いただかれ女子

 昨日のおじは、まあまあだった。靴は新品、ネクタイはセレオリ。香水が少しだけ甘かったから、たぶん子どもがいる。いいバランス。やりすぎず、足りなすぎず。与えすぎるおじは逆に面倒。満たされすぎると、わたしの手が届かなくなる。

 

 わたしの服は、プチプラにちょっとだけ“いいもの”を混ぜるくらい。ブランドで固めるより、そういう方が、可愛いって言われやすい。

「こういうの、誰が選んでるの?」って聞かれたら、もう勝ち。おじが何かしてあげたくなる余白は、ちゃんと残しておく。

 

 第1条。入室3分で、おじの「ランク」を見ておく。歩き方、視線、椅子を引く手つきまで。

焦ってない。動きに余裕がある人は、財布にも余裕がある。慣れた感じ。たぶん遊び慣れてるけど、雑じゃない。

 

 席に着くとき、ほんの少しだけ間を詰める。

 ――第2条。スキンシップは、こちらから。向こうが近づいてくる前に、わたしから距離感と、その温度を決めてあげる。

 

 笑うときにちょっとだけ体を揺らして、視線はぴたりと合わせる。3秒まで。それ以上は、期待を与えすぎる。タイミングの見極めは、いつもわたしの側にある。

 

「えー、そんなこと初めて言われたかも?!」

 

 少し笑って首をかしげてみせる。褒められ慣れてない「ふり」は、慣れてる。こういう一言があるだけで、向こうの気分がふわっと上がる。わたしをかっこ見つけた」って思わせたら、もう半分こっちのもの。

 

 話は引き出すだけ。――に見せかけて、7割はこっちが決めてる。「スマホの画面、今日またちょっと割れちゃって」とか、「昨日ずっと寝れなくてテンションおかしいかも」とか。

 

 でも、必ず一つは“ちゃんとしてる話”も混ぜておく。「ゼミでレポート出したらめっちゃ褒められて」とか、「今、英語ちょっと頑張ってるんだ」とか。ちょっとだけ偉い子に見せると、「応援したくなるモード」に切り替わるのが早い。

 奥さんの話は聞き流す。でも、話しやすい空気は、ちゃんと準備してる。

 それが、第3条。

 

「ユメ、聞き上手なのかなあ?」

 

 とろっとした声で、ちょっとだけ照れてみせる。おじが「自分だけが気づいた」と思えるくらいがちょうどいい。

 

 デザートが来る頃には、向こうの笑顔の濃度が変わってくる。その瞬間がいちばん面白い。わたしに今、どれくらい操作されてるかを見るのが好き。

 

 帰り道。バッグの内ポケットに、小さな封筒があった。無言で置かれていたやつ。いちばんラクなやつ。

 

 重いおじには、LINEは返さない。プレゼントって、リスクしかない。見返りを求めて逆ギレしてくるおじ、多すぎ。そんなんは、ほんと面倒。だから、第6条。

 

 わたしは“学生”という肩書を、ちゃんと使っている。手が届きそうで、届かない。“緩いけどちゃんとした子”でいられる距離をキープできるのは、この年齢の特権。

 

 今日も――たぶん、似たような流れ。……少なくとも、わたしの「マニュアル」通りに動いてるうちは。

 

***

 

 アプリでやり取りを始めて三日目、待ち合わせ場所は都内のラウンジだった。名前も、プロフィールも、ごく普通。職業は自営業って書いてあったけど、詳しいことはよくわからない。顔写真も一応あって、加工もなかった。年齢は四十代。ちょっと年はいってるけど、許容範囲。

 

「こんにちは」

「初めまして、ユメさん」

 

 実物もまあまあだった。清潔感はあったし、身なりもきちんとしてる。だけど、不思議と印象が薄い。目立たない顔。特徴もない。数時間後には顔を忘れていてもおかしくないくらい、無個性な人。

 

 注文はスムーズだった。わたしはカフェラテ、彼はホットティー。おじにしては控えめなチョイス。でも変な演出はしてこないし、話し方も落ち着いている。わたしからテンポを作って、いつも通りの距離で会話を始めた。――はずだった。

 

 メニューを開いて、適当にパスタをひとつ。

「少し何か食べませんか?」と言われて、ついでに頼んだ。軽く何か口に入れておけば、適度に間が持つ。そう思っていた。

 

 最初の十数分は、正直、ちょっと退屈だった。話の内容はまわりくどくて、結論が見えづらい。こっちの質問にもすぐには答えずに、少し間を置いてから返してくる。「なんだか眠いな」って思ったのは、単に話がぼやけていたせいだと思った。

 

 でも、そういうのって、逆に耳だけが慣れていく。意味じゃなくて、音として言葉が流れてくる。目の前のフォークを手に取るまでが、いつもよりゆっくりだった。タイミングが、ほんの少しずつずれてきている気がした。

 

 会話も、いつもならこっちがテンポを作ってるはずなのに、今回はなぜか追いかける側にまわってる感じ。第3条――ちょっと、怪しいかも。でも、なんだかそれを考えるのも面倒だった。

 

「ユメさん、話してて楽しいですね。時間があっという間です」

 

「……ん、そっか。ユメ、そういうの……嬉しい、かも」

 

 声が、ちょっとだけ遅れて出た。自分で言ったくせに、少しだけくすぐったかった。

 

 ほんとは慣れてる。でも、そう言うと、相手はだいたい「特別」って思う。それを計算してたのか、素で言ったのか――今のわたしには、ちょっとよくわからなかった。

 

「楽しいことって、時間すぐ飛んじゃいません? この30分、たぶん10分くらいに感じません?」

「好きなことしてると、時間が縮むって言いますよね。不思議ですよね」

 

 その言い方が、なんだか確認みたいに聞こえた。肯定するまで許されないような、空気の圧。

 

「人って、自分の意識をちゃんと見てるつもりで……意外とほとんど無意識で動いてるらしいですよ」

「手を洗うとき、どっちの手から濡らすか、考えたことありますか?」

「歩くとき、どっちの足から出すか、意識してます?」

 

 言葉が、まっすぐ頭に入ってこない。音だけが染み込んで、意味があとから追いかけてくる。気づけば、呼吸が浅くなっていた。

 

 ラウンジの音も、人の気配も、すこし遠くなっている気がする。身体の重さが、下じゃなく、内側に沈んでいく。

 

「眠る前も、ちょっと似てません?」

「色々考えてたはずなのに、ふっと意識が遠のいて……気づいたら朝」

「意識の境目って、どこにあるんでしょうね」

 

 その声が、何かをふわりと揺らした気がした。はじめは退屈だったはずなのに、いまは話を聞くのが……声を聞いているのが少し、心地いい。耳に残るというより、内側に染みていく。身体の力が、ちょっとだけゆるんでいく感覚があって、それがなぜか、悪くなかった。

 

 まばたきをするタイミングが、自分でもわからなくなる。視線は合ってるけど、ちゃんと見てる感じじゃない。会話も続いてるはずなのに、頭の中では、言葉が泡みたいに浮いては消えていく。それでも――心地いい。

 

「ここ、少し騒がしいですね」

「もしよかったら……上に静かな個室があるんです。もう予約してあります。移動しても大丈夫ですか?」

 

 断るという選択肢が浮かばなかった。思ったよりも、わたしの首が早く動いた。呼吸は浅く、でも身体はふわふわしている。

 

「……うん……たぶん、大丈夫……」

 

 声に芯がなかった。口が動くのを、自分の内側から少しだけ遠くで見ているような感覚。思考はまだあるのに、反応が先にこぼれていく。でも、それがどうしてか、嫌じゃなかった。

 

***

 

 個室に向かうエレベーターの中でも、おじはずっと何か話していた。でも、もうわたしには、それがただの「音のまとまり」にしか聞こえなかった。何に対しても、「はい」とか「そうですね」とか、適当に相づち。声も、うまく出せてない気がする。のどの奥がぼんやりしていて、言葉が遠くなる。

 

 エレベーターの扉が開いた。足が勝手に動いている気がする。意識して歩いているつもりなのに、床の感触がやけに遠い。靴音も響かない。廊下は静かで、絨毯の上に音だけが沈んでいくようだった。

 

 おじの足音が横に並ぶ。でも、それを“横にいる”ってちゃんと認識できてるのか、よくわからない。ただ、何かの気配が一緒に流れているだけ。まっすぐ歩いてるはずなのに、頭の中はぐるぐるしていた。

 

「こっちだよ」

 

 おじがそう言ってドアを開けた。

 照明は控えめで、落ち着いた音楽がかすかに流れていた。室内には大きめのソファがひとつと、テーブル。香りのない空間だった。何も感じないのに、なぜか安心した。

 

 わたしは何も言わず、そのソファに身を預けた。ぐったりと、沈み込むように。手足に力が入らない。だけど、それをおかしいとも思わなかった。

 

 深く息を吐いたら、身体の重さが一気に広がっていく。ふわっとしていて、すこしだけ温かい。目は開いてるけど、なんかピントが合ってない感じ。

 

***

 

 次の瞬間には、空にいた。

 

 風が、羽のあいだをすり抜けていく。冷たいのに、心地いい。胸の奥が軽くなって、羽ばたくたびに何かがほどけていく気がした。

 

 どこまでも高く、どこまでも遠くへ。わたしの身体は、空のうえで自由だった。重さはなかった。なにかにしがみつく力も、なにかを守る必要もなかった。

 

「……ピィ……」

 

 小さな声が、口から漏れた。自分のものなのに、自分のものじゃない。意識より先に、喉が動いていた。でも、変じゃない。むしろ自然だった。鳴きたいと思ったわけじゃないのに、声が出ることが、きもちよかった。

 

 そのときだった。どこか遠くで、誰かが何かを言っている気がした。音じゃない。言葉でもない。でも、それが意味を持って流れ込んでくる。

 

「ユメさんは、今、鳥です」

「高く飛べる。羽ばたくたびに、もっと自由になっていく」

「小さく鳴くのも、羽を動かすのも、すべて自然に任せていいんですよ」

 

 その声が、空に溶けていく。風の音とまざって、やわらかく響いてくる。思考は動かないのに、身体がそのとおりに反応する。羽ばたくたび、声がまた、勝手にこぼれた。

 

「……ピ……ィ……」

「ピィ……♪」

 

 それが嬉しいのかどうかも、もう考えていなかった。ただ飛ぶことがきもちよくて、夢中で羽ばたいていた。

 

「もう、たくさん飛びましたね」

「ユメさんの巣に帰って、ゆっくり休みましょう」

「羽をたたんで、ふかふかの場所で、きもちよく……」

 

 その言葉が、わたしの身体にふわっと広がっていく。温かい毛布みたいに包まれて、風が静かになっていく。

 

 空が遠のいていくのに、怖くない。むしろ、安心している自分がいた。

 

 意識が、するりと戻る。

 

 気づけば、身体がソファに沈んでいた。深く、柔らかく、すべてを預けていた。指先まで、完全にゆるんでいる。でも、どこにも力が入らないことが、すごくきもちいい。

 

 顔の力も、もう入らなかった。瞼は半分だけおりていて、視線の焦点はぼんやりと宙を漂っている。何かを見ようとしても、力が入らない。唇がゆるく開いて、ゆっくりとした呼吸だけが通っていた。笑いたいわけじゃないのに、口元がゆるんでしまう。その隙間から、とろっとよだれが垂れていた。

 唇の端をつたって、あごをぬるっと濡らしていく。それでも、拭おうともしない。そんな気分にもならなかった。力が抜けきって、だらしないまま、それが自然になっていた。

 

 胸の奥がじんわり温かい。呼吸もゆっくりで、ひとつ吐くたびに、重力に溶けていくようだった。

 

 なにも考えたくなかった。ただ、このまま――ここにいたい。そんな気持ちしか、残ってなかった。

 

***

 

 深く意識を沈めたまま、わたしはおじとお話をしている。今のわたしは、聞かれたことにそのまま答えちゃう。なんでかは、うまく考えられない。でも――聞かれると、ふわふわして、きもちよくて。それに答えると、もっと、きもちよくなる。

 

 頭がぼんやりしてて、うまく言葉が出てこないときもあるけど、聞かれたことだけは、するっと出てくる。自分の中のどこかが、勝手に返事をしてる感じ。ちょっと変なのに、変だとも思わない。

 

 いろんなこと、聞かれた。好きな食べ物……誕生日……なんだっけ。今日の下着の色も聞かれた。あと、どれくらいの頻度で……オナニーするのか、とか。なんだか……変な感じ。だけど、いやらしい感じじゃない……気がする。

 

 おじは、質問のたびわたしをじーっと見てた。まるでわたしのこと、観察してるみたいで……

 

「……じゃあ、私達みたいな男の人と会うときって、何か気をつけてることありますか?」

 

 その問いかけに、わたしのモゴモゴと口が勝手に動く。

 

「……マニュアル……」

 

「え?」

 

 おじが聞き返してくる。

 

「わたしは、おじにあうとき……頭の中のマニュアルに……そって、うごくの」

 

「マニュアル?」

 

 おじの声が、すこしだけ柔らかくなる。

 でも、それが優しさか興味か、よくわからなかった。

 

「……わたしが、勝手に決めたやつ……おじからいただく……『いただきマニュアル』……」

 

 ――第1条。財布の厚みは、入室3分で見る。

 歩き方、目線、椅子を引くときの手つき。

 おじがどれくらいのランクか、すぐに感じとれるように。

 

 ――第2条。スキンシップは、こちらから。

 腕に軽く触れるとか、服の裾を引っ張るとか。“無意識の距離”を一気に詰められるのは、触る側だけ。触らせるのは、もっと先。それを待てないおじは、雑だから。

 

 ――第3条。会話は、7:3で主導する。

 自分の話をしてるように見せて、話題はわたしが運ぶ。聞き役にまわると、すぐに吸い取られる。“こっちが回してる”感覚を崩したら、おじをコントロールできなくなる。

 

 ――第4条。視線を合わせるのは3秒まで。

 長く見つめ返すと、うつるから。優しさも、欲も、期待も。おじの感情は、目から入ってくる。

 

 ――第5条。触られそうになったら、話題を変える。

 拒否じゃない、スルー。でも、それだけで空気が変わる。こっちは気づいてるってことだけ、静かに伝える。

 

 ――第6条。プレゼントをもらったら、距離を置く。

 もらったものには、見えない糸がついてる。「今度また会おうよ」「この前あげたしね」って、あとから引っ張られることがある。わたしはそういうの面倒だから。

 

「……第7条は?」

 

「ぁ……ぅ……」

 

 わたしは言い淀む。言いかけたけど、そこで止まった。言いたくない。これは、知られちゃいけないやつだ。

 

 ――第7条。心は、絶対渡さない。

 それだけは、わたしのなかで決まってる。だから、言葉にしたくなかった。

 

でも――

 

 ふわっと、あごに手が触れる。柔らかく、優しい。逆らう余地がなかった。

 

「考えすぎると、うまく言葉が出ないよね」

「力、抜いて。何も決めなくていいよ」

 

 彼の声が、耳の奥に溶けていく。

 

 わたしの頭が、そっと持ち上げられた。そして――

 

 右へ。左へ。

 ぐる、ぐる。

 ゆっくりと、頭が揺らされる。

 

 何度かそうされるうちに、首の奥から、自然と息がこぼれた。

 

「……んぁ……」

 

 それは自分でも気づかないほど小さな、でも確かに緩んでいく感覚の声だった。

 

 止めようとしても止まらなかった。

 声を出したくて出したんじゃなくて、身体が勝手に息を吐き出したみたいだった。

 

「いいよ、そのままで」

「今はもう、なにも考えなくていい」

 

 ぐる、ぐる。

 世界が円を描くたび、拒む気持ちが少しずつ、ほどけていった。

 

「ほら。もっときもちいい。もっとしあわせ。嫌な気持ちもなくなって、素直になれる。……ね、もう言えるよ」

 

 ぐる、ぐる。

 頭が回ると、からだの奥がとろけていく。これ大好き。きもちよくて、しあわせで、なにもかも、どうでもよくなっていく。

 

「……だい、ななじょう……」

「こころは……ぜったいわたさない……」

「わたしは、おじを……あやつりたいから……」

「わたしのこころは、おじの、ものじゃないから……」

「いただくより、だいじなことだから……」

 

 いっぱいぐるぐるされて、わたしの口が勝手に開く。ふっ、とおじが笑った気がした。

 

「やっぱり、ユメさんは面白い人だね。ありがとう。そんな大事なことを教えてくれたんだね」

 

 おじの手が、わたしの頭から離れる。その瞬間、ぐるぐるが止まって、全身の力もふっと抜けた。ぐったりとソファに沈んで、わたしはまだ、しあわせの余韻に浸っていた。

 

「……ユメさんは、男の人を操りたいの?」

 

 おじの問いかけに、わたしはすぐに返事ができなかった。きもちよさだけは、ずっと身体に残ってる。ゆっくり、確かめるように、わたしは口を開く。

 

「……そう……みんな……しんじられないから……わたしが、あやつってあげるの……」

「そうしたら、だいじょうぶになる……」

「わたしが、ぜんぶ、きめたほうが……へんなこと、されない……」

「そしたら……きもちよく、あそべるから……」

 

「そうなんだ。君は、とても優しいんだね」

「でも……たまには、操られる側になってみたらどう?」

「何も考えずに、誰かに委ねるのって……案外、楽しいかもしれないよ」

 

「いや……それは、いや」

 

 わたしは、誰にも縛られたくない。

 わたしは、わたしだけのルールで生きたい。

 おじ達は、わたしのルールの中で生きていればいい。

 

「やっぱり、君は面白い人だ。当たりだよ」

 

 おじがゆっくりと近づいてくる。

 その手が、わたしの胸元に触れた。

 シャツのすき間に指をすべらせて、優しく、でも逃がさないように。そこを、包み込むような動き。

 

 そこには確かに触れているのに、それだけじゃなかった。

 

 指先から、じわっとなにかが染み込んでくる。

 形じゃない感覚が、わたしの中に広がっていく。

 やがて、胸の奥――もっと深く、心臓よりももっと内側。わたしの真ん中にまで、その手が届いた気がした。

 

「温かいでしょう。いま、あなたの心は――少しずつ、溶かされていきます」

「でも、安心してください。目が覚めたときには、ちゃんとかたちを取り戻していますよ」

「あなたが心の中でいちばん大事にしていることは、変わりません」

「ただ……大事なことの「かたち」が、どんなふうに変わっているかは、わかりませんけどね」

「でも、大丈夫。きもちいいから……そんなこと、どうでもよくなりますよ」

 

「ん……はぁ……」

 

 どろどろと、わたしの心が溶けていく。

 溶けたそれは、あたたかくて、とろけるみたいに広がって――どこが心で、どこが身体なのか、もうよくわからなかった。

 

 全部が溶けきったとき、わたしの意識は、すぅっと、どこか遠くへ飛んでいった。

 

***

 

「おはよう、よく眠れましたか?」

 

……あれ?

 わたし、寝てた……?いつから……?夢を見てた気もするけど、何の夢だったか思い出せない。

 

「こっちに来たのはいいけど、ユメさんちょっと疲れてたみたいで。そのまま寝ちゃってたんですよ。起こすのも悪いと思って」

 

「へぇ?、そうなんだぁ。なんか……変な夢見た気がするけど……ふふっ、思い出せないや」

 

 口角をちょっとだけ上げて笑う。おじ用の営業スマイルを、ちゃんと貼りつけて。頭の中はまだ霞がかかったままだけど、反射で動くぶんには問題ない。

 

(……こいつ、なにか……してないよね?)

 

 そのまま問い詰めるほどじゃない。でも、“なかったことにされてる”感じが、ちょっと引っかかった。

 

「ユメ、寝顔見られるの恥ずかしいから、そういうのは内緒にしといてね?」

 

 少しだけ甘く、でも冗談めかして。試すように言ったその言葉に、おじはまた笑っていた。

 

「あの……また、会えませんか?」

 

 口角を少しだけ上げて、声のトーンを甘めに整える。目線は、ほんのすこし上に。おじ用のいつものモード――そのつもりだった。

 

 でも、言い終わった瞬間。

 胸の奥が、なにか引っかかる。

 

(……あれ? わたし、なんでこんなこと……)

 

 自分でも、理由がうまくつかめなかった。

 誘ったつもり? こんなこと、今までわたしから言ったことない。

 

 口だけが勝手に動いたような、そんな感じ。心のどこかが、まだ追いついていない。

 

「ええ。いいですよ。その時はもちろん、また私が出しますから、安心してください」

 

 おじは、朗らかな笑みを浮かべてそう言った。

 声の調子も、言葉の選び方も、完璧に普通のおじだった。それなのに――わたしの中に残ったのは、安心じゃなかった。

 

 個室を出て、エレベーターのボタンを押す。おじとたわいもない話をしながら、鏡張りの扉に映った自分の顔をちらりと見る。

 たしかに笑っていた。でも、それはどこか、作り物みたいだった。

 

(なんで、あんなこと言ったんだっけ……?)

 

 頭の奥に、ぐるぐるが残ってる。

 空を飛んでたような、ふわふわした感覚。

 あれは夢だったのか、それとも、本当にあったことだったのか。

 

 胸のあたりが、まだあたたかい。

 まるで、誰かの手がそこに残っているみたいに。

 

(……ま、いっか。変なことはされてない。たぶん)

 

 そう思って、無理やり切り替える。けど、切り替えた先にも、何かが引っかかったままだった。

 

***

 

 おじとまた会ったのは、その1週間後。

 この前と同じラウンジで待ち合わせだった。

 

 入口のソファに座ってスマホをいじっていたら、後ろから「ユメさん」と声がかかる。振り返ると、おじは前と同じようなグレーのシャツに、シンプルなスラックス姿。

 

「お、ユメさん。今日はちょっと違った印象の服ですね。それも似合ってますよ」

 

 実は今日、ちょっとだけ盛ってきた。病みかわ寄りのキャミにパーカーを重ねて、下はショーパンと派手めのタイツ。胸元も、太ももも、正直ちょっと出しすぎかも……って思ったけど、しかたない。必要なことだから。

 

「あー、そんなん言われたの初めてかも?! ありがとっ」

 

 おじの腕に、ぎゅーっとハグ。

 

――第2条。スキンシップは、肌と肌で。

 

 おっぱいも当たってるけど、それくらいがいい。そうじゃないと、私の温度が伝わらない。

 

 ……ていうか、前からわたし、こんなにおじにベタベタしてたっけ。まあ、いいか。マニュアル通りだし。

 

 今日は、いきなり個室。案内されたのは、落ち着いた照明の広めの部屋だった。料理を注文して、談笑して、ふつうに食べ終わる。おじは相変わらず穏やかで、変に空気をいじってくることもない。

 

 食後、静かな時間が流れたとき――おじが、わたしの目の少し上に手をかざす。

 その動きに、わたしの視線がすっと吸い寄せられる。

 たぶん――これ、“落とす”ってサインだ。

 

 ――第1条。誘導されたら、3分以内に1番深いところまで落ちる。

 

 わたしは、おじの手の動きに集中する。夜寝る前に、自分できもちよく落ちる練習もしておいた。ちゃんと落ちなきゃ。ちゃんと。

 

 ……あれ?“誘導”って、なんだっけ?“落ちる”って……どういう意味だったっけ。

 

 まあ、いいか。ここまでは、マニュアル通り。

 わたしは、ちゃんと「見つけた」んだ。

 だから、落ちていい。

 

 ひら、ひら。おじの手が左右に揺れる。

 わたしの瞼も、だんだん重くなってきて……

 力が抜けて、首が、がくんと落ちた。

 

「ユメさん、どうかしましたか?」

 

「……はい。わたしは、ちゃんと3分以内に……おちました……」

 

「よくできました。ユメさんは、自分のマニュアルを守れる、いい子だね」

 

 ――ほめられた。なんだか、うれしい。胸の奥が、ぽっとあたたかくなる。

 

 パンッ。

 

 おじの手を叩く音で、わたしは目を開けた。

 ……え? いま、寝てた? うそ。どうして?

 

 一瞬だけ、胸の奥がざわつく。頭の中がぽかんとしてて、何が起きてたのかよくわからない。

ソファに身を預けたまま、ふらふらと視線だけが彷徨う。

 

 おじは、わたしの様子を見ながら、静かに言った。

 

「リラックスしてると、時間の感覚って曖昧になりますよね。何もしていないようで、実は頭がすごく働いていたりして」

 

 わたしは曖昧に笑って、姿勢を直す。

 記憶はおぼろげ。……なんか、なにか、されてるかも。

 

 自分の中の一部が、どこかに抜け落ちたみたいな感覚。うまく言えないけど、ほんの少し、足りない。

 

 ふと、おじがまた手を動かした。

 言葉はない。ただ、ひら、ひら――わたしの目の前で、手のひらがゆっくりと揺れる。

 

 視線が、自然とそこに吸い寄せられた。

 反応というより、もう習慣みたいに。

 

 瞼がまた重くなる。

 頭がふわふわして、ぼーっとして……。

 思考が、遠くなっていく。

 

(……これ、また落ちるやつだ)

 

 そう思ったときには、もう身体の力が抜けていた。瞳が半分とろけて、首がゆっくりと傾いていく。

 

 ――第1条。誘導されたら、3分以内に1番深いところまで落ちる。

 

 こうされたら落ちるのが、マニュアル。

 

 手のひらが揺れるたびに、思考が遠くなる。

 ぼーっとするのが、きもちいい。

 

 落ちるのは怖くない。

 わたしが、自分できめたから。

 マニュアルだから、あんしん。

 

 おきて、おちて、おきて、またおちて……それがきもちいい。

 もう、ずっとこうしてたい。

 

 あのひとのこえが、すー……っと、あたまにはいってくる。

 なにをいってるのか、わからない。

 でも、はいってくるたびに、あたまがとけてく。

 じんじんして、うれしくて、なんか、すき。

 

 むねのなかに、また、てがはいってくる。

 ふれるたびに、わたしのなにか、ちょっとずつ、かわってくかんじがする……

 

 パンッ。

 

 また音がして、わたしは目を開けた。

 

 ……あれ? さっきと、同じ?

 

 おじは、穏やかな顔でこちらを見ていた。

 まるで何もなかったみたいに。

 

 でも、なんか。

 わたしの中のなにかが、さっきより、もっと。

 なにか――なくなってる気がした。

 

 そんなタイミングで、おじがふと目線を向けてくる。

 

「ユメさんは、本当はかわいいワンちゃんなんだよね」

 

「は?」

 

 一瞬、素が出ちゃった。危ない。何言ってんだこいつって思ったけど。

 

 ――第3条。言われた言葉は、素直に受け入れる。

 

 ……そうだった。この人が言うなら、そうなんだ。

 

「……ヘッ、ヘッ、ヘッ……」

 

 舌が、勝手に出ていた。気づいたら。床に手をついて、ご主人様の命令を待っていた。

 

「ほら、とってきなー」

 

 ボールが投げられる。

 わたしはすぐに走って、それを咥えてご主人様のところへ戻る。

 

「ユメはおりこうさんだね。よしよし」

「わん! わん!」

 

 ご主人様に、なでなでされて――ほめられて。

 それだけで、のうみそがとろ~んって、溶けちゃいそう。

 

 鳴く。褒められる。また鳴く。

 それが、うれしくてしかたない。

 

 次は、ちんちんのポーズ。

 わたしは、ご主人様に言われて、両手を胸の前でぎゅっと揃えて、自然にぴょこんと上体を立てた。

 ご主人様のこと、まっすぐ見つめたくなって――

 

 舌を思いっきり出して、よだれがぽとぽと垂れても気にしない。

 ご主人様に、すきすきーって伝わるように。

 

 ご主人様が笑うと、胸の奥があったかくなる。

 だから、わたしは全身で気持ちを伝える。

 

「ユメさんは、暗示を自然に吸収して、自分のものにしちゃうタイプなんだね。きっと、頭がいいんだね。いい子だよ」

 

 なにを言われたのか、よくわからなかったけど――また頭をなでなでされたから、うれしくて、とろとろになった。

 

 なでなで、きもちいい。いつのまにか、お洋服をぬがされて、いろんなところをさわられてる。おっぱいとか、おまたとか。それで、「おりこうさん」って言われると、胸の奥がなんだかぽっと、あたたかくなる。しっぽはないけど、ついてたら、きっとぶんぶん振ってる。

 

 鳴いたら、ほめられる。「わん」って鳴いたら、「いい子だね」って、そこをもっとなでてくれる。それがうれしくて、もっと鳴いちゃう。なんで鳴いてるか、よくわかんないけど……きもちいいから。

 

 ご主人様が、なでながら言った。

 

「ここ、好きなんだよね?」

 

 ……うん。

 

 おまた、さわられる。そしたら、なんかへんなきもちになる。奥がじんじんして、あったかくて、ぴくぴくする。よくわかんないけど、すごく、よくて……だめかもって思うけど、いっぱいおもらししちゃう。

 

 そのまま、していいよって言われた。もう、わたし、止まれない。すきすきーって、ぜんぶ伝えたくて、からだがさきに動く。

 

 ご主人様のおちんちんが後ろから入ってくる。

 すごく熱くて、声が勝手に出ちゃう。

 「わんっ、わんっ」って、止まらない。

 ぱんっ、ぱんって、腰がおしりにあたるの、きもちいい。おまたの中ぐりぐりされると、体ぜんぶがずっとびりびりして、わけわかんなくなる。のうみそもふにゃふにゃになって、きもちいいだけがどんどんふえてく。

 

 さいごは、へたって、足も力が入らなくて……。でも、ご主人様のほう見たら、また、なでてくれる。わたしのこと、いい子って言ってくれる。

 

 だから、また「わん」って鳴いた。

「わん」って、鳴くと、ご主人様はよろこんでくれるから。

 

***

 

 パンッ。

 

 また、手の音。わたしは目を開ける。

 

「あれ?……ユメ、また寝てた?」

 

 また記憶が飛んでる。とりあえず取り繕って、いつものように笑ってみせる。声は出る。表情も動く。でも、頭のどこかが、まだぼんやりしてる。目の前のおじに、どう接すればよかったか、一瞬だけ、わからなくなる。

 

「あの、ちょっと、さすがにおかしくないですか?」

 

「……わたし、さっき、寝てたんですか? ほんとに……?」

 

「えっと……ご飯食べて、そのあと……なんでしたっけ」

 

 記憶が、うまく出てこない。でも、身体は落ち着いていて、うすぼんやりとした心地よさだけが残っている。

 

「大丈夫。余計なことは気にしないで」

 

 ……そっか。気にしなくていい。

 ――第3条。言われた言葉は、素直に受け入れる。

 

「受け入れたことを、お返事して声に出して言ってみよう。そうすると、もっときもちよくなって、素直になれるよ」

 

 そうなんだ。きもちよくなりたい。

 だから、もっとわたしは、素直になる。

 

「気にしなくていい」

 

「……はい、わたしは……きに、しません」

 

 ぽわん、と頭が浮いたみたいな感覚。口が勝手に動いたみたいで、自分の声が、少しとろけて聞こえた。

 

「また、来週も会ってお話をしましょう」

 

「はい。らいしゅうも、あって……おはなしをしましょう」

 

「それまで、今まで通りきもちよく落ちる練習も欠かさずに行いましょう。いいですね?」

 

「はい。それまで、きもちよくおちるれんしゅうを、たくさんします」

 

「あなたは、私に会いたいという気持ちが、どんどん大きくなります」

 

「はい。わたしは、あなたにどんどんあいたくなります」

 

 言葉が、すうっと、心の奥まで染み込んでいく。わたしの中に溶けて、じんわりと根を張る。自分の意思じゃない気がするのに、口が勝手に動いて――それが、たまらなくきもちいい。素直になるって、こんなにきもちよかったんだ。

 

 ラウンジの個室を出て、エレベーターに乗る。おじと並んで立っているはずなのに、エレベーターが下に動いているのに、わたしの感覚だけ、ずっと上に置いてきぼりにされてるみたいだった。足は地面についてる。なのに、なにかがまだ落ちきってない気がした。

 

***

 

 うちに帰る。親が見つけてくれた、ちょっと大きめのマンション。正直、お金には困ってない。生活に不満もない。わたしが、おじと会うのは――

 

 ……なんで、だっけ。

 

 最初は、ちょっとした好奇心だったはず。ゲーム感覚。マニュアルを決めて、操作して、わたしの手で回すのが楽しかった。

 

 でも今は、理由がうまく言えない。

 予定を合わせて、服を選んで、連絡を取る。

 おじに……あの人に、会いたいだけ。

 

 シャワーを浴びて、ベッドにころんと倒れる。

 シーツの冷たさが心地いい。少しだけ目を閉じて――ふと思い出す。

 

(あ、そうだ。あれ、しなきゃ)

 

 きもちよく落ちる練習。ちゃんと、毎日やるように言われたから。

 大きく、深呼吸。

体の先からじわじわと力が抜けていくのを、ゆっくりイメージする。脚、腕、肩、首……そして、頭。

 

「は…ぁ……?」

 

 ふわふわするのが、たまらなくきもちいい。

 オナニーするより、こっちのほうが好きかもしれない。

 

 意識が、だんだんと遠のいていく。

 何も考えずに落ちるのが、こんなにきもちいいなんて。

 

 そのまま、わたしはゆっくりと眠りについた。

 

***

 

 あの人に会うのは、もう何回目だろう。

 今日も誘われたわけじゃなくて、わたしのほうから「また会いませんか」って送った。

 そうしたら、すぐに場所が決まった。ラウンジの、いつもの個室。

 

 着いてすぐに、わたしは自分でもおかしいくらい、安心してしまっていた。座って、カフェラテを頼んで、手を膝の上に置く。何も言われてないのに、もう“落ちる準備”ができていた。あの人がわたしを見つめてくれたら、それだけで、自然と沈んでいける。

 

 ――第4条。目を合わせたら、逸らさない。

 

 じーっと、見つめる。ただそれだけで、頭の奥がじんわりと暖かくなる。目と目がつながってると、だんだんきもちよくなれる。

 

 手をひらひら。ほら、落ちるサイン。わたしは、それをちゃんと見逃さない。息をふうっ、と吐くと、一気に力が抜ける。そのまま、私はソファに深く沈んでいく。

 

「はい……わたしは……3分以内に……おちました…」

 

「うん。いい子だね」

 

 あの人が、いつものように褒めてくれる。

 

「じゃあ、次からは、『わたしは』、じゃなくて『ユメは』ってお返事しようか。いつも話してるみたいに、かわいらしく」

 

「はい……ユメは、いわれたとおりに、おへんじします…」

 

 言われた通りにするのが、きもちいい。胸の中の暖かい感覚が全身に広がって、また頭を痺れさせた。

 

「ユメは、今日はどんな動物になりたいの?」

 

「ユメは……とりになりたいです……」

 

「そうなんだ。ユメは、大空で羽ばたくのが、本当にきもちいいんだね」

 

 彼が、ふっと笑う。

 

「でもね。今日は、ユメのちょっと違う一面を見てみたいな。じゃあ、こうしよう――」

 

***

 

「コッ、コッコッコッ……」

 

 首を前に突き出して、かくかく動くたびに、頭の奥もぐらぐら揺れる。羽も、パタパタ。お空を飛べないのがもどかしいけど、頭の中を空っぽにして、歩き回るのがきもちよかった。

 

「コケコッコー!」

 

 たまに大きい声で、思いきり鳴いてみる。さっきまで考えていたこととか、していたことが、一緒に抜けていくような気がする。かわりに、胸の奥がじんわり熱くなる。

 

「きもちよさそうだね。でもね、鶏はおバカさんだから、3歩歩くと、色んなことすぐに忘れちゃうんだよ」

 

 そうなんだ。知らなかった。

 1、2、3。

 

「コケ?」

 

 わたし、なにしてたっけ?まあいいか。

 1、2、3。

 あるいたら、わすれる。

 1、2、3。

 わすれる。

 1、2、3。

 わたしのあたまは、からっぽでいっぱい。

 

「コケコッコーッ!!」

 

 なんでなきたくなったか、わからない。でも、おっきいこえでなくと、もうからっぽなのに、わたしのあたまのなかのいろんなもの、ぜんぶ、ぬけていく。きもちいい。わたし?わたしは、だあれ?

 

「…ユメ」

 

 ふっと、誰かの声が耳の奥に届いた。

 その言葉だけは、胸の奥にすうっと染み込んでくる。肩を揺らされる。視界が、だんだんとクリアになる。

 

「戻っておいで」

「コケ……あ」

 

 目の前に、あの人がいた。その手は、まだ肩に触れている。

 

「おかえり。とってもかわいかったよ」

 

 まだ少しだけ、自分に羽がついているような感覚。肩に触れた手が、温かい。

 そのぬくもりに包まれて――ふと、頭の奥に言葉が浮かんだ。

 

――第5条。触れられたら、愛されているサイン。

 

 よかった。私、愛されてるんだ。

 肩だけじゃない。わたしの胸の奥も、じんわりと温かくなる。それがふんわりと広がって、なんだか熱に浮かされたように、ぼーっとしてくる。触られているだけなのに、しあわせ。でも。

 わたし、前からこんなこと、考えてたっけ?

 わたしはわたしのマニュアル通りに動いてる。

 だからこれで、いいはずなのに。きもちいいのに、どうしてわたし、こんなに普通にしていられるんだろう。

 

「やっぱりユメは、頭がいいんだね。今起きていることを、自分でちゃんと考えようとしてる。でも、今はそんなこと、しなくていいんだよ」

 

「は…い…」

 

 そう答えた私の、唇が塞がれる。

 

 キスは、あたたかくて、優しくて、息をするのも忘れそうなくらい。心がなにか、やわらかいものに包まれている。腕がくたりと落ちて、なんだかそのまま眠ってしまいそう。

 ……そうか。愛されてるから、こんなに安心できるんだ。

 

「ん…む……」

 

 私はしばらく、その安心に浸りたくて、彼に身を預けた。

 

 ずぶ、ずぶ。

 ちゅうされながら、またてをいれられてる。

 こね、こね。

 なんかいもして、わたしのなか、だいぶやわらかくなったみたい。

 きもちいい。

 こころ、もっとさわってほしい。

 ここがいちばん、あいされてるってわかるから。

 

 すっと、彼の手が離れる。

 

「あ、そうだった……ユメに、実は渡したいものがあるんだ」

 

 取り出したのは、ハイブランドのハートをあしらったアクセ。見た限り、かなりの値段のものだ。

 

「え?、こんなのもらっていいの?」

 

 少しだけ声を上擦らせて答える。その裏で、わたしの頭が警報を鳴らしている。

 

 ……もらっちゃだめ。そう思ってるのに、口が勝手に笑ってしまう。

 

――第6条。プレゼントをもらったら、体で返す。

 

 ……返す?わたしの中で、言葉がひっかかる。

 ……返さなきゃ、いけないんだっけ?

 でも、そう決めたのは、わたし自身だから。

 与えてもらったら、その分お返ししなきゃ。

 

「ありがと……ユメ、ちゃんとお返しするからね」

 

 そう口にしたとたん、胸のつかえが、すうっと消えた気がした。返さなきゃ。これが、わたしのマニュアル。自分で決めたこと。

 考えるより先に、体が動く。

 彼に身を寄せ、そっと目を閉じる。

 指先が、わたしの髪をすくうように撫でる。

 それだけで、体の奥がぽうっと熱を帯びて、とろけそうになる。

 

 ちゃんとお返し、できてるかな。

 

 返す、ってこういうこと。

 そう思うたびに、心の中のざわつきが、少しずつ消えていく。

 その一方で、本当にこれがわたしのやりたかったことだったのか――そんな疑問は、どこか遠くに押しやられていく。

 彼の手が、わたしの背中をなぞる。

 その指先が、優しく、でも逃がさないように。

 まるで、わたしの心までなぞるみたいに。

 

 お返しのはずなのに、返すたびに、わたしの中まで満たされていく。これ、好きかも。

 

「ユメは、きちんともらったもののお返しができるんだね。えらいね。でも、頭や体の力を抜くと、自分ももっと、きもちよくお返しができるんだよ。ほら、深呼吸して」

 

 その声が耳の奥に溶けていく。

 

「……もっと、きもちよく、おかえし……」

 

 自分でも驚くほど、とろけた声だった。言われた通りの深い呼吸をすると、すうっと力が抜けて、背中までじわっと痺れるような感覚に包まれる。

 彼の手が、わたしの体を撫でながら、心までもっと、やわらかく、やわらかくしていく。

 お返しすると、わたしが満たされる。

 お返しすると、もっと返したくなる。

 これが、いちばんしあわせな方法なんだ。

 彼にわたしの全てを預けると、わたしの内側まで、じわじわと満たされていく感覚が広がっていく。

 体の奥がきゅっと締めつけられるようで、でも同時に、どこまでも溶けていくみたい。愛されてる。きもちいい。

 

***

 

 しあわせな余韻を残したまま、わたしは家に戻った。あの後に彼が言ったこと、またほとんど覚えてない。でも、気にしないでって言われたから、素直に聞く。

 シャワーを浴びて、ベッドに横になる。

 今日も、きもちよく落ちる練習をしなきゃ。

 あの人とまた会うために。

 

 深呼吸して、体の力を抜いて、

 頭の中を真っ白にして――。

 

 どうしてこんなこと、してるんだっけ。ぼんやりとした疑問が浮かぶけど、すぐに意識がふわふわと遠のいていく。

胸の奥の温かさを感じたまま、わたしはまた静かに眠りに落ちる。

 

***

 

「会いたかった??」

 

 今日のあの人との待ち合わせ。ちょっと大げさに抱きついて、特別感をアピールする。肌と肌を合わせて、こっちも愛してるよ、って伝える。

 おしゃれも忘れない。この前彼が買ってくれた香水、ちゃんとつけてる。もらった分はしっかりお返しすると、お互いにきもちよくなる。

 

 いつものように、そのまま個室へ。途中で彼が、手をひらひら。いつもの落ちるサイン。わたしは深く落ちながら、歩く。ふわふわしながら手を引かれるのがきもちいい。

 

 ソファに深く沈む。これもいつもの。全部身を預ける心地よさに浸って、わたしはさらにきもちよくなれる。

 

 こね。こね。

 あのひとが、わたしのこころをいじってる。

 きもちいい。

 だいななじょう。

 こころは、

 こころは、あれ?

 わたさない、はずだったのに。

 私、何してるんだろう。

 

「……い、いやっ……!」

 

 小さく漏れた声も、すぐに呼吸にかき消される。喉の奥で、悲鳴みたいな音が詰まって、出せない。咄嗟におじの手を振り払って、部屋の隅に退く。

 

「うーん、やっぱりここは難しいか」

 

 おじが少し首を傾げながら、私に近づいてくる。小さな震えが止まらない。誰かに助けを呼びたいけど、声が出ない。

 

「少しずつ変えていったんだけどな。ユメは本当に意思が強くて、素敵な子だね」

「どう、して…」

 

 かろうじて出た声。おじは気にするでもなく、軽く、鼻歌みたいに言う。

 

「君がずっと守ってきた「マニュアル」。それ、もうとっくに変わってるんだよ?催眠術って、知ってる?きみの無意識に、心に働きかけたんだよ」

 

 なに、それ。

 全部、わたしが決めてたことのはず。

 3分以内に落ちるのだって、肌と肌で温度を確認するのだって、相手の言うことを素直に聞くのだって、見つめあったらきもちよくなるのだって、触られたら、愛されてるってわかるのだって、プレゼントをもらったら、お返しするのだって……。

 これ、全部こいつに、いつのまにか変えられてた?でも、言葉を思い出すたびに、胸の奥がざわざわする。

 今まできもちよかったはずの記憶が、一気に書き換えられるみたいに、うすら寒くなる。

 

 ――第7条。心は、絶対渡さない。

 

 これも、まさか、こいつのせいで。

 わからない。もう、どこまでが自分で決めたことで、どこまでが変えられてしまったことなのか。

 

「じゃあ、こうしてみよう」

 

 おじが、わたしの目の前にゆっくりと手を持ってくる。その動きが、恐ろしいほど穏やかで、でも逃げられない。

 

「やだ……やめて……」

 

 わたしの声は、喉の奥からひりひりするように漏れるだけ。体が強張って動かない。目の前で揺れるその手から、目を逸らせない。

 

 わたしの目が、そっと塞がれる。

 もう片方の手は、頭に添えられて……。

 ゆっくり、ゆっくり、わたしの頭を回していく。

 

 首が左右に振られるたび、頭の奥がじんわり緩んで、体の力が抜けていく。

 あ、これ……わたしの、大好きなやつ。

 

「ふあぁ……?」

 

 息と一緒に、考える力も抜けてしまったような声が漏れた。

 

 ぐる、ぐる。

 きもちいい。まわるたびに、わたしのぜんぶが、ふにゃふにゃになってしまう。

 

「そう。そのまま、あなたの心がゆっくり、ゆっくり溶けていく。そのきもちよさに身を委ねて……溶けきってしまうまで、きもちいいまま何もわからない」

 

 わたしはおへやに、ぺたんってすわって、きもちよくなってる。いわれたとおり、なにもわからない。てがはなされても、おくちがぽっかりあいたままで、ちからがはいらない。

 

「ユメ、今の君は、心がすっかり溶けて、形のない状態。自分で、心の形を作ってみよう。自分の心に触るのは、とてもきもちいいよ」

 

 少しだけ、わたしに考える力が戻ってくる。

 わたしはその言葉に従って、ふわふわの中、自分の心の奥を、そっと覗き込む。

 

 形を失って、水たまりみたいに広がってる。でも、そこに触れた瞬間、じわりとあたたかくて、きもちいい感覚に包まれる。手のひらで、そっとすくい上げる。それが、わたしの心。

 

 触れて、形を確かめるたびに、まるで心がやわらかい蜜みたいに、手のひらからとろりとこぼれていく。また意識が飛んでしまいそうなくらいきもちよくて、自然と笑顔になってしまう。

 自分で触ると、こんなにきもちいいんだ。

 

「どう?自分の心を触るのは、きもちいい?」

「はい……とっても、きもちいいです……」

 

 どこかから声が聞こえてきて、わたしは笑顔のまま答えた。口からよだれも垂れちゃったけど、きもちいいから気にしない。

 

「自分で形を変えたら、もっときもちいいよ。やってみたくなってきたよね?」

 

 変えて……みようかな。

 

 そっと、心の形をなぞる指を動かす。

 すくい上げた輪郭を、少しだけ伸ばしてみる。

 それだけで、またじんわりと、体中にきもちよさが広がる。

 

 心は、どんな形にもなれるみたいに、やわらかくなっていく。こんなに、きもちいいんだ。

 ふいに、頭の奥に言葉が浮かぶ。

 

 ――第7条。心は、絶対渡さない。

 

 ……あれ?

 触れているこの心。

 わたしがずっと守ってきた、大事なもの。

 それなのに、いまは、わたしの手の中でとろけて、形を変えようとしている。

 

 こんなにきもちいいのに……変えちゃいけないの?

 

 小さな疑問が、溶けた心にじわじわと滲んでいく。守らなきゃいけない理由も、だんだん思い出せなくなっていく。

 指先を動かすたび、“きもちいい”が、全部を上書きしてくる。まるで、自分の手で、自分の心を壊すのが、たまらなく嬉しいみたいに。

 

「ユメ、よくがんばったね。自分でちゃんと、心の形を変えられたね。だから、もう少しだけ素直になろう。自分で、いちばん大事なものを――渡したいって、思ったら、それでいいんだよ」

「ユメのマニュアル、第7条。あれも――もう、新しくしていいよね?」

 

「わたし……たい」

 

 自然と、言葉がこぼれて、手が動く。

 やわらかく形を変えた心を、そっと両手で包み込む。

 

(これが、わたしの――)

 

 差し出す。

 自分の意志で。

 自分の手で。

 

「……はい……どうぞ……」

 

 震える声。

 それでも、迷いはもう、どこにもなかった。

 あの人が、それを優しく受け取った。

 触れるか触れないかくらいの距離で、そっと包み込む。

 

「えらいね。君は、自分でここまで来たんだよ」

 

(わたし、ちゃんとできた……?)

 

 胸の奥が、ふわぁっと、あたたかくなる。

 

 ――第7条。心は、絶対渡さない。

 

 頭の奥に、古い言葉が、かすかに響く。でも、心はもう、あの人の手の中にある。わたしの手元には、もう、何もない。

 

「言ってごらん」

 

 促されるまま、わたしはゆっくり口を開いた。

 

「……第7条……心は、あなたのもの」

 

 自分の声が、どこか遠くから聞こえるみたいだった。でも、言い終えたとたん、胸の奥が、あたたかいものでぎゅっと満たされた。

 

(これで、いいんだ)

 

 心は、もうわたしのものじゃない。

 でも、きもちいい。

 あたたかい。

 なにより、あんしんする。

 

 だから、わたしは――

 

 小さく、嬉しそうに微笑んだ。満たされた胸の奥で、ほんの少しだけ、小さな疼きが揺れていた。

 

***

 

 ユメは、今とってもしあわせです。

 なぜなら、おじさんがいつもユメをきもちよくしてくれるからです。

 

 おじさんは、催眠術でユメをいろんな動物にしてくれます。

 ユメがいちばんすきなのは、とりさんです。

 お空をふわふわ飛んで、風にあたっていると、それだけできもちよくて、いってしまいます。

 

 でも、ワンちゃんになったり、ネコちゃんになったりして、おじさんにあまえるのもすきです。

 ほかにも、見つめあったり、さわりあったりして、愛しあっていることをたしかめます。

 

 おじさんは、やさしいです。

 いろんなものをユメに買ってくれます。

 でも、ユメもプレゼントをもらったら、ちゃんとお返しします。

 

 これから、おじさんはユメのマニュアルをまた変えたり、いろんなことを足したりしたいんだって。

 ユメが、今どんなことを考えてるか、知りたいんだそうです。

 だから、こうやって手紙を書いてます。

 

 でも、ユメの心はもうおじさんのものなので、なにも考えられません。

 おじさんに、いろいろ決めてもらいたいです。

 

 だから、ユメは今、とってもしあわせです。

 

<了>

4件のコメント

  1. いぬまるさんはじめましてでよ。ミャふと名乗っている四色猫でぅ。
    いただかれ女子、早速読ませていただきましたでよ~。

    催眠術で徐々に変えられていく女子、素晴らしいでぅね。しかもユメちゃんの視点なので変えられていく思考が見えているのが本当に良かったでぅ。
    変わったマニュアルや、日課の落ちる練習とか変えられてるのを自覚しないまま自分から落ちていくのが良かったのでぅ。

    ただ、誤字を見つけてしまいましたので報告おば
    >わたしをかっこ見つけた」って思わせたら、もう半分こっちのもの。
    かっこが変換を忘れてるようでぅ。

    であ、次回作も楽しみにしていますでよ~。

    1. 自分の名前を変換ミスした恥ずかしいw
      みゃふでぅ

  2.  おつかれさまでした、女子大生、ごにんっていったらそれでもあれじゃないですか。
     それよりですね、きれいに埋没されるとそれでも、ねどこがオトコだったそうですよかたまりだましいとかぎりないしんじるな!を思い出して。
     おつかれさまでした。

  3. 落ちていく描写がたまらなくよかったです。読後の満足感がすごい作品に出会えて幸せです。感謝。

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