おるすばん その1

「じゃ、そういうことで。………色々あるかもしれないけど、基本、ケイトの思うように対処してよ。緊急でなければ、さっきのノートに書いて置いてもらえれば後で読むし。よっぽどヤバそうだったら、メールちょうだい」

 アキミチさんは意外とあっさりと手を挙げる。本当にこのまま、行ってしまうつもりのようだ。信頼してくれていると思えば嬉しいけれど、あまりにもカジュアルな言い方なので、もしかしたらケイトたちのことをあまり気にしていないのではないかと、若干心配にもなってくる。

「あの………、本当に、3年生の皆さんも、シヨリさんのことも、僕に任せちゃって良いんですか? ………何だったら、こっちは基本ノータッチでって言ってくれれば、そうするんですけど」

 ケイトが言葉を選びながら聞いているのに、アキミチさんは首を傾げながらケロッとした顔で返す。

「そだよ………? ………え? …………言ったよね。…………ケイトがクルミちゃんを扱うみたいに、皆を扱ってくれれば良いよ。どうせ実験するんだったら、色々試さないと勉強にもならないし、面白くもないじゃん? 俺がいない間、俺のこと色々気して委縮する必要なんかなくない?」

 アキミチさんの執着のなさ、屈託のなさは、いつものことながら、ケイトを戸惑わせる。というか、少しだけ不安な気持ちにさせるほどのものだ。まだ何か言おうか、考えているケイトの肩を、アキミチさんはポンっと軽く叩いた。

「なるようになると思うよ。………ま、………頑張ってよ」

 ケイトより2歳年上なだけだとは思えないほど、アキミチさんは大人びて達観しているように見える。その彼が、今ケイトとこの学校を置いて、どこかへ行ってしまおうとしている。この、まるで集合写真の中から、自分の存在を、クリック一つで消去してしまうようなカジュアルさ。ナチュラルさ。ケイトはしばらくお別れになるこの時に至っても、まだこの人のことを理解しきれた気がしなかった。

「まぁ………。じゃ、………出来る範囲のことを、やっておきますね。でも、出来ればアキミチさんやシヨリさんが卒業する時期までには、戻ってきて欲しいんですけどね」

 ケイトはいつも通り、言葉を選びながらボソボソと話す。アキミチさんはその言葉に、首を縦にも横にも振らずにいた。かわりにニコッと、悪戯っぽい笑顔を見せると、ケイトに背を向けた。そのままテクテクと歩いていく、師匠の背中を、ケイトは長い時間をかけて見送った。

。。。

 ケイトが、「師匠」となるアキミチさんに初めて会ったのは、この学校の中等部に転校して2ヶ月もたっていない頃だったはずなので、もう2年も前になるはずだ。秀玲学園中等部。2年生で転校したケイトはまだ、校舎の地図も頭の中に入っていなかった。美術準備室が第1と第2があるということもよくわかっていなかった彼は、その日、普通だったら生徒たちが入ることのない、第2美術準備室の扉を開けようとしていた。通常だったら、そこには誰もいないはずだった。

 ガラガラガラガラ

「わっ…………ゴメンなさい。間違え………………………え?」

 笹川佳斗が間違えて開けた部屋の中には、ケイトよりも背の高い、男女が何人か、立って向かい合っていた。男の人は中学生の背丈ではない。そして並んで立ち尽くしていた女の人たちは、上半身裸になって、ボンヤリと前を見ていた。

「うーんと、………取り込み中………では、あるかな。………ゴメンね」

 背の高い男の人は、クスリと笑った。制服からして、高等部の人だということがわかる。その人が頭をポリポリと掻きながら、こちらを見ている間も、女の人たちは目の前にかざされていた火から目を離していなかった。そう、彼女たちの前には、男の人の差し出したライターが、小さな火を揺らめかしていたのだ。

 ケイトが扉を開けた時に吹き込んだ風で、ライターの火が消えそうな勢いで左右に踊る。それをボンヤリと見ている女の人たちは、背の高さが少し違うけれど、顔立ちは似ている………。ケイトはそう感じた。姉妹なのかもしれない。背の高い、部屋の奥の方に立っている人は、外に露出してしまっている胸も大きい。手前側に立っている女子は、少し胸が小さくて、顔もやや幼い印象。けれど2人とも、上半身裸になって、オッパイを出した状態で、スクッと立ったままの状態でいる。両手は体の横でぶらぶらさせていて、胸を隠そうという様子すら見えない。ケイトはいつの間にか、彼女たちの顔の高さにかざされている、ライターに目が釘付けになっていた。

 見てはいけないものを見てしまっている。そのことに気がついて、やっと現実に引き戻されたように生気を取り戻したケイトは、慌てて部屋を出て、扉を閉めようとする。その動きの一瞬前、先手をとるようにして、男の人の声が響いた。

「君の足が床に貼りついた。………一歩も動けなくなったよ」

 音程に少し特徴がある、その声を聞いたあとで、ケイトは自分の足が、言われた通りに床にくっついてしまっていることに気がついた。そこから後のことは、実はよく覚えていない。

「………あの時、なんで君の記憶を奪って、そのまま帰さなかったかって? …………ちょっと面白そうだったんだ。君を、こっちの世界に引っ張り込むのが」

 アキミチさんはケイトの師匠になった後で一度、この日のことを振り返って、ケイトの質問に答えてくれたことがある。

「僕のどこに、アキミチさんの興味を引くようなところがあったんですか? ………それとも、ただの気まぐれですか?」

 アキミチさんは、ケイトに聞かれて、ちょっと考え込むような、あるいは何も考えていないかのような、間をあけた。

「うーん。気まぐれ3割………。7割は、わりと真面目に君のリアクションから、何か感じるものがあったんだと、言っておこうか」

 クスリと笑うアキミチさん。

「普通、君の年代の男子って、扉を開けて、サプライズで女の子の裸が見えたら、半分以上の子は、女子の裸に釘付けだよ。4割くらいの子は、慌てて目を逸らすかな? 紳士的というか、童貞っぽいというか、そんなリアクションになる。でもケイトはどちらとも違った。君は割と冷静に全体を見た後で、裸の女の子たちの目の前で僕が揺らしていたライターに注目していた。………ラッキースケベの瞬間よりも、そのラッキーの原因に心が惹かれていたんじゃないかな? ………少なくとも僕はそう感じて、ケイトに興味を持ったんだと思う」

 アキミチさんの言葉に連れていかれるように、ケイトもその日の第2美術準備室のことを思い出す。確かにケイトは、アキミチさんのライターに注目していたかもしれない。オッパイを出して立っていた女子たちは、その時、高2と中3の姉妹だった。今、思い出すと、綺麗な胸だった。けれどケイトは確かにその時、オッパイが見られたという嬉しさよりも、その、シュールというか非日常的で背徳的な雰囲気のする光景全体に、心を奪われていたかもしれない。

 その後、気がついた時、ケイトは美術準備室の中にいて、椅子に座っていた。いつの間にか、背の高い、高等部の男の人は、ケイトの目の前にいた。まるで夢からさめたような気分で、見上げるケイトに、男の人はアキミチだと言った。

「アキミチさん…………。名字ですか? 名前ですか?」

 初めて会った男の人に、少し失礼な質問だったかもしれないけれど、ケイトはまだ眠気の抜けきらない頭で、そう質問していた。割と気になることがあると、明らかにしなければ気が済まないタイプなのだ。

「和泉明道。下の名前でアキミチって呼んでもらえればいいよ。…………ちなみに、こっちの子たちは、室部千香ちゃんと夏香ちゃん。顔も割と可愛くて、オッパイも綺麗だろ? 僕がこっちの、千香ちゃんから、中等部に妹がいるって聞いて、姉妹を並べて見たくて、遊びに来てたんだ。やあ。チカちゃん、ナツカちゃん。………こっちはケイト君だって。よろしくね」

 アキミチさんはまるで、1年の英語の教科書を和訳したような喋り方をして、お姉さんの前で手を振ってみせた。けれど、目の前で手をヒラヒラと振られても、チカさんは瞬きもしないで、ケイトの後ろの壁をボンヤリ見つめている。綺麗なオッパイを隠そうともしないで、立ち尽くしたままだ。

「2人とも………どうなっているんですか? ………立ったまま…………。気絶してる? …………眼を開けているのに………」

「夢遊病の人が、眼を開けて立ったまま、眠ってるみたいだよね。…………無反応。でも、彼女たちの意識の奥深くでは、実は何が起きているか、分かっていると思うよ。だから、君が突然ナツカちゃんに飛び蹴りしようとしたら、ナツカちゃんは目を覚まして避けようとするかもしれないし、チカちゃんは妹を守ろうとするかもしれない。………今、2人とも安心して立ったまま、眠っているような状態でいるのは、僕が彼女たちの意識のある部分と、密約みたいなものを交わしているからだね。………周りのことは気にしないで、僕の言葉のままにしていればいい。とても落ち着いて、楽な気持ちでいられる………と」

「でも………落ち着いてって、言っても………。服…………」

 ケイトはその頃になってようやく、室部チカさんとナツカさんの姉妹のオッパイを、キョロキョロと見比べるように視線を往復させるようになる。大きさは違うけれど、どちらのオッパイも丸くて綺麗な形をしていた。子供の頃に母親や親戚の叔母さんのオッパイを見ていた頃以来、実物で女性のオッパイを見るのは初めてのことだった。

「うん。普通の彼女たちだったら、慌てて体を隠すよね。この、彼女たちの通常表面にある意識とは違う部分と約束を交わして、普通とは違う反応を得るっていう技術が、催眠術だよ。僕の特技というか、趣味なんだけどね」

 ケイトはしばらく、無言でアキミチさんと、チカさん、ナツカさんを順繰りに見回していた。

「………催眠術………って、………本当にあるんですね。………しかもこんな…………。凄い効果があるなんて」

「僕がちょっと極端に、上達しちゃったのかもしれないけどね………。チートってレベルまでいくと、………こうなる。………でも、例えば君だって、僕から手取り足取り教わったら、そこそこ使いこなせるようになるはずだよ。そうすると………こんなことも…………」

 アキミチさんは、座っているケイトの手首を掴むと、チカさんの前まで、ケイトを引っ張っていく。立ち上がったケイトがのそのそと歩くと、ヒョイっと、ケイトの手を、チカさんの大き目のオッパイに押しつけた。その時の感触を、ケイトは今もよく覚えている。手がオッパイに包みこまれながら押し返されるような、ムニュっという優しい柔らかさ。忘れようとにも、忘れられない感触だ。そしてチカさんの、中2の男子にオッパイを触られているにも関わらず、全く反応せずに、遠くを見つめているような、夢見心地の表情。弛緩しきった目。その顔は、今もケイトの脳裏に深く刻み込まれている。たぶんそれも、アキミチさんの気まぐれ作戦の一部だったのだろう。

「ケイト君もこういう技術。………覚えてみたいと思う? ………俺、割と暇だから、今なら手ほどきしてしんぜよう………なんて、ね」

 何と返事したか、声がきちんと出ていたか、良く覚えていない。ただとにかく、その時のケイトは、喉が渇いていた。声を出していたというなら、きっと凄くその声はカスれていたんだと思う。信じられないくらい、喉が渇いていた。そして、オッパイを触りながら、チカさんの反応(無反応)を確かめることに、必死でいた。

 アクシデントから出会ってしまったようなアキミチさんとケイトだったが、年が2つ離れていても、割とその後はうまく付き合ってきた。アキミチさんは偉ぶったり気難しく振舞ったりすることが少ない師匠で、ケイトは割と勘の良い、真面目な弟子だった。

 最初のレッスンはアキミチさんの催眠誘導を見学するところから始まった。

「なんか、こういう基本的なのって、久しぶりで、地味に新鮮な気分かも」

 アキミチさんはケイトに教える時はいつも、まず制服のブレザージャケットを脱いで、シャツの袖ボタンを外すと、腕をまくる。まるでそれが自分の中にある、「師匠のアキミチ」というスイッチであるかのようだった。気まぐれなように見える師匠も、こうしたところにはルーティーンがあるのかもしれない。

 アキミチさんは「演劇部から借りっぱなし」と言っていた、アンティークな雰囲気の懐中時計をポケットから出して、花木ルミさんという中3の先輩に持たせる。ルミさんはアキミチさんが椅子へと手で誘導すると、もう目から生気を失ったようにボンヤリとした表情になって、ごく自然に差し出された席へと腰を掛ける。

「相手に持たせた時計とか揺らして誘導する場合は、このあたりかなって思った位置から、もう5センチくらい高い場所まで相手の手を持ち上げさせて、時計を少し見上げるような角度になるように、調整すると良いよ。適度に相手の疲労を引き出せる姿勢に仕向けていくと、楽にトランスに誘えるからね」

 アキミチさんが独り言を話すようにケイトに教えている時は、機嫌が良い時だ。ルミさんに懐中時計のチェーンの部分を握らせると、丸い時計がユラユラと揺れるのを斜め上20度くらいの角度の目線で追いかけさせる。

「ルミちゃんの持っている時計が、だんだんと大きく揺れていくよ。………ほら…………。右………、左…………。右………」

 ストレートな黒髪が綺麗な、真面目そうな雰囲気のルミさんは、自分の左手を固定させているつもりでいても、いつの間にか時計がアキミチさんの言う通りに、弧を描きながら振幅を大きくさせていく。手を動かしていないつもりでも、微妙な力の加減はいつも変化している。これはまだ、催眠術と言うほどのテクニックではないが、アキミチさんの言葉通りにルミさんの持っている時計が揺れていくその光景は、見ていてすでに、不思議な世界に一歩踏み出たような気持ちにさせられる。

「右………、左………、と揺れている時計を目で追いかけているうちに、ルミちゃんの心はどんどんと深ーいところへ降りていく。ゆーっくりと、一歩ずつ、ルミちゃんの心の階段を降りていく。………右………、左…………。ルミちゃんはふかーいところへ降りていくよ。自分の心の階段を降りるごとに、外のことは気にならなくなる。僕の声以外の、音も景色も、何も気にならない。ルミちゃんは一歩ずつ、深いトランス状態に入っていくよ。……………はい………。眠ってー」

 アキミチさんが、ルミさんの肩に、横からポンっと軽く触れると、ルミさんの頭があっさり、コックリと、前に落ちるようにして俯いた。その2センチほど先のところ、髪の毛に触れるくらいの距離で、まだルミさんがチェーンを握っている懐中時計が揺れていた。

 何度見せてもらっても、アキミチさんの誘導は、ゆったりと余裕をもって話しかけているようでいて、無駄がない。のらりくらりとお話しているように見えるのに、気がつくと、相手の人は最短距離でトランス状態に導かれているように思える。ケイトは溜息をつく。なんだか、完成された技術のようなものを見ると、学ぼうにも盗もうにも、取っ掛かりのようなものが感じられないのだ。気がつくと、見学者というよりも、観客になってしまっている自分がいる。少しずつ、催眠術の知識が増えていくほどに、ケイトはアキミチの技量の凄さを理解出来るようになり、ただただ感心してしまっていた。

「………ケイトさ………。いっぺん、君もやってみる?」

 すっかりお客さん気分になっていたケイトが、不意にアキミチさんに話を振られて、肩をビクッとすくめる。

「いや………僕には、まだ実践は………。ちょっと………、早いかなって………。もうちょっと、本も読み返して、アキミチさんのやり方を見させてもらって………」

 慌ててボソボソと話すケイトの方を振り返って、アキミチさんは見透かしたような笑顔を作る。

「催眠術ファンとか、評論家とかになっちゃうと、かえって実践から遠ざかっちゃうこともあるよ? 君のバヤイは、………未完成でも良いから、とりあえず場数を踏んでいった方が良いかも。ほら。ルミちゃんは僕が何度も何度も誘導してきてるから、ケイトが上手にエスコート出来なくても、ほとんどシグナルだけ受け取って、自分からトランス入ってくれるくらいだと思うよ」

 まだ腰が引けているケイトを、ヘラヘラしながらも案外強引に引っ張り出していくアキミチさん。困っているケイトの様子を楽しむような笑顔で椅子を動かす。ケイトは、椅子に深く座って眠っているルミさんの真正面に向かい合うかたちで座らされた。

「ほい。ルミちゃん起こすけど、言った通りにすれば良いからね。…………ルミちゃーん。僕が両肩を叩くと、スッキリとした気持ちで目が覚めますよー。目の前にいるのは、僕と同じ催眠術師のケイト君です。怪しい子じゃないから、心配しないで良いよ。ほら、3、2、1。ハイッ。一度催眠状態が解けて、意識が戻ってくる。ルミちゃん、オッハヨー」

 アキミチさんに起こされて、花木瑠美さんがゆっくりと目を開く。ダルそうな表情で、まるで頭の奥の鈍痛を払うかのように、頭をわずかに振った。真正面から見ると、ボンヤリしていても、とても綺麗な顔立ちの人だと、改めて思った。

「あ………あの、こんにちは。…………2年C組の笹川佳斗です」

「え? …………あぁ…………。こん……にちは。3のDの花木です………。笹川君は………、アキミチさんの、お友達………なんだよね?」

 戸惑いながらも話すうちに、少しずつルミさんの目に理性的な光が宿ってくる。口調も落ち着いて、とても理知的な雰囲気の先輩だと思った。その先輩に対して、ケイトは無謀な初誘導を試みる。師匠の言いつけなのだから、仕方がない。

「あの、花木先輩。僕のこの、人差し指の先を見てもらえますか? 顔を動かさないで、僕の指を目だけで追ってください。スーッと右に動く。今度は左にスーッと………。もう目を離すことが出来ませんね? ほら、右へ…………。左へ…………」

 チラっとケイトが、ルミさんの後ろに立ったアキミチさんを見ると、手のひらを上に向けて、手首をクイクイっと起こしている。その意図に気がついたケイトが、ルミさんの目の前にかざしている、人差し指を伸ばした自分の右手の位置を、慌てて10センチほど上に上げる。基本的には見上げさせる。手の位置を下ろすのは、相手の目やその周りの筋肉が疲れてきたころ。つまり、瞼が僅かに震えてくるころ。瞼が降りる動きを誘導するように、手の位置を下げる。そして、同時に耳元ではっきりと………。

「はい、眠ってー」

 ケイトが手の高さを気持ち下げて、瞼が降りる動きを誘いながら、同時にルミさんに語り掛けると、ルミさんの頭は、まるで頷いてそのまま沈み込むように、ガクッと首を曲げた。そのまま、頭を起こさない。ルミさんは、ケイトの言葉に促されて、深いトランス状態に入ったのだった。ケイトは感動を隠しきれない表情で、アキミチさんを見る。師匠は指をクルクル回して、ケイトに「繰り返せ」と伝えてきた。

「ルミさん、僕が肩を揺すると、ゆーっくりと目が覚めます。ほら、起きましょーう」

 緊張しながら、綺麗な先輩の肩を軽く揺する。ルミさんが頭を起こして、眼を開けながら、左右を見回す動きに入る。その動き出しを制するように………。

「はい、また眠ってー」

 声をかけて、今度はさっきより大きめに揺する。すると、起きたと思ったルミさんが、今度は天井に顔を向けるようにして、頭を後ろに倒す形でガクッと眠りに入る。頭の重さのせいで、口が空いていた。とても知的に見える先輩の、無防備で脱力した顔。それを見たケイトは、下半身がムズムズと痺れてくるような感覚を味わう。なんとも名状しがたいゾクゾクした気持ちが、下半身から胸元まで沸き上がってきた。

「ルミさん、起きてくださーい。………はい、また眠ってー」

 今度は、両肩というよりも、上体を揺するように力を入れる。ルミさんは何の抵抗もなく、体を倒すようにしてケイトに身を預けた。そのまま椅子から崩れ落ちそうになる彼女の体を、ケイトが抱きかかえるように受け止める。彼女の髪の毛がケイトの顔にかかると、シャンプーの清潔な香りが鼻をついた。綺麗な女子の匂いだった。

 今にしてみると、この時ケイトが「初めて他人を催眠状態に導いた」と思っていたことのうち、7割以上がアキミチさんのお膳立てによるものだったと、よくわかる。アキミチさんはルミさんに、ケイトのことを「催眠術を勉強中の弟子」とではなく、「催眠術師仲間」と言って紹介した。それまでに何度もアキミチさんに深い催眠状態に導かれてきたルミさんは、それだけでケイトのことを、深層心理ではアキミチさんと同等の力と技術を持った者として対面する意識づけされていたのだった。さらに彼女は「一度、催眠状態から解ける」とアキミチさんに言われていた。ルミさんが表層意識で何も思っていなかったとしても、彼女はすでに「自分はまた催眠状態に落とされるんだ」という暗示にかかっているも同然の状態だった。

 そんな、お膳立てをいくつもしてもらった上で、ケイトは言われた通りに、ほとんど合図のような誘導を行っただけ。そこにいたのが彼でなくても、ルミさんは催眠状態に入りこんでいただろう。

 それでも、その時の体験はケイトの大きな自信になったし、より深く催眠術の勉強にのめり込むきっかけにもなった。自分が初対面の綺麗な先輩を、ケイトの手であれほど無防備に、無邪気に、可愛らしくトランスに導くことが出来たのかと思うと、後から思い出しても手が震えるのだった。

。。。

「ケイトってさ、好きな女子とかいるの?」

 アキミチさんが突拍子もない質問をしてきた時、ケイトは高等部の空いている教室で、アキミチさんの連れてきた被験者の女子高生に対して、後倒法という誘導法の実践練習をしているところだった。慌てたケイトは、危うく先輩の体を掴み損ねて、床に倒してしまいそうになった。

「え? …………ぇえええ? ………なんで、今、急にそれ、聞くんですか?」

 ケイトがアキミチさんと親しくなって、2ヶ月近くなる。弟子の恋愛事情などには全然立ち入ってこようとしないから、ずっとそういうことには興味が無い人なのかと思っていた。なんで今になって、急に聞いてくるのだろうか? ケイトは抱きかかえた女子高生の先輩の胸の感触を自分の胸で秘かに味わいながらも、動転してアキミチさんに聞き返していた。

「………いやさ………。そろそろ、ケイトにも自分一人の手で、一人の子を最初から最後まで誘導して、独り立ちの準備をしてもらいたいとか思ってね」

 アキミチさんにそう言われると、ケイトには返す言葉がない。確かにここ1ヶ月ほど、催眠術の色んな技法の理解は深めたつもりだったが、常にそれはアキミチさんが完璧にチューニングした相手に対して暗示をかけたり誘導したりしていて、何かトラブった時にも、すぐに横にいる師匠にお出まし願っていた。自分一人で、誰かに催眠術をかけるというのは、ケイトにとって大きなハードルだった。もしかしたらこれは、師匠が有能すぎることの弊害だったかもしれない。

「でさ、どうせ自分で1人の子を操れるように訓練するなら、最初の子は思い入れのある、可愛い子ちゃんの方が良いでしょ?」

 アキミチさんの声の高さ、喋るトーン、常に少し癖がある。しかしこのクセが、慣れるとアキミチさんの独特の世界を作り出していて、普通に話しているだけでも、引き込まれて掴まれてしまうような気がする。もしかしたらこの声、話し方すら、彼の技術の積み重ねなのだろうか? それとも天性の資質だろうか、と、いつもケイトを不思議な気持ちにさせた。

「あの…………気になる女子、いない訳じゃないです。アキミチさんが連れて来てくれる被験者の先輩たちはいっつも綺麗な人ばかりで、その人たちほどの美人じゃないかもしれないけれど…………。可愛くて、性格が良い子だと思います」

 ケイトは、慎重に言葉を選びながらも、その子のことを思い出して、赤面していた。同じクラスの、早坂来海さんだった。ケイトが転校してきた時、たまたま隣の席になった。普通だったら女子とはあまり社交的に混じれないケイトだったけれど、転校生だった彼に対して、クルミは意識的に優しく接してくれた。小柄で華奢な体型で、ポニーテールにすると少し短い、肩にかからないくらいのショートカットの早坂さん。彼女のことを思い出すだけで、ケイトは自分の体温が勝手に何度か上がる思いがする。

「笹川君って、英語すっごい得意なんだねー。英語上手な人って、尊敬しちゃうなぁ。………今度、私にも英語の勉強法、教えてよ」

 気を遣って言ってくれたのかもしれない。可愛らしいクルミの口から出たその言葉を、ケイトは今でも心のハードディスクの中に大切に保存している。あれは期末テストの答案用紙が返って来た時に、早坂さんが言ってくれた言葉だった。英語以外の強化は全て彼女の方が良い点数だったけれど、英語だけは、クラスで2番の高得点だった。

 それも要因を言ってしまえば、前の学区の方針で、小学校の頃から、英語は結構鍛えられていたというだけのことだ。それでも、滅多に女子に面と向かって褒められた経験の少ないケイトは、可愛らしい来海のその言葉だけで、すっかりやられてしまっていた。

「ケイト? 聞いてる? …………あのさ。これまでやってきたことって、『催眠術』ってわかっていて、それを受け入れる姿勢を持った子とか、僕がこれまでにチューニングしてきた子を相手にした誘導だったでしょ? …………相手に催眠術だと知らせないまま、相手に催眠術をかけるって、実は相当骨が折れることだからね。………しっかり準備しないといけないよ」

「………あ、………はい。………準備…………。そう……ですよね」

 しばらく全力でクルミのことを考えてしまっていたケイトは、慌ててアキミチさんの話に合わせる。それでも、集中していなかったことはバレバレだったようだ。

「とりあえず、自分でシナリオ練って、来週までに僕に見せて。こっちで添削してあげる。けど、僕が手伝うのはそこまで。ケイトは来週、自分一人でその子を相手にして、催眠術をかけて特別な関係を構築すること。それが来週の課題ね」

 ヘラヘラ喋っているようだけれど、アキミチさんの言葉にはどこか、反論しづらい力がある。師匠に言われたケイトは、来週一人でクルミの前で催眠誘導を試みている自分を思い浮かべて、背筋が寒くなる思いを感じていた。

。。。

 ケイトはいつも、隣の席のクルミに話しかける時は、一度喋ることを自分の頭の中で読み上げてから、唾を飲みこむ。そしておもむろに早坂さんの方を向いて話しかける。

「早坂さん。………あのさ、ずいぶん前の話なんだけど」

「うん? なぁに?」

 早坂来海は、ケイトのようなパッとしない男子に話しかけられても、きちんと顔を相手に向けて、少し体の角度も相手と向き合うようにして、きちんと聞こうという姿勢を見せてくれる。その仕草から、育ちや性格の良さが感じ取れる。実はそうした要素の一つ一つが、ケイトをより緊張させる要因でもあるのだが………。

「ちょっと前にだけど、早坂さん、僕に英語をもっと出来るようになりたいって言ってたよね?」

「あ………うんうん。笹川君、英語の点がずば抜けて良いもんねぇ。………私、リスニングとか、会話とかが特に苦手なんだぁ………。英語が得意科目の人って、憧れるなぁ」

 クルミの目は澄んでいて、ケイトのことを警戒していないのがわかる。催眠術についてのケイトの浅い経験からも、人の目は色んな表情を持っていて、その人についての情報を語っているということがわかりつつあった。

「実はね………昔、僕が通っていた英語塾で、トランス学習法っていう、語学の勉強の仕方を教えてて、僕の場合はそれが凄く合ってたみたいなんだ。それを身につけてから、すっごく英語が楽に勉強できるようになって、少なくとも苦手意識が解消されたっていうか………。色々、良くなったんだよね」

 ケイトは話の核心部分に入ろうとする時に、意識的に声のトーンと音量を下げて、内緒話のように語る。心なしか、クルミが身を乗り出すようにして、聞いてくれる。話の内容だけではなくて、こうした微妙な駆け引きも、会話の主導権を持つうえで大切なことなんだと、ケイトはアキミチさんから学んでいた。

「えぇ? 聞いたことない。………それ、でも、効果あるんだぁ。どんな勉強法なの?」

「………それが、………ちょっと説明が難しくて、これまでどう伝えようか迷ってたんだけど。……なんだったら、いきなり体験してもらった方が、わかりやすいかなって思って」

 つぶらな瞳をパチパチと瞬きさせるたびに、上向きにカールした、綺麗な睫毛が上下する。早坂来海はケイトの話を真面目に聞いてくれている。机の上に両手を重ねるように乗せている。ケイトはごく自然に見えるように注意しながら、クルミと同じように両手を机の上で重ねて、よく似た姿勢を作って話し続ける。

「それで、もし良かったらなんだけど………。早坂さんがリラックス出来る環境で、簡単にトランス学習法って、試してみることが出来たらって思うんだ」

「笹川君が………、教えることも出来るの?」

「うん…………。ま、この程度までなら…………」

 ケイトが内心ではドギマギしながら、肘で期末テストの答案用紙を滑らせる。93点という得点は、悪くない。エビデンスは大事なものだ。

「……でね。早坂さん、ちょろっと簡単に試してみるんだったら、今日の昼休みと放課後だと、どっちが良いかと思って。都合があるかもしれないから、早坂さんに決めて欲しくて」

 ケイトに聞かれたクルミは、黒目を上にあげて、何かを考えるような表情を見せた後で、ケイトに答えをくれる。

「お昼と放課後だったら………。放課後の方が良いかな? …………ミチルとお弁当一緒に食べることになってるし………」

「了解。20分くらいの簡単な説明だから、あんまり時間は取らないよ。………じゃ、放課後。空いてそうな教室、探しておくね」

 ケイトはそこまで話すと、どっと疲れを感じた。次の授業の始業チャイムが鳴る。休み時間中に2人きりで「トランス学習法」を試すという約束を取り付ける。これだけでもケイトにとっては、大きなタスクだった。

 最後の「2人で学習法の話をするなら、昼休みか放課後か」というような聞き方は、セールスマンの世界ではダブルバインディングと言うらしい。相手に選択肢を与えているように見せながら、こちらの持って行きたい方向に交渉を誘導していく。「今度、時間のある時に、僕のやっていた勉強法を試してみない?」と聞かれると、「うん。考えておくね」で話が終わってしまうことが多いが、「やるなら、火曜か水曜、どっちが都合が良い?」と聞くと、選択肢を与えられたと思った相手が火曜といっても、水曜と答えても、話はすでに「やる」ということに動いている。ケイトは催眠誘導法の本に始まって、関連する心理学の本、なかには怪しい自己啓発本からライトな心理テクニックの本まで、読み漁るようになっていた。それでも、やはり知識と実践は違う。ケイトにとっては、この休み時間のことだけでも、大きな収穫になった。放課後の大きなタスクは残している訳だが………。

。。

 第2美術準備室に呼んだ早坂来海を、部屋の壁近く、椅子を3つ並べたところに連れていく。

「ここに座って、楽にしてもらえるかな?」

「………ここで良い?」

 クルミが並べられた椅子の真ん中に座る。部屋の真ん中ではなく、壁近くに座らせているのは、彼女が少しでも「守られている」と感じやすい場所を探した結果だった。

「そうそう………。早坂さん、いつも姿勢良いよね。………今日は、もっと深く腰掛けて足は膝を直角に曲げるよりも、もうちょっとだけ前に出して、楽な姿勢で、背もたれに背中を出来るだけ多くの面積でピタッとくっつくように座れるかな? ………こんな感じ」

 椅子を複数並べた理由は、時々ケイトが、クルミの真横に座って、クルミと同じ方向を見ながら話せるようにという、アキミチさんからの指導があったからだ。ケイトが提出した作戦を、師匠は何度か書き直しさせて、結構みっちりと赤ペンの添削を入れてくれた。初心者が、初めての被験者を誘導する時には、ずっと真正面に対峙しているよりも、時々こうやって隣に座ったり、同じ方向を向いて話をしたり、さっきの休み時間のように2人の姿勢を同調させたり、色々な工夫を重ねることが大切らしい。「ラポール」という言葉は、施術者と被術者との間の信頼関係を意味する言葉で、催眠術のどの教科書にも出てくるが、具体的にどのようにラポールを形成、強化するかという方法を書いてある本は、多くはなかった。それでも情報を集めて、アキミチさんにアドバイスをもらいながら、ケイトは意外とマニアックに、精緻な作戦を作り上げていた。

「まず、トランス学習法って何か、説明するね。他の科目と英語という科目が違うのは、学問というよりも、生きている言葉を学ぶっていう要素が大きいことだよね。当たり前だけど、アメリカとか、英語圏の社会では、子供の頃から、当たり前に英語を使いこなすよね。むしろ、お母さんとか周りの人たちを真似て、子供はみんな、考えるよりも慣れるかたちで、英語を吸収していく。でも僕たちはそれを一度勉強というかたちにして、こういう、教科書とか辞書から学ぼうとしている。これが結構なロスになっているんだ。特に、早坂さんみたいに真面目で勉強熱心な人にとっては、どうしても言葉を吸収するっていうことよりも、頭で考えて、理解するっていうことにどうしてもウェイトがかかって、負担を大きくしているんだと思う。トランス学習法っていうのは、意識を、小さい子みたいにまっさらで楽な状態にさせて、そこで凄く効果的に、ストレスなく吸収させるっていう学習法なんだって。でもこの発想の転換って、もしかしたら早坂さんみたいに真っすぐな人には、とても合っているかもしれない」

「真面目」とか「勉強熱心」とか言われるたびに、クルミは照れくさそうな表情を見せる。けれど最後に「真っすぐな人」と言われた時には、もう照れ笑いは見せていなかった。文字通り、真っすぐケイトを見て、話を聞いてくれている。ケイトはわざわざ教室から持ってきた、英語の教科書と英和辞典を見せる。「NEW HORIZON」、「LIGHT HOUSE」と背表紙、表紙に書かれている。

「例えばこのNew Horizonっていう言葉。どうしても僕たちは、一度、ニュー・ホライズンっていうカタカナにして、ホリゾンタルが水平だとか、rの発音を注意しなきゃとか、あれこれ考えながら、新しい地平っていう日本語の言葉に直して理解する。Horizonって言われた瞬間に綺麗な地平線を思い浮かべることが出来るネイティブの人よりも、脳を何倍も使ってしまっているんだ。だから一々、時間がかかるし、疲れるし、思い出すためにもタスクが大きくなるし、考えすぎてるうちに喋るタイミングを逃しちゃったりする。なんか、終わったあと、ドーっと疲れる感じあるでしょ?」

 ウンウンと、クルミが大きく首を縦に振ってくれる。ケイトは少しだけ安心することが出来た。

「こういう、言葉を頭で捏ね繰り回して、やっと発音や文法の正しい英文を捻りだすっていう思考回路を一度中断して、もっと素直に、自然に、言葉を心に直接繋ぐことが出来たら、僕たちはもっと楽にスムーズにお喋り出来るようになる。お喋りって楽しいことだもんね。それは言葉の1つ1つが、頭を悩ませてる状態じゃ、実現しないんだ。こっちの本はLIGHT HOUSEか、これ見た瞬間に、またLとRの発音の違いとか、GHは発声しないとか、あれこれ考えだしちゃうけれど、それをあえてせずに、広―い地平線の向こうに、綺麗な海が広がっていて、その間に小さな、可愛らしい灯台が建っているところを想像してみて」

 ケイトは本を脇の机に置いて、ポケットから小さなプラスチックの筒を取り出した。キーホルダー型のペンライトだ。わざわざ、文具店で800円のモノを買った。最初、100円均一ショップで売っていた、安物を使おうとしたところ、アキミチさんに注意された。最初のうちはギミックも良いモノを使え。ギミックの値段も自分の自信や勇気に繋がるから、と、珍しく真顔で言われたことを思い出した。

「とっても遠くにある小さくて白い灯台が、海の沖を行く船に、光を届けてくれているところを思い浮かべて。………とってもロマンチックな光景だよね。LIGHT HOUSEって言われた時に、頭で灯台って和訳するより先に、こんな懐かしくて素敵な光景を思い浮かべられると、とっても楽に言葉を吸収できる。新しい言葉が、どんどん自分を豊かに、新しくしてくれるんだ。もっと集中して思い浮かべてみて。教室とか、僕の手とか気にせずに、この光を灯台の光だと思って、見つめてみて。光をジーっと見つめていると、他のことを考えなくても良くなるから。早坂さんの集中力がどんどん高まっていく。この光に、意識が完全に集中する。それはとても清々しい感覚だよ。雑念が遠ざかって、イメージと早坂さんの心が淀みなく繋がっていく」

 灯台の光が回転するところをケイト自身も想像しながら、光を強く、弱くと、ペンライトのボタンを押す力の強弱で、明滅させる。クルミの両目が完全にその光を追っていることを確認すると、少しクルミの目の位置よりも高い位置にペンライトを掲げて、ゆっくりとクルミの両目の間、眉間の上のあたりに近づけたり、遠ざけたりする。寄り目気味に一点を見上げていると、目が少し疲れる。こうした人間の体の構造も利用させてもらう。ペンライトの点滅は、ただ単調に、強くしたり弱くしたりしているのではない。実はケイト自身の脈を意識しながら、早坂さんの鼓動2回に対して点滅1回をイメージして、リズムを作っている。彼女の鼓動と呼吸、そのリズムと等間隔でシンクロするように、ペンライトを点滅させる。そして少しずつ、その間隔を広げていく。彼女が気がつかないくらいの差で、シンクロしていた光の点滅リズムをゆっくりと、下げていく。それに同調するように、早坂さんの脈拍と、呼吸のリズムも、気持ち遅くなる。リラックスして、脳内にα波が出やすい状況に、自然と誘っていく。もちろん、すべてがうまくいっているとは思えない。彼女の心臓のリズムは、外から正確に測れたりはしない。それでも、こうしたことを意識してライトを点滅させるのと、ただゆっくりとパカパカ光を点けたり消したりしているのとでは、成功率が断然変わってくる。アキミチさんはそう教えてくれた。

 そして、ケイトの目の前で、クルミはいつのまにか両目から理知的な生気を失っているような様子へと変化していた。何か昔のことを思い出しているような、それとも寝入りばなのような、集中と弛緩が同時に進行しているような表情。ケイトは意を決して、ペンライトをクルミの近くへ寄せていく。

「集中してジーっとこの光を見て。灯台の光を思い浮かべながら。ここが教室の中だということも気にならないくらい、しっかり集中できる。この光の点滅だけに集中する。目が疲れてきたら、瞼を閉じても良いよ。それでも光の残像で、点滅が見えるよね。目を閉じると体も意識もとってもリラックス出来る。ほら目が閉じる」

 寄り目気味でペンライトを見上げさせて、集中を促していると、瞬きの回数が減る。すると目に負担がかかってくるので、瞼を重く感じるようになる。目が疲れる。タイミングを見計らって、ペンライトの位置を下げながら視線を誘導すると、黒目の動きに、瞼がついてくるように、眼を閉じる。その瞬間、後押しするように「目が閉じる」と伝える。事象としては彼女の動きに合わせるように言葉で伝えているけれど、被術者の彼女の脳には、ケイトの言葉と自分の体の動きとがリンクした、と認識される。こうやって一歩ずつ、丁寧に彼女の反応の主導権を、ケイトの言葉で受け取っていく。トランス状態が醸成されていく中で、スムーズに一連の主導権の移管を行う。

「深い眠りに入るような感覚で、早坂さんの意識がスルーっと一段、下の方へと降りていくよ。とっても心地の良い、清潔で温かい部屋にいる自分を思い浮かべて。その部屋の窓の外は、さっき見た景色。丘の上の灯台が、海に優しいシグナルを送っている。海を進むカラフルな帆のヨットも見える。とってもリラックスした気持ちになれる、居心地の良い部屋。ここで、早坂さんは英語を吸収すれば良いんだよ。勉強部屋で、ぶ厚い辞書や参考書と格闘する必要なんてないよ。この部屋から見える世界の全てには外国の言葉の名前があって、それを心に取り込むことは、早坂さんの世界をもっともっと豊かに、素敵にしてくれる。早坂さんはただリラックスして、心を解放して、入ってくる言葉を受け入れていけばいい」

 閉じられた早坂さんの瞼を見ると、少し右の睫毛が細かく振動している。瞼が僅かに痙攣しているように見える。これは、トランス状態を示すシグナルの1つらしい。必ず現れるものではないけれど、クルミの場合は、小さな痙攣が出た。でも顔の表情を見ると、とても安らかな顔で、椅子にその身を委ねている。小さな顔、整ったパーツ。派手な美人顔ではないけれど、綺麗に慎ましく整った顔立ち。そして肌が白い。絵になる寝顔だと、ケイトは思った。

「早坂さん。ここでは小難しいことは、一切考えないで良いからね。僕がWarmと言うと、日本語で温かいという意味だとか、Wormは虫だから気をつけて発音を分けるとか、arなのにオーと読むとか、一切忘れて良いんだ。むしろ考えない方が良い。ただ、温かいという感覚を思い浮かべる。言葉が自然に吸収出来ている時は、その言葉の意味が直接、感じられるはずだよ。ほら、Right Hand, Warm…………。と聞くだけで、右手のこのあたりが、温かくなってきた気がするでしょう?」

 チョンっと、軽く右手の甲に触れさせてもらう。あまり女子慣れしていないケイトにとっては勇気が必要な行為だが、これも大切なステップだ。被術者に目を閉じさせたあとは、視覚とは別のコミュニケーションを、相手が不快にならない程度に増やしておくことが、ラポールを強化すると、アキミチさんも言っていた。

「そう。考えようとせずに、僕の言葉をそのまま受け入れよう………。Left Elbow, very warm。………Right Knee。…………Both Shoulder。And the whole body.………Very Warm and Comfortable。Very relaxing.」

 文法はあえて崩してみた。声の音程やトーンは、アキミチさんのちょっと独特な喋り方を、真似してみた。チョン、チョンと、クルミの体を指先で触れさせてもらうが、クルミは嫌そうな顔をしない。椅子に座り直すようにお尻をずらして、もっと深く座ると、フーっと、鼻から長い吐息を漏らした。気持ち良さそうに眠っている。

 正確には、眠っているわけではない。変性意識。トランス状態というやつだ。色んな本には色んなことが書いてあるが、アキミチさんは独特の持論を持っていて、ケイトに説明してくれた。

「多分だけどね。人類は大昔、天敵もいて、安全じゃない環境で生きてた時すっごく長くがあったんだと思うよ。むしろ人類の歴史の大部分っていうくらい、長い期間かな? だから人の意識は、常にその外殻に、外からの刺激をキャッチして、防衛行動に結びつけるための、警戒システムを持っている。パソコンで言えば、ファイアウォールみたいなものかな? けれど外界の危険はつねに流動的で変化に富んでいるから、防衛システムも常に自分を更新して、変形しながら外界から身を守る。動的ファイアウォールって言っておこうか。………そういう動的システムが苦手にしてるのは、自然界に余りないような、単調で機械的な刺激の繰り返しなんだよ。敵対的か親和的かも判断突きにくいような、シンプルで単調、機械的なシグナルの繰り返し。動的ファイアウォールは、単調なシグナルのループに触れていると、そのシグナル間の細かい差異とかを、システムの資源食いつぶしながら、懸命に追いかけ始める。グルグル追い続けて、最後はフリーズしちゃう。人間の意識をシステムに例えると、その瞬間っていうのは、セキュリティチェックも何もなしに、管理者ID発行しちゃって、コントロールパネルも解放しちゃてるような状態ってとこかな? 下手すると、本人のプログラムのちょっとした書き換えまで出来ちゃう状態。それがトランス状態ってとこだと、僕は思ってる。もちろん、トランス状態に入るっていうことはその人にとっても悪いことばかりじゃないよ、ある種の作業効率はめっちゃ上がるし、無駄なセキュリティチェックを飛ばして、デフラグとか不要なキャッシュの整理なんかが進む状態でもある。そういう効能もあるから、トランス状態なんていうものが、今に至るまで淘汰されずに俺たちの精神の1状態として残っている訳だ」

 心理学の話を、独自の解釈を入れて、パソコンの話に例えながら、アキミチさんが語ってくれた。残念ながら、タブレットとスマホしか持っていないケイトには、始めは3割くらいの内容しか理解出来なかった。それでも、色々な本を読みながら、アキミチさんに時折質問も織り交ぜながら、自分なりの理解を深めているつもりでいる。

「早坂さん、この部屋にピッタリな、とても素敵な曲があるよ。英語の歌なんだけれど、外国語とか気にしなくていい。音楽なんだから、歌詞を全部理解出来なくても、楽しむことは出来る。綺麗な声、ゆったりとしたリズム、素敵な旋律を楽しめばいい。………聞いてみて」

 スマホを取り出したケイトが、音楽を選んで再生操作をする。ギターの前奏が始まって、シンプルな歌が始まる。伸びやかな声の女性ヴォーカルが、オーソドックスだけど綺麗な曲を歌う。実はとても歌詞がシンプルで、発音もわかりやすい曲を選んだ。ドラムの軽快なビートに合わせて、クルミの手の甲にケイトの指先を当てて、トントントントンと優しくリズムを取ってみる。クルミも心地良さそうな表情で、膝でリズムを取り始める。踵で床を、軽く踏み鳴らしていた。肩を左右に揺すり始めるクルミ。普段こんなに、音楽にノッていたりするクルミは見たことがない。その可愛らしい仕草にケイトはグッとくる。クルミは今、無防備な笑みを口元に浮かべながら、全身で音楽を楽しんでいた。

 ずっとこんな彼女を見ていたいとも思えたが、ケイトは思ったよりも時間が過ぎていることに気がつく。英語の曲が終わったところで、彼女をそろそろ覚醒させようかと思った。

「早坂さん、とっても楽しかったよね? 英語も前よりもずっと、素直に楽しめました。とても気軽に、心にスッと入ってきてくれました。それでは立ち上がって、一度大きく伸びをしましょう。このトランス状態で勉強させてくれる、素敵なお部屋から、ゆっくりと、美術準備室へ、上がってきます」

 クルミがケイトに手伝われながら立ち上がると、両手をまっすぐ上に上げて、大きく伸びをした。スカートの裾が上がって、膝近くまで、彼女の細くて白い脚が見えた。シャツの裾も上がって、お腹の肌が少しだけ見えた。ケイトは思い出したかのように、最後に一言、言葉を発してみる。

「Kurumi, Hand Me Your Ribbon、Now」

 伸びを終えて、まだ目を閉じて立っていたクルミが、少しの間、止まっていた。やがて両手を首元に伸ばして、制服のシャツに結んである、首の、深い赤のリボンに触れて、結び目を解いていく。シュルシュルとリボンを解くと、その布を握りしめた右手を、ケイトの方へ差し出した。

「………ありがとう。…………早坂さん、目を覚まそう。………3、2、1。はいっ。スッキリとした気持ちで目が覚めます。とっても爽やかです」

 目を開けたクルミは、しばらく周りを見回したあとで、ケイトと目を合わせると、両手で自分の口を押さえたながら、一気に表情を崩した。

「すごーい。笹川君。………私、本当に灯台のある街にいたみたいだった!」

 ケイトはその言葉を聞いて、やっとホッと胸を撫でおろす。ここまで、昨日の夜、眠れずに何度もシミュレーションを繰り返したのだ。

「英語の歌も、歌詞は全部はわからなかったけど、なんでか、歌ってる内容とか凄く自然に入ってきて、なんかすごく共感できた。いい歌だよね。なんか、………うわー。凄い。色んな単語が、凄く楽に、聞き取れた気がする」

 両手を顔の前でパチンと合わせて、両足でジャンプするくらい、クルミは興奮していた。その感動の勢いに、少しだけ気押されながら、ケイトは応える。

「良かった。………早坂さんにとても合っている学習法だったみたいだね。………また、今度。時間ある時に、やってみようね。…………いや、明日と、明後日の放課後だったら、どっちが良い?」

「明日。塾の時間の前には帰らないといけないけれど、それまで1時間くらいは、大丈夫かな。……もし、笹川君も都合が悪くなければだけど………」

「全然大丈夫だよ。………じゃ、明日の放課後、またここでね。…………って言っても、教室でも隣の席だけど………。うん。それじゃ………、明日」

 ケイトは集中が途切れたように、急にまた、クルミとの会話に緊張を覚えるようになっている。そのギコチなさを隠すために、早く会話を切って、帰ろうとする。

「………あの………。笹川君………」

 少し戸惑うような声で、クルミがケイトの背中に呼びかける、ケイトは振り向いた。

「へ? …………なに?」

「その…………、リボン……………。いいかな?」

 クルミは少し顔を赤くしていた。ケイトは自分が左手で握りしめたままにしていた、クルミの制服のリボンのことにやっと気がついて、慌てて返す。

「わっ…………。ゴメン。………あの、これは………。ハンド・ミーっていう言葉を、教科書ではまだ習っていないけれど、直感的に理解出来るようになるっていうことを試したんだ。………ゴメンね、はい」

 ケイトがクルミに手渡したリボンは、少しケイトの手の汗で湿っていた。ケイトもクルミも、照れ笑いのように、ギコチなく笑って、美術準備室を後にしたのだった。

<その2に続く>

4件のコメント

  1. 読みましたー!
    本格催眠もの!
    こういう、現実的な理論の中にちょっとしたオリジナルの理論を混ぜ込んでいる感じ、好きです。
    今回の描写、クルミちゃんに誘導を施したところまでで終わっていますが、冒頭のシーンを見る限り、最終的には恐らく学校全体(少なくとも3年生の大部分)がアキミチさんとケイトの支配下に置かれる感じになるんですね。
    実験のためとはいえ、魔法や超科学ではないオーソドックスな催眠術でそこまで支配範囲を拡大するバイタリティ、とんでもないですね……w
    今後の展開を楽しみにしています!(あと個人的には学校生活でのラッキースケベとk)

  2. まさかの二作目!?
    洗脳描写の説明に力を入れた奴隷生活のすすめと比べ、こっちは導入描写をだいぶがっちりと描いていただいてめっちゃ素晴らしいでぅ。

    チートレベルの催眠術師による手ほどきを受けて新人催眠術師が学校を支配していく話。
    うーん素晴らしいでぅ。ケイトくんはおとなしめでそんなに悪い事を考えられない子なのでぅが、この子が支配による万能感からどこまで堕ちて行くのかがかなり楽しみでぅ。

    最後にアキミチさんが全部持ってくとかがなければいいなぁw
    であ、次回も楽しみにしていますでよ~

  3. >帝一さん

    ありがとうございます!
    2話、3話と面白さを持続できれば嬉しいですが、
    とりあえず、出来ることをやってみます(笑)。
    感想、とても励みになります。助かります!

    >ティーカさん

    毎度感謝です。2話目くらいまでは、じっくりめに過程を書いて、
    3話目、4話目は支配が確立された後の世界を書きたいと思っています。
    ラッキースケベは4話目あたりで、主人公以外のキャラクターに、ちょこちょこ発生するかもしれません。
    ティーカさんにご指摘頂いた、現実的な理論とオリジナルの比率というポイント。
    とても大切にしたい要素ですので、上手くこの話の中で最後まで織り込んでいきたいと思います。

    >みゃふさん

    毎度ありがとうございます!
    万能感から、やっぱり堕ちますよね。普通(笑)。
    圧倒的パワーはやっぱり堕落すると思うし、あともう一つ、「飽きる」のではないかというのが、良く感じることです。
    今回のテーマの1つは「飽きとの戦い」だと思っています。上手く書けるかどうかは、お立合い頂ければ、嬉しいです。

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