう………。)

 

『続きは明日まで、お預けっていうことだろう?』

 

(……………いや………。まだ他に………、やりようがあると思う……。)

 

 健人は一度、佐伯さんのお尻から手を離し、少し迷った後で、名残を惜しむようにそのままの位置で彼女の体をギュッと抱きしめた。自分の頬が佐伯さんのお尻に密着した。彼女の体を包むように回した手は、下腹部のさらに下、アンダーヘアーに触れて、サラッとした感触を得た。

 

 溜息をついて手と体を離し、立ちあがった健人は、佐伯さんの前の方へ回り込む。

 

「佐伯さん、そこに置いてある、服を着て、身だしなみを整えましょう。貴方はもう、本の一部ではありません。けれどこの書庫で今、裸であることを恥ずかしがる必要はありませんよ。ここは貴方のための書庫。貴方のために準備された、とても親密で安心できる空間です」

 

 そこまで伝えると、少し安心したような表情で、佐伯さんは下着を手に取り、身に着け始める。その間に、健人は自分の考えをまとめて、暗示として整理する。

 

「佐伯さん。服を着ながらで良いので、よく聞いてください。これから私、君沢健人が、こちらの本、『佐伯弥生大百科』を借りていきます」

 

 佐伯さんがちょっと驚いた表情になり、何かを口にしようとする。そこを健人が遮る。

 

「こちらの背表紙の下にあるラベル、見てください。『貸出可』と書いてありますよね? …………お借りしていきます」

 

 抗議しようとしたかのように持ち上げられた手が、力なく降りていく。佐伯さんは少し困ったような顔をしながら、モジモジとロングパンツに足を通していく。

 

「この本の中には、佐伯弥生さんの個人情報はもちろん、ありとあらゆる秘密が載っていますよね。…………家に持ち帰って読むのが、楽しみだな………。後半の方の章は、きっと佐伯さんご本人も知らない、あるいは意識していないような深い秘密や運命のことが書き連ねてあるはずです。それらも読んだら…………もう僕は、佐伯弥生博士になれますね」

 

 まだちょっと困った顔をしている佐伯さんが、顔を赤らめながら、諦めのような溜息をついた。その間も彼女はシャツに腕を通し、ボタンを一つ一つ、留めていく。

 

「明け透けなプライベート情報を他人に晒して平気な人ではないでしょうから、佐伯さんが心配なお気持ちはわかります。けれど大丈夫です。私はこの大百科を、貰っていくわけではありません。あくまでも借りていくだけです。また一緒に、この『佐伯書庫』に戻ってくる機会があれば、その時にはお返しすると思います。だから、佐伯さんがもし、貴方のあらゆる秘密を記載しているこの本を、早く返却して欲しいと思ったら、私を早々にこの『佐伯書庫』に受け入れてくれれば良いのです。ではどうやってここへ戻ってくるか? ………おわかりですよね。2人でまた催眠術のセッションをしましょう。私が貴方に掛けるのでも良いですし、貴方が私に掛けるのでも構いません。2人でこの中庭にある地下書庫に戻って来ましょう。良いですね?」

 

「……………はい………。………………催眠術……………。…………戻ります」

 

 佐伯さんが、ボンヤリとした表情のまま、うわごとのように呟いた。

 

「貴方は催眠から覚めると、催眠状態で起きたことを思い出すことが出来ません。けれど、貴方の意識の奥深くでは、私の言葉をしっかりと覚えている。………いいですね。貴方は目が覚めた後も、いつでも、どんな時でも、私が『中庭で集合しましょう』と言うのを聞くと、すぐに深―い催眠状態に陥ります」

 

「…………中庭…………集合…………」

 

「貴方はこの休憩時間で、私の、とてもベーシックな催眠導入法を見て学びました。……けれど、私に掛けようと試してみたけれど、惜しいところまでいくのに、あと一歩というところで、私を催眠状態に導くことは出来ませんでした。貴方は出来るだけ近いタイミングで、時間や人目の制約のない状況で、もっと私に催眠術をかけることを試したいと思っている。私の暗示のことは目が覚めると忘れますが、貴方の心は必ずそのように動きます。良いですね?」

 

「…………はい…………。もうちょっと……………でした………」

 

 エプロンを着こんで、襟元や服の裾、身だしなみを整える彼女に、健人は暗示を何重にも刷り込んでいく。

 

「それでは、私が3から逆に0まで数えると、貴方はスッキリとした気持ちで目覚めます。………3、…………………2、………………1……………0。はい、佐伯さん、どうでしたか?」

 

 健人が彼女のおでこをチョンッと指先で触ると、一度目を閉じてゆっくりと瞼を開く彼女。その目には、いつもの知性の光が宿っていた。

 

「あぁっ…………。もう時間ですよね……………。残念…………。もうちょっと、時間があったら、君沢さんに掛けられそうな感じだったんですよ」

 

 佐伯さんはさも残念そうに眉をひそめて拳を握る。健人はわざとトボケてみる。

 

「………そうですか? …………最後の方は、あんまり覚えていないですね…………。もしかしたら、もう、掛かりかけていたのかも…………。もうちょっとでしたね」

 

「あ……………あの、………君沢さん。…………もし、ご迷惑でなかったら、……………今日、私の家にお越し頂いて……………。今の続きをしませんか?」

 

 少し迷いながら、思い切って提案をしてくれる、佐伯さん。その健気な姿に健人の体はまた熱くなる。健人は頷いて、彼女の提案を受け入れる。…………きっと『今の続き』と言った時の、2人の考えていることは大きく違うのだろうが、とにもかくにも、約束は成立したのだった。

 

 

<第3章に続く>

5件のコメント

  1. エロすぎる。たまたま読んでみたらエロすぎていっぱい抜いてしまった。
    今日が正月明け初出勤なのに・・・
    最高!!

  2. 読ませていただきましたでよ~。
    マジ最高かよという感じでぅ。
    健人くんのドキドキ感が伝わるというか同じ気持ちになる感じでもっと深く催眠をかけていきたい感じがやばいでぅ。
    そして佐伯弥生大百科。
    これはもう超人予言書とかヘブンズドアーな感じに行きつけるのでは(それはもはや超能力w)
    冗談はともかく、大百科に書いてあるor書き込みしたのでそうなる的な暗示で好き勝手操れそうなのが楽しみなのでぅ。(催眠術という制約上もっと深く落としたり、回り道で嫌だと思わせない工夫が必要でぅが)

    次回は弥生さん宅にお邪魔でぅか。これはもうキス位は行きそうな勢いでぅね。
    弥生さんがどんなふうにエロエロになっていくのか楽しみでぅ。
    であ。

    あ、そうそう、誤字があったので報告をば
    >逆行がとても美しくてセクシーなシルエットを際立たせた。
    逆光

    >ずっと気になっていた美人秘書、佐伯弥生さんの下着を見てしまったのだった。
    美人司書

    でぅね。

  3. 素晴らしい作品をありがとうございます。
    正統派の催眠小説が絶滅危惧種の昨今、やはり永慶さんの作品からしか得られない栄養があります。
    無意識人形化(動物化・物品化)と記憶消去で本人の与り知らぬうちにやましいことをしつつ暗示を深めていくという、
    かつての催眠小説界の「王道」を久しぶりに味わえて感動しました。

    1話の最後「催眠の掛け合いをしたい」という台詞で実は相思相愛モノか?とすこし身構えましたが、
    それが警戒感のあらわれであったことにホッとしましたし、その警戒感を逆に利用され暗示に絡め取られていく描写が最高でした。

    このまま一途にじっくり一人のターゲットを堕としきるのか、はたまた別のターゲットが登場して展開していくのかも気になりますね。

    来週の更新を心待ちにしております。

  4. 引き続きじっくりねっとり催眠。
    階段を下りていくイメージでの深化はお約束ですよね。
    とうとう図書館を離れて佐伯さんのプライベートエリアに侵入。
    時間制限も無くなって、周囲の目も気にしなくてよいとなると一体どうなってしまうのか!?そして二人の関係もどういう方向に向かっていくのか明日の更新が楽しみです。

    みゃふさんが指摘されてる以外で
    風船で手が上がるところ「ストキッキング」になってます。

  5. >初投稿さん

    感想ありがとうございます!
    永慶です。
    お仕事前にご迷惑おかけしました(笑)が、
    こちらとしてはとても嬉しい書き込み頂きました。
    励みになりますです!

    >みゃふさん

    ありがとうございます。
    今回、極力、第三者やモブを交えず、
    主人公とヒロインで煮詰めて参ります。
    お楽しみ頂けると嬉しいです!

    ミスのご指摘もありがとうございます。
    落ち着いたところで
    まとめて直しますです。

    >きやさん

    ありがとうございます。
    王道を貫けるか、途中で脇道に逸れてしまうか、
    出来ることを精一杯やってみたいと思います。
    最後までヒロインと、催眠術ならではの
    シチュエーションにこだわりたいお話です。
    お付き合い頂けましたら幸いです。

    >慶さん

    いつもありがとうございます!
    2人の関係で言うと、「落とす」という、
    身も蓋もない結末に向けて真っ直ぐ
    (それでもネチネチと)進んで行けたら、と思っております。
    よろしくお願いします!

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