MIND VAMPIRE 第一章 「闇の住人」

 遠くから獣のものらしき咆哮が何度も聞こえてくる。
 その度に壁に落ちた細い影がビクッと震えた。

「早く、早くみんなを見つけなくちゃ……」

 影の主、セシル・アングラードは自分に言い聞かせるように呟いた。もし魔物に遭遇したなら絶対に自分一人では倒せない。自分は僧侶だ。神聖魔法が使えるという点以外は普通の人間と何ら大差はなく、前線で戦う必要がないので装備も軽い。これではミノタウルス級の魔物に殴られれば一撃で即死だろう。
 だからこそ早く仲間と合流しなければ。
 彼女は恐怖と焦りで寿命が縮まる思いだった。

第一章 「闇の住人」

― 1 ―

 ダナス大陸の東部に『戻らずの宮殿』と呼ばれる迷宮がある。周辺に住む人間達は誰も近づかないこのダンジョンには、名前の通り一度足を踏み入れた者は二度と帰って来れないという噂があった。ありがちな噂だが、ここに関してはどうやら本当らしい。よっぽど強力な魔物でもいるのか、それとも複雑な構造になっているのか分からないが、生還者がほとんどいないというのだ。そのため冒険者の間ではかなりレベルの高いダンジョンと評価されていた。
 そんな上級者向けのダンジョンに挑戦しようと提案したのはリーダーのエイダだった。剣士のエイダ、魔術師のルカ、弓使いのアンナ、ランサーのリン、そして僧侶のセシル。この冒険者のパーティーは女の子ばかり五人で構成されている。

「大丈夫!今の私達なら楽勝だって!」

 エイダは自信たっぷりに言った。
 彼女達のパーティーは女の子だけということもあって冒険者達の間では低く見られてきた。しかし幾つものダンジョンであげた成果が認められ始め、最近は彼女達に対する評価が上がってきている。エイダはここで難易度の高いダンジョンで結果を出して、一気に自分達の地位を確実なものにしておきたいのだ。

「そうね、私達も強くなってるんだし大丈夫でしょう」

 その意中を汲み取って同意するセシル。実際に自信はあった。もう駆け出しの頃の私達ではない。数々の死線をくぐりぬけてきた経験が彼女に自信を与えていた。
 結局他のメンバーも反対はせず、出発は明後日ということに決まった。

「ヤバくなったら回復お願いね、セシル?」

 リンが笑いながら隣のセシルに話しかける。

「まかせといて」

 柔らかそうな金色の髪を揺らしてセシルは微笑んだ。

― 2 ―

 甘かった。彼女達はその迷宮を甘く見すぎていた。
 『戻らずの迷宮』に挑戦した彼女達は厳しい現実に直面する。
 地下深くまで進んだ彼女達はゴーレムの奇襲を受けたのだ。
 ゴーレム、この魔物は油断などしていて倒せる相手ではない。しかし、その深さに至るまでに数え切れないほどの魔物に襲われ、彼女達は疲れきっていた。この時も獰猛なゴブリンの集団を撃退したばかりで、疲れから緊張の糸はぷっつり切れていたのだった。
 とっさのことで誰も戦闘準備ができていない。魔物の放った一撃は無防備なエイダに命中し、吹き飛ばされて壁に激突する。すぐに皆が駆け寄った。

「!!!」

 誰もが息を飲んだ。
 倒れているエイダの首は不自然な角度に曲がっていて、全身を痙攣させている。原因は魔物の一撃か、それとも壁にぶつかったショックか、どちらかだろう。助からない、と誰もが思った。唖然としている人間達に容赦なくゴーレムは襲いかかる。慌てて正気に戻った彼女達はエイダをそのまま残して各人バラバラに逃走した。

「どうして…どうしてこんなことに…」

 セシルは薄暗い通路を茫然とした表情で進んでいた。
 ゆらゆらと揺れるたいまつの炎が彼女を暗闇に同化するのを防いでくれている。
 彼女は十九歳だったが、炎に照らし出された端整な顔は疲弊のせいでずっと老けてみえる。セシルの脳裏には倒れているエイダの表情が焼き付いて離れなかった。大きく目を見開き、口をポカンと開けたエイダの表情。何が起きたの、と言わんばかりだった。今からあの場所に戻って手当てしたところで助からないのは分かりきっている。いや、むしろあの時すぐに手当てをしていたとしてもダメだったに違いない。

「エイダ……」

 急に悲しみが込み上げてきた。しばらく時間が経ったことで、麻痺していた感情が戻ってきたのだろう。涙で視界が滲み、前が見えなくなる。セシルは立ち止まり涙を拭った。
(いけない、今は生き延びることだけを考えなくっちゃ……)
 拭い終わると、そう自分に言い聞かせて再び歩き出した。まずはみんなと合流しよう。そこから先のことは合流してから決めればいい。エイダのことも、脱出のことも、全て合流した後で考えればいい。
 仲間達の顔を思い浮かべる。とにかく誰かに会いたい。一人でいるのは心細く、怖かった。

― 3 ―

(ドアがある……)
 ゴーレムの強襲からすでに二時間ほど経っただろうか。歩き続けたセシルは行き止まりに突き当たった。やはりさっきの分岐は左だったと思い引き返そうとした時、正面の壁から光が漏れていることに気づいた。壁から光が?そんなわけはないと調べてみるとドアがあった。この光はその隙間から漏れているものだったのだ。
(誰かいるのかしら……)
 まさか魔物が向こう側で光を灯して暮らしているわけはないだろう。手を伸ばし、思いきって開けてみた。

「わぁ……」

 セシルは思わず声を出してしまう。ドアの向こうの空間は思ったより広く、中にはベッド、テーブル、本棚などが置かれていた。

「誰か住んでいるのかしら……でも何でこんな所に……?」

 魔物の気配がないことを確かめると、たいまつの炎を消して室内に三、四歩踏みこんだ。中央のテーブルに置かれたランプが部屋の中を照らしている。まずびっしりと本が詰まった本棚が目に入った。背表紙に書かれたタイトルはセシルの位置からでは少し遠くて読み取れない。本棚から視線を外し、ベッドの方に向ける。そこには明らかに使用された痕跡があった。どうやら本当に誰かがここで生活をしているらしい。

「でも、変ね……食料とか水は見当たらないみたい……」

 見渡してみても他の部屋に通じるドアらしきものは見つからない。ならばこの室内にないとおかしいのだが……。もっと詳しく調べてみようと思い、さらに踏みこもうとした時……

「おや、客とは珍しい」

 不意に背後から声がした。

「ひっ!!」

 セシルは短い悲鳴を上げ、慌てて振り返った。そこには全身黒ずくめで長髪の男が一人、立っている。見た感じまだ若いようで、背はセシルより頭一つ分くらい高い。人の良さそうな顔をしていた。
 とりあえず魔物ではなかったことに安堵し、ため息をついた。この男がここの住人なのだろうか?その疑問をそのまま口にしてみる。

「貴方がここに住んでいらっしゃる方ですか?」

 黒ずくめの男は頷く。

「いかにも。私はここの住人だ。驚いたかね?こんな所に人が住んでいるとは思わなかっただろう」

 そう言うと男は微笑んだ。こんなダンジョンで暮らしているくらいだから、きっとかなりの強者なのだろう。力を貸してくれれば心強い。

「あの……」

 セシルはこの男に助力を求めようとした。が、その時、何か邪悪な波動を感じ、開きかけた口を閉じる。瞳に警戒の色が浮かび、男がそれに気づいて口を開いた。

「どうかしたかい?ああ、私を警戒してるのかな?安心しなさい、私は敵ではない。どうかな、中に入ってゆっくり休んでいっては」

 そう言って手をセシルの方に差し出した。中に入ろう、という意思表示だ。だがセシルはその手を払った。

「貴方は人間じゃありませんね!」

 鋭く言い放つ。疑惑は確信に変わっていた。この男の纏うオーラが人間のものではない。僧侶であるセシルにそれがはっきりと分かった。
 しばらくの沈黙。
 そして静寂は男の笑い声で破られた。

「ハハハッ!どうやらなかなかできるお嬢さんらしいな?てっきり誘いに乗ってくると思ったのだが」

 もはや先程までの人当たりの良さは微塵にも感じられない。感じるのは底の知れない禍禍しさだけ。

「そう、私は人間ではない。よく見破った、褒めてあげよう」
「それはどうも」

 セシルはそっけなく応えながら密かに護身用のナイフに手をかけた。

「久しぶりの人間だったのでね、丁重にもてなしてから戴こうと思ったのだが、裏目に出てしまったようだ」
「…貴方、人間を食べるの?」

 相手に悟られないようにジリジリと距離をつめていく。逃げることはできないだろう、勝負は一撃で決めなければならない。長引けば体力のない彼女は圧倒的に不利だ。鼓動が早くなる。汗が一筋、頬を伝って落ちた。

「ああ。けれど、そこら辺の低級なモンスターと違って血肉を戴くわけじゃない」

 男はフフ、と笑って両手を広げてみせる。どういう意味のジェスチャーかは分からない。
(今だ!)
 セシルはナイフを抜き、男の喉元を狙って飛びこんだ。

― 4 ―

「あ…うぁ……」

 唇からは言葉にならない音が漏れる。
 セシルは何が起こったのか理解できずにいた。
 飛びこんだ瞬間、男はカッと目を見開いた。瞳が紅く光る。その光を見た途端、体が麻痺したように動かなくなったのだ。意識が朦朧としてきて、手からナイフが滑り落ちた。
 キィィン……
 室内にナイフが床に落ちる音が響き渡る。

「フフフ、どうかな、『魔眼』の力は?」

 そう言いながら男はゆっくりとセシルの背後にまわった。

「ま…がん……?」
「そう、これが私、マインドヴァンパイアの力だ」

 セシルの耳元でそっと言葉が囁かれた。

 マインドヴァンパイア。それは普通のヴァンパイアとは違い、人間の血ではなく魂を糧にして生き長らえる闇の種族。見た目こそは人間と同じだが、人間にはない様々な能力を持っていた。男が今使った『魔眼』もその一つだ。『魔眼』とは相手の意識を奪い、一種の催眠状態に落とす能力である。

「あ…あぁ……」

 セシルの意識はどんどんと暗い淵に沈んでいった。何も考えられなくなっていく。男は脇の下から腕を通し、セシルの膨らんだ胸を鷲掴みにした。

「ふあぁ……」

 ビクンと体は大きく震え、情けない声が口から漏れる。男は掴んだ胸を揉み始めた。

「ひゃ……はあぁ……あうぅ……」
「声が出るほど気持ちいいのか?」
「はああぁぁ………」

 問いには答えずセシルは喘いだ。男は柔らかい胸の感触を楽しんでいる。そのうちセシルの反応が次第に弱くなっていき、ついには頭がガクンと垂れて静かになった。
 男はニヤリと笑みを浮かべると手を止め、グッタリと脱力した彼女を椅子まで連れて行って座らせた。クイッと顎を持ち上げ、顔を覗きこむ。意思の光が消え、ぼんやり霞がかったような瞳。半開きの口。普段は理知的な印象を受ける顔立ちも、弛緩した表情で台無しになっている。完全に術中に落ちていた。
 男は耳元に口を近づけ、囁くように質問を開始した。

「私の声が聞こえるか…?」
「…はい……」

 力なく答えるセシル。

「まずはお前の名を聞かせてもらおう」
「…セ、セシル……セシル・アングラード………」
「お前はここに何の目的で来た?」
「わ、わたしたち…ぼうけんしゃ……ここには……な、なをあげるため……きました……」
「私達?お前には仲間がいるのか?」
「はい……よにん、なかまがいました……みんな…おんなのこ……でも…でも…いまは……ひとり…へって…さんにん…なりました………」

 そこでセシルは少し表情を曇らせた。エイダのことを思い出したのだろう。けれどすぐに弛緩した表情に戻る。『魔眼』の力は強大であった。
 さらに質問を続けられ、セシルはたどたどしい口調で全てに答えていった。男はだいたいのことを聞き出すと近くの椅子に腰を下ろした。セシルは呆けた表情で次の質問を待っている。

「久しぶりに餌が迷い込んだと思えば、四人もいるとはな。フフフ、しかも全員が女というじゃないか」

 男は久しぶりの、しかも上等な獲物を神に感謝した。とは言っても魔物の彼が神なぞ信仰しているわけはなかったが。

― 5 ―

 ベッドの上で目が覚めても、セシルの思考はしばらく止まったままだった。ようやく意識もはっきりしてきて何があったかを思い出した時、彼女は跳ね起きた。いや、跳ね起きようとした。

「な、何!?」

 体が動かない。全身に力が入らず体が起こせなかった。

「体の自由はもうしばらくは戻らない」

 いつの間にかベッドの脇に来ていた男がセシルにそう告げる。

「気分はいかがかな、セシル・アングラード?」
「ど、どうして私の名を!?」
「君が教えてくれたのだよ。まあ覚えていないのも無理はないがな」

 意識が戻っても『魔眼』の術中に落ちている間の記憶はない。セシルの記憶は黒尽くめの男に飛びかかったあたりで途切れていた。

「私を…食べるの……?」

 セシルは魔物である男に震えた声で尋ねた。分かりきった答えが返ってくるだろう。それでも聞かずにはいられなかった。

「ああ、戴くとも。ただし君は少し誤解しているようだ。私が戴くのは君の血肉ではない。君の魂だ」
「魂…?」
「そう、魂。心とも言うな。君が君である為にもっとも必要なものといえる。私がマインドヴァンパイアと呼ばれたる所以はそれを糧にして生きているところにある」

 そう言い終わると男はゴクリと喉を鳴らした。

「失礼。私はここ何年か食事にありついていなくてね。空腹で仕方がない。早速で申し訳ないが戴かせてもらおう……」

 セシルの表情に恐怖と絶望が浮かぶ。いつもは穏やかなその目は大きく見開かれ、涙を浮かべていた。体の震えが止まらない。この様子をマインドヴァンパイアは嬉しそうに眺めた。

「いい表情だ。恐怖、絶望といった類の感情は魂にとって極上のスパイスとなる。今の君の魂はさぞかし美味だろう」
「い、いや……」

 男は顔を近づける。

「いやあぁぁっ!やめて!!お願いだからやめてぇっ!!」

 セシルは綺麗なセミロングの髪を振り乱し、堰を切ったように叫び出した。必死に抵抗を試みる。しかし動かない体での抵抗など何の障害にもならない。男の口が悲鳴をあげるセシルの口を塞いだ。

「うむぅっ…!」

 セシルがくぐもった声を出す。

「うあっ…?」

 男に唇を奪われてもできるかぎりの抵抗を続けていたセシルに変化が起きるのにそう時間はかからなかった。徐々にセシルの瞳から光が、体からは力が消えていく。ついにはわずか抵抗も止み、セシルは男に好きなように唇を貪られた。男が舌を入れてきても拒まない。いや、拒めない。侵入してきた舌がセシルの舌を激しく求め、歯茎をなぞり、口膣を堪能する。
 そして、彼女の体は痙攣を始めた。

 セシルは不思議な感覚に襲われていた。自分からどんどん大切なものが消えていってしまう、そんな感覚。抗うことはできず、ただ消えていくのを黙って我慢しているしかなかった。ひどく悲しく苦しかったが、彼女はそれを止める力を持ち合わせていなかった。

 痙攣はどんどん激しくなっている。けれど男はそんなことは気にもせず、ひたすら唇を吸っていた。傍から見るとまるで暴れ馬にでも乗っているようだ。

「む……あぁ………」

 今やセシルの意識は風前の灯火であった。仲間達の姿が脳裏に浮かんでは消えていく。最後に思い浮かんだのはエイダの微笑む姿であった。しかしそのエイダの姿もすぐに消えていき、セシルの虚ろな目から涙がこぼれ落ちた。その流れ落ちた涙が最後の自我だったかのように、瞳に残っていたわずかな意志の光が消えた。

― 6 ―

 『食事』が終わり男は顔を上げた。

「なかなか美味だった」

 そう正直な感想を漏らす。しかし男が満足げな表情を見せたのは一瞬で、すぐに物足りなそうな表情に変わった。

「だが、まだまだこれだけでは私の空腹は満たされない……」

 男はベッドの上に目をやった。そこではセシルが白目を剥き、だらしなく口を開いて横たわっている。痙攣はほとんど収まっていたが、時折思い出したようにピクンと体を震わせていた。
 そんな醜態をさらしている彼女に男は声をかけた。その声は低いながらもよく響き、室内にこだまする。

「我が下僕、セシルよ。目覚めるがいい」

 ビクンッ!

 ベッド上でセシルの体は大きく一度仰け反ったかと思うと、スーッと上半身が起き上がっていった。まるで透明な糸に引っ張られるかのように。

「気分はどうかな?」

 男が笑みを浮かべながら尋ねると、セシルはクルリと顔をこちらに向け、口を開いた。

「はい……とても素晴らしい気分です………」

 そう答える声に感情はまったくこもっていない。

「セシル、これからお前には働いてもらうぞ」
「はい、喜んで………私は……ご主人様の下僕です……何でもします……いえ、させてください……」

 セシルは堕ちた。ほとんどのものが消え失せ、今の彼女にはただ一つのものしか残されていない。それは主人への忠誠。もちろんこれは魂を貪られた際に魔族の男に植えつけられたものだ。空っぽの心にたった一つの理念。肉体はそれに従う以外余地はなかった。

 地下深くだというのに迷宮内に風が吹く。その風はランプの灯りを揺らした。セシルの瞳には揺れ動くランプの灯り以外、何も映ってはいなかった。

< To be continued … >

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