・5月26日(月)
今日も一日中、妄想に取り憑かれていた。
考えないようにしようと思うのに、気がつくと僕は催眠術のことばかり考えている。
あのサイトを見てしまってから、僕の中で変なスイッチが入りっぱなしだ。仕事中もずっとネットで催眠術を検索し、知識やテクニックを頭に詰め込んで、何度もシミュレーションを繰り返していた。
もうやめろ。僕はあの人にそんなことしたくないんだ。たとえ頭の中でも彼女を汚すようなことはするな。
こんなことじゃ僕を信頼してくれてる先輩にも顔向けできない。
僕は……最低だ。
『おいっすー。ごはん作りすぎたよー。でも、今日のはこないだのデート報告と交換ですからね笑。ただじゃないですからね笑』
なのにどうしてこのタイミングでこんなメールをよこすのかな佳織さんは。ホントぴかぴかの天然だよな、この人。
いや、彼女のせいじゃない。この厚意を自分の歪んだ欲望と結びつける僕が最低なだけなんだ。
大丈夫。僕は平常だ。
落ち着こう。たとえメールでも変な気持ちのまま佳織さんと話したくない。
深呼吸をして、自分の心の底まで潜る。雑念を丁寧に打ち払い、そして浮上するイメージを繰り返す。繰り返しながらどんどん深度を深めていく。落ち着いて、焦らずイメージに集中する。
自己流とはいえ催眠術をイメトレしていた成果なのか、暗示が効いて気持ちが落ち着いてくる。
『デートじゃないですよ。なので何も報告することもないんです。本当です』
『うそだー』
『本当です。この目がウソをついてるように見えますか』
『見えないし。本当に違うの?私のときめきを返せー。でもごはんは作ったからおいでよ』
『はい。ありがとうございます。帰りにお伺います』
『待ってるよ~』
メールのやりとりを終えた僕は、さっそく準備をして彼女の部屋に向かった。
「いらっしゃ……きゃー! ステキ!」
今のは僕にではなく、僕が手土産に買ってきた某有名菓子店の紙袋を見て佳織さんが上げた歓声だ。
佳織さんがここのプリンに目がないことは、僕と先輩の間で有名だ。
「えー、いいの? そんなに気を使わなくてもよかったのに~」
「佳織さん、僕はまだあげるとは言ってないです」
すでに僕の手からプリンは奪われていた。
「それじゃ、せっかくのお土産だし、上がってお茶でも飲んでく? あ、それともごはん食べてく?」
「いや、それじゃかえって悪いですから。佳織さん、召し上がってください」
「えー、でもお土産もこんなにあるし。いいから上がって上がって」
すっかり機嫌の良い佳織さんに続いて玄関を上がった。よく知ってる家なのに、なんだか緊張してしまう。
期待してなかったわけじゃない。そのお土産だって、もしかして家に上げてくれるかなっていう下心と計算が入ってる。
でもそれは、少しでも彼女と一緒にいたいからだ。おしゃべりして、笑顔が見たいだけなんだ。何かしようってわけじゃない。
僕は妄想に取り憑かれていない。ちゃんと自分の欲望をブレーキできる。大丈夫だ。
「うん、おいしいです」
「へへへー」
佳織さんの作ったショウガ焼きはちょうどいい味付けで、これなら何杯でもご飯が食べられそうだ。
目の前で食べてるとこ見られるのはちょっと照れくさいけど、佳織さんと食卓を囲めるのは幸せだ。
「私もプリンいただいちゃおっかな……んー!」
プリンを一口頬張って蕩けそうな笑顔。ハートや花柄が飛びかってる感じ。
佳織さんは可愛い。先輩は毎日こんなに楽しい食事なんだ。うらやましい。
食事が終わってからも、佳織さんはお茶を出してくれて、2人でプリンを食べて歓談した。
僕は落ち着いて会話をリードできている。昨日までの僕とはまるで別人だ。自分自身を完全にコントロールしていた。
でもそこが怖いような気もした。
いつもの僕なら、佳織さんの前ではそれこそ恋する中学生男子のように舞い上がって何を喋っても噛み噛みなのに、今の僕は落ち着きすぎていた。
僕は常に佳織さんの様子を観察して、その仕草から彼女の気分を読もうとしていた。空気を掴んで自分のペースで話を運ぼうという魂胆で。
ネットで得た知識によれば、対象を催眠術まで導くためには、自分に対する高い信頼とリラックスを与える必要がある。そのためには、相手の心理を的確に読んで会話の主導権を握ることが肝心で、僕は別のサイトで女性との話術のコツまで頭に叩き込んでいた。
もちろん僕は佳織さんに催眠術をかけるつもりなんてない。会話のコツなんてのが、本当に役に立つのか試してみてるだけだ。
でも、ここまでのところそれは成功している。少しネットで知識をかじっただけなのに、こんなに会話が上手くいくなんて、なんだか怖い。
それ以上に……ワクワクしてるけど。
「あー、なんか楽しいな」
そう笑いながら、佳織さんはスプーンでティーカップをかき混ぜる。手元が落ち着かない。楽しいという気持ちは本当だけど、少し冷静になって気まずさも感じ始めている。と、僕には読める。
「佳織さん、ずっと退屈してたんじゃないですか? 何日も先輩いないし、つまんなかったでしょ」
「そう。うん、そうなの、ホント。1日家にいてもすることないしね」
僕は佳織さんに自然な言い訳を与えてあげた。退屈してたから、ついつい僕と話し込んでしまった。そしてそれは、先輩が何日も家を空けてるせいだと。
もちろん、そんなのは人妻が隣に住んでる独身男性を家に上げて話し込む理由にはならない。
でも、佳織さんはハッキリと自覚はしていないだろうが、今、彼女の中で僕とこうして二人っきりでおしゃべりしていることに、正当性が作られた。
佳織さんは頬杖をついて少し身を乗り出す。でも視線はテーブルに落としている。これはおそらく、彼女なりに深い話をするときの姿勢。次にきっと個人的な悩みを僕に打ち明けてくれるのだろうと思った。
そんな風に僕には彼女の気持ちを読み取れる。そして、その予感は確実に当たった。
「私、結婚して初めてこっちの方に来たでしょ? もう2年くらいになるけど、こっちで遊んでくれる人もいないし。昨日なんて地元の友だちと4時間も電話しちゃった」
「あー、わかります。僕もまだそんな感じです。まあ、先輩が家に呼んでくれたりして、すごい助かったんですけど」
「そうなんだ。貴司くんもさみしい?」
「ですねー。先輩もしばらく帰ってこれないし。こないだの土曜日も、ホントは1人でブラブラしてただけなんですよ。なにか面白いことないかなーって」
「……ふーん」
ここで僕は話題を切り替えて、たわいのないテレビの話とか、学生時代のこととか、彼女の反応の良い話題で会話を続けた。
佳織さんと二人きりなのに、こんなにフランクに喋れるのは意外だった。でもすごく楽しい。なにより佳織さんも楽しんでくれてる。
しかし、今日のところはこのまま会話を引き延ばすよりも、良い雰囲気のまま、こっちから切り上げる方がいいと僕は思った。そうした方が次にも繋がるって。
今の僕には、自分自身もこの場の空気も、佳織さんの気分ですら自由にコントロールできるという、妙に思い上がった自信があった。
「あ、ちょっと長居しすぎですね。そろそろ失礼します」
「え……そう? もうそんな時間?」
「ごはん、おいしかったです。マジ感謝です」
「え、あ、やだな。いいよ、ホント。プリン貰っちゃったし、私のほうが得しちゃったから」
「いやー、でもコンビニ弁当って本当まずいんですよ。僕としては今日も佳織さんの手料理食べれてラッキーでした」
「また上手いこと言っちゃってー。へへ」
そして、僕も見送って玄関まで来てくれたとき、佳織さんは手を後ろでモジモジさせながら言った。
「あー、あのね、貴司くん。……またゴハン食べにくる? あんまり、たいしたものは作れないけど」
来た。
あまりにも思い通りにいきすぎて、思わずニヤけてしまいそうになるのを、僕はおどけてみせることで誤魔化した。
「じゃ、明日も来ます」
「さっそくかい。あはは」
「ははっ。でも作りすぎたら、いつでも呼んで下さい。マジで」
「うん。作りすぎたらね。ふふ」
僕はただ、佳織さんともっと仲良くなりたいだけだ。佳織さんとおしゃべりして、もっと気安く冗談を言って笑ったり、ときどき彼女の手料理を分けてもらえたりできれば十分だ。
それ以上の邪な気持ちなんてないし、佳織さんを汚すようなことは考えちゃいけないと思っている。
今よりちょっと仲良くなりたくて、そのために、勉強した知識を使ってみてるだけなんだ。
本当に。
・5月27日(火)
今日は佳織さんからのメールはなかった。
だから、僕の方からメールしてみる。
『こんばんは。もうごはん食べました? 僕の今夜の夕食は、焼き鳥とビールです』
しばらく待っていたら、佳織さんから返信が来た。
それだけのことでウキウキしてしまうなんて、まるで子供だな、僕は。
『ビールいいなー。私は冷凍の讃岐うどん食べました。ちょっと手抜きです(*^-^)』
『手抜きウドンとか言ったりして』
『オヤジギャグ!?』
『すみません。間違って父からきたメールを転送してしまいました。今の僕じゃないんです』
『さては酔ってるな~?』
僕はメールを打ち続ける。
晩ごはんの話題が尽きたら、今やってるテレビとか芸人の話とか、美味しい店のこととか、佳織さんがノってくるよう話題ならなんでもいい。とにかく話題を途切れさせないようにメールでの会話を続ける。
メールの気安さが普段よりも饒舌にさせる。佳織さんを飽きさせないように、普段よりもしつこくジョークやふざけた会話を送る。
顔の見えないメールは僕にとって有利だった。僕は自己暗示で気持ちを落ち着かせ、佳織さんの気分をケータイ越しに読み取り、そして操るイメージで会話をリードしている。
そして1時間近くもメールのやりとりをしていた頃だろうか。
『私たちメール終わんないね。お隣なのにもったいないかも笑』
佳織さんにそう思わせるのが、僕の今日の目標だった。
それじゃあ、そろそろ締めようか。
僕と佳織さんは今同じテレビ番組を観ている。芸能人が美味しいモノを食べて感想を言うっていう判子を押したような番組なのだが、今はちょうど有名洋食店のハンバーグを食べているところだった。
じつは佳織さんの得意料理も、スパイスや香草をたっぷり効かせたハンバーグだ。この話題はちょうど使える。
『そうですねー。あ、ハンバーグ美味しそう。いいな、食べたいな』
『おいしそうだよね。明日ハンバーグにしようかな?』
『いいですねぇ。僕も明日はハンバーグ弁当にしようかな』
『お弁当好きだね笑 だったら私作るからうちで食べない?』
『マジっスかー!? いいんスかー!? わー!』
『う、うん汗。真面目にお仕事がんばった子には食べさせてあげます』
『やった! じゃ、明日メールします。仕事も頑張ります!』
『また明日。がんばってね!』
『ありがとうございます。おやすみなさい』
こういうのを、ラポールの形成と言うそうだ。
ようするに僕と佳織さんの間に信頼関係を築いていく作業だ。催眠術を導入するための過程の一つだ。
これまでの僕は、佳織さんともっと親しくなれることを密かに期待しているだけで、自分から動いたり考えたりすることがなかった。
でも今は違う。催眠術を妄想するようになってから、僕は変なスイッチが入りっぱなしになったみたいに積極的になってる。
いや、むしろ佳織さんの方から積極的になるように仕向けている。そしてそれは、自分でも怖いくらいスムーズに、計算通りに上手くいっている。
今の佳織さんは僕との会話を本当に楽しいと感じているようだ。先輩がいないときに僕を家に上げることにも、抵抗を感じなくなりつつあるように見える。
昨日と今日の2日間で佳織さんの中の僕の信頼度はかなり上がっている。その確かな感触が嬉しいし、何より楽しい作業だった。
ここで強引になったりしてはダメだ。あせらず2人の間のラポールを熟成させればいい。
そうすれば、いずれ……。
と、その先を夢想している自分に気づいて、慌ててやましい想像を振り払った。
やめろやめろ。
いつまでそんないやらしい妄想してるんだ。
・5月28日(水)
「いらっしゃーい。もうごはん出来てるから、あがってあがって」
「お邪魔します」
今日も佳織さんの手料理をいただけた。佳織さんは機嫌良さそうに笑ってる。僕との会話を楽しんでいる。
難しいコツなんてなかった。
まずは彼女の話を肯定してやること。たいていの人は自分の意見に同調や感心をしてもらえたら機嫌がよくなる。彼女が自分で言っていたことを、語彙や言い回しを変えて、さりげなく気づいたフリして言ってやるだけで『私のことを言い当ててくれた』と勘違いする。
そうなると安心して何でも喋ってくれる。僕のジョークにも大いにウケて盛り上がってくれる。
会話で一番大事で肝心なのは、相手のリズムを掴んで、それをリードしてやることだ。
今まで気にしたことなかったけど、確かに微妙なテンポの変化で相手の気分の変化もわかる。もっと笑いたいときも、ちょっと休みたいときも、そのときの波に合わせてリードしてやればいい。
たとえ無言になっても慌てる必要はない。それが相手にとって気持ちの良い沈黙なら、次のきっかけを用意しながら黙っているのも、会話のうちなんだ。
僕は、佳織さんとの楽しい会話ってヤツを、完璧にこなしていた。いつのまにか他人の心を掴む会話術を身につけていたようだ。
「貴司くんって面白いね」
「え、そうですか?」
「こんな人だとは知らなかったよー」
「そういえば、2人でしゃべったことって、あんまりなかったですもんね」
「うん。そっか。そうだよね。いつもはあの人ばっかりしゃべってたから……」
「あ、でもうちの会社には、先輩よりもよくしゃべる人がいて、その人はホント、四六時中おしゃべりしてるんですよ。よくそんなに話題あるなってくらい」
「へー」
「でも仕事がやばいことになってきたら、どんどんおとなしくなるんです。いつのまにか消えてるし」
「あはは、さいてー」
たまに先輩の話になりかけたら、違う話題に振り替える。僕はそのへんも上手にコントロールしてる。
佳織さんの上半身や肩に緊張しているような硬さは無い。ややテーブルに乗り出すようにしているのは、僕にもっとしゃべって欲しい気持ちの表れだ。僕の目を見て微笑む彼女には、はっきりと僕に対する信頼の気持ちが映っている。僕は嬉しくなって、しゃべればしゃべるほど巧みになっていく自分の会話を楽しんだ。
「……ふー」
しばらくした頃、佳織さんが両手を突き出すように伸びをした。
「あ、疲れましたか。ちょっとしゃべりすぎましたね」
もう8時半を回ってた。長居しすぎてしまったようだ。
「ん、違うの。大丈夫。私、肩こる方なんだよねー」
「そうなんですか?」
「ひどいときは頭痛とかもしちゃって」
「大変ですね」
そういや、胸が大きい人は肩がこりやすいんだっけ。
確かに、佳織さんって胸以外はスレンダーから、そこにだけ重りをぶら下げて歩いてるようなもんだよな……。
「んー」
と、思って眺めていたら、急に佳織さんが伸ばした手を上に反らせるものだから、薄手のパーカーの下で胸がいきなり強調された。
さっきまでの余裕も忘れて、僕の顔は真っ赤に、心臓はドキドキと忙しくなった。
「い、今も頭痛するんですか?」
「いやー、そこまできつくはないんだけど……あの人がいれば、マッサージお願いできるんだけどね」
マッサージ――。
僕の頭の中で、カチッと変なスイッチが入った気がした。
「昔からひどくてね。試験前とか最悪なの。家の近くに整体師さんがいて、おじいちゃんおばあちゃんと一緒に並んで受けてたりしたの。あはは」
「ははっ……でも、それってかなりつらいんですよね。うちも母さんや姉さんも肩こりがひどかったんですよ」
「へー、そうなの」
「だから僕も昔はよくマッサージさせられましたよ。しかも代わる代わる全員に」
「あはは、末っ子は大変だ」
……やめろ。そのくらいにしておけ。変な下心を匂わせでもしたら、これまでに築いた佳織さんの信頼も崩れるぞ。
頭では必死に止めてるのに、スイッチの入った僕の口は止まらない。ここで博打を打ちたい欲望が止められない。
目の前にある美味しそうなエサに、思わず口の端が歪んでしまう。それを、好青年ぶった笑顔で誤魔化しながら。
「ちょっとだけやってみましょうか?」
肩を揉む仕草を見せる僕に、佳織さんは「えー」と恥ずかしそうに首をすくめた。
引かないでください。心の中で必死で僕は彼女にお願いしている。
「いいよいいよ。あとでお風呂入ったとき、自分でするから」
「でも、姉さんたちもいつも言ってましたけど人にやってもらったほうが気持ちいいんですよね? もうこんな時間だし、少しだけ肩もみしたら僕も帰りますよ。ハンバーグ美味しかったからお礼です。ははっ」
佳織さんが受け入れやすいように、僕は何個も彼女の使いやすい弁解を入れておいた。
彼女が拒絶しなければならない本当の理由。夫がいないときに隣人の男性を家に招き、自分の体をマッサージさせるという状況から目を逸らさせなきゃならない。
でも、詰め込みすぎだ。わざとらしさが彼女にバレるんじゃないかって冷や冷やする。
やばいかな。
佳織さん、警戒するかな。
「えー……いいの?」
きた。
佳織さん、のってきた。
マジかよって、言っちゃいそうになって堪える。
佳織さんは、僕のことを信頼してくれているんだ。
まさか僕がやましい気持ちでこんなこと言ってるなんて、きっと思いもしないんだ。
「いいですよ、全然。家族で慣れっこですから」
「ふふっ、それじゃお願いします」
ごめんなさいって気持ちと、ありがとうって気持ちと……あと、すごく興奮している。
僕は最低の妄想野郎だから。
佳織さんの後ろに回って、最初は弱い力で肩を押した。
初めて触れる佳織さんの体。
人妻の体。
僕は指先に感じる彼女の体温に感動しながら、少しずつ力を込めていく。
「んっ」
強めに押した途端に声が漏れたのを、佳織さんは恥ずかしそうに口を押さえて笑う。僕もドキドキしてる。「かなり凝ってますね」と誤魔化して、僕は本格的に揉み始めた。
「ん、ん~~……」
「痛いですか?」
「だーっ、大丈夫っ、そんな、感じで……んんっ」
固く目をつぶって佳織さんはじっとしている。整体にかかるくらいだから、強く揉まれることに慣れてるし、そのくらいが気持ちいいんだろう。僕は遠慮なく佳織さんの肩を手のひらで揉んでいく。
パーカー越しに感じる佳織さんの体温と柔らかさ。堂々と佳織さんの体に触れている状況に少しずつ興奮は下半身に募り、股間が充血してくる。
このことがバレたらえらいことになる。きっと佳織さんに軽蔑されるし、先輩に殺される。
なのに、もっと佳織さんに触りたいという欲望に僕は逆らえない。
「頭痛がするくらいってことは、背中もこってるんじゃないんですか?」
背骨に沿って降りていく僕の指を、佳織さんは「んー」と気持ちよさそうに受け入れていく。背中を少し反らせる仕草が色っぽい。ブラジャーのひもに触れたときはドキっとした。
「……あと首とか」
佳織さんの髪に触れた。うなじにも触れた。直に触れた皮膚のなめらかさにゾクゾクする。
「う~」
佳織さんは気持ちよさそうにしてる。僕は彼女の肩に片手を乗せて、もう片方の手で首の後ろを上下にマッサージしていく。肩のあたりのすべすべした手触りも、生え際の髪の柔らかさも、うっとりするような気持ちよさだ。
「……佳織さん、少し喉を反らしてください」
「ん」
僕のいうとおりにカクンと首を後ろに倒す佳織さんのうなじを、上に押し上げるように揉む。少しきついのか、佳織さんの眉がぴくんと揺れたが、僕に任せてくれている。
佳織さん、今、自分がキスを待つときの顔になってるの、気づいてるだろうか。
僕は手が汗ばまないことを祈りながら、彼女の横顔を後ろから覗き見ている。
多少は母相手にマッサージの経験あるのは本当だが、威張れるほど上手くもなければ知識もない。でも僕は自分の指の動きに気持ちよさそうに身を委ねる佳織さんにドキドキしていた。興奮していた。ボロが出ても構わないから、今はもっと佳織さんの体に触れていたいと思った。
「佳織さん、次は肩胛骨のあたりをやります。肩を後ろに反らすようにして」
両肩に乗せた僕の手に合わせて、佳織さんの胸がクッと前に突き出される。
丸い胸の形がパーカーの薄い生地を中から盛り上げた。マジで鼻からハンバーグが出そうになった。
「じゃ、あの、け、肩胛骨の下を押します。ちょっと痛いかもしれないけど」
「んっ……んっ」
「はい、OKです。肩を上げて……ストンと落として」
僕の言葉に合わせて、肩を抱く僕の手のひらの下で、佳織さんの筋肉と関節が動いている。
……まるで僕が操ってるみたいだ。
「肩の力を抜いて。回しますね」
くるくると関節を回す。佳織さんが楽しそうに微笑む。
「手をだらんとして……そう。背中を少し揉みますね」
揉むというより、佳織さんの背骨に沿って撫でた。手のひらで押すように。そして、その感触を楽しんで。
「息をゆっくり吐いて、楽にしてください。こうすると血行がよくなります。肩の重い血が下に降りて、軽くなります。どんどん軽くなります」
「はぁ……」
「そう。そのまますーっと力を抜いてください。支えてるから大丈夫ですよ。ゆったり楽にして、背中の血行が落ちていくのを意識してください」
緩くなる佳織さんの背中を片手で支えて、僕は何度も佳織さんの体をさすった。首から腰の近くまで何度も上下して、その柔らかさを満喫した。佳織さんも気持ちよさそうにウットリしている。
ずっとこうしてたいと思った。佳織さんの体に触れて、僕に身を委ねる佳織さんを見ていたい。
でも、そういうわけにもいかない。
「はい、終わりです」
「……うわー、すっきりした」
グンと背伸びした佳織さんは本当にスッキリした顔で、僕の中途半端なマッサージでも効き目があったのかと驚いてしまう。
「すごい良かった。貴司くん、本当に上手なんだねー。ありがと」
「え、あ、そうですか? いや、そう言っていただけると……」
「うんうん。なんていうか、マッサージも上手だけど、声もいいよね。貴司くんの言うとおりに動かしてたら、気持ちよくなった。ホントに」
僕の心臓が跳ね上がった。
ダメです、佳織さん。
そんなこと言われたらたまらなくなる。『僕の言うとおりにしたら気持ちいい』とか、あなたに言われたら――。
「……でもこういうのって、揉み返しっていうか、次の日にはまた固くなっちゃうんですよね」
「あー、なるなる」
「そもそもマッサージって、何日か続けてほぐさないとダメなんですよ、本当は」
「へー、そうなの?」
「ええ。筋肉って緊張と弛緩を繰り返しますから、完全にコリを取るには、何度かに分けてマッサージしないと本当の効果はないんです。まあ、一度やるだけでも結構楽になるんで、自然治癒も早くなりますけど」
「ふーん」
「それじゃ、僕はそろそろ失礼します」
「え、うん。ありがと。マッサージ気持ちよかったよ~」
「こちらこそ、ハンバーグ美味しかったです」
そして玄関まで見送りに来てくれた佳織さんが、後ろで手をモジモジさせる可愛らしい照れ方で微笑む。
僕には佳織さんの言いたいことが予想できてる。
でも、それは佳織さんのほうから誘わせないと意味がない。僕はいくらでも待てる。
「明日はね、今日残ったニンジンとタマネギでカレー作るんだ」
「えー、いいですね」
「……食べたい?」
「もちろんです」
「ふふっ、言うと思った」
僕たちはイタズラの共犯者みたいに、微笑みを交わした。
「おやすみなさい」
「うん。おやすみー」
僕の手の中には、まだ佳織さんの感触が残っている。今夜、少しの間だけど、僕たちの間の距離はゼロにまで縮まった。
感動と興奮に僕の心は震えている。そして徐々に現実的になって近づいてくる僕の夢想。
……眠れそうもない。
・5月29日(木)
「ん……」
今日も食後に佳織さんにマッサージする。
僕の方から「昨日の続きさせてください」と申し出ると、少し恥ずかしそうに「じゃ、ちょっとだけ」と、佳織さんは僕に細い背中を向けた。その無防備な姿が可愛いと思った。
「息を吸って、ゆっくり吐いてください。吐くのに合わせて肩を押しますから、力抜いてください」
「んー」
「それじゃ手を下ろして楽にして……首をマッサージしますね」
カクンと、キス待ち顔になった佳織さんのうなじを強めに撫でる。
僕の手の中でじっとする佳織さん。ドキドキする。なのに僕は昨日よりも積極的に指示を出し、そのとおりに動く佳織さんの感触を楽しんでいる。
「少し首を動かしますね」
額に手を当てて、佳織さんの首を揺らす。彼女はすっかり僕に任せている。目を閉じたまま、じっと僕の手の中で揺れている。
「重い血がゆっくりと落ちていきます。体を楽にして……眠るときみたいに力を抜いて……僕が支えてるから大丈夫です。楽にして……」
佳織さんのふっくらした唇が、少しだけ開いた。扇情的なものを感じて、僕は思わず目を逸らす。それでもゆっくり首を動かす手は一定のリズムを守っている。
「眠くなっても大丈夫です。今、背中を撫でますね……暖かくなってくのを感じますか? 血行が下に落ちていって、体を暖めています。頭の先から腰のあたりまで、重たい血がみんな落ちていきます」
キッチンの椅子の上で、僕に抱かれるように支えられてるのに、佳織さんは全身を弛緩させて為すがままになっている。このまま抱きしめて、唇を奪いたい。その欲求を必死で押しとどめる。
「ゆっくり体を戻して……これでかなり楽になったはずです。肩も頭も背中も、血を入れ替えたみたいにスッキリしてますよ……はい、終わりです」
佳織さんが、ゆっくりと目を開けて、グーンと伸びをして笑った。
「いやー。ホントに貴司くんのマッサージすごいよ。気持ちいー」
「はは、そうですか」
「ホーント、寝ちゃうかと思った。催眠術みたい。ふふっ」
「……あはは」
内心の動揺を隠しながら、努めて笑顔で返した。確かに少しその気になりかけてた。佳織さんがあまりにも素直すぎるから、このままじゃ自分でもブレーキかけれないと思った。
まさか、かかるはずはないと思うけど……でも、もしもってことも考えてしまう。想像してしまう。
いや、そんなの不可能だ。考えるな。
「んー」
佳織さんが眠そうに目をこする。僕と目があって恥ずかしそうに笑う。
そういう仕草が可愛いと思うんだ。そばにいたいって思わせる。
でもそんな魅力を感じるたびに……僕の中でスイッチが軋むんだ。
「佳織さん、そろそろおやすみの時間ですか?」
「いやいやまだ9時前だから。子供じゃありませんから」
「でも早く眠った方がいいですよ。今、たぶん体だけじゃなくて気持ちもリラックスしてます。たかが肩こりって言っても、心の影響もありますからね」
「ふーん、そうなの?」
「たとえば僕の姉さんで言えば、学校のテストの前とかひどかったですし……母さんなら、父さんが出張でいないときとか」
「あ……うん」
出張というキーワードで、先輩の不在を思い出させる。できれば先輩のことは利用したくないが、佳織さんの納得できる理由になるなら、あえて使うことに躊躇はない。
「その肩こりの原因って、ストレスじゃないかと思うんですよ。先輩がいなくて寂しかったり不安だっていう状況が、ストレスになってるっていうか。一人でもしっかりしなきゃって余計な力が入ったり」
「うん……だから肩がこるのかな?」
「だと思うんですよね、きっと。でも母さんや姉さんには僕のマッサージは評判良かったんですよ。肩が楽になったら、気持ちも楽になるって」
「あ、わかるよー。すごい気持ちよかったもん。なんだか心まで軽くなった感じ」
肩や首の筋肉の血行がよくなれば、頭部を中心に体が楽になる。体が楽になれば、気分だって楽になったと感じる。
当たり前のことなのに、佳織さんは僕の話にすごく感心して頷いている。
彼女は僕の言うことを疑おうとも思っていない。幼なじみの先輩にずっと守られて、きっと彼女は男に騙されたこともないんだろう。
素直で無防備で可愛い人。だから笑顔が素敵な人。永遠にその笑顔を汚したくない。
だけど僕は──複雑な感情を、とりあえず脇にどけてしまう。
「そういってくれると、マッサージしたかいがありました。ははっ」
「……そっか……私、寂しいんだ……」
佳織さんのその呟きは聞こえないふりをして、僕は席を立った。彼女の方から合図を出すまで、僕からは手を差し伸べない。ぎりぎりまで彼女を置いてきぼりにする。
「そんなわけで、今日はお風呂に長く入って、早めの就寝をおすすめします。僕はこれで帰りますから」
「え、あ、もう? うん、ありがとね」
「こちらこそですって。佳織さんにはご馳走になってばかりですみません」
「いいのいいの。お互い様だよー」
玄関まで見送りに来てくれた佳織さんが、また照れくさそうにしながら笑う。
「貴司くんがいてくれてよかったよ。1人ぼっちにならないで済んでるから、すごく助かってる。ホントに」
「はは、ありがとうございます。僕のほうこそ一緒にごはん食べられて嬉しいです。1人のごはんは寂しいですから」
「だよねー」
僕はそのまま待っている。佳織さんから誘ってくれるのを。
「あ、あのさー……じつはカレーって、2日目のほうが美味しくない?」
「もちろん、僕は最初から2日目を楽しみにしてました」
「あはは、それじゃあ……また明日?」
「はい、おやすみなさい」
「おやすみっ」
わかってる。
僕は佳織さんと仲良くなりたいっていうだけのささやかな願望を、自分の手で崩し始めている。
その下に眠ってるのが、とてつもなく卑劣な欲望だと知っていながら。
<続く>
というわけで二話目。
メールでの顔文字が修正されてるのはいまやLINEとかのアプリでスタンプなどの習慣がついてきて顔文字の文化がなくなってきてるからなんでぅかね?(みゃふはLINEとかやってないから知らないでぅけどw)
ラポールを強化して徐々にパーソナルスペースを小さくしていくのは過程好きとして好感の持てるポイントでぅね。
まだ導入にも行ってないけどw
さて、次は三話だ。
>みゃふさん
ノクターンに投稿したやつ、「あれは十数年前の話――」みたいに年代を誤魔化して顔文字を生かしていたんですが、さすがにもう無理っすね…。